彦根藩(井伊家)は徳川の筆頭譜代大名でした。そのため「鳥羽伏見の戦い」ではてっきり幕府側とばかり思っていました。
 ところが実際は官軍側についていました。
  

 司馬遼太郎「燃えよ剣」でも、鳥羽伏見の戦いのくだりで、新撰組の隊士が「彦根藩が裏切った!」と叫んでいたような……。
 ガックリしました。
 「なんのために井伊直弼は殺されたんだ。これでは犬死ではないか。筆頭譜代の名が泣くというものだ」
 ひょっとして彦根藩は日和見で、勝ち馬に乗ったのではないか。
  

 しかし藩史を調べてみると、そこに至るまでには様ざまな葛藤があったようです。
 大河ドラマ「篤姫」(2008)でもわかるように、14代将軍をめぐって幕閣内での対立、さらに「安政の大獄」や「桜田門外の変」で老中は彦根藩に冷たくなり、距離を置くようになりました。
 加えて彦根藩の下級武士の間で尊皇攘夷派が台頭し、「朝廷側(反幕府)につくべきだ」という意見が強くなり、藩の体制もそれに傾いていきました。
 そのため「鳥羽伏見の戦い」では最初から自分たちの信念で反幕府側だったのです。
  

 薩長軍は得たりとばかり彦根藩を過酷な最前線につけ、彦根藩もそれに応えました。
 戦が終わった鳥羽街道には、官軍側・幕府側を問わず身元不明の死体が累々と横たわっていたそうです。私の曾祖父もそのひとり(?)。

彦根城   

 戦ではさんざん彦根藩士を利用したにも関わらず、官軍側は「安政の大獄」の恨み骨髄だったのか、明治になっても彦根を逆賊扱いして、徹底的に冷遇しました。
 そのため彦根の経済は困窮を極め、江戸時代に3万5000人あった人口は、明治22年には1万7000人に半減しました。
 祖父の戸籍でも、娘たちの何人かは京都や大阪に養子に出されています。それだけ生活が厳しかったからです。
  

 新政府は財政援助の交換に(憎き彦根藩のシンボルである)彦根城の廃城を提案しました。
 しかし彦根の人々はこれを拒否、経済よりお城の存続を求めました。彼らにとってはお城が心の拠り所だったのでしょう。
  

 彦根は、政府の援助をあてにすることなく、自ら産業(製糸・バルブ工業・流通など)を興して自立の道を歩みました。
  

 彦根市が他の都市と同じ扱いを受けるようになったのは太平洋戦争終結後といいます。(びわこ放送編「近江歴史紀行」秋田書店)

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