昨日は「関連力」に触れましたが、その具体例について述べてみます。
  

 4年前(2013)の夏、私はロフトから落ちて右上腕骨を剥離骨折し、それをつなぐため骨の内側に金属の支柱を入れる手術を受け、その際全身麻酔を施されました。
   

 気がついたら手術は終ったあと。傷口は縫われ、金属の棒が入っています。その間私は無意識状態だったわけです。
  

 これは睡眠とはまったく違う。
 肩の皮と肉をざっくり切られ、骨を出されてその内部に金属の支柱を入れ、数ヵ所ボルトで固定し、それを元にもどし、傷口を縫いつける……ふつうなら激痛のはず。
 しかしこれがまったく感じてない。
 無意識というのは痛みもなければ、何もない。

 このとき思ったのは、泉鏡花の「外科室」はうそっぱちである。
 これは、ある高貴な夫人が手術の際、麻酔をかけられたら、自分の秘密をうわごとで喋ることを恐れて麻酔拒否。主治医も(わけありで)麻酔なしで執刀。夫人は痛みのあまり絶命するという内容の小説ですが、そんなことはあり得ない。
 全身麻酔なら、意識がないので秘密など口走るわけがない。だいいち喉の筋肉が動かないのだから、うわごとなど喋れない。執刀医ならそれぐらいのことはわかっているから、夫人に説得するはず。

 さらにいうと、施術中の「〇〇京一郎」という生命体の心肺が動いていたとしても、無意識状態であれば、「私はそこにいない」ことになります。つまり「我思わざれば、我なし」
 ということで、デカルトの「我思う、故に我あり」は正しかった。
  

 これについて深夜のラジオ放送で某老作家が、
 「本当は『我あり、故に我思う』なんだけど、そこはデカルト一流のレトリック(修辞法)でわざとひっくり返してみせたんだよねえ」
 と得意げに語っていたけど、この作家、なにもわかっとらん。
 デカルトは詩人とは違って哲学者。レトリックなど弄するものか。
 ことば通り「我思う、故に我あり」だよ。

 では「私」とは何か。
 これは「認識する私」のことです。生命体のことではありません。
 生命体は親が産んだ。しかし認識までは産んでない。
     
 世間には、「何で私を産んだ」と親に問い詰める子どもがいるそうですが、その子はこの道理がわかってない。(答えられなくておろおろする親も情けない)
 親は「問い詰める私」を産んでない。赤ん坊(生命体)を産んだだけ。
 認識はその子のもの。つまり私を産んだのは私、ということになります。
  

 余談ですが、「なぜ私を産んだ」と子に問われたら、「だったらなぜ親を産んだのだ。祖父母に聞いてくれ」と答える手もあります。そうなると問いは先祖代々に遡ることになり、愚問であると思い知らされるでしょう。

 聖書のヨハネ伝福音書第一章に、
 「初めにことばありき。ことばは神とともにありき。ことばは神なりき」
 と記されています。キリスト教の基本中の基本です。
       
 これは「認識が先にある」といっています。つまり「我思う、故に我あり」です。
 ゲーテは「ファウスト」のなかで「初めに行為ありき」ではないか、と主張していますが、やはり認識が先なのです。

 このことは般若心経も同じです。
 「色即是空 空即是色」とありますが、これは実体には何もなく、何もないところから実体(生命ある肉体)が生まれると説いています。
 この「何もないところ」とは認識のことではないかと思うのです。
 

 維摩経の序章にも「生命の由来」が書かれ、それによると「行為」などは序の口で、そのエネルギーとなるも遡っていくと、触(=気配のようなもの)にたどり着きます。
 では蝕とは何か。これは「生まれようとする意志」ではないか。やはり認識が先なのだ。

 これらの解釈が正しいかどうかはわかりません。
     
 しかし無意識状態から生還したとき、泉鏡花「外科室」、デカルト「我思う、故に我あり」、某老作家の「レトリックなんだよね」、「なぜ私を産んだ」、聖書の「初めにことばありき」、般若心経「空即是色」、維摩経のことば……が次々と浮かんできたのは事実です。
 これは私にとっての関連力の一例です。
  

 我思ふ故に我あり春光

    

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