2014.12.23 大坂城物語
 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が終わりました。
 関が原の戦い(慶長5年9月15日=1600)では東軍が勝ち、勝利に貢献したことで家康に篤く遇されたとよろこぶ息子長政を官兵衛(如水)は冷ややかに見つめ、政界から引退しました。
 その後は詩歌などの趣味に興じ、平穏な家庭生活を送って4年後他界します。(享年57)
乾櫓
 石田三成率いる西軍が関が原で敗れたのちも秀頼は大坂城に留まり、摂津・河内・和泉を支配していましたが、官兵衛が他界して11年後、家康の総攻撃によって豊臣氏は滅亡(大坂夏の陣=1615)し、大坂城は落城しました。
 
 灰燼に帰した大坂城は、江戸時代になって二代将軍秀忠によって再建され、寛永6年(1629)完成しました。城主は歴代将軍、管理は譜代大名が大坂城代として執り行いました。
大坂城
 しかし大坂城はたびたび火災に見舞われました。寛文5年(1665)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城になりました。

 幕末になって二条城から追われた徳川慶喜が大坂城に移り、倒幕軍と対峙しましたが、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日=1868)で敗れ、慶喜は船で江戸へ退却、大坂城は新政府軍に開け渡されました。
 この前後の混乱で出火し、城内の建造物のほとんどが焼失しました。
城から見る市街地
 明治になって新政府は城の東側の敷地を陸軍用地に転用。
 火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠が設けられ、大阪鎮台の司令部になる一方、城内では和歌山城より紀州御殿が移築され、大阪城公園として一般公開されました。
 また昭和6年(1931)には市民の寄付によって天守閣もつくられました。

 しかし太平洋戦争では陸軍用地であったことから米軍の爆撃の対象になり、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓などが焼失、しかし天守閣は破壊を免れました。
金の鯱 
 終戦後、陸軍用地は占領軍に接収されましたが、昭和23年(1948)に接収解除。
 いらい建物の修復が進められ、大阪城公園の再整備も始まり、外堀を含む広域が公園地となって現在に至っています。平成18年(2006)には日本100名城(54番)に選定。
豊国神社
 城の南側に豊國神社(ほうこくじんじゃ)があります。
 これは京都の豊国神社(とよくに じんじゃ)の別社で、かつては中之島にあったのを昭和36年(1961)ここに移設しました。
 平成19年(2007)には秀吉像が建立。肖像画のような端正な顔ではなく、貧相な顔つきがリアルです。これは秀吉に対する大阪人の愛情表現?
秀吉像
 以上が大雑把な大坂城の歴史ですが、何度も消失と復興をくり返していることがわかります。
 それだけにこの大坂城は大阪の人とって心の拠りどころとなるのではないか。
 今回この地を散策し、大坂城の歴史を知るに連れ、そんなことを思いました。
出世絵馬 
 秀吉の命を受けて初代の大坂城を築いた黒田官兵衛は、今の大坂城を見て草葉の陰で笑っていることでしょう。
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