西武ドームの向かいに狭山不動尊があります。
 天台宗別格本山の寺院で、山号は狭山山、寺号は不動寺。本尊は不動明王。
 創建は昭和50年(1975)というから、かなり新しい。

勅額門 

 先ずは正面入口の勅額(ちょくがく)門。
 日本の寺院には見られない華やかな色彩と装飾を施した門。中華風?
 説明書きによると、この門は昭和50年(1975)増上寺にあった徳川の二代将軍・秀忠の廟から移設したもの。鴨居の額「台徳院」は秀忠のことです。

御神木   

 門をくぐって右側に銀杏の御神木がありますが、これもただの銀杏ではない。
 これは江戸城の城址にあったもの。

 勅額門から見る御成門  

 そして石段の上は御成門。
 この門もやはり秀忠の廟から移設されたもの。

御成門   

 裏に回ると、天井に描かれた天女の絵が見られます。

御成門の天井   

 七五三で賑わう本堂は平成13年(2001)京都東本願寺から移築した七間堂。

本堂 

 第一多宝塔は、昭和36年(1961)高槻市(大阪府)の畠山神社から当境内に移築されたもの。
 説明書きによると、「建立は弘治元年(1555)と伝えられているが、上層屋根の隅木に慶長12年(1607)の墨書があり、桃山時代の建立であることが明らかである」と力説されています。
 ふーむ。

第一多宝塔   

 大黒堂と大黒天。
 大黒堂は、昭和38年(1963)奈良の極楽寺境内に建立された柿本人麻の歌塚堂を移築したもの。
 大黒天は、上野・寛永寺に安置されていた尊天であるとのこと。

大黒堂   

 羅漢堂と唐金灯籠。
 羅漢堂は、明治の元勲井上馨公の屋敷から移築されたもの。
 唐金灯籠は、芝・増上寺から移設されたもの。銅の灯篭で53基。壮観です。

 羅漢堂と唐金灯篭  

 桜井門から入る参道の両側に並んだ石灯篭は芝・増上寺から移設されたもの。

石灯籠   

 他にも弁財天の堂は滋賀県・清涼寺経蔵から移築したもので、ご本尊は上野不忍池弁天堂から迎えたもの、さらに本堂前の総門は、元長州藩毛利家の江戸屋敷の門を移築したもの、第二多宝塔は、兵庫・椅鹿寺から移築されたもの……と移設物は枚挙にいとまがなく、いずれも国や県の重要文化財です。
  

 これは凄い!
 

 当不動尊は、昭和50年(1975) 西武グループが各地のプリンスホテルを開発する際に、芝増上寺をはじめとする各地の文化財をこの地に集め、当時のオーナーであった堤義明と親しかった寛永寺の助力により、天台宗別格本山として建立されたとのこと。(Wikipedia)

 向かいは西武ドーム  

 ふーむ、そうだったのか。
 これに関しては、当時オーナーの政財界のコネと財力による「全国各地文化財の寄せ集め」との批判もあるようですが、それをいうなら横浜「三溪園」だって同じ。
 しかもこちらは無料。
 これはもう「ありがたい」としかいいようがない。

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2016.10.30 狭山湖の秋

 所沢の西南端、狭山湖(山口貯水池)にやってきました。
 ここは所沢市と入間市の境界にまたがり、多摩川の水を導水して昭和9年(1934)に東京都の水瓶として完成した人造湖。    

 
 「ダム湖百選」に選ばれています。

狭山湖の百選プレート    

 まだ紅葉の時期ではないけど、湖の風景が素晴らしい。
 冬の晴れた日には富士山が見えるそうだけど、この日は見えなかった。

 四阿  

 湖にはカモが泳いでいます。

カモ 

 しかし、なんといっても見事なのは取水塔。
 お隣りの多摩湖(村山貯水池)の取水塔の屋根はドーム型で、「日本一美しい取水塔」だそうですが、そうするとこれは日本で二番目?

取水塔    

 堤体と湖。
 4月に見たときより水位が下がっているように思いました。
 これは夏の雨量が少なかったから?

堤体 湖と堤体   

 今度は富士山を見にこようかな。

 世を挙げてのハロウィンフィーバー。
 ふじみ野市の「エコパ」(ゴミ焼却熱を利用した温泉施設)も例外ではなく、10月に入ってからは受付にはハロウィンのデコレーション。

 ハロウィンのデコレーション

 「まあ、面白い飾りつけねえ」
 「たまにはこんなのもいいわねえ」
 と概ね好評。とくに女性陣には受けがいい。
   

 私としては、「ここにくる人は高齢者が多いのだから、ハロウィンでもないだろう」との思いだけど、当方だけが世間からずれているのか。

帽子   

 TVのニュースを見ても、保育園の子どもたちがそれぞれ仮装して、「トリック・オア・トリート」(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ)ご近所を訪問し、訪問された側は機嫌よくお菓子を渡す光景が放映されている。
 近所の人たちも園からいわれているのだろうけど、こんな風習いつから定着した?
 私はおろか、息子の時代だってそんなものなかったぞ。

お面    

 さらに今夜あたり、渋谷では仮装した若者で溢れかえるのだとか。
 これについては「スタンバイ」(TBSラジオ)の森本毅郎氏が、「若者で溢れかえるから車のほうを規制する。これは本末転倒ではないか」と怒っていた。
  

 この論調には「ごもっとも」と思ったけど、思い起こせば高校時代の体育祭での3年生の行事「仰げば尊し」の仮装行列は楽しかった。それを思うと、若者の熱狂ぶりは責められないのか。
   

 それにしてもエコパのハロウィンデコレーション。
 皮肉めいた記事でも書いてやるか、と壁の撮影許可を求めたところ、
 「いいですよ。どうぞ、どうぞ」
 壁だけではなく、お面や帽子をカウンターに並べてくれる。

 髑髏 

 さらにお面を被ったお兄さんが、「これでどうですか」
 とのサービスぶり。(ええ人や)

 受付のお兄さん  

 これでは筆(キー?)も鈍るぞ。
 ということで、ここのハロウィンは認めることにしました。

 彩湖(さいこ)にやってきました。
 昨日(10/27)埼玉県の副知事が東京都庁を訪れ、東京五輪のボート・カヌーの競技会場の候補地に彩湖での開催を要望したので、本当にふさわしいのか、検証するためです。(うそ)

 石碑   

 彩湖は、荒川第一調節池内の貯水池として平成9年(1997)に完成しました。
 荒川の左岸(東側)に沿って南北に長く、周囲8.1km、面積1.18?、総貯水量1060万?に及び、噴水でプランクトンの細胞を破壊し、湖底から汲み上げた水を階段状の滝(滝の護岸)から流して水中に酸素を送り、水質を管理して首都圏への水道水を安全供給しているそうです。

滝の護岸とブイ    

 そんなところをボート競技に使っていいのか。

  カヌーに興じる人 ウィンドサーフィン   

 見たところ、カヌーやウィンドサーフィンに興じている人もいて、この種の乗り物は許可されているらしい。
 休日になるともっと増えるようですが、モーターボート、ジェットスキーなどは不許可。

東湖岸①  

 たしかにカヌーなどは人力でガソリンなどは流さないけど、撮影で並走するボートはモーターボートだろ。湖水の汚染対策はどうなる。

向こうは幸魂大橋    

 湖の東側は公園になっていて、それなりの景観が楽しめる。
 道も整備されていて、サイクリングする人やジョギングする人も多かった。

東湖岸②   

 しかしその下流、幸魂(さきたま)大橋より南は自然を保護するため、立ち入り禁止。
 仕方なく、堤防の上の道から湖を眺めるのみ。

 南端から見た彩湖  

 南端の排水門の前を通って西側の湖岸へ。
 こちら側は極端に人が少ない。
 ビオトープといって、生き物が自然のまま生息できるように施された区域です。
 所どころにバードウォッチングの覗き板が設置されています。

バードウォッチングもできるが 

 しかし……。
 チャリを走らせると、ガリガリガリ……とタイヤが地面にとられる。
 変だな、と思ってみると道路一面にナットが埋められている。
 なんだ、こりゃあ。自転車に対する露骨なまでの嫌がらせ。

西湖岸道路 

 要するに自転車に乗り入れられたくないらしい。
 むろん当方だって知ってりゃくるもんか。タイヤが傷むから。

道路にはナットがびっしり   

 彩湖の西岸は自然を守るために様々な対策を講じております。

幸魂大橋 

 その意気やよし。
 さらにいうと、首都圏の水質と水量を守り、また夏の豪雨による荒川の増水を一時的にここに貯めることによって、治水効果を発揮した。(1999年8月)
   

 夏は台風などで水位が変わる時期。
 軽々にボート競技の会場などにするべきではない、という結論に達しました。

 京都のトリは山科の毘沙門堂。
 私はこの辺りには疎いのですが、山科駅に降り立ったら、線路沿いに「毘沙門堂」という大きな標識があったので、「行ってみよう」という気になりました。

 線路沿いの標識  

 駅から線路際を200mほど東に進み、そこから北に900m。これが上り坂。
 「ふーむ、山にあるのか」
 これぐらいの坂道はなんてことはない。夕暮れが迫るなか、早足で歩きました。

毘沙門堂入口 参道  

 坂道の突き当りが毘沙門堂の入口。
 毘沙門堂は大宝3年(703)に行基により開創された天台宗延暦寺派の寺。
 伝教大師(最澄)の自刻と伝えられている毘沙門天が本尊としてお祀りされているので、毘沙門堂と呼ばれています。

 唐門 

 寛文5年(1665)後陽成天皇の勅により徳川家から安祥寺の寺領の一部を与えられ、天海僧正、公海僧正によって再興されました。

本堂   

 仁王門、唐門、本堂は朱塗りも鮮やかで、日光東照宮と雰囲気がよく似ています。
 もっとも弁天堂も含めて、つい最近修復工事が終わったばかりというから、ラッキーでした。

弁天堂   

 時間的に遅かった(4時半すぎ)だったので、なかには入れなかった。
(襖絵や天井の絵が見事だそうです)

 庭園    

 それでも庭園の一部は見ることができたし、竹林も見られた。

 竹林  

 そのお隣りの護法山双林院にも寄りました。
 ここは寛文5年(1665)、毘沙門堂が再興されたときに建立された寺院ですが、明治元年に「大聖歓喜天(だいしょうかんきてん)」を本尊とする聖天堂が建てられたので、山科聖天(やましなしょうてん)と呼ばれています。
 夫婦和合、財富、智恵授かりなどのご利益があるとか。

歓喜天  

 またここには不動堂があって不動明王が安置されています。
 これは明治16年に比叡山無動寺より勧請されたもの。
 この不動堂は堂内で大護摩が焚ける特殊な構造をしているとのことだけど、このお堂のなかで? よくわからん。

不動明王   

 ここはいろんなものがありすぎて、まさに仏の百貨店。
 紅葉の名所だそうだけど、その季節にはまだ早かった。
 山科の寺院は、当方にとっては不可解です。

 いつも同窓会の翌日は伏見の友に京都(主に南部)を車で案内してもらうことになっているのですが、この日(10/09)は彼の参加する「囲碁大会」と重なりました。
   

 「悪いな、囲碁大会は朝の10時からや」
 「何時ごろ終わるねん」
 「わからんな。負けたらすぐ終わるけど、勝ち続けたら夕方までかかる」
 「負けたらあかんぞ。最後まで残れよ」
 当方としては「お前がきたおかげで負けた」と思われたくない。

 碁会所のある小路  

 会場は大手筋四番街の角を北に入った小路にある碁会所「本因坊」。
 彼はほとんど毎日そこに通っていて、アマチュアながら師範代も務める実力者。
 もっとも彼の実力は父親譲りで、お父さんはいつも全国大会では京都代表になっていた人。
 したがって彼としては、そう簡単に負けるわけにはいかない。
   

 碁会所は狭く、対局者が40人ぐらい集まっていて、とてもここにはいられない。もっとも碁はよくわからないので、いても退屈。
 そこで当方は近くを徘徊することにし、前述のように桃山御陵、伏見桃山城、御香宮神社、大手筋などを歩き回ったというわけです。

対局風景   

 桃山御陵、伏見桃山城、御香宮神社に行ってきて、12時ごろ碁会所を覗いたら、彼は年配者と対局中でした。
 その後、大手筋の居酒屋で食事(海鮮丼、安くて美味かった)して、午後1時ごろ覗いたら、今度は若い男の子と対局していました。

居酒屋で昼食   

 そこで大手筋をぶらぶら歩き、御香宮の神輿を見たり、ドトール、ベローチェに入ったりして、2時半ごろ、彼から電話がかかってきました。
 「もう終わった」
 「えらい早いやないか。負けたんか」
 「いや、決勝で負けたから2位や」
 「2位か、よう頑張ったやないか。そっちへ行くわ」
 碁会所に向かいました。
  

 この大会は「第45回しんぶん赤旗囲碁・将棋大会京都府大会」の伏見区の大会。
 囲碁はA級とB級があり、友人がエントリーしたのはA級(名人戦)
 優勝したのは中学生の男の子。
 すると1時ごろ見た男の子?
 友人も男の子も3連勝同士で、決勝でぶつかったといいます。
 「あの子はこのところめきめきと腕を上げてきよってな。勝ったり負けたりやったけど、今日はポカをやってしもした」とは友人の弁。

準優勝の表彰(赤シャツが友人)    

 表彰式が終わって、我われは大手筋の居酒屋でイッパイ。
 奇しくも昼食を摂ったところ。(いわなかったけど)
 優勝は逃したけど、1、2位は16日(日)の京都府大会(会場・教育文化センター)に出場できるとあって、機嫌はまあまあ。
 こちらも「お前のせいで負けた」といわれなくてホッとしました。
  

 ※その後、彼からの連絡はありませんが、調べてみると、16日(日)の京都府大会では敗退した模様。しかし伏見区で優勝した中学生は京都府大会でも優勝。来月の10~11日、東京で行われる全国大会に駒を進めました。恐るべし、中学生。

 近鉄・桃山御陵駅から東へ200mほどのところに「御香宮神社」があります。
 伝承によると、貞観4年(862)に社殿を修造した際、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、ときの清和天皇から「御香宮」の名を賜ったといいます。

御香宮神社・境内     

 この水は「御香水」として名水百選に選定されています。
 そのためボトルを持参して取水する人があとを絶たない。

 ペットボトルで取水する人  

 なお廃城になった伏見城の大手門は当社の表門に移築されたとか。
 この日は「神幸祭」ということで参道に屋台が出て、賑わっていました。

御香宮神社の表門    

 威勢のいい神輿が出て、男たちの活気づくこと。

神輿を担ぐ人たち    

 御香宮といえば、「鳥羽・伏見の戦い」明治元年(1868年)では、ここが官軍(薩摩藩)の陣地となり、ここから南へ300mの伏見奉行所に立てこもった会津藩・新選組と対峙しました。
 司馬遼太郎「燃えよ剣」にもこの場面が出てきます。
 しかし大砲や鉄砲などの飛び道具では官軍が圧倒的に優位だったため、伏見奉行所は炎上、旧幕派は壊滅状態になりました。
 御香宮神社は無事。当然でしょう。

参道   

 *

 そこから近鉄、京阪の線路を横切ると「大手筋商店街」。

大手筋商店街・入口   

 この商店街は京阪・伏見桃山駅から西に延び、幅8m、長さ400m。
 伏見では一、二を争う活気ある商店街で、日本で初めて太陽光発電パネルが設置され、アーケードの照明に利用されているとか。
   

 この大手筋は秀吉が文禄3年(1594)建築した伏見城の大手門が西に伸びて(実際は少し曲がっている)つくられたもの。そのため当時から大手筋通りと呼ばれていた、歴史のある商店街。

 銀座発祥の碑   

 銀座通りとの交差点の角に「此付近伏見銀座跡」の石碑が建てられています。
 実はここ、家康が関ヶ原の合戦に勝利した翌年の慶長6年(1601)、日本で初めて銀貨鋳造発行所をつくらせたところで、伏見銀座と呼ばれていました。
 銀座はのちに京都→江戸、大阪に移り、伏見銀座は廃止されますが、ここが銀座発祥の地とのことです。
   

 大手筋は東から、1番街~4番街の名前がついています。
 この日は御香宮の神輿が何組も通過しました。

大手筋商店街    

 西端から南に向かう小路は「納屋町五番街」と呼ばれ、大手筋とは異なる雰囲気があります。

納屋町5番街   

 さらに南下すると坂本龍馬が常宿にしていた「寺田屋」があったので、「竜馬通り」と名づけられた商店街もあります。ただし現在の「寺田屋」は明治になって新たに建てられたもの。

竜馬通り  

 その一角に昔ながらの商店があり、往時を偲ばせます。

古い商家 

 桃山御陵をあとにして、近辺の案内地図を見ると「伏見桃山城」とあります。
 「伏見桃山城? こんなところにあるのか」
 早速その方向に向かいました。
  

 それにしても妙だ。駐車場脇の細い道を進むと、左に立派な城門。
 ただし入口にこんな注意書きが。
 「伏見桃山城の内部は公開していません。お城庭園の散策や外観をお楽しみください」

城門   

 なんだ、内部には入れないのか。
 その代わり入場料を取るわけでもなし。入場者もほとんどいない。
 ひょっとして廃城?

 ふたつの天守閣①  

 しかしこの城はなかなか立派だ。
 天守閣は正面から見ると、同じような大きさに見えるけど、左の天守は手前にあるので大きく見えるだけ。
  

 別の角度から見るとこうなります。
 左が小天守(3重4階)。右が大天守(5重6階)。

 別の角度から見ると   

 これが大天守。なかなか立派です。

大天守   

 石垣も立派。しかし石が新しい気もするが……。

城の石垣   

 庭園の太鼓橋。これはあとでつくられたものでしょう。

庭園の太鼓橋 

 城門を出たところにこんな説明書きが。
 「……公園内のお城は、伏見桃山城キャッスルランドの目玉施設として昭和39年に建築されたものです。遊園地の閉園後は伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマの撮影等にも活用されています」
  

 歴史上の伏見城は、秀吉が築いたもので、関ヶ原の戦いの際に落城。その後家康によって再建されたものの、元和5年(1619)廃城になりました。

ふたつの天守閣②   

 目の前にあるお城は、近鉄グループによって52年前につくられたもの。
 鉄筋コンクリート製の「模擬天守」というから、ちょっと白ける。
 昭和39年といえば、まだ京都にいたはずだけど、知らなかったなあ。

 桃山御陵(伏見区)にやってきました。
 ここには明治天皇の陵(みささぎ=天皇・皇后の墓)があります。

参道入口 

 桃山御陵前駅(近鉄)から東へ約2km。
 緑に囲まれた玉砂利の道を歩くと、目の前に高い石段。230段あるそうです。

石段 

 少年野球の連中がトレーニングをしています。
 「ダッシュ、もう一本!」
 「えーッ、キツイよ」
 それでも懸命に走る子どもたち。頑張れよ。

胸突き(?)階段 

 当方は高齢者だけど、これぐらいはどうってことない。
 鷹取山や塚山公園のハードな山道を登ってきた。
 それに比べると、こちらは規則的な階段が整備されている。

ゴールはもうすぐ 

 それでも上まで登ると、「やれやれ」という気になります。やっぱりキツかったかな。
 登ってくるジイさんに、「頑張りや。もうひと息やで」と声援を送ったりして。

階段を上から見る 

 「ほう、ここが御陵か」
 鳥居の向こうに見える丸い墳丘。
 これは上の部分で、下は方形壇。上円下方墳といって天智天皇陵をモデルにしたそうです。

一の鳥居 

 明治天皇が崩御されたのは明治45年(1912)7月30日、同年(大正元年)9月13日に大喪儀が執り行なわれた後、翌9月14日に埋葬されました。
 陵の敷地は豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、東には皇后(昭憲皇太后)の御陵もあります。

御陵 

 なお大正天皇、昭和天皇の御陵は京都にはなく、東京の多摩御陵にあります。

眼下に見える伏見の街並 

 ふーむ、ここが日本人の原点か。
 京都時代にはまったく気づかなかったけど、ここにくると改めて「天皇制」というものを考えさせられます。

2016.10.22 同窓会に出席

 今回の関西行きの目的は同窓会の出席にありました。
 諸事情あって故郷(京都)を捨てた私ですが、年とともに旧知の友に会うのがたまらなくうれしい。
 またあの世へ逝く友も多くなり、「会えるときには会っておかねば」という気持ちが強くなりました。
  
 さらにいうと、同窓会は「若返りの妙薬」です。これはアメリカの心理学者の臨床実験によって証明されています。(デイパック・チョプラ「エイジレス革命」講談社)
 したがって同窓会は、会費、交通費を支払ってでも行く価値はあります。

幹事あいさつ 

 今回開催されたのは高校の同窓会で、10月8日(土)、場所は御所・蛤御門向かいの「ガーデンパレス」。出席者は65名。
 前回の約半数ですが、みんなの顔が見渡せて、ちょうどいい人数ではないか。
   

 「おうおう、元気やったか」
 「元気でもないけど、なんとか生きとるよ」
 「それが何よりや」
 「アイツ、どないしとんねん」
 「3ヵ月ほどの世界一周の船旅から帰ってきよったばっかりや」
 「ほう、豪勢やな」
 そんな会話が飛び交いました。

テーブル席

 テーブルは受付をしたときに決まるのですが、あまり知った顔はいなかった。
 それでもかまわず、となりのご仁としゃべっていると、この人が亡くなったT君と親しかったことがわかりました。
 「ぼくとTとは小学校時代からずっと一緒でな。性格的に気難しいところがあって交友関係は少なかったけど、ぼくとは仲が良うて最後までつき合うたなあ」
 「死因は何だったんですか」
 「癌やった。膵臓やったかな。げっそりやつれて痛々しかった」
 初めて聞く話です。
   

 T君は名古屋の大学に行き、もどってきて内装関係の仕事をやるようになったとか。
 「奥さんがきれいな人でな。仲はよかったみたいや」
 「お子さんは?」
 「男の子がふたりいてな。もう成人しとる。しっかりした、ええ男や」
 「そうすると、家庭的には幸せだったんだね」
 「そうや」
 それを聞いて安心しました。今となっては故人の冥福を祈るのみ。

校歌斉唱

 その後、卒業時のクラスごとに壇上に並んで写真を撮りました。
 私のとなりにある男が並びました。
 Kです。コイツには中学時代からの遺恨があります。そのため高校時代は同じクラスになっても、口を聞いたことはなかった。
 20年前だったら一発ぶん殴っていたかもしれません。今はそんな気はないけど、「お前、人をいじめて楽しかったか」ぐらいは聞いてやろうと思っていました。まさにチャンス到来!
   

 「おう、Kやないか」
 「えッ、誰?」
 「オレだよ。□□」
 「あー、□□君か。変わったなあ。全然気づかなかった」
 彼は本当に知らなかったようです。
  

 「アンタにはいじめられたなあ」
 そういうと、彼は曖昧に笑いながら、「そんなこと、ないやろ」
 「被害者は覚えてても、加害者は忘れるというからな」
 といっても、「さあ……」と曖昧な微笑を浮かべるばかり。

 とぼけているのではなく、本当に覚えてないようです。
 そのまったく害意のない表情に、こちらの「戦意」が失せました。
   

 今のKには当時のようなシャープさは微塵もなく、前頭部は禿げてふっくらしたジイさんになっています。
 穏やかなのか、あるいは鈍いのか、相変わらず微笑を浮かべるその姿に妙な親近感を覚え、思わず「仲良くしよう」と手を差し出しました。
 「うん」
 Kもうれしそうに握り返してきました。

記念撮影 

 なぜそんなことをしたのか。今でも説明がつきません。
 とはいえ「和解」したのは事実です。これでよかったのだ。

 今からちょうど2週間前のできごとです。
 今回の同窓会は私にとって収穫の多いものでした。

 梨木神社、出町柳とくれば、あとはもう下鴨神社に行くしかない。
 先ずは南端にある摂社の河合神社。

河合神社   

 ここは玉依姫命が祀られているので美人祈願で有名になりましたが、当方の関心はそこではなくて、鴨長明ゆかりの地であること。
 鴨長明は河合神社の神宮の家系に生まれたものの、重職に就くことができず、世を嘆いて「方丈記」を書いたとか。
   
. 日本三大随筆の他の二作「枕草子」「徒然草」よりも、「方丈記」がニヒルで斜にかまえた印象を受けるのはそのためか。
 その長明が住んでいた庵を復元したものが展示されています。

長明の方丈    

 当方は鴨長明と共鳴することが多く、興味津々ですが、こんなところに住んでいたとはいかにも侘しい。

 下鴨神社の本殿には玉依姫命とその父・賀茂建角身命が祀られています。
 賀茂建角身命の化身は八咫烏とのことで、サッカーファンや関係者のお参りが多いとか。

本殿   

 それよりもっと多いのは、縁結びの神様である相生社。
 安産子育て、家内安全にご利益ありとのことで、参拝者があとを絶たない。

相生社 縁結びの神   

 それかあらぬか、この日も婚礼の行列が。
 先ずはおめでたいことで。

婚礼の列    

 しかし何といっても下鴨神社のいいところは、境内(糺の森)の豊かな緑と小川のせせらぎ。
 それだけで気持ちが安らぎます。

糺の森 小川    

 境内を流れる小川のちょっと上流に「奈良の小川」があります。
 これは境内の発掘調査によって古代の流れの流路が発見されたとか。
 その上流に(奈良殿神を祀る)ナラノキの林があったところから「奈良の小川」と呼ばれているそう。(説明書きより)

 奈良の小川   

 最後に下鴨神社にまつわる歌をひとつ。
    

 ちはやぶる鴨の社のひめこ松 よろずよふとも色はかはらじ

 藤原敏行(古今和歌集)

媛小松 

 境内にある媛小松を詠んだ歌だそうです。

2016.10.20 出町柳を歩く

 出町柳(でまちやなぎ)に出ました。
 ここは西からくる賀茂川と東からくる高野川が合流して、鴨川になる地点です。

賀茂大橋 賀茂大橋から見る鴨川下流

 Y字状の中心に架かる橋が賀茂大橋
 ここから合流する三角洲(デルタ地帯)がよく見えます。
 左が賀茂川(出町橋)、右は高野川(河合橋)

賀茂大橋から見る合流点 

 比較的きれいな左右対称形ですが、高野川のほうが細く地味な感じを受けます。

 河合橋から見る高野川。

河合橋から見る高野川 

 出町橋から見る賀茂川。

出町橋から見る賀茂川 

 三角州に出てみました。目の前に賀茂大橋が見えます。
 このあたりはどこから見ても景色がいい。

三角州から見る賀茂大橋 

 「人生の晩年には出町柳の近くに住みたいなあ」
 そういっていた友がいました。
 しかし彼は諸事情あって我孫子から名古屋にもどりました。
 大丈夫だ、晩年にはまだ間がある(?)ぞ。
     

 高野川寄りに「出町柳駅」があります。
 ここからは八瀬→比叡山、岩倉、鞍馬に向かう京福電鉄が出ていますが、近年は京阪電車がここまで延びたので、大阪、奈良に行きやすくなりました。
 景色だけではなく、アクセスもいいから住むにはいいかも。

出町柳駅 

 ちなみに出町柳とは出町(賀茂川側)と柳町(高野川側)、ふたつの町名が合わさったもの。
 では出町とはなにか。
 これには概ね二説あって、①洛外に出たところにある町、②若狭(鯖)街道の終点だったので、人の出入りが多かった。出入町→出町。どちらでも。

妙音弁財天 

 「おや、こんなところに……」
 出町橋のたもとに弁財天があります。妙音弁財天。
 初めて知りました。
 弁財天は芸事にご利益があるとのことから、これは音楽関係の人にはいいのかな。

弁財天のお堂  

2016.10.19 梨木神社の変

 何の脈絡もなく京都市上京区にある梨木(なしのき)神社。
 ここは母校の近くにあり、在校時代に一度行ったことがあるような……。
 2年前母校を訪れた際、寄ってみたら工事中でした。

一の鳥居    

 今回も母校(工事中)を見て、そのついでに寄ってみたら、「あれッ?」
 一の鳥居をすぐ入ったところに3階建てのマンションが立ち塞がっていて、左へ進まざるを得ない。広い道に出て、マンションの裏手が参道。

参道(左は御所) 

 マンションの端に細い道があり、入ると左に二の鳥居。
 つまり一の鳥居と二の鳥居の間にマンションが建っている。以前はこんなマンションなかったぞ。(工事とはこういうことだったのか)

マンションの北の端を入る 

 京都の人に聞くと、これは同神社が修理の費用を得るための苦肉の策で、境内にマンションを建てることで地代を稼ごうというもの。
 えーッ、神社がそんなことしていいのか。(神社本庁の承認を得られず離脱)

二の鳥居    

 同神社は明治維新の黒幕(?)三條實萬(さねつむ)・實美(さねとみ)父子を祭神としているそうです。なるほど。(お公家さんのやりそうなこと?)

境内     

 境内には約500株の萩が植えられている(別名「萩の宮」)のですが、行ったときはもう花が咲いたあと。残念。

御神木(愛の木)    

 その一角に御神木「愛の木」があります。
 桂の木でなぜ「愛の木」かというと、葉っぱがハート形をしているから。

葉っぱはハート形   

 クローズアップしてみると、たしかにハート型だ。
 そのためか木の横にはハート形の絵馬(恋愛成就?)が結ばれていました。

拝殿     

 また境内の井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水のひとつとされています。京都三名水とは「醒ヶ井・県井・染井」ですが、現存するのはここだけだそう。

 水を汲む人①   

 朝まだきというのに何人かの人がペットボトルで水を汲んでいた。
 このオジサンなんか大きなペットボトル数本汲んでいる。飲食関係の方?
 「名水だそうですね」と話しかけると、
 「そうです。いい味ですよ」

 水を汲む人②    

 そういわれて飲んでみると、たしかにクセのない味。やっぱりワシン坂の水に似ている?
   

 境内の至るところに俳句の短冊が結ばれています。
   

 門口の小萩を映すたつき水(S樹)
  

 そんなものかね。

 川越まつりの日に、ふだん見られない「永島家住宅」(第3土曜日のみ公開)が公開されているとのことで寄りました。
 残存する武家屋敷としては埼玉県唯一とのこと。

永島家住宅    

 解説書によると、ここは城にも近く、南大手門の南西に広がる(中級)武家屋敷の一画で、川越藩の御典医(堤愛郷→石原昌迪)が住んでいたそうです。
 大正6年(1917)永島家がここに住むようになったので、「永島家住宅」と呼ばれるようになりました。

 玄関   

 しかし、正直いって、武家屋敷というよりあばら屋。
 台所には汚れたステンレスの流し台。最近まで人が住んでいたというから、仕方がないのかもしれないけど、いかにも中途半端だ。

台所(江戸時代のものではない)    

 見学者は屋敷に上がることはできず、庭を歩かされる。
 井戸には割と新しいポンプが。
 小学生が漕ぐと水が出てきた。

今でも水が出る井戸    

 御典医だったというだけあって、庭には薬草が植えられていたらしい。

庭には薬草が植えられていたと推察される    

 屋敷のなかは庭先から見るだけ。

見学者たち 座敷  

 興味を持ったのは「切腹の間」
 細長い四畳の板敷で、間取り図を見ると、比較的玄関に近く、屋敷の中央に位置している。
 この屋敷は次第に増築されていったけど、この部屋は建てられた当初からありました。武家の屋敷には必ずこういう部屋があったのか。常に覚悟しているという意味?
 一説には、御典医なので手術の際に使ったという説も。

 四畳間の向こうが切腹の間   

 下男部屋。
 意外に広い。しかも独自のトイレと台所がついている。当時の下男は恵まれていた?

下男部屋   

 全体的な印象をいうと、武家屋敷見学としては物足りない。
 「現存する」にこだわっていては、年月とともに朽ちていくのだから、むしろ建物を完全補強して、江戸時代の武家屋敷に復元するほうがいいのではないか。
 それにはかなりの費用がかかるけど、川越は観光客で潤っているのだから。

2016.10.17 川越まつり2016

 10月15、16日は川越祭りの日。
 そこで昨日(10/16)観てきました。
 先ずは蔵造り一番街。車両通行禁止ということもあって、大勢の人、人、人。

癖造り一番街   

 まだ早い時間で山車の巡行は少なかったけど、年々盛り上がっているような気がします。
   
 それでも遠くから山車がやってきました。
  
 先頭のほうに手古舞の女の子。

手古舞の女の子たち   

 そして山車の引手は子供衆と警護方。ふだんは愛想のいい商店のオッチャンが多いのですが、このときばかりはキリリと引き締まった表情をしています。

 山車の巡行(警護方)

 お多福登場。
 私はいつもこの(お面の)女性は、お面を取ってもお多福ではないかと思ってしまう。これがお面の不思議なところ。

お多福登場 


「市役所前で12基の山車が勢揃いしています」
 というアナウンスに行ってみると、並んでいるのは3~4基。どこが勢揃いだ。(まだ早かった)
 それでも2基が対面して、「曳っかわせ」をやってました。

市役所前での曳っかわせ    

 曳っかわせとは四つ角などで山車と山車が出会うと、互いに正面を向き合い、お囃子を競い合うこと。競い合うといっても勝ち負けはなく、ジャズでいえば、それぞれのパートが独自に演奏して、交互に盛り上げていくというもの。
  
 山車が揃うのを待つのはまどろっこしいので、時の鐘通りに出ました。
 1基の山車が遠くに見えます。
 「おーッ!」という歓声が上がったので、なんだと思って見ると、山車の唐破風の屋根の上から赤い鉾の部分がせり上がってきて、その上に武将の人形がせり上がってくる。

時の鐘通りを進む山車   

 鉾は二重になっていて伸縮自在。電線などで上がつかえるときは、武将と赤い鉾の部分はなかに納まるような構造になっている。
 今は電線だけど、昔は城の門をくぐるのに工夫されたものだそう。
 毎年見てるけど、初めて知りました。

近づいてきた(秀郷の山車)   

 その後、山車(秀郷)は当方の前を通りすぎ、時の鐘の前を。
 この時の鐘は修理中でカバーがかかっていたけど、外されると補強の銅板もピカピカした晴れがましい姿。
 それと山車が一緒になるなんて滅多にない。

時の鐘と山車   

 ふーむ、いいものを見せてもらった。(自己満足です)
 曳っかわせは夕方からで、盛り上がるのはこれからだけど、毎年見ているので、今年はこれでよしとするか。

 再び彦根の市街地にもどってきました。
 まず城の中堀にかかる京橋から続く、京橋大通り。
 実はこの道、「夢京橋キャッスルロード」と呼ぶそうですが、未だになじめないので、私は勝手に「京橋大通り」と呼んでいます。

京橋   

 彦根藩の下級武士を先祖に持つ当方にとって、彦根は聖地のようなところ。
 親戚からは「彦根人の気風は質実剛健」と教わりました。
 ところが、なんだ、この飾り立てた名前は。どこが質実剛健だ。聞くたびに気恥ずかしくなる。

京橋大通り①    

 例えば川越は「蔵造り一番街」で通っている。これでいい。
 中身さえしっかりしていれば、名前なんかゴテゴテ飾り立てる必要はない。

 京橋大通り②  

 とはいえ、通りの景観は実にいい。道幅は広く、並木と植え込みがある。これは川越以上だ。
 残念なのは人が少ないこと。川越は平日でももっと多い。
 やはり首都圏から近いという、地の利があるからか。

夢京橋あかり館①   

 有名な「夢京橋あかり館」に入りました。
 ここは和蝋燭を中心に、明かりとお香、アクセサリーなどを商う店。
 蝋燭は停電用(?)にたくさんあるので買わなかったけど、店内は落ち着いた雰囲気(お香のせい?)で居心地はよかった。奥にも休憩するところもあるし。

夢京橋あかり館②    

 通りの各店を詳らかに調べたわけではありませんが、全体的な感じはいい。
 この通りではないけど、昼は駅前お城通りの定食屋で焼き魚定食を食しました。安くて美味かった。店の人の感じもよかったし。
 前回は年配の女性が切り盛りしている喫茶店にも入ったけど、珈琲も美味かった。

四番町スクエア①    

 それよりも興味を引いたのは通りの外れの「四番町スクエア」
 全体的にベージュ色の建物と柳並木。雰囲気が大正浪漫。
 広場には植え込みやベンチがあって、ゆっくりくつろげる。

四番町ダイニング   

 しかし、如何せん、ここも人が少ない。
 某アンティーク店などは閉店セールをやっていたぞ。

四番町スクエア②   

 当方も買わずに見るだけだったけど。

生地のセール   

 彦根を含めてこのあたりは近江商人を生み出した土地だけど、その商法は意外におっとりしているように思います。(私の印象)
 これなら川越のほうがよほどガツガツしている。(悪いネ、川越の人)

小さな広場 

 彦根は他にも大師寺や宗安寺などにも寄りましたが、UPはまたの機会に。

2016.10.15 竹生島②

 観音堂を出て急な階段を上ると、宝厳寺の本堂。
 明治以前の竹生島は神仏一体(都久夫須磨神社と宝厳寺)の聖地として信仰されてきたのですが、明治の神仏分離令によって独立しました。

宝厳寺本堂    

 ここに弁才天が安置されているとのこと。
 すると昨日UPした弁才天は本物ではなくてレプリカ? やっぱりなあ。

    

 境内には不動明王の銅像。
 その横には「竹生島流棒術発祥之地」の石碑。
 不動明王は龍剣を持っているので、関連しているのかと思ったのですが、そうではないらしい。
 この棒術についての由緒は長くなるので省略しますが、現在も存続しています。

不動明王    

 そこからさらに上ると三重塔。
 初代は1484年に建立されたのですが、江戸時代に落雷で焼失し、2000年「浅井郡誌」に基づいて再建されたもの。道理で朱塗りが鮮やかだと思ったよ。

三重塔   

 その近くにあるモチの木は、伏見城から都久夫須磨神社本殿を移築した際、片桐且元が自ら植えたものとされています。樹齢約400年。

 モチの木  

 参拝(観光)客の行けるところではこのあたりがいちばん高いけど、島の標高は197.27m。鎌倉の天園(大平山)159.4mより高い。
  

 さて、本堂の境内から下に降りるのですが、登ってくる人たちとすれ違うのが面白い。
 彼らはふうふういいながら急な階段を登ってくる。「祈りの階段」というけど、年寄りには地獄の(?)階段だ。

下りの階段    

 彼らは上りの分岐点を直進してきた人。
 当方は右の緩やかな道を、竜神拝所→本殿→観音堂→宝厳寺・本堂と、楽しみながら徐々に登ってきたのでそんな苦労はなく、あとは重力の法則に従って降りるのみ。楽なものだ。
 「頑張れ、頑張れ。もうひと息」
 と励ましてやりました。
 下りたところを振り返って見上げると、こりゃあキツイわ。もう一度上れといわれたら断ります。(どちらのコースをとろうと好き好きです)

下りたところから見上げる  

  中腹に「湖底深井・瑞祥水」の手水場があります。
 湖底壱百参拾米(130m)とあるから、動力で汲み上げているらしい。「名水」とのことで飲んでみました。横浜のワシン坂下で飲んだような味?

 湖底深井の瑞祥水  

 こうして下まで降りて船着き場へ。
 「ここから彦根港まで何kmあるのですか」と若い船長に聞くと、「直線距離で約12km。今津や長浜に比べると、最も遠い距離です」との答え。
 三笠桟橋―猿島(2km)の6倍だ。乗船料3500円は高くない。

竹生島の船着き場    

 「ふーむ、こうしてみると、竹生島は猿島とは違うなあ」
 当たり前だ。
 もう二度とくることはないと思うけど、「冥途の土産」になるような思い出の島でした。

竹生島をあとに    

 ♪波のまにまに 漂えば
 赤い泊火(とまりび) 懐かしみ
 行方定めぬ 波枕
 今日は今津か 長浜か
  

 こうして竹生島をあとにしました。

2016.10.14 竹生島①

 松原の近くは彦根港。
 竹生島(ちくぶしま)に行く船があるというので、これは乗るしかない。
 とはいえ乗船料・3500円(往復)は高くないか。三笠桟橋~猿島は1300円だぞ。
 「霊験あらたかな島」ということで、吊り上げてるんでないの?

船から見る竹生島    

 ところが、竹生島ははるか彼方。船はかなりのスピードで走ってるけど、なかなか近づかない。
 こりゃあ、けっこう距離あるぞ。

「琵琶湖周航の歌」碑    

 船は彦根港を出向してから40分で竹生島(長浜市)へ。
 上陸するとすぐ
「♪瑠璃の花園 珊瑚の宮 
 古い傳への竹生島 
 佛の御手にいだかれて 
 ねむれ乙女子 
 やすらけく」
 の歌碑。(琵琶湖周航の歌)
 加藤登紀子さんの歌でよく聴いたなあ。

参道(奥が入り口)    

 左手の土産物屋が並んだ奥が竹生島神社の参道になっていて、そこから上ります。
 ただし入口で拝観料・400円を払う。(猿島も入島料200円とるようになった)

石段を登ると二手に分かれる    

 石段を上ると、「竹生島神社→」の標識があります。
 鳥居の石段を上っても、竹生島神社。あれッ?
 迷っていると、若い女性が若い女性が右の道へ入ったので、それに従いました。

右のなだらかな道を行く 

 右の道はなだらかで島の南側を通り、船着き場が見えます。これがなかなかの景色。

 中腹から見る船着き場

 上ったところは都久夫須磨(竹生島の古名)神社。弁才天が祀られています。
 この弁才天は、安芸(広島)厳島神社、相模(神奈川)江の島神社の日本三大弁才天(五大弁天説もあり)のひとつ。江の島の弁才天(撮禁)は白く艶やかだったけど、ここのはそれほど色っぽくない。厳島神社はどうなんだろう。

 竹生島弁才天

 さらに進むと竜神拝所。
 ここは竜神が祀られていて、かわらけ(土器)投げの舞台でもあります。

竜神拝所(かわらけ投げの舞台) 

 ここからかわらけを投げ、下の鳥居を通過すれば願いが叶うというのですが、これを通過するなんてどんなコントロールの持ち主なんだ。

投げたかわらけがこの鳥居を通過すれば願いが叶うとか    

 そして都久夫須磨神社の本殿から観音堂。
 その間の舟廊下は秀吉の御座船「日本丸」の船櫓を利用してつくられたとか。
 パンフレットには「天井にご注目」とあるので見ると、ふーむ、これは舟の底なのかな。

舟廊下(天井に注目)    

 そして回廊のような観音堂を回ったところに古ぼけた仏像。
 これは賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)といって、お釈迦さまの弟子で「おびんずるさん」と親しまれている仏様。
 「この仏様は大変古く壊れやすくなっております。お触れになる場合は、優しくお撫で頂きますよう、お願い申し上げます」との注意書き。

 びんづる尊者  

 そういえば「おびんづるさま」は川越連繋寺にもあった。
 撫でるとご利益があるというけど、これはちょっとなあ。(触るのは遠慮しました)

 湖周道路に出ました。
 この道路は大津―長浜を結ぶ琵琶湖沿いの道で「県道2号線」と呼ばれ、なかでも彦根市長曽根―長浜市公園町にかけては「さざなみ街道」の一部になっています。

琵琶湖    

 湖岸に降りられるところがあり、琵琶湖を眺めることができます。
 湖といえど、けっこう大きな波がきます。

魚を釣る人    

 舟を出して釣りをする人。
 琵琶湖といえばブラックバス。日本の古来種を食い荒らしたにっくき外来種。そのためリリースは禁止。もっとも淡白な味で意外に美味いというから、釣ったら全部食えよ。

湖周道路・松原橋    

 さざなみ街道を長浜方向に歩くと、松原橋に差しかかります。
 この橋は彦根城の中堀が琵琶湖に注ぐ河口に架かる大きな橋ですが、昔は運河として利用されていたため、大型観光船が通るときは人力で橋を90度回転させて航路を開けていた(その間、橋を渡る人や車は通れない)とか。

松原橋より見る彦根城の中堀    

 この橋から河口側を見ると、どことなく見たような光景。
 佃島に似てるような気がしたけど、違う?

松原橋より見る河口    

 そこからさらに歩くと旧彦根藩松原下屋敷(通称「お浜御殿」)があります。
 ここは11代当主井伊直中(なおなか)により文化7年(1810)ころに琵琶湖畔に造営された下屋敷で、琵琶湖の水や山の自然を活かした素晴らしい庭園だそうですが、春と秋の公開日以外は閉園。入ることができなかった。残念。

お浜御殿   

 入口の表札には「井伊直愛」の名前。
 井伊直愛(なおよし=1910~1993)は幕末の大老井伊直弼の曾孫にあたり、1953年から36年間(9期)彦根市長を務めた人。同時にアミの研究で知られた水産学者。
 もう亡くなられているけど、彦根の名誉市民だから。
   

 そこから湖岸に出ると松林。これが松原か。
 ここは「鳥人間コンテスト」の会場になっているそう。こんな殺風景ところがなあ。

松原    

 とはいえ、この粗削りなところが琵琶湖の魅力らしい。

 大手門橋を渡ってさらに京橋を渡り、中堀通りを湖の方向に進むと、北野天満宮があります。
 御祭神は菅原道真公。

 北野天満宮入口 鳥居  

 由緒は、彦根(二代)藩主井伊直孝が元和6年(1620)幼少期に過ごした上野国(現在の群馬県安中市)北野寺の天満宮を勧請し、古くからこの地にあった彦根寺を北野寺と改めて別当(管理)寺として、藩主の祈願社としたのが始まりです。

  本殿  

 御祭神が学問の神様(道真公)だけあって、合格祈願の参拝者が絶えず、数多くの絵馬が奉納されています。

合格祈願の絵馬    

 干支の動物を描いた大きな絵馬が飾られています。
 これは近くの滋賀大学の美術部によって製作されたもの。今年の申(さる)はあったけど、来年の酉(とり)はなかった。

干支の絵馬    

 昔は寺も神社も一緒で、寺が神社を管理していたのですが、明治になって神仏分離令によってそれぞれが独立しました。
    

 北野天満宮のとなりに北野寺があります。
 由緒書によると、同寺は養老4年(720)元正天皇の勅願により藤原房前(藤原鎌足の孫)が彦根山(現在の彦根城の地)に彦根寺として開創した。開基は護命上人。

 北野寺山門   

 真言宗豊山派。山号は金亀山(こんきざん)。
 金亀山の由来は、ご本尊が金の亀に乗った観音さまにちなんでいるとか。

 北野寺本堂   

 行者堂には「江州彦根寺 応永十七年」の墨書銘のある木造役行者像(市指定文化財)が安置されているとのことですが、非公開です。

 行者堂

 前身(彦根寺)を入れると、天満宮よりこちらのほうが古かったのだ。

2016.10.11 彦根城の朝

 彦根城は二年前の春にきたことがあります。ときあたかも桜の季節。
 お濠端には一斉に桜が咲き、桜越しに見る天守は格別のものでした。
 しかし、今は秋。
 桜はないけど、むしろそのほうが城をじっくり見学できるのではないか。
      
 まずお濠端のいろは松。
 「いろは」の由来は、47本植えられたことから、いろは47文字になぞらえたということです。
 松に朝日が当たるのが何とも風情があります。

 いろは松  

 さらに進むと二の丸の入口である佐和口。
 門はないけど、クランク状になっていて、直進できないようになっています。
 午前8時前後になると彦根東高校の生徒さんがぞろぞろと登校するのですが、お城入り(登城?)とはうらやましい。

 佐和口   

 表門から坂道を上り、まず目につくのは鐘の丸(広場)と天秤櫓にかかる廊下橋。
 登城するにはこの下をくぐり、鐘の丸に上がってこの橋を渡ります。この橋は戦になると防衛のため切り落とされるので、落とし橋ともいいます。

 鐘の丸(左)と天秤櫓(右)を結ぶ廊下橋   

 鐘の丸から廊下橋を渡って天秤櫓へ。この天秤櫓は左右対称になっていることから名づけられました。

石段を上がって鐘の丸へ 廊下橋の向こうが天秤櫓

 そこをくぐり抜け、さらに坂道を上ってやっと本丸。目の前に彦根城の天守が。
 朝日を浴びて、何ともいえない気品が感じられます。

 天守   

 本丸の東角に着見(つきみ)櫓跡があり、そこから市内(といっても北、東の方向)が見渡せます。左後方に見えるのが琵琶湖。

着見櫓跡から北方を見る    

 お城の風景と朝の空気を堪能して、城を下りました。
 下りたのは内堀にかかる大手門橋。この橋もなかなかの風情があります。

大手門橋 

2016.10.10 本日帰る予定
 先週(10/07)より関西に旅行中です。
 そのためUPした記事はすべて予約投稿です。
 本日(10/10)にもどってくる予定で、明日からは従来通り午前中にUPするつもりです。
 内容はおそらくその旅行記になります。

 三笠公園にやってきました。
 ここは日露戦争で連合艦隊旗艦を務めた戦艦三笠が保存されている(記念艦「みかさ」)公園です。
 またそのときの司令長官・東郷平八郎大将の銅像もあります。

東郷平八郎像   

 記念艦「みかさ」は見学できます。
 三笠の由来は奈良県の三笠山(若草山)にちなんで命名されたとか。

 記念艦「みかさ」  

 またここには三笠桟橋があって、東京湾に浮かぶ無人島「猿島」に渡ることができます。

 猿島へはここから   

 それよりもこの奥にあるさざなみの階段や芝生広場がいい。
 ここからボーッと海を眺めるだけで、この公園の価値はじゅうぶん。

さざなみの階段     

 時間の経つのを忘れます。

芝生広場から見る猿島   

 音楽に合わせて水が噴き出す音楽噴水池や、壁から水が流れる壁泉は工事中でしたが、そんなものなくても、ここにきた意味はありました。

 野外ステージ  

 他にはどぶ板通りや三笠ビル商店街も徘徊しましたが、今回の横須賀散策はこれにて終了します。

平和のアーチ(向こうは猿島) 

 新逸見隧道をくぐり、さらに横須賀隧道をくぐって横須賀駅にやってきました。
 この駅は明治22年(1889)、海軍施設へのアクセスのために開業されました。
 プラットホームから改札口まで段差がなくフラットになっているのは、物資輸送がしやすいためです。戦後はしばらく米軍の横須賀基地への物資輸送に利用されました。

横須賀駅 

 平成9年(1997)同駅は「 関東の駅百選」に認定。その理由が「階段がひとつもない平坦な、人にやさしい駅」というから皮肉なもの。

改札口とホームがフラットに   

ここを初めて訪れたのは5年前の初秋。
駅舎を出ると、すぐ海側にハイカラな公園。
小ぢんまりしているけど、ボードウォークがあって、バラ園がありました。フランス式庭園だそうです。これがヴェルニー公園。

うみかぜの路①   

 「こんなシャレた公園が横須賀にあるのか」
 という思いでした。横須賀が好きになったのはこの公園のおかげ?

開明広場   

 同公園は幕末に日本に招かれて横須賀造船所を建設し、近代工業化の基礎をつくり上げたフランス人技術者レオンス・ヴェルニーにちなんでつくられたもの。

うみかぜの路②   

 しかし、いつも見られるバラがない。
 それもそのはず、記念館の近くの花壇に大砲の模型が置かれるための工事をしていました。
 この大砲は戦艦陸奥の4番砲で、完成は今月末とか。うーん、見るのは来年になるかな。

戦艦陸奥4番砲の模型    

 それでもボードウォーク(「うみかぜの路」という)を歩くのは何とも心地よい。
対岸のドックには巨大なガントリークレーンが見られるし、軍港巡りのクルーズ船もここを通る。(乗ったこともあります)

軍港めぐりのクルーズ船(うしろはガントリークレーン)    

  
 クルーズ船の船着き場、汐入桟橋までやってきました。
ここの景色も好きで潮だまりの水が意外にきれいなのに感心するのですが、この日は最悪。
その前の日は雨だったのか、風が強かったのか、おびただしい漂流物が打ち上げられてました。
それを地元の人が清掃する。ご苦労様です。

ゴミを清掃するおじさんたち   

 あの潮だまりの澄んだ海水もこの人たちのケアがあってこそ。
 改めて感謝しつつ、そこをあとにしました。

 ここでクイズです。この少女、知ってますか?
 えッ、誰だっけ。「赤い靴をはいた女の子」ではなさそうだし……。
 ヒントは少女が手に持った丸いもの。ボール? お手玉? まさか。

 この少女は誰?   

 これは蜜柑(みかん)です。
 といっても「♪みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道……」ではなくて、芥川龍之介の小説「蜜柑」出てくる少女。
  

 この小説は龍之介が横須賀の海軍機関学校の教官をしていたころ、鎌倉の下宿への帰路、横須賀線の車両内で、若い娘が自分を見送るために踏切で待ち構えていた弟たちに、窓から蜜柑をばらばらと投げ与える光景を目撃したというものです。

 吉倉公園  

 この小説は大学に入ったとき、学生寮で知り合ったK君(福島県出身)に教わりました。
 「この娘は東京へ行って、遊郭に売られるんだよ」
 K君はこの小説の影響を受けて、小林多喜二を代表とするプロレタリア文学に傾いていったといいます。
   

 私も「蜜柑」を読みましたが、受け取り方は人それぞれ。
 むろんプロレタリア文学も読みましたが、傾倒するまでは……。
 しかし、のちに大佛次郎の「ごろつき船」「鞍馬天狗・江戸日記」「乞○大将」などを読むと、当時(戦前)の日本(官僚)を痛烈に批判している。
 これは小林多喜二とつながっているのではないか、と思いました。

「蜜柑」の文学碑    

 話が逸れましたが、少女が蜜柑を投げたところがこのあたりというので、公園(吉倉公園)の一画に「蜜柑」の文学碑が建てられました。
 建てたのは龍之介の三男で作曲家の芥川也寸志さん(1925~1989)。

 植樹の記念碑 

 この少女像はそれにちなんで建てられたと思われます。
 そういえば、表情がなんとなくもの悲しい。

横須賀線   

 この公園から海側に横須賀線が走っていますが、その向こうにジョギングしている人の姿が見られました。
 公園にたむろしていたおじさんに聞いてみると、「あっちは自衛隊の敷地だから、入れないよ」
 海に面した通りを歩きたかったのに、残念。
 やむなく新逸見隧道をくぐって横須賀駅に向かいました。

新逸見隧道 

 「横浜DeNAベイスターズ総合練習場」をあとにして、横須賀線の線路を渡りました。
 左方向(横須賀方面)に見えるトンネルが「田の浦トンネル」。
 (田浦駅のホームにあるのが「田浦トンネル」。紛らわしい)

田の浦トンネル    

 その「田の浦トンネル」の上をのぼります。この坂がけっこう急傾斜。
 急な上り坂は塚山公園で慣れたはずだけど、ここへきての急坂は予期していなかっただけにキツイ。しかもまったく無味乾燥な坂道。精神的にも痛めつけられる。

トンネルの上の坂道   

 そうして上ったところが按針台公園。
 京急のパンフレットを見ると、ここから港が見渡せるとのことですが……。

按針台公園    

 展望デッキ(?)に上がってみたけど、フェンスの植え込みが邪魔で足元のほうまで見えない。
 それでもベンチに立って撮った写真がこれ。

 按針台公園からの眺め  

 ははあ、自衛艦が停泊しているのか。この公園の下は自衛隊の基地らしい。
 だとすると、「見られたくない」という意図(国家機密?)があるのではないか。
 むろんベンチの背もたれに立って撮る(年寄りには危ない)手はあるけど、「怪しいヤツ」と思われるのも業腹だ。
  

 以前横須賀の米軍ゲートを撮ったら若い警官に怒鳴られたし、アメリカ大使館を撮ったときは年配の警官がすっ飛んできた。田舎のオッちゃんがそんなに怪しいか。
 こちらとしては何の邪心もなく、「これも風景の一環」として撮ってるだけなのに。
  

 こちらも無理してまで撮ることはないので、公園をあとにしました。
 元きた方向ではなく、小学校のほうへ降りる道。おや?
 道の片側がフェンスになっていて、そこから下の港が丸見え。
 なんだ、これなら公園へ行く必要はなかったのだ。

 道路脇のデッキから見る港  

 ふーむ、これは港というより自衛隊の施設。やっぱりなあ。
 もっとも施設側にしてみれば、ここからのアングルだと撮られても差し支えないということか。

 昨日(10/04)はヤボ用があって所沢に行ってきました。
 天気予報では晴れとのことだったので、多門院を経由しました。多門院というよりその南側に富士山が見えるポイントがあるからですが……。
 うーん、微かに見えたかな。

微かに見える富士    

 そして航空公園。
 春は桜、秋は紅葉で目を楽しませてくれますが、紅葉はまだまだ。
 しかもこの日は暑かった。
   

 暑いときは池が涼しかろうと思ったのですが、周囲の木々の葉っぱが一部紅葉していて、どうも中途半端。よけい蒸し暑く感じました。

 池  

 葉っぱは青々としているほうが涼しく感じられる。
  

 放送塔の南側の花壇。真っ赤なケイトウが咲いていました。

ケイトウ   

 この花壇は地元の小学生が世話をしているそうだけど、えらいもんだ。我われ年寄は「ほう、きれいじゃのう」と眺めるだけ。

 放送塔 

 放送塔の西側は周囲より低い沈床花壇(ここでは「沈床茶園」という)。
 ここは滑走路の跡地。
 そのためか花も飛行機の形に植えられている。これも地元の小学生が植えているとか。
 返す返すも、ここの小学生はえらい。

元は滑走路だったという沈床茶園   

 そんなことを思いながら公園をあとにして、ファルマン通へ。
 ここは所沢のメインストリートで、人通りも多い。当方の住んでいるところとは違って「都会」だ。

所沢のメインストリート   

 ヤボ用というのはこの通りにある大きなメガネ屋さん。
 用件はすぐ済んだけど、帰りの道中は暑くて汗びっしょり。暑いぞ、所沢は。
 もっとも暑かったのは全国的で、東京でも30℃を超えたとか。いい加減、涼しくなってくれ。

 横浜DeNAベイスターズ、クライマックス・シリーズ(CS)進出おめでとうございます。
 かくなる上は巨人を倒して、広島戦に臨んでください。

 ベイスターズの選手   

 「藪から棒に、なんだ。ベイスターズに便乗しおって。このお調子者め!」
 と思われるかもしれないけど、比与宇トンネルをくぐってしばらく歩いたら、「横浜DeNAベイスターズ総合練習場」があったんだからしょうがない。

ネット裏の観覧席     

 練習の見学は無料なので、遠慮なくネット裏の観覧席へ。
 すでに10数人の観客が席に着いていました。
 「おッ、やってる、やってる」
 ケージのなかではバッティング練習。外野ではその打球を捕る守備練習もしています。

打撃練習    

 改めて観客を見ると意外に若い女性が多い。しかも前のほうに陣取っている。なかには大きなカメラを持って選手の写真を撮る女性も。
 ここはイースタンの選手が多い。
 ほとんど知らない選手ばかりだけど、あのハマの番長(三浦投手)だって調子の悪いときはイースタンに落とされ、ここで練習していたといいます。

女性ファンが多い    

 ここは元もと旧海軍軍需本部があったところですが、戦後は大洋漁業の倉庫として使われ、当時の大洋ホエールズ(横浜ベイスターズの前身)の親会社だった関係から、1987年に「横浜大洋ホエールズ総合練習場」として開設されました。

練習場の看板    

 フィールドの大きさは両翼94m、中堅120mで、横浜スタジアムとほぼ同じ。ただし照明設備はなし。レフト後方に見えるのは室内練習所と宿舎。
 練習だけではなく、イースタンの試合もやるそうです。

後方は室内練習場と宿舎   

 今年ベイスターズが躍進した理由として、ラミレス監督の采配と選手への意識改革といわれていますが、それだけではなくイースタンの選手育成が実を結んだとも考えられ、この練習場はあだやおろそかにはできない。

  バント練習

 ベイスターズの主力組はCSに備えて横浜スタジアムで練習していますが、当方のような隠れファンとしては、そっと応援するのみ。
 CSファーストステージは今月の8日(土)14:00~東京ドームで相手は巨人。
 頑張ってや。

 長浦港にやってきました。
 ここは天然の地形に恵まれているため、明治から太平洋戦争終結(昭和20年)まで軍港として使用されてきました。

 長浦港   

 現在では海上自衛隊の艦船が停泊しています。

 停泊する自衛艦   

 またここは旧海軍工廠(こうしょう)造兵部のあったところ。
 海軍工廠とは、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場のこと。今は民間の工場になっていて入ることはできませんが、それでも外からその様相を見ることができます。これは(↘)旧機銃工場(昭和9年築)

旧機銃工場   

 また横須賀には明治初期より海軍兵学校(のちに機関学校)や海軍水雷学校も設けられ、士官を目指す若者が集められました。
  

 これについて、塚山公園の見晴し台で出会ったおじさんにいわせると、
 「むろん優秀な生徒は出世していったけど、なかには『泳げない』『船に弱い』という不適格者もいますわな。そんな生徒に関して教官は情け容赦なくしごいたものだから、耐えられずトンネルの上から軍用鉄道(今のJR横須賀線)に飛び込む若者があとを絶たなかったそうだよ」
 「自殺ですか?」
 「そう、ほとんどが士族の出身で、郷里から期待されて送り出されているから、帰るに帰れないんだよ」
 「悲惨ですね」
 「そうだよ。こんな話は地元の人ならみんな知ってるよ」

旧海軍軍需部長浦倉庫    

 横須賀市の広報やWebで海軍兵学校・海軍水雷学校のことを調べてみても、「自殺者が続出した」なんて記述はどこにもない。(当然でしょうな)
 陸軍ではなくて、海軍までも。どうやら下級兵士や劣等生に対するイジメはこの国の軍隊の伝統らしい。上層部は国民から供出された貴金属類をごっそりガメていたというのに。

 引込線    

 さてそこから田浦の海岸通りを歩いたのですが、これが自衛隊の敷地や工場に阻まれて、海の見えるところには出られない。どこが海岸通りだ。

レールの交差点   

 見るべきものは倉庫群と貨物列車の引込線跡癖籟。
 数年前までは貨物列車が走っていたらしいけど、今はまったくなし。
 それでも清掃のおじさんが線路を掃いてました。廃線になっても掃除は怠りない。立派です。

 比与宇トンネル①  

 さらに歩くと比与宇トンネル。
 これは戦前まで田浦駅構内から軍事用引込み線のトンネルでした。周囲には弾薬庫関連の施設があり、弾薬の積み降ろしはこのトンネル内で行われていました。(京急のパンフレット)
 今は廃線となり、車と歩行者が行き来しています。

比与宇トンネル② 

2016.10.02 浦賀道を歩く

 塚山公園から富士見台、鹿島台を通って、JR田浦へ向かう細い道を下りました。
 これを浦賀道(うらがみち)といいます。
  

 浦賀道(=浦賀街道)は保土ヶ谷・戸塚から浦賀に向かう道で、東海道の脇道(浦賀から船で房総に渡る)として利用されてきました。
 地図で見ると、塚山公園から田浦への道はくねくねと曲がりくねっています。これは山道だからでしょう。

田畑も多い      

 これまで険しい道を上ってきたのだから、あとは下る一方(?)。
 このあたりを十三峠といいます。
 その由来は、保土ヶ谷より13番目の峠であるとか、13仏を祀った寺があったとか諸説ありますが、ここは浦賀道の難所とされてきました。

 建設機械の会社   

 しかしここからの眺めはいい。
 長浦湾はもちろん、猿島まで近くに見える。位置的には塚山公園から少し遠のき、しかも高度が下がったというのに。遮蔽物がなくなったから?

十三峠から見た猿島     

 ここで先日報道されていたイグノーベル賞の「股のぞき」を思い出し、それで撮ってみました。
 農家のおばさんに怪訝な顔されたけど、知ったことか。天橋立ではこれが「常識」だい。
 しかしファイルで見ると、なんのことはない、ただの逆さま写真。
 これならふつうに撮ってひっくり返せばいいだけのこと? 
 いやいや、これはこれで意味があると思いたい。

股のぞき写真     

 この十三峠、最初はなだらかに思ったけど急な坂もあって、上りならキツイだろうなと思います。難所といわれるのも道理。

十三峠の標識    

 十三峠の標識がありました。
 下りはJR田浦。上りは塚山公園と田浦梅の里。地図で見るとU字状になっていて、田浦梅の里(浦賀道)へはまた上らなければならない。
 「うーん、今は梅の季節ではないしなあ」
 と理由をつけて下りる道を選びました(日和見?)。

 のの字坂      

 これで浦賀道から別れたわけですが、これはこれで面白い。
 円形にグルーッと回る「のの字坂」
 これは戦前砲台への物資を運ぶためにつくられた坂で急峻な地点をなだらかにするための工夫と思われます。「まいまいず井戸」のような感じでした。

ながかまトンネル     

 そして「ながかまトンネル」をくぐり抜けると、すぐJR田浦駅。
 「これがJRの駅か」
 駅前は飲食店もなにもない。あまりの殺風景さに愕然としました。

JR田浦駅