これまでの記事を読んで、
 「それはあんたの小学校の特殊な事情だろう。それだけで京都人が公共心が薄いとはいえないのではないか。それに中学、高校の同窓会はあるだろう。公共心が薄ければ成り立たないではないか」
 と疑問に駆られる向きもあろうかと思います。
   

 たしかに私の小学校は特殊かもしれません。個々では仲がいいけど、それが同窓会にまではつながらない。昨年初めて関東の人間が実現させたわけですから。
 その音頭を取った私がもうやらないのだから、同窓会は二度と開かれることはないでしょう。
   

 むろん京都にも同窓会はあります。中学、高校では「公共心に篤い」幹事さんが熱心にやっておられます。
 みんな私の友人ですが、融通の利かない「関東人」である私とはちがって、この人たちには底知れぬ寛容さがあります。
    

 私が京都の女性に、クラス幹事をけんもほろろに断られたことや、「行けたら行く」といわれて準備会をすっぽかされたことなどをぼやいたら、「ははは。それが京都でんがな」と諫められました。
 彼らはすべてわかっているのです。わかっていながら上手に付き合っている。

 これは以前作家の藤本義一氏(故人)がいわれていたことですが、
 例えば東京の男が京都の女性をデートに誘ったとする。すると彼女は「おおきに」という。
 「おおきに」とは「ありがとう」のことだから、東京男は有頂天になる。しかし……。
 彼女は誘われたことに対して礼をいったのであって、行く、行かないは別。大てい拒否の場合が多い。
   

 また「行けたら行く」という重宝なことばもある。
 これらのことばは、相手を傷つけまいとする京女の配慮(やさしさ)だとされている。
 本当にそうだろうか。

八坂神社    

 そのときは知らされなくても、結果的には断られるのだから、傷つくことには変りない。むしろ期待を持たされた分、断られた傷は大きくなる。だったら最初から断ってくれたほうがいい。
 ということで、京女の期待を持たせるような断り方は、相手に対する配慮でもやさしさでも何でもない。
    

 ではこれは京女の(いい人に思われたいという)自己保身なのか。
 自己保身にはちがいないけど、浅はかな自己保身だ。あとで「裏切られた」と知られたら、そのほうがもっと心象が悪くなる。したがって自己保身にもなってない。

 これについて、京都の友人(中学の幹事)がこんなことをいいました。
 「京都は応仁の乱から幕末の勤王・佐幕闘争まで、血で血を洗う政争に明け暮れた。したがって一般市民はどちらとも取れるような受け答えをしたんとちがうか。そのDNAが残ってるのや」
     

 つまり京女のことばは、その場しのぎの取り繕いだという。
 その場さえ切り抜けてしまえば、あとでばれても、そこには居合わせてないので斬られる心配はない。「アッカンベー」だ。
 離れてしまえば、アカの他人だから、どう思われてもかまわない。
 そんな図太さが京女にはあるらしい。
    

 昔の京都の町人はうっかりきらわれるようなことをいうと、その場で斬り殺される、そんな修羅場に立たされていた。
 そのDNAが京女に脈々と引き継がれているというのですが……。

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