翌日被災地の惨状をTVニュースで見て、胸がふさがりました。
 しかも津波による障害で救助隊の動きもままならないようでした。
      

 「あんた、無事だったか」
 朝霞市に住む年上の友人から電話がきました。
 彼は頻繁に電話を入れたものの、繋がらなかったそうです。
 「こちらの被害はTVの裏に収納したビデオがバラバラ落ちた程度だよ」
        

 その後も続々と友人・知人から、「生きてたか」と命の確認(?)電話。(生きとるわい)
 そして異口同音に「こんな大きな地震、初めてだ」
        

 その後は被災地の悲しい報道が多く、首都圏でも計画停電が実施され、納豆、ヨーグルトなどの食料品、ペットボトルの水、トイレットペーパーや電池などの生活物資が買いにくくなりました。
 そのため買いだめに走った人も続出し、その大半は我われ年配者。
 千葉では沈下した舗道を若者が率先して修復し、東北の被災地では中高生が避難所の運営に当たったというのに、首都圏の年配者は食料品や日用品を買い漁るだけ。
        

 我われ世代はオイル・ショックのとき、上の世代がトイレットペーパーを買い漁る姿を見て、「あんな年寄りにはなりたくない」と思ったはずなのに、その年齢になればそうなるのか。
 歴史は繰り返す、は本当だった。
        

 友人との会話も変わりました。
 「東北のニュースを見ると辛くてなあ。見るたび涙が出るよ」
 「オレなんかつくづく幸せだと思ったよ」
 「東北の人は我慢強いなあ。みんな純朴でいい人たちばっかりじゃないか。それがなんでこんな目に遭うのか。天の配剤は不公平だよ」
 「小さい子どもたちが亡くなるのは痛ましいなあ。せめて幼い命だけでも救えなかったのか」
 「オレは寄付するだけで、ニュースはなるべく見ないようにしてるよ」
 当時はニュースを見るたび自分の無力さを思い知らされました。
        

 また、そのときがきたらどうするか、ということを真面目に話し合いました。
 それも避難しているときに救助のヘリがきて、ひとりしか運べないという究極の選択です。
 「オレはもういいかな。子どもや若い人に譲るよ」
 「わからんぞ。そんなことをいうヤツに限って、いざそのときになって我先にロープにすがりついたりして」
 「そうかなあ」
 「いや、キミかそうだということではないけど、そのときにならないとわからない」
 「それはそうだけど、関東だってそんな危険がないとも限らんのだから、ある程度覚悟したほうがいいのではないか」
      

 関西の友からも連絡がきました。「そっちは大丈夫か。心配したぞ」
 大丈夫もなにも、(東北に比べると)心配されるのが申しわけないぐらい。
 ときおり余震もあるけど、慣れてくると揺れ具合で「今のは震度2」とか「1かな」と判断できます。TVで表示を見ると大体当たっている。
 「震度3ぐらいではもうおどろかないよ。秋に会おう。はははは、生きてたらな」
 「それはこっちだって同じだよ」
      
 当時の話題は震災に関することばかりでした。

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