先日(01/19)の「クローズアップ現代」(NHK)は「最期のときをどう決める~」という重いテーマでした。

 「末期癌患者の痛みを鎮静剤で緩和し最期を迎える終末期鎮静が在宅で静かに広がっている。眠ったままの穏やかな死とはどういうものか。新たなみとりのあり方を考える」
 ということで、具体例として取り上げられたのは末期癌の患者とその家族。
苦痛を訴える 
 当人は「痛い、痛い」と苦痛を訴える。家族はそれをなだめ、さするしかない。
 日本では安楽死は認められていない。
 しかし鎮静剤で痛みを緩和するという方法は認められている。これだと意識がなくなり、確実に死に向かう。
 その処置に対して、「それでよかった」と納得する遺族もあれば、「あれでよかったのか」といつまでも後悔する遺族も。

 私のような者がいうのもおこがましいけど、「それでよかった」と思います。
 鎮静剤を投与すれば死を早めるかもしれない。それを決断した家族が「自分が殺したのではないか」と自責する必要はありません。
 むしろ「苦痛を早く終わらせてあげた」と思ったほうがいい。
苦痛鎮静の処置 
 前にもいいましたが、治る見込みのない苦痛ほど残酷なものはありません。

 私の弟は8年前胃癌で他界しましたが、その半年前から激しい苦痛を訴えていました。
 彼の闘病記によると、「周期的にやってくる突き上げるような、あるいは絞られるような腹痛がひどく、七転八倒の苦しみ」だそうです。癌の痛みは想像を絶するといいます。
 しかも医師からは癌の宣告を受けたときから、「1年、長く持って3年」と告げられています。実際には1年で亡くなりました。
亡くなられた 
 私がこれまで味わった最大級の痛みといえば、痔の手術後の排便時のものでした。
 このときは肛門から脳天にズッキーンと激痛が走り、思わず涙が出たものです。しかしそれはほんの1~2分で、なによりも「治る」という希望がありました。
 希望があるのだから、多少の痛みには耐えなきゃ。
 
 人間が痛みに耐えるのは「治る」という希望があってこそ。
 希望がなくなった状態で耐えることになんの意味があるのでしょうか。
   クローズアップ現代  
    
 私の感覚ではこの「終末期鎮静」という行為は一種の安楽死ではないか。
 ホスピスの関係者は「安楽死とは一線を画している」といっているけど、それは安楽死が認められてない我が国でのギリギリの方便のように聞こえます。
 私はもともと「安楽死を認めてもよいのではないか」と考えているのですが。
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