あの日のことは未だに覚えています。
 自宅でPCに向っていたら、いきなりグラグラ、グラグラッ!
  「おや、地震だな?」
        
  しかしその揺れは次第にユッサユッサと大きく、激しくなる。
 「大変だ!」
  食器棚の上に大きな電子レンジが乗っているので、それが落ちないように抑えに行きました。
  揺れはさらにグラグラグラッと激しくなり、しかも時間が長い。
 ドサドサッと音がしました。棚の上の資料の箱が落ちました。
       
 5分ぐらい揺れていたでしょうか。
 こんなに激しく、長い地震は初めて。
     
 ラジオを点けると、「震源地は宮城県沖、マグニチュード7.6、宮城県の震度7」
 その後マグニチュードは8.4に変わり、8.8と訂正されました。
 南関東でも震度5強。こちらでも最大級の地震でした。
      
 夜のTVニュースを観ると、東北地方の被害が甚大であることがわかりました。
 とくに津波が沢山の車を押し流し、河をさかのぼって人家や畑を飲み込んで行く様子にことばを失いました。
 これが「1911.3.11東日本大震災」の日でした。

  *

 翌日被災地の惨状をTVニュースで見て、胸がふさがりました。
 しかも津波による障害で救助隊の動きもままならないようでした。
        

 「あんた、無事だったか」
 朝霞市に住む年上の友人から電話がきました。
 彼はこちらの携帯に何度も電話したけど、繋がらなかったそうです。
 「こちらの被害はTVの裏に収納したビデオがバラバラ落ちた程度だよ」
    

 その後も続々と友人・知人から、「生きてたか」と命の確認電話。
 そして異口同音に「こんな大きな地震、初めてだ」 

 *

 その後は被災地の悲しい報道が多く、首都圏でも計画停電が実施され、納豆、ヨーグルトなどの食料品、ペットボトルの水、トイレットペーパーや電池などの生活物資が買いにくくなりました。
 そのため買いだめに走った人も続出し、その大半は我われ年配者。
 千葉では沈下した舗道を若者が率先して修復し、東北の被災地では中高生が避難所の運営に当たったというのに。
 我われ世代は、オイルショックのとき上の世代がトイレットペーパーを買い漁る姿を見て、「あんな年寄りにはなりたくない」と思ったはずなのに、その年齢になればそうなるのか。情けない。
    

 友人との会話も変わりました。
 「東北のニュースを見ると辛くてなあ。見るたび涙が出るよ」
 「みんな純朴でいい人たちばっかりじゃないか。なんでこんな目に遭うのか」
 「小さい子どもたちが亡くなるのは痛ましいなあ。せめて幼い命だけでも救えなかったのか」
 「オレは寄付するだけで、ニュースはなるべく見ないようにしてるよ」
 当時はニュースを見るたび自分の無力さを思い知らされました。
   

 そのときがきたらどうするか、ということを真面目に語り合いました。
 避難しているときに救助のヘリがきて、ひとりしか運べないという究極の選択です。
 「オレはもういいかな。子どもや若い人に譲るよ」
 「わからんぞ。そんなことをいうヤツに限って、われ先にロープにすがりつくんだから」
 「そうかなあ」
 「いや、キミかそうだということではないけど、そのときにならないとわからない」
    

 関西の友からも心配されました。「そっちは大丈夫か。心配したぞ」
 大丈夫もなにも、(東北に比べると)心配されるのが申しわけないぐらい。
 ときおり余震もあるけど、慣れてくると揺れ具合で「今のは震度2」とか「1かな」と判断できます。TVで表示を見ると大体当たっている。
 「震度3ぐらいではもうおどろかないよ。秋に会おう。生きていたらな、はははは」

 あれから6年。
 被災地東北の復興はまだまだです。
 その最大の理由は、日本が「東京五輪」に舵を切ったから。
 首相は「Under Control」と世界をだまし、「Tokyo」と決まってアスリートたちは大はしゃぎしました。
 これは世界に対する日本の国家ぐるみの犯罪であり、東北を見限った転換点でもあります。
 建設事業の大半は首都圏の会場建設にシフトされ、巨大な利権が生じました。
 これが被災地の復興を大幅に遅らせているのです。
         

 はしゃげども復興遅れ春寒し

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