京急・三浦海岸駅の近くに「海防陣屋跡」があります。

 これは弘化4年(1847)徳川幕府が異国船渡来に怯えて、急ぎ江戸湾防衛のために陣屋を置いたところ。当時は彦根藩主井伊掃部頭直弼が赴任に当たったそうです。
復元された冠木門 
 解説板によると、この陣屋は嘉永6年(1853)の長州藩が交代し、さらに安政5年(1858)には熊本藩に代わり、その後は浦賀奉行所に移管されたとのこと。

 最初に警備に当たった彦根藩の頃は苦しい財政だったが、長州藩にいたって善政が行われたため、熊本藩と交代の時は三浦・鎌倉両郡の名主・村役人から留任の願書が出されたほどだったとか。
 そんなによかったのか、長州藩は。
 彦根藩末裔の当方としてはちと口惜しい。
石碑 
 さらにいうと、明治維新で活躍した桂小五郎(後の木戸孝允21歳のとき)、伊藤俊輔(後の伊藤博文16歳のとき)はこの陣屋に勤めていたそうです。
 うーん、歴史的には意義深いところであったのか。
河津桜 
 ここも河津桜が満開でした。
  
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 湯島天神にやってきました。
絵馬と白梅 
 天神様といえば梅ですが、この日(02/26)の時点で七分程度の咲。
 そのせいか、人出はやや少ない。
 「なんや、この前きたとき(01/10)より少ないな。受験シーズンやのに」と取手の友。
 「あのときはまだ正月気分で、初詣客が多かったんやろ」
拝殿  
 境内にはやはり白梅が多い。
 なかに横に伸びた梅の木が花を咲かせています。
 「これは臥龍梅(がりょうばい)いうてな。龍が横たわっているように見えるやろ」
 「まあ、そう見えんこともないな」
臥龍梅① 
 「俳句の世界でも珍重されてるけど、実はただの老木でな。幹がヘタヘタに弱って自分の体重を支えられんからドテーンと横に倒れよる。そやから突っかえ棒で支えてるんや」
 「なんや、ただの寝たきり老人(木?)かい。それをありがたがるとはアホな話や」
 「幹は立たんでも花は咲かせよる。足腰立たんジジイが生殖活動だけは盛んやから、みんなそれにあやかりたいと褒めたたえるのと違うかな」
 「そうか、××みたいなヤッちゃ」
臥龍梅② 
 梅林のなかに「奇縁氷人石」というのがありました。
 「なんや、氷人って」
 「氷人て、たしか仲人のことやったと思うけど」
 携帯の辞書アプリで調べたのですが、出てなかった。(弱体辞書め)
奇縁氷人石 
 氷人とは「月下氷人」の略で、やはり仲人のこと。
 ここの「奇縁氷人石」は失せもの、迷子に霊験あらたかなり、とのことで、 石柱の右側には「たつぬるかた」(探す側)、左側には「をしふるかた」(見つけた側)、それぞれ紙に書いて貼っておくとよいというのですが、今でいうところの伝言板?
 
 しかし本当にご利益があったかどうか、よくわからない。

 「おッ、こっちに盆栽の梅があるがな。今日の梅見はこれでじゅうぶんや」
 「なかなか見事やけどな。しかしこれで梅見はちと寂しいで。臥龍梅もないし」
 「臥龍梅やったら、キミがそこに横たわっとったらええがな」
 「ワシは違うで。やっぱり××やな」
梅の盆栽 
 アホなことばっかりいって。道真公の祟りがこわいよー。
 おーッ、神田ニコライ堂が眼下に!
眼下に見る神田ニコライ堂 
 神田ニコライ堂は、以前にも述べました(参照)が、正式名は「東京復活大聖堂」といい、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する正教会の大聖堂(創建は明治24年=1891)。
    
 日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライにちなんで、ニコライ堂と呼ばれています。
 正教会とはハリストスの初代教会を引き継ぎ、ギリシャ、ロシアを経て日本に伝えられた宗派で、カトリックでもプロテスタントでもありません。
神田ニコライ堂  
 これを真上から見られるとは……。
 大小のドーム屋根、さらに周囲の屋根がリアルに見えます。
 続いて見るのは湯島聖堂。
手前は湯島聖堂 
 ここは元禄時代に建てられた孔子廟。
 幕府のなかでもエリート藩士が通ったとされる昌平坂学問所(昌平黌)の跡地です。
湯島聖堂 
 ここも上から見たのは初めて。
 次に見るのは御茶ノ水駅・
 その向こう(右手)は東京医科歯科大学。
手前中央は御茶ノ水駅、右は東京医科歯科大 
 駅の上流の神田川も見えます。
 そんな見晴らしのいいところが御茶ノ水にあるのかッ。早くそこを教えろ……って?
 関係者のご迷惑になるので、残念ながら教えられません。
「弓を引くヘラクレス」像 
 ヒントは「弓を引くヘラクレス」像。
 フランスの彫刻家アントワーヌ・ブールデル(1861~1929)の1909年の作品です。写真ではよく見かけますが、これはレプリカ。
 下の階でこれを見ることができます。

 万国橋通りにある横浜第二合同庁舎。
 農林水産省や法務省の関連省庁の機関が入っている庁舎ですが、元は大正15年(1926)に建てられた横浜生糸検査所でした。

レンガ造りの建物 

 当時は鉄筋コンクリート4階建で屋上には噴水庭園が設けられ、市民からは「キーケン」の愛称で親しまれました。
 正面上部には蚕の成虫と菊の紋と桑の葉をあしらった紋章が設けられています。

正面(上部の紋章に注目あれ) 

 横浜生糸検査所は昭和55年(1980)に農林規格検査所に統合、平成3年(1991)には農林水産消費技術センターに改組されました。
 

 平成2年(1990)に横浜市認定歴史的建造物として認定されるも、手狭になったのと耐震性の問題から平成7年(1995)に大改築が行われました。

後ろに新館が

 その際、正面は旧生糸検査所の外観を復元し、背後に高層棟を建築しました。
 これがなかなか巧妙で、間近で見ると旧館のみが目に入って高層の新館は目に入らない。

横から見たところ 

 横からとか、遠く離れると見えますが……。

 同じような建て方をしているのが近くにある
 これは昭和4年(1929)に建てられた第一銀行横浜支店。
 太い石柱が並んだ半円形のバルコニーが特徴の古代ローマ風の建物です。

古代ローマ建築? 

 平成15年(2003)都市再生機構がこの背後に高さ119mの超高層オフィスビルを建てました。
 これが横浜アイランドタワー。

 後ろにタワーが

 そしてバルコニーのある旧第一銀行横浜支店の建物は、翌年から横浜市が管理・運営するようになり、クリエイティブ拠点になりました。

内部 

 古いものは単に壊せばいいってものではない、外見では古いものを残しつつ、実質は機能を重視する。
 これが横浜のしたたかな「都市戦略」です。

 金田の海岸を南下して、左(東)へ曲がりっ端のところに漁港があります。金田漁港。

金田漁港① 

 意外に大きな漁港ですが、第1種漁港だそうです。
 第1種漁港とは、利用範囲が地元の漁業を主とするもの(Wikipedia)。

金田漁港② 

 そういえば漁船は小型のものが多く、多くの網が干されています。定置網漁?

網干 

 獲れる魚はサバ、イワシ、アジ類、スズキ……などが多いとか。

金田漁港③ 

 あちこちに大きなブイが転がっています。

 それよりここが有名なのは日曜日に開催される朝市。
 この時期はイワシ・アジ・太刀魚……など、それに生ワカメ。
 早朝から大勢の買い物客で賑わうそうです。

金田漁港④ 

 その2階にレストランがあります。
 ちょうど昼食どきだったので、入りました。

レストラン 

 私が頼んだのは地魚フライ定食(¥864)。
 4種類のなかから2種類選べるとのことで、アジとカマスを選びました。

地魚フライ定食 

 サクッとして美味い。私がときどき買うスーパーのアジフライはボリュームはあるけど、こんなサクッとはしてない。揚げ方が違うのか、それともアジ(?)が違うのか。
 さすが地元。(珍しく称賛)

 金田漁港の近くに三浦義村の墓があります。

三浦義村の墓入口 

 解説板にはこう書かれています。
 「三浦義村公は、三浦一族六代目の当主で、三浦大助義明の孫にあたり、七百年の昔北条氏とともに鎌倉幕府を二分して活躍した武将として知られます。……(略)……
義村公は領内の開拓をいつくしみ……(略)……父祖伝来の地であるここ岩浦(いわぶ)の里の要害をたのんで福寿寺を開基、菩提寺となし、没後菩提寺に近いこの台地に祀られました」

三浦義村の墓

 領民には愛された人だったらしい。初めて知りました。

 大根干しのところから海岸通り(上宮田金田三崎港線)を南下しました。
 このあたりの海は遠浅で、海水浴には適しているんだろうけど、今の季節は無駄に広い。
対岸は房総半島
 海を近くで見ようと波打ち際まで行くのに広い砂浜をザックザック。疲れるよ。

 それでも所どころシャレたトイレが建っていて、観光にはそれなりに気を遣っていることがわかります。
おしゃれなトイレ 
 この海岸線は湾曲しています。地図で見ると金田湾。けっこう広い湾です。
 対岸は房総半島。ちょっと高くとんがった山は鋸山?
こんな看板も 
 海岸線をさらに南下すると、左にカーブし、砂浜ではなく断崖になりました。
 海側に家屋が建っているので、海っぺりを歩くことはできない。
漁船が停泊 
 それでも所どころ空き地などがあって海を眺めることができます。
 これがなかなかの絶景。
丘から見る金田湾  
 紺碧の海、とまではいかないけど、澄んだ青い海。
見晴らしデッキチェア 
 海の見えるデッキがあります。
 ここは?
 海を見渡す庭には木のテーブルと椅子。
 珈琲でも飲めるのかと写真を撮っていると、「なんの御用ですか?」
 奥からおじさんの声。
 「ここ、喫茶店じゃないんですか」
 「違います。個人の住居です」
 失礼しました。(紛らわしいぞ)
喫茶店? 
 あちこち徘徊していると、こんなこともあるよ。

 上空には鳶が飛んで、いい天気です。
空には鳶が 
 ここでも大根が干されていました。
ここにも大根が… 
 この海岸通り、砂浜との段差のないところでは防潮堤が設置されています。
 もっともそれほど高くない。
 ここは東京湾の内側だし、それほど高い津波はこないからか。
防潮堤 
 しかしわからんぞ。昔は津波で鎌倉の大仏殿が流されたというから。

 「三浦海岸って、河津桜の他に見るべきものはないのですか」
 海岸通りに面した観光センターで、ぶしつけにもこんな質問をしました。

大根干しの一画 

 奥から女性が出てきて、「夏は海水浴で賑わうのですが、生憎この時期は……そうだ、大根干しがまだ残っているかもしれません」
 「大根干し?」
 「そうです。たくあんをつくるために浜辺に大根を干すんです」

大根のカーテン 

 ということで教えてもらった浜辺にきてみると、大根が吊るされて並べられている一画があります。
 大根は長い青首大根。それが隙間なく吊るされています。別名「大根のカーテン」

大根は意外に長い 

 近くに寄って見ると、大根が意外に長い。50㎝はあるんじゃないの。
 これは青首大根で三浦大根ではありません。(三浦大根は白首で胴が太い)
 たくあんにするにはこのほうが向いているんでしょうけど。

吊るされた大根 

 こうして数日間冷たい潮風にさらされることによって大根は甘みが増して、美味しいたくあんになるそうです。

大根越しに見る海 

 干されるのは12月~1月下旬の間。三浦海岸では冬の風物詩になっているそう。
 「干されるときは大勢の人がきて写真撮ってたんですよ」(観光センターの女性)

みすぼらしく変容した大根の列 

 今は見る影もない。
 海側の列はほとんど萎びてみすぼらしい姿になっていました。
 なかには落っこちた大根も。

落ちた大根 

 もっとも大半は取り入れられて、残っているのはこの一画だけ。
 本来ならば見られない(?)光景だけど、暖冬のいたずらなのか、大根は取り入れに時間がかかって、河津桜のほうは早く見られた。

取り払われたところ  

 つくづくラッキーというべきか。

 河津桜は三浦海岸駅の前でも見られます。

駅前 

 駅前広場には10本ほどの河津桜が植えられ、この時期一斉に花を咲かせます。

駅前の河津桜 

 ここも花見客でいっぱい。

 「いやあ、ここもなかなかいいなあ。さっき小松ヶ池まで行ってきたけど、もう疲れちゃって」
 「ここでじゅうぶんでしたね」
 とは川崎からきた老夫婦。

お年寄りの休憩所? 

 小さな犬を連れたお婆さんと娘さんから小松ヶ池への道を聞かれて、
 「歩くのは大変ですよ。えッ、車できた? だったら車でゆっくり桜並木を通りなさい。上に駐車場があるけど、下まで降りて行くのは大変よ」と、当を得た(?)アドバイス。
 私ならそのまま道を教えていた。

こちらは枝垂? 

 広場にはテント村が設けられ、地元の特産品(大根焼酎、桜おこし、桜どらやき……など)が販売されています。

テント村屋台 

 三浦半島は漁業だけではなく、農業も盛んで三浦大根など野菜も多く産出しています。
駅前の野菜販売所を覗いてみると、埼玉より少し安い。
 しかし買って帰るのは重いのでやめました。

駅前の野菜販売所 

 他には三崎マグロを中心とした魚介類も安いけど、長時間電車に乗るので鮮魚は無理。
 結局現地で食べるしかないのです。

ライトアップ 

 そうこうしているうちに5時30分。ライトアップの時間です。
 せっかくきたのだからこれも見ておかないと。

若者が多い 

 さすがにこの時間になるとお年寄りは少なくなって、若い人がスマホなどで撮ってました。

 写真を撮る人

 桜並木の中ほどに線路の下に降りる石段があります。
 線路の向かいは低い湿地帯になっていて、これが小松ヶ池。

小松ヶ池へ下りる石段 

 小松ヶ池の名の由来は、昔お松という働き者の嫁が姑に重労働を強いられ、それを怒った神様がこの一面に大雨を降らせ、そのため大きな沼になったという伝説があるそうな。
 教訓・嫁をいびってはいかんよ(????)

池の桜① 

 そんな伝説とは無関係にここも河津桜が咲いています。
 この時期は露店も出て、大勢の花見客でにぎわいます。

池の桜② 

 この小松ヶ池というのは、昔からこのあたりの農地の水源とされてきたものの、使用権がはっきりせず、三浦市の開発事業との間にトラブルが生じ、裁判によって和解が成立した(意訳)、と大きな記念碑に書かれています。

バードウォッチング 

 またここはバードウォッチングの聖地でもあり、ウォッチャ―たちが池のほとりに群がっております。
 「あッ、あそこにいるいる」って、ゴイサギ?

菜の花 

 ここから上に上ると畑で、(三浦)大根、ブロッコリー、キャベツなど、いろんな野菜が栽培されています。

野菜畑 

 ここで野菜を売っている農家の方。
 「安いよ、安いよ」
 とのことで、大きなブロッコリーが200円。
 それほど安い価格ではないけど、大きさからすれば買い得かも。このおじさんしっかりしとるのう。

野菜を売る農家の人 

 そこから畑を突っ切って上に上って線路を越えると、今度は桜並木の上の小高い丘に出ました。
 ここも小松ヶ池公園。

河津桜の下での花見 

 ここでも数本の河津桜が咲き綻び、下でお弁当を食べる家族も。

上の公園から見た桜並木 

 この日は暖かかったとはいえ、まだ2月。
 飲めや歌えの宴会ではなく、おとなしいものでした。
 私としてはそのほうが好感が持てます。

 昨日(02/19)は暖かかったのと、「河津桜が満開!」と聞いたので、三浦海岸まで行ってきました。
沿線を歩く 
 見どころは京急沿線の河津桜並木。
 約1kmほどの沿線沿いに1000本の河津桜が一斉に開花しています。
河津桜
 この河津桜は平成11年(1999)に地元の有志によって1000本の苗木を植えられたそうで、平成14年から「三浦海岸桜まつり」が行われるようになったとか。
向かい側から見た沿線の桜 
 河津桜は山崎公園(富士見市)や上福岡駅前通り(ふじみ野市)など近所でも見られるけど、一本二本では面白くない。桜は群生、それも並木になってこそ桜の価値が上がるというもの。
陸橋から見た沿線の桜 
 この河津桜というのはソメイヨシノと違ってピンクが濃い。
 これが何とも色気があります。
上から見る沿線の桜① 
 この日は暖かかったこともあって大勢の人で賑わいました。
菜の花 
 「おや?」
 足元には黄色い菜の花が。これが延々と続いてイエローベルトを形成。
河津桜(ピンク)と菜の花(黄色)の取り合わせも面白い。
菜の花と桜 分け入っても菜の花
 この桜並木上から見ても風情があります。
 「桜というものは足もとから見上げるもので上から見るものではない」と思っていたのですが、今回はその定説(?)が崩れました。
河津桜と菜の花と電車 
 線路が走っていたからでしょうか。
上から見る沿線の桜② 
 このところ朝になると、京都時代の友が電話をかけてきます。
 1週間前は、
 「昨日のTV観たか。池上彰の戦争特集。あれ観ると、地上から戦争は絶対なくならへんな」
 「やっぱりそうか」
 「アメリカの軍産複合体というのはすごいな。戦争が起こると需要が増え、雇用も増えるから失業対策にもなるわけや」
 「アメリカは軍産複合体が支配しているというからな」
 「アメリカだけやない。日本もそうやで」
    
 「日本にも軍需産業があるんか」
 「あるある。船舶や自動車。これがいつでも軍艦になったり戦車に応用できるんや。高性能カメラも軍事用に使えるし」
 「なるほど」
 「おどろいたのはアパレルメーカーや。アメリカなんかジーンズ工場が軍服をつくっとる。これがものすごい需要でその町全体が潤っとる。いずれ日本もそうなるで」
 「岡山あたりのジーパンメーカーが軍服つくるんやろか」
 「そうならんとも限らんな。それに食品なんかもそうや。保存食や携帯食なんか兵糧として利用されるわけや。そやから戦争はなくならへんと思うたわ」
 その3日後、
 「清原はあかんな。あそこまで行ったらシャブはやめられへんで」
 「更生は無理か」
 「無理や。田代まさしもいうとったやろ。いったん止めても昔の感覚がフラッシュバックする。そうするとどうしても欲しくなるのや」
 「えらい詳しいな。シャブ中やったんか」
 「そうや、10年前…なにいわすねん、違うがな。私はいろんな芸能人のシャブ中を見てるから」

 「キミは芸能界に詳しいからな」
 「うん、弟がちょっと芸能界におったからな。あの世界はヤクザとつながってるから」
 というようなことを彼は延々と話し、「次は○○というミュージシャンが捕まりよるで」
 清原に関しては、
 「球界復帰は無理やろな。もう骨の髄までヤクザや。こうなったら極道リーグで活躍するしかないな。あそこやったらシャブも何でもアリやから、ホームランどんどん打てるで」
 「極道リーグって、そんなんあるんか?」
 「これからキミがつくるんや。同窓会立ち上げたやろ。あれと同じや」
 「あれとこれとは違うぞ。無茶苦茶いいよる」
 そして昨日は
 「あの丸山はしゃーないヤッちゃな。政権与党にいると、『日本はアメリカの属州や』という事実を知ってしまうんやな」
 「外務省など官僚を通じてアメリカ本国からのオーダーがピシピシ入ってくるからな」
 「いやでもアメリカのいいなりになるしかない、と気づくんや」

 「日本が独立国家でないのは事実やけど、それをいうのはこれまでタブーやった。マスコミもいわなかった。それなのに政権の中枢にいるヤツがいうとは」
 「みんな同じ認識やと思うてポロッといいよったんや」
 「正直というか」
 「アホや。こうなったら日本も星条旗の星の51番目に日の丸をポチッと入れて、それを国旗にするしかないな」
 「すると国歌は『君が代』ではなくて、『星条旗』になるんか」
 「違うがな。星条旗やのうて性情鬼や」
 「なんやそれは……」
  
 こんなことでいいのかにゃー。

 自民党の丸山和也参院議員が昨日(02/17)国会で面白いことをいいました。

 「例えば日本がですよ、アメリカの第51番目の州になるということについてですね、憲法上どのような問題があるのかないのか。そうすると例えば集団的自衛権、安保条約って全く問題ならないですね。日本州の出身がアメリカの大統領になる可能性が出てくるということなんですよ。ということは、世界の中心で行動できる日本という、まァ日本とはそのときいわないんですけど、これはあり得ることなんですね、バカみたいな話すると思われるかもしれませんが」
   
 
要するに「日本はアメリカの51番目の州となることは有り得る」ということ。
 これ、与党(野党も?)の政治家の本音じゃないの。
 以前にも山本太郎という参院議員が同じようなことをいいました。
 「日本はアメリカの属州なのだから、大統領選の投票権を持って然るべき」と。
   
 
これは集団的自衛権、安保法制、TPP交渉……などすべてアメリカの要請だし、沖縄の基地問題が日本の国ではどうにもできないことから、はっきりしている事実です。
 これは与党ならみんなそう認識している。
 その認識は野党も同じ。ただそれをいうと国民の支持を失うから、与党に抵抗するフリをしているだけで本当は妥協している、私はそう捉えています。
  
 
このことはアメリカ国民みんな知っていること。
 以前アメリカ出身のタレントがこういいました。
 「日本とアメリカは対等じゃありません。日本はアメリカのジュニアパートナー(家来)ですよ。アメリカ国民なら誰だってそう思っています」
   
 
当然、官僚をはじめ政治評論家、経済評論家では周知の事実、むろんマスコミ関係者も同じ。
 しかしみんなそれはいわず、タブー視されています。
 安倍政権から敵視されている朝日・毎日でもそれには一切触れず、政権を「擁護」しています。
 どうせ敵視されているんだから、本当のことをいえよ。
    
 
ではなぜいわないのか。
 それをいったら大半の日本国民がガックリして愛国心をなくす、もっといえば生きる気力をなくすことになりかねない、という懸念があるからではないか。
 むろん新聞社としての自己保身もある。
   
 
しかし日本国民はそんなにヤワではありません。
 日本は独立国ではない。それがどうした。
 どうせ大国の家来になるしか生きていけないのだから、(中国、ロシアの隷属国になるよりは)ましな選択だろ、と前向き(?)に捉えるのではないか。
   
 
翻って冒頭の丸山発言。
 おそらく彼の心中は「みんなそう思っているでしょ」に違いない。
 なかには「よくぞいった」という人もいるかもしれない。
   
 
だとしたら、これは一種の布石(?)。
 いかにも失言のようにして(あとで撤回しましたが)国民の意識を徐徐に慣れさせ、最終的には「やっぱりね」と思わせる。
 そうなると、集団的自衛権、安保法制、TPP交渉、沖縄の基地問題……すべて国民を説得できるから。

 先日、某句界に出席しました。
 このとき私が持って行った句は。

 ①春を待つメタルで接ぎし我が腕
 ②文束ね未練を灰に庭焚火
 ③故郷を発つ停車場に春一番


 私の右腕には金属が入っています。
 3年前の夏、右上腕骨を剥離骨折したため、全身麻酔で骨の髄に金属の支柱を入れられました。
 当初はバストバンドで固定され、ほとんど動かなかったのですが、たゆまぬリハビリの結果、なんとか動くようになりました。
 それでもまだ痛い。右腕に袖を通すときは「イテテテ!」
 とくに冬はビシビシ冷える。それだけに春が待ち遠しい。
 その気持ちを詠んだ句が「①春を待つメタルで接ぎし我が腕」になりました

 ②は去年つくった「離別せむ文の数々庭焚火」を練り直したもの。

 ③も去年つくった「故郷を発つ贐(はなむけ)に春一番」をつくり直したものです。
 贐というのが気に入らない。「春一番」というのがすでに贐なので、わざわざ贐ということはない。それに故郷を発つのは自分だから、自分に贐というのは(自分へのご褒美と同様)自分を甘やかしているようで居心地悪い。そこで「停車場に」にしました。
  * 
 出席者は先生を含めて8人。
 生憎この日は遅刻し、みんな選考段階に入っていたため、あとから割り込んだ形になり、私に対する票はゼロ。
 それでも助手の先生(女性)が①に特選を入れてくれました。
 その評は「私の知り合いに骨に金属が入った人がいます。冬はそこが冷えて辛いといってました。だから『春を待つ』という気持ちがよくわかります」

 老先生のほうは(なぜか先生がふたりいる)「③故郷を発つ停車場に春一番」に並選をくれたけど、「停車場ということばが風情があっていいですね」といっただけ。
 春一番が吹いたというのは、故郷を発つ自分への贐である→門出を祝ってくれているのである、そこまで深く読んでくれ。

 出席者の句に対しては全体的に甘いし、句の解釈も物足りない。
 今後この句会とどう折り合いをつけていけばいいのか。
 * 
 ちなみに他の人の句で私が特選に入れたのは、

 ふたつみつ梅綻びて寺巡り……(4)最多得票
寺の梅
 お寺に行ったら、梅の花が二輪三輪咲いていた、という意味です。
 これをフツーに「寺巡り梅ふたつみつ綻びぬ」とすれば、「それがどうした」で終わる句です。
 ところがこれを並べ替え、「ふたつみつ」を先に持ってきて「なんだろう?」と思わせ、最後に「寺巡り」とタネ明かししたところに句のつくり方の巧妙さを感じました。
 北村回漕店からひと筋目の角を入ると橋に差しかかります。これが霞橋(長さ30m)。
 この橋はプラットトラス橋といって、桁が三角形でつながれていて、美しい形をしています。
霞橋 
 橋のたもとに説明板があり、それによると、この橋は明治29年(1896)イギリスで製作され、隅田川に架かる鉄道橋「隅田川橋梁」として誕生したとのこと。
プラットトラスの桁
  この橋はその後昭和4年(1929)に新鶴見操車場をまたぐ道路橋「江ケ崎跨線橋」として移設されました。しかし同操車場の廃止に伴って平成21年(2009)に撤去。
霞橋から見る新山下運河 
しかしその歴史ある橋を捨てるには忍びないとのことで土木工学の学者と横浜市の協力により、この新山下運河にかかる霞人道橋に移設されました。(平成25年3月竣工)
沓(しゅう) 
説明板と反対側のたもとに茶色い「家型」の鉄の器材が置かれていますが、これは沓(しゅう)と呼ばれるもので、橋を渡る車の重さや橋自身の重さを支え、基礎へ伝える部分です。
タイトルには「隅田川橋梁から江ヶ崎跨線橋まで114年使われ続けた沓」と銘されています。

新開橋
そこから約200m離れたところにある新開橋。(平成24年9月竣工)
この橋は割とフツ―の橋。橋の近くに量販店があるため、霞橋より車、人の通行量は多い。
量販店 反対側の駐車場  
ここから見る霞橋はなかなかの風情があります。
新開橋から見る霞橋  
 山下公園通りを南東方向に進み、山下橋を渡って本牧埠頭A突堤の根元あたりを新山下といいます。
 観光的にはほとんど人気のない場所ですが、そんなところでも厭わず「徘徊」するのが私の信条(?)。
山下橋から見る中村川 
 山下橋を渡ったところに昔「バンドホテル」という有名なホテルがありました。
 バンドとは海岸通りのことで、創業は昭和4年(1929)。木造2階建てのホテルでした。

 ♪窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える……
 淡谷のり子の「別れのブルース」はこのホテルが舞台とか。
 当時は山下埠頭もなかったため、ホテルの2階からは湊が見渡せたといいます。

 戦前、バンドホテルは外国人の社交場として栄えましたが、戦後は進駐軍の従軍記者宿舎となりました。接収が解除されたのは昭和31年(1956)、翌年4月に営業再開されました。
風格あるジャズバー 
 昭和34年(1959)には鉄筋7階建ての近代的なホテルに生まれ変わり、昭和43年(1968)には7階にナイトクラブ「シェルルーム」、昭和57年(1982)にはライブハウス「シェルガーデン」がオープンし、桑田佳祐、安全地帯、ゴダイゴ、チューブの前田亘輝、尾崎豊など、有名ミュージシャンを輩出しました。

 しかしホテルのほうは老朽化や大型ホテルの進出により不振が続き、首都高速道路建設によって眺望が失われたことが追い打ちをかけ、平成11年(1999)に閉鎖。建物はすぐに取り壊され、跡地には量販店「MEGAドン・キホーテ」が建てられました。
ドン・キホーテ 
 このあたりは30年以上前から何度か通ったことがあります。
 しかし当時はバンドホテルにそれほど興味はなく、外観さえ撮らなかった。返す返すも残念。

 さてその向かい。
 倉庫の前の駐車場に妙なブロンズ像。イルカ(?)のような動物の上に少年が乗っている。
 なにかのアニメに出てきた?
謎のブロンズ像① 謎のブロンズ像②
 看板を見ると「北村回漕店」、そして「Kitamura」のロゴ。
 「Kitamura」って元町の有名なバッグの店でしょ。
 考えてみたら、回漕店というのは海運業のことだから、この商社が鞄を扱ったということでしょうか。
鞄屋さんのロゴ 
 それにしても、その業界に詳しくない当方にとっては、このブロンズ像についてはよくわかりません。
 マリンタワーの展望室は29階と30階。
 「どっちだって見る景色は同じだろ」と思われるかもしれませんが、29階にはちょっとした工夫があります。
29階の床ガラス 
 床に一部ガラス張りになっている箇所。
 ここから眼下にタワーの足元が見えます。こわいよー。
床ガラスから下を見る 
 外の景色はそれほど違いはないので、その代わり壁面にはいろんな写真が展示されています。
赤レンガ倉庫 大桟橋
 昔の赤レンガ倉庫。大桟橋。
横浜スタジアム 
 そして横浜スタジアム。

 このマリンタワー、ピーク時には年間入場者数105万人と多くの観光客を集めたものの、2005年には年間27万人にまで減少したため運営会社が代わり、2009年にリニューアルオープン。
 外観は紅白からシルバーとブラウンオリーブに変わりました。
山下橋からの眺め 
 私は改装前の様子は知らないので何ともいえませんが、単に景色を見せるというだけではなく、いろんな展示物を設置して企業努力をしていると思います。
横浜花火の絵 
 そのため展望室だけではなく、下の階に降りても飽きなかった。
ロビー 
 2階の窓から見る外の景色もよかったし。
2階フロアからの眺め 
 先日横浜へ行ったとき、横浜マリンタワーにも上ってきました。
 いつもそばを通るのですが、これまで一度も入ったことなかった。それほど興味もなかったし。
外観 
 それが入る気になったのは、今年の元日、横浜ランドマークタワーに上ってから。
 「高いところから眺める横浜の市街地と港は素晴らしい」と実感しました。
 ならば、マリンタワーも。
エレベーターで上がる 
 同タワーが建設されたのは昭和36年(1961)。
 当時「横浜港開港100周年」を記念して「横浜港を象徴するモニュメントを」とのことでつくられました。高さ106m。
展望室 
 高さではランドマークタワーにははるかに及ばない。
 しかしここは大阪でいえば「通天閣」のような歴史と風格(?)があるのではないか。
 そんな思いもあります。
氷川丸と山下埠頭 
 展望室は29階と30階。
 眼下に横浜港が見えます。
 氷川丸と遊覧船の発着所。その右側には山下埠頭が。
大桟橋 
 さらに目を左(北西)に移すと、大桟橋、赤レンガ倉庫などみなとみらい地区が。
みなとみらい地区 
 西方向には富士山が見えるはずですが、生憎この日は曇って見えず。
 眼下には横浜スタジアムが見えるとのことですが、これもビルに邪魔されて見えない。
元町・山手方面 
 そして南側は山手地区。緑が多い。山手通りを歩いているときは気づかないけど、ここはやはり山だった。
新山下方面 
 新山下地区を見て、眼下に山下公園東端「せかいのひろば」からポーリン橋が手に取るように見えます。
山下公園東側(ポーリン橋も見える) 
 ふーむ、ランドマークタワーよりは低いけど、市街地を眺めるにはこの程度の高さで丁度いいんでないかい。
ベイブリッジ 
 川越の隠れた(?)名所、西武安比奈線がとうとう廃止されることになりました。
 これは本社の西武ホールディングス(HD)が一昨日(02/10)に発表したものです。(朝日新聞デジタル2011/02/11)
南大塚から延びた線路
 西武安比奈線とは西武新宿線、南大塚駅~安比奈(3.2km)を結ぶ貨物専用の線路。
 昭和の風情を残し、連続TV小説「つばさ」にも出てきて、鉄道ファンのみならず、ディープスポットを探訪するマニアックな人たちからも人気のあった鉄道です。
16号(青い車の走っている道路)を横切る形で 
 もとは入間川で採取した砂利の運搬を目的として大正14年(1925)に開業されました。
 しかし昭和42年(1967)入間川での川砂利の採取が禁止されたことによって休止。以後はそのまま放置されました。
雑木林のなか 
 私は2年前の9月、ここを訪れたことがあります。
 南大塚駅から国道16号を横切る線路は完全に撤去され、線路のあるところは雑草の伸び放題でした。
 一時期、安比奈線の奥(朝比奈駅?)に300両をとめられる安比奈車両基地の計画が浮上しましたが、車両増強計画の見直しもあってとりやめになりました。
池部橋梁跡① 
 私はざっと見回って、素人判断ながら「復活の目はない」と直感しました。
 何らかの形で路線を復活させるには、沿線に増えた住宅や、交通量を考慮せねばなりません。
 騒音対策や16号の交通量を考えると、高架にしないと無理。莫大な費用がかかります。
 そこまでして採算が合うのか。
池部橋梁跡② 
 当時のブログにはそう述べました。
 西武はあのとき私の「意見」を素直に聞いときゃよかったんだよ。……(????)
 いやはやおどろきました。
 本日(02/11)付けの東スポWeb版によると、清原容疑者(48)が覚醒剤を使っていたのは巨人のころからで、「(巨人の同僚は)みんな知っていた」というのです。

 報じているのが東スポだけに「?」と思ったのですが、実際に本紙の記者が巨人時代の元同僚選手(47)への自宅取材(写真もあり)なので、かなり信憑性はあります。
 この元同僚とは2006年に覚醒剤取締法違反(使用)容疑で逮捕(有罪確定)され、その後執行猶予で保釈された人物。他メディアでは実名で出ていますが、ここでは匿名。
 そのインタビューをかいつまんでいうと、清原容疑者は1998年から覚醒剤(当時は飲むほう)をやっており、他にもマリフアナ、コカイン、エクスタシーもやっていたといいます。

 おどろくべきは「覚醒剤を飲んで打席に入ってホームランを打った」という証言。
 「おう、やっぱりお前(元同僚)のシャブはよう効くな」という会話も交わされていた(?)らしい。それも当時の巨人の同僚は知っていた、といいます。

 だとしたら、これは大問題。
 清原は禁止薬物でホームラン打っていた、ということになります。
 オリンピックなら即メダル剥奪、記録抹消です。
 日本のプロ野球では前代未聞ですが、スポーツ精神にのっとれば記録抹消でしょう。あの輝かしいホームラン記録も、二千本安打も……。

 それに、もしこの人物のいうことが事実だとしたら、当時の巨人選手は知っていて容認したことになり、明らかに犯罪隠匿。これは「共犯」に問われるんじゃないの。

 清原は巨人にくる前から薬物に手を染めていたそうです。
 「(清原は)西武時代のハワイ旅行でマリフアナ吸った」と言っていた、とは元同僚の証言。

 これを聞いて「やっぱりな」と思いました。
 「清原の転落は西武時代に始まっていた、その元凶は当時の球団オーナーの過度な甘やかしにある」
 と先日の当ブログ(02/04)で述べた通りです。
 これに関しては、3日後の日刊ゲンダイ(02/07)「堤オーナーに溺愛されて 清原容疑者の“やりたい放題”伝説」に詳しく書かれていて、一連の「清原報道」では最も当を得ています。

 また、「週刊朝日2016年2月19日号」(net配信02/10)では元ヤクルトスワローズ監督の野村克也氏「天才だが考えられないバカ。野球人としての復帰は難しい」で、こう述べています。

 「プロ1年目から俺の記録はいつか清原に塗り替えられるなと思っていた。こんな選手いない。ただ物足りなかった。野球選手に大事なのは判断力だが、清原のプレーからは状況判断をしているとか、頭を使っているとかが全く伝わってこなかった」

 「それで、清原が西武1年目か2年目のときに、俺は森(元西武監督)に言ったんだよ。清原は野球に対する思想、哲学が何もない奴だ、天性だけでやっている。お前が悪い。ちゃんと教育しろって。野球の指導はコーチがやる。監督の仕事で大事なのは人間教育、社会教育ですよ。……(略)……やはり若いときの教育だね」

 おそらく監督もコーチも、オーナーの庇護を受けた清原に苦言を呈するなんてとてもできなかったに違いない。清原をスポイルしたのはこのオーナーといっても過言ではありません。

 ちなみに当時の清原の同僚だった秋山、伊東、工藤、渡辺……は才能だけではなく頭も使って野球をしたため、現役をやめても「なにをやっていいかわからない」とはならず、野球理論や指導力を身につけていきました。
 そうして現在では監督やコーチ、解説者となって、いい形で野球に携わっています。
 *
 一方清原の「球界復帰」ですが、まず無理でしょう。
 というのは身体に入れた刺青。
 これは「アウトローの世界に踏み出した覚悟の現れ」と解釈できるからです。
 刺青に関しては昔、施術現場を取材したことがあり、前ブログでも投稿したことがあるので、これについてはいずれリメーク版を投稿するつもりです。
 新宿・中央通りは、歌舞伎町と違って地味で面白みに欠ける、と思うのですが、不思議にノスタルジックな雰囲気もある。
中央通り 
 これについて私よりもはるかな先輩、つまり親の世代にいわせると、戦前はこちらのほうが一大歓楽街だったといいます。「とくに三越裏。あそこにはシャレたバーが多かった」
 
 たしかに私の学生時代にはまだその名残りをとどめていて、「ボーナス」というキャバレーや、「青蛾」という渋い喫茶店もありました。
 今はその影もなく、丸井(?)の社員が出入りするだけの通りになりました。
三越裏
 「おや?」
 駅近くの自動販売機の前で、派手な格好したオジサンが飲み物を飲んでいます。
 新聞配達の人。
 この人は30年以上も前から変わった格好をして新聞を配達している、当時から有名な人。
 もうかなりのお年だと思うけど、まだ健在で何よりでした。
新聞配達のおじさん 
 そこから南のほうに入ったのですが、あれッ、ここにあった映画館がない。
 エロ映画も上映されたけど、ヤクザ映画も上映されていて、よく入りました。
 お世辞にもきれいな映画館とはいえなかったけど、なくなってみるとちょっと寂しい。
元映画館 
 もう一度中央通りにもどってみると、30年ほど前とは様相が変わっています。
 こんなところにできたのか、と思ったのが某家具店。
 経営路線をめぐって父娘がモメてましたなあ。
家具会社 
 そのまま東に進むと、ありました、喫茶「らんぶる」。
 ここはフリーのライターになった当時、もといた出版社の同僚から頼まれて原稿を書き、その受け渡しをする場所でした。
 落ち着いた店内で、コーヒーも美味かった。それほど高くはなかったと思います。
喫茶店 
 今回久しぶりにここを歩いてみて、この喫茶店が健在なのがよかった。
 別の用事があったので入らなかったけど、今度通ったら入ってみようかな。
 新宿駅から靖国通り(北側)を東に進むと、区役所を過ぎたところに大理石を敷き詰めた地味な遊歩道があります。これが四季の路。
 (入口に「新宿遊歩道公園四季の路」と書かれたプレートあり)
靖国通り側入口 
 新宿といえば大勢の人が行き交うのに、ここは人通りも少なく、歩く人もゆったり。
散歩気分で 
 道はS字状にカーブしていて、途中道幅が広くなっていて、中央に植え込みも見られます。
 トイレもあり。
広くなっているところも 
 若い人はご存じないと思うけど、ここはもともと都電(13系統・新宿駅前~水天宮前)が走っていました。
 私も学生時代、一度これに乗って河田町まで行ったことがありますが、まさに人家の軒下を通っていくという感じでした。
トイレもある 
 都電は昭和45年3月に廃止され、新宿区が東京都より譲渡を受けて整備し、昭和49年6月24日に遊歩道公園として開園しました。

 私がこの近くの出版社に勤めていたのはそのころで、当時は一部レールが残っていました。

 ゴールデン街も近くにありました。
 先輩の編集者とよく飲みに連れていかれました。
 「編集者は酒が飲めないとダメだぞ」
 といわれ、安ウィスキーをガンガン飲まされました。(私にとっては地獄でした)
ゴールデン街 
 近くに雀荘もありました。
 大半の編集者は仕事が終わると、周辺の雀荘に入り浸っていました。
 最初は「とんでもないところに就職した」と思ったものですが、のちに「賭博体質の編集者のほうが面白い雑誌をつくるのではないか」と思うようになりました。
新田裏側の出口 
 そんなことを思い出しながら、歩いているうちに、文化センター通り側に出ました。
 このあたりは昔「新田裏」と呼ばれていました。
 四季の路は全長260mほど。長いようで短く、あッという間でした。

 新宿の花園神社は江戸時代から内藤新宿の守り神で、拝殿には現在、倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の3柱の神が祀られているそうです。
花園神社・入口 
 この神社が有名になったのは、私の学生時代、境内に「状況劇場」(主宰・唐十郎)なる芝居テントが張られ、そこで前衛演劇が行われていたことです。
 演劇そのものを実際に見たことはないのですが、演劇ブームが去ったあと、この近くの出版社に勤務するようになって、「ここがそうか」と思ったものです。
拝殿 
 いい伝えによると、花園神社は昔から境内に芝居小屋を設け、芝居や踊りなどを興行し、大勢の人で賑わったそうです。

 それと関連があるのか、境内の外れに「芸能浅間神社」(昭和3年創建)なる神社があります。
 神社の手前の塀には芸能人の名前が書かれています。唐十郎、八代亜紀、藤村俊二……など。
芸能浅間神社 
 また右側には「圭子の夢は夜ひらく」の石碑があります。
 ♪赤く咲くのはけしの花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさ この私
 夢は夜ひらく……
唄の石碑 
 とはいえ、ここは「浅間」神社(富士山信仰の神社)でもあるわけですから、富士塚があるはず。そう思ってよく見ると、富士塚の上に祠が乗っかっていました。
富士塚? 
 富士山信仰と芸能のご利益。別にいいんだよ。
芸能人の名前がズラリ 
 また花園神社の境内のなかほどに短い鳥居のトンネルがあります。
 これは末社の「威徳稲荷神社」
 夫婦和合・子授け・縁結び・恋愛成就などにご利益があるとか。
鳥居の奥は? 
 あとで調べると、ここに木と石の男性器があり、なでるとご利益があるとか。
 (気づかなかった)
威徳稲荷神社 
 この神社には何度も通ったはずなのに、気づかなかったことも多いようです。
 ご利益多彩(?)で、知れば知るほど複雑怪奇な神社だ。

2016.02.07 朝のエコパ
 このところ土曜の朝のラジオ番組がつまらないので、土曜日にはふじみ野市の余熱利用風呂「エコパ」へ行ってきました。

 私はここの優待者証を持っているので、徘徊のついでに行くことがありますが、大てい3時ごろ。いつも顔を合わせるオヤジ(ジジイ?)も数人いて、湯船で四方山話をするのも面白い。

 ところが午前中というのは、午後と違って、思いのほか混雑している。
 とくに屋内にある湯船は芋の子を洗うようにジジイがうようよ。それも腰が曲がり、息も絶え絶えのジイサンがよたよたと浴場内を歩いているのが目につきます。
 大丈夫か、このジイサン。
エコパ 
 私はいつも屋外の風呂に入るのですが、ここは比較的空いています。
 寒いからジイサンは身が持たない?

 周囲は知らないジイサンばかりなので黙って入っていると、ふたりのジイサンが喋っています。
 「まあ、ここに入っていると天国だねえ」
 「そうそう、私なんかここ(風呂)が終わっても、帰るのはいつも2時のバスだよ」
 「そうか、あんたはいつも風呂が終わったら、カラオケだものな」(カラオケルームもあり)
 「そうそう。だから月曜日(休み)なんか、どうしていいか。わかんないよ」
 なんだこのジイサンたち、暇つぶしに風呂にきてるのか。

 以前は湯冷めが気になりましたが、最近湯冷めしない方法を編み出しました。
 それは、
 ①外の風呂で首まで浸かって温まったら、上半身を外気にさらして半身浴だけにする。
 上半身は温めたまま外に出ると冷めるので、その前に冷やしておく。とはいえ下半身は温まっているので、冷めるのは上半身の皮膚だけ。内部までは冷えない。

 それだけでいいのですが、②さらに下半身を温めるには、冷水シャワーを足にかける。
 これは冷水をかけると皮膚が収縮し、逆に保温しようとする働きが強まるから。
 実際足に冷水シャワーをかけたあと、よく拭いて服を着ると、足がポカポカします。
休憩室 
 そして最後は③上半身にも冷水シャワーをかける。
 これは徐徐にやらないと危険です。
 私は腰→背中→右肩→左肩→胸へとかけて、上半身をまんべんなく冷やすようにしています。
 これでよく拭いて服を着ると、全身がカーッと熱くなって、夜になっても冷えません。

 ただし段階を踏んで。
 いきなりはダメですよ。私も最近になって③の段階に達したのですから。

 山手80番館遺跡から元町プール方向に歩くとエリスマン邸の裏側に出ます。
 エリスマン邸は山手通りにあるので、丘の上。
 かなりの急傾斜で段差があります。
 したがって一面に崖崩れ防止の擁壁が施されています。
 その擁壁は木製。
崖崩れ防止の擁壁 
 うーん、大丈夫か、木の板で。
 コンクリートより木のほうが強いという説もあるけど、木というのは湿気があれば腐食する。
 むろん横浜市はわかっているとは思うけど。

 山手通りに向かうと小さな空き地に出ます。
 ここが元町公園。
 元町公園といえばプール下の整備の行き届いた公園がそうだと思っていたけど、プールを含めた一帯を元町公園というらしい。

 「おや?」
 眼下に弓を射る人がいます。
 ははあ、これは弓道場だな。
 場所を変えて写真を摂っていると、弓を射る人はピタリとやめました。
弓道場① 
 「上から怪しいヤツが写真を撮っている」
 そう気づかれてやめたのか。
 (時間がきたからやめたのかも)
弓道場② 
 弓道場から少し下に向かうと元町プール。
 「ここからだと覗き放題だ」
 パチパチと写真を撮りました。
元町プール 
 「人がいないプールを撮ってもしょうがないじゃないか」って?
 いやいや、人がいないからこそいいんです。
 もし人が、とくに女性が水着姿でプールサイドにいるところをパチパチ撮ってると、「怪しいオヤジが盗撮している」と突き出されかねない。

 つくづく今の時期でよかったなあ。
 山手・エリスマン邸から元町側へ少し下りたところにレンガの遺構があります。
 これは山手80番館遺跡といって、元外国人住宅跡。
山手80番館の遺構 
 遺構の近くの壁に当時の住宅の間取り図と説明書きあります。
間取り図 
 「この赤レンガの構造物は、関東大震災前の異人館遺跡で、震災当時はマクガワン夫妻の住居となっていたところです。……(略)……本遣跡は、煉瓦壁体が鉄棒によって補強されており、耐震上の配慮がなされていましたが、床部のせりあがりや壁体の亀裂が随所にみられ、関東大地震による被害状況を物語っています。……(略)……」(説明書き)
レンガの遺構① 
 現在山手にある西洋館はすべて震災以後に建てられたものなので、ここが唯一震災前の遺構ということになります。

 残されているのは地下室部分を残すだけですが、浄化槽をも備え、当時の横浜の居留外国人の暮らしぶりが想像できます。
レンガの遺構② 
 当時の日本の家屋は木造だったから、建材も建て方もまったく違う。
 費用もかかっただろうし、施工にあたった日本の大工さんなども苦労しただろうな。
 それだけ彼らの収入が格段に多かったわけで……。

 スミマセン、俗っぽいことを考えてしまいました。

 甲子園、プロ球界のヒーロー清原和博容疑者(48)が一昨日(02/02)覚醒剤取締法違反容疑で逮捕されました。
 一連の報道によると、警察は1年以上にわたる内偵捜査を経て、この日の強制捜査に踏み切ったそうです。調べに素直に応じ、吸引だけでなく、注射器も使っていたと白状して、どっぷり覚醒剤漬けになっていたことが明るみになりました。
Nスタ① 
 清原選手のことは桑田投手とともにPL学園のころから注目していました。
 実際に甲子園で見たこともあります。
 当時PLの選手はみんなユニフォームが似合い、シートノックでも他校とは格段のオーラが感じられました。
 
 高校生離れした強打者の清原は巨人入りを希望していたものの、ドラフトでは巨人からは指名されず、西武が獲得。大学進学を宣言していた桑田は巨人から指名されると、あっさり巨人入り。
 「汚いぞ、桑田」
 桑田投手は頭脳的なピッチングで勝ち星を重ねましたが、多額の借金問題、運動具メーカーとの癒着、暴力団関係者との交際などが取り沙汰され、ダーティなイメージがつきまといました。
NHKニュース① 
 清原は(巨人へのわだかまりも忘れ?)野球に邁進し、持ち前の強打で西武の四番打者となり、優勝に大きく貢献しました。新人賞にも輝いています。
 その年の契約更改で1800万円を提示されて、「(電気店を営む)お父さんから、『我々がどんなに頑張っても得られない金額。大切につかいなさい』といわれました」といったときは、その謙虚なことばに好感を持ったものです。
        
 一方で気がかりなこともありました。
 それは当時の球団のオーナー(親会社の総帥)がやたら清原選手を可愛がり、特別扱いしたこと。このオーナーの態度は私の目から見ても異様でした。
 当時の西武には秋山、伊東、渡辺、工藤などそうそうたる選手がいたのですが、彼らを差し置いて清原を溺愛しました。オーナー主催のパーティーに清原だけ連れていくとか。
 
 これではチーム内に不協和音が生まれる。
 それに、まだ年端もいかぬ若者に「人間としての心得」を教導する人がいなくなるのではないか、と案じました。
 案の定、記者会見などでたむろする記者に対して、「邪魔や、どけ!」と怒鳴る姿が新聞に書かれ、TVでも放映されました。
Nスタ② 
 プロ野球に入りたての新人はマスコミへの対応の仕方など研修を受けるのですが、彼の場合はそれほどやかましくいわれなかったようで、野放図になっていきました。
 野球で活躍していればなにをやっても許される、とばかり夜な夜な銀座や六本木で飲み歩く。
 金はある、人気はある、体力はある、(オーナー=財界の大物の)バックもある、ということでみんなからチヤホヤされる。
 若者だから多少羽目を外すのはいい。しかし、いい気になっていると、必ずよからぬ人物に取り込まれる。
 巨人入りして暴力団関係者とのつき合いが明るみになったのも、西武の時代からその下地はあったと考えられます。
NHKニュース②
 野球に対する考え方も方向性を間違えたように思います。
 スポーツ生理学の先生によると、
 「野球選手が格闘家のようにムキムキマンになる必要はない。余計な筋肉がつくことによって俊敏性が損なわれる」
 それに、
 「打者というのは打席で構えているときはリラックスして、球がきたときだけ鋭くスウィングするのが理想的。典型的なのがイチロー。しかし清原のように最初から力みかえってアドレナリンを多量に発散させていては、いざというときの鋭いスウィングができない。技巧派投手にしてみれば格好の餌食」といいます。
NHKニュース③
 清原も高校時代や西武時代は、(イチローのように)打席ではリラックスしていた。
 それが巨人に入ってから、だんだん格闘家のような打者に変わっていった。
 彼はそれでも多くのホームランを打ち、輝かしい成績を残していますが、当初のスタイルを続けていれば、もっといい成績を残せたのではないか。
 
 それとともに野球に対する探究心がさらに深まり、現役を辞めたとしても後進の指導や、野球の解説などに強い関心が向かうのではないか。
 現役を引退したら抜け殻のようになり、「なにをしていいのかわからない」では、あまりに寂しい。
NHKニュース④
 それも18~20歳にかけての大事なときに、野球に対する取り組み方を教わってこなかったからではないか。
 いずれにしてもそれらの原因は西武時代にあったのではないか、と私は思っているのですが。
 「日本の道百選」に選ばれている山手通りは山手の丘(山脈?)の尾根伝いの道です。
 それが如実にわかるのは代官坂上の交差点。
左は元町方向
 上の写真、右側の道が山手通り。左の道は下り坂になっていますが、これは元町方向。
 その反対側(本牧方面)は下り坂になっています。(下の写真)つまり交差点が頂上。
 これで山手通りが尾根道であることがわかったと思います。
右は本牧方向  
 交差点から本牧方面に下ります。(↓)
本牧方向へ下りる 
 道は急に細くなりますが、同時に右側の下方に道が並行する形で現れます。
 これを振り返ると、こんな光景。(↓)
途中で坂上を振り返る 
 坂を下りたところから下の道を見るとトンネルがあり、向こう側(元町方面)に抜けられます。
下りたところを振り返るとトンネルが 
 これが代官坂トンネルです。昭和7年(1932)開通。
 幅が狭いので、車は信号による交互通行。
代官坂トンネル  トンネル内
 そのため車の通行量は少なく、小学生が通学路として使用しているらしい。
 壁面に小学生の描いた絵が掛けられているのはそのためか。
 壁に掛けられた絵
 代官坂トンネルを抜けると、坂の中腹へ。
トンネルを抜けて元町方向へ 
 少し歩いて振り向くと、右側に白亜の建物「クリフサイド」が見えます。
 これは昭和21年「山手舞踏場」としてオープンしたという有名なダンスホールですが、私はあまり関心がないので素通り。
振り返って坂上を見る。フェンスの向こうがトンネル。右の白い建物はクリフサイド。 
 そこからまた坂を上って山手通りへ。
 右側のフェンスの向こうは代官坂トンネル。
再び坂を上る。右はトンネル。 
 再び代官坂上(山手通り)へ。けっこう急な坂です。
代官坂上(山手通り)へ。 
 ということで、代官坂トンネルは元町⇔本牧間を行き来するためにつくられたのではないか。

 ちなみに代官坂の由来は、この坂の途中に横浜村名主・石川徳右衛門の居宅があったから。
 徳右衛門はペリーが横浜へきた際、その応接に尽力し、のちに横浜町惣年寄となり、町政を担当したので「代官」と呼ばれるようになりました。
 甘利経済再生担当大臣が、金銭授受疑惑の責任を取って辞任しました。
 週刊文春の報道で証拠はガッチリ押さえられている。実名の証言もある。
 これでは到底否定しきれない、と判断したからでしょう。

 しかしその弁明は疑問だらけ。
 現金(計)100万円は受け取ったけど、収支報告書に記載したから問題はない。
 秘書は計500万受け取り、200万は収支報告書に記載したけど、300万は秘書が私的に流用。その管理責任は私にあり、(これ以上迷惑をかけられないので)辞任する、というもの。
 これでは、「自分自身にはまったく非はない」といわんばかり。

 問題なのは「秘書の管理責任が自分にある」ということではなく、受け取った金がどういうものか、これが問われているのです。
 告発者の証言からすると、これは業者への口利きで、明らかに「あっせん利得」による金。
 しかも告発者の証言が真実だとすると、甘利氏は「あっせん利得処罰法」違反でアウト(有罪)ということになります。

 状況証拠は真っ黒。
 都市再生機構(UR)の発表では、甘利氏の秘書が「少し色を付けてでも地区外に出ていってもらう方が良いのではないか」「甘利事務所の顔を立ててもらえないか」といったそうですが、URは「口利きではない」との認識(朝日新聞02/02)。

 これじや完全な口利きだよ。
 しかし東京地検がこれをどう判断するか。URは口が裂けても「口利きだった」とはいわないでしょう。そうなると「あっせん利得処罰法」違反はこれまで通り有耶無耶になる可能性が大きい。
 これでは日本の伝統的(?)な「賄賂体質」は何ひとつ改まらない。

 そんな甘利氏は、「政治家としての矜持に鑑みて大臣を辞めた」といい、さらに内閣府職員の前では「私なりのやせ我慢の美学を貫いた」と述べました。

 やせ我慢とは笑止千万。
 だったら金なんか受け取るな。どんなに金がほしくても、「要りません」と突っぱねるのがやせ我慢。「武士は食わねど高楊枝」ということばを噛みしめろ。
 そもそも自分で「自分の生きざま」とか「美学」というのは自分を美化することばで、そんなヤツに限って中身はいかがわしい。

 この辞任会見を「潔い身の処し方」「正直な告白に感動した」と宣った評論家女史がいたけど、いい年して「盆暗」としか思えない。あるいは(もともと)政権の提灯持ちだったのか。

 最後に甘利氏、「政治家としての矜持」というなら、さっさと国会議員を辞めればいい。
 辞めたら政治家としての「美学」を認めてやるよ。
 昨日は大坂国際女子マラソンを観ました。
 これは今夏のリオデジャネイロ・オリンピックの代表選考会を兼ねているそうで、目標記録は2時間22分30秒とか。
 解説者の話では「福士加代子(ワコール)か重友梨佐(天満屋)が有力」とのこと。

 序盤は重友、福士、加藤岬、竹中、チェピエゴ、トロイティッチの6人が先頭グループ。
 しかし17km近辺では重友、加藤、トロイティッチが遅れ、先頭は竹中、福士、チェピエゴの3人に。
ペースメーカーにぴったり 
 25kmあたりからは福士がトップ。
 「いい走りですよ」と解説者(増田明美さん?)はほめるけど、私はあまり信用しない。
 この福士選手、いつも最初は快調に飛ばしていても、後半失速しヨレヨレになる。一度などは力がなくなってすッ転んだこともあった。
 おそらく後半失速して抜かれるのではないか。
2位以下を離す 
 ところが30km過ぎてペースメーカーが離脱しても福士のペースは衰えない。それどころか後続がどんどん遅れ、福士の独走状態。

 ここで思わぬ事態が起こりました。
 31km過ぎで2位に付けていたチェピエゴが倒れたとの報。走っているときから苦しそうにお腹をおさえ、崩れるように倒れました。そのまま動かない。
よろよろと崩れ   
 関係者がきたけど、見てるだけ。
バッタリ倒れた 
 おそらく関係者が選手に手を触れたら(手を貸したと見なされ)、競技失格になるのだろうけど、状況を見ろ。ピクリともしないのだから緊急事態だ。
 こんなときは有無をいわせず救急車だろう。
ピクリとも動かない
 その後酸素マスクをつけて救急車で病院へ運ばれたというから、相当重かったはず。マラソンにもレフェリーストップ制度を設けるべきではないか。

 一方先頭の福士は完全に独走状態。40km過ぎても衰えず。
 疑り深い私もさすがに「これは勝負あった」と思いました。
福士独走 
 優勝タイムは2時間22分17秒。
 外国人選手が不振だったのは、有力な選手が出場しなかったからでしょう。
福士1位でゴールイン 
 目標記録を13秒も上回っているから、間違いなく代表入り。
 「リオ決定だべ!」はいわなくてもよかった。すぐ切ったけど。