舟橋聖一「花の生涯」は幕末の彦根を舞台にし、井伊直弼およびその周辺の人々を鮮明に描いた小説です。
 これによると、「横浜は井伊直弼なしには生まれなかった」ことがわかります。
        
 当時、米国総領事ハリスは領事館のある神奈川(今の東神奈川あたり)を開港するよう主張していました。江戸へ行くのも便利なので、ハリスはここに固執したのです。
 そのあまりの強硬ぶりに、幕閣たちもそれに傾きかけましたが、幕閣の井伊直弼だけは猛反対。
 「神奈川は宿場町だけに多くの人々が行き交う。外国人と衝突するのは必至。なんとしてもそれは避けたい」
 そう考えていた直弼は、神奈川からひと山越えた湾の入り口の小さな砂州、人口101人の横浜村に目をつけ、ここに港を開くことを提案しました。
 しかしハリスは問題にせず、他の幕閣たちも「そんな突拍子もない。遠いし、埋め立てに莫大な費用がかかる」と考え、直弼の意見には大反対。
     
 それでも直弼は粘り強く「横浜最善説」を説き、少しずつ幕閣の考えを変えていきました。
 これにはハリスも折れ、とうとう横浜村に港が開かれるようになりました。
        
 結果、横浜はどんどん開拓され、文明開化のシンボルになり、江戸(→東京)よりも賑わいました。
 今日の横浜の繁栄は、井伊直弼の尽力あってこそといっても過言ではありません。その意味で横浜市民は(横浜好きの私も含めて)井伊直弼に足を向けて寝られないのです。
伊井掃部頭の銅像 ←掃部山公園  
 横浜市中区戸部町に「掃部山公園」があります。
 明治42年(1909)、開港50周年を記念して、ここに井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼の銅像が旧彦根藩士によって建てられました。
 ところが旧攘夷派の人たちによって銅像の首が切られました。彦根人としては悲しいことです。
 昨日も述べたように、このころでもまだ彦根藩に対する風当たりは強かったようです。
    
 さらに第二次世界大戦時には銅像そのものが供出され、受難の連続でした。昭和29年(1954)になってようやく再建され、現在に至っています。
       
 余談ですが、井伊直弼と横浜に関して、私はこんなことを夢想します。
 曾祖父が鳥羽伏見の戦いで戦死せず、生きのびていたとしたら、どんな生き方をしていただろうか。
 文明開化の横浜に流れ着き、過去を一切捨て、中国人が経営する賭場の用心棒になっていたのではないか。ちょうど「花火の街」(大佛次郎)の是枝金四郎のように。
 横浜は主君(井伊家)ゆかりの場所、ここなら骨を埋めてもいいと考えた?
        
 だとすると妻子を捨てて無責任? いや、記憶喪失になった? など考えると楽しくなります。
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