私は京都で育ちましたが、父方のルーツは滋賀県の彦根市です。
 「曾祖父は彦根藩士で『鳥羽伏見の戦い』で行方不明になった」と母から聞かされておりました。
  

 あるとき家の書類を整理していると、一冊の謄本が出てきました。
 祖父が京都へ移ってきた際の、彦根市からの除籍謄本です。昔の漢字、崩し字なので読むのに骨が折れましたが、なんとか読解することができました。
   

 それによると、曾祖父は弘化2年(1845)彦根北組町の下級武士(H川弥太夫)の三男として生まれ、壱番町十一番屋敷の「T家(私の姓)」(中級武家)の養子に入っています。
 慶應元年(1865)20歳で池洲町の下級武士の娘と結婚し、明治3年(1870)5月7日に失踪、と記されています。
  

 明治3年になってからの失踪とは不可解ですが、「戦で行方不明になった」という母の話から推測すると、戊辰戦争が終わり、明治になっても帰ってこないので、家人が「失踪」扱いにして届け、受理されたと考えられます。

彦根市役所   

 祖父は曾祖父が結婚した翌年慶應2年(1866)に芹橋町の足軽屋敷で生まれましたが、父親(曾祖父)が鳥羽伏見の戦いで行方不明(おそらく戦死)になったため、母親(曾祖母)は再婚、幼少期を(再婚した)母と暮らしました。再婚相手の名は記述されていませんが、明治9年には弟が生まれています。
 これは私の想像ですが、かなり苦労したと思われます。
   
 祖父はよほど自立心が強かったのか、19歳で2歳年上の女性と結婚し、女の子を4人もうけています。
 しかし妻に先立たれ、小さい子どもを抱えて苦労したようです。
 仕事は、後に北海道・社名淵町の警察署長を務めているので、若いころは警察官だったと考えられます。
       

 その後、祖父は四日市の御殿医の娘と再婚し、42歳にして初めて男子を授かります。それが私の父です。その下はやはり女子ふたりだったため、父は女ばかりのなかの「黒一点」でした。
 そのため溺愛されて、意志薄弱な人間になりました。
 

 明治・大正のころの彦根市の住宅事情はかなり悪かったようで、祖父の家族は壱番町の屋敷から池洲町→芹橋町に移り、同じ町内を転々としたあげく、昭和12年京都に移り住みました。
 その間3人の娘に先立たれています。(もっとも孫は何人かいます)
  

 京都に移って、娘たちの墓を若王山(新島襄の墓の近く)につくりました。
 親としては辛かったでしょう。
 こうして苦労多い祖父は昭和23年(1948)82歳の生涯を閉じました。

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