滝の川せせらぎ緑道は第二京浜の手前で終わります。
 ここには境橋が架かっていたのですが、今は石柱が残るのみ。

 境橋の石柱   

 そのとなりが反町(たんまち)公園。
 遊具もなく、何の変哲もない公園ですが、どこか由緒ありげな風情。

入口    

 調べてみると、このあたりは江戸時代神奈川宿、昭和初期になると青木町遊郭となって栄えていたそうです。
   

 1945年5月横浜大空襲によって遊郭が焼失。戦後は占領軍により接収されました。
 接収が解除されたあと、1949年(3月15日~6月15日)「日本貿易博覧会」の第二会場(神奈川会場)となり、閉会後、跡地は横浜市役所市庁舎となりました。

 公園内   

 1959年市庁舎は関内に移転し、1963年跡地に「反町公園」が開設されました。
 開園当初はジェットコースター、プール、ゴーカート場などが設置され、公園というより遊園地という感じでしたが、徐々に撤去され、現在の公園になりました。(Wikipedia)

 裸婦のブロンズ像    

 おどろきました。ここが横浜市役所だったとは。
   

 南のほうの広場では太極拳をされているお年寄り姿が。

太極拳①    

 なかなか決まっています。

太極拳②    

 この公園は横浜の歴史とともに歩んできたといえましょう。
 お年寄りが太極拳をやるのにまさにうってつけ。励みなされやー。

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 東横フラワー緑道の途中にある平川町公園から、また別の遊歩道が続いています。
 これが「滝の川せせらぎ緑道」

 平川町公園から東神奈川方向へ   

 ここは以前、滝の川という小さな川が流れていたのですが、都市化によって水質が悪くなり、満潮時には海水が逆流して濁水するので、暗渠にしてその上を遊歩道にしました。
       
 入口にはお椀を伏せたようなオブジェ?
 これは水の噴き出し口。下を流れるドブ川(?)とちがって、下水処理場で浄化された水だそうです。

 水の吹き出し口  

 水はチョロチョロと水路を流れ、

 水のせせらぎ  

 取水口に流れて行きます。この取水口もト音記号に似た面白い形。

 取水口  

 さらに遊歩道は続き、

 遊歩道が続く  

 道路と交差するところでは橋の欄干がそのまま残されています。
 改めて、以前は川であったと思い知らされます。

 橋の欄干がそのまま

 路面に描かれた亀のタイル画。
 これは近くの慶雲寺に伝わる浦島伝説に因んだもの。(以前にも述べたので割愛)

 亀のタイル絵   

 この道はやはり近所の人が散歩するのに適した道。
 とくに今の季節は涼しくてありがたい。
  

 ただし地方の人間がわざわざ途中下車して寄るほどのところではなく、旧東海道散策のついでに寄ればいいのでは。

 東急東横線がみなとみらい線と直結したのが平成16年(2004)。
 それによって地上を走っていた東横線が東白楽から地下に潜るようになりました。
 それまであった線路跡を有効利用して遊歩道にしたのが「東横フラワー緑道」です。全長約1.4km。

緑道へ向かう道    

 東白楽から500mほど南下したところに、地下への入口があります。
 その上が緑道の出発点。

東横線・地下入り口    

 なるほど、道の両側には四季折々の花が。このとき(7月中旬)はアガバンサス。

 遊歩道(下を東横線が走る)   

 板張りになっていて、線路が残されている所があります。これがふつうの遊歩道とはちがうところ。

線路跡    

 花壇もあって、心を和ませてくれます。

花壇    

 所どころ小屋状の建物がありますが、これは通気口らしい。
 ときどきゴーッという音がするのは下を電車が通過しているから。これもこの緑道ならではの持ち味。

 通気口   

 反町駅の上になると、洒落た煉瓦づくりの歩道になります。
 このあたりは以前は東横線の高架線が走っていて騒音が激しかったそうで、地下化されて静かになったとか。向こうにトンネルが見えます。

反町駅上   

 トンネルは「高島山トンネル

 東横線が地上を走っていたときからこのトンネルはあったけど、地下化されてからは老朽化などの理由で封鎖。補強工事が終わって開通(平成23年=2011)されて、緑道はやっと横浜駅につながりました。
高島山トンネレ    

 そう思うと、このトンネルもあだやおろそかには通れない。

 トンネル内   

 それを出ると旧東海道(神奈川宿歴史の道)と交差します。

 トンネルを振り返る   

 この遊歩道はなかなか洒落ていて、味わいがあり、沿道の人にとっては(横浜駅への最短道路なので)ありがたい散歩道でしょう。
  

 地方の者にとっては、そう何度も歩きたいところではないけど。

 今回、思わず力を入れて書いてしまった私の「京都論」
 そのきっかけになったのは、井上章一「京都ぎらい」(朝日新書)なる一冊の書物です。
 著者が京都ぎらいになったのは、出身地である嵯峨を「あんなとこは京都やない」と洛中モンから「いけず」をいわれたことが原因のようです。
    

 私の出身地は左京区吉田。完全に洛外ですが、そんな「差別」があるとは思いもしなかった。
 そんな私が「洛中・洛外」観を述べるのはおこがましいけど、敢えて述べさせていただく。

 私は差別こそ受けなかったけど、コンプレックスを二度味わっています。
 一度目は中学に進学したとき。
 私の学区吉田の小学校は京都市立第四錦林小学校(四錦)で、中学(京都市立近衛中学校)に上がると、北白川、錦林の二校と一緒になります。このとき北白川の連中が妙にまぶしかった。
   

 北白川は四錦よりもっと洛外ですが、いわゆる文教地区(東京でいえば、国立、杉並、世田谷あたり)。学者や教育者の住む町で、洛中の京都とは何の影響も受けない、独自の文化と気品を保った地域でした。
 彼らは我われ四錦生より人間が一段「上等」に見えました。近所(今出川通の向かい)の電気屋のガキでさえも。
 今でも親しくしている中学の幹事や伏見の友は北白川出身です。
   

 二度目のコンプレックスは高校に進学したとき。
 この高校(京都府立鴨沂高校)は多くの中学校が集まりましたが、いわゆる町(洛中)の中学とも合流しました。
   
 このときは洛中の連中がまぶしかった。「大人や」
 地域的に商家の子が多かったのかもしれませんが、話し上手、ユーモアのセンスもある。女子との接し方も自然で、手慣れている。

母校 

 とくに一学期の学級委員を務めたО君はオーラがあり、みんなを引っ張る統率力がありました。
 当時私は落ち着きがなく、となりのヤツとよく私語を交わしましたが、そのたび「こらッ、お前ら、静かにせえッ」と怒られました。
 ふつう、同年代の人間にこのように怒られると、たとえこちらが悪くてもムカッとするものですが、彼に怒られると「本当に悪かったな」と思いました。
    

 三年になると、洛中の生徒のなかには車の免許を取った者もいて、実際に乗せてもらったこともあります。
 とにかく洛中の連中はカッコよかった。

 あれから約半世紀建って高校の同窓会に出席してみると、いわゆる「洛中」の同窓生はほとんど出席していない。これまで二度出席したけど、あのカッコよかったО君をはじめ、三年のとき車に乗せてくれた連中も、姿を見せない。
 出席した人に聞いてみると、「さあ」「こないねえ」と首を傾げるばかり。
   

 幹事にしても、これまで務めてくれた同窓生は、出身小学校でいうと、北白川、三錦、錦林……いずれも洛外校。
 これは一体どういうことか。
     

 高校時代は洛外生とも分け隔てなく机を並べたけど、卒業して長ずるに連れ、「洛中の旦那」としての世間知を身につけていった?
 その世間知とは伏見の友がいっていた公家文化の名残り……。
    

 同窓会なんて益体もないことに誰が出席するかい。幹事? あれは「うれしがり」のするこっちゃ。……まさか。
      

 そうでないことを願うばかりです。(完)

 京都の同窓会については、前もって出欠の確認をしたとき、「出席する」といっておいて、いざとなると「欠席」の返事を寄こしてきた人が6~7人(男女を問わず)いました。むろん、行こうと思っていても生憎その日は行かれない、という事情があったのかもしれない。
 それにしても、にこやかに「行く」といったギャップがありすぎるのではないか。
   

 これについて伏見の友人は「それは京都の忖度(そんたく)文化や」といいました。
 忖度とは他人の気持ちを推しはかるという意味です。
 「面と向かって聞かれたら、行きとうのうても、色よい返事をするのが京都人や。いきなり断るのは失礼や、と考えとる」
 「色よい返事をしておいて、それを平気で覆すほうが失礼やないか」
   

 「それや。本当は行きとうなかったんやけど、そこを忖度してくれ、というのや」
 「そんな忖度できるかい。さっきからお前は何を偉そうに京都人の擁護ばっかりしとるのや」
 「擁護なんかしてへん。説明してるだけや。ワシかて地方(京都以外)の人間のほうがよっぽどつき合いやすいわい」
 つい熱くなってしまいましたが、彼のいうことにも一理あります。「京の茶漬け」はまさにこの忖度文化。

 公のことに協力したがらないことについては「公家文化の名残りや」といいます。
 「公家は『よきにはからえ』いうて、音頭を取るようなことはせん。役員なんか真っ平や。人前に立ってワァワァやるのは武士のやることで、下世話なこととされてきた。そのくせ自分の意にそまない方向にいくと、陰でブチブチいいよる。これが公家の体質や」

 たしかに京都にはそういう人間が多い。してみるとあれは公家の体質?。
 私は母親から「役なんかやらんとおき」といわれましたが、親からこんなことをいわれたのは私だけではなかったと思われます。(公家意識とは笑わせるけど)

伏見の風景    

 伏見の友はさらにこんなこともいいました。
 「ワシは仕事の都合で関東にも何年か住んだけど、関東のほうが見栄っ張りで、恥や外聞を気にするのとちがうか。役員を頼まれて断りにくい、というのは一種の見栄もあるのやろ」
 「えーッ、見栄かなあ。断ると悪いような、居づらくなるような気はするけど」
 「それが見栄や。誤解するな、ええ意味でいうてんのや。ところが京都の人間にはそんな見栄はないぞ」
 「『なんやこの人、非協力的な人やなあ』と思われてもかまわんのか。その会に居づらくならんのか」
 「そこが京都や。『ああ、あの人は役員なんかやらへんお人や』ということで、許容されるのや。そういうポジションを取ったもん勝ちや」
 「ポジションって、そんなもの一種の甘えやないか」
 「そうともいえるけど、それが京都や」
  

 そういう「公家気質」がのうのうと生きられる空気が京都にあるのではないか。
 幹事も周囲もそういう人を許容している。やさしい世界ともいえる。
   

 彼にいわせると、公家には「武士道」がないだけに無節操なことも平気でできる。
 「その典型が明治維新の立役者・岩倉具視や。平気で人を裏切り、約束を反故にしとる。恥の概念がないのや」(あくまでも彼の意見です)
  

 しかし京女がそんな非協力的な人間ばかりとは思えない。中学、高校の同窓会でも協力的な女性は数多くいる。それを指摘すると、
 「はははは。それはお前、扱い方があるんや」

 *

 思えば我が小学校の同窓会も数人の女性に受付を手伝ってもらいました。
 これには取手の友の功績が大きい。
 彼は会場との打ち合わせのとき、ある女性に「顔出してくれるだけでええのや」
 「そんなこというても、なんか意見いわんならんのやろ」
 「そんなんかまへん。ただニコニコしてるだけでええ」
   

 同窓会当日も、「始まるまでボーッとしてるのも退屈やろ。よかったら受付手伝うて」
 と3人の女性に受付をやらせました。
   

 彼は私より10年以上長く京都にいたため、京女の扱い方を心得ているようです。
 どうやら真正面から依頼するより、気楽に入ったほうがいいらしい。
 彼女たちは責任を問われないとなると甲斐甲斐しく働いてくれる。伏見のヤツがいっていたのはこういうことだったのか。
   

 融通の利かない「関東人」には苦手の分野ですが。

 これまでの記事を読んで、
 「それはあんたの小学校の特殊な事情だろう。それだけで京都人が公共心が薄いとはいえないのではないか。それに中学、高校の同窓会はあるだろう。公共心が薄ければ成り立たないではないか」
 と疑問に駆られる向きもあろうかと思います。
   

 たしかに私の小学校は特殊かもしれません。個々では仲がいいけど、それが同窓会にまではつながらない。昨年初めて関東の人間が実現させたわけですから。
 その音頭を取った私がもうやらないのだから、同窓会は二度と開かれることはないでしょう。
   

 むろん京都にも同窓会はあります。中学、高校では「公共心に篤い」幹事さんが熱心にやっておられます。
 みんな私の友人ですが、融通の利かない「関東人」である私とはちがって、この人たちには底知れぬ寛容さがあります。
    

 私が京都の女性に、クラス幹事をけんもほろろに断られたことや、「行けたら行く」といわれて準備会をすっぽかされたことなどをぼやいたら、「ははは。それが京都でんがな」と諫められました。
 彼らはすべてわかっているのです。わかっていながら上手に付き合っている。

 これは以前作家の藤本義一氏(故人)がいわれていたことですが、
 例えば東京の男が京都の女性をデートに誘ったとする。すると彼女は「おおきに」という。
 「おおきに」とは「ありがとう」のことだから、東京男は有頂天になる。しかし……。
 彼女は誘われたことに対して礼をいったのであって、行く、行かないは別。大てい拒否の場合が多い。
   

 また「行けたら行く」という重宝なことばもある。
 これらのことばは、相手を傷つけまいとする京女の配慮(やさしさ)だとされている。
 本当にそうだろうか。

八坂神社    

 そのときは知らされなくても、結果的には断られるのだから、傷つくことには変りない。むしろ期待を持たされた分、断られた傷は大きくなる。だったら最初から断ってくれたほうがいい。
 ということで、京女の期待を持たせるような断り方は、相手に対する配慮でもやさしさでも何でもない。
    

 ではこれは京女の(いい人に思われたいという)自己保身なのか。
 自己保身にはちがいないけど、浅はかな自己保身だ。あとで「裏切られた」と知られたら、そのほうがもっと心象が悪くなる。したがって自己保身にもなってない。

 これについて、京都の友人(中学の幹事)がこんなことをいいました。
 「京都は応仁の乱から幕末の勤王・佐幕闘争まで、血で血を洗う政争に明け暮れた。したがって一般市民はどちらとも取れるような受け答えをしたんとちがうか。そのDNAが残ってるのや」
     

 つまり京女のことばは、その場しのぎの取り繕いだという。
 その場さえ切り抜けてしまえば、あとでばれても、そこには居合わせてないので斬られる心配はない。「アッカンベー」だ。
 離れてしまえば、アカの他人だから、どう思われてもかまわない。
 そんな図太さが京女にはあるらしい。
    

 昔の京都の町人はうっかりきらわれるようなことをいうと、その場で斬り殺される、そんな修羅場に立たされていた。
 そのDNAが京女に脈々と引き継がれているというのですが……。

 事の始まりは一昨年の4月、高校の同窓会でした。
 会場で小学校の同級生B君(京都在住)と再会して、「小学校の同窓会をやろう」ということになりました。
   

 他の小学校では何度も同窓会を開いているのに、母校は一度もない。
 これではいかんだろう、と学級委員だったB君を中心に、関東在住の同窓生とも連絡をとって、B君にいろいろ提案しました。
  

 しかし一向に返事がない。(三か月間も)
 変だなと思って電話したら、「学年全体なんて約束がちがう。ぼく、いやや。そっちでやって」
と名簿を投げて寄こしました。
   

 こうなったら自分でやるしかない、と同窓会の賛否を問う多アンケートとメッセージ、返信用封筒に切手まで貼って同窓生にひとりずつ郵送しました。
 55名に出した結果、参加したい…60%、参加しない…10%、どちらともいえない…⒛%、未回答…10%(切手返せ!)
  

 取手の友と相談をして「やってみよう」ということになったのですが、幹事(委員)の会議、会場への連絡などでどうしても京都に拠点がいる。
 そこで「京都の同窓生が京都で行う同窓会なのに、関東の者が指揮をとるのはどう考えても不自然でしょう。誰かまとめ役をやってくれませんか」と地元の主だった面々に頼みました。すると……。
      

 「京都に拠点が必要でしょうか。関東の人がやられて何の不都合がありましょうか。クラス幹事にしてもそちらの身内(関東)の方でやられればいいと思います」
 と回答してきたのはいろいろ提案してくれたT君。
 その心は、「いい出しっぺはあなた方関東の人たちでしょ。だったら関東の方がやったらどうですか。こちらはお手伝いはしますけど、代表にはなりません」というものです。
   

 このことばで私の心は決まりました。「こうなったら、こっちでやったるわい」

吉田神社(母校近く)    

 「では私がやります」と旗を揚げると、彼らは打ち合わせにも参加してくれ、いろいろ意見もいってくれた。「そっちでやって」と名簿を投げてきたB君でさえも。
 彼は本当は「いい人」なのです。しかし責任を取らされるのはかなわん。私がやることになって、もう責任を問われることはない。だから安心してやってきたのでしょう。
   

 しかし女子の協力もほしい。クラス幹事に女子の名がないと女性の出席率は悪くなる。
 そこでアンケートで非常に好意的な意見を寄せてきた女性のメールアドレスをB君に教えてもらい、
 「労力の負担は一切かけないから、クラス幹事に名を連ねてもらえないだろうか」
と頼んだところ、
 「あれほどB君にもいったのに。来年は検査などもあって、とてもできる状態ではありません。お断りします!」とけんもほろろの勢い。
 最初のころだったのでショックでしたが、「失礼しました。もう二度と頼みません」と返事を出し、メールアドレスを削除しました。
   

 もっともこの女性だけではなく、クラス幹事の件はことごとく断られました。
 また準備会を呼びかけたとき、「行けたら行くわ」と答えた女性が数人いました。
 しかしひとりもこない。
 京女の「行けたら行く」は拒否の言葉であると、改めて思い知らされました。
    

 この様に前途は多難を極めましたが、会場との打ち合わせも綿密に行い、同窓会は昨年9月、30名の出席者を得て、まずまず成功裏に終わりました。
 みんなから、「よかった、よかった」「楽しかった」「ありがとう」……と感謝の声が寄せられてよかった、とは思います。
  

 しかし私としては二度と幹事はやりたくない。
 「関東の人がやって何の支障がありますか」といわれたけど、支障は大いにありました。
 二次会の場所を決めるのに、現地の人間なら実際に見て交渉できるけど、遠方のためネットで調べて電話で交渉したこと。結果的には問題はなかったものの、場所を知らしめるのに苦労した。
  

 何よりの支障は、二度の打ち合わせに京都へ足を運んだため、交通費・宿泊費がかかったこと。
 これは取手の友をはじめ、関東の同窓生からは「自腹を切るようなことをしてはいかん」といわれたので、同窓会費の支出に計上しました。(といっても車を使ったので新幹線を使うよりはるかに安上がりでしたが)
 赤字にはならなかったけど、地元の人がやっていれば、こんな費用はかからなかったはず。
    

 ともあれ、それも過ぎたこと。よかった、よかった。

 私の母親にいわせれば、息子のクラスは「うれしがり」が多いことになります。
 実際、「はい」「はい」と手を挙げたのは勉強ができる子というより「目立ちたがり屋」が多かったようです。選挙はいわば人気投票なもの。
 息子が通っていたのは府中市(東京都)の公立小学校。ごくふつうの小学校です。
 ということは、関東では似たようなものだと思います。
   

 息子に「お前は立候補したのか」と聞いたら、「しないよ」と答えました。父親に似ています。
 そんな息子も大学生になり、演劇部に入ると俄然リーダーシップを発揮し、1年から小道具、脚本、演出、主演、広報を手掛け、2年目には座長になって劇団員を引っ張りました。
 このあたりは母親の関東女の血を引いています。

 私の好きな横浜。
 毎年4月になると、野毛で「大道芸大会」が開かれます。
 例えば風船男の芸。
 大きな風船のなかに入って、飛んだり跳ねたり転がったりした挙句、
 「誰か、この風船に入ってみたい人!」
 すると前に陣取った小学生が「はい」「はい」「はい」……と勢いよく手を挙げる。男子も女子も。

野毛大道芸    

 今では当たり前の光景ですが、最初にこれを見たときはおどろきました。
 京都の小学生では考えられない。
 私たちが小学生のころは、当てられまいと逃げ回っていた。
 いつも要領の悪い子が当てられて、仕方往く香具師(やし)にいじられる。そんなパターンでした。
   

 しかし横浜ではみんな積極的で、いじられることを楽しんでいる。
 これを見るたび、私は横浜の教育関係者に礼をいいたくなる。
 子どもたちは大道芸を楽しむ術を心得ている。面白かった芸にはちゃんと心付(投げ銭)を置いていく。
 よくぞここまで教えてくださった。(もっとも学校ではなく、家庭で教えられたのかもしれないけど)

 これら三つのエピソードを通じて、私は何がいいたいのか。
 ざっくりいえば、
 「関東の人間は公のためにひと肌脱ぐ(奉仕する)という気持ちが強いのに対して、京都の人間は希薄である。それどころか、何の得にもならないので辞退する」ということです。
    

 私は長年関東に住むに連れ、次第に関東人の気質に慣れ、団地の自治会や俳句会などで役員を頼まれると、断らずにやるようになりました。
 私の見たところ、関東では頑なに拒否する人はあまりいないように思われます。
 昨年、川越の某短歌会を見学しましたが、このときも役員は(比較的)スムーズに決まりました。
   

 一方京都では「いやや」「いやや」と頑な拒否する人がいて、なかなか決まらない。とくに女性がそう。
 それをいやというほど思い知らされたのは、小学校の同窓会でした。

 私は学生時代から関東に暮らしていますが、如実に「東京人」との違いを思い知らされたのは、新宿の出版社に就職してからです。

 倉庫の整理を手伝ったことで、営業部のYという同い年の男と親しくなりました。
 キリッとしていなせな男で、笑うと人なつっこい顔になりました。
 そのYがあるときこんなことをいいました。「今度の日曜は三社祭(浅草)に神輿を担ぎに行くんだ」
 「えッ、神輿を担ぎに。日当でももらえるのか?」
 「ははは、そんなものはねえよ。ただ担ぎたいから行くだけよ」
  

 彼にいわせると、神輿担ぎは一種の趣味のようなもので、祭になるとあちこちから同好の士が集まってくる。といっても、そこの神輿の連中に顔を覚えられなければ、担がせてもらえない、とのこと。
 担ぐにしても位置取りがあり、本当は先頭で担ぎたいけど、ここは(危険でもあるし)よほど年季が入らないと任されない。

 しかし担いでいるときは無性に楽しいし、終わってからみんなで酌み交わす酒(これは神社の側から出る)が最高に美味い。彼は浅草だけではなく、大國魂神社(府中)、富岡八幡宮(深川)でも常連だとか。
 「危ないこともあったよ。府中のくらやみ祭のときは神輿が暴れて倒れそうになり、死ぬかと思ったよ」

大國魂神社のくらやみ祭   

 話を聞いていて、祭に対する京都と東京の違いを痛感しました。
 祇園祭で山車を引いているのは学生アルバイトである。しかしこちらでは無償の有志が神輿を担ぐ。
 そして「こんな男は京都には絶対にいない」と思いました。
 (思えば「日当もらえるの?」とは失礼な質問でした)
        
 
京都(少なくとも私の周囲)の人間がこれを聞いたら、「そんなしんどい思いして、危険な目にもおうて、よう行かはるなあ、一銭にもならへんのに。そんなにうれしいんか」というでしょう。

 息子が小学生のとき、学級委員の選挙の様子を聞かされたことがあります。
 担任が「学級委員、やりたい人」というと、「はい」「はい」「オレやる、オレやる」と(主に男子が)4~5人が立候補し、選挙で決めるというのです。
         

 4~5人が立候補するなんて、京都の小学校では考えられない。
 我われの小学校時代(中高もそうだったけど)はなり手がなくて、みんなで何人かを推挙して選挙に入るというものでした。それでも拒否する子が続出し、担任が説得してようやく決まる、というものでした。
        

 私は推挙されても頑強に拒否した口です。
 というのも母親からこんなことをいわれてました。
 「あんたはおっちょこちょいで気が弱いから、頼まれると断れへんやろ。せやけど委員なんかやったらあかんえ。勉強の妨げになるし、あんなんはうれしがりのやることや」
       

 「うれしがり」というのは関東弁での適切なことばは見つかりませんが、「浮かれ者」が近い?
 いずれにせよ、バカにしたことばです。

 私は京都出身でありながら、京都がきらい。
 そのくせ関東の人間から「京の茶漬け」のことをいわれると、
 「当方は20年間京都で過ごしたけど、そんなことは一度もなかった」
 と色をなして否定します。
      
 以前このことで抗議のFAXを「悠々ワイド」(TBSラジオ)の大沢悠里さんに送ったことがあります。「実際にそのような仕打ちを受けたのならともかく、伝聞でいうのはやめていただきたい」と。

 そんな私が興味を持って読んだのが同じ「京都」出身の井上章一「京都ぎらい」(朝日新書)
 私の京都ぎらいの原因解明の手がかりになれば、と期待したのですが……。

  「京都ぎらい」

 著者にいわせると、「ぼくの出身は嵯峨で、在住は宇治市。洛中の人間からは嵯峨も宇治も京都とみなされない。そやからぼくは京都人扱いされることを拒否する」とのこと。
  

 学生時代、下京区の町家で博物館にもなっている古民家を取材したとき、そこの九代目当主(著述家)からこういわれた。
 「君は嵯峨の子か。懐かしいな。昔、あのあたりのお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」
 著者の説では、これは「嵯峨なんか田舎や。京都とはちがうで」というあてこすり(いけず)である。ここでいう京都とは洛中(市の中心地。中京区・下京区)のこと。
  

 それに追い打ちをかけたのが、国立民族博物館顧問(当時)の梅棹忠夫氏(故人)。
 「あのへん(嵯峨)は言葉づかいがおかしかったから、ぼくらが中学生のときは、まねをしてよう笑いおうたもんや。じかにからこうたりもしたな」
    

 公正であるべき学者でもそうか。そんなこともあって、著者はますます卑屈になり、京都ぎらいになっていく。
   

 洛中のエリート意識(優越感)は、それを持ち上げる東京のマスコミにある、と著者はいう。
 それで国の内外から人が押し寄せるものだから、それが実力と錯覚して、ふんぞり返っている。千年の歴史にアグラをかいた卑しい姿だ。
  

 その典型が寺院である。高い拝観料を徴収しているくせに、それらの収入は宗教法人へのお布施扱いにして無税。さらに雑誌などで撮影するときは「撮影料」をふんだくる。その額は小さい寺で3万、「金銀苔石」(金閣寺、銀閣寺、西芳寺、竜安寺)となると20万とか。
   

 これでは坊主丸儲けやないか。しかもその金で、衣を着たまま祇園のキャバレーで女の子とうつつを抜かす。京都は生臭坊主ばっかりや。(私ではなく、井上氏がいっている)

 *

 おどろきました。嵯峨が洛中からバカにされ続けてきたとは。
 ただし疑問も残ります。嵯峨出身の人がみんな同じように「京都ぎらい」なのか。
   

 私の出身地は左京区吉田(吉田山の麓)。嵯峨とは正反対の東方に位置しますが、京都流の分類では洛外です。
 しかし洛中の人たちから、「いけず」を受けた覚えは一度もない。
 これは私が鈍感だったから?
 あるいは単に「いけず」をいう人に出会わなかっただけ?
  

 地理的環境でいうと、私の地域は京都大学の近くで、いわば学問の街。
 洛中からすれば、「田舎者」扱いしにくいところかもしれない。
 だから、井上氏のような体験がなかった?
  

 井上氏が洛中の人たちから受けた「いけず」は事実だと思います。
 洛中の人は洛外に対してある種の「優越意識」を持っている。これはあり得ること。東京だって千葉や埼玉を田舎扱いしているから。
 そのことで京都ぎらいになっていったのは、わからないでもない。
  

 しかし、これでは私の京都ぎらいの理由とはちがうし、原因解明の手がかりとなると、はなはだおぼつかない。
 共通点があるとすれば、個人的に受けた仕打ちから、「京都人」気質を一般化していったこと。
   

 私が京都人をきらう理由は、「公の場に立ちたがらない」こと。この一点です。

 神武寺に着きました。
 当方としては、「天園ハイキングコースを下りて瑞泉寺に着く」というイメージを描いていたのですが、それは見事に外れ、いきなり殺風景な境内に。
   

 同寺は奈良時代、聖武天皇の夢枕に現れた薬師如来が「東方に寺を建てよ」とのお告げから、神亀元年(724)行基によって創建されたといわれています。
 この薬師堂は神武寺に現存する最も古い建築物で寛文6年(1666)に再建されたとか。

薬師堂    

 他には安産地蔵尊が祀られている地蔵堂。
 頼朝が妻政子の安産祈願に訪れたそうですが、ここかな?

地蔵堂    

 宝暦11年(1761)に建立された楼門。なかなか立派です。

楼門   

 また樹齢400年といわれるホルトの木(通称「なんじゃもんじゃ」)があります。
 (それがなんじゃ?)

なんじゃもんじゃの木    

 六地蔵も大木の根っこに。
 何とも風情があります。

 大木の根っこにある六地蔵   

 そして最も風情があるのは鐘楼。
 この神武寺の晩鐘は(どんな音がするのか知らんけど)、「城ヶ島の落雁」や「猿島の晴嵐」と並んで三浦半島八景のひとつに挙げられているそうな。

鐘楼   

 しかし当方にとっては今やどうでもいいこと。
 むしろ「神武寺の殺風景」を逗子八景に入れてくれい。

 鷹取山公園(横須賀市)から神武寺(逗子市)に下りるハイキングコースに入りました。
 いきなり険しい下り道。
 それを過ぎると、今度は急な上り坂。
 それはいい、手すりがあるし、安全ははかられている。

 下りの次は急な上り  

 なにせハイキングコースだ、多少ハードな個所もあるだろう。
 獣道のようなところもあれば、岩がむき出しのところもある。まあ、それも山の道。

むき出しの岩    

 そんなことを思いながら、しばらく険しい山道を下りました。しかし……、
   

 「神武寺ハイキングコース」という標識。
 それはわかっとる。しかし矢印の方向に進むと、なんだ、これは。
   

 崖の壁面に張られた細い鎖と、中腹にある棚のような細い崖路。
 ひえーッ、こんなところを鎖を伝って進めというのか。聞いてねえよ。

 崖にかけられた細い鎖   

 それも仕方がない。ハイキングコースにはそんな個所もあろうて。
 気を取り直して、鎖をつかみながら、恐る恐る歩を進めました。
   

 背後に人の声がしたので、振り返ると若い男がふたりやってきました。
 彼らもここを通るに違いない。だとすると、さっさと進まなければ。
 年寄がのろのろ歩いて、後続がつっかえては申しわけない。

鎖場を振り返る    

 そう思って、なんとか鎖の崖っぷちを渡り切り、後続を待ちました。
 鎖を伝ってくる彼らの姿を撮ってやろうと思ったからです。しかし……。
   

 いくら待っても一向にくる気配はない。別の道があるのだろうか、それとも引き返したのか。
 仕方がない、彼らのことは諦め、前へ進みました。
   

 しかしこれがUターンするような方向、しかも途中から上り坂になっている。通ってきた道のような……。
 あれッ、元にもどってる?
 道を間違えたかと、引き返して確認したけど、道はこれしかない。ままよ、と進みました。
   

 京急のパンフレットの地図とは違い、実際の道はジグザグのつづら折れ、しかもアップダウンの激しい坂。山頂から神武寺まで降りる一方だと思ったら大間違いです。
   

 なによりも精神的に悪い。
 天園(鎌倉)なら人工的につくられた道とわかるので安心感があるけど、こちらは「勝手に歩け」とばかり放置されている(?)ので、「これでいいのか」という不安に駆られっぱなし。

 神武寺の標識   

 そんな状態だから、「神武寺」の標識にようやくホッとしました。
 もっともそこからの険しい石畳にさんざん痛めつけられましたが。

 険しい石畳の道   

 距離的には天園よりも短いけど、部分的には天園よりも過酷なところがあって、とても高齢者が「気軽に楽しめる」コースではないぞ。
 ひょっとして地元の老人はこれを心配した?
   

  いずれにせよ、もう二度とくることはないけど、このことは孫子の代(?)まで伝えておこうっと。

 磨崖仏からさらに歩くと、開けたところに出ました。
 鷹取山公園です。

鷹取山公園     

 広場になっていて、四阿もあり、老人がふたり談笑していました。
   

 なにより見晴らしがいい。横須賀(追浜)の市街地が見渡せます。

公園から見た横須賀の市街地     

 しかし、あの老人たちは小さな犬を連れて、私が登ってきた秘境コース(?)を歩いてきたとは思えない。
 周辺を歩き回って調べてみると、広くなだらかな道があることがわかりました。あれが鷹取小学校の裏手に行く道か。(確証してませんが)

展望台①     

 そこから展望台に登りました。
 切り立った断崖(親不知というらしい)の上ですが、上りやすいように石段になっていて、所どころ手すりもついています。

展望台への階段    

 この展望台が鷹取山の山頂(標高139m)。

 展望台②   

 360度眺望というけど、この日は天気が悪くて見晴らしは今ひとつ。

展望台から見た景色    

 それでも麓の鷹取山が見渡せたのがよかった。あそこを登ってきたのか。

 展望台から麓を見る   

 そこから標識の「神武寺」を目指しました。

神武寺への標識 

 いきなり急な下り坂。

険しい階段 

 なんだこれは。「四季を通じて楽しめる」ハイキングコースじゃないのか。

 切り立った岩壁の間から山道を通り、また岩壁……を繰り返して、とある広場に入りました。

下り階段を進むと…… 

 これまでとは違う静謐な空気に振り返ってみると、おおーッ。
 
すぐ近くに、岸壁を削って彫られた仏像が出現しました。これぞ磨崖仏(まがいぶつ)。
 これが見たかったのだ。

磨崖仏     

 有名なのはタリバンに破壊された「バーミヤン石仏像」ですが、京急のパンフレットによると、三浦半島の山奥で見られる……。
 ここへきた目的はこの石仏といっても過言ではない。
   

 この磨崖仏は弥勒菩薩で、像高約8m、像幅約4.5m。
 彫刻家の藤島茂氏が昭和35年から約1年かけて製作したもの(「三浦半島・気ままに散歩」より)。
     

 この像の近くに「横須賀風物百選」と銘打った解説の看板があり、鷹取山の由来について書かれています。それによると、
   

 太田道灌が鷹狩りをした、鷹が多くいて鷹をとったことによるという説。また、高いところを示す語に「タカットー」の原意があり、これが「タカトリ」となり、鷹取の文字をあてたものという説も。(お好きな説を)

磨崖仏の広場    

 鷹取山そのものは大した山ではない(悪いネ)けど、磨崖仏は一見の価値あり。
 地元の老人に逆らって険しいコースを歩いてきた甲斐があったというもの。
   

 ※あとで調べると磨崖仏は日本各地にあることがわかりました。あちゃー。

2016.07.17 鷹取山に登る

 昨日は埒もなく良心寺と首斬観音について述べたけど、追浜の裏側といえば、鷹取山しかないじゃないか。

住宅街の急な坂    

 ということで、京急の駅でもらった「三浦半島・気ままに散歩」を手に住宅街をうろうろ。
 念のため散歩中の老人に聞いてみると、「鷹取山に登りなさるか」
 私の顔をまじまじと見つめ、「その角に登山口があるけど、そこはキツイ。むしろ鷹取小の裏手のほうが緩やかなので、そこから登りなされ」とご親切なアドバイス。

登山口     

 あのジジイ、何をトロいことをぬかすか。
 こちとら齢は取っても百戦錬磨の健脚(?)、少々のことでは音をあげんぞ。
 鷹取山がどうした、標高139m。鎌倉の天園(大平山159.2m)より低いじゃないか。

横は水道局の敷地     

 ジイさんに逆らって登山口から登りました。急な細い石段で、右は横須賀市水道局の敷地。
 「きけん」の注意書きとともに、「防犯カメラ作動中・テロ対策特別警戒実施中」という物々しい看板もあります。

裏に回る    

 石段を登り切り、水道局の裏に回り込むように進むと、切り立った岩壁に囲まれたところに出ました。
 おおッ、これぞ鷹取山。

切り立った岸壁     

 「三浦半島・気ままに散歩」によると、これは明治中期~昭和初期まで石材を採取したため、このような奇峰が形成されたとのこと。
 切り出された石は耐火性にすぐれ、建築用材やかまど、海堡建設にも利用されたそうです。

石の切り出しあと    

 こんな景色は中東ではよく見られるけど、神奈川県で見られるとは。

中腹からの眺め    

 岩肌に無数の穴が開いていますが、これはロッククライミングの練習で打ち込まれたハーケンの跡。(現在は禁止)

山道を歩く    

 切り立った岩壁の間からそこを抜け山道を進むと、また岩壁に囲まれた空き地。
 鷹取山にはこのようなところが数カ所あり、最初は珍しかった岩壁も次第に飽きてきました。

岸壁の間をくぐる    

 昨年追浜の海側を散策したとき、数人の人から「鷹取山は行かれました?」と聞かれ、「行ってない」と答えると、「それは残念」という顔をされました。そんなにいいのか、鷹取山は。
   
 というわけでやってきたのですが、ここは三浦半島の秘境ともいうべきところ。これは山登りというより、秘境巡りに近い、かな。
 

 京急追浜駅の裏手にある良心寺。
 このところ人心は荒れるばかりで、良心の存在は極めて疑わしい。
 (むろん当方の良心も吹けば飛ぶようなもの)

良心寺・山門    

 ということでお参りをさせていただきました。
         

 「微笑みは みんなもってる たからもの」
  

 掲示板にはこんな張り紙が……。
 五七五になっているけど俳句でもなければ川柳でもない。
 「微笑みは大切だぞ。お前(当方)のようなへらへら笑いはいかんぞよ」というありがたきおことば。

 良心寺・境内  

 本堂の前のソテツの木。
 「被子植物のなかでも特に原始的な種類です。横須賀は温暖なので生育に適しています」とのこと。

ソテツの木    

 先ほどの掲示板にはお寺の宗旨が書かれており、それによると、
 同寺はは浄土宗で、宗祖は法然上人、開宗は承安5年(1175)とか。
 あとは阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ……と教えが書かれていますが、要するに「己の良心に照らし合わせた行動をしろよ」ということらしい。
  

 そうしないとどうなるか。
   

 そこから300mほど南にある三柱の石碑。
 中央の石碑には「首斬観音」とあります。首のない観音様?

三柱の石碑   

 そのいわれとして、新聞の切り抜きが貼られていました。
 それによると、天保年間(1830~1843)のころ、全国的に干ばつが続き、飢饉が発生し、そのた め人心が荒廃し、犯罪が多発した。
 大正末期、現在の16号)の工事の際、頭蓋骨が数個発見され、それが斬首された犯罪者のものと推測されて、地元住民が供養碑として石塔を建てて供養したとのこと。

首斬観音の文字   

 返す返すも良心を大切にしろよー。
 えッ、当方のこと? ははッ、肝に銘じます。

 エリスマン邸とは離れたところにあるイタリア山庭園。
 ここにはふたつの西洋館があります。
  

 まず「外交官の家」
 この建物は横浜にあったのではなく、明治政府の外交官・内田定槌の邸宅として明治43年(1910)東京都渋谷区南平台に建てられたもの。平成9年(1997)に移築復元されました。

 裏庭から見た外交官の家   

 裏の庭園から見た建物の姿が素晴らしい。

 ステンドグラス①  

 おや?
 なかなかシャレたステンドグラスです。

 ステンドグラス②  

 これまで何回も訪れているのに、ステンドグラスを見たのは初めて。

 ステンドグラス③  

 ここはハロウィンやクリスマスなどの期間、館内にはいろんなデコレーションが施され、大勢の人で賑わうのですが、なにもないこの時期だからこそ気がついた?

 その向かいにある「ブラフ18番館」
 ここは関東大震災後に山手町45番地に建てられた外国人住宅で、戦後はカトリック山手教会の司祭館として使われていましたが、平成5年(1993)現在地に移築復元されました。

ブラフ18番舘    

 この建物は(悪いけど)「外交官の家」のついでに寄る、という感じでしたが、今回はじっくり拝見しました。なかなか味わいのある建物です。

居間とサンルーム   

 これもこの時期ならではのおかげ?

 初夏恒例の「花と器のハーモニー」も終わり、山手西洋館は次期テーマに向けての準備期間。
 そのためほとんどの西洋館はデコレーションもなく、ひっそりしたもの。
 当方のようなひねくれ者にとっては、むしろそのほうがいい。

展示室   

 おなじみのエリスマン邸。
 ここは生糸貿易で財を成したフリッツ・エリスマン氏の邸宅として大正15年(1926)に建てられました。現在の元町公園に移築復元されたのは平成2年(1990)。

 サンルームから外を見る   

 サンルームからの景色もゆっくり眺められます。

山手地区の模型   

 展示室には山手地区の模型が展示されています。
 山手地区を小さな「山脈」と見ると、山手通りは尾根伝いの道であることがわかります。
 (もっとも実際に歩いてみるとわかるけど)

 そのとなりのベ―リックホール。
 ここはイギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、J.H.モーガンの設計により1930年に建築されました。

 玄関  

 ここは名の通り広いホールがあるので、よく音楽会が催されます。
 この日はホールで女性がピアノを弾いていました。曲は「子犬のワルツ」などショパンが中心。

練習後   

 これは「サマーコンサート」に向けての練習のようです。
 練習であっても、本番同様の気合の入った演奏をしておられる。できれば「幻想即興曲」か「夜想曲⒛番」を弾いてくれ。(それは叶わなかったけど)
  

 玄関や2階の廊下にはなんの飾りもないのが、すっきりしてよろしい。

2階の廊下   

 山手西洋館、今は準備期間だけど、今月22日(金)からは「絵本フェスティバル2016」が開催されます。
 しかし何もない、今の時期こそ狙い目ですぞ。

 今回私が選んだ句は、
     

 ④遠きほどきらめく水よ未草……○
 ⑤秘めやかに雨秘めやかに未草
 ⑥白日傘たたみて海をふところに
 ⑦ギヤマンの皿は瑠璃色川床(ゆか)座敷
 ⑧海鞘(ほや)の酢の咽(のみど)をとほりたれば雨
     
 の五句です(○は特選)。
       

 ④は「きらめく水よ」と呼び掛けているところが気に入りました。
 ⑤は上五「秘めやかに」と中七「秘めやかに」の繰り返しのリズムが気に入りました。
 ⑥は日傘をたたんで、その身を海にゆだねる態度を「海をふところに」と大胆に表現したところにスケールの大きさを感じました。

海    

 ⑦川床座敷というと、鴨川の川床を思い出します。さらにギヤマンの瑠璃色の皿。涼しそうです。
 ⑧海鞘の酢の物を食べて、喉を通ったら雨が降ってきた、という句です。「とほりたれば雨」という終わらせ方がカッコいい。これを特選にしょうかと迷いましたが、結局④にしました。
       

 各句の結果と作者。
     

 ④(3)○……助手の先生
 ⑤(3)……女性A
 ⑥(3)……助手の先生
 ⑦(6)……女性A
 ⑧(2)……助手の先生
  

 今回は助手の先生の句を3句とも採ったことになります。
 3句とも大胆でいい句ですが、得票数が低い。おかしくないか、みんなの選択眼。
    

 宗匠は⑧の「とほりたれば」→「雨」の転換が絶妙と絶賛しました。
     

 ⑦は最多得票で宗匠も入れたのですが、
 「これは『川床座敷』を夏の季語としたのでしょうが、実は『ギヤマン』も夏の季語。季重なりです」
 だったら宗匠は最初から入れるなよ。
 歳時記で調べると、たしかに夏の季語。
 あー、こんなのがトップ賞とは(絶句)。入れるのではなかった。

睡蓮(未草)   

 他に票数の多かったのは
    
 ⑨睡蓮や風の忘れし雨しづく……(4)……宗匠の句
 ⑩粗削りの荒神柱大西日……(4)……宗匠の句
      

 ⑨は採ろうかなと思ったのですが、⑦「川床」を選んでしまった。(後悔)
    

 宗匠が首を傾げたのは次の一句。
      
 ⑪睡蓮や借景の木に日照り雨
   

 「うーん、『借景』のことばが硬いね」
     
 これは順番からして、同郷のおじさんの句だなと思ったので、
 「『借景』は理屈です。こんなことばを使わずに表現するのが俳句」
 といってやりました。「その通り」と頷く宗匠。
     
 作者はやはりおじさん。「夕立」のリベンジだい。
 大人げない? スミマセン。

 昨日(07/11)は俳句会に出席しました。
 出席者は宗匠を含めて7人。
  

 私の句に対する得票と評価は、
   

 ①夕立来てはしゃぐ我が子とともに濡れ……(1)◎←宗匠の特選
 ②ハイネ読む睡蓮の午後を四阿で……(1)◎←宗匠の特選
 ③寝ては汗覚めては汗に夜を返す……(3)○←宗匠の並選、○←助手の先生の特選
 (数字は得票数。○は特選)

 ①に関して宗匠は絶賛。「これをみんなが採らないのは不思議なぐらい」とまでいいました。
 これに対して同郷のおじさんが「子どもが雨に濡れたがるなんてあり得ない」といったものだから、思わず「あり得ます。これは父親としての実感です」と気色ばんだため、作者がばれてしまいました。

会場の公民館 

 宗匠は「『我が子』よりも客観的に『子ども』としたほうがいい。それに『共に濡れ』はよけい。単に『遊びけり』にしたほうがいい」ということで、修正句は

 「夕立来てはしゃぐ子どもと遊びけり」
   

 そんなものかね。(ありきたりの句になった気も)

 *

 ②これも宗匠は絶賛。「『睡蓮の午後』という表現がいい。四阿でハイネの詩を読むなんて、粋ですね。ただし中七の字あまりが難点。三段切れを避けたと思われますが、下五が『四阿で』で終わっているので、中七につながっています。だから『を』を入れる必要はない」
 なるほど。それはいいけど、みんなからの票がこないのはどうして?

 ③は入れてくれた女性が「これは実感できます。よほど寝苦しかったんだろうな、と思いました。それに『世を返す』ということばが新鮮だなと思いました」
      
 宗匠も「そう、『世を返す』という表現がいい得て妙ですな。おそらく『返上する』という意味で使われたと思います」
 まさに我が意を得たり。
        
 
今回も宗匠からは褒められるけど、みんなからの票はこないという結果になりました。
 どうなっとるんだ、この句会は。

2016.07.11 七月の句

 今月の兼題は「睡蓮」ということで、いろいろつくってみたのですが、いずれも気に入らない。(参照

 睡蓮については印象に残る景色があります。
 3年前の6月、一橋大学(国立市)のキャンパスの池です。あれは睡蓮ではなかったか。

一橋大キャンパスにて    

 そのときはまだ咲いてなかったけど、あのベンチに座って池を眺めたら、いい句が生まれそうな気がする。
 例えば、
 ①校庭に睡蓮の午後読書かな
   

 「読書かな」では具体性がないので、「詩集読む」。それもまだ漠然としているから、詩人の名を出したほうがいいだろう、と浮かんだのは中原中也。しかしなあ。
   

 睡蓮について書かれた詩を調べてみると、ハイネが「睡蓮の花」という詩をつくっていることがわかりました。
 だったらハイネでいいか、と、
 ①‐aハイネ読む睡蓮の午後校庭で
  

 しかし「校庭」では漠然としているので、四阿(あずまや)にしました。
 ①‐bハイネ読む睡蓮の午後を四阿で

 某都知事が変な金の使い方をして辞任しました。
 その顛末を見ていたらこんな句が浮かびました。
 ②辞任して挨拶もなく走り梅雨
  

 追及されて辞任し、ろくに挨拶もせず都庁を去る。その直後に雨がザーッ(梅雨入りです)。
 あとは知らんわい。無責任な野郎だ。(実際は空梅雨でしたが)

 熱帯夜。寝苦しい。
 私はいつも扇風機の微風を、壁にバウンドさせて頭に当てるようにして寝るのですが、タイマーが切れると(2時間)、汗びっしょりで目が覚めます。そこで
 ③寝ては汗覚めては汗に夜を返す
  

 ふつうなら「夜を明かす」とか「夜を過ごす」にするのでしょうが、敢えて「夜を返す」としたのは「こう暑くてはおちおち寝られるか」という抗議(怒り?)の意味が入っています。
 「夜を返す」については、「爪弾きをやめ鈴虫に夜を返す」(友人の名句!)のように「譲る」という意味で使うのが本道ですが、私は「返上する」という強い意味で用いました。

 夕立にちなんだ句をつくろうと例句を見ていたら、目についたのが「長電話切るきっかけの夕立かな」

夕立(汽車道にて)   

 そこで、
 ④諍いを切り上げさせる夕立かな
 ④-a夕立に中断されし痴話喧嘩
  

 それよりも息子が小さかったころ、夕立がきてよろこんで外に出てずぶ濡れになったのを思い出しました。(幸福な父親だった時代です)
 そこで、
 ⑤夕立に濡れてはしゃぎし我が子かな
   

 あまりにベタな句だ。
 あのときは私も一緒に濡れたから、
 ⑤-a夕立きてはしゃぐ我が子に父も濡れ
 ⑤-b夕立来てはしゃぐ我が子と共に濡れ
  

 いろいろつくったけど、このなかから3句を選ぶとなると、
  

 ☆ハイネ読む睡蓮の午後を四阿で
 ☆寝ては汗覚めては汗に夜を返す
 ☆夕立来てはしゃぐ我が子と共に濡れ
  

 になりました。

 横浜市役所の食堂、第二弾は蕎麦処「味奈登庵」
 これもTVの情報で知りました。

味奈登庵の店旗    

 場所は本庁舎とは違って、関内中央ビルの10階にあります。
 入口に蕎麦打ちの道具が。

 そば打ち道具  

 味奈登庵は横浜市内に16店舗あるそうですが、この横浜市庁店はセルフサービスで低料金とのこと。
 このビルは市庁舎になっているので、客は圧倒的に職員が多いのですが、一般人も入れます。

 店内  

 そば処なので「かき揚げそば」(480円)を頼みました。
 
でき上ると「××番の方ァ!」と大きな声で呼び出されます。
  

 そばとかき揚げが別々になっています。

かき揚げそば    

 少しずつそばに混ぜてシャキシャキ感を味わうのもよし、一度に乗せてふやけたのを食べるのもよし。私はシャキシャキ感でいただきました。なかなかイケます。
  

 この齢になると、昼食はこれでいいかな。

 コーヒー  

 ついでに「ドリンクバー」も頼みました。
 それほど美味いコーヒーではないけど(カップもダサい)、安い(100円)から。

店からの眺め   

 窓から外を見ても、(10階なのに)港が見えるわけでもなく、景観は今ひとつ。
 ふーむ、そばは安くて美味かったけど。

 日本大通りも私の好きなところですが、季節的には春と秋に味わいがあり、今の季節は今ひとつ、と思っていました。
   

 ところが先日ここを歩いたとき、歩道の植え込みに薄紫のアガバンサスが咲いているのを目にしました。うーん、なかなかいい取り合わせだ。

日本大通り①    

 写真(↗)左は「キングの塔」の神奈川県庁。

日本大通り②   

 これは(↗)郵便局の車が角を曲がったところ。鮮やかな赤がポイントになりました。

 この通りは、慶応2年(1866)に発生した大火事(豚屋火事)を契機に、防火対策として英国人リチャード・ブラントンの設計により生まれたもの。
 中央に車道12m、左右に歩道3mと植樹帯9m、合計道路幅員36mと、当時としては群を抜いて広い道路でした。

*    

 この通りから少し東に入ったところに「横浜都市発展記念館」があります。
 この建物の裏手に当時の遺構が展示されています。
 これは(↘)国内最古のガス管で平成14年(2002)私立本町小学校(中区花咲町)の校庭から出土されたもの。

 日本最古のガス管   

 これは(↘)平成13年(2001)県庁前で発見された「卵形下水管」
 当時の山下町一帯は外国人居留地だったので、下水道が完備していたとのこと。

 卵形下水管  

 さらに「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構」もあります。(↙)

 旧居留地消防隊地下貯水槽遺構  

 これらの遺構は年中見られますが、この夏ここを歩いて初めて目にしました。

 良泉寺から京急のガード下を下ると、笠のぎ稲荷神社があります。

神社入口 

 社伝によると、
 「当社は天慶年間 (938~947) に稲荷山の中腹に創祀され、元禄2年(1689)に山麓に移られてますます霊験あらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちることから『笠脱稲荷大明神』と称された。のちに『笠のぎ稲荷神社』と改称され、明治2年に現在地に還座された」
 ※当欄では「笠のぎ」と表記していますが、実際には下記(↓)の漢字が使われています。

解説板より     

 そういえば鳥居をくぐったとき、被っていたパナマ帽が風に吹かれて落ちたような(ウソ)。

 拝殿 

 この日は暑かったけど、境内に入ると涼しい風が入ってくる。
 いつも思うのですが、寺社仏閣というのはそのあたりでは気候条件のいいところに建てられるのではないか。
   

 拝殿の横に大きな銀杏の木(当社の御神木)。夫婦和合のご利益があるそうです。

御神木の銀杏の木    

 御神木は他にも子宝安産の大楠もあります。

御神木の大楠    

 またここには横浜市の指定有形文化財である「板碑」があります。
 これは阿弥陀を祀ったものですが、このような形態の板碑は珍しいそうです。

 板碑   

 境内から鳥居を見ると、向こう側に京急の電車が・
 これも当社ならではの光景です。

境内から見た景色 

 金蔵院をさらに上ると旧東海道は東神奈川駅入口の広い道に遮られ、いったん第一京浜に出で、再び細い道に入ります。
 閉鎖中の東光寺を過ぎると、左手には古ぼけた白い塀。
 神奈川小学校の塀です。校舎はなんとなくクラシックなつくり。

 小学校の塀   

 それもそのはず、この横浜市立神奈川小学校は創立が明治8年6月。(神奈川県最古?)
 大正12年(1923)9月の関東大震災では校舎の大半が倒壊(5名死亡)したものの、昭和3年(1928)10月に鉄筋コンクリ-ト造り、3階建て、教室数31の校舎に建て替えられました。

 神奈川小学校・校舎    

 それよりも私が注目したのは、塀に描かれた絵図と解説。
 まず「上無川」の絵図と説明。
 「神奈川は鎌倉幕府の文書のなかにも記されている古い地名であるが、その由来のひとつに、神奈川本宿を横切って流れる小さな川があったが、水量が少なく水源が定かでないため、上無川(かみなしがわ)と呼ばれていた。それが略されてカナガワ(神奈川)とというようになった、というもの。上無川は現在の神奈川小学校東脇にあったとされているが、関東大震災後の復興計画により埋め立てられ、今はない」とのこと。

 神奈川駅中図絵   

 また「東海道分間延絵図・神奈川宿部分」というのもあります。
 これは、江戸幕府が東海道の状況を把握するために道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。
 東海道だけで全13巻に及ぶとか。

 東海道分間延絵図・神奈川宿部分  

 これがこんなところで見られるとはね。

 神奈川小学校からさらに東に進むと、良泉寺という小さな寺があります。
 真宗大谷派で、山号は海岸山。

良泉寺・山門    

 解説によると、同寺は開港当時、諸外国の領事館に充てられるのを快しとせず、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由で幕府の命令を断ったそうです。
   

 それだけ聞くと気骨のある住職のように思いますが、私から見れば料簡が狭い。

 良泉寺・境内   

 例えば成仏寺はアメリカ人宣教師の宿舎に割り当てられ、そこからヘボン博士によるヘボン式ローマ字が生まれ、さらに庫裡に住んだブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力しました。 

 良泉寺・本堂   

 これには成仏寺の僧侶の協力もあったと思われます。
 原語・風習もちがい、ときには論争もあったでしょうが、お互い信仰に使える身、相手の教派を尊重し合うような、心の交流があったのではないか。
  

 こういう姿勢こそ宗教者の「あらまほしき」姿でしょう。
 その意味で良泉寺は好感が持てません。

 前回「旧東海道を往く⑧神奈川歴史の道」の続きです。
 高札場のとなりは熊野神社。

熊野神社・鳥居    

 名前の通り、紀伊(和歌山)の熊野権現を祀った神社で、地元では「権現様」として親しまれているとか。
 「元は権現山(幸ヶ谷山上=幸ヶ谷公園?)にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り、神仏分離令により金蔵院から別れた」(解説書き)

 熊野神社・拝殿   

 ここの特徴は鳥居脇にある大きな狛犬。

「石造 大獅子 狛犬 嘉永年間 鶴見村石工 飯島吉六作」

 とあります。

 狛犬(左) 狛犬(右)  

 この狛犬が東海道を行き来する旅人たちを見守っていたのでしょうか。

 その向かいにある大きなお寺は金蔵院。(明治以前は熊野神社を別当していた)
 真言宗智山派に属し、神鏡山東曼陀羅寺と号す。
  

 醍醐三宝院の始祖勝覚僧正が開基となり、寛治元年(1087)に創建。
 慶長4年(1599)に徳川家康より寺領10石を拝領、多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でした。

 金蔵院・境内  

 同寺は家康とは縁が深く、家康がここで梅の枝を手折った「御手折梅」があるとか。
 いらい毎年1月に当院の住職がこの梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったといいます。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)

 金蔵院・本堂   

 なんとも風流な習わしだけど、ここから江戸まで、交通の便もよろしくないのに、ご苦労なことです。

大震災横死者供養塔   

 本堂の前に「大震災横死者供養塔」があります。
 これは大正12年(1923)の関東大震災のことで、震災後、同寺で大規模な慰霊祭が行われたそうです。

 自宅から駅に向かう途中に2本の平行した細い道があります。私はひそかに「富士見市のツインロード」と呼んでいました。
 仮にA、Bとすると、Aは通り抜けがよく車の通行量が多いため、私は専らBの道を通行しました。

道路の拡張工事    

 ところが2年ほど前からAの道に拡張工事が始まり、道路沿いの家がどんどん取り壊されました。
 取り壊されると、すぐ舗装されていく。まだ立ち退いていない家があるというのに。

取り壊し工事    

 これは「早く立ち退け」というプレッシャー?
 私は興味を持ってこの事態を見守りました。(といっても気が向いたら写真を撮る程度ですが)

昨年12月     

 立ち退かない家はいくつかありましたが、立ち退くとなるとすぐ取り壊し、舗装工事に取り掛かる。何とも露骨ですが、市としては空いたところから工事していくのが当然なのでしょう。

最後まで残ったアパート     

 最後まで残ったのは民間の木造アパート。
 このアパートは細長く、Bの道路にもつながっているので、どうするのだろうと思ってました。
 切断する? まさか。

2ヶ月前   

 これは今年5月に撮ったもの。
 まだ立ち退かないだろうと思ってました。
   

 ところが今月に入って、Aの道を見るとスコーンと突き抜けている。例のアパートがない。

アパートがなくなった   

 アパートは完全に更地になっていました。(↓)空き地の向こうは道路Bです。そういえばBの道でも工事をやっていたような……。

頑張ったアパートも更地に   

 市としては、これでなんの支障もなく道路が貫通できる。
 車にとってはけっこうなこと。
  

 しかし残された家々はどうなるのだ。
 というのも、A道路の拡張はB側の家々を削っていったので、その裏にあった家々は新道路にさらされてしまった。しかも裏側が。表は最初からB道路に面している。
  

 見通しはいいかもしれないけど、風当たりは強そうだし、用心も悪くなりそう。所詮は他人事ですが……。

 富士見市の難波田城公園で古代蓮が見られるというので、行ってきました。
  

 同公園は中世にこの一帯で活躍した難波田氏の城館跡を整備したもので、規模は小さく、城はありませんが、濠や古民家などがあって、昔の暮らしの資料となるものが数多くあります。

難波田城公園の蓮田    

 公園の一角に小さな蓮田があり、蓮はそこで咲いていました。
 「行田蓮」といいます。

 蓮①   

 立札にはこう書かれています。
 「行田(ぎょうだ)市『古代蓮の里』から分けていただきました。数百年以上埋もれていた蓮の実が始まりです。野生に近い特徴があり、千葉の『大賀ハス』にもよく似ています」

蓮②    

 蓮といえば伊佐沼が有名だけど、今年はこれで済ませようかな。
 (伊佐沼まで行く手間が省けるし)
 ということで、公園内をぶらり。お濠を眺めました。

お濠の睡蓮    

 「おや、あれは……?」
 水面に咲いているのは小さな白い花。紛うことなき睡蓮。

睡蓮   

 睡蓮は今月の兼題。これを見たいばかりにあちこちの池を見たけど、こんな身近で見られるとは。
 まあいいんだけどね。睡蓮の句はつくったから。(出来栄えは別)

 おなじみの港の見える丘公園。
 この広場自体はアスファルトの三和土で、なんの変哲もないところ。

湊の見える丘公園①    

 「少しは工夫しろ」
 私としては不満です。
 それでもテラスからベイブリッジが見られるので、辛うじて面目を保っています。

湊の見える丘公園②    

 港の見える丘公園の開園は昭和37年(1962)。
 園名はヒット曲「港が見える丘」(1948/歌・平野愛子)からとったものです。
    

 「おや?」
 その下に園芸ガーデンが。
 この下の部分はよくわからない。個人の表札が掲げられているけど、一面ウッドデッキで家はなし。将来家が建つのでしょうか。

 趣味の園芸  

 大佛記念館の側は沈床花壇になっています。
 ここも季節の花が素晴らしい。

沈床花壇(向こうは大佛記念館)    

 私はいつもここから大佛記念館の脇の霧笛橋をわたり、神奈川近代文学館の下を降りで、また上に登るというコースをとっています。
  

 登るとそこはローズガーデン。
 このローズガーデンは湊の見える丘公園の一画なのか、それとも別々なのかよくわからないけど、ここは年中バラが咲いています。

 ローズガーデン   

 昨年の晩秋にも取り上げたことがありますが、秋の季節とは違う夏のバラが咲いています。
   

 例えば「情熱」。真っ赤なバラ。花弁も尖っていて、激しい情熱が感じられます。

 情熱  

 「恋心」。色は鮮やかなピンクで、花弁は丸みを帯びてやさしい。なるほど。

恋心   

 横浜の市花はバラだそうです。たしかにバラに対する意気込みが感じられます。

 山下公園ができたのは昭和5年(1930)
 これは大正12年9月1日に起こった関東大震災の瓦礫を埋め立てて造られたといわれています。

 氷川丸①   

 当初は園内に芝居小屋やレストランなどいろんな娯楽施設が建てられ、大勢の人で賑わったそうです。
 また海の水を引き込んだ船溜まりもありました。

氷川丸②    

 噴水と花壇は当時からあったようです。(横浜都市発展記念館「山下公園」展より)

  沈床花壇①

 戦後はアメリカ軍に接収され、米軍ハウスが建てられました。
 その接収が解除されたのは昭和34年(1959)。

 ホテルニューグランド  

 こうして山下公園は復活しましたが、船溜まりは埋め立てられ沈床花壇となりました。

沈床花壇②    

 噴水より東側、ホテルニューグランドの正面あたりに低くなっている花壇、これを沈床花壇といいます。
 今ここはバラ園になっていて、いろんな種類のバラが咲いています。
 バラ越しに氷川丸やホテルニューグランドを見るのもこの時期の楽しみのひとつ。

栽培養生中の花壇    

 今回改めてバラ園を見ると、あちこちに「栽培養生中」の標識と、手入れされている職員の方を目にしました。
 庭苑は一日にして成らず。ご苦労様です。