<身辺>
 このところ周囲の旅立ちが目につきます。
 秋には、以前の句会の仲間で一緒に横浜へ行ったおじさん(印刷会社の社長)が他界されたと知らされました。ベーリックホールで女性がショパンを弾いてくれたのも、このおじさんが頼んでくれたからです。素朴な田舎のおじさんに頼まれては女性も断れなかったのでしょう。

 
 さらに郷里の同級生が相次いで。
 「あいつも逝ったか」「この人も……」
 そんな会話ばっかり。
 これまでまったく他人事のように思っていたけど、「明日は(今日は?)我が身」と考えるようになりました。
   

 それかあらぬか、友と別れるとき、「では、また(来年)」とは、なるべくいわないことに。
 我われにとって来年はない?
 (そんなこといったら、年末のあいさつ「よいお年を」もいえなくなる)
  

<徘徊>
 今年は2月には三浦海岸に赴き、念願の河津桜を観てきました。
 また3月には伏見の友への恩義に報いるため、藤沢市の鵠沼海岸から江の島へ歩きました。
 彼が高校の夏休みに過ごしたところを中心に写真を撮り、「今はこんなに変わったぞ」と。
 ついでに水族館やサムエルコッキング苑、岩屋洞窟など。
 紫陽花の季節には八景島を訪れ、金沢漁港にも足を延ばしました。(ここも友の高校時代、過ごしたところ)
  

 夏は念願だった鷹取山。磨崖仏も見られたし、神武寺までのハイキングコースは高齢者には厳しい洗礼を受けました。
 秋になって塚山公園から田浦へ降り、横須賀の海岸線を歩きました。
  

 また関西に行ったときは、これも念願の竹生島へ。
  

 そして一ヵ月前は、旧東海道を山王から戸塚まで。
 これは期待した割には大したことなく、よかったのは権太坂から富士山が見られたこと。
  

 これまで三浦半島で行きたかったところは、今年で果たしたので、来年はぼちぼちと鎌倉あたりを。
 (あとはあの世への下見?)
  

<健康>

 健康上はとくに問題ない。軽度の前立腺肥大で総合病院の泌尿器科へ行ってますが、尿、血液は問題なし。癌の心配もないといわれました。
 そのためか、それまで8週間置きだったのが、12週間置きに。
 薬局の人にいわせると、「それほど心配がなくなったから」とのこと。いいのかな。
  

 しかし7月に横浜・日本大通りで展示を見ていたとき、足が攣って参りました。
 足の攣りはこれまで何度かあったけど、このときは膝と足首が硬直して、座ること(膝を曲げる)ことができず、棒立ちになったまま。しかもビシーッと痛みが走る。
 「もう、ここでお陀仏か」と思いました。
 

 しかし、膝は曲げられなくても、小さな歩幅でゆっくり歩けば、なんとか歩ける。
 しかもそのほうが足が楽なので、ゆっくり歩き、それで山手通りを歩きました。(ただし上りは元町中華街駅のエレベーター利用)。
 それでイタリア山庭園まで行ってきましたが、これまでにない遅さ。
 ふつうに歩く女子高生に何人も抜かれました。情けないけど、思うように足が動かなかった。
  

 それ以来、遠出のときは医療用ストッキング(入院・手術のとき購入した)を着用することにしました。
  

 8月は鷹取山(横須賀)から逗子に降り、浪子海岸まで歩き、9月は安針塚駅から塚山公園(横須賀)に上り、そこから浦賀道を歩いてJR田浦駅まで行き、さらに海岸通りを歩いて横須賀駅(ヴェルニー公園)→どぶ板通り→三笠公園などを歩き回り、いずれも3万歩以上歩いたことになるけど、攣りそうになっても攣らなかった。
 これは旧東海道を歩いたときも然り。
 遠出のときは医療用ストッキングを手放せなくなりました。
 

<その他>

 PCには散々痛めつけられました。
 夏には突如ネットに繋がらなくなり、修正しようとあちこちいじっているうちにエラーが生じ、Outlookの記録がすべて消滅。いろんな人へメールを出すのに、すべて「相手待ち」状態になりました。
  

 それからちょっとした手違いで、保存したファイルの主要部分(湘南・三浦半島?)を消失させてしまいました。
 思い出すと腹が立つけど、「命が亡くなったわけでも、身内が亡くなったわけでもない。写真ならまた撮りに行けばよい」と思うようにしています。
 ということで、これについてはなるべく考えないことに。
 

 来年はどんな年になるのやら。(あッ、いってしまった)

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 年を取ると腹立たしいことが多くなる、とはよくいったもので、政治・社会のことを考えると、年々腹立たしさは募る一方です。
 これは私だけではなく、取手の友や川越の友、口を開くと政治へのボヤキ。
   

 その根底にあるものが2020年の東京オリンピック。
 安倍は何の根拠もなく「Under Control」と世界をだました。
 「Tokyo」と決まったとき、抱き合ってよろこぶアスリートたち。それらは口を揃えて金のかかる競技場の新設を求めました。(金食い虫)
 利権の親玉は「それ見たことか」とほくほく顔(老醜)。
 東北の復興は遅れる一方。なにが「復興五輪」だ。
 彼らは、官僚同様、我が国の将来など一顧だにせず、自分たちさえよければそれでいいという利己主義者たちだった。
 負の遺産ばかり残して、子孫にどんないいわけをする。

 それがあぶり出されたのは、小池百合子さんが都知事になったから。
 それはそれでよかったけど、来年は豊洲問題も含めて、緊縮方向に向かうのか。
  

 国際的には、来年からドナルド・トランプ氏が米大統領になること。
 いろんな変化が予想されるけど、日本も例外ではない。
 日本は「アメリカのポチ」よろしく、決まった早々トランプ詣で(世界からは失笑)したけど、トランプはしたたかだよ。
 住民不在でもめる沖縄基地については、「そんなに地元民に嫌われているなら、我われは撤去しようか」といいかねない。
 これを安倍や稲田など、どのようにご機嫌をとって引き留めるのか。
  

 全面撤退はないかもしれないけど、一部撤退するとなると中国は勢いづく。
 仮にアメリカに「こちらは身を引く。中国とは仲良くやれ」といわれたら、否が応でも中国との外交を重視せざるを得ない。そうなると、これまでのような祖父の遺訓を引き継ぐような思想は貫徹できないのではないか。
  

 さらにロシアとの関係。
 先日、プーチン大統領との日ロ首脳会談で、国後・択捉・歯舞・色丹は永遠にもどってこないことがはっきりしました。
 これについては、「終戦のどさくさにソ連が不法に占領したのだから、正々堂々と『返せ』と主張したら、よろしやん」と主張したタレント(?)がいたけど、鈴木宗男は「そんな甘い考えでは永久にもどってきません」
  

 大部分の日本国民はこのタレントと同じような意見でしょう。
 実際は、日本とソ連(当時)との間には「日ソ不可侵条約」が結ばれていて、ソ連は参戦しなかったのですが、アメリカが「参戦してくれ。その代わり、北方領土をソ連が獲ればいい」と参戦を促したものだから、ソ連はその気になった。
 結果的には、侵略戦争のペナルティです。(竹島も同様)
   

 政府というのは、都合の悪いことは自国民には知らせない。
 このことは韓国も同様で、謝罪と(国家)賠償は済んでいるのに、自国民に説明してないものだから、未だに反日感情が強い。(中国の場合は賠償しなくていい、といった)
  

 そういうことですべて有耶無耶のまま進んでいくのだろうけど、安倍が生き残るとしたら、フィリピンのリテルテ大統領のようになるか、このような人物をポスト安倍に据えるか、日本の生きる道はこれしかない。

2016.12.29 旧山崎家別邸

 無料ついでに松江町にある「旧山崎家別邸」にも行ってきました。
 ここは半年ほど前(初夏のころ)に訪れましたが、冬はどうか。
  

 例によって入り口付近でおじさんの説明を受けました。
 前にも聞いたのですが、せっかくしゃべっているのを無下にするわけにもいかないので、「ふむふむ」と相槌。

バルコニー   

 「ここの呼び物は何といってもステンドグラスです」(わかってるって)

 ステンドグラスは階段の踊り場に設置されています。
 しかし階段は立ち入り禁止なので、下の角度から。

階段踊り場    

 他には客間(洋室)の窓にも設えてあります。

客間   

 ここは川越の老舗菓子屋「亀屋」の五代目・山崎嘉七氏の隠居所として大正14年(1925)に建てられたもの。
 バルコニーもあるけど、今の季節はサンルームがありがたい。

サンルーム   

 敷地面積は約2,300㎡、母屋は和洋折衷建築で延べ床面積250㎡。
 母屋の南側には和洋庭園が広がり、庭の東側には茶室があります。

庭    

 また庭には、昭和4年に川越へ訪れた韓国の皇族・李王垠(りおうぎん)殿下のお手植えの松が残されています。

李王垠殿下お手植えの松   

 川越まつり会館も訪れましたが、これに関してはいずれ。

 市立美術館・博物館のすぐ南には川越城本丸御殿。
 何度も入っていて勝手知ったる御殿ですが、無料とあらば入ってもいいか。

川越城本丸御殿   

 同御殿は嘉永元年(1848)、松平斉典の17万石時代に建てられたもので、当時は16棟、1025坪の規模だったそうです。

廊下    

 明治に入ると廃城令で多くの建物は解体され、現在残る建物は玄関・大広間部分と家老詰所のみ。
 この大広間は川越城の他には高知城にしか現存せず、全国的に見ても貴重な遺構だとか。

大広間   

 廊下を曲がると渡り廊下があり、その先は家老詰所。
 家老詰所は、解体後上福岡市(現ふじみ野市)の民家に移築されていたのを再度移築したもので、位置は以前とは違っているそうです。

家老詰所への渡り廊下   

 そこでは三人の家老が延々と評定(ひょうじょう)中。城の図面を見て評定しているところから、議題は普請のやり方か、あるいは役職の配置か。

三家老の評定   

 さらに庭の眺めもいい。

 庭  

 別名、初雁城、霧隠城。関東七名城、日本100名城に入っているとか。
 昭和42年(1967)、県指定有形文化財に指定。

中庭 

 「川越氷川祭の山車行事」などの山車が「ユネスコ」のを無形文化遺産に登録されたことを記念(祝って?)して、川越市では市内施設を年内無料にするとのことで、先日、市立美術館と博物館に行ってきました。

西村文男「地韻天象」    

 川越城本丸御殿は何回か行ったけど、その向かいの美術館と博物館は初めて。
 美術館は川越ゆかりの作家・作品が多いので、どうしても「今イチ」感は拭えなかったけど、無料ということで入りました。
  

 今の時期の企画展は「川越百景」
 「川越のいろんな景色が楽しめます。しかも今回はタダ」
 とは説明のおじさん。面白いからいいか。
 見慣れた「蔵造りの街並み」や喜多院、中院はもちろん、「奥貫家の長屋門」(久下戸)など知らない景色も。(これは地味だからしょうがない)

西村文男「地韻」   

 そんなことより、当方としては外のオブジェ(人が横たわっている)が気になったぞ。
 西村文男・作「地韻天象」と「地韻」だって。
 意味はそれぞれで考えなさーい。(注)美術館25日で年内休館。
  

 そのとなりの土蔵風の市立博物館。
 常設展示は近世の川越に重点がおかれ、中央に蔵造りの町並みの模型。さらに蔵の構造などが展示されていて、ここも学芸員さんが説明してくれます。

 博物館   

 これらは「蔵造り資料館」などで何度も見て、わかってはいるはずけど、確認のためにはいいのではないか。

博物館の中庭   

 ここは中庭の竹林がよかった。

 それからしばらくして、クヌルプは故郷にもどってきます。
 故郷は変わったところもありましたが、変わらないところもあり、彼は克明に覚えていました。
 そこで彼はフランチスカがすでにこの世にいないことを知らされます。
  
 彼は友人の医者から入院を勧められているにも関わらず、故郷をくまなく歩き回ります。
 そして降りしきる雪のなか、自分の人生とは何だったのか、神に問いかけます。
 「私が14歳でフランチスカに捨てられました。あれから私の人生は大きく狂いました。あのときあなたはなぜ私を死なせてしまわなかったのですか」
  
 それに対して神はこのように答えます。
 「クヌルプよ。お前が若かったころのことを思い出してごらん。お前は小鹿のように踊りはしなかったかい? 美しい命がからだのふしぶしに震えるのを感じはしなかったかい? 娘たちの目に涙があふれるほど、お前は歌をうたい、ハーモニカを吹くことができはしなかったかい? それから最初の恋人のヘンリエッテを。そういうものがみな無に等しかったのかい?」
 そして、
 「私が必要としたのは、あるがままのお前なのだ。お前はいつも私とともに生きていた。お前は旅先で多くの人々を楽しませ、愛された。お前の人生はそれでよかったのではないか」
 「おっしゃる通りです。私の人生はそれでよかったのです」
  
 クヌルプはすべてを受け入れ、自分の人生を肯定し、深い眠りにつきました。

 若いころ読んだ印象とは違って、クヌルプは必ずしも希薄な人間ではない、と思いました。「人と一定以上関わらない」という信念を持っている。
   
 「するとヤツとは違うな」
 私の友人はクヌルプのような「信念」はない。
 鳥は3歩歩いたら直前あったことを忘れるように、友人は単に希薄なだけで、「漂泊の人」ではない。
 (洒脱で人を楽しませるという点では似ているが)
  
 それにしてもこの小説は若いころに読むならともかく、人生の晩年に読むべきものではない。すべて身につまされて、侘しい思いだけが残ります。
 しかもこの侘しさから未だに抜け出せない。嗚呼。

 京都時代の友人某は、「当時のことはほとんど覚えてない」といいます。
 こちらは克明に覚えていて、ことあるごとに「こんなことがあった」「あんなこともあった」というのですが、彼は「ふーん、そんなことあったか」
   

 そんなことが多いので、いつしか「キミは、希薄なヤッちゃな」というようになり、彼もそれを認めるようになりました。
  

 「キミのような人間はどこかで覚えがあると思ったら、学生時代に読んだヘッセの小説『漂泊の魂』の主人公クヌルプや。あれに似てる」
 「へー、そうか」
   

 というわけで、図書館で借りてきました。
 当時は岩波文庫で「漂泊の魂」というタイトルだったのですが、今は主人公の名前でクヌルプ。(「漂泊の魂」のほうがいいタイトルだと思うのですが)
  

 この小説は「早春」「クヌルプの思い出」「最期」の三部構成になっています。

 病院から退院したクヌルプ(40ぐらい?)は、地方都市の皮なめし匠夫妻のところに逗留します。
 彼は粋でお洒落(ルックスもいい)、歌も上手でユーモアのセンスもあり、周囲の人々から好かれます。
 とくに近所で知り合いになった若い娘と夕方、遊園地でのデートを楽しみ、娘からも好感を持たれます。
 しかしそれもここまで。翌日はこの町をあとにします。

ヘルマン・ヘッセ「クヌルプ」   

 彼は14歳のとき、神学生(当時のエリート校)だったクヌルプは2歳年上のフランチスカを好きになります。しかし彼女は「神学生なんてつまんない。職人のように根を下ろした人でないと」
 彼はそのことばを真に受け、神学校をやめてしまいますが、彼女は彼を袖にし、別の職人と懇ろになります。

 「オレは弄ばれただけか」
 以来クヌルプの漂泊の人生が始まります。
 旅職人となった彼は妻子もなく、まともな親方にはならなかった。
 しかし自然と人生の美しさを見いだす人間となり、行く先々で人々の生活に明るさとくつろぎをもたらします。
  

 「人間はどんなに親しくなっても、魂までともにすることはできない」
 そんな人生観のもとに、彼はひと所に定着しない生き方を選びます。
 

 ショッピングセンターのイルミネーションということで、「ららぽーと富士見」にも行ってきました。
 「246バイパス側もイルミネーションが施されている」とのことなので、そっち側から行ったのですが、あまりのショボさにガックリ。

 246側のイルミネーション   

 イルミネーションは市役所側がメイン。(ここしかない)   
 メインのクリスマスツリーは高さ6m。

メインツリー①   

 色が変わるところにご注目あれ。

メインツリー②   

 色が変わるといえば、小さな噴水も。

色が変わる噴水①   

 これが緑になったり、紫になったり。

色が変わる噴水②   

 ららぽーと富士見がオープンしたのは昨年4月。
  
 埼玉の田舎の町、しかもなにもない246バイパス沿いにシャレたショッピングセンターなんか建ててやっていけるのか、という声も聞かれたのですが、けっこう賑わっている。
 私もときどき寄るけど、これは都会の雰囲気を味わいたいから。

 ららぽーと・玄関 

 「あんなとこで、誰が買うもんか。シャツなんか高いよ」
 これがエコパの湯舟でオッちゃんたちとの間に交わされた会話です。
 私も買いはしませんが。

 光る石?  

 ソヨカふじみ野とどっちがいいかって?
 イルミネーションの規模ではこちらのほうが大きいのだろうけど、どっこいどっこいかな。
 ここも点灯は来年の2月14日まで。

 これまでずっと横浜のイルミネーションを取り上げてきましたが、それではあまりに地元をないがしろにしているので、ふじみ野駅の近くにあるショッピングセンター「ソヨカふじみ野」へ行ってきました。

外のツリー   

 なるほど。あちこちにイルミネーションが施されています。

ソヨカふじみ野/ゲート    

 ここは23年前、日本初のアウトレットモールとして一時は隆盛を極めたところですが、ときとともに衰退し、5年前に閉鎖。翌年ふつうのショッピングセンターに生まれ変わりました。

中央通路①   

 休日などはいろんなイベントが行われ、けっこう賑わっています。
 先日も川越の友とここの喫茶店「珈琲館」に入ったら、満席でしばらく待たされました。
 (コーヒーが運ばれてくるのも遅かった)

中央通路②   

 うーん、イルミネーションは心なしかショボい気もするけど。
 とくに中央通路のイルミネーションはMarine&Walkの中庭に比べると、格段に見劣りする。
 (あんなところと比べちゃダメだって!)

 中央通路とクリスマスツリー  

 その辺は埼玉の田舎町(?)として割り引いて見てくれ、というところか。
  

 これがソヨカふじみ野のクリスマスツリー。(これはクリスマス後、撤去するとか)

 クリスマスツリー

 2階のデッキから見たところ。

 2階ブリッジから見た中央通路

 まあ、頑張っているんじゃないの。
 来年の2月14日まで点灯しているそうです。

 クイーンズパークからグランモール公園へ。

美術館前①  

 美術館前広場。

美術館前②   

 セントラルテラス。

セントラルテラス   

 リーフみなとみらい前。

リーフみなとみらい前   

 このあたりになってくるとさすがにイルミネーションも侘しい。

 イルミネーションも侘しい  

 横浜駅に向かいます。
  

 ♪Now I know lonely nights
 For all the while my heart is whispering
 Some other harbor lights
 Will steal your love from me
  

 例によって日産のギャラリーから横浜駅に入ります。

 歩道橋から見るベイクォーター  

  歩道橋から見るベイクォーターの景色もなんだか侘しい。

 クイーンズパークにやってきました。

 テラスと樹木のイルミネーション①  

 樹々やデッキの階段などにホワイト、ブルー、パープルの光を織り交ぜたイルミネーションが施されます。

 テラスと樹木のイルミネーション②  

 池にはブルーのイルミネーション。

池のイルミネーション①    

 そしてイルカのイルミネーションが。

イルカのイルミネーション   

 約8万球ものLEDライトだそうです。

 池のイルミネーション②  

 いつもここのイルミネーションはセンスのよさを感じます。
  

 余計なことばは要りません。

 ここも私にとってはほとんど縁のないところで、ふだんは入らないのですが、夜の遊園地の灯りに誘われてふらっと入ってみました。 
   

 なんだなんだ、男同士で記念写真かよ。まァいいけど。

 男同士で記念写真?  

 ウォーターシュートも昼とはまた違った雰囲気があります。

ウォーターシュート    

 ここの呼び物は大観覧車「コスモクロック21」
 今年リニューアルされて、約100万球のLEDが複雑な光を表現するようになったとのこと。

大観覧車①   

 打上げ花火や万華鏡が映し出されるとのことですが、気がつかなかったなァ。

大観覧車②   

 アニヴェルセルみなとみらい(結婚式場)のカフェ。

アニヴェルセルカフェ   

 ♪I longed to hold you near and kiss you just once more
 But you were on the ship and I was on the shore
 Now I know lonely nights
 For all the while my heart is whispering
 Some other harbor lights
 Will steal your love from me
   

 コスモワールドから見る遊覧船も風情があります。

コスモワールドから見た遊覧船   

 ※歌「Harbor Lights by Willie Nelson」

 野々宮神社からさらに奥に入ったところに堀兼神社があります。
 奥にあるせいか、さすがに地味なたたずまいですが……。

堀兼神社・鳥居  

 境内の説明書きにはこうあります。
 「当社の祭神は木花咲耶姫命で合祀神として大山昨命ほか五神を祀る。社伝によると、景行天皇の40年に日本武尊が東北の蝦夷征伐の帰途、この地に立ち寄ったところ、土地の人々が旱害に苦しんでいるのを見て、富士山に祈願したら、たちまち清水が湧き出した。そこで土地の人々がこのゆかりの地に浅間神社を創建したのが始まりという。……(略)……明治維新後は堀兼井浅間神社と称していたが、明治40~42年にかけて村内の神社12社を合祀し、社名を現在のものに改称した」」
  

 ここも日本武尊がきて井戸を掘ったら水が出た、という意味では野々宮神社(七曲井?)と同じ。富士山信仰が違うのか。
  

 どうやらこのあたりは昔から水に困っていたらしい。
 冬になると涸れてしまう川を「としとらず川」と呼んだのは、住民の精いっぱいのヤセ我慢?
  

 朱塗りの随身門はなかなか立派。市指定文化財だそうです。

随身門   

 くぐると拝殿に上る石段があります。ははァ、富士山信仰ということで、拝殿は小高いところにあるのだな。

拝殿への石段   

 拝殿。地味なところが素晴らしい。

 拝殿   

 御神木のバラモミの木。県の天然記念物。

 御神木  

 よくわからんけど、根元には意味ありげなこぶこぶが。

御神木の根元    

 境内には「堀兼の井戸」があります。

 堀兼井①   

 ほほう、これが。残念ながら涸れております。
 涸れると年をとらないから、としとらず井戸。まさか。

堀兼井②   

 堀兼井に関しては古来より数々の歌人が歌を詠んでいます。
  

 武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしく水のちかずけにけり    藤原俊成
 はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野寺あるてふ   紀貫之
 浅からず思へばこそはほのめかせ 堀兼の井のつつましき身を    藤原俊頼
 くみてしる人もありなん自ずから 堀兼の井の底のこころを     西行
 いまはわれ浅き心をわすれみず いつ堀兼の井筒なるらん      慈円
 おもかげぞかたるに残る武蔵野や 堀兼の井に水はなけれど     道興准后
  

 ただし、この井戸であるかどうかは不明。
  歌の鑑賞、解釈はそれぞれで。

 七曲井から東に入ったところに野々宮神社があります。
 ここも入間野神社と同様、大きくて立派な神社です。

野々宮神社・一の鳥居   

 境内の説明書きにはこうあります。
 「当社創立年代は不詳であるが、伝承によれば、日本武尊(やまとたける)が東北の蝦夷征伐の帰途、当地に立ち寄り、水を得るため堀兼(ほりかね)の井を掘らせたという。日本武尊の死後、彼の叔母・倭姫命(やまとひめのみこと)の一族がこの地にきて土地を開き、社殿を建立して日本武尊並びに倭姫命を祀ったのが始まりと伝えられている。
 明治40年に蔵王神社、八雲神社、愛宕神社、神明社を合祀し、現在に至る」

拝殿    

 拝殿の左側に絵馬を掛ける鉄柵が設えてありますが、絵馬の数は少なく、川越氷川神社の絵馬のトンネルのようにはなりません。お寒い限り。

 絵馬のトンネル?  

 その奥に明治40年に合祀された神社5社の神明神社、八雲神社、稲荷神社、愛宕神社、蔵王神社が並んでいます。

八雲神社   

 前に入間野神社のことを「神社のデパート」といいましたが、こっちはそれ以上、デパート兼スーパー、コンビニや。

左から愛宕神社、蔵王神社、御霊神社   

 それよりも特筆すべきは、拝殿の右側にある竹林。
 それほど大きくはないけど、奥行きがあってなかなかの風情です。
 ここは嵐山(京都)の竹林の小径?

竹林 

 その奥に小さな祠があります。
 説明書きを読むと、個人宅にあった祠をここに移したものらしい。(なーんだ)

 竹林の奥に祠が  

 いやいや、なかなか殊勝なことで。

 赤レンガ倉庫の奥、新港パーク側に新たにオープンした商業施設「Marine & Walk YOKOHAMA」(掲載04.25)

 玄関   

 海に面したウッドデッキや中庭もメキシコあたりの雰囲気で気に入り、その後何回か訪れるようになりました。
 しかしいずれも昼の景色なので、夜はどんな景色なのか。
     
 当方はファッションやショッピング、グルメにはさほど興味はなく、ただあちこち歩いて景色を眺めるだけ。

中庭①   

 中庭は夜もいい。クリスマスの飾りつけがさりげなくて好感が持てます。

中庭②   

 デッキに出ました。
 ちょっと寂しいけど、そこがまたいい。

1階デッキ  

 2階のデッキです。
 ここも歩くだけで、夜の海が味わえます。

2階デッキ   

 目の前の港には小さな船(巡視船?)が停泊しているところもまたいい。

 停泊する船  

 2階ブリッジから見た中庭です。

 2階ブリッジから見た中庭①  

 なかなかの景色です。

 2階ブリッジから見た中庭②  

 なにも買わなくても、なにも食べなくても、こんな景色が味わえて、「なんというゼイタクな場所なんだ」と思いました。

 今の時節、横浜は夜景を見るのも楽しい。
 先ずは山下公園。氷川丸です。氷川丸のライトは薄暮の時間帯がちょうどよい。

氷川丸    

 山下公園から見る大桟橋ターミナル。

大桟橋ターミナル   

 プロムナードから見る夜景。

 プロムナードから見た夜景  

 ♪I saw the harbor lights
 They only told me we were parting
 The same old harbor lights that once brought you to me
 I watch'd the harbor lights
 How could I help if tears were starting
 Goodbye to tender nights beside the silvery sea
  

 大桟橋のボードデッキ・通称「くじらの背中」から沖を見る。さすがに夜は寂しい。

 大桟橋から見る沖  

 大桟橋ホールに入りました。帆船・北米丸の模型が展示されています。

大桟橋ホールの展示「帆船北米丸」   

 再びボードデッキに出て、みなとみらいを見ます。
 手前に赤く見えるのは赤レンガ倉庫。

大桟橋から見るみなとみらい   

 象の鼻までやってきました。ここから見るクイーンの塔(横浜税関)はなかなかのものです。

横浜税関(クイーンの塔)   

※歌「Harbor Lights by Willie Nelson」

 以前にも取り上げました(07.05)が、近所の道路の拡張工事が終わり、「富士見市ツインロードA」(私が勝手に名づけた)は広くなって開通しました。
 車を利用する人にとっては大助かりでしょう。

拡張した道路    

 これまで私は専らB道路を通行していました。
 A道路はBと同じ道幅なのに、車の通行量が多かったからです。

 B道路かつてはA道路もこれと同じ道幅であった 

 しかし道幅が広くなってからは専らA道路を通行するようになりました。
 歩道が広くとられ、車に脅かされることがなくなったからです。

右と左の家並みに注目    

 A道路の拡張工事が終わって開通したのは今月初旬。
 「ほう、広くなってすっきりしたねえ」
 という会話が通る人たちから聞かれました。

道路に背を向けている   

 しかし、よく見ると何か変だ。
 写真でいうと、左側の家並みはすべて道路から背を向けている。
 というのも、こちら側の家はこれまではB道路に面していて、背中合わせに家があったのを、全部取っ払ってしまったから。
 おかげでこれらの家々は、裏も表も道路にさらされたことになります。大迷惑?

逆方向から見ても   

 A道路とB道路につながるように立っていた木造アパートは、全部取り壊され、更地になりました。柵の向こうはB道路です。

アパートの跡は更地に(柵の向こうは裏の道)   

 これまで都市計画も考えず、闇雲に家を建てさせてきた行政のツケが回ってきた?
 むろん、行政としては道が通ればいいわけで、景観や各家の事情など知ったことではないのでしょう。

 入間野神社の北側に流れる不老川。
 てっきり「ふろうがわ」と読むものとばかり思っていたのですが、解説板には、
 「この川は入間市宮寺付近に源を発し、野水を集めながら堀兼を通り、川越市で新河岸川に注いでおり、地質的には古多摩川の名残り川であるといわれている。現在では一年中水が流れているが、昔は毎年冬期になると必ず水が涸れ『としとらず川』といわれ、『節分の夜、不老川の橋の下にいると年をとらない』との伝説がある」とあります。

不老川   

 そんなバカな。「涸れる」というのは生命力の衰退であって、「年を取らない」とは違う。
 もっとも死んでしまえば年は取らないから、ものはいいよう。
  

 ここに常泉寺の観音堂があります。
 その昔、大干ばつがあり、水に困った人々が観世音菩薩に祈って古井をさらったところ、たちまち水が噴き出したと伝えられる、とのこと。

 常泉寺の観音堂  

 その井戸は「七曲井」(ななまがりのい)といって、観音堂の裏手にあります。
 ひと目見て、「これは、まいまいず井戸だ」と思いました。
 まいまいず井戸とは、地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から垂直の井戸を掘った構造。すり鉢の部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かいます。

七曲井水神宮   

 ここが「七曲井」と呼ばれたのは、井戸端までたどり着くのにすり鉢部分を7回曲がったことによるそうです。
 すり鉢部上部井戸端に小祠があり、水神「七曲井水神宮」が祀られています。

七曲井   

 昭和45年(1970)の発掘調査によると、すり鉢部の上部直径26m、深さ11.5m。井筒部はほぼ中央にあり、松材で組んだ井桁からなっていることがわかりました。

観音堂と大銀杏   

 そんなことより、当方としては不老川の読み方が気になりました。
 涸れるから年取らず、なんて、牽強付会もいいところ。
 これでは七曲ではなく、「へそ曲がり」だ。当方に似ている?
 やぶ蛇だったか……。

 入間野神社の斜め向かいにある金蔵院。真言宗豊山派の寺で、本尊は不動明王。
 創立年代は不詳なれど、建久年間(1190~97)とも伝えられています。

金剛院・入口   

 寺には享保元年(1716)玄慶作の木造不動明王座像をはじめ、室町時代以前の作と推定される木造地蔵菩薩立像など多数の文化財があります。(狭山市のHP)

本堂   

 入曽の獅子舞はなぜ入間野神社と金蔵院で行われるのか。
 その理由は、金蔵院が維新以前は御嶽神社(現入間野神社)の別当寺(管理)だったからで、神仏混淆時代の名残です。

境内  

 境内には弘法大師の銅像が建てられています。
 これがなかなか立派。風格があります。

弘法大師   

 「高野山 西国板東秩父 百番観音霊場 巡拝供養塔」の記念碑がありました。
 

 また不思議な灯篭がありました。
 笠の上に三匹の獅子が横たわっています。これは三匹獅子といって霊験あらたかなものとされています。

三匹獅子の灯籠   

 それよりもこの金蔵院で人気があるのは、墓苑内にある夢地蔵。
 どんな夢でも叶えてくれるところから、この愛称がつけられたそうです。

 夢地蔵  

 こんなもので夢が叶うなら世話はない、なんていいっこなし。
 信ずるものは救われるぞ。

 狭山市南入曽にある入間野神社はなかなか立派です。

入間野神社・一の鳥居 

 主祭神は、大山祇命(おおやまづみのみこと)と木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)で、合祀神として天照大神(あまてらすおおみのかみ)他6神を祀っています。

二の鳥居・三の鳥居 

 社伝を要約すると、
 「創建は建久2年(1191)、旧号は国井神社、後には御獄大権現と称した。明治元年の社号改正で御嶽神社と改称、のちに浅間神社、神明社、天神社、稲荷社を合祀し、明治44年現在の社名となった」とのことです。

拝殿   

 浅間神社は富士山、神明社(伊勢系)は天照大神、天神社は菅原道真公、稲荷社はお稲荷(キツネ)さんを信仰しています。つまりここは神社の複合体。

神明社  

 そのためご利益は、安産祈願、子授、金運、火防守護、縁結び、子育大願、受験合格、容姿端麗などいろいろござる。

 天神社  

 境内には入曽獅子舞の記念碑があります。
 これは毎年10月中旬に行われ、同社と金剛院に奉納されるものです。

 入曽の獅子舞記念碑  

 この入曽獅子舞は宝暦8年(1758)以前から伝わるもので、五穀豊穣・降雨のないときの雨乞いを祈って舞われます。
  狭山市では有名な祭りで、県指定無形民俗文化財になっているとのこと。
         
 そんなことよりも、当方にとってはここが神社のデパートである、ということだけが印象に残りました。

 不動坂交差点から旧道沿いに進むと、古いれんが造りの土蔵がありました。
 「横浜旧東海道・みち散歩」には「鎌倉ハム発祥の地」とされています。
 「ここが鎌倉ハムの?」との疑問に駆られますが、一応そのようになっています。

 レンガ造りの倉庫

 その先を進むと舞岡川にぶつかりますが、そこを右折すると国道1号と合流します。
 舞岡川に架かる橋が五太夫橋(ごだゆうばし)。

五大夫橋   

 「五太夫とは小田原北条氏の家臣、石巻康敬のこと。彼は豊臣秀吉の小田原攻めのとき北条方の使者で、北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していたが、天正18年(1590)江戸に入る徳川家康をこのあたりで出迎えたところから、五太夫橋の名がついた」(説明書き)

 そこからしばらく歩くと宝蔵院があります。
 「真言宗のお寺で天文16年(1547)に阿闍梨朝興法印が東峰山光圓寺として中興し、本堂を宝蔵院と称しその後は現在地へ移転しました。本尊は不動明王で境内には地蔵堂、日本舞踊芸道精進の扇塚などの石造物があります」(説明書き)

法蔵院・地蔵堂    

  お地蔵さんが多いのが印象に残りました。
  

 このあたりは旧東海道を示すものが多少はあって、宝蔵院の斜め向いには「江戸方見付跡」の碑があります。
 「見付とは宿場の出入り口のことで、ここは戸塚宿の江戸側の出入り口。 旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多い。参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えた」(説明書き)

 江戸方見附跡  

 同様に戸塚宿の上方(京)側にも「上方見附跡」があります。
 旅人は宿場に出入りするのも役人に監視されていた。今でいう監視カメラのようなもの?
  

 その斜め向かいに「旧東海道・吉田一里塚跡」の標柱があります。
 「江戸から10番目の一里塚で、日本橋から約40km。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を渡ってあともう一息といった場所です」(説明書き)
 この一里塚は明治に入り、早い時期に取り壊されたとのこと。

吉田一里塚 

 そのとなりにステンレス製の「戸塚一里塚跡」の説明版があり、同様のことが書かれています。
 その理由は、この場所自体は吉田村(現在は吉田町)、しかし戸塚宿の領域なので、吉田、戸塚、どちらでも呼ばれていたのではないか。

 一里塚を過ぎてしばらくすると、吉田大橋に出ます。
 昔の東海道五十三次の絵図には吉田橋が描かれています。「こめや」は旅籠屋。

 吉田大橋  

 戸塚宿は東海道では宿場の長さが最も長く、約2200mもあったとか。
 江戸から約42km、1日歩いて宿泊するにはちょうどよい距離で、ここで宿をとる旅人は多かったと考えられます。

戸塚宿の昔絵   

 大橋を渡ると戸塚駅。
 旧東海道(国道1号)はその手前の踏切を渡ったのですが、その昔、大磯から東京に通う吉田茂首相(当時)が開かずの踏切に腹を立て、迂回路(昨日不動坂で述べたもう一本の国道1号)を建設させたという問題の戸塚大踏切です。

戸塚大踏切デッキ  

 しかし今その踏切は廃止され、車はトンネルをくぐり、歩行者は「戸塚大踏切デッキ」を渡ります。完成したのは2014年1月。
 デッキのなかほどには「旧東海道宿場町」の表示がありました。

 デッキの上  

 私は横浜の旧東海道に興味があり、「横浜旧東海道・みち散歩」を片手に所どころ継ぎ足しで歩いてみたけど、今回は権太坂以外、あまり面白くなかった。
 もっとも天王町~戸塚(約10km)をぶっ通しで歩く(途中昼食のため東戸塚にも寄った)という、年寄りには過酷(?)なコース取りが原因だったのかもしれません。

 焼餅坂からしばらく歩くと、雑木林のなかに品濃一里塚があります。
 江戸から9番目の一里塚で約36㎞。
 ほとんどの一里塚が取り壊された現在、これは貴重なもので、昭和42年(1965)神奈川県指定史跡に指定されました。

品濃一里塚 

 一里塚からしばらく歩くと、果樹園と住宅地に囲まれた静かな道になり、また下り坂になります。これが品濃坂。

品濃坂への道標 

 坂を下ると道は右にカーブし、環状2号にぶつかり、その歩道橋を渡ります。
 歩道橋からは高層マンションが見えます。東戸塚のオーロラシティ。

環状2号線の歩道橋 

 「ふーむ、これが旧東海道か」
 まさか。当時は環状2号のような広い道はなかったわけで、これによって東海道が分断されたため、歩道橋が設けられたようです。

歩道橋から見る東戸塚オーロラシティ   

 歩道橋から降りるとまた下り坂。かなり急です。
 上方からくる旅人にとっては、ここが最大の難所だったということがよくわかります。
  

 品濃坂を下りると、平坦な道を進みます。
 やがて用水路(川上川)とぶつかり、川沿いに進むと、国道1号線と交わります。

 川上川沿いの道

 ここが東戸塚駅入口。距離的にはかなり離れているけど、そんなことはどうでもいいのか。

東戸塚駅入口    

 国道1号を横断し、川沿いに進むと赤関橋。

赤関橋 

 それを渡って旧道を進むと、由緒ありげな白壁の土蔵があります。
 古いのか新しいのか、よくわからん。

由緒ありげな白壁の土蔵   

 その先の上柏尾で国道1号に合流。
 このあたりは車の通行量も多く、旧東海道の風情はまったくありません。
  

 「横浜旧東海道・みち散歩」には所どころ寺社仏閣が記されていますが、道沿いにあるわけではないので、飛ばしてひたすら戸塚方面へ。見過ごしたところもあるかも。
  

 そうこうしている間に不動坂交差点に着きました。
 ここは国道1号が右と左に分かれるところ。左は戸塚駅の手前で大踏切を渡りますが、右は吉田茂がつくらせた新道。これは跨線橋を渡るので踏切がない。
 さらに大山道も横切っています。

 不動坂交差点

 旧東海道はいちばん左の道。旧東海道の看板の左の道です。

 (11/30・権太坂の続き)
 富士山が見られて、当方はやや浮かれた気分。
 「富士山が見えたよ!」
 道行く女高生などについ話しかけたくなりますが、彼女たちはもう見慣れていて、富士山など見向きもしない。それに下手に話しかけると、「怪しいジジイ」と思われかねない。
  

 しばらく平坦な道を歩くと、境木(さかいぎ)のT字路に突き当たります。
 近くに「投込塚之跡」があります。
 石碑の説明によると、「ここは交通の難所で行き倒れた旅人を埋葬したところで、権太坂投込塚と呼ばれていた」とのこと。

投込塚の碑   

 行き倒れた人は多かったらしく、いかにこの坂が難所であったかがわかります。
  

 そこから500mほど西に行くと木の道標が立っています。武蔵国境モニュメント。
 ここは武蔵国と、相模国の国境。「だからこのあたりを境木というのか」

境木地蔵の石段 

 この上に境木地蔵があります。

 この地蔵は昔鎌倉腰越の海岸に流れ着いた像を江戸に運ぶ途中、この辺で動かなくなったのでここに祀ったといいます。堂が建立されたのは、万治2年(1659年)。

地蔵堂 

 ちょっと変わった手水鉢。これは江戸の吉原の寄進によるものだそうです。

 手洗い鉢

 その向かいに境木立場(たてば)跡。
 「立場とは、宿場間に馬子や人足の休息のために設けられたもので、なかでもここは西に富士山、東に江戸湾を望む景観が素晴らしく、旅人が必ず足をとめる名所でした」(説明書き)
 といわれても、目の前にマンションが建っていて、眺望など望むべきもない。

境木立場跡   

 またここは茶店があって、牡丹餅が名物であったとも書かれています。

当時の境木立場の風景図 

 このあたりは権太坂の頂上で、あとは下り坂。
 焼餅坂といって、けっこう急な坂です。

焼餅坂 

 坂の名の由来は、この坂の茶店で焼餅を商っていたとのこと。
 牡丹餅といい、焼餅といい、昔の旅人は餅を食ってエネルギーにしていたらしい。

焼餅坂の風景図 

 喜多院の南にある仙波東照宮は普段は閉ざされていますが、日曜日は開いていて、境内に入ることができます。(ただし拝殿には上がれませんが)
 
 高さ五間の丘陵を築きあげた立派な社殿で、徳川家康が祀られています。
 これは家康が亡くなったあと、元和3年(1617)遺骨を久能山から日光に至る道中に川越の喜多院に寄り、天海僧正が4日間法要をあげたことから、その南の地に築き上げられたもので、日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮のひとつです。

仙波東照宮への石段   

 ここは、わらべうた「あんたがたどこさ」発祥の地だそうです。
 私が覚えているのはこんな歌詞でした。
  

 ♪あんたがた どこさ 肥後さ 
 肥後どこさ 熊本さ 
 熊本どこさ せんばさ
 せんば山には たぬきがおってさ
 それを猟師が 鉄砲で撃ってさ
 煮てさ 焼いてさ 食ってさ
 それを木の葉で ちょいと隠す
   

 これは問答歌形式で、戊辰戦争の際、川越に駐屯した官軍の熊本藩兵士と地元の子どもたちのやり取りである、といいます。なるほど。
  

 キーポイントは、「熊本どこさ せんばさ せんば山には たぬきがおってさ」のくだり。
 兵士は熊本の「船場」の地名を答え、川越の子どもはそれに呼応して(せんばならこっちにもあるよ、と)「仙波山には」と引き取った。

拝殿   

 仙波山のたぬきとは、いわれているように仙波東照宮に祀られている家康のことでしょう。
 したがって「それを猟師が 鉄砲で撃ってさ」とは、「あなたたち官軍が徳川をやっつける」という意味。
 それ以降はすべて子どものセリフで、「煮てさ 焼いてさ 食ってさ  それを木の葉で ちょいと隠す」とは、「幕府側を焼き尽くし、江戸にさんざん狼藉を働いて、そうした事実を巧妙に隠蔽する」と推測されます。
 子どものセリフにしてはあまりに風刺が効いて、表現が小じゃれている。
 子どもが官軍相手にこんなキツイ皮肉をいうだろうか。

境内   

 これは、兵士と子どもたちの間にこんなやり取りがあったというより、想像でつくられたに違いない。

 ことば遣いからして作者は関東の人で、官軍の蛮行に対する皮肉を込めて、子どものことばに託したのではないか。

 私はそのように解釈します。

  

 この歌に関しては諸説あり、熊本発祥説はもちろん、同じ川越説でも当方とは違う解釈があることも重々承知しております。

 水上公園から土手を上がって、入間川に架かる初雁橋にやってきました。
 この橋は橋長279.66m、幅員9.0mと、それほど大きくありませんが、川越市街地から日高を結ぶ県道15号線(川越日高線)、そのため車の交通量は多い。

初雁橋   

 橋の親柱には、飛ぶ雁の姿のモニュメントが置かれています。
 雁は川越市の鳥だそうです。

親柱に雁のモニュメント    

 さて、この橋からあるものが見られるのですが、果たして見られるか……。
  
 なんとか見えました。川の上流(南西方向)にうっすらと富士山が。
 以前きたときはもっとはっきり見えたけど、たまには(?)こういう日もあります。

初雁橋から見える富士   

 もっとも水上公園通りで見たときはこんな感じで、

水上公園通りで見た富士山    

 水上公園の土手から見たときはこんな感じでした。

水上公園の土手で見た富士山   

 はっきり見えず、微かに見えるというのが、いかにも当方の運勢を表している?

 今年も公孫樹の黄葉を見たさに川越水上公園にやってきたのですが、時期すでに遅く大半の黄葉は散ってました。

公孫樹は散ったあと 

 しかし修景池湖畔のメタセコイアの紅葉はまだ残ってました。

湖畔のメタセコイア   

 湖面に映るメタセコイアの紅葉もまたよし。

修景池   

 逆光で見る修景池も味わいがあります。

逆光の修景池   

 しかし今回は妙な光景も目にしました。
 湖畔におびただしいカモメの群れ。
 山下公園ではよく見かける(不忍池でも見た)けど、こんな内陸にも飛来してくるのか。
 (もっとも京都の鴨川でも見たけど)

 餌を待つ鳥たち

 よく見るとおじさんが餌付けしている。
 バッグから取り出したパンを千切っては投げ、千切っては投げ。
 その度にカモメはバサバサと餌を争う。

餌を撒くと鳥たちが一斉にざわめく   

 おじさんにとっては面白いのかもしれない。
 あるいは本当にカモメたちが可愛いのかもしれない。
 

 しかし勝手に餌をやっていいいのか。
 これは愛鳥精神に適っていることなのか。
 

 もっとも山下公園だって、なんのお咎めもなく餌付けしているおじさんがいた。
 ということは、いいのかな。

 開港広場にやってきました。
 「おや?」
 噴水の様子が違う。

 噴水が改善  

 以前は水の噴き出し口が窪んだところにあったので、周囲に溜まった枯葉を巻き込みながら水が噴出していました。これがなんとも汚らしく当欄で文句をつけたことがあります。(参照
  

 それが改善されている。
 そういえば、今年4月に見たときはこんな感じでした。

 今年4月の状態  

 あれは工事中だったのか。やはり文句はつけるもの?
  

 山下公園通りに入ったときは、かなり日が暮れていました。 それもまたよし。
 この通りも「日本の道百選」であることを改めて確認。

「日本の道百選」の道標   

 この海岸通りも日本大通りができた明治8年(1875)にほぼできあがりました。
 当時は海に面していました。

 左は山下公園  

 今の山下公園はなかったわけです。
 それはそれで情趣深いと思いますが、大波がくると道路は水浸し?
 ちょっと危険な気もします。
 

 山下公園ができたのは関東大震災(大正12年=1923)以後。
 この震災によって多くの建物が崩壊し、辺りは瓦礫の山になりました。
 その瓦礫を埋め立ててできたのが山下公園です。

 ホテルニューグランド①  

 ホテルニューグランドです。
 前身のグランドホテルは中村川沿いにありました。今の「横浜人形の家」のあるところです。
 しかしここも関東大震災で崩壊。

ホテルニューグランド②   

 その意思を継いで今の位置に建てられたのがホテルニューグランド。開業は昭和2年(1927)。
 大佛次郎が原稿を書き、チャーリー・チャプリンが宿泊し、マッカーサー司令官が逗留していたところです。

日暮れの海岸通り   

 なんだか暗くて黄葉がよく見えなかったって?
 それもまた一興。

 この季節、どうしても訪れたいのが横浜の港町。
 先ずは日本大通り。
 ここの公孫樹並木の黄葉はなかなかの風情があります。

向こうは像の鼻    

 この風情というのは歴史建造物など町のシチュエーションによるもので、埼玉にも公孫樹並木はある(例・川越北環状線)けど、「風情がある」とは誰もいわない。

神奈川県庁  

 この日本大通りは象の鼻から横浜公園を結ぶ、約400mの道路。幅36m。
 神奈川県庁や横浜地方裁判所、日本新聞博物館など、由緒ある建造物もあります。

右は地方検察庁    

 私が訪れたのは午後4時すぎ。
 天気はよかったけど、もう暮れかかるころ。

横浜公園から見た日本大通り   

 通りに出ているテーブル席で珈琲を飲んでひと休み。
  

 この通りは明治8年(1875)横浜公園がつくられたとき、都市計画の意味もあってつくられました。設計は横浜公園と同じイギリス人建築家リチャード・ブラントン。
 当時は歩道3m、植樹帯9mを含む36mの幅員を持ち、日本初の西洋式街路として、横浜のメインストリートになりました。
 この道路が「日本大通り」と名づけられたのはその5年後です。

同じ景色でも数分後は……   

 さて、立ち上がって通りを見ると辺りは薄暗くなっている。
 ほんの20分ぐらいなのに。

薄暮でもなかなかの風情   

 珈琲(可否)飲みてつるべ落しの並木道
  

 意味はどうとでも。

 先月下旬、工場直売店でパンを買ったついでにケヤキ並木に寄りました。
 この道の正式名は「県道さいたま・ふじみ野・所沢線」、通称「いも街道」と呼ばれています。
 通りの両側に約30軒のいも農家があり、直売しているからです。

ケヤキ並木   

 またこの一画に古民家「旧島田家住宅」があります。

 ケヤキ並木(左は旧島田家住宅)

 文化・文政期(1804~1829)に建築されたとされる茅葺寄棟造りで、元寺子屋だった家屋を移築復元したものです。

 旧島田家住宅  

 土間には囲炉裏があり、薪がくべられています。
 ここだけ暖かい。
 「ごゆっくり」といわれたけど、早々に退散しました。

囲炉裏には火が 

 さて、いもの直売場。
 今回この通りに寄ったのは、友人にいもを送るためです。
   

 親戚の者には毎年送っているのですが、いつも利用しているところはこの日は休みだったので、他の農家を当たりました。

「いも街道」の道標 

 門からかなり入った敷地の奥に倉庫らしき建物があるのですが、誰も人はなし。
 何度か声をかけて、やっと農家の若奥さんがでてきました。のんびりしとる。
  

 価格表を見ると、いつものところより安い。
 あそこは喫茶店などもやっていて、商売に如才がないからなあ。

 いもの直売所  

 初めてなので5㎏頼みました。
 「よろしかったら、どうぞ」
 袋に入った大きないもが数本。
 いつものところだと、こんなサービス一切なし。
 来年からはここにしようかなあ。

 今年も近所の小学校で「福祉まつり」が開催されました(11/27)。
 飲食の屋台とバザー(フリーマーケット)、ステージでは太鼓やダンスと、いつも盛況です。

会場は盛況   

 近所の催し物は当方としても興味あるので、毎年行っております。
 とくにバザー。
 ブランドもののバッグや靴なども4000~5000円で売られていて、アッという間に売れる。

売り場   

 当方も引っ越し仕立ての頃は、ここでスープ皿やコーヒーカップなどを買ったことがあります。
 正月に備えて柚子も。
 柚子は年末になると八百屋では大幅に値上がりするけど、ここでは15個100円。
 余ったらジャムにできるし。
  

 しかし今回は行ったのが昼過ぎだったので、もうなかった。
 野菜も売られていたけど、売れ行きは今ひとつ。
 スーパーより安かったら、すぐ売れたと思うけど。

野菜の特売?   

 会場はけっこう賑わっていました。
 焼きそばには長蛇の列。昼食どきだからでしょうか。

焼きそばに人気  

 バザーのコーナーはまだ人だかり。
 目ぼしいものはほとんどなくなっているけど、残ったもののたたき売りで活況を呈している感じ。
  

 天狗のお面の飾りに3000円の値札がついているのをおばさんが、「これ安くならない?」
 「じゃあ、100円で」
 「100円? 高いわよ。10円でどう?」
 「10円? そりゃひどいな」
 「だったらいいわよ。買わないから」
 「じゃあ、いいですよ。10円で」

天狗の飾り物が10円で   

 なんだかなあ。
 売上金は全部寄付に回すのだから、もう少し色をつけてやれよ。
 そういう私はなにも買わなかった。
 買いたい物がなかったから。加齢とともに物欲が低下した?