今回、思わず力を入れて書いてしまった私の「京都論」
 そのきっかけになったのは、井上章一「京都ぎらい」(朝日新書)なる一冊の書物です。
 著者が京都ぎらいになったのは、出身地である嵯峨を「あんなとこは京都やない」と洛中モンから「いけず」をいわれたことが原因のようです。
    

 私の出身地は左京区吉田。完全に洛外ですが、そんな「差別」があるとは思いもしなかった。
 そんな私が「洛中・洛外」観を述べるのはおこがましいけど、敢えて述べさせていただく。

 私は差別こそ受けなかったけど、コンプレックスを二度味わっています。
 一度目は中学に進学したとき。
 私の学区吉田の小学校は京都市立第四錦林小学校(四錦)で、中学(京都市立近衛中学校)に上がると、北白川、錦林の二校と一緒になります。このとき北白川の連中が妙にまぶしかった。
   

 北白川は四錦よりもっと洛外ですが、いわゆる文教地区(東京でいえば、国立、杉並、世田谷あたり)。学者や教育者の住む町で、洛中の京都とは何の影響も受けない、独自の文化と気品を保った地域でした。
 彼らは我われ四錦生より人間が一段「上等」に見えました。近所(今出川通の向かい)の電気屋のガキでさえも。
 今でも親しくしている中学の幹事や伏見の友は北白川出身です。
   

 二度目のコンプレックスは高校に進学したとき。
 この高校(京都府立鴨沂高校)は多くの中学校が集まりましたが、いわゆる町(洛中)の中学とも合流しました。
   
 このときは洛中の連中がまぶしかった。「大人や」
 地域的に商家の子が多かったのかもしれませんが、話し上手、ユーモアのセンスもある。女子との接し方も自然で、手慣れている。

母校 

 とくに一学期の学級委員を務めたО君はオーラがあり、みんなを引っ張る統率力がありました。
 当時私は落ち着きがなく、となりのヤツとよく私語を交わしましたが、そのたび「こらッ、お前ら、静かにせえッ」と怒られました。
 ふつう、同年代の人間にこのように怒られると、たとえこちらが悪くてもムカッとするものですが、彼に怒られると「本当に悪かったな」と思いました。
    

 三年になると、洛中の生徒のなかには車の免許を取った者もいて、実際に乗せてもらったこともあります。
 とにかく洛中の連中はカッコよかった。

 あれから約半世紀建って高校の同窓会に出席してみると、いわゆる「洛中」の同窓生はほとんど出席していない。これまで二度出席したけど、あのカッコよかったО君をはじめ、三年のとき車に乗せてくれた連中も、姿を見せない。
 出席した人に聞いてみると、「さあ」「こないねえ」と首を傾げるばかり。
   

 幹事にしても、これまで務めてくれた同窓生は、出身小学校でいうと、北白川、三錦、錦林……いずれも洛外校。
 これは一体どういうことか。
     

 高校時代は洛外生とも分け隔てなく机を並べたけど、卒業して長ずるに連れ、「洛中の旦那」としての世間知を身につけていった?
 その世間知とは伏見の友がいっていた公家文化の名残り……。
    

 同窓会なんて益体もないことに誰が出席するかい。幹事? あれは「うれしがり」のするこっちゃ。……まさか。
      

 そうでないことを願うばかりです。(完)

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