私はよくキャベツを千切りにして食べますが、このところ芯を持て余すようになりました。
 以前は芯も気にせず食べていたようですが、どうも記憶にありません。
  

 始末屋の私としては余った芯を捨てることはなく、細かく切って炒めたりしたけど、今ひとつ美味くない。
   

 ブロッコリーの茎は、ボイルして千切りにし、ベーコンと一緒に炒めてオイスターソース(+酒)を絡めるとけっこう美味いのに、キャベツの場合は今ひとつ。
  

 ちなみにブロッコリーの茎は、ミキサーでドロドロにして牛乳で割り、胡椒、コンソメスープの素で味つけするとポタージュスープになるのに、キャベツの場合はザラザラしてとろ味が出ないので、ポタージュには不向き。

   

 かくなる上は、とスライスして電子レンジで2分、それを天日で乾燥させました。
 (乾燥しきらない場合は再度電子レンジ→天日干し。ただし焦がさぬように注意)

 スライスしてレンジで乾燥  

 カラカラになったものをオリーブオイルでサッと揚げました。

油で揚げた    

 揚げると縮んで、量としてはかなり少なくなります。
  

 これをポテトチップスのように食べるのですが、カリッとして(薄いのはサクッ)香ばしいなかに、ほのかにキャベツの香りがして意外に美味い。
  

 難点は手間の割に実入りが少ないこと。
 そもそもひと切れが薄くて小さく、しかも美味いからアッという間に全部食べてしまう。
 もっと食いたいぞ。
  

 とはいえ、ないものはないので次回を待つしかない。
 今はキャベツの芯をせっせと溜めております。

スポンサーサイト

 昨日(01/29)は大阪国際女子マラソンを観ました。
 解説陣は過去のオリンピックで優勝した方々をそろえるなど豪華なメンバーですが、選手の顔ぶれはというと、今ひとつ盛り上がらない。
 海外の有力選手はきているのか。
 いつもならアフリカ勢が強力なのに、今回は見かけなかった。

大阪城公園   

 報道するほうも日本人選手ばっかり取り上げている。
 そのなかで知った顔はといえば、5年前ここで優勝した重友梨佐(29=天満屋)ぐらい。
 この人、ここでデビューしてオリンピック選手になったものの、その後はパッとせず、怪我などもあって伸び悩んだ。
  

 そのためか局側はこの人よりも若い選手ばかり注目する。
 その注目の仕方も、元バレリーナはともかく、「日本刀を抱える気持ちで走っている」という物騒な(?)選手もいたりして。
 こういう仰々しい表現をするときは得てして内容が乏しい。
 ざっと見たところ、若くて可愛い選手はいるけど、選手としては小粒と見ました。(悪いネ)

堀江を重友が追う   

 レースはトップを走っていた堀江美里(29=ノーリツ)を、前半出遅れた重友がジリジリと追い上げ、35kmすぎに追いつき、一気に抜き去った。
  

 それまで若い選手のことばかり話していた解説陣は手のひらを返したように、
 「やっぱり重友さん、いろんな対応ができてますね」
 「彼女には風格があります」
 「彼女は怪我を克服しての今ですから、これまで臥薪嘗胆が実りましたね」
 「これには武富監督(天満屋)とのマンツーマンの指導も大きいようです」
 「今日はお母さんの○○さん、叔母さんの△△さんも沿道から声援しているそうですよ」
 と余計なことまでしゃべる、しゃべる。

重友が堀江を抜いた   

 重友は首位になっても緩めることなく、1位でゴール。2時間24分21秒。
  

 マラソン強化戦略プロジェクトリーダーの瀬古利彦氏(60)によると、「我われが設定したネガティブスプリットに近い走りを見せてくれた」との評価で、世界陸上の有力候補だとか。
 ネガティブスプリットとは初耳ですが、前半より後半が速い走法とのこと。海外の有力選手はほとんどこれだって。

重友優勝    

 聞くところによると、重友選手は母親から引退勧告もされたそうで、いろいろ苦労したらしい。
 苦労した人が報われたのはよかったけど、なんだか物足りない。
 もっと若くて生きのいい選手が出てきてほしいし、そもそも有力な外国選手がこなかったのではないか。
 これでは世界から取り残されそうな気がするんだけど。

 トランプ大統領が就任早々メキシコとの国境に壁をつくることに着手しました。
 「何が何でもメキシコ人の不法入国は許さない」
 との固い決意の具現化でしょう。
 トランプ氏は選挙前から「その費用はメキシコ側に支払わせる」といい、メキシコ側は支払いを拒否。
 ならば、とアメリカ側が打ち出したのはメキシコからの輸入品に20%の関税をかけるというもの。(工事費は1~2年でペイできるそう)

アメリカとメキシコの国境   

 メキシコは輸出の70%ほどがアメリカに依存しているそうで、大半が農作物や(メキシコの工場でつくられた)車など。
 これらに関税がかけられるとなると、アメリカ国民が高い品物を買わされることになる。それによってメキシコ側も売れ行きが落ちるので、これは打撃。
 しかし食料だったらアメリカ国民にとっては必需品。物価高になって、かえって生活が苦しくなるんじゃないの。
 

 考えてみれば、アメリカの物価はメキシコ人などの安い外国の労働力(不法移民も含めて)によって安定していたわけで、それを排除してアメリカ人(とくに白人)の雇用に固執すれば、物価高になるのは必定。自分で自分の首を絞めることになります。
   

 これは、アメリカの自動車会社がメキシコの工場を撤退してアメリカ国内に工場をつくり、アメリカ人の雇用を確保するというのもまったく同じ。アメリカ国内でつくると車は高いものにつき、つくっても売れ行きが悪くなる。下手すると自動車会社は赤字を出して減産、場合によっては閉鎖になりかねない。
 そうなると再び失業者が続出するのではないか。
  

 車といえばトランプ大統領はこんなことも宣わっている。
 「アメリカには日本車がどんどん入っているのに、アメリカの車は日本ではほとんど売れない。アメリカと日本の取引はとても不公平だ」
 しかし日本の道路にアメ車は合わないし、燃費も食う。こんな車、誰が買うかね。
 これを二国間協議で強引に買わせようというのだろうか。
  

 少し前のことだけど、経済に明るい取手の友がこんなことをいいました。
 「世界でいえばペルシャやユダヤの商人、そして華僑、国内でいえば甲斐や近江の商人など、彼らはなぜ営々と商いを続けてこれたのか。それは信用とウィンウィンの鉄則で交易してきたからだ。どこかの国のように『ただ儲ければいい』とまがい物を売った商人は一時は儲けても、長い目で見れば淘汰されていった」
 要するに、どちらかが泣くような力ずくの取引は長い目で見れば成り立たない、と。
      

 私がトランプに期待したのは、「アメリカファースト」という本音(=エゴ)むき出しの政策によってこれまで取り繕ってきた世界(アメリカ)の秩序が暴かれ、ぶっ壊れるのではないか、ということ。
 しかしこれでは、秩序がぶっ壊れる前に経済が立ち行かなくなって、トランプの政策がぶっ壊れるのではないか。
        
 ちょうどこのトランプに似た人間がいます。
 高圧的で、人の意見をまるで聞かない。マスコミをバカにし、敵視している。
 といえば、昨日俎上にあげた元東京都知事。
 こういう人間は偉そうに自説をブチ上げるけど、上手くいかなくなると人の所為にして、責任転嫁する。
              
 もうひとつ私がトランプに期待したのは、日本の保守勢力(それも戦前・戦中に権力の中枢にいた人たちの流れ)はこれまでアメリカの庇護のもとにわが国を支配してきたが、その庇護が受けられなくなるのではないか、ということ。
              

 これに危惧したアメリカのポチは昨年末大統領就任前からトランプ詣で。(ここまでヘコヘコするかね)
 大統領就任してからは一刻も早く会いたいと秋波を送り続け、ようやく来月の10日に実現することになりました。
 果たしてどうなるのかにゃ~。

 豊洲市場の地下水から環境基準の最大79倍の有害物質が検出されたことによって、都民が東京地裁に「都が豊洲の土地を578億円で取得したのは違法」とし、2012年5月石原慎太郎元知事に購入金額全額を請求するよう求めました。
 これに対して都は「石原氏に損害賠償責任は存在しない」としてきましたが、小池百合子都知事は「これを再検討したい」と発表しました。
  

 この件について、当時の石原都知事の言動を思い起こすと、「責任がない」とは絶対にいわせない。
   

 08年5月豊洲の市場予定地の汚染対策として、大学教授らの専門家会議が「敷地全体で土壌を入れ替えて盛り土をする」という基本方針を決めたにも関わらず、その11日後、当時の石原都知事はこう述べています。
 「箱ですね、コンクリートの。(略)それを埋め込むことで、その上に、市場としてのインフラを支える。その方がずっと安くて早く終わるんじゃないかということでしたね」
 専門家会議の提言を完全に覆す提案です。
  

 さらにこうもいっています。
 「全く新しい発想や技術の可能性も広く考えていく必要がある」
 「もっとほかの、つまり可能性もですね、技術的なことをリサーチするのは私たちの責任」
  

 それが今ごろになって、「私は素人。(下から)報告受けて記者会見で報告しただけ」と弁明している。
 冗談じゃない。一連の発言のどこが素人だ、どこが「報告しただけ」だ。
 はっきり断定したわけでしょう。
 「専門家がどうした。オレのいっている方法こそ100%正しい。これでやるんだ。文句あるか」と。
 しかも高圧的な態度。
 誰も異議を差しはさめない。
 こんなに自信をもっていわれたら、誰でも「コンクリート箱案に根拠があるのかな」と思うよ。
 それに怖いから逆らえない。
 都職員としては、「偉い人がああまでいうんだから、まあ、いいのかな」ということで、唯々諾々と都知事の意見に従った。
  

 役人(職員)の体質は「慣例は守る」「長いものに巻かれる」「強いものには従う」「責任はとらない」
 ということで職員は、なるべく都知事の案に沿ったプランを出そう、と。
 その結果、コンクリート箱ではなかったけど、盛り土せずに地下にコンクリートの空間をつくっちゃった。これ、都知事の意見をもろに反映してるんじゃないの?
 

 役人(職員)はずるいと思うけど、その体質を見越して上から目線で命令していたわけでしょう。しかも都知事の判を押して署名している。もろ責任者だ。
  

 この人はいつも居丈高で威張りくさっていた。
 そんな態度をとるからには、どんな反対意見にも反論できる自信と根拠があり、いざとなったら責任をとる覚悟があったからでしょう。
  

 ところが自分が確信をもって進めたことが不首尾に終わると、「私は素人。(下から)報告受けて記者会見で報告しただけ」と逃げの一手。見苦しい。
 あんなに威張ってたのは、ただの空威張りか。
     

 この人間の責任は重大だ。
 都の損失分578億円全額コイツから賠償させるのは無理としても、その10分の1ぐらいは召し上げてもいいんじゃないの。金はたんまり持っているはずだから。

 羽倉橋は国道463号(通称・浦所バイパス)が荒川に架かる橋。
 橋長859.63m、幅員22.8m。

羽倉橋   

 荒川はいつも滔々(とうとう)と流れ、安心感を与えてくれます。

羽倉橋から見る荒川   

 こちらから行くと橋を渡れば大都会・さいたま市ですが、振り返ると富士が見えます。
 これがなかなかの景色。

羽倉橋から見る富士   

 ある程度高いところから見ているからだろうか。
 そこで荒川の土手を徘徊しました。

荒川の土手   

 「わッ、なんだ、これは」
 おびただしいカモメの群れ。
 カモメの群れは川越水上公園でも見られましたが、ここでも。
 ふーむ、あのオジサンがパンくずでも投げたのか。

カモメの群れ   

 ここからでも富士山は見えました。

荒川土手から見る富士   

 羽倉橋から土手の上を上流へ向かいましたが、距離は遠くなっているはずなのに、振り向くとやはり富士。行っても行っても、そこにいる。この健気さも愛される所以(ゆえん)でしょうか。



 川越や狭山まで行かなくても、近所でも富士山の見えるところがあるとのことで、行ってきたのは富士見市の砂塚橋。

砂塚橋   

 この橋はびん沼川に架かっていますが、同川はヘラブナ釣りのメッカ。
 そのため、平日でも多くの人が川辺で釣り糸を垂れています。

砂塚橋から見る富士①   

 富士山は橋の欄干から見えました。
 なるほど、東大久保の畑の向こうに。

砂塚橋から見る富士②   

 入間川に架かる本富士見橋や新富士見橋(狭山市)、初雁橋(川越市)は、流れが南西→北東なので上流方向に富士が見えるのですが、この砂塚橋はびん沼川の流れ(このあたりは北西→南東)に斜めに架かっているので、畑越しに見えるというわけ。(下の写真では左方向)

橋は川に斜めに架かっている 

 砂塚橋の近くに阿蘇神社があります。
 阿蘇とは熊本の阿蘇? それがなぜこんなところに? と疑問に思われるかもしれないけど、御祭神が阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)というんだからしょうがない。神社の創立年代は不詳とのこと。

阿蘇神社・鳥居   

 このあたりは東大久保といって荒川と新河岸川に挟まれた低地であるため、しょっちゅう水害に悩まされたので、当初は開発治水の神と祀られ、次第に村の鎮守として信仰されるようになったそうです。

阿蘇神社・拝殿   

  関東に阿蘇神社が祀られるのは珍しいそうですが、熊本にこれ以上地震の起こらないことを祈りました。
 東大久保には富士山と阿蘇が混在する?

 初めての腰痛(?)になったのが今月の6日。
 もうなんともないのですが、あれからいろいろ考えました。
 「右足に比べて左足が弱いのではないか」
 1日2万歩以上歩くと、必ず左足のくるぶしが痛くなる。
  

 これは4年前、階段から落ちて左足距骨を粉砕骨折し、4週間ギプスで固定され、2ヵ月入院していたことが原因でしょう。
 退院後、懸命なリハビリによって足は次第によくなり、ふつうに歩けるようになりました。しかし2万歩あるくとこの体たらく。
  

 そこで500gのウェイトベルトを2本左足首にくくりつけました。
 「これで歩けば左足に1㎏の負荷がかかって強化できるのではないか」
  

 このウェイトベルトは退院後の自主リハビリで使ったものですが、私の場合右肩(右上腕骨)の剥離骨折もあり、左足と右腕強化のため500gのウェイトベルトを2本買ったのです。
 現在右腕は、多少痛みは残るものの、ふつうに動くので強化の必要はない。
 そこで2本とも左足首にくくりつけたというわけです。

ウェイトベルト   

 実は私の知人に両足首に2㎏ずつウェイトベルトをくくりつけているご仁がいます。
 私より4歳上ですが、ネパールやカトマンズの山々をガンガン登っておられる。
 その健脚を生み出すのが日ごろの鍛錬というわけ。
  

 「こちらはその4分の1だから、大したことはあるまい」と思ったのですが。
 1日中くくりつけてみて感じたのは就寝前の疲労感。
 この日はチャリで(食料の買物も含め)徘徊し、室内では調理など台所仕事をした。
 ごくふつうの動きなのにぐったり。
  

 「やはり1㎏の負荷の影響なのか」
 とはいえ、これでやめてしまえば元も子もない。
 もう少し続ければ筋力がついて、疲れにくくなるはず。
 そう考えて3日続けたのですが、やはり疲れる。
  

 ここで考えたのは、「片足だけに負荷をかけるのがよくないのではないか」
 要はバランスの問題であると。
 ということで両足首に500gずつくくりつけることにしました。
 これも最初は疲れたのですが、4日目あたりから疲れなくなりました。
 「少し筋力がついたのかな」
  

 ところが今度は足の甲が冷たい。それどころか、つま先に軽い痺れが。
 まさか、このベルトが……。
 そんなにきつく締めてないはずだけど、やはり血流が悪くなっていたのか。
 そこでベルトを外すと徐徐に足先が温かくなっていく。
 「やっぱりこれが原因だったか」
       

 それいらいウェイトベルトを足首にくくりつけるのはやめました。
 こんな短期間で結論づけるのもどうかと思うのですが。

 再び新富士見橋にやってきました。
 以前きたときは富士山が見えなかったので、そのリベンジ。
 この日は晴れていたのですが、途中から上空に雲が多くなり、果たして見えるか。
  

 見えた、以前よりはっきり見えました。

 新富士見橋より見る富士①  

 新富士見橋は入間川に架かる埼玉県道262号日高狭山線の橋。
 昭和33年(1958)完成。
 狭山市内の橋では最も古く、老朽化しているため埼玉県に橋の架け替えを要請しているものの、現時点では具体的な動きはないとのことです。

新富士見橋より見る富士②   

 富士山の手前に見える橋が本富士見橋。
 そちらにも行ってみました。
 相変わらず上空に雲がかかっていますが、やはりこちらからでも富士が見えます。

本富士見橋より見る富士①  

 当方としては内心わくわくしているのに、通行する人はとくにうれしそうな様子はない。
 「富士山が見えるよ」と話しかけても、「そんなもの、なにが珍しいの」といわれそうな雰囲気。
 やはり見慣れているからでしょうか。

本富士見橋より見る富士②   

 この橋は昭和38年(1963)に完成したそうで、新富士見橋より新しいけど、小さいからか大きなトラックが通るたびにユラユラ揺れる。こっちのほうがヤバいんじゃないの?
  

 帰りも往き同様、126号(県道所沢・堀兼・狭山線)を通りました。
 不老川に架かる新権現橋。
 「おや?」
 ここからも富士山が見えます。マンションと人家の間に、ほら。

新権現橋から見る富士   

 これでもこのあたりの人はうれしくないのでしょうか。
 狭山市の住民はつくづく富士山に恵まれている、と思うのですが。

 大相撲初場所が終わりました。
 結果は大関稀勢の里が14勝1敗で優勝。早くも横綱昇進の声も上がっています。
 19年ぶりに日本出身の横綱誕生ということで世間は盛り上がっているけど、私は今ひとつ納得がいかない。
   

 今場所は横綱が弱すぎた。
 日馬富士、鶴竜はぼろぼろ負け、日馬富士は7日目で休場。
 鶴竜もひどかった。苦し紛れに引くと必ずつけ込まれて、押し出された。10日目で5勝5敗。
 横綱の成績ではない、と思っていたら11日目で休場。
 金星をプレゼントしすぎるよ。勝ったほうも相手が不調な横綱だから、よろこびも半減?
  

 不甲斐なかったのは琴奨菊と照ノ富士の二大関。
 とくにカド番の琴奨菊は負け越して大関陥落が決定。それでも最後まで取り続けるというのは立派ではあるけど、痛々しい感じがしたし、下位の力士への白星大盤振る舞いは果たしていいことなのか。

千秋楽・〇琴奨菊ー●照ノ富士   

 白鵬も7日目までは全勝していたけど、8日目は荒鷲に、9日目は高安に敗れた。二番ともふわーッと立って、あまり覇気が見られなかった。
 白鵬はこれまで寄り切りで勝つよりも、引き、投げ、はたきで相手を土俵に転がすことを信条としてきたが、それが通用しなくなる時期がくるのではないか。今場所はそれを感じました。
 14日目、貴ノ岩に敗れたのも相手をなめていたとしか思えない。「組めばなんとかなるだろう」と安易な気持ちで引っ張り込んだら、グイグイ寄られて完敗。

14日目・〇貴ノ岩ー●白鵬   

 そんななか稀勢の里は着実に勝っていったけど、けっこう危ない相撲もあったぞ。
 私の印象では稀勢の里が強いというより、他の三大関(豪栄道は不戦勝をプレゼントしたし)、三横綱がそろって不調だった。もっとも横綱・大関の力が落ちていると考えれば、相対的に稀勢の里が強くなったといえるのだけど。

14日目・〇稀勢の里ー●逸ノ城    

 それにしても白鵬は押し相撲が下手。
 千秋楽の稀勢の里戦ではしゃにむに寄り立てたものの、土俵際のすくい投げで転がった。以前もこんなことがあったけど、上体だけで突っ込んでいる。
 11日目の照ノ富士戦では、左上手が取れない四つ相撲からいきなり巻き替えにいって一気の寄り。土俵際は腰も落として完璧だった。この寄りが稀勢の里戦で出ていれば。
 (もっとも照ノ富士が不調だったから決まったと考えられるけど)

千秋楽・〇稀勢の里―●白鵬   

 やはり白鵬の相撲信条である「引き、投げ、はたき」で勝つことのツケが回ってきた?
 押し相撲を体得すればもっと強くなったのに。
 いや、もうじゅうぶん強かったからいいのか。

 昨年12月11日の「所沢シティマラソン」で、コースをズルして優勝した3人が失格になったとのこと。
 市によると、ハーフ男子60歳以上の部(約21km)の「優勝者の後半10kmのタイムがおかしい」との電話があり、聴き取り調査をしたところ今月10日に「近道した」と認めました。
 他にも女性のゼッケンをすり替えた男性が女子の部で2位になり、これが発覚しました。
 世間では「怪しからん」と非難轟轟ですが、昔からマラソン大会の不正はよくあったそうです。

 これについて私は高校時代のあるできごとを思い出しました。
 2年のとき、体育の授業で京都御所の一部を走るタイムトライアルがありました。
 私は体育は苦手でしたが、このときは最初から先頭グループ。
   

 というのも私は当時、夜中の12時になると近所を4kmほど(自宅→百万遍→熊野神社→天王町→銀閣寺→自宅)走ることを日課としていました。
 走る目的は「精神を鍛えるため」ですが、ランニングの成果は確実に現れて、次第にタイムが上がり、自分でも体力がついていくことがわかりました。

今出川通(私のランニングコース)   

 「あれッ」
 終盤近くなって、塀の破れ目から運動着姿の生徒がヌッと出てきました。
 これは1年のとき同じクラスだった希代のワル男(ケンカ、恐喝、カンニングは当たり前)。私の顔を見るなりニヤッと笑いました。
 ズルいぞ、こいつ。
 そう思ったけど、咎めるわけにもいかない。(あとが怖い)
 しかも懸命に走ってきたので、こちらは汗びっしょりで、息も絶え絶え。そんな気力もない。
 そんな私を見て、彼もさすがに気が引けたか前を走ることはなかった。余力は私よりはるかにあったはずですが。

京都御所  

 タイムは覚えてないけど、このとき私は47人中8位。私より遅い陸上部員もいました。
 「練習はうそをつかない」
 私はそれで満足でした。彼がズルして私の前を走ろうが、どうでもよかったのです。

  *

 このワル男ですが、彼にも一抹の良心(?)があったとみえて、真面目に走っている人間の前をけっして走らなかった。
 ワルにはワルなりに恥を知っていたのでしょう。
  

 ところがマラソン大会でズルしたオッチャンは、臆面もなく優勝してしまった。
 浅ましいというか、恥知らずというか。
 優勝のよろこびとは自分の努力で勝ち取ってこそ。不正な手段で優勝してなにがうれしい。
 ズルしたのなら最後尾でゴールインしろ。それでも完走した人には負けているのだから。
  

 高校時代のワル男は、のちにヤクザになったそうです。
 彼は恥を知る男だった(?)だけに、ズルした時点で「もう一般社会では生きていけない」と自覚したのかもしれません。
 ズルというのはそれほど重いこと。
      

 マラソン大会でズルしたオッチャンは60歳以上とのことですが、そんな自覚さえなかったのか。
 ヤクザにはならなかったかもしれないけど、実体はそれ以下。晩節を汚しました。

 昨日(01/20)は大寒。南関東も雪が降ると予想され、それなりの覚悟はしていました。
 朝目を覚ますと、顔が寒い。こんなの初めて。
 空はどんよりと曇り、明らかに気温は低い。
  

 こんな日はなるべく外出しないようにしているけど、できれば今日あたりエーキドーのパンを買っておきたい。
 というのも、工場直売店でいつも買う徳用の食パン(3斤=150円)は火、金の開店時(10:15)に買える確率が高い。土、日になると、あるかどうか。

田舎道① 

 というわけで、無理して出かけました。やはり寒い。
 チャリで突っ走ると風が当たり、体感温度は2℃。
 殺風景な田舎道に灰色の空。今にも雪が降ってきそう。
 雪が降りそうな空を俳句では雪催(ゆきもよい)といいます。冬の季語です。

雑木林   

 雪催夫(つま)に汲む茶を深くせり
   

 うーん、いい句だ。もっとも私の句ではありません。
 これは3年前の句会でトップ賞を獲ったオネエさまの句。
    

 ちなみにこのとき宗匠からの特選を賜ったのは友人の句で、
  

 寒雷や夢の底ゆく帰省バス
  

 中七の「夢の底ゆく」がいい。雷が鳴ってもぐっすり寝てるってこと? さすが達人。

 田舎道②  

 エーキドーに着いたのは10:07ごろ。
 いつも2~3人並んでいるけど、この日はオッチャンがひとり。
 「あるかな」
 「あるよ」
 徳用の食パンのことです。
 ガラス戸からは店内が見えるのですが、手前のケースに入っているのがそれ。
 このオッチャンもそれ狙いらしい。
 「あれは安くて美味いからねえ」
 「そう、小麦の味がして、パンの生地がしっかりしている。あれに比べると他のパンはバカバカしい」(もちもち、ふわふわパンは所詮空気を食ってるだけ)

エーキドー   

 この日は寒かったからか、オープンは2分ほど早かった。
 とはいえ態勢になんら影響はなく、オッチャンも私も徳用パンが買えました。
 よかった、よかった。
  

 雪催客少なくて麺麭(パン)買へり
  

 寒いなか無理して出かけた甲斐があったというもの。

食パン   

 初春やわれ麺麭のみに生くるなり
  

 雪は午後から降るというので、出かけなかったけど、寝るまでに降った気配はなかった。
 今朝6時ごろ外に出てみたけど、降った形跡はなし。
 本当に降ったの?

 ここに昭和2年(1927)の彦根町(当時)の地図があります。(「彦根歴史散歩」より)
 このころはまだ江戸・明治時代の町名がまだ残っており、謄本に出ている親戚の住んでいた場所がわかります。

 彦根町の市街図(昭和2年)  

 芹川沿いの芹橋町は一~十五町目まであり、これは祖父が住んでいた足軽屋敷。外濠(そとぼり)の外です。
 親戚の住んでいた北組町、池州町、七十人町もまた外濠の外。
 ただし曾祖父が養子に入ったT家は外濠のなかの一番町。ふーむ、こっちのほうが武家としては格上?
 これらの地名は今はありません。
 現在の彦根市の地図も持っていますが、3年前に訪れるまでは古い地図のほうが想像力をかき立てられました。
  

 中濠の南東にある中学校は「滋賀県立彦根中学校」のこと。
 元は彦根藩の藩校「稽古館」(寛政11年=1799)、明治になって「滋賀県県立第一中学校」
 現在は「彦根東高校」です。偏差値も高く、進学率も高い。
 文武両道で、2013年夏は野球部が甲子園にも出場しました。(校庭に記念碑あり)

彦根東高校   

 親戚に同校で教鞭をとられて(家庭科)いた女性がいますが、かなりのお年のはず。どうしておられるのか。
  

 中濠に架かる京橋から外濠に向かう道は江戸時代から「京橋通り」と呼ばれていたようです。
 何度もいいますが、「夢京橋キャッスルロード」という歯の浮くような名前は今もって好きになれません。昔のように「京橋通り」にすれば好感が持てるのに。
  

 舟橋聖一「花の生涯」や幸田真音「藍色のベンチャー」には幕末の彦根が描かれていますが、そのなかに出てくる「袋町」は遊郭のあったところ。
 今は「花しょうぶ通り」というアートの町(?)になり、遊郭の面影はありません。

花しょうぶ通り   

 もっとも横浜も永楽・真金町(遊郭)はその雰囲気はなくなった(一部ラブホテル街)し、初黄飲食街もやはりアートの町(?)になっちゃった。こんなところは観光行政としては払拭したいのでしょう。
  

 「城下町」の著者・矢守一彦氏も「今の彦根は観光化されて味わいがなくなった」と書かれています。
 私も実際に彦根の市街地を歩いてみて、感動したところもあれば、「ここも他の観光地と同じか」とガックリしたところもありました。
  

 彦根市は一時「ひこにゃん」ブームで湧いたけど、私は好きになれなかった。こういうものは文化として底が浅い。
 こんなことなら彦根は当分(こなくても)いいかな。

 舟橋聖一「花の生涯」は幕末の彦根を舞台にし、井伊直弼およびその周辺の人々を鮮明に描いた小説です。
 これによると、「横浜は井伊直弼なしには生まれなかった」ことがわかります。
        
 当時、米国総領事ハリスは領事館のある神奈川(今の東神奈川あたり)を開港するよう主張していました。江戸へ行くのも便利なので、ハリスはここに固執したのです。
 そのあまりの強硬ぶりに、幕閣たちもそれに傾きかけましたが、幕閣の井伊直弼だけは猛反対。
 「神奈川は宿場町だけに多くの人々が行き交う。外国人と衝突するのは必至。なんとしてもそれは避けたい」
 そう考えていた直弼は、神奈川からひと山越えた湾の入り口の小さな砂州、人口101人の横浜村に目をつけ、ここに港を開くことを提案しました。
 しかしハリスは問題にせず、他の幕閣たちも「そんな突拍子もない。遠いし、埋め立てに莫大な費用がかかる」と考え、直弼の意見には大反対。
     
 それでも直弼は粘り強く「横浜最善説」を説き、少しずつ幕閣の考えを変えていきました。
 これにはハリスも折れ、とうとう横浜村に港が開かれるようになりました。
        
 結果、横浜はどんどん開拓され、文明開化のシンボルになり、江戸(→東京)よりも賑わいました。
 今日の横浜の繁栄は、井伊直弼の尽力あってこそといっても過言ではありません。その意味で横浜市民は(横浜好きの私も含めて)井伊直弼に足を向けて寝られないのです。
伊井掃部頭の銅像 ←掃部山公園  
 横浜市中区戸部町に「掃部山公園」があります。
 明治42年(1909)、開港50周年を記念して、ここに井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼の銅像が旧彦根藩士によって建てられました。
 ところが旧攘夷派の人たちによって銅像の首が切られました。彦根人としては悲しいことです。
 昨日も述べたように、このころでもまだ彦根藩に対する風当たりは強かったようです。
    
 さらに第二次世界大戦時には銅像そのものが供出され、受難の連続でした。昭和29年(1954)になってようやく再建され、現在に至っています。
       
 余談ですが、井伊直弼と横浜に関して、私はこんなことを夢想します。
 曾祖父が鳥羽伏見の戦いで戦死せず、生きのびていたとしたら、どんな生き方をしていただろうか。
 文明開化の横浜に流れ着き、過去を一切捨て、中国人が経営する賭場の用心棒になっていたのではないか。ちょうど「花火の街」(大佛次郎)の是枝金四郎のように。
 横浜は主君(井伊家)ゆかりの場所、ここなら骨を埋めてもいいと考えた?
        
 だとすると妻子を捨てて無責任? いや、記憶喪失になった? など考えると楽しくなります。

 彦根藩(井伊家)は徳川の筆頭譜代大名でした。そのため「鳥羽伏見の戦い」ではてっきり幕府側とばかり思っていました。
 ところが実際は官軍側についていました。
  

 司馬遼太郎「燃えよ剣」でも、鳥羽伏見の戦いのくだりで、新撰組の隊士が「彦根藩が裏切った!」と叫んでいたような……。
 ガックリしました。
 「なんのために井伊直弼は殺されたんだ。これでは犬死ではないか。筆頭譜代の名が泣くというものだ」
 ひょっとして彦根藩は日和見で、勝ち馬に乗ったのではないか。
  

 しかし藩史を調べてみると、そこに至るまでには様ざまな葛藤があったようです。
 大河ドラマ「篤姫」(2008)でもわかるように、14代将軍をめぐって幕閣内での対立、さらに「安政の大獄」や「桜田門外の変」で老中は彦根藩に冷たくなり、距離を置くようになりました。
 加えて彦根藩の下級武士の間で尊皇攘夷派が台頭し、「朝廷側(反幕府)につくべきだ」という意見が強くなり、藩の体制もそれに傾いていきました。
 そのため「鳥羽伏見の戦い」では最初から自分たちの信念で反幕府側だったのです。
  

 薩長軍は得たりとばかり彦根藩を過酷な最前線につけ、彦根藩もそれに応えました。
 戦が終わった鳥羽街道には、官軍側・幕府側を問わず身元不明の死体が累々と横たわっていたそうです。私の曾祖父もそのひとり(?)。

彦根城   

 戦ではさんざん彦根藩士を利用したにも関わらず、官軍側は「安政の大獄」の恨み骨髄だったのか、明治になっても彦根を逆賊扱いして、徹底的に冷遇しました。
 そのため彦根の経済は困窮を極め、江戸時代に3万5000人あった人口は、明治22年には1万7000人に半減しました。
 祖父の戸籍でも、娘たちの何人かは京都や大阪に養子に出されています。それだけ生活が厳しかったからです。
  

 新政府は財政援助の交換に(憎き彦根藩のシンボルである)彦根城の廃城を提案しました。
 しかし彦根の人々はこれを拒否、経済よりお城の存続を求めました。彼らにとってはお城が心の拠り所だったのでしょう。
  

 彦根は、政府の援助をあてにすることなく、自ら産業(製糸・バルブ工業・流通など)を興して自立の道を歩みました。
  

 彦根市が他の都市と同じ扱いを受けるようになったのは太平洋戦争終結後といいます。(びわこ放送編「近江歴史紀行」秋田書店)

 私は京都で育ちましたが、父方のルーツは滋賀県の彦根市です。
 「曾祖父は彦根藩士で『鳥羽伏見の戦い』で行方不明になった」と母から聞かされておりました。
  

 あるとき家の書類を整理していると、一冊の謄本が出てきました。
 祖父が京都へ移ってきた際の、彦根市からの除籍謄本です。昔の漢字、崩し字なので読むのに骨が折れましたが、なんとか読解することができました。
   

 それによると、曾祖父は弘化2年(1845)彦根北組町の下級武士(H川弥太夫)の三男として生まれ、壱番町十一番屋敷の「T家(私の姓)」(中級武家)の養子に入っています。
 慶應元年(1865)20歳で池洲町の下級武士の娘と結婚し、明治3年(1870)5月7日に失踪、と記されています。
  

 明治3年になってからの失踪とは不可解ですが、「戦で行方不明になった」という母の話から推測すると、戊辰戦争が終わり、明治になっても帰ってこないので、家人が「失踪」扱いにして届け、受理されたと考えられます。

彦根市役所   

 祖父は曾祖父が結婚した翌年慶應2年(1866)に芹橋町の足軽屋敷で生まれましたが、父親(曾祖父)が鳥羽伏見の戦いで行方不明(おそらく戦死)になったため、母親(曾祖母)は再婚、幼少期を(再婚した)母と暮らしました。再婚相手の名は記述されていませんが、明治9年には弟が生まれています。
 これは私の想像ですが、かなり苦労したと思われます。
   
 祖父はよほど自立心が強かったのか、19歳で2歳年上の女性と結婚し、女の子を4人もうけています。
 しかし妻に先立たれ、小さい子どもを抱えて苦労したようです。
 仕事は、後に北海道・社名淵町の警察署長を務めているので、若いころは警察官だったと考えられます。
       

 その後、祖父は四日市の御殿医の娘と再婚し、42歳にして初めて男子を授かります。それが私の父です。その下はやはり女子ふたりだったため、父は女ばかりのなかの「黒一点」でした。
 そのため溺愛されて、意志薄弱な人間になりました。
 

 明治・大正のころの彦根市の住宅事情はかなり悪かったようで、祖父の家族は壱番町の屋敷から池洲町→芹橋町に移り、同じ町内を転々としたあげく、昭和12年京都に移り住みました。
 その間3人の娘に先立たれています。(もっとも孫は何人かいます)
  

 京都に移って、娘たちの墓を若王山(新島襄の墓の近く)につくりました。
 親としては辛かったでしょう。
 こうして苦労多い祖父は昭和23年(1948)82歳の生涯を閉じました。

 昨日(01/15)は寒かったので徘徊はせず、TVで女子駅伝(第35回全国都道府県対抗女子駅伝)を観てました。
 この冬最大の寒波ということで、全国的に大雪に見舞われました。(わが南関東は晴れ)
 京都も前日からの大雪で、市内は雪が積もり、西京極陸上競技場をはじめ、各コースでは大会関係者や地元の人たちが雪かきをして、整備してくれたとのこと。ご苦労様です。

2区・神奈川と京都の争い    

 序盤は神奈川と京都との争い。
 4区は私の地元(熊野→百万遍→銀閣寺は深夜マラソンのコースの一部)だったので、観るのにも力が入ります。

4区(今出川通)  

 この区は神奈川がトップで「ええぞ、ええぞ」と思ったら、長崎の広中璃梨佳が首を振りながらの力走(和製ラドクリフ?=解説者)で10人抜き、さらに神奈川を抜いて(これで11人抜き)トップで5区へ。この選手はすごい。

4区・神奈川は長崎に抜かれる   

 5区(北白川山田町→国際会館前)・6区(国際会館前→北白川別当町)は猛吹雪。
 そのため選手の姿も見えないほど。こんなことは初めて。

 5区は猛吹雪  

 6区あたりから千葉がじわじわと出てきて神奈川に代わってトップグループに。

6区(跨線橋)

 それでも8区(中学生区間)は6チームほどがダンゴになって走るというまれに見る混戦。9区のアンカー勝負になりました。

8区はダンゴレース   

 9区は千葉がトップでたすきを受け取ったのですが、京都の筒井咲帆があっさり抜いてトップを独走。
 ところが岡山の小原怜が驚異の走りで8位から7人をごぼう抜きし、ぐんぐんトップに迫る。
 その時間差は12秒、10秒、7秒、5秒……と縮まっていき、最後は2秒差。トラック勝負になりました。

9区・追い上げる岡山 

 京都としては昨年もアンカーが抜かれて優勝を逃しているので、気が気ではなかったはずですが、なんとか持ちこたえてトップでゴール。
 2時間17分45秒。京都は最多優勝記録を16回に伸ばしました。
 2位は2秒差で岡山。3位は千葉。 4位長崎、5位愛知。

京都が1位でゴール   

 私は基本的には関東のチームを応援しているけど、故郷京都にも多少の愛着はあります。
 その意味では京都が優勝してくれてよかった。

2017.01.15 最明寺の由来

 初雁橋の近くに最明寺という寺院があります。
 天台宗のお寺で、山号は瑶光山。本尊は阿弥陀如来像。
  

 山門には今はやりのなごみ系のお地蔵さん。

最明寺・山門   

 山門をくぐると、片側には蓮のレリーフが並び、片方には灯篭が並ぶ。
 いかにも視覚を意識した寺だ。
 私としてはあまり好きではない。

灯篭とレリーフの境内  

 しかし最明寺HPに書かれた由来を読むと、
 鎌倉幕府二代将軍・源頼家は、北条時政により伊豆修善寺で暗殺されます(元久元年=1204)が、その二男である千寿丸は落ち延びて出家。瑶光房道円と名を改め、この地で草庵を結び貧しい生活を送ります。 
 それから50年以上の歳月が流れ、五代執権・北条時頼は出家して諸国行脚の途中、この地で老僧(千寿丸)に会います。千寿丸を気の毒に思った時頼は金150貫を寄付し、時頼の法名(最明寺入道学了道崇)をとって創建された(弘長2年=1262)のがこの最明寺です。
  

 うーん、ええ話や。

本堂   

 その後、最明寺は江戸時代(慶長14年=1609)、天海により天台宗喜多院の末寺になりました。

苦抜地蔵   

 境内には至るところにお地蔵さんや観音様が建てられています。

 子安観音

 しかし、これがどうも今風で……。
 あまり好きにはなれない。
 エピソードはいいんだけどねえ。

 再び、初雁橋にやってきました。
 この前きたときは富士が見えなかったので、そのリベンジ。しかし……。
  

 この日は天気がよかったけど、南西方向はすっきりしない。
 橋の中央あたりから、かすかに見えたけど。

初雁橋から見る富士    

 これまでで最もよく見えたのは2年前の1月初旬。
 あのときは朝だったから、陽光が東から当たっていた。
 しかし昼過ぎになると太陽が南にくるため、幾分逆光気味になる。
 そのため見えづらくなるのではないか。
  

 ということは、これ以上ここにいてもしょうがない。
 そこで入間川沿いのサイクリングロードを遡ってみました。
 川越水上公園の対岸です。

サイクリングロードから見る富士   

 ところどころ前方に富士山が見えます。
 散歩している人を何人か見かけましたが、彼らはいつも富士山を見ながら歩いているのでしょうか。
  

 八瀬大橋にきました。
 橋の中央あたりから上流を見ると、となりの橋のアーチの間に富士山がかすかに見えます。

八瀬大橋から見る富士   

 今日はこれでよしとするしかない。
 橋を渡って、南大塚からふじみ野市に抜け、帰宅しました。

 岩〇某については、覚えていることがひとつあります。
 それは同級生に殴られて目に青タンができ、父親が担任に怒鳴り込んできたこと。
 殴ったのは私の友人で、クラスの女生徒のことでからかわれたから。友人は私たちがからかっても怒ることはなかったのに、岩〇某のからかいには本気で怒った。
 今にして思えば、岩〇某のことばには人をムカつかせるトゲがあるのではないか。

 9月の半ば、どういう風の吹き回しか、岩〇某からメールがきました。
 「T君、最近はぼくのコメントが書けるような記事がないね。11月の同窓会、会うのを楽しみにしてるよ」
    

 これはコメントではなく、メールだから差し(一対一)だ。私はこのときとばかりと、これまでの憤懣をぶちまけました。
 「そう、最近はコメントが書けないような記事にしている。キミのコメントはイヤミなだけで不愉快だ。いい加減にしてくれ」
 この様な内容で、すぐ返信しました。 
                 
 これに対する彼からの返答はありません。
 送ってから、「ちょっといい過ぎたかな」と胸がチクリと痛みました。

 それから3週間ほど経って、岩〇某が他界したと知らされました。
 ええッ。
 絶句しました。あんなこと書かなければよかった……。
  

 数日後、常磐線コンビ(我孫子と取手)と会ったとき、「実は……」と岩〇某との経緯を語りました。すると、
  

 「わかった。岩〇の死因はお前のメールによる心臓発作や。お前が岩〇を殺したんや」と我孫子。
 取手は私に同情的で、「岩〇はバチが当たったんや」
  

 そしてふたりから、「お前に嫌われたらあの世逝きや。頼むから嫌わんといてや」と懇願される始末。(嫌われるようなことはするなよ)

 私としては、メールと彼の死には何の因果関係もない、と思っています。
  

 しかしここで以前、我孫子がいってたことを思い起こしました。
 「人間は先祖の地を訪ねると、半年以内に死ぬ」という都市伝説。

竹生島  

 私が彦根を訪ねて半年後といえば、2014年10月10日。私は生きている。
 ところが岩〇某が亡くなったのは9月末。半年以内です。
 私の身代わりに亡くなったと考えると、あの都市伝説は真実だった?
  

 さらにいうと私は昨年10月7日にも彦根を訪れている。竹生島にも寄りました。
 この日から半年後というと、今年の4月6日。
 それまでに誰か(私に害をなした人物か、それとも嫌われた人物か)が身代わりに逝くのか、それとも当の私か。
 都市伝説の真偽を確かめたい。

 話は4月にもどります。
 彦根を徘徊した翌日は高校の同窓会。
 その翌日はホテルから御所を抜けて母校(高校=工事中)を見て、さらに母校(小学校)の前を通って、私の実家があった町、京大農学部を抜けて、幼少時に通った教会に寄り、北白川に抜け、疎水(→哲学の道)を歩きました。

哲学の道   

 そのことを帰ってきてからブログに書きました。すると……。
 北白川のことを書いた項に「同級生」なる人物からコメントが寄せられました。
 「懐かしくて、半泣きになりながら読みました」
  

 誰だ、同級生とは?
 北白川出身で、当ブログを知っている同級生となると、ある程度限られてくる。
 あの君かな、と思ったけど、こんなコメント寄せてくるだろうか。
        

 同級生と名乗る人物は、その後もたびたびコメントを寄せてきました。
 あるとき、「人形供養は、ぼくの住んでる近江八幡でもやってるよ」というので、ますますわからなくなり、「キミは誰だ、非公開コメントで教えてくれ」と返コメしたところ、「T君、水臭い。岩〇だよ」
 岩〇某とは中学の同級生。それほど親しくもなかったので、わからないのも当然。「水臭い」といわれる筋合いはない。
 当ブログのことは同級生である京都の写真家から聞いたようです。
   

 それからも彼のコメントは続きました。
 とくに激しくなったのは、近所に住んでいた同窓生のM子が彦根に住んでいると知られてから。
 彦根のことを書くと、「本当はM子が目当てなんだろう」とイヤミたっぷりのコメント。
 それどころか、「ご先祖様は怒ってるぞ」とか、「ご先祖様をダシにして」とイヤミをいわれ続けました。

彦根市街地    

 こちらとしては「なんでこんなヤツにいわれなきゃならん」という思いです。
 当人は冗談のつもりでも、ちっとも面白くない。しかも執拗。いい加減にしてくれ。
   

 しかしブログのコメント欄というのは公開されているので誰でも読める。
 こちらが彼の挑発(?)に乗って、「いい加減にしろ!」と感情的になると、みんなに「小心者」とバレてしまう。
 仕方なく、「そうはいうけどね、同級生さん」と抑えた返コメに終始しました。
  

 とはいえ腹のなかは煮えくり返る思いです。

 3年前の4月11日、私は彦根を訪れました。
 私の父方の先祖は彦根藩の下級武士で、曾祖父は鳥羽伏見の戦いで行方不明(戸籍上は明治3年失踪)になったと聞かされていました。
 したがって一度は彦根の地を訪れたい、と思っていました。
  

 ときあたかも桜満開の季節。
 彦根城と桜を楽しみ、その足で図書館へ行きました。そこで彦根藩士の名鑑を数冊出してもらい、いろいろ調べましたが、祖父と曾祖父の名前(と住居)は個々に見つかったものの、系譜はわからず、断念しました。

彦根城と桜    

 それでも城下町を歩きまわり、「ここが先祖が暮らしていた地なのだ」と思うと、感慨深いものがありました。

 それから3ヶ月ほど経って、京都の同窓生4人と御茶ノ水で会ったとき、そのことを話すと当時我孫子に住んでいた友(今は愛知県在住)が、「お前、そんな怖いこと、ようするなあ。ワシにはとてもできん」というのです。
 というのも、彼の父親は秋田の出身で、あるとき何を思ったか、秋田の先祖の地を訪ね、非常に満足して帰ってきました。しかしその半年後に他界。
 母親は四国の人で、先祖の地を訪ね、やはり半年以内に亡くなったそうです。
  

 そのため彼は、「人間は死期が近づくと、先祖の地を訪ねたがる」、あるいは、「先祖の地を訪ねると、先祖の霊に呼ばれ、召されてしまう」と固く信じて疑わない。
 「そやからお前、半年以内にあの世へ逝くぞ」
 

 「そんなバカな」
 私は一笑に付しました。これはヤツ一流の都市伝説。
 先祖の地を訪ねたことで死ぬのなら、命がいくつあっても足らんわい。
 それに先祖の地を訪ねてぴんぴんしている人はいくらでもいる。

 私に関していえば、体調を考える限りとくに悪いところはないので、病気で死ぬことはまずないだろう。
 しかし人の死因は病気だけとは限らない。事故死だってあり得る。
 もし私が交通事故で死んだら、「見てみィ。だからワシのいわんこっちゃない」と我孫子のヤツにいわれかねない。
  

 ヤツの都市伝説は端から信じないけど、いらいチャリの運転は非常に慎重になりました。
 以前は前の信号が黄色に点滅していてもビューッと走り抜けたけど、今はちゃんと止まる。大きな通りを横切るときは車が止まってから。下り坂はブレーキを掛けながら降りる。
  

 信じてないといいながら、大いに気にしている。これでは信じているのと同じではないか。

 一昨日(01/08)は息子一家と池袋で会い、サンシャイン水族館へ行ってきました。
 水族館に関しては、昨年春には江ノ島水族館、夏には八景島シーワールドに行ったので、このところ続いています。
  

 ラグーン(珊瑚礁)。イソギンチャクやアナゴなども見かけました。

ラグーン(珊瑚礁)  

 イワシの群れとブダイ。これは共存しているようです。
 イワシを餌とする魚がくれば、イワシはパニックを起こして逃げまどいます。(江ノ島水族館で見ました)

イワシの群れとブダイ   

 クラゲの水槽。クラゲの水槽はトンネル状になっていたり、筒状になっていたりと、見せ方は様ざま。水族館によって違うようです。

クラゲの水槽  

 サンショウウオの一種。まったく動かないので合成樹脂製(?)と思ったら、のそのそと動いたので、やっと本物だと認識しました。

サンショウウオ  

 トカゲの一種。

トカゲ  

 ウミガメの一種。

ウミガメ  

 水槽には飼育員さんがときどき入ってきて、魚に餌をやるのですが、この飼育員さん(女性)がよそと違って、華やかなコスチュームを着ています。カメラを向けると、こちらに向かって手を振ってくれました。これは一種のショー?

魚と飼育員さん   

 ここの水族館はよそに比べて狭いので、見せ方にいろいろ工夫しているようです。

 正月のある日(腰痛の起こる前)狭山市に行きました。
 入間川に架かる新富士見橋から富士山が見えるのではないか、と期待したからですが。

新富士見橋から見る富士山   

 これがその写真ですが、(中央あたりに)見えるには見えたけど、ちょっと薄いなあ。
 それでもかなり大きく見えるので、タイミング次第ではもっとくっきり見えるのではないか。
  

 富士山はあきらめ、駅に向かいました。
 「おや?」
 通りの向こうにチラッと見えた由緒ありげなお寺の山門。
 気になったので寄ってみると、「徳林寺」(福聚山)と号する曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来。(現在)

徳林寺・山門   

 創立は元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの合戦にてこの地に本陣を置き、その守護仏として聖観音を安置し、地頭小沢主税が建立したとのことで、それから200年後の天文元年(1532)に一樹存松和尚の開山で曹洞宗(禅宗)になったとのこと。(狭山市のHP)

徳林寺・本堂   

 同寺院を出て裏手に不動尊と観世音菩薩があるというので、そちらに回りました。
 「福徳院不動尊」といいます。

不動尊・入口   

 前述のように新田義貞の守護仏は聖観世音菩薩坐像。
 これは唐からの渡来仏と伝えられ、台座と光背は鎌倉時代の総金箔押しで仕上げられているとか。観音堂に祀られているそうです。

手前が観音堂、右は不動堂   

 それをもとに平成19年(2007)つくられたのが観音大石仏。12m。
 武蔵野観音第17番札所でもあります。
 拝むだけでありがたい。

観音様   

 富士山は今イチだったけど、本日はこれでよしとするか。

 一昨日(01/06)の朝、PCの前に坐ると、左足に重だるい痛みを感じました。
 変だな。寝ているときに筋を違えたか。
 痛むのは足の付け根のあたりです。
 

 しかし深く考えず、そのまま難波田城に行き、エコパの湯に浸り、帰りは食料品調達のため亀久保にまで回りました。
 チャリだとそれほどの負担はなかったけど、ひと漕ぎするごとに左足に軽い痛みが。

 エコパ

 夕方になってPCの前に坐ると、朝より痛みがひどくなっている。
 それどころか室内を歩くのに、左足に体重がかかるたびに痛い。そのため足を引きずって歩くほど。「これは単なる筋違いではないぞ」
 ここにきて、やっと異変を感じました。
    

 そこでどこが痛いのか点検してみました。
 痛むのは足の付け根のあたりだから、腿の内側を指で押してみたけどそれほどでもない。
 そこで押す位置を少しずつ外側にずらしていったところ、横から尻にかけた部分が猛烈に痛い。
 「ここだと、腰だ」
 そこで初めて、これは腰痛ではないか、と思うようになりました。
      

 腰痛といえば、川越の友が昨年暮れから「腰痛で苦しんでいる」とのメールがありました。
 あまりの痛さに動くこともできず、勤め先の奥さんに早退してもらったとか。
       

 私は腰痛なんてなったことがないので「ためしてガッテン」の受け売りで、
 「坐りっぱなしがよくないといいますね。それに寝相がよすぎるのも。できるだけ寝返りは打ったほうがいいといいます。くれぐれもご自愛ください」と返信。
 実感がないとはいえ、無責任なアドバイスです。
        

 友人は翌日タクシーで病院に行ったら、坐骨神経痛と診断されました。それで電気を当ててもらったら、軽くなって歩いて帰ってきたといいます。
 先日会ったときはふつうに歩いてました。
 「しかし完治したわけではないから、また病院行って電気当ててもらうよ」
     

 その腰痛が当方にもやってきたか。
     

 愕然としました。
 これは医者行ったほうがいい?
 もっとも私の知り合いに何人か腰痛になった人がいて、医者にも行かず自力で治している(日にち薬?)ので、しばらく様子を見ることにしました。(3連休で病院は休みだし)
      

 「そういえば3年前、病院で温湿布をもらったな」
 骨折入院のあとリハビリに通っていたとき、「支柱(金属)が入っているところが冷えるんです」と訴えたところ、主治医が処方してくれたロキソニン湿布が5枚ほど残っていました。
 それを痛むところに貼りました。
 すッとして軽くなった気がします。(気のせい?)
       

 それでも寝てると痛くなってくる。
 「同じ態勢で寝るのがよくない」と思って、できるだけ寝返りを打つようにしました。
 しかし横向きになると痛い。
 痛い態勢はできるだけ避けたほうがいいと思い、仰向けになって左足を曲げたり伸ばしたりして調整しました。
      

 翌朝(01/07)起きてみると、かなり軽くなっている。
 寝方がよかったのか、それとも温湿布が効いたのか。
 椅子に坐ると多少は痛むけど、歩くのはふつうに歩ける。痛くもない。
  

 この日は天気もいいし、風も強くないので徘徊にはいいけど、大事を取って自重しました。
   
 そして今朝(01/08)
 まったく痛くない。ごくふつうに歩ける。
 それでも大事を取って腰の部分(押すと少し痛い)にロキソニン湿布を貼りました。
 一昨日夕方の痛みは一体何だったのか。
       

 あれは単なる「筋違い」と思いたい。

 難波田城公園に行ってきました。
 ここは中世にこのあたりで活躍した難波田氏の城館跡を公園にしたもので、「城跡ゾーン」と「古民家ゾーン」があって、昔の情景を彷彿とさせてくれます。

濠と土塁   

 「城跡ゾーン」は発掘調査と古城図をもとに、難波田城の曲輪や濠、土塁が復原されています。
 初夏のころは花菖蒲や睡蓮が咲いて、近隣の人たちの目を楽しませてくれますが、今の時期は……。

復元木橋   

 残念ながら、植物的にはちょっと寂しい。
 濠にはゴミもなく、植え込みもきちんと手入れされているのですが。

濠の向こうは資料館   

 「古民家ゾーン」は明治初期に建てられた古民家と長屋門が移築復原されています。
 穀蔵や文庫蔵、納屋などの付属屋を新築し、昔の農家の風景が再現されています。

長屋門   

 古民家広場では、昔の遊びもできるとのことで、羽根つきをやっている母娘もいました。

古民家広場   

 ふーむ、ここへきたら昔の正月の風景が彷彿できるというわけか。ちょっと侘しい気もするけど。

古民家のなかから広場を見る 

 しかし名主の座敷はなかなかの風情があります。
 ここから見る庭も素晴らしい。

名主の座敷

 ここで過ごす正月は悪くないけど、ちょっと退屈かな。



 一昨日(01/04)は霞が関で川越の友と会いました。
 霞が関といっても川越市の霞が関。駅でいえば下りの東武東上線で、入間川を渡ったところ。
 もっとも当方はチャリで初雁橋を渡りました。
 初雁橋からは富士山を見たかったからですが、この日は生憎見えず。天気は良かったのに。

 初雁橋から上流を見る

 「今日は暖かくなってよかったねえ」
 と友はいうけど、暖かいというのはクセ者で、冷えているほうが空気が澄んでいることが多い。
  
 「それにしても、霞が関周辺は相変わらずこちゃこちゃしてるなあ」
 「それなんだよ。3年後の東京オリンピックでゴルフの競技が霞が関ゴルフ場(霞が関カンツリー倶楽部)で行われるんだけど、駅前の整備はここじゃなくて隣の鶴ヶ島なんだよ」
 「なんだ、霞が関は無視か」
 「そう、ここはあまりにこちゃこちゃしすぎて再開発のしようがないらしい」
 「無計画に商店や住宅を建てたツケだな」

霞ヶ関周辺   

 我われは駅のすぐ近くの「ガスト」に入りました。
 「それにしてもあなたは元気だね。多門院どころか、狭山湖まで行った」
 「そう、ついでに山口観音と北野神社にも寄ったよ」
 「すごいなあ。私は2日に喜多院(川越大師)に行ったけど、混んでたなあ。これまででいちばん長い行列だった」
 「そのほうがすごいよ。長時間並んでお金を投げる。こんなアホらしい話はない。私は写真撮るだけだ」
 「あんたは信心が足らん」
 いわれてしまいました。(信心が足らんのは事実だよ)
  
 「正月は雑煮食べるんですか?」
 「10年ぐらい前まではお澄まし(関東風)の雑煮をつくってたけど、もうつくらない。それでも餅は送ってきたから、食っちゃうなあ」
 「私は島根だから餅は丸餅でないと。ところが関東は丸餅が少ないんだよね」
 「京都も丸餅だけど、私は切り餅でいいかな。丸餅は大きいから、食ったら喉につかえるよ」
 「現実に喉につかえて亡くなった年寄りがふたり出た」
 「正月早々餅で死ぬのはいやだな」
  
 話題はやはり政治の話に。
 「今年はどうなるのかねえ。米大統領がトランプに代わって」
 「日本はこれまで以上にへこへこするんじゃないかな。アメリカのポチだから」
 「それにしてもアベは何をした。景気は良くならんし、北方領土は永遠にもどってこない。何のプラスがある」
 「IR法案なんてバクチだからね。損した人で成り立つ産業だ。こんなものヤクザがやることで国家がやることじゃないよ」
 「そんなに大阪維新がやりたいのなら、大阪だけカジノ特区にすればいい。どれだけ大阪維新に色目使ってるんだ。もうアベの顔を見るのもいやだ」
 最後はぼやきになりました。
  
 「ところであんた、そのリュックには何が入ってるの」
 「風呂の道具と着替えだよ。帰りにエコパに寄ろうと思って」
 「えーッ。エコパって正月からやってるの」
 「4日からね。初湯だよ」
 ことば通り、帰りはエコパに寄りました。
 遅い時間帯だったのでいつものメンバーには会わなかったけど、いい湯でした。

エコパから見る富士   

 出てみると夕日に映えた富士山の美しかったこと。
 初雁橋では見られなかったのに、ここで見られるとは。

陸橋から見る富士   

 さらに陸橋からも。これからはここを富士の名所にしようかな。

 西武ドームの西側に山口観音・金乗院があります。
 真言宗豊山派の寺院。武蔵野七福神の布袋尊、武蔵野33観音第13番札所でもあります。
  

 御祭神は千手観音。
 ご利益は諸願成就、延命長寿、滅罪、病気平癒、さらに加え知恵と福徳を授けていただけるとのこと。ご利益のデパートや。(もっとも「諸願成就」といってしまえばすべて)

山口観音・本堂   

 この寺院は真言宗でありながら、ユニークな施設が多い。
 まず本堂のブレイクベル。
 願い事を念じてこれをカラカラと回すと叶うという。本当かね。(何ごとも信心じゃ)

本堂のブレイクベル   

 特筆すべきは奥の院。
 ここは高台にあって、そこへ行くには急な階段を上るのですが、この手すりがまたユニーク。
 緑と赤の龍で、中国か、それとも中央アジア?
 メキシコのチチェン・イッツァの遺跡にもこんなのがあったような。(あれは蛇か)

階段の龍の手すり   

 高台に上がると五重塔があります。
 朱塗りも鮮やかな八角五重塔で、千体(躰)の観音像が納められているので千躰観音堂とも呼ばれています。この日は塔の上まで行けるというので上ってみました。

五重塔   

 塔の内部にある螺旋階段を上ります。

塔の螺旋階段  

 
 最上階(5階)からは西武ドームや秩父連山が見えます。

階上からの眺め(西武ドーム) 階上からの眺め(秩父連山)   

 そして五重塔の麓にはぐるっと回るように仏国窟(トンネル)が。

仏国窟・入口   

 なかには四国八十八ヶ所の御本尊が並んでいます。
 これで八十八カ所巡ったことになるのかにゃー。

仏国窟・内部 

 いろいろあって初詣には格好の寺院のようだぞ。

 正月の2、3日は外出せず、箱根駅伝を観るのが恒例になりました。
 どこが勝つかというより、コースに興味があるから。

 むろん沿道には人がいっぱい出ているし、カメラはほとんど走る選手の前から撮っているので、国道1号でもふだん見る景色とはまったく違うことは承知の上ですが、それでも「ああ、あそこを走っているのか」と思うと楽しい。
 

 2区の権太坂だって国道1号だから、私が歩いた旧東海道とは違う。
 旧東海道のほうが険しい。(道幅も狭い)
 それでも何となく愛着があります。

2区・権太坂  

 この区間を制したのは神奈川大の鈴木健。
 やっぱり「地元の利」か、と思ったのですが、後続が続かず、青学に抜かれてしまいました。

5区・函嶺洞門   

 往路はやはり5区の山登りが面白い。
 箱根に入って、函嶺洞門の脇を通り、大平台のヘアピンカーブを曲がり、宮ノ下(富士屋ホテル)、小涌園を通る。

5区・小涌園前 

 往路は青学大が3年連続で制覇。やっぱりなあ。

往路ゴール 

 翌日の復路6区は首位青学を33秒差で追いかける早大が差を縮めるのではないかと期待したけど、逆に開く一方。ところが……。

6区・大平台 

 7区に入って後半、青学の田村がヘロヘロ状態。表情も苦しげ。車のなかから原監督のゲキが飛ぶ。(裏では給水できないかと交渉していたらしい。却下)
 早大はチャンス。俄然走りが力強くなる。
 しかし追い上げもそこまで。
 田村は何とか逃げ切って平塚中継所でたすきを次(8区)の走者へ。

7区・青学苦戦   

 青学としてはここが最大のピンチでしたが、あとは安定していました。
 早大としてはここで抜けなかったのが痛く、9区では東洋大に追い抜かれ3位に。

 8区・遊行寺坂  

 今回でも繰り上げスタートは何度も見かけました。
 6区の箱根スタート、小田原、平塚各中継所では、国士館、学連選抜が繰り上げ。
 さらに戸塚中継所では5チームが。

鶴見中継所では5チームが繰り上げスタート   

 前の走者がこないのに、旗が振られてスタートするのは何とも侘しい。
 そして前の走者は中継所に入ってきたものの、たすきを渡す走者は出発したあと。
 大ていの走者はガックリして、その場に崩れます。

中継所にたどり着いたものの 

 以前はこれが気の毒でしょうがなかったけど、最近は「これも人生の試練。これを糧として頑張れよ」と思うようになりました。
  

 聞けば今回5位に入ってシード権を獲得した神奈川大は、昨年は繰り上げスタートに涙を飲んだといいます。臥薪嘗胆した甲斐がありました。

青学が総合優勝   

 優勝は今年も青学。11時間4分10秒。3連覇。強い。

 狭山湖にも足を延ばしました。
 ここは山口貯水池といって、埼玉県(所沢市・入間市)にありながらも、その下流の多摩湖ともども東京都の水がめ。

何が見えるかな?①  

 石碑には「五風十雨の味わい」などと某都知事の揮毫があるけど、コイツ豊洲移転の責任者だろ。当時は偉そうにして、いざ責任を問われるとしらばっくれて、すべて部下に押しつける。
 結局我が国の権力者というのは、責任をとらないんだね。
    
 そんなことよりも、この日の収穫は……。

何が見えるかな?②   

 〇〇が見られたこと。
 前の写真①は右端(石碑の右)に、②は給水塔の左上に山頂が。

 これはもうおわかりでしょう。

狭山湖① 

 老醜の都知事のことは忘れたい。

狭山湖② 

 昨日(01/01)は午後から多門院に行きました。
 天気が良かったからか、けっこう初詣客で賑わっていました。

 多門院本堂  

 ここは川越城主柳沢出羽守が元禄9年(1696)、上富村、中富村、下富村の三ヶ村を開いた際、鎮守のお宮として毘沙門社と多聞院を創立したところです。

多門院・ご本尊?  

 守り神は毘沙門様の化身である寅。したがって本堂を護る一対の動物は狛犬ではなくて狛寅。
 本堂の欄干には、数多くの身代わり寅(災いを託された寅)が役目を終えて、納められています。

納めの身代わり寅   

 多門院の隣接した神明社。
 ここも柳沢出羽守によって伊勢から勧請された神社で、もとは一体だったのですが、明治2年の神仏分離令によって(境界線のないまま)分けられました。
 御祭神は御祭神天照大御神(あまてらすおおみかみ)。

 神明社・初詣の列  

 ここは神社だけあって♪ピ~ヒャラ、ピ~ヒャラと雅楽が演奏され、おかめの舞い踊りも見られました。

神明社・神楽  

 ここは多門院よりもっと多くの初詣客。
 拝殿から鳥居まではもちろん、外の通りも80mぐらい長蛇の列。
 ふだんはまったく閑静な神社なのに。

 道路まで延びる初詣の列  

 私は早朝、近所の浅間神社にお参りしたから、もういいかな。
 そうそう、この日も南側の畑から(お約束の)富士山が見られました。

富士山 

 やっぱり正月はこれを見ないとね。これが何よりの初詣。