旧東海道は元町ガードで左(南)に折れ、元町橋を渡ります。
 その先は再び国道1号と合流するのですが、旧東海道はその手前右に入ります。
 入るといきなり急な上り坂。うひゃーッ。

権太坂・入口   

 この坂こそが、かの有名な権太坂。東海道の難所といわれています。たしかにキツイ。
 少し上ったところに権太坂の改修記念碑があります。

改修記念碑   

 「旧東海道の権太坂は国道1号線が開通した後も昔ながらの傾斜の急な坂道でした。昭和30年に拡幅と切り通しにより改修を行い、そのことを伝えるためのものとして、この碑が建てられました」と解説されています。
  

 うーん、聞きしに勝るハードな坂だ。
 途中橋があり、下を国道16号が走っているのが見えるので、そろそろ終わりかと思ったら、まだ上る。

下は国道16号 

  この権太坂の名を知ったのは箱根駅伝。
  往路2区の難所としてよく知られています。

権太坂・また上る   

 権太坂と聞いて、関西出身の私がすぐ浮かんだのは「ごんたくれ」の権太。
 関西では、わがままな強情モノ(聞かん気。気難し屋)を「権太」といいます。
 やんちゃは可愛げがあるけど、権太は可愛げがない。
 母親が子どもにいう「権太ばっかりいうて」は叱責のことばです。
 この場合の権太は浄瑠璃「義経千本桜」の登場人物「いがみの権太」からきているそうです。(Wikipedia)
 したがって私は「旅人を手こずらせる坂」という意味で、この名がつけられたと思っていました。ところが……。

 「権太坂」の道標  

 権太坂の名の由来については権太坂小学校の前の看板に説明されており、それによると、
 ①坂の改修工事を手がけた、藤田権左衛門の名から由来する。
 ②旅人が、きつい坂を上り終えて休憩した際、近くに居た耳の遠い老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思った老人が「権太」と答え、広まったという説もある。
  

 当方としてはいささか拍子抜け。「旅人を手こずらせる坂」のほうがエスプリが効いて面白いのに。
 権太坂は光陵高校辺りから幾分なだらかですが、権太坂小学校を過ぎるとまた上り坂。
 いい加減にしてくれ。

権太坂・最後の上り    

 ちなみに箱根駅伝・往路2区の「権太坂」はここではなく、下の国道1号の坂。
 かなりハードな坂道だけど、ここほどひどくありません。
  

 歩いて気づいたのですが、ここは尾根道。
 交差する道や建物のないところから左右を見ると、眼下に人家が見えて眺望がいい。その最たるものが……。
  

 見えました。右側(西)の駐車場のフェンスの向こうに雪を頂いた富士の山が。
 埼玉とは違って近くに見える。

フェンスの向こうに富士の山   

 これが辛い思い(?)をして上ったご褒美かな。

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 東海道線の踏切を渡ると、旧東海道は国道1号とぶつかります。
 道路を渡ったところにあるのが軽部本陣跡。

軽部本陣跡   

 保土ヶ谷宿の本陣は代々、小田原北条氏の家臣苅部(のちに軽部)家がつとめていました。
 もっとも本陣跡といっても、門の一部があるだけ。薄っぺらくてつまらん。
 

 ここからはしばらく国道1号と共にします。車の通行量は多く、旧道の風情はありません。
 それでも所どころに「歴史の道・旧東海道」「脇本陣(藤屋)跡」「脇本陣(水屋)跡」などの道標があり、「保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設」の説明看板があります。

 旧東海道(国道1号)  

 おッ、これは古めかしい建物。「旅籠屋(本金子屋)跡」です。
 この旅籠屋の建物はまだ残っているそうで、間取り図や室内、庭の写真が展示されています。
 ただし非公開。見たかった。

旅籠・本金子屋跡   

 そこからしばらく歩くと、左手に今井川が流れ、外川(とがわ)神社が見えます。
 そこへ行くには「仙人橋」を渡ります。仙人橋?

仙人橋   

 ここは東北の羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請した神社なので、仙人の名がつけられたらしい。小児の虫封じや航海の安全に御利益があるそうです。

外川神社   

 そこから今井川の川沿いに低い松の木が植えられています。
 いわゆる松の木プロムナード。
 解説板には、「我が国における街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが……」と並木の効用が謳われているのですが、どうも松の木が低くて、印象としてはしょぼい。
 これが由緒ある松並木?

松並木プロムナード   

 しかし調べてみると、昔の並木は今はなく、地元の人たちが松並木を復元させるため、平成19年(2007)神社から瀬戸ヶ谷橋あたりまでの600mほどの区域に若木を植えたのだとか。
 まだ若木だから低いのも道理。失礼しました。
  

 旧東海道は瀬戸ヶ谷橋から向かい側へ渡って小さな道に入り、国道1号と別れます。
 しかしこの道もあまり風情がない。(しょうがないけど)

旧東海道   

 進行方向右側には東海道線が走っているため、ときどき列車の音が聞こえます。
 しばらく歩いた右側にお寺がありました。樹源寺。日蓮宗妙秀山。

樹源寺山門   

 樹源寺は境内にあった大ケヤキに因んで「樹を源とするお寺」と命名されたそうです。
 現在その大ケヤキはありませんが、境内は多くの木々や花々に囲まれ、なかなか風情のある庭園です。

樹源寺境内   

 不思議なことに、この境内にいるときは列車の音はあまり気にならなかった。
 これもお寺の功徳というべきか。

 天王町をあとにして、旧東海道を京に向かって歩きました。
 このあたりは環状1号と合流するので、道幅は広く、車の通行量も多い。
 それだけに旧道の風情はありません。

旧東海道(環状1号)   

 この辺りは寺院が多い。
 香象院、月光寺、天徳院、大蓮寺、遍照寺……など。
 そのうちのひとつ、遍照寺に入りました。

 遍照寺   

 ここは高野山真言宗のお寺で、号は医王山延壽院。
 創建年代は876年開山と伝えられ、寛永10年(1633)賢海僧正によって再興されたそうです。東国八十八ヵ所霊場27番。 
    

 境内には弘法大師の若き日の石像があります。
 「修業大師・生かせいのち」がそれ。

 修行大師・生かせいのち碑(遍照寺) 

 「四国八十八ヶ所ご霊所を巡拝するお遍路さんはこの修業大師を習っていると申せます」
 石碑にはそう書かれています。

保土ヶ谷駅前  

 そこから少し歩くと保土ヶ谷駅。
 この辺りは程ヶ谷宿があったところで、史跡も多い。(といっても看板だけ)

東海道五十三次・程ヶ谷新町入口(初代広重)    

 「問屋場跡」では、問屋場、助郷、高札場の解説。
 問屋場とは、大名行列の際の宿泊の手配や、飛脚、荷物運搬の手配を担っていたところで、宿場でも重要な施設だったとか。

問屋場跡   

 そこからほど近くに「金沢横丁道標」が4基あります。
 ここは金沢・浦賀往還(街道)への出入口にあたり、通称「金沢横丁」と呼ばれていました。
 4基の道標は次の通り。
 ①円海山之道(天明3年=1783・建立)
 ②かなさわ、かまくら道(天和2年=1682・建立)
 ③杉田道(文化11年=1814・建立)
 ④富岡山芋大明神社の道(弘化2年=1845・建立)

 金沢横丁の石碑

 そこから先は東海道線と交差し、その踏切を渡ります。

東海道線の踏切 

 またまた旧東海道シリーズ。
 昨年は12月初旬に横浜~洪福寺松原商店街を歩きましたが、今回はその続きの天王町から。
   

 天王町という地名の由来は、近くの「橘樹(たちばな)神社」によるもので、かつては五頭天王社、天王宮とも呼ばれ、地元の人たちからは「天王さん」として親しまれていたことから、町名になったそう。

橘樹神社鳥居    

 創建は文治2年(1186)、祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)。
 京都祇園社(現在の八坂神社)の分霊を勧請奉祀したとのことです。

 橘樹神社拝殿  

 ご近所(?)のお年寄りや、出勤前のサラリーマンやОLがお参りする姿も見られました。
 やはり地元では親しまれているのかな。

現在の帷子橋   

 橘樹神社は旧東海道に面しているので、そこから帷子(かたびら)橋を渡って天王寺駅の南側に出ます。

 天王寺駅

 そこはちょっとした広場になっていて、「旧帷子橋跡」の説明板が。
 辻行燈が設置され、当時の面影を偲ばせます。
 また「帷子橋」の小さな橋柱の碑が。帷子橋はさっき渡ったけど、これは?

旧帷子橋跡   

 実は帷子川は駅の南側を流れていたのですが、昭和39年(1964)河川の改修工事で、帷子川は駅の北側を流れるようになったため、ここはその跡地というわけです。

 旧帷子橋のモニュメント

 余談ですが、この界隈には旧東海道とは別に「古東海道」もあります。
 これは旧東海道よりも前の道?
 橘樹神社の西にある保土ヶ谷水道局に挟まれた通りがそれ。

古東海道   

 古東海道は古町橋を渡り、さらに相鉄線の踏切を渡って進みます。

現在の古町橋  

 そこからしばらく歩くと「古町橋跡」の看板がありますが、実はここに帷子川が流れていたのです。
 先ほど渡ってきた古町橋は昭和41年(1966)に架けられたものです。

旧古町橋があったところ   

 旧東海道と古東海道、さらに旧帷子川と新帷子川。
 いろんな「新・旧」が混在するところが天王町界隈の魅力です。

2016.11.26 湿地と山道

 (一昨日〈11/24〉の続きです)
 西久保観音を出ると、田んぼと畑のある公園(?)に出ます。西久保湿地です。
 ここは狭山丘陵に水源を発する谷戸のひとつで、水量が豊富なため昔から稲作が行われ、西久保田んぼと呼ばれていたそうです。

西久保湿地   

 「減反政策で長い間荒地となっていたんだけど、自然保護団体と埼玉県の協力によって、公園に整備されたんだ」とは地元のおじさん。
 なるほど、トイレや四阿、ベンチなども設置されています。

四阿  

 田んぼには若い稲の苗が植えられていますが、これは「一度刈り入れして、二度目だよ」(二期作?)とのこと。
 「稲作体験教室じゃないかな」とのことでした。

   *

 我われはそこから山道を歩きました。
 当方と中新井のおじさんは自転車を案内所の前に置いてきたので、もどりたかったのですが、地元のおじさんとしては同じ道をもどりたくなかったらしい。
 黄葉が見事です。

黄葉の山道   

 所どころに「萌芽更新」の表示が。
 「これは木を伐採しても切株から芽を育て、次の木を育てるんだよ」
 なるほど、森林を守るにも地味な努力が払われている。

萌芽更新地   

 山道をぐるっと南に回り、案内所にもどりました。
 当方と中新井のおじさんは自転車を引いて、地元のおじさんに案内されるまま、八幡神社のある八幡湿地(所沢市糀谷)。

 八幡神社   

 ここも減反政策で荒れ放題になっていたところを、地元の人たちによって昔の里山の姿に復元されたそうです。

 八幡湿地 

 「あの、タヌキの像は?」

 タヌキの像  

 材質が気になりましたが、杉の枯葉でした。
 なるほど。

 材質は杉の葉

 中新井のおじさんは「帰る」というので、そこで別れました。
 当方は狭山湖外周道路に出に出たかったので、地元のおじさんiに最初に会った金仙寺の南側まで案内してもらい、そこで別れました。「縁があったら、また会いましょう」
 三人とも初対面で、氏素性も知らないけど、3時間あまり面白い散策でした。

 * 

 私のようなものが散策(徘徊?)といえば、ふつうは横浜、湘南、川越などで、昔の街並みや遺跡、寺院、小じゃれた喫茶店、あるいは港や船、夜景などを見ながら歩くのですが、狭山丘陵の地元のおじさんにとっては、湿地と山道がいつものコース。
 我われはおじさんの案内で、大谷戸湿地、西久保湿地、八幡湿地と3つの湿地を巡ったわけだけど、これがこの地域の「名所」なのかな。

 昨日(11/24)の首都圏は11月の初雪に見舞われました。
 前日から「雪になる可能性は大きい」との予報。
 朝、6時すぎにゴミを捨てに行ったら、外は雨。
 夜中からならともかく、これでは雪にならんだろう、と思ったのですが……。
   

 6時30分ごろから雨は雪に。窓からでもはっきり見えました。
 しかし、この雪は昼前には止む、と思いました。
  

 ところが昼をすぎても、止まない。
 道路は積もらないけど、屋根には雪が積もっている。
  

 2時30分すぎてようやく小降りになったので、外に出てみました。

 裏の畑は銀世界。

裏の畑の雪景色   

 駐車場の車の屋根にも雪。
 これは上空に1月上旬並みの寒気が流れ込んだためだそうです。

駐車場   

 東京都心での11月の積雪は明治8年(1875)の統計開始以来初めてとか。
 茶畑にも出ました。

茶畑①   

 この茶畑は雪が降るといい景色になる。
 積雪は5cmぐらいかな。

茶畑②   

 道路に積もらなかったのは、上空は1月並みといっても、地表はまだ11月。それに地面はしょっちゅう車や人が通るため、なんらかの熱を持っているのではないか。
 雪かきする必要がなかったので、ほっとしました。

茶畑③ 

 今日は晴れるけど、朝方は内陸部を中心に気温が氷点下になる見込みだそうです。
 温かくなってほしいよ。

 展望広場から我われが向かったのは出雲祝神社。
 「出雲というからには、出雲大社(島根県)と関係あるのかな」
 「よくわからんけど、けっこう古い神社だよ」

出雲祝神社・鳥居    

 社伝によると、創建は人皇第12代景行天皇の御代(71~130)というから、古いというより神話の時代?

出雲祝神社・拝殿    

 この神社の裏手に「茶場碑(ちゃじょうひ)」と「茶場後碑(こうひ)」、二基の碑があります。
 これは狭山茶の歩みや茶の効用を説いたもの。

 境内から見る茶畑  

 なるほど、下には茶畑もある。由緒正しき茶畑なのかな。
  

 神社の南側に、背中合わせにあるのが西久保観音。
 「お参りしておこう」ということで、三人は小銭をチャリン。

 西久保観音にお参り  

 このお堂は神亀5年(728)行基が全国行脚の途中で開いたのが始まりとされています。
 「安産祈願で有名だよ」
 「私にはもう関係ないな」
 「いや、わからんよ」
         

 境内には「力石(ちからいし)」が置かれています。
 これは江戸時代に奉納されたもので、祭りのときなど若者たちがこれを持ち上げて力比べをしました。多くは丸みを帯びた長めの自然石。

 力石 

 「それよりも、こっちだよ」
 堀之内のおじさんが指差したのは高い老木。
 「これは古いよ。樹齢1000年というから」
 「えッ、1000年?」

 樹齢1000年のカヤの木 

 説明書きによると、
 このカヤの木は根回り4.5m、高さ約23m、枝張りは直径約23mで南北に伸びている。
 この木には古い伝説が残されていて、行基がお堂を開いた後の宝亀年間(770~781)沙弥延鎮が観音山清水寺と名付けて、庭前に稙えたという、樹齢千年をこえるともいわれ、市内にまれな古木である。 昭和48年10月 入間市教育委員会・入間市文化財審議委員会
  

 「これが本当なら樹齢1200年以上ってことになるなあ」
 「あくまでも伝説だからね」

 カヤの木からパワーをもらう  

 堀之内のおじさんは幹に手を当て、パワーをもらってました。
 なるほど、それが元気の秘訣か。

 (一昨日〈11/21〉の続き)
 比良の丘から我われ三人は山道を歩きました。
 金仙寺で知り合った自転車ライダーのおじさん(所沢市中新井)と、散歩中だった地元のおじさん(所沢市堀之内)と私。案内は地元のおじさん。

山道を歩く   

 「こんな道でも開通するのは大変だったんだから。もう少し先に改築の記念碑があるよ」
 おじさんのいう通り、「狭山新道改築碑」(大正7年11月建立)が道端に建ってました。
 この新道を改築したおかげで、荷車での山越えができるようになったそうです。

水鳥の池  

 「あれは沼ですか」
 「そう、水鳥の池というんだよ」
 「なんか、底無し沼のようでいやだな」

さいたま緑の森博物館・案内所   

 そのとなりが「さいたま緑の森博物館案内所」(平成7年開館)
 わざわざ「案内所」とつけているのは、森全体が「さいたま緑の森博物館」なのだそうです。

テラス   

 この日は「緑の森フェスタ2016」の期間中で、展示室では狭山丘陵を撮った写真が展示されていました。
   

 その後我われは自転車を置いて、地元のおじさんの案内で展望広場へ。
 「比良の丘より見晴らしはいいじゃないか」
 「しかし、あのマンションが邪魔だねえ」
 こちらは入間市になるとのこと。

 広場からの眺望   

 「それにしてもこの木は立派だねえ」
 「木登りするには格好の木だ」

 展望広場  

 ♪この木 なんの木 気になる木~
 プレートには「ヒント・秋に熟す実は橙色で多くの鳥が食べるぞ」
 答えを見ると「エノキ。オオムラサキの他に、ゴマダラチョウやテングチョウなどの幼虫がこの木の葉を食べます」

木登りには格好の木   

 なるほど。森全体が博物館であることがよくわかります。

 一昨日(11/20)川越を訪れたら、旧織物市場で催し物をやってました。
 「アートクラフト手づくり市」

 会場  

 これは市内まちづくりグループの主催で、手づくりの工芸品や食べ物を味わってもらおうというもの。

テーブル席   

 なるほど、会場内には多くの店が出ています。
 圧倒的に食べ物の店が多い。

喫茶店   

 ここは明治43年(1910)、商業の中心地であった川越につくられた織物市場で、当時は大変な活況を呈していたそうです。
 しかし対面形式の商売は時代遅れとなり、また恐慌の影響を受けるなど浮き沈みを繰り返し、大正8年(1920)に閉鎖されました。(参照

 バッグ  

 工芸品では、バッグや靴、ローソクなども売られてました。

ろうそく    

 以前きたとき、気になった台があったのですが、休憩用に使われていました。

手づくりのベンチ   

 今年で5回目だそうです。けっこう賑わってました。

 金仙寺(こんせんじ)にやってきました。
 所沢市の西部(狭山丘陵の北麓)は不案内ですが、ここは昨年春、二度きたことがあります。しだれ桜で有名なお寺です。(参照

金仙寺・境内   

 しだれ桜の他にも花の寺として近隣からは愛されているようで、このときもこんな花文字がありました。「一日一生」と読みます。

金仙寺・花文字   

 そこから向かったのは「比良の丘」
 市の「ウォーキングナビ」によると、
 「狭山丘陵の西端に位置し、所沢で最も標高の高い丘。頂からは所沢の町を一望できる」
 とありますが……。

 比良の丘  

 「なんだ、町を一望できるといっても、ここだけじゃないか」
 金仙寺から一緒についてきたおじさん(当方より若い)はガックリ。 
  周囲は高い樹木に遮られていて、山頂から見えるのは北側の市街地だけ。
 西はただの森林。

 丘から見る北面

 南は茶畑(向こうは狭山丘陵)

 丘から見る南方

 東は金仙寺方向(トトロの森13号地?)

丘から見る東方   

 「だからといって、森林を伐採するわけにはいかんしなあ」
 これは我われを案内してくれた地元のおじさん(当方よりは上)

 頂上にはベンチが 

 たしかに比良の丘は標高170mで、所沢では最も標高が高いけど、「町が一望できる」は真っ赤なうそ。誰だ、「上ってみたい丘ベスト7」に入れたヤツは。

 所沢ではまだ不案内の狭山丘陵の北麓にやってきました。
 先ずは三ケ島にある中氷川神社。鳥居の形は神明社(伊勢系)です。

中氷川神社・鳥居   

 当社の由緒は、崇神天皇御代、大宮氷川神社より勧進され、日本武尊が東征の折に立ち寄って大己貴命と少彦名命の両神を祀った、と伝えられる。
 室町時代までは「中宮」、江戸時代は境内が細長いことから「長宮明神社」と呼ばれた。天正19年(1591年)徳川家康より朱印地を賜る。明治初年、中氷川神社へ改称した。(Wikipedia)

中氷川神社・参道    

 では「中氷川神社」とはなにか。
 これは大宮の氷川神社(本宮)と東京都西多摩の氷川神社(奥宮)の中間に位置するので、中氷川というのだそうです。

中氷川神社・拝殿    

 入ってみると、この神社は鳥居からの参道が長く、拝殿、本殿、さらにその奥に森林があって、境内が細長い。なるほど、「長宮明神社」か。

中氷川神社・境内    

 この神社には拝殿の奥にいろんな境内社があり、山王社(大山咋命)、八坂社(須佐之男命)、稲荷神社に並んで、神明社(天照大御神)がありました。

  神明社  

 その奥に戦後間もなく暴風雨によって倒れて枯死した御神木のケヤキが保存されています。
 樹齢1000年だそうです。

欅の御神木   

 またここには、当社神官の子女で歌人の三ヶ島葭子(みかじまよしこ)の歌碑があります。
   

 はるのあめ けぶるけやきの こずえより をりをりつゆの かがやきておつ

三ケ島葭子の歌碑   

 歌碑は平仮名ですが、漢字を入れると、

 「春の雨 けぶる欅の梢より をりをり露の かがやきて落つ」
  

 うーん、いい歌だ。(アララギ派の歌人だそうです)
  

 ところで所沢市にはここより3kmほど東、山口にもうひとつの中氷川神社があります。
 「中氷川」と名乗るからには、当社同様「本宮と奥宮の中間」説をとっていると思われます。
 機会があれば行ってみましょう。

 富士見橋から土橋までは江戸ゾーン。
 先ずはなまこ壁。やはり江戸の風景かな。

江戸ゾーンのなまこ壁  

 このゾーンには「だまし絵」はありませんが、「木製地蔵といぼとり地蔵」や「福岡新田の水塚」など、この地方にまつわる江戸時代の逸話が書かれた看板がかかっています。(絵入り)

所どころに藤棚が  

 これを読むと、江戸時代は治水がままならず、大雨が降るとあたり一面海のようになり、家が流され、農作物が全滅するなどおびただしい被害があったことがわかります。
  

 土橋から水天宮橋までは中世ゾーン。
 土橋付近には辻行燈や石垣があったりして、それなりに中世を表している?

辻行燈と石垣   

 所どころ藤棚があり、植え込みもきちんと手入れされています。
 この辺りは両側の道より高く、段葛(だんかずら)になっています。ここだけ鎌倉並み?

 段葛の道  

 ここにも「慶珍地蔵尊」や「尼さんと比丘尼川」という中世の逸話が掲示されています。
  

 しかし中世も遡るにしたがって次第に殺風景になっていくような気が……。

 中世ゾーン  

 暗渠は水天宮橋で終わり、その先は江川が流れて行く古代ゾーン。
 うーん、川だけではなあ。

水天宮橋からは川が   

 突き当りはドーナツ工場。
 いい匂いがします。直売店もあり、種々のドーナツが買えるそうです。
 古代ドーナツ?

 突き当りはドーナツ工場   

 その先は254バイパスで、それを渡ると運動公園。そして新河岸川に注ぎます。
 今回は上流→下流(現代→古代)を辿ったけど、逆のほうがよかったのかな。

 ふじみ野市亀久保から運動公園までふじみ野市の東西に流れ、新河岸川に注ぐ福岡江川。
 そのなかで暗渠化された遊歩道を「福岡江川緑道・歴史の散歩道」といいます。全長3.6m。
 下流に行くにしたがって、現代、昭和、大正、明治、江戸、中世、古代、と時代が遡るようになっています。
 

 先ずは川越街道から始まる現代ゾーン。
 ここは住宅地に挟まれた狭い遊歩道で、「バイク・二輪車は進入禁止」
 (一輪車ならいいのかッ)

現代ゾーン   

 仕方なく所どころ脇道から入りました。とくにどうってことはない、ただの遊歩道です。
 しかし途中から道が広くなり、昭和ゾーンからは道路の中央に散歩道が続きます。

案内図   

 昭和の突き当りは丸山橋ですが、その上を東武東上線が走っています。

昭和ゾーン(上は東武東上線)   

 東上線の下をくぐると、大正ゾーン。(啓示によっては昭和・大正)

昭和・大正ゾーン  

 藤棚もあって、植え込みも手入れが行き届いています。
  

 明治ゾーンには面白い絵が掲示されていました。
 あいまい図形。右は一見乙女の斜めうしろ姿と思いきや、別の見方をすると鷲鼻のアゴのしゃくれたお婆さん。

あいまい図形  

 だまし絵。これはよく見ます。

だまし絵 

 フレーザーのうずまき。これは外側の円を指でなぞってみると、同心円だとわかります。
 しかし円に入り混じる白と黒の線と、中心から放射状に出ている模様によって、どうしてもうずまきに見えてしまいます。

フレーザーのうずまき  

 この明治ゾーンは富士見橋まで。
 白壁が明治を象徴しているのでしょうか。

富士見橋で明治ゾーンが終わる 

 護国寺といえば、東京都文京区の護国寺が浮かびますが、富士見市にもあります。
 ただしこちらは天台宗で、名称は龍王山薬王院護国寺。総本山は比叡山延暦寺。
 (東京の護国寺は真言宗豊山派)

 護国寺・入口

 寺の縁起を見ると、創立は平安時代の初期、延暦25年(806)
 あとは法華経の教義が連綿と説明されているだけで、詳しいことはよくわからん。

境内と本堂   

 山門を入ったところに板碑あり。
 これは鎌倉時代中期から戦国時代にかけて造られた供養塔で、高さは約3m。
 市内最古のものだそうです。

板碑   

 またここには、やすらぎ観音と福徳弁財天があります。
 「人々の心の安らぎと幸せを祈って……」と書かれています。

 やすらぎ観音

 弁財天はなかなかの美人です。

 福徳弁財天   

 ここは石仏やお地蔵さんが多く、昔から土着の信仰があったことがうかがえます。

 六地蔵  

 ペットの供養碑もありました。

ペットの供養碑   

 いろんなものがコンパクトに詰め込まれている。さすが地方の寺院。
 これはこれでお国(おらが村)を護っている?

 雑司が谷の鬼子母神へ行くには、都電・鬼子母神前駅から石畳の参道(鬼子母神通り)を歩きたい。このケヤキ並木は古いもので樹齢400年。(東京都指定の天然記念物)

都電荒川線   

 それよりも、この通り、どこかで見覚えありませんか。
 私がすぐ浮かんだのは映画「復讐するは我にあり」(1979)。
 殺人鬼の榎津巌(緒形拳)が裁判所で知り合った老弁護士(加藤嘉)をだまして自宅に入り込み、弁護士を殺して洋服ダンスに押し込め、平気でスキヤキを食う。それも美味そうに。
 その現場がこの辺りにあったような……。

 鬼子母神通り  

 この通りにとってはとんだ迷惑。ロケに使われただけなのに。
 (それだけ昭和ロマンが残っている通りということで)
        
 鬼子母神の境内に入ると、仁王様が迎えてくれます。
 これは盛南山という寺の観音堂にあったものが寄進されたものだそうです。

仁王様   

 境内の大公孫樹(おおいちょう)は立派。
 説明書きにはこうあります。
 「樹齢…600年以上、幹周…8m、樹高…30余m 雄樹にして成長力を持続」
 「成長力を持続」ということは、未だ枯れずに成長し続けているということか。うらやましい。

大公孫樹 

 鬼子母神堂は、安産・子育(こやす)の神様である鬼子母神をお祀りするお堂として、多くの人々に親しまれています。
  この日は七五三ということもあって、正装したお子様の姿が見られました。

鬼子母神堂   

 境内に「上川口屋」という駄菓子屋さんがあります。
 猫がお店番?
 まさか、お婆さんがやっておられます。
 看板には創業一七八一年(1781)とあるから、江戸時代。日本一古い駄菓子屋さん。

 駄菓子屋  

 最古なる寺の駄菓子屋青嵐
  

 これは以前参加した7月の句会で出た句です。(私の句ではありませんよ)
 「上川口屋」さんのことですが、これでは「最古なる」が寺のことだと思ってしまう。
 それに下五が「青嵐」では季語が動く。「銀杏散る」でも成立するのだから。
 採ったのは大甘の老先生と助手の先生。そんなものでしょうな。

 芝・増上寺にも寄りました。
 ここは徳川家ゆかりのお寺。浄土宗の大本山で、山号は三縁山。広度院増上寺。
 ご本尊は阿弥陀如来。
  

 先ず芝大門をくぐります。
 同じ大門でも吉原は「おおもん」。
 お寺の場合は「だいもん」、遊郭は「おおもん」と読むのが習わしです。

 芝大門  

 突き当りは日比谷通りに面した大きな三門。都内有数の古い建造物であり、東日本最大級。
 正式名は三解脱門。
 三解脱とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱すること。当方にはなかなか難しいぞ。

三解脱門   

 本堂。大殿(だいでん)といいます。
 ご本尊は阿弥陀如来(室町期製作)で、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られているそうです。昭和49年(1974)再建。

大殿   

 この増上寺、もとは武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)にありましたが、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598)、家康によって現在地に移されたそうです。
 

 貞恭庵(ていきょうあん)
 これは皇女和宮(14代将軍・家茂の正室)ゆかりの茶室です。「貞恭」とは和宮の法号。
 四畳半二間の茶室からなる建物で、昭和55年(1980)に移築・改修されたもの。

 貞恭庵  

 大納骨堂(舎利殿)
 昭和8年(1933)に建立され、ご本尊は高村光雲作をもとにした地蔵尊像。
 戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和55年(1980)に現在地に遷座されたそうです。

大納骨堂   

 当方としては、先日、狭山不動尊で見た秀忠(台徳院)の霊廟の山門などの扱いが気になりましたが、増上寺のHPには記述なし。(触れたくない?)
 Wikipediaで調べると、「台徳院霊廟の勅額門、丁字門、御成門は埼玉県所沢市の狭山山不動寺(西武ドーム前)に移築されている」とあります。(参照
 やっぱりなあ。

菩薩と地蔵 

 代々木八幡宮は代々木公園の裏手の小高い丘の上にあります。
 八幡神として応神天皇を主座に祀り、天祖社・天照大神、白山社・白山大神を配祀するとのこと。

 代々木八幡・鳥居  

 社伝にはこうあります。(意訳)
 「元久元年(1204)源頼家が修禅寺で暗殺され、家来だった荒井外記智明は武蔵野国代々木野に隠遁し、主君の冥福を祈る日々を送っていたが、建暦2年(1212)鎌倉の八幡大神から宝珠のような鏡を授かり、託宣を受ける夢を見、元八幡の地に祠を建て鶴岡八幡宮より勧請を受けたのが始まりである」

代々木八幡・境内 

 ふーむ、鎌倉の鶴岡八幡宮とつながりがあるのか。

 代々木八幡・拝殿  

 そのむかし代々木の月のほととぎす
  

 どうじゃ、名句であろう。
 といっても私がいっているのではない。
 これは境内にある臼田亜浪(うすだ・あろう)の句碑。
 亜浪は一時期、代々木山谷(現在の代々木3丁目)に住んでいたことから、彼の主宰する「石楠花(しゃくなげ)」の同人有志が 会の創立20周年を記念して、昭和9年に建立したもの。 

臼田亜浪の碑   

 句の解釈ですか?
 そのまんまということで……。
  

 またここには「訣別の碑」という燈篭があります。
 代々木深町(今の代々木公園)に陸軍練兵場ができるため、移住を余儀なくされた住民が別れを惜しんで訣別の言葉を刻み奉納した燈篭です。明治42年1月建設。 

 訣別の碑  

 さらにここには縄文時代の復元住居があります。
 これは昭和25年の発掘調査で、多くの土器や石器とともに縄文時代の住居跡とその中に掘られた柱穴が発見されたものを復元したものです。
 今から約5000年前、神社のある丘陵地(標高32m)に多くの人が集まり、集落をつくって暮らしていたことが想像されるとのこと。 (渋谷区の史跡)

 縄文時代の復元住居  

 うーん、いろんなものがあってよくわからんけど、この小高い丘に縄文時代の集落があったことはわかった。

2016.11.13 表参道の紅葉

 昨日(11/12)は都内に用事があり、そのついでに少し表参道を歩きました。
 表参道とは原宿駅南の神宮橋の交差点から神宮前交差点(明治通り)→表参道交差点(青山通り=246号)に至るまでの区間です。全長約1.1km。

 神宮橋    

 この通りは大正8年(1919)明治神宮の参道としてつくられた道路で、現在は幅員36m、中央分離帯が備わり、片側2車線線で、歩道にはケヤキが植えられています。

表参道①   

 地域的には原宿・青山の中心地帯なので、銀座と並んで高級ブランドの店が並んでいるのですが、当方としてはなぜか落ち着く。
 それは多分ケヤキ並木になっているからでしょう。
 そのケヤキが紅葉になって、歩くだけで気持ちがいい。

表参道②   

 同潤会アパートが表参道ヒルズに建て替えられましたが、一部アパートを残したのはよかった。(設計者・安藤忠雄氏の功績?)

表参道ヒルズ   

 ところでこの表参道に善光寺があるのをご存じ?
 むろん長野を本山とする善光寺ですが、表参道駅の近く(北側)にあります。

善光寺山門   

 元々は江戸時代(1601)徳川家によって谷中に信州善光寺の別院として設けられたのですが、火事で焼失したため、現在の青山に移されました。

善光寺本堂   

 ここへお参りすれば長野に行かなくても善光寺の御利益が得られる。
 牛に引かれて善光寺参りならぬ、ギャルに引かれて善光寺参り?
 なんだ、そりゃ。

2016.11.12 野いちご

 「野いちご」(1957/スウェーデン)を最初に観たのは高2のときでした。
 高校は違いましたが、小学校から仲のよかったS君と観に行きました。白黒で、老人が主人公の地味な映画でした。

 老教授イサク(ヴィクトル・シェストレム)はある夜、不思議な夢を見ます。
  

 人気のない町を歩いていると目の前に針のない時計。振り返ると、通りにスーツを着た男が立っている。男の顔は歪んでおり、やがて溶けてしまう。馬車が猛スピードで走ってきたが、電柱に車輪が引っかかって横転する。馬車から転がり出たのは棺桶。その棺桶から手が伸びて、彼を捕えようとした……。

野いちご・冒頭シーン    

 彼は医学の研究で名誉学位を受けることになり、住まいのストックホルムから式場のルンドまで息子の嫁マリアンヌ(イングリッド・チューリン)と車で向かおうとします。
 

 半日ほどの小旅行でイサクの脳裏にいろんな人物がよぎります。
 青年時代、弟にとられた婚約者サラ、不貞を働いた妻、なさぬ仲の実の息子……なんと自分は彼らに冷淡だったことか。苦々しい思いばかりです。

野いちご①   

 そんな折、ヒッチハイクで乗り込んできたのは、女子学生サラとふたりの男子大学生。
 サラは天真爛漫な性格で、イサクの婚約者だったサラそっくり(二役)。男子大学生たちも気のいい青年で、ときには話が盛り上がり、イサクは若い世代から元気をもらいます。
  

 イサクは車に揺られながら、また夢を見ます。
  

 鳥の羽音がして目を開けると、昔の婚約者サラがいて手鏡を向ける。「鏡を見て!」
 映るのは今の老いぼれた自分の顔。「あなたにあるのは知識だけ」
 そういって彼女は去っていく。
 次にイサクは試験官から、森で妻と男が密会している現場を観察させられる。見たくない。不愉快な光景だ。
 しかし試験官はこういう。「全ての哀しみを手術で取り除きました」

  野いちご②

 夢か……。
 無事に授与式を終えた彼はその夜、息子(医師)と話し合いました。
 それまで息子とはあまり仲が良くなかったのですが、イサクのほうが腹を割って話しかけると、息子も素直になり、父子のわだかまりが氷解していきました。

   

 寝室の外では昼間に出会ったヒッチハイカーたちが彼の栄誉を心から祝福してくれました。イサクは満ち足りた気持ちで眠りにつきます。

 この映画はひとことでいうと、ある老人の過去との和解の旅です。
 監督イングマール・ベルイマンが入院中に書き上げたもので、当時女性問題や両親との確執など私生活のトラブルがあって、それが作品に反映されているそうです。
  

 最初に見たときは「うーん……」
 ふたりとも無言で帰途につきました。あまりにも感動が大きかったからです。
  

  その後、NHKの「名画劇場」でも観ましたが、やはりよかった。
  今観ても感動すると思いますが、身につまされて侘しくなるかもしれません。
  

 それにしても、高校生のときにこういう映画で感動したとは。
 自分の感性が当時から豊かだったのか、それとも名画というのは年齢に関係なく感動を与えるものなのか。
 おそらく後者でしょうね。

 アメリカ合衆国の第45代大統領にドナルド・トランプ氏が選ばれたことで、日本の政界は上を下への大騒ぎ。
 トランプ氏は、「日本は只同然に在日米軍に守られている。応分の費用を負担しなければ、駐留軍を引き揚げる」といっているので、気が気ではない。
   

 これまで自民党主流派はアメリカの庇護のもとに政策を進め、我が国を支配してきた。
 では、なぜ、どのような経緯で、そのようなことになったのか、その解明にヒントを得られるのが松本清張「日本の黒い霧」です。
    
 これはノン・フィクション小説で、
 1) 下山国鉄総裁謀殺論
 2) 「もく星」号遭難事件
 3) 二大疑獄事件
 4) 白鳥事件
 5) ラストヴォロフ事件
 6) 革命を売る男・伊藤律
 7) 征服者とダイヤモンド
 8) 帝銀事件
 9) 鹿地亘事件
 10) 推理・松川事件
 11) 追放とレッドパージ
 12) 謀略朝鮮戦争
 に分かれている。
     
 いずれも不可解な事件であるが、これにはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がしたたかに関わっていた。これらはアメリカが日本を支配する戦略の一環である、と著者は分析する。

松本清張「日本の黒い霧」   

 例えば、(11)「追放とレッドパージ」
 1950年、旭硝子、川崎製鉄などで労働者が大量に追放解雇・免職にされ。いわゆる「レッドパージ」である。これによって1万を超える人々が失職した。
 職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる。
  

 当時アメリカ本国では苛烈な「赤狩り」旋風が吹き荒れていた。
 日本では日本共産党が台頭していた。マッカーサー(GHQ)はそれを恐れ、本国にならって過酷なレッドパージを敢行した。しかし……。
  

 1945年8月15日、日本は敗戦し、国土はアメリカをはじめとする連合国軍に占領された。
 当初アメリカは日本を理想的な民主主義国家にしようとして、戦前・戦中国家の中枢にいた人たち(日本を戦争に導いた指導者)を追放したが、いつの間にかその旧勢力を国家の中枢に返り咲かせた。
 これは一体どういうことか。
  

 当時GHQの内部では、日本の民主化を徹底させようとするGS(民生局)と、戦後世界の共産化を防ごうとするG2(参謀第二作戦部)がせめぎ合っていたが、次第にG2が勢力を占めていった。
  

 「日本という国は、民主主義を徹底させるのではなく、旧勢力を上手く利用したほうが都合よく支配できる」
 これがアメリカの国家戦略である、という。
  

 ドイツに対しては、ナチスを含む旧勢力を完膚なきまでに根絶させたのに。
 わが国で戦前・戦中の勢力の末裔が延々とはびこり、太平洋戦争を正当化する(?)どころか、権力の中枢を占めている。
    

 学生時代の私は、これが不思議でならなかったけど、同書を読んでその「からくり」がわかりました。
  

 旧勢力の流れを組む現首相と、これまでの関係を見直すことをチラつかせている(脅し?)ドナルド・トランプ氏。
 日本側はどんな手管を使って新大統領にすり寄り、隷属国(ジュニア・パートナー)としての関係を維持していくのか。
 注意深く見守っていきたいと思います。

 昨日(11/09)は図らずも行政のごみ処理とリサイクルの仕組みを説明してしまいましたが、今回は別の側面を。
  

 2階にある屋上庭園。
 ここはウッドデッキになっていて、花壇には四季を通して10種類以上の草花が植えられているそうです。所どころにベンチがあるので、お年寄りが日向ぼっこするのにうってつけ?

屋上庭園    

 3階の展望室。

 展望室

 展望室といっても3階なので、それほどの眺望は望めないのですが、周囲には高いビルがないので、ふじみ野市の市街が見渡せます。

 展望室から見るふじみ野市

 左は県道272号の陸橋。その下を通るのが254バイパス。
  

 それよりもここのメリットは富士山とスカイツリーが見えること。
 南西方向には、ふじみ野市のツインタワー(2棟の高層マンション)を跨るように富士山がそびえ立っています。雪をかぶっているので、ちょっと見にくいけど、意外に大きく見えます。

 ツインタワーにまたがる富士山  

 南東方向にはスカイツリー。
 距離的にはスカイツリーのほうが近いはずだけど、あまりに細いので貧弱に見えます。

 スカイツリー  

 なお富士山とスカイツリーを見るのにはビューポイントがあって、この足型からそれぞれ53度の方向に見えるとのこと。なぜ53度なのか。それは(ゴミ)だからだそうです。ガクッ。

ビューポイントの足型 ビューポイントから見る角度   

 柄にもなく行政の広報をしたばっかりに、ダジャレの共犯者(?)になっていたとは。

 昨日(11/08)は「エコパ」のついでに、環境学習館「えこらぼ」を見学してきました。
 これはふじみ野市と三芳町でつくったごみ焼却施設のなかにできた施設で、ごみの処分、リサイクルの仕組みなどを見せて、環境に対する啓蒙活動を行おうとするもの。

環境センター    

 思えば一昨年よりエコパの背後で大規模な建設工事が行われていたので、我われは湯船に浸かりながら、「なにが建つんだろうね」「焼却炉を増やすんだよ」などと勝手なことを話し合っていたものですが、こんなものができるとは。

 えこらぼ・入口  

 環境学習施設と聞いて、すぐ浮かんだのは昨年寄った横須賀の「アイクル」(日本最大)
 あれに比べると規模は小さいかな。
  

 しかし、なかに入ってみてビックリ。
 とくに3階は各所に窓があって施設の内部が見られる。

プラットホーム   

 市内各所から収集車で運ばれたごみはまずプラットホームに入り、そこからごみピット(室)に投入されます。ピットの大きさは、縦26m、横16m、高さ17m。

 ごみピット  

 見ていると、壁の窓からたくさんのごみが入ってくる。
 これをクレーンの先のバケットがわしづかみにして、焼却炉へ運ぶ。

クレーンバケットがごみをつかむ   

 このピット内の様子は窓ガラスから見ることができますが、焼却炉の様子は中央管制室のモニターで見ることができます。

クレーンでごみが運ばれる ごみは焼却炉へ   

 この管制室(一般人は立ち入り禁止)は24時間体制で、工場内の機械をコントロール、監視しています。

 中央制御室①  

 しかしクレーンがごみをつかんで焼却炉に入れたのは一回だけで、あとはごみを持ち上げては空中でばらばらと撒き散らしているだけ。クレーンの作業訓練? それとも単なるごみの移動?

中央制御室②   

 これについて「あれはどういう意味があるのですか」と職員の方に聞くと、
 「ごみの山が偏らないように均しているのと、ごみをつかむバケットの先の爪で(ごみの)袋を破っているのです。ばらばらにほぐしたほうが燃えやすいので」
 なるほど、そういう意図があったのか。

こみを空中に撒く  

 ごみを焼却した熱は「エコパ」の湯を沸かす(ありがたや!)だけではなく、蒸気タービンで発電し、施設内の電力を賄い、さらに余ると東電に売るとのこと。

 蒸気タービン発電機

 残った灰はセメントに利用されるという。よくできている。

 焼却灰を利用したセメント  

 それらの工程が一目瞭然にわかる。面白い。これは横須賀の「アイクル」以上だ。
 図らずも、ふじみ野市の広報記事になってしまいました。

 富の神明社から2.5kmほど西に行った、富岡中央通りと県道川越・所沢線の交差点。
 その近くに「牧水の歌碑」(若山牧水)の看板が。

牧水の歌碑の看板 

 牧水の歌碑は神社の脇の竹藪の奥にあります。
       

 のむ湯にも焚火の煙匂ひたる 山家の冬のゆふげなりけり
   

 ※ゆふげ(夕餉)夕食のこと。

神社

 なぜこんなところに牧水の歌碑があるのかというと、ここは牧水の祖父・健海の出身地。
 若山健海は、文化8年(1811)所沢市神米金の農家に生まれ、長崎で西洋医学を学び、宮崎で医院を開業。 その後、オランダ人モーニッケより種痘の方法を学び、宮崎で実施。日本における種痘の先覚者としてその名を残しています。

ここから入る    

 若山牧水(1885~1928)は宮崎県で生まれ、早稲田大学に入学してから短歌の才能を発揮し、多くの歌を発表しました。ここ所沢の祖父の生家にも数回訪れています。(所沢市図書館HP)
 そうした縁もあって、昭和53年(1778)ここに牧水の歌碑が建てられました。

竹藪   

 ところでこの竹藪の屋敷の持ち主は?
 表へ回って表札を見ると、若山さん。えッ?
 それもそのはず、ここは若山健海の子孫が営む農家で、地名も所沢市神米金(かめがね)。なるほど。

表札   

 牧水といえば旅を愛し、各所で歌を詠んでいるので、日本各地に歌碑があります。
 埼玉県でいえば、秩父市・羊山公園には、
  

 秩父町出はづれ来れば機をりの うたごゑつゞく古りし家竝に
  

 という歌碑があり、秩父の春を詠っています。

 牧水の歌碑  

 それに比べると、「のむ湯にも……」は所沢市神米金で詠まれたものかは定かではない。
 むろん縁の地だから、いいんですけど。

 昨日(11/06)はテレ朝「路線バスで寄り道の旅」を観ました。
 この番組は徳さん御一行(徳光和夫、田中律子、ゲスト)が首都圏を路線バスで「徘徊」するというもの。
 今回は「都立大(東横線)」に寄るというので興味を持ちました。都立大は青春時代に過ごしたところなので。

タイトル   

 この地については、2年前「柿の木坂」の項にUPしましたが、実際に訪れたのは4年前。
 それまでも何度か訪れていましたが、いつも思うのは「変わったなあ」

駅前  

 徳さん御一行は駅前の商店街をうろうろ。
 「ほう、ここは面白い商店街だねえ」
 なんていってるけど、当方の学生時代はそんな面白くなかったぞ。

大学があった当時の商店街    

 とくに高架下の商店街など、当時はそんなに賑わっていなかった。
 駅のすぐ近くにドブ川(呑川)があり、これが商店の発達を邪魔していた。
 それが証拠に暗渠になってからは、川沿いに小じゃれた店が建ち並ぶようになり、活況を呈するようになりました。養鶏所の直売店のバームクーヘン屋なんてなかった。

歌う徳さん    

 さらに高架下の飲食街のスナックで、徳さんが唄ったのは春日八郎「赤いランプの終列車」
 いかにも古い。
 我われの30代はカラオケの大ブームで、某デザイナーが思い入れたっぷりに「別れの一本杉」を唄ったときはぞっとしたよ。
 徳さんの場合はあれほどひどくなかったけど。

都立大学のキャンパス   

 都立大学の駅名は、1949~1991年までこの先(柿の木坂)に都立大学があったからですが、今はもうありません。それでも駅名を変えないのは、地元の人たちがこの駅名に愛着を持っているからだそうです。
   

 余談ですが、お隣りの学芸大学駅にも大学はなく、とっくの昔に小金井に移転しています。
 以前、学芸大出身のブロガーさん(女性)から、「学芸大出身というと、『ああ、東横線の……』といわれるのがイヤ、駅名を変えてほしい」との意見を寄せられたことがありますが、私は変えてほしくない。
 彼女の場合は小金井のキャンパスに通っていたので、東横線とは無縁だったからでしょうけど。

  *  

 徳さん御一行は他にも、桜新町、武蔵小山商店街、川崎コリアタウンにも寄っています。
 いずれも予約なしのぶっつけ本番。

定食屋にて   

 いきなりお店に入って「TVのカメラが入っていいですか」と徳さんや田中律子さんたちが交渉している。(川崎では一軒の店に拒否されている)

川崎コリアタウン   

 飲食した分についてはちゃんと支払う。店側が「いい」といっても、徳さんは「それは困ります」と押し問答の末支払っている。この姿勢には好感が持てます。

武蔵小山商店街    

 昔、週刊誌の取材で加賀温泉に行ったとき、一緒に行ったテレ東のプロデューサーの計らいですべてタイアップ。おかげで宿泊は只、往復の飛行機代までもらったけど、これだと完全な提灯番組(記事)になります。
 今だからいえることですが。

 木ノ宮地蔵からさらに行くと多門院がありますが、それに隣接して「富の神明社」があります。
 富(とめ)の、とつけるのは、所沢市には航空公園駅裏に「所澤神明社」があるからです。

 富の神明社・鳥居  

 もともとは元禄9年(1696)川越城主柳沢出羽守が上富村、中富村、下富村の三ヶ村を開いた折、鎮守のお宮として毘沙門社と多聞院を創立、のちに(伊勢系の)神明社を勧請しました。
 しかし明治2年の神仏分離令によって(境界線のないまま)多門院と(富の)神明社とに分かれるようになりました。
 御祭神は御祭神天照大御神(あまてらすおおみかみ)。

富の神明社・拝殿   

 境内社には菅原道真公を祀った天満宮もあります。学問の神様です。

道真公も祀られている   

 しかし、なんといっても有名なのはもうひとつの境内社、甘藷社(いも神社)
 ここには甘藷之神(いも神様)が祀られています。

 いも神社  

 由緒によると、この三富地区はやせた土地で夏の干ばつによる農作物育ちにくい土地でしたが、寛延4年(1751)名主・吉田弥右衛門はそんな土地でも丈夫に育つサツマイモの試作を始め、周辺の村にも広まりました。その後江戸に焼き芋ブームにが起こるとサツマイモの需要が増え、農家が潤うようになりました。
 その吉田弥右衛門の功績を称え、平成18年11月23日、甘藷先生と合わせて「甘藷乃神(いものかみ)」として祀られるようになったそうです。

甘藷之神    

 祠の前にイモの銅像が置かれています。
 「撫でいも」といって、撫でると健康・家内安全・子孫繁栄・開運などのご利益があるそうです。
  

 この神社は何回もきてるけど、いも神社を知ったのは初めて。
 ありがたや、ありがたや。

 三芳町から所沢へ抜ける道は4本ほどありますが、いちばん北側の道、三芳野病院から関越自動車道三芳PAを渡って所沢リハビリテーション病院へ向かう道路(多門院通り)の最初の300mを「地蔵街道」といいます。

地蔵街道・入口   

 この道は緑のトンネルになっていて「三芳町みどりの景観八景」に選ばれるほど。
 夏は木陰が涼しく、冬は枯れた並木にも風情があります。

地蔵街道   

 ではなぜこの道を地蔵街道と呼ぶのか。
 それはおそらくこの先に木ノ宮地蔵があるからでしょう。

 木ノ宮地蔵堂  

 多福寺境内にある木ノ宮地蔵堂。ここにその地蔵が祀られているとのこと。
 説明書きには、
 「延暦24年(805)坂上田村麻呂が北国遠征の際、武蔵野で道に迷っていたところを地蔵菩薩に助けられ、それに感謝して地蔵堂を建立した、と伝えられている」とあります。

安置された地蔵尊   

 このあたり(三富新田)が開拓されたのは江戸時代になってからですが、地蔵堂は平安時代からつくられていたのか。(現存するのは安永6年=1777再々建されたもの)
 縁結び、子授け、安産、子育てにご利益があるとされています。

木ノ宮地蔵奥之院   

 またこの奥には「木ノ宮地蔵奥之院の石地蔵」があります。
 江戸時代初期に製作され、入間郡東部地区に残る最古の石地蔵とのこと。

石地蔵   

 余談ですが、坂上田村麻呂は道に迷ったとき、石地蔵にこう尋ねたそうです。
  

 ♪これこれ 石の地蔵さん 北へ行くのはこっちかえ 黙っていてはわからない
  

 えッ、違う?
 こりゃまた失礼いたしましたッ。

 昨日(11/03)文化の日は晴れの特異日。
 ならば、と出かけたのが新河岸川に架かる福岡橋。
 一昨年暮にはここから富士山が見られたのですが……。

新河岸川    

 残念ながら、富士山は見られず。
 ここはふじみ野市の富士山ビューポイントのひとつなのですが、見られたのはたった一回だから、本当にビューポイントなのか。

福岡橋   

 福岡橋のたもとに神社があります。
 大杉神社といって、明治11年(1878)に建てられた神社で、本社は茨城県稲敷市の大杉神社、祭神は大物主大神。
 「新河岸川の舟運に従事した人々が、船の安全を願って建立された」と説明書きにあります。

大杉神社   

 またここには明治時代の俳人、雪中庵梅年の句碑があります。
   

 兎角して来須に盤おかぬし九連哉
  

 (とかくして こずにはおかぬ しぐれかな)と読みます。
 しぐれとは時雨(冬の季語)のこと。
 「何としてもやってくるのが時雨だなァ」
   

 そこから西に向かうと、「おや?」
 何人かが空を見上げています。なかには写真を撮る人も。飛行機雲です。
 あの方向は入間あたりのはずだが……。

飛行機雲①   

 この飛行機雲は、航空自衛隊入間基地で行われた入間航空祭での「ブルーインパルス」(曲技飛行隊)のアクロバット飛行によるものだそうです。
 会場では約13万人の航空ファンらでにぎわったとか。

 飛行機雲②  

 富士よりも飛行機雲の名所かな
  

 お粗末。

 昨日(11/02)は首都圏の最高気温が12.2℃。この秋いちばんの寒日。師走あたりの気温とか。
 一週間ほど前は25℃近くの夏日。
 「いつまで残暑が続くのだ」と思っていたら、急に冬。丁度いい気候というのはないのか。

 裏の畑   

 「寒いなあ。こう寒いと体力が奪われて、なかなか疲れがとれん」
 と取手の友がボヤけば、
 「自転車で徘徊するのもつらい時節になってきましたね。風邪ひかないでくださいよ」
 とは川越の友からのメール。

246バイパス   

 当方は、師走であろうと、正月であろうと、節分であろうと、寒い季節だってチャリでの徘徊はしています。
 しかしそれは身体が徐々に寒さに慣れてきて、それなりの服装(スキーウエアとか)をしているからできることであって、なんの用意もないうちにいきなり冬がきてはお手上げだ。

 勝瀬橋通り   

 それでも(ミニ)徘徊はしております。
 昨日はエコパへ。寒い日は風呂が温まりますなあ。極楽、極楽。
 湯冷めはしませんよ。上がるとき冷水シャワーを浴びるから。

砂川堀用水路    

 エコパの帰り、砂川堀用水路を見ると、数羽のカモが泳いでいました。
 「こんなに寒くてもカモは元気だなあ」
 バードウォッチング?
 いやいや、みなさん一顧だにしないカモを見続けることによって、無理クリ「余裕」を装っているだけ。こうすることによってカモさんから元気をもらえるのではないか。

用水路のカモ    

 帰りには、食料品の買い出しにスーパーにも寄りましたが、野菜の高いこと。
 ブロッコリーやほうれん草などは冷凍に切り替えましたが、キャベツはどうにもならない。
 いつも買う駅前の八百屋でも280円(いつもは150円)だけど、スーパーよりは安い。
  

 寒さと野菜高騰のダブルパンチで懐も寒い。
 弱り目にたたり目?

 多摩湖の反対側、堤体の下は狭山公園(都立)です。
 春はいろんな種類の桜が咲き、ちょっとした桜の名所ではありますが、この時期は何もなし。
 草原にはたくさんの芒(すすき)が生い茂るのみ。

堤体の反対側    

 芒といえば森繁久彌の
   

 ♪己は河原の 枯れ芒
 同じお前も枯れ芒
 どうせ二人は この世では
 花の咲かない 枯れ芒

   

 よく聴きました。子ども心に、妙に侘しかった。
 これ、「枯れすすき」ではなく、正しいタイトルは「船頭小唄」

 芒ヶ原①     

 もっともこれは大正10年(1921)野口雨情が「枯れすすき」として作詞したものに、中山晋平がメロディをつけ、翌年「船頭小唄」として神田春盛堂から出された(Wikipedia)というから、どちらでもいいんだけど。

芒ヶ原②  

 枯れすすきといえば、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」(昭和49年=1974)という歌もあります。
 作詞・山田孝雄/作曲・むつひろし
   

 ♪貧しさに負けた
 いえ 世間に負けた
 この街も追われた
 いっそきれいに死のうか
 力の限り 生きたから
 未練などないわ
 花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき

芒ヶ原③  

 侘しい歌だ。明らかに「船頭小唄」を意識しています。
 しかし森繁久彌のような渋いおじさんが歌うならともかく、若者のデュエットでこれが歌われていたというのは何とも奇妙だ。
 当時は「流行歌の一種」として聞き流していたけど、今思うと欺瞞的で突っ込みどころ満載の歌詞です。

向こうは多摩湖の堤体   

 狭山公園でこんなことを考えるとは……。

 多摩湖にやってきました。
 埼玉県側からくると、多摩湖は所沢市のすぐ南にあるので、埼玉県と東京都の県境と思いがちですが、実は多摩湖の周囲すべて(北側も)東大和市の管轄。つまり多摩湖は東京都の領土。
   
 東京都の水がめだから、埼玉県には指一本触れさせない?
 そんなに主張しなくても水源は羽村取水堰(東京都)だから、埼玉はわかっているって。

 多摩湖の百選プレート  

 それはともかく、多摩湖の名物といえば取水塔。  

 手前が「村山下貯水池第一取水塔」(大正14年=1925完成)、奥にある第二取水塔は、取水量を増やすために昭和48年(1973)に完成しました。

第一取水塔(左)と第二取水塔(右)    

 この取水塔は「日本で一番美しい取水塔」だそうです。
 いささか自画自賛ではありますが、煉瓦造りの円筒に丸いドーム上の屋根(ネオ・ルネッサンス様式ですと)はなかなかの風情です。
 近くに寄るとこんな感じ。

取水塔(近影)    

 取水塔の渡し橋です。

取水塔の渡し橋   

 南東側から見る取水塔。
 水位が取水口の下まで下がっています。これでは水が取り込めないのでは?
 取水口は4段階あるのでまだ大丈夫ですが、これが3、2まで剥き出しになってくるとヤバい。

水位が下がっている  


 ところで多摩湖にはこれとは違う「第三の取水塔」があるのをご存じですか?
  

 実は多摩湖は西(村山上貯水池)と東(村山下貯水池)に分かれていて、ここは多摩湖東。
 水の流れは狭山湖(山口貯水池)→多摩湖西(村山上貯水池)→多摩湖東(村山下貯水池)の順。それぞれ取水塔から地下水路を通って次の貯水場に入るので、多摩湖西にも当然取水塔があります。

狭山湖・多摩湖の地図       

 そこで多摩湖西に行ってみると……。
 ありました。向こうに見えるのが村山上取水塔。
 大正12年(1923)完成というから最も古いけど、操作室は平成3年(1991)に改築。

 多摩湖西(村山上貯水池)   

 ドーム屋根ではないけど、それなりに風情があります。

村山上取水塔