2017.08.31 柳瀬川の増水

 昨日は午後2時あたりからパラパラと雨が降り出し、3時過ぎるとザーッと大雨が降りました。
 さらに光ったとたんガラガラッと大きな雷鳴。近くで、しかも大きいことがわかります。
 これが何度も続きました。
  

 雨は激しかったけど一時的なもので、すぐ小止みになりました。
 「雨は大したことはないけど、こんな雷は初めて」
 そんなことを思いながらTVのニュースを見てびっくり。

 柳瀬川が増水して川のなかに取り残された爺さんが木にしがみ付き、防災ヘリで引き上げられてました。
 「釣りをしてたら、急に水位が上がった」
 と爺さんは宣ったが、引き上げられたときレインコートみたいなものを着ていた。
 雨が降ってもレインコートを着て釣りを続けていたのは明らか。雨が降ったらさっさとやめんかい。かなり激しい雨だったぞ。
   

 それにしても柳瀬川の増水にはおどろきました。
 7年前に埼玉県南中部に引っ越してきて初めてのこと。
 ここは桜の名所で土手の写真は何枚も撮ったけど、ちょろちょろ流れる川面など歯牙にもかけなかった。

桜の頃の柳瀬川    

 これは上流の所沢地区の雨量がよほど激しかったということでしょう。気象台によると、所沢市の午後2時から2時間の雨量は43mmだったそうです。

柳瀬川(所沢市)   

 いつも大雨が降ると、取手の友から「キミのことやから、つい川へ見に行くやろ。やめときや、そんな爺イが流されとる」との忠告を受けたものです。
 川の水位が上がった光景を撮ってみたい、という願望はないこともないけど、そこまで行くのがひと苦労なので、友の忠告はありがたいけど、余計なお世話かな。

    

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 子産石から西海岸通り(国道134号線)を北上する(正確には北西方向)こと約1km、「葉山町」の標識があります。ここが横須賀市と葉山町の境目(女性が歩いているところ)で、歩道の敷石が違いがわかります。

葉山町の標識   

 なんだか葉山側の敷石のほうがカラフルで金が掛っているような……。
 (失礼、横須賀側の敷石だってシックな味わいがあります)

 歩道の敷石も違う  

 ここは長者ヶ崎という夕日の名所。
 通りから500mほど海に突き出た馬の背のような岬。これが長者ヶ崎です。

長者ヶ崎   

 「おや?」
 長者ヶ崎からはゆるい下り坂になっていて、歩いていると涼しい風が吹いてきます。これまでの暑さがうそのよう。
         
 ここで道路沿いの小さな喫茶店に入ってひと休み。
 立石公園近くの「グラント」がなくなった経緯は、ここの店主の話で知りました。
 「そういえば、長者ヶ崎の向かいにあったタイ料理店も閉店してましたね。あれはなぜ?」
 「はっきりした理由はわからないけど、客が入らなくなったからじゃないかしら」

タイ料理店の跡     

 他にも3年前は賑わっていたレストランやカフェテラスが閉店しているのを何軒か見ました。ここにも不況の波が押し寄せているのでしょうか。
  

 喫茶店を出てさらに北上すると、左側は緑の植え込みと鬱蒼とした森(?)になり、小さい川(下山川)の橋(下山橋)を渡ります。
  

 橋から海側を見て、この右側が葉山御用邸。
 さすが、いいところに別荘をかまえておられる。
 御用邸は現在、那須(栃木県)、葉山(神奈川県)、須崎(静岡県)の3ヶ所ありますが、葉山がいちばん古いとのこと。

下山橋から見る下山川、右は葉山御用邸    

 葉山が御用邸になった経緯は、皇室の侍医でもあったドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツが、予防医学の見地から保養の必要性を説き、「葉山は気候温暖にして風光明美。保養地に最適」と宮内庁に推奨し、明治27年に葉山御用邸が竣工されました。
 昭和46年、放火で焼失しましたが、昭和56年に再建、今日に至っています。

左は葉山御用邸、向かいの白い建物は葉山警察署   

 「気候温暖」とのことで、天皇ご一家は2~3月、あるいは5月に訪れることが多いそうです。
 「夏はもっぱら涼しい那須ですよ。それにここは海水浴客で混みますから」
 と先ほどの喫茶店の店主。
 うーん、ここも海の風が吹いて、じゅうぶん涼しい気がしますが。
     

 御用邸の正門で警備のお巡りさんにあいさつされました。
 愛想はよかったけど、正門の撮影は不可。やはりガードは固い。若いのにしっかりしとるわい。

         

 このところ湘南ばかり続いているので、たまには地元の話題を、ということで一昨日(08/27)川越氷川神社に行ってきました。

鳥居の間の風鈴飾り①   

 「なんだなんだ、この人だかりは」
 人だかりは一の鳥居から。
 見上げると一の鳥居から二の鳥居の間に色とりどりの風鈴が吊り下げられています。だからか。

鳥居の間の風鈴飾り②    

 さらに境内の風鈴回廊には大勢の若者たちの列。
 願いを短冊(有料)に書いて風鈴に結ぶと願いが叶うとのことで、並んでいます。これが「縁結び風鈴」、その数約2,000個とか。

風鈴回廊に並ぶ若者たち   

 なるほど短冊を見ると、大半が「〇〇さんと結ばれますように」などと恋(?)の願いが書かれている。
 これは「天の川に恋の願いが届くように」との願いを込めた江戸風鈴が吊り下げられた「縁結び風鈴」の行事。(7月1日~9月10日)

風鈴回廊にて①   

 「こんなことで願いが叶うなら世話はない」なんていいっこなし。

風鈴回廊にて②   

 若者たちはそんなことは百も承知で、風鈴回廊のなかで自撮り。
 こんなことをしているから列がなかなか進まないのか。

風鈴回廊にて③ 

 回廊の先は同社の御神木。樹齢600年のケヤキ(欅)。
 ここは「パワーを得られる」と、浴衣女子が木の幹に手を触れながら周囲を回る御神木巡り。

御神木巡り 

 当方は今さら「縁結び」に用はないけど、若者たちの姿を見る(撮る?)ことによって、多少パワーを得られたかな。

      

 立石公園をあとにして西海岸通り(134号線)を北上します。

西海岸通り(134号) 

 「あれッ?」
 立石公園のすぐ北の海岸沿いにあったピンクの建物に「FOR SALE」(売り出し中)の看板、人っ子ひとりもなく、なかはもぬけの殻。

グラント跡 

 3年前ここにきたときは「グラント」というショッピングセンターで、世界各国から選りすぐられた雑貨や家具、ガーデニング用品などを売っていました。
 レストランやスィーツの店もあり、けっこう賑わっていたのに。

テラス   

 あとで入った葉山の喫茶店のママによると、この建物の下から海水が入ってくるので飲食店の許可が下りず、客が激減したため、雑貨屋さんも引き払ったそうです。
 「場所がいいからいい値段するでしょうけど、地下の海水が取り除けないのだから、なかなか買い手がつかないみたい」
 こちらはベランダから海を眺めましたが。
   

 さらに北に進むと「へちま加持の寺」海上山・円乗院があります。
 へちま加持とは、中秋の名月の日に病苦退散を願う人々がへちまを持って加持祈祷を受け、そのへちまに病気の譲渡証をつけて海に流す行事。

円乗院のお墓 

 それよりもこのお墓から海が見られるのが素晴らしい。
 このあたりは久留和(昔は曲輪といったらしい)海岸といって「横須賀風物百選」とされています。

お墓から見る久留和の海 

 その理由は、波もなく砂が良好だからと。それにしては地味な海岸だ。海岸通りからは直接見えず、下りて見ないとわからない。

久留和海岸  

 そのとなりには漁港もありますが、これも地味。

久留和漁港 

 3年前にあった「子産石(こうみいし)」はまだ健在でした。
 安産の神が宿る石ということで、市民文化資産に指定されているそうです。

子産石   

 この風景も少しずつ変わっていくのかな。


      

 立石公園(横須賀市)にやってきました。
 ここは3年前にきたことがあるのですが、海岸に突き出た大きな岩の光景が忘れられず、またやってきました。

立石公園  

 立石公園は海から突き出た半島のようなところですが、ここへ行くには下の岩場に下りて上がるという、高齢者にとっては難所の公園。(橋でも渡してくれい)

近くから見る立石公園   

 仕方がないので岩場を上りました。
 しかし苦労しただけのことはあって、ここからの眺めはなかなかのもの。
 下には先端の岸壁が。

公園から見る先端の岩場   

 そしてすぐ近くに見える大きな岩。これが「立石」です。
 説明書きによると、これは約2500万年前、海底に積み重なってできた地層が固まって長い間、波に削られてできあがったもの。地質は凝灰岩で、高さ12m、周囲約30mです。

公園から見た立石   

 
 なおも説明によると、
 「秋谷・立石海岸は東京湾側の海岸線とは異なり、自然の海岸線が多く残っています。とくに立石は古くから絶景として有名です。江戸時代の風景絵師・安藤広重は『相州三浦秋屋の里』と題して富士山を遠くにみるこのあたりの風景を描いています」

近くから見た立石   

 下の岩場から見ると、なかなか迫力があります。

岸から見る立石   

 岸から見ても絶景。これを見るだけで、ここへきた価値はじゅうぶんあります。

 披露山公園の猿舎の近くに「大崎公園」への標識があります。地図を見ると1km弱、とはいえ山の道だから難儀な気もするけど、ここまできたら行かない手はない。
      
 前にもいいましたが、遠出したときは「ここへはもう二度とこないかもしれない」との思いから、名所とされるところにはできるだけ寄るようにしています。
   

 山道を下ると広い通りに出ました。
 いわゆる披露山庭園住宅。高級住宅街です。

披露山庭園住宅 

 この道が上ったり下ったりでけっこう長い。
 ようやく「大崎公園入口」の標識に着いたと思ったら、まだ上る。

見晴台    

 やっとたどり着きました。
 ここは披露山よりも西に突き出た岬なので相模湾がよく見渡せるはずなのですが。

四阿   

 どうも今イチ眺望がよくない。
 というのも下の段の草むらと木々が邪魔をして、逗子湾は披露山から見るより遠い気もする。

逗子湾 

 その代わり、眼下に高級マンションの並ぶ「リビエラ逗子マリーナ」がよく見えます。

眼下に見えるリビエラ逗子マリーナ 

 先端にあるのは結婚式場の「シーサイド・リビエラ」

これは結婚式場?    

 園の中央に泉鏡花文学碑があります。
 ウサギの石像に「秋の雲 尾上のすすき 見ゆるなり」と刻まれています。    
 泉鏡花は明治39~41年まで逗子に住み、「婦系図」などを執筆し、逗子には縁のある作家。
 石碑がウサギなのは、母親から送られた水晶のウサギのお守りを大切にしていたからだそうです。

泉鏡花の文学碑   

 結果的には大した公園ではなかったけど、そんなことはきてみないとわからないからね。

 8月前半は雨が多く、遠出は足止めされていましたが、下旬になってようやく8月らしさがもどったので、昨日(08/24)行ってきました。
 先ずは披露山(ひろやま)公園。

 休憩所

 ここへは5年前に浪子不動の海岸からハイキングコースを上ったことがあるのですが、道に迷ってしまい、鎌倉へ行く道に下りてしまいました。
 腹が立って「あんなところ二度と行くものか」と思ったのですが、昨年、逗子市郷土資料館から対岸に見えたので、少し考え直しました。

レストハウス   

 さらに徳光和夫サンの「バス路線で寄り道の旅」でバス停の披露山入り口から登ればいいということがわかったから。(実際はバス停からかなり歩きましたが)

展望台    

 標高は93mでそれほど高い山ではないけど、海岸からすぐ上にそそり立っているので、見晴らしはけっこういい。
 展望台からは南西にリビエラ小坪(高級住宅地)、さらに江ノ島が見えます。天気のいい日は富士山も見えるそうですが、生憎この日は見えなかった。

南西は小坪地区と江ノ島   

 東は逗子湾。その向こうは葉山です。

東は逗子湾   

 「披露山」の由来は、源頼朝がこの山で御家人たちを集めて、手柄者や、全国から献上された貢ぎ物を披露したことからこの名がついたとの説があります。

レストハウスのなかから外を見る  

 展望台の他にレストハウスもあり、猿舎や小動物舎もあるけど、これは余計かな。

猿舎 


2017.08.24 花咲徳栄優勝

 昨日(08/23)の南関東は34℃の真夏日。
 こんな日はエアコンの効いた室内で甲子園大会の決勝を観るに限る。

花咲徳栄ホームイン  

 当方にとって、最も応援する東北勢と最も応援しない近畿勢は敗退したので、気楽なもの。
 花咲徳栄、広陵、どちらが勝ってもいいか。
 埼玉に住んでいるのだから、花咲徳栄を応援するんじゃないのかって?
 うーん、このあたりちょっと複雑でね。
 強打者・中村奨成のいる広陵にも勝たせたいような……。

三回、中村三振  

 花咲徳栄は一回、広陵エース平元の立ち上がりを攻め、3連続長短打で2点を先取しました。
 対する広陵は二回、三回に1点ずつ。それどころか五回には6点も入れられ、差は開く一方。

 九回、二死満塁で打った  

 これには広陵の守備の乱れが目立ちました。
 二死で、外野へ平凡なフライが上がる、あるいは遊撃手が捕って二塁へトス、誰しも「これでチェンジ」と思ったところがポロリと落球、余計な点を与え、守備がなかなか終わらない。
 野球の名門校らしからぬ集中力を欠いた守備でした。

ライトが捕って試合終了 

 注目の中村は、1打席目(一回)左翼線二塁打、2打席目(三回)空振り三振、3打席目(五回)三塁内野安打、4打席目(七回)空振り三振、5打席目(九回)左翼線二塁打。
 5打数3安打とよく打ったけど、後続に安打が出ず、なかなか点が取れない。
          

 花咲徳栄 2 0 2 0 6 4 0 0 0=14
 広  陵 0 1 1 0 1 1 0 0 0=4
        

 花咲徳栄は全員振りが鋭く、どこからでも点の取れる打線。
 守備も鍛えられていて、よく守った。

試合終了のあいさつ

  特筆すべきは、綱脇慧(3年)と2清水達也(3年)の投手の二枚看板。
 これについては、私は埼玉予選から見ており、「甲子園では通用しないのではないか」と案じていたのですが、完全にくつがえされました。岩井隆監督に脱帽。
 エース級投手をふたり、よく育てたと思います。
 ふたりとも広陵の中村に逃げずに勝負したし、天理戦であれほど打ちまくり大量点を取った広陵打線を4点に抑えたのは立派。

よろこぶ花咲徳栄ナイン  

 広陵の試合を全部見たわけではないけど、強打者中村に対してほとんどの投手は勝負したと思います。
 「走者もいないのに、監督の指示で敬遠」なんて、投手にとってこんな屈辱的なことはない。
 抑えれば自慢になるし、打たれたとしても、相手打者への思い出が残る。そんな場を与えてやるのが高校野球ではないか。
 これは25年前の「松井5打席連続敬遠」の苦々しい「事件」が教訓になっている?

ガックリと肩を落とす強打者・中村奨成捕手 

 話が逸れましたが、今大会の花咲徳栄は強かった。まぐれではなく、どの試合も実力で相手を圧倒しました。
 こうしてみると、埼玉が優勝してよかった、よかった。

 先日、上福岡歴史民俗資料館で行われた巡回企画展「消えゆく戦争建築・火工廠(かこうしょう)」を観てきました。
 それによると、昭和12年(1937)から20年(太平洋戦争の終戦)まで、現在の大日本印刷、日本無線埼玉工場~上野台団地、福岡中央公園の一帯に、旧陸軍弾薬工場の造兵廠(通称「火工廠」)があったとのこと。
   

 地図を見ると、この場所というのはふじみ野市のメインストリート・県道並木川崎線(335号)に沿っていて、真ん中に市役所があり、まさに中心地です。

造兵廠の施設図   

 しかもこの県道並木川崎線は、火工廠で生産された爆薬類をJR川越線(当時は軍用鉄道)南古谷駅に運ぶための軍用道路(昭和16年敷設)だったといいます。

かつての軍用道路だった県道並木川崎線(左)   

 最大700棟の建物のうち、危険物を取り扱う建物の周囲には、爆発しても周囲に影響を与えないよう厚いコンクリートの壁(防爆壁)が作られ、弾薬倉庫の周囲にも高い土塁が築かれていました。
    

 この塀は県道並木川崎線沿いに今でも一部残っていますが、意外に低い。
 というのは、建設当時よりこの道路側の地面が高くなったためで、当初は高さ2mの威圧感を持った壁であったといいます。

現存する外壁  

 同じ道路沿いにひときわ高いスダジイの木が植えられていますが、これは施設の目隠しと防火の目的で延焼しにくい常緑樹のスダジイが用いられました。

防火樹となったスタジイの木   

 また白壁と「官舎通用門」は原型をとどめているそうです。(何回か塗り直されている模様)

現存する外壁と官舎通用門   

 内部の施設はもう残っておらず、全部パネル写真で見るだけ。
   

 これは当時の火薬倉庫。
 鉄筋コンクリートモルタル造りで、爆発したときの被害を抑えるためわざと小さな小屋で、大量に貯めないようにしていました。当時は小屋の周囲に土塁が築かれていました。

火薬倉庫(パネル写真より)   

 爆薬填実(てんじつ)室。
 銃弾の薬きょうに火薬を詰め込む作業をする建物で、壁は厚い鉄筋コンクリート製ながら、屋根と天井は木造で、万が一の爆発の際は爆風が天井を抜くことで、周囲への影響を少なくするようにつくられているとのこと。

爆薬填実室(パネル写真より)   

 内部は中央に廊下、両側に作業部屋があり、各部屋は厚い壁で仕切られています。

爆薬填実室・内部(パネル写真より)   

 この火工廠の施設内では約5,000人の従業員が機関銃弾、小銃弾から陶製手榴弾(チビ弾)、風船爆弾の電気雷管・信管の部品などを製造しており、さらに昭和19年8月から終戦時までは、川越中学校、川越高等女学校、福岡国民学校などの生徒1,500人が学徒動員として、危険な作業に従事していたそうです。
    

 このあたりはふじみ野市の中心地で私もよく行くところ。県道並木川崎線は伊佐沼へ行くときには必ず通る道です。
 こんなところに旧日本軍の爆弾工場があったとは、おどろきました。
      

 ※同展示は8月26日~9月18日の間、大井郷土資料館で行われます。

    

 清瀬はわが家から最も近い東京都。(チャリで40分ぐらい)
 その清瀬で「清瀬ひまわりフェスティバル」をやっているので早速行ってきました。
  

 場所は清瀬市の下清戸3丁目地区。
 24,000㎡もの農家の畑に約10万本のひまわりが植えられているとのこと。
  

 見晴台から見ると、畑一面のひまわり。壮観です。

一面のひまわり  

 伊佐沼と違ってここのひまわりは背が高いので、見渡すためにはどうしても見晴台が必要になります。

ひまわり街道?   

 逆に背が高いから、そのなかに埋もれてみたいという願望に駆られるらしく、なかに入って写真を撮る人も多い。

ひまわり横丁?   

 ひまわりを接近して撮る人や、自撮りカップルも。

ひまわりを撮る人 

 このひまわりは、元もと小麦のための肥料として栽培されたものを、その景色か素晴らしいので、一般開放されるようになったとか。(パンフレットの説明)

自撮りカップル   

 10万本のひまわりといえば先日行った伊佐沼もそれを標榜していたけど、見た感じではこちらのほうが圧倒的に数が多い。

ひまわりのなかで① 

 しかし伊佐沼は近くに水辺があるので、風景的には伊佐沼のほうがいい。

ひまわりのなかで②   

 こちらは農家の畑なので風景的には落ちるけど、ひまわりの鉢植えや野菜の販売、さらに飲食コーナーがあったりしてサービスはいい。観光的にはこちらが上かな。

ひまわりの鉢植え販売も   

  このフェスティバルは入場無料。9月3日(日)まで。
    
       

 昨日(08/20)は友人が出展している写真展を観に京橋まで行ってきました。
 この友人は高校時代から写真が好きで、大学(工学部)を卒業してからは富士フィルムに入社。
 今は引退して悠々自適の生活ですが、年に数回出品しています。

会場①       

 私は雑誌の編集者をやっていたので、写真には一方ならぬ興味がありますが、どうしても編集者の視点で見てしまいます。

作品①   

 例えば、某写真家が撮ったタチアオイ(立葵)の花のクローズアップ写真。
 花びらはもちろん、雄しべ雌しべに至るまできっちり撮られています。
 しかしこれではタチアオイの本質を捉えているとはいえない。
 タチアオイの本質は、誰の力も借りずにあの細い茎でしゃきっと直立し、縦にズラーッと数輪の花をつけていること。この健気な姿を撮らなくて、なにがタチアオイだ。
  

 さらに、これはどこで撮った?
 個人の庭先か、街道脇か、それとも古刹の境内か。
 花にピントを合わせても、その背景をぼんやりとでも写してほしい。
 雑誌編集者はこんな風に写真を見ています。
 「花のクローズアップ写真は植物図鑑の編集者が扱えばいいこと」

会場②   

 以前このようなことをこの友人に話したことがあります。
 「耳が痛いわ」
 彼は人間が穏やかなので終始にこやかに聞いてくれました。
 いらい出展するたびに案内状を寄こしてきます。
 「お世辞いわれるより、ずけずけいわれるほうがためになる」と。
 (どこまで謙虚なんだ)

 友人の作品   

 今回はほとんど風景写真で、水の流れをテーマにしているように思われました。
 いずれも力作ぞろいで、ずけずけいう余地がなかった。
 もっともこれぐらいになると、あとは好みの問題ですが。

作品②  

 作品を撮るのはOK、とのことだったので、気に入った作品を数点撮らせていただきました。

作品③   

 写真展のテーマは「個性という名で集結」
 入場無料。
 会場「銀座フォトギャラリー」(サクセス銀座ファーストビル4F)
 場所 銀座一丁目2-4
 期間 8月24日(木)まで。
 時間 10:00~19:00(最終日14:00まで)

      

 こんなこともあるのか、と思いました。
 昨日(08/19)の甲子園大会・第4試合の仙台育英vs.大阪桐蔭戦です。
  

 大阪桐蔭は春も優勝しており、今夏も優勝候補。選手層も厚く、大阪桐蔭有利と見ました。
 試合は一回から緊迫した投手戦。
 互いに走者を出すものの、好守備に阻まれて得点できず、七回まで無得点が続きました。

 試合が動いたのは八回表、大阪桐蔭は二死二塁から中川のヒットで1点先取。
 その裏、仙台育英も二死二塁からヒットが出て走者が本塁を突くが好返球でタッチアウト。
 これが明と暗の別れ目となった?
  

 1点をリードされたまま、九回裏の仙台育英の攻撃は二死。
 「これは勝負あった」と思いました。
 ところが5番杉山がヒットで出塁。そして盗塁。
 ふつうなら走らせないけど、走者のスタートがよく、しかも大歓声で一塁手の「走った」という声が投手には聞こえなかったらしい。
 それに動揺したか、大阪桐蔭の柿木投手は次打者には四球を出して二死一、二塁。
  

 7番若山の当たりは平凡な遊ゴロ。一塁に滑り込んだものの送球のほうが早く、タイミングは完全にアウト。
 誰しも「試合終了」と思ったところが、審判の判定はセーフ。一塁手の足がベースから離れてました。

一塁セーフ 

 これで二死満塁。
 8番馬目は本来控えの選手ですが、それまで好投していた大阪桐蔭の柿木投手の球をひと振りすると、打球は前進守備の外野手の頭上を越えて転々し、三塁、二塁の走者が還って逆転サヨナラ。2x-1で仙台育英が勝ちました。

二死満塁で馬目が打った 

 大阪桐蔭にしてみれば悔やんでも悔やみきれないでしょう。
 遊撃手からの送球を一塁手が捕って「勝った」と思ったら、勝利の女神がスルリと逃げた。
 再生して見ると、一塁手が捕球したときは足がベースから離れ、あわてて踏み直したときにはその前に打者走者がベースタッチしていた。審判はよく見ていました。
 一塁手にとっては痛恨の極みだったでしょう。試合後泣き崩れていましたが、いつまでも自分を責めないでほしい。

打球は外野手の頭上を越え   

 こうして見ると、仙台育英は九回裏の相手エラーを活かしただけで勝ったように思われるけど、強力な大阪桐蔭の打線を1点で抑えた長谷川投手の粘り強い投球が勝利を呼んだと考えられます。

逆転の走者がホームイン   

 私はいつも甲子園大会の応援順位は、東北>……>関西なので、本来なら単純に「よかった」と思うのですが、今回ばかりは負けた大阪桐蔭に思いを寄せました。
 人生にはこんなこともある、これを糧に人間的に大きくなってほしい。

大阪桐蔭ナイン   

 本当にいい試合でした。両チームに感謝します。

 伊佐沼は蓮が有名ですが、ひまわりもなかなかのもの。
 湖畔の畑に10万本ものひまわりが咲きほころぶのはなんとも壮観。

ひまわり畑と伊佐沼   

 ただし咲く時期がよくわからない。
 3年前は9月の半ばが満開だったけど、昨年は8月下旬に行ったらもう終わりかけで、人々はレンカク(蓮鶴=チドリ目レンカク科の鳥)に夢中になっていました。

畑一面のひまわり   

 ところが川越の友人から、「伊佐沼のひまわり、もう咲いてるよ」
 どこまで翻弄する気だッ。
 とはいえ、見逃すのも口惜しいので一昨日(08/17)行ってきました。

近くで見るひまわり   

 おッ、咲いてる、咲いてる。
 ひまわりの向こうは伊佐沼。そしてその向こうは伊佐沼公園の森。一部小高い丘になっています。
  

 「ひまわり、ご自由にお取りください」
 との表示に摘んでいる人も。

ひまわりを摘む人  

 咲く時期は年によってまちまちだけど、今年は見られてよかった、よかった。

   

 大宮氷川神社の参道は、さいたま新都心駅と神社を結ぶ約2kmの並木道で、なかなか風情のある道です。
  

 この並木は大半がケヤキだそうです。

氷川参道   

 一部大きな岩を利用した石庭があり、これがなかなかの味わい。「平成ひろば」というそうです。

ちょっとした石庭になっている   

 石庭から参道の眺めも乙なもの。

石庭から参道を見る   

 二の鳥居。
 これは明治神宮から奉納されたもの。高さ13m、幅17mで日本最大級の大きさだそうです。

二の鳥居  

 参道の脇には小ジャレた喫茶店や団子屋もあります。

シャレた喫茶店などもある   

 所どころ切り取られた名木(?)もあり、興趣をそそられます。

だんご屋も   

 そして三の鳥居。
 ここから先は氷川神社の境内ですが、この時期の参道は涼しくて、歩くのも気持ちがいい。

三の鳥居 


 今週は月曜からずっと雨で、気温も低いので「涼を求めて」は自重していましたが、今日は暑くなりそうなので、涼しいところのご案内。
 大宮第二公園の西側に小さな川(ドブ川?)が流れています。

見沼用水西線    

 これは見沼用水西線(見沼代用水路西縁)といって、江戸時代灌漑用につくられた水路です。
 この一部に水路を利用した水車小屋があり、子どもが水遊びできるように浅くなっているのですが、今回きてみると水車が壊れていて、子どもたちの姿もなく、なんとも寂しい。

水車小屋 

 その見沼用水路沿いに遊歩道があって、これを「万葉の並木道」といいます。
 なぜこれが万葉の? と不審に思って説明書きを見ると、どうやらこの並木には万葉集に詠まれた草花が植栽されているとのこと。なるほど。

万葉の並木道(左が見沼用水路)   

 こちとら植物に詳しくないので、どの木、どの草が万葉の植物かわからないけど、鬱蒼とした森の気分はやはり万葉なのかな。

万葉の並木道   

 2年前の秋、この道を徘徊したときには、道の外れに小さなパン屋さんがあり、万葉集(山上憶良)に習って「瓜食めば子ども思ほゆ パン食へばまして偲はゆ」と詠んだものですが……。

パン屋さんがあったはずが…   

 そのパン屋さんがない。
 水車といい、パン屋さんといい、2年前とは様相が違う。
 「万物は流転する」とはこのことか。
     
 パン食えへば子ども思うほゆ蝉しぐれ
  
 パン屋はなかったんだけど。

     

 このところ雨の日が続いて月曜日からずっと雨。
 こんなときは徘徊はせず、家でTVを観ているのがいちばんいい。
 ということで昨日(08/15)はNHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争・インパール作戦」を観ました。
   

 昭和19年(1944)3月、日本軍はインドにあったイギリス軍の拠点「インパール」を攻略するため、ビルマのメイミョーから山岳地帯(標高2000m、全長470km)を越えて進軍しました。
 この作戦については、当初から「無謀だ」「兵站(武器や食料の補給)ができない」と猛反対があったのを、牟田口廉也司令官が「臆病者!」「大和魂で乗り切れ!」と怒鳴り散らして強行しました。
  

 しかし輸送と食料用に調達した水牛は、川幅600mにも及ぶ大河を渡ったときに大半が流され、山道はトラックが使えず、トラックや大砲などすべて分解して、兵士が一人ひとり担いで行軍するという有様。
  

 司令部の目算では「3週間で行ける」ところを2ヵ月かかってインパールまで15kmという地点にたどり着いたものの、山の上から待ち構えていたイギリス軍の機関銃攻撃に遭い、日本兵はなすすべもなくバタバタと倒れていきました。
 あるイギリス兵はのちに「(オレひとりで)40人は殺したよ。これは大げさではなくて、彼らは格好の標的だったから」と告白しています。
  

 このように味方にたくさんの犠牲者が出ても、司令部の間では「5000人殺せば落とせる」とか「いやあそこは3000人殺せば落とせるだろう」という話が飛び交っていました。
 「落とす」とは敵の拠点を陥落させることですが、「殺す」とは敵の兵士ではなく、部下の兵士のこと。つまり上層部にとって自軍兵士の命などはどうでもよく、単なる捨て駒(消耗品)扱いでした。
 このことは牟田口司令官に仕えていた斎藤少尉がきちんと書き留めていました。
  

 イギリス軍の機関銃攻撃で多くの兵士を失い、日本軍は総退却。
 しかしそれも悲惨なもので、疲れ切った上に、食料もない、衛生状態も悪いので疫病にやられ、下痢状態のまま走る、そこをイギリス軍が背後から追ってくる、さらに雨期に入って大量の雨。
  

 日本兵は戦わずしてバタバタ倒れました。このときの死者は戦死よりも病死のほうが多かった。
 インパールからビルマにかけての山々、谷、そして街道にはおびただしい日本兵の死体が横たわり、兵士たちは「白骨街道」と呼んだといいます。
  

 食べ物がなく、味方同士が殺し合ってその肉を食うという惨状でした。
 それを書き留めていた斎藤少尉も自らの死を考え、「恥ずかしくない死に方をしたいものだ」と記しています。そして「思えば将校は死んでいない」とも。
  

 下級兵士はこのように地獄の苦しみを味わっていましたが、牟田口司令官などの軍上層部は早々と引き上げ、日本に帰っています。
 のちの聞き取り調査によると、この「インパール作戦」に賛成し、強行した将校たちは「これは自然発生的に行われたもの」とか「ことの成り行きでこうなった」と責任のなすり合い。
 司令官の牟田口廉也はのちにイギリス軍の司令官が社交辞令に「あのときは日本軍に苦しめられた」といったことに気をよくして、「軍人として冥利に尽きる」というノー天気なことをいっています。
  

 その無益な「インパール作戦」の惨状を逐一書き留めていた斎藤少尉はどうなったか。
 生きていました。御年96歳。
 書き留めていたノートを渡されると、「あったのですか」
 一瞬顔をほころばせましたが、おそらくこれまで家族にも誰にもいわなかったことに直面する表情になりました。
   
 あの戦争に対する思いは? と聞かれ、彼は泣きながらこう叫びました。
 「悔しいけれど、上層部の、兵隊に対する思いはそんなものです」
 

    

 今日(08/15)は敗戦記念日です。
 そこで最近CS放送で観た「終戦のエンペラー」(米/2012)について述べてみたい。

 1945年8月30日、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー(トミー・リー・ジョーンズ)が日本に上陸し、アメリカによる本格的な日本統治が始まると同時に、戦争犯罪人を一斉検挙し、戦争犯罪を裁く活動を開始します。

終戦のエンペラー①   

 アメリカ本国では天皇の訴追を求める声が多数を占めていましたが、マッカーサーは日本を統治・再建することを第一義とし、天皇に戦争責任の有無を部下ボナー・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)に調べさせます。

終戦のエンペラー②  

 マッカーサーの命を受けたフェラーズは東条英機元首相、近衛文麿元首相、木戸幸一内大臣、関屋貞三郎枢密顧問官らと接触し、開戦に天皇がどのように関与したかを聴取していきますが、彼らはいずれも責任をなすり合い、日本人独特の「天皇観」を持ち出され、理解不能に陥っていきます。

終戦のエンペラー④ 

 フェラーズは一方で開戦前の学生時代に知り合った元恋人の島田あや(初音映莉子)の消息を知ろうと、静岡に住む叔父の鹿島元陸軍中将(西田敏行)を訪ねましたが、あやは空襲で死亡していることがわかりました。

 さらに鹿島からはこういわれます。
 「日本人に自立した思想はない。あるのは服従・忍耐・奉仕の精神。天皇の元には一致団結して奉仕します」
 では天皇の戦争責任に関しては「天皇は平和主義者であらせられる」
               
 フェラーズは漠然としながらも、「天皇の開戦への意識は希薄だったのではないか」という結論に達します。
 その報告にマッカーサーは不満を抱きながらも天皇の人物像に興味を抱き、赤坂の米国大使公邸で会談が行われました。
 天皇(片岡孝太郎)は側近の制止を振り切ってマッカーサーの握手に応じ、タブーとされていた間近での写真撮影も受け、こう述べました。
 「全責任は自分にあり、懲罰を受けるのは日本国民ではない」

終戦のエンペラー⑤

 これを聞いたマッカーサーは、「日本の再建のためにあなた(天皇)の力を貸してほしい」と応じ、会話は和やかに進んでいきました。

 この映画はアメリカが制作した割には日本に対して好意的に描かれています。
 敗戦後、昭和天皇は象徴として全国を行幸(慰励行脚)し、打ちひしがれた国民を鼓舞し、戦後復興に大きな役割を果たしました。
 マッカーサーたちの目論見は見事に当たりました。

終戦のエンペラー⑥ 

 しかし今の若者にとって天皇にそれほどの力があるとは思えない。
 むろん災害被災地などでは多くの被災者が天皇に声をかけられたことによって、励まされ、勇気づけられるという事実はあるけど、大半の若者は無関心である。
 

 これは戦前・戦中とはまったく違う様相で、私はこれでいいと思うし、おそらく天皇もこうなることを望んでいたと思われますが、一方で靖国に参拝する安倍さんをはじめ、そのお友だち、チルドレンなど保守系の人々が今の天皇に対して冷淡なのが気になります。
 これが若者の天皇への無関心とどうつながるのか。
  

 最後に、邦題「終戦のエンペラー」は、トミー・リー・ジョーンズ扮するマッカーサーの姿とともに見たので、てっきりマッカーサーのことだと思いました。原題は単なる「Emperor」。
 「敗戦のエンペラー」としてくれたら、天皇裕仁のことだとすぐわかるのに。

   

 大宮第二公園にやってきました。
 ここは梅、菖蒲、紫陽花など四季折々の花の名所になりますが、あじさい園の奥に広大な窪地があります。

あじさい園の裏の遊歩道   

 この窪地には中央に池(ひょうたん池)がありますが、これは芝川の調整池(正式名は芝川第七調整池)です。
 調整池とは台風や梅雨前線の大雨のとき、川の氾濫をふせぐために川の水を一時的に溜めて水量を調節する池のこと。

遊歩道からの眺め①   

 涼しい木陰から池を眺めるのもなかなかの風情です。
 (この眺めは大宮二十景のひとつとか)

遊歩道からの眺め②   

 説明書きによると、このあたりは見沼という地名でその名の通り沼地が多く、田んぼとして利用されてきましたが、田んぼを廃止してからは調整池になりました。

ひょうたん池全景   

 ひょうたん池に下りることができます。
 池のほとりには柳の他、数本の木が植えられており、どこからともなく涼しい風が吹いてきます。

柳越しに見るひょうたん池   

 荒川をはじめ埼玉県の河川には、その流域に多くの調整池が見られます。
 これは水害に遭ってきたこれまでの歴史が行政に活かされていると考えられ、今後もこの光景は変わることはないと確信しました。

釣りをする人々 

 父と子の釣り糸垂れし敗戦忌

     

 20年ほど前、仕事仲間数人と映画の話をしていたとき、イラストレーターの女性がが「『八月の鯨』が好き。お婆さんがとっても可愛いの」といいました。
  

 「そんな可愛いお婆さんの映画なのか」
 そう思ってビデオを借りて観たけど、ふたりのお婆さん姉妹を中心とするやり取りで、それほど可愛いとは思えなかった。とくに感動した映画でもなかったし。

若き日の回想   

 ところが今回CS放送のイマジカムービーで放映されたので、改めて観ました。
 原題「The Whales of August」(米/1987年公開)、監督はリンゼイ・アンダーソン。

 アメリカ・メイン州の小さな島の別荘で暮らすサラ(リリアン・ギッシュ)とリビー(ベティ・デイヴィス)の老姉妹は、8月になると入り江に鯨がくるのを楽しみにしていた。
 今はふたりとも夫に先立たれ、子どもたちとは別れて暮らしている。

サラとリビー   

 リビーは目が不自由になり、わがままになっているが、サラには若いころ夫が戦死したとき、リビーに面倒を見てもらった負い目があり、今はリビーの面倒を見ている状態。
  

 別荘には幼なじみみのティシャや修理工のヨシュア(ハリー・ケリー・ジュニア)、近くに住むロシア移民のマラノフ(ヴィンセント・プライス)らが訪ねてきて、お茶を飲んだり食事をしたりして和やかなひとときを過ごすが、リビーにとってはあまり面白くない。

客人たちと   

 居間の窓を大きくすることを提唱するヨシュアについては「金儲けのため」と疑い、魚をくれたり、さばいてくれたりするマラノフについては「こっちに入り込みたいからだ」といい切って、サラに辛く当たってしまう。
  

 マラノフは料理上手で知識も豊富。楽しく会話のできる人間だったが、リビーのすげないことばに去っていく。

右はマラノフ   

 リビーはある意味ではマラノフの本心を見抜いていたのかもしれない。しかしサラの落胆した姿を見ると心が痛む。
 翌朝、リビーはヨシュアが勧めていた窓を大きくする工事を承諾し、「鯨を見に岬まで行きましょう」とサラを誘いました。

鯨が見えるかしら 

 以前は鯨がどうしたということばかりが気になってよくわからなかったけど、今回は人物構成がよくわかりました。
 こちらも齢をとっているので、身につまされるところはあります。
 とくにマラノフの生き方について。
 いわば放浪の人生ですが、私は彼と違って自分で自活して生きたい。
 それを教えられた映画でした。

 昨日(08/11)は高校野球を観ていましたが、最も注目したのは第二試合の横浜(神奈川)vs.秀岳館(熊本)。注目というよりはほとんど横浜の応援ですが。
  

 横浜は渡辺元智監督が引退してから甲子園では勝てなくなったけど、今年はドラフト候補とされる強打者・増田珠外野手(3年)を擁し、有力校に挙げられていました。
 

 ところが開始早々、秀岳館は先頭の竹輪涼介外野手(3年)が右翼線への三塁打で出塁すると、続く2番・半情冬馬内野手(3年)が左犠飛。試合開始からわずか3球で先制点を挙げました。さらにクリーンアップが3連打を放ち、この回3点。三回にも敵失で1点を追加。

一回表、秀岳館は犠牲フライで早々と先取点 

 このあたり秀岳館の抜け目なさが目につくけど、以前の横浜なら相手にこんなことはさせなかった。それどころか攻撃においても走塁ミスや併殺でチャンスをつぶし、なかなか点が取れない。
  

 それでも五回裏、増田を三塁において右犠飛で1点を返し、七回表、秀岳館に2死満塁から代打・橋口将崇捕手(2年)の右前適時打で2点を挙げられたものの、その裏、横浜は2死一、三塁から6番・福永奨捕手(3年)が左中間への3ランを放ち、2点差としたときは、「ここから反撃だ!」と思いました。

七回裏、横浜は3ランホームランで2点差に 

 しかし八回は一塁走者が刺されるなどの凡ミスでチャンスをつぶし、九回もいいところなく凡退して試合終了。6-4で秀岳館の勝ち。
         

 秀岳館 3 0 1 0 0 0 2 0 0=6
 横 浜 0 0 0 0 1 0 3 0 0=4

試合終了のあいさつ   

 この試合は鍛治舍巧・監督に率いられた秀岳館の試合運びの「巧み」さが目立ちましたが、そもそもこういう野球はかつての横浜がやっていたこと。そのお株を完全に奪われました。
                   
 今の横浜は打力はいいのかもしれないけど、守備、走塁が雑になっている。投手だって数は多いけど、(かつての松坂のような)絶対的なエースがいない。
 これでは神奈川大会で勝てても、甲子園では勝てないぞ。
        

 なんとも消化不良で、口惜しい思いの試合でした。

   

 川越市の西部、小畔川のほとりに「御伊勢塚公園」があります。

公園入口のモニュメント 

 雑木林が鬱蒼と繁り、中央にひょうたん池、そして芝生広場。いかにも涼しげ。
 このひょうたん池はおそらく小畔川の調整池になっているものと思われます。

御伊勢塚公園のひょうたん池   

 「いやあ、昨日は暑かったねえ。自転車に乗ってても、顔に当たる風が暑かった」
 「そりゃそうだよ。こっちでも37度というから体温以上。熱い湯をかき回すのと同じだよ」
 「なるほど、それでか」
 池のほとりの四阿では、おじさんたちが気候の話をしています。

池のほとりの四阿   

 「それに比べると今日(08/10)は楽だな。湿気はあるけど、気温が低いから」
 「それはそうと、今日は花咲徳栄ですな」
 「そう、今やっているはずだけど、どうだった?」

ひょうたん池の噴水    

 あとできたおじさんが、
 「さっきまでTVで観てたけど、徳栄がリードしてた」
 「リードしててもわからんぞ、甲子園は」
 (結果は花咲徳栄が9-0で島根の開成に勝ちました)

ドーム型の四阿   

 こんな公園でおじさんたちの四方山話を立ち聞きするものいいかな。
 なお「御伊勢塚公園」の名前は、ここに伊勢信仰の塚があったことに由来するそうです。

 安倍改造内閣一週間後、なんとも妙ちきりんな大臣が現出しました。
 江崎鉄磨・沖縄北方大臣(73)です。
   

 先週の5日(土)、今後の国会答弁では間違いを避けるために「しっかりお役所の原稿を読ませていただく。立ち往生より、ちゃんと答弁書を朗読かな」と発言しました。
 これを聞いて私は「なんというつまらん大臣だ」と思いました。
 役人の原稿を読むだけなら大臣は要らん。
  

 しかもこの人、安倍首相からの入閣要請を一度は固辞。「齢も齢だし、今さら大臣など」
 ところが所属する会長の二階俊博氏から「なんで断るんだ。これは派閥の総意だ」と激怒され、やむなく引き受けたという経緯があります。

江崎鉄磨・沖縄北方大臣   

 野党からは、「こんなやる気のない人間は大臣に不適格。即刻辞任しろッ」との声が上がりました。
 ここまでなら私も野党のいう通りだと思いました。
  

 しかし8日(火)の記者とのやり取りで「靖国は行きますか」と聞かれて、
 「この10年ほど行ってません。そもそも靖国は(A級戦犯を)分祀すべきです」
 と答えたのにはびっくりしました。

 私の考えと同じだ。
 靖国神社に関しては、1978年、当時の宮司が(昭和)天皇の意向を無視して、A級戦犯を合祀したため、天皇は激怒。いらい天皇の靖国参拝はなくなりました。これは今の天皇も同じ。
 江崎大臣の考えは天皇や私と同じで、安倍首相やそのお友だち(チルドレン)とは明らかに違う。
  

 さらに沖縄について、「日米地位協定は少し見直さないと(いけない)」と述べたのも閣僚の発言としては異例。これは私だけではなく、国民の大半が思っていることで、失言ではない。
 ただしいった以上は、あんた自身(沖縄担当大臣)が実現化するよう尽力してくれ。
  

 思うに、この人は(自分でもいってるように)大臣どころか政治家としても素人?
 それが悪いというのではなく、ありようによっては面白い。

 ♪うそとお世辞のご時世にゃ いてもいいだろこんな奴 ああ 東京永田町……(違った?)
 

 野党やマスコミにとっては突っ込みどころ満載のキャラクターだけど、「謙虚、謙虚」で押し通し、のらりくらりと交わすのではないか。
 安倍首相のサプライズ人事とはこれだったのか。

   

 昨日(08/08)は全国高校野球甲子園大会の初日(雨で順延)。
 開会式直後の第一試合、彦根東(滋賀)vs.波佐見(長崎)を観戦しました。というより、彦根東の応援。
  

 前にも述べましたが、私の祖先は彦根藩の下級武士。
 彦根東高校の歴史は古く、元は彦根藩の藩校「稽古館」、明治になって「滋賀県立第一中学校」。
 その流れを組む伝統校です。
 さらに父の従妹が同校の家庭科の教師だったため、浅からぬ因縁があります。

彦根城の中濠内にある彦根東高校    

 私の高校野球応援の優先順位は①東北・北海道>②北陸・中部>③関東>④九州>⑤四国・中国>⑥東海の順。関西(京都)出身ですが、応援順位では最後。しかし彦根東は別。
 波佐見に関しては学生時代の友人に長崎出身者がいるけど、まァいいか。

波佐見は陶器が有名   

 その波佐見は二回表、先頭打者が右翼席に突き刺さるようなホームランで先制。
 しかしその裏、彦根東もタイムリーで同点。

二回表、波佐見、ホームランで先制   

 その後は三回表にタイムリーで1点リードされるも、その裏、彦根東に3ランが出て4-2。
 「これはいいぞ」と思ったものの、六回に1点、七回に2点を挙げられ、4-5と逆転されました。彦根東は走者を出すものの、波佐見の隅田投手(2年)に抑えられ、追加点が取れない。これはいかん。

九回裏、彦根東、内野ゴロで同点   

 そして九回裏、彦根東は1死一、三塁から内野ゴロの間に同点に追いつき、さらに2死一、二塁から4番の岩本道徳(3年)がライト前にヒット。二塁走者が上手くホームベースに滑り込んでセーフ。決勝点を挙げました。いやあ、よかった。

彦根東、決勝のホームイン 

 波佐見 0 1 1 0 0 1 2 0 0   =5
 彦根東 0 1 3 0 0 0 0 0 2x =6

上からの角度で見てもセーフ    

 彦根東は4年前にも甲子園に出場しました。
 このときは骨折で入院していたためベッドで観てましたが、花巻東(岩手)に9-5で負け、「高校野球を観る楽しみが半減した」と思ったものです。

試合終了後のあいさつ 

 彦根東はこのときが初出場ではなく、今回で春夏通算5回目の出場とか。しかし勝ったことはなく、今回が初勝利。
 ニュースでは台風5号の大雨で、彦根市のとなりの長浜市は川が氾濫して大きな被害を受けたけど、これが激励になってくれれば。
 次回は7日第3試合の2回戦で、相手は青森山田。うーん、手ごわいぞ。

        

 8月は終戦特集が組まれる月。
 私は終戦の年の8月(10日)生まれ。それだけにこの時期のことは看過できません。
 その意味で歴史ミステリー研究会編「終戦直後の日本」(彩図社)を興味深く読みました。

終戦直後の日本   

 一昨日(08/06)は広島に、明日(08/09)は長崎に原爆が落とされた日です。
   
 しかし当初、日本政府はこれを徹底的に隠しました。
 新聞は政府の検閲を受け、広島の惨劇を小さな見出しで「若干の被害」と書き、長崎は2日後に「比較的僅少なる見込」と伝えただけ。
 政府としては、悲惨な現実を知った国民が戦意喪失することを何よりも恐れたからです。
  

 新聞紙上に初めて「原爆投下」が発表されたのは8月11日になってから。
 政府は報道規制を解除して、アメリカ軍機が広島と長崎に落としたのが新型爆弾であること、その威力が毒ガス以上であることを発表しました。

 しかし日本が連合国に敗れ、その統治下におかれると、GHQは原爆に関する報道をいち早く封じました。原爆による大量虐殺は、アメリカにとっては世界に隠しておきたい事実だったから。
   

 ところがイギリスのデイリーエキスプレス紙の特派員記者が広島に入り、地獄のような惨状を記事にすると、GHQは直ちに報道管制を敷き、外国人記者の広島と長崎への立ち入りを禁じました。

 実は長崎に原爆が投下された直後の8月10日、日本政府は「これは国際法違反の非人道的行為だ」と、スイス政府を通じてアメリカに強く抗議しました。
 しかしアメリカ政府は、日本軍が連合国捕虜を虐待していることを理由に、原爆投下を正当化しました。
           
 さらに国内では原爆被災記録映画をつくろうとして日本映画社が広島と長崎に入り撮影したところ、そのフィルムはすべてアメリカ軍に没収され、原爆の恐ろしさを世に広めることはなかったのです。

 以上は同書の「第4章・勝者と敗者」のなかの「原爆の報道に目を光らせたアメリカ」の項に書かれていますが、これだけではなく、「その日、人々は玉音放送をどのように聞いたか」「幻に終わった日本分割占領計画」「解体された巨大財閥」「皇室に対する厳しい対応」など、「そういうことだったのか」と頷くことも多い。
          
 むろんすでに承知のことも記載されていますが、それはそれで再確認として、私としては8月に読んでおきたい一冊です。
  
   

 入間川七夕まつりが開催された5日(土)、6日(日)は、ふじみ野市でも「上福岡七夕まつり」が行われました。
   

 「入間川の七夕を見たついでだ。こっちも見てやろう」
 ふじみ野(上福岡)は近い。近所のよしみもあります。

急造の七夕神社  

 もっとも前日(08/05)に入間川七夕の壮大な(?)飾りを見たばかりなので、「埼玉県であれに勝るものがあるとは思えない」という思いがありました。

イベント会場   

 イベント会場になっている上福岡中央公園や、露店の建ち並ぶサンロード商店街の様相は、まァふつうの祭風景。

サンロード商店街  

 しかしそこから路地に入ってみると、おびただしい七夕の竹飾り。

一番街の七夕飾り   

 とくに駅前名店街は大小さまざま、色とりどりの竹飾りが設えられています。

駅前名店街①   

 ふじみ野市HPによると、「上福岡駅周辺には商店街、自治会、小・中学校PTAなどの方たちが趣向を凝らした約270本の竹飾りで彩られ」とあるけど、これは駅前名店街だけではないか。他の路地を合わせると、1,000本は越すと思われます。

駅前名店街②   

 たしかに入間川七夕(狭山市)の場合は1.5km(延べ)の道路に100あまりの飾りが設えられていて、スケールは大きいけど、駅前名店街の飾り密集度は入間川以上ではないか。

女の子は人形に関心(駅前名店街)   

 というわけで、ここは横丁の七夕飾りが凄い。
 観光客は2日間で17万人に達するそうです(ふじみ野市HP)。なるほど。
   

       

 狭山市で8月の第1土・日に行われる「入間川七夕まつり」が関東三大七夕祭りのひとつに数えられ、歴史も古く、夏の風物詩ともなっている、というのだから、ご近所(でもないか)の手前、行かない手はない。
 ということで、昨日(08/05)行ってきました。

七夕飾り①   

 なるほど、狭山市駅西口にはすでに大勢の人。(午後0時10分現在)
 あちこちに七夕の飾りが設えられ、交通規制も敷かれています。
 駅前には短冊が多かった。これには市内の小中学校から寄せられた子どもたちの願いごとが書かれています。

駅前広場には多くの短冊が  

 「成績と身長が伸びますように」というのもあれば、「まんがと雪見だいふくがたくさんほしいです」、なかには「世界が平和になりますように」というのもありました。
     

 七夕飾りと人の流れは駅前の広場から、桜坂通り、さらに七夕通りに続き、約2kmの沿道には、商店、事業所、市民が出品した130本を超える竹飾りで埋め尽くされています。

七夕飾り②   

 この七夕飾りの歴史は古く、すでに江戸時代中期には行われていて、当時は五穀豊穣や無病息災を願った飾りが沿道に吊り下げられていたそうです。

小学生の鼓笛隊  

 この飾りを見ていると、30年ほど前に見た仙台七夕を思い出しました。
 都市の「貫録」では仙台にははるかに及ばないけど、七夕飾りの数ではそこそこ行っているのではないか。

七夕飾り③ 

 最近の傾向として、ケバブ(羊肉の丸焼きを削ったもの)やシャーピン(中華風お好み焼き)が増えているけど、

七夕通りの屋台 

 通りの外れ、天満宮の境内にはお化け屋敷や射的などもあり、昔ながらの「縁日風景」が見られました。

お化け屋敷 

 ちなみに「関東三大七夕」とは、入間川七夕まつり(埼玉県狭山市)、茂原七夕まつり(千葉県茂原市)、湘南ひらつか七夕まつり(神奈川県平塚市)のこと。

射的   

 観光客の動員数では、入間川……43万人、茂原……88万人、湘南ひらつか……170万人というから、最も少ない。
 平塚に負けるのはしょうがないけど、茂原にも負けるのか。しかも半分以下。
 やはり狭山の奥では地の利が悪いのかな。

 蓮馨寺の向かいにある熊野神社。
 ここが納涼地帯? とご不審の向きもあろうが、ここには厳島神社があり、弁財天(弁天様)が祀られているのですぞ。

厳島神社   

 弁財天の信仰とは、持っている金銭を銭洗井水で洗い清め、心身を清めて行いを慎めば、不浄の塵垢が消えて清浄の福銭になる、といわれています。
 このことから、弁天池でお金を洗う参詣客が多くなりました。
 これは鎌倉の銭洗い弁天も同じ。

宝が池(中央の像が弁天様)   

 銭洗いの作法は、まず厳島神社(弁財天)にお詣りし、ザルにお金を入れて御神水の池(宝池)の水を柄杓ですくってかけます。(ザルをそのまま池に入れてもよし)

ザルに入れたお金に柄杓で水をかける   

 これを線香の熱で乾かす。(線香代は100円)

これを線香の熱で乾かす    

 ここではやらなかったけど、私は以前鎌倉の銭洗い弁天でやったことがあります。
 このときは大枚1万円札を洗ったけど、その後金銭運がよくなったという実感はなかった。
 よこしまな気持ちがあったから?

 お金を洗う女性 

 手持ちのお金に水をかけて冷やすことによって、自らも涼を得る。
 いささかこじつけだったかな。

 先月25日(火)に買った食パンがそろそろなくなるので、昨日はエーキドーに行ってきました。
 徳用パンはもうないのだから、開店前に並ぶ必要もない。気楽なものです。
         

 先日買った1斤(4枚切り=110円)の食パンを買いました。
 これはなかなか美味かった。小麦の質感もしっかりしているし、適度に弾力がある。
 1回に食べる量としてはこの1枚の半分がちょうどいい。量は8枚切り1枚と同じだけど、それだと薄くて重量感が味わえない。

4枚切り食パンと丸デニッシュ    

 他にもいろんなパンがあったのですが、ふと目についたのが「丸デニッシュ」
 デニッシュパンというのは、バター風味でパイのようなパンで、好みではないのですが、4枚(120円)という安さに惹かれて買ってしまいました。

丸デニッシュ    

 昼はいつもパスタなのですが、この日はパスタではなく、デニッシュパンで。
 右下はホールトマトの汁(トマトピューレ)をベースにしたパスタソース。

パスタソースランチ    

 このパンはバター風味は上だけで、中身は小麦のしっかりしたパン。なかなか美味いけど、パスタよりは量が少ないかな。
 それでも朝食べるには半分でじゅうぶんなので、これで2週間は持ちそう。
     

 というわけで当方はどうやら、パンのみに生きる人間、らしい。

 なじみの編集者から風俗の取材を頼まれました。
 原稿料は悪くない、取材先のリストはある。あとは現地へ行って風俗嬢にインタビューして写真を撮るだけ。
 「しかし、この齢で今さら取材といってもなあ」
 そうだ、若い連中にやらせて、こちらはその上前をハネればいいのだ……。
 というわけで、若い連中にインタビューの仕方と写真の撮り方を教えていたところ、ガタガタガタッ……。おや、地震かな。
       

 しかしガタガタガタ……グラグラグラッと、今度は本当の揺れ。
 地震だッ!
 地震はしばらく続きました。
 (風俗取材のことは夢だった)
       

 時計を見ると2時5分。
 TVを点けると地震速報。8月2日午前2時2分、関東で地震がありました。震源地は茨木県南部で各地の震度は……。埼玉県南部は震度2とのこと。
 「本当かなあ。もっとあったぞ」
 当方の実感では震度4ぐらい。
       

 その後はまた寝て、起きたのは5時。
 朝食をすませてゴミを捨てに行ったとき、近所のおばさんと立ち話。
 「昨夜は揺れましたねえ」
 「ええ、もうびっくり」
 「このあたりは震度2ということだったけど、もっとあったよねえ」
 「そうそう、2ということはないと思うけど」
  

 東日本大震災(2011年)以降、関東の人間は大体の震度がわかるようになりました。
 震度3と4の区別ぐらいはつきます。
       

 そんなこと思いながら調べていると、今朝5時22分にも地震があったようです。
 そしてこれを書いている最中(07:16)にもまたしてもグラグラグラッ……。
 しかし、これはそれほど強くない。
 TVを点けると、震源は茨木県南部、震度は……。埼玉県南部は震度4。
 「そんなに強くないぞ」
     

 測定された震度と実感は違うのかな。
 我われは「震度3と4の違いはわかる」といったけど、それが鈍って(当方だけ?)きているのか。
 それとも寝ているときは実際以上に激しく感じられるのだろうか。
  

 ふーむ、よくわからん。

   

 県道ふじみ野朝霞線(266号)の鶴瀬~みずほ台のほぼ真ん中あたりに「鶴馬橋」という表示があり、その脇に「富士見江川親水公園」の表示。

親水公園入口   

 そこを下りると下を小さな川が流れています。これが富士見江川。
 四阿があって、なかなかの風情です。

下りてみると 

 ここは富士見江川親水公園の一角で、正式には「八ヶ上東緑地公園」といいます。
 上の県道とはまったくの別世界。
 樹木で覆われているせいか、ひんやりします。
 ちょっと等々力渓谷(東京都世田谷区)に似ているような。

四阿 

 それにしても、人がいない。
 昨日(07/31)は朝から気温が上昇したというのに、子どもの姿もない。
 もっとも「この水は飲まないでネ」との表示があるので、水質はよくないらしい。
 子どもがこないのはそれでか。だったら「親水公園」などと表示するな。

水を飲まないでネとの表示 

 とはいえこのひんやりした空気は捨てがたい。
 私のような年配者の散歩コースにはいいのではないか。
  

 今きた方向を見ると、水路の上に県道ふじみ野朝霞線(266号)が走っているし、

向こうは県道266号    

 反対側は東武東上線が走っている。

反対側は東武東上線 

 おそらく地元の人にしかわからない公園だろうね。