私にとって今年はいい年だったと思います。
 なんといっても生まれて初めて幹事を務めたこと。
 これはかつての(小学時代の)学級委員が投げ出したため、関東在住の当方がやらざるを得なくなったからです。

左が母校            

 最初は意地でした。
 しかし取手の友人が手伝ってくれるようになり、打ち合わせのために彼の運転で京都を2回行き来するようになると、次第に面白くなってきました。
 とくに栗東の歴史研究家(翁?)と旧交を温め、彼の案内で拝観した芭蕉ゆかりのお寺(義仲寺)が印象に残っています。

東名高速から見る富士山 

 同窓会は前夜祭から盛り上がりました。
 関東勢が同級生のお好み焼き屋に集まってオダを上げましたが、このとき中学の同級生と再会できたのが収穫でした。
 彼とは30年ぶり。「ここ一年体調を壊して休んでいたけど、ようやく体調を取り戻した」ということで、再会をよろこび合いました。

会場近辺           

 同窓会本番は所どころ不手際はあったけど、盛り上がりました。
 みんな再会をよろこび合い、時間の経つのも忘れてしゃべりっぱなし。

会場 

 私としては中学の同窓会では出席しなかった同窓生が出てくれたことが大きかった。
 自己紹介のとき、同級生の女性が「いつの間にか消息不明者にされてました」とスピーチしたとき、傍らで数人の女性が「よう調べはったな」と私語していたのには笑いました。調べた、というほどのものではないのに。
                 
 さらに武蔵野の元女子高教師と兵庫県の農夫の出席。
 このふたりは私とは交流があったけど、他の連中からは所在がつかめなかっただけに、同級生からは感謝されました。
 これで私の同窓会の目的の大半は達せられたといっていいぐらい。
              
 散会のときはみんなから感謝され、翌日になっても数人の友から続々と感謝のメール。
 取手の友からも「大成功や」といわれて、ようやくよろこびがこみ上げてきました。

会場のロビー  

 このように同窓会は無事に終わったけど、ここへきて中学時代親しかった友の訃報。
 「あんな屈強なヤツが……」
 彼は柔道でならした元気者だっただけにショックです。
                 
 来年はどんな年になることやら。

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 一昨日(12/28)「慰安婦問題」について日韓の同意が成立しました。
 これは安倍首相が「慰安婦問題を当時の軍の関与」と認め、
 「日本国の首相として、(慰安婦として)あまたの苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちをする」
 そして、「韓国政府が元慰安婦の方々の支援財団を設立し、これに日本政府の予算10億円程度を拠出する」と約束しました。

 日本側(とくに安倍)にしてみればかなりの譲歩(賠償問題は解決済みなので)ですが、韓国側からは「最終的かつ不可逆的な解決である」との言質を取りました。この問題で「もう蒸し返しはしない」ということです。

 これにはアメリカの意向が働いていて、「韓国と仲良くしろ」といわれていたので、ポチとしてはそれに従うしかありませんが、岸元首相の孫としては苦渋の決断だったと思われます。

 戦後岸信介は戦犯として巣鴨拘置所に入れられましたが、共産主義勢力が台頭してくるとアメリカはそれを抑えるためのテクノクラートとして岸を保釈し、首相に据えたのです。
 いらい戦前・戦中に政権の中枢にいた連中は、ドイツのように180度反省することもなく、アメリカにすり寄って保守政党のなかでのうのうとはびこってきました。それが安倍をはじめとする(=守旧派)今の政権にいる人たちです。
 だから内心は、あの戦争は「侵略戦争ではない」、まして慰安婦など「軍のあずかり知らぬこと」との思いのはず。

 その安倍がこのように表明したのは一応評価したい。
 あとになって「法的責任ではなく、道義的責任」と訂正していますが、これは姑息。

 前にもいいましたが、私たちは先の戦争には何ら関わりのない世代。
 とはいえその国民として責任を受け継いでいるわけですが、その責任を追及されても「あれは先人の愚行」とバッサリ切り捨てればいいのです。

 安倍をはじめとする守旧派はそれをしないから、いつまでも問題が解決しない。
 これにはアメリカもしびれを切らして、「いい加減にしろ」といわれて、ようやく動き出したというところでしょう。韓国も然り。

 「最終的かつ不可逆的な解決である」
 これが実現できるなら、大変けっこうなこと。
 そのためには日本の首相も(A級戦犯が合祀されている)靖国参拝は絶対にやめていただきたい。
 今年は同窓会の幹事を務めた事情で京都にも何回か行きました。
 その合間に撮った写真の在庫一掃セール。場所柄どうしても神社仏閣が多くなりますが、そこは平にご勘弁。

東本願寺
 京都駅のすぐ近くにあるので、よく寄ります。真宗大谷派の本山。通称「お東さん」。
 正面の御影堂は明治28年(1895)に完成。建築面積では世界最大の木造建築物(Wikipedia)だそうです。
御影堂 噴水と御影堂門
高山彦九郎像
 三条京阪の駅前にある銅像。
 高山彦九郎(1747~1793)は群馬の出身。熱心な勤王の士で、上洛(京都入り)した際は必ず御所に向かって拝礼していたところからこの像がつくられた(1928年)そうです。
 現在のものは1961年につくられた二代目。別名「土下座像」
 東京・渋谷の「ハチ公像」と同じく、待ち合わせ場所として定着。若者の間では「明日×時に土下座像前ね」という会話が交わされているとか。
高山彦九郎像 
安井金毘羅宮
 東大路にある金毘羅神社。671年、藤原鎌足によって創建され、縁切り・縁結びにご利益あるとか。宿の近くだったため、早朝にお参りしました。ご利益あるかな。
安井金毘羅宮・鳥居 参拝所
北野天満宮
 大宰府に流された菅原道真公の祟りを鎮めるため947年に創建されたといわれる、全国の天満宮の総本山。今では学問の神として多くの受験生らの信仰を集めています。
 天満宮では、牛は神の使者として祀られていて、ここの牛もなかなか立派。
天満宮入口 拝殿 境内に寝そべる牛
菅原院天満宮神社
 その道真公が生まれた地として祀られているのが御所の西にある菅原院天満宮神社。
 ここにはなんと、「道真公産湯の井戸」があります。この水を飲めば頭がよくなる?
菅原院天満宮神社入り口 道真公産湯の井戸
護王神社
 その近くにある和気清麻呂を祭神とする神社。
 足腰にご利益ありとかで、お年寄りはもちろん運動選手のお参りも多いそうです。
 またここには立派な「さざれ石」(小さな石灰岩が寄せ集まって岩になったもの)があり、これは日本一だそうです。
境内の和気清麻呂像 さざれ石
伏見稲荷の狐像
 以前ここをUPしたときは鳥居にばかり気をとられ、肝心のお狐様を忘れてました。
 楼門前に飾られた狐は左が鍵を銜え、右が球を銜えています。玉は稲荷大神の象徴であり、鍵はその霊を身につけようとする願望の象徴だそうです。
鍵を咥えた狐 玉を咥えた狐
カトリック河原町教会
 神社が続いたので、気分を変えてキリスト教の教会を。
 同教会は河原町三条を上がったところにあり、創建は明治23年(1890)。守護聖人はフランシスコ・ザビエル。
 私が幼児洗礼を受けた教会ですが、巨大ステンドグラスが印象に残っているだけで、よく覚えてません。
 現在の聖堂は1972年に建築され、旧聖堂は愛知県の明治村に移築・保存されているそうです。
カトリック河原町教会 
石清水八幡宮展望台
 徒然草に出てくる石清水八幡宮。その八幡宮が鎮座する男山は小高い山(142.5m)で、展望台になっています。
 ここにある谷崎潤一郎の文学碑にはこの地を舞台にした「蘆刈抄」の一文が刻まれています。
 「わたしの乗った船が洲へ漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして全山の木々の繁みがびろうどのやうな津やをふくみ、……」
展望台 谷崎潤一郎の文学碑
エジソン通り
 京阪八幡市駅の前にある発明王エジソンの銅像。
 エジソンが白熱電球に取り組んだ際、ここ八幡にある竹が最も適していたところから、電球が普及しました。そのためエジソンは石清水八幡宮にもお参りしました。
 以来ここはエジソン通りと呼ばれ、銅像がつくられました。
エジソン通り エジソン像
 年末恒例(?)の在庫一掃セール。今回はいよいよ横浜編。

クイーンズスクウェア通路
 臨港パーク周辺から汽車道に向かうとき、ときどき通過するところですが、写真を撮ったのは初めて。外の桜通りとはまた違って新鮮な風景です。
通路 通路から見る外の景色
横浜美術館の脇のブロンズ像
 「平和の若い騎手」(ヴェナンツォ・クロチェッティ作)。
 タイトルを見ると「なるほど」と思ってしまうから不思議。
ブロンズ像「平和の若い騎手」 
Tvk住宅展示場
 横浜・西平沼町(横浜駅から南西に約1.5㎞)にある住宅展示場。広い敷地に61棟(建設中を含む)が展示されていて、ここだけで一種のテーマパークです。
 イングリッシュガーデンはこの奥。
住宅展示場① 住宅展示場②
洪福寺界隈
 洪福寺は敷地がコンクリートの無味乾燥なお寺ですが、興味深いのはその界隈。
 カフェー神社。ここでいうカフェーとは(喫茶店ではなく)風俗産業。
 横浜の事情通の話では、その名残りの建物が民間アパートになっているところがある。これがそれらしいというのですが……。(ここはディープスポット向き?)
洪福寺 カフェー神社 謎のアパート
霞橋
 藤棚浦舟通のバス停久保山にかかるアーチ状の橋。
 この橋は「かながわの橋100選」にも選ばれていますが、橋から見るバス停周辺の景色も風情があります。トイレも当時としてはモダンなものだったと思われます。
霞橋 霞橋から見たバス停周辺
馬車道駅
 地下鉄みなとみらい線は新しくできただけに各駅工夫が凝らされています。
 馬車道駅もそのひとつ。壁面がレンガ造りで明治初期の雰囲気があり、なかなかの風情です。
馬車道駅① 馬車道駅②
郵船会館裏
 日本郵船のビルの脇から入ると運河に出ます。対岸に赤レンガパークが見えます。
 裏はレストラン。昼前だったけど、比較的リーズナブルな店らしい。
郵船会館裏① 郵船会館裏②
山手・謎の洋館
 湊の見える丘公園から外国人墓地に向かう途中にある謎の洋館。
 おそらく個人宅で、人が住んでいると思われるけど、寂れ具合が気になります。
謎の洋館 
ジェラール水屋敷
 市営プールを含む元町公園一帯は明治初期フランスの実業家ジェラールの工場があった場所。
 ジェラールはここの豊富な湧水を水道で引き、外国船に飲料水として販売、その品質の良さで好評を博しました。ジェラールはまた同地で西洋瓦をも製造して財を成しました。
 元町公園の下に当時の地下貯水槽があり、人々はこれを「ジェラールの水屋敷」と呼びました。
貯水槽跡① 貯水槽跡②
横浜スタジアム
 横浜公園内にある横浜スタジアム。
 今年のDeNAベイスターズは集客には成功したけど、成績はさっぱり。
 来年こそは3位以内に入ってくれよなあ。
横浜スタジアム 
 今年撮った写真の総ざらい。今回は東京編。

二宮金次郎像
 八重洲ブックセンター入口にあります。金次郎は勉強熱心で薪を背負っても本を読んでいたという、いかにも本屋さんならではの銅像ですが、なぜか金ピカ。敬う気持ちはわかるけど。
二宮金次郎像 
楠正成像
 皇居の日比谷寄りの場所にあります。
 正成は後醍醐天皇に忠誠を尽くし、足利尊氏と戦って討ち死にしました。「桜井の別れ」の歌は今でも歌えます。今は観光客の記念撮影の場所。
楠正成像の前で 楠正成像
フクロウ像
 池袋の鳥はフクロウとのことで、東口の地下道に一体(池フクロウ)、西口に一体。
 東口のは漫画化されてますが、西口のフクロウはリアルです。今にも飛び立とうという姿がかっこいい。
東口のいけふくろう 西口のフクロウ像
東横線のホーム
 東横線(地下鉄副都心線)の渋谷駅。ホームの上に窓があって、そこからホームを見ることができます。なんということもない、電車の出入りですが。
東横線のホーム 電車がきた
泰明小学校
 銀座にある日本一(?)有名な公立(東京都中央区立)小学校。
 その理由は島崎藤村、北村透谷をはじめとする文化人、芸能人を輩出したということで、今でも見学者が訪れます。校庭は狭く、土ではありませんが、子どもたちは元気いっぱい。
 有名人は他に朝丘雪路、池田彌三郎、和泉雅子、加藤武、金子光晴、近衛文麿、殿山泰司、中山千夏、河原崎国太郎、矢代静一……など。
泰明小学校 石碑 元気に遊ぶ子たち
上野駅跨線橋
 上野駅の公園口から浅草口に向かうには、坂を下りて大ガードをくぐらなければならなかったけど、いつの間にか広くて立派な跨線橋ができてました。しかもこれは駅を跨ぐので跨駅橋?
跨線橋の階段 跨線橋
魚籃坂
 港区三田にあるこの坂の由来はその中腹に魚籃寺。寺号は三田山水月院魚籃寺。
 健康にご利益アリとのことですが、それよりも私が注目したのは、掲示板に描かれたお言葉。
 私は「神仏は不公平」だと思っているのですが……。
魚籃坂 魚籃寺 お言葉
街の音楽士像
 表参道から外苑通りの角の植え込みにあります。
 着ているものはあまり立派ではないけど、音楽士としての誇りが感じられます。
角の植え込み 音楽士像
 年の瀬も押し詰まって、在庫一掃セールの時期になりました。撮ったものの記事にしなかった写真、また記事にしたものの掲載しなかった写真の総ざらいです。今回は川越編。

国道16号
 16号は千葉市から横浜市まで、首都圏を環状に結ぶ一般国道(東京環状)。
 川越にはさいたま市から入って、ジグザグに進み、入間市に抜ける。
 「横浜まで76km」と書かれた道標がうれしい。ただそれだけのことですが。
国道16号 
仙波東照宮
 毎年11月に一般公開されます。
 ここは日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮のひとつ。
 元和2年(1616)駿府で徳川家康公が没し、その遺骸を静岡から日光山へ移葬する途中、天海僧正によって喜多院で4日間の法要が営まれたことから、寛永10年(1633)建立されました。
仙波東照宮 なかまで入れる
楠稲荷の井戸
 蔵造り一番街から大沢家住宅の脇に入る細い路地(稲荷小路)。その奥に稲荷神社があります。
 これはその前の湧水「稲荷の井戸」。チョロチョロと流れているのがなんとも可愛い。
楠稲荷 楠稲荷の井戸
西洋料理店「太陽軒」
 大正11年(1922)創業。現在の建物は昭和4年(1929)に建てられました。
 木造2階建ての洋館で国登録有形文化財に指定。しかしランチは高いのでいつも素通り。
太陽軒 
大正浪漫夢通り・鯉のぼり
 この通りでは毎年5月になると、数多くの鯉のぼりが飾られ、フリーマーケットなどが行われます。その一隅に囲碁・将棋のコーナーがあり、若い女性が碁に興じていました。
大正浪漫夢通り・鯉のぼり 碁に興じる若い女性
伊佐沼の湖岸
 蓮を撮りに行ったときに、撮ったもの。
 蓮もいいけど、ここは湖岸の景色も素晴らしい。
早朝の伊佐沼 湖岸の道
新河岸川(滝下橋付近)
 川越市内を流れる新河岸川といえば、桜の名所の宮下橋周辺か、木の遊歩道のある坂下橋周辺が有名ですが、ここの風景も捨てがたい。
 と思ったら、近くに新河岸川上流水循環センター。道理で。
新河岸川 滝下橋(『向かいは新河岸川蒸留水循環センター)
 元町から港の見える丘公園に上る谷戸坂の向こう側(東側)は山になっていて、木々が茂っています。これがフランス山。
フランス山広場 
 フランス山は幕末から明治初期にかけてフランス軍が駐屯したところですが、明治8年(1875)フランス軍が撤退したのち、明治29年(1896)フランス領事館が建てられました。
 
 しかしその領事館は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊。
 震災後、昭和5年(1930)に、スイス人建築家マックス・ヒンデルの設計による領事官邸が、旧領事官邸跡に再建されました。
領事館跡① 

 解説板によると、1階部分はコンクリート造り、2階3階は木造という3階建だった。その領事官邸は昭和22年(1947)不審火で焼失してしまいました。

領事館跡②

  その後横浜市がフランス政府からフランス山を購入、公園として整備し、昭和47年(1972)に港の見える丘公園のフランス山区域としてオープンしました。

湊の見える丘公園に続くデッキ  

 その後横浜市がフランス政府からフランス山を購入、公園として整備し、昭和47年(1972)に港の見える丘公園のフランス山区域としてオープンしました。

井戸跡  

 さらに平成14年から平成16年にかけて再整備が行われた際、明治期の史跡が工事の際に発掘され、それらをもとに井戸や風車が再現されました。
 この風車は水を汲み上げる動力に利用されました。

風車 

 またここに「愛の母子像」があります。
 「昭和52年(1977)9月27日、横浜市緑区荏田町(現青葉区荏田北)に米軍機が墜落し、市民3人(母と幼い子ふたり)がなくなりました。生前に海が見たいと願っていたことから、この公園に愛の母子像の寄付を受け、設置したものです」(解説板)

愛の母子像 

 ううッ、哀しい。
 今日はクリスマスだというのに。(オスプレイ、心配だ)

 昨日(12/23)はこの冬いちばんの寒さ。記録では最低気温3℃、最高気温7℃とのことですが、私が外へ出たときは4~5℃の感覚。
一部キャベツの刈り取られた跡 
 こう寒くては徘徊するのもままならない。
 裏の畑はキャベツが刈り取られた跡。
 もっと前につくっておけば儲かったのに。(もっともその頃は異常気象でできにくかったんだけど)
茶畑 
 (狭山茶の)茶畑です。
 しかしこう寒くては、ここだけでお茶(?)を濁して、さっさと家に戻るか。
 そんなことを考えながら、なおも進むと、空き地(駐車場?)の一角に妙な石碑。
駐車場の石碑 
 剣を持った鬼神像(?)。
 これ、富士見市の栗谷津公園で見たことがあります。
 あれは「倶利伽羅不動明王」でした。
倶利伽羅不動明王? 
 近くでじっくり見たけど、どこにも説明書きはない。
 裏を見てもなにもなし。
 右横には「寛政○○九月××」と刻まれています。寛政といえば1789~1790の間で江戸時代。
 左横には「○○群××村 上澤中」と刻まれています。上澤中といっても中学ではなく、「なか」
右横 左横
 近くの人に聞いても「さあ?」
 ふーむ、こんな歴史あるものをぞんざいに扱っていいのか。

 うッ、寒い。
 山下公園にやってきました。
 横浜散策の定番中の定番だけあって、肌寒いこの時期でも人出は多い。
花壇 
 「わッ、なんだ、これは!」
 上空におびただしいカモメの群れ。
 しかもけっこう低空飛行。誰かが餌付けしてる?
カモメの群れ① 
 以前、トンビが飛んできたことがあり、珍しいので撮ってると、「こっちだ、こっち」「ほら、こっちを撮れ」「それッ、今がシャッターチャンス」とうるさく話しかけてくるオジサンがいました。
カモメの群れ② 
 お節介なオヤジ、と思ったけど、「これが横浜人気質なのか」とブログに書いたところ、横浜在住のブロガーさんから「そんなの横浜人気質ではありません。その人はかなり変わった部類の人です」とのコメントが寄せられました。
 うーん、やっぱりそうか。
氷川丸① 
 夕暮れになってくると、氷川丸のイルミネーションが灯りはじめる。
 これがまた風情があります。
 昔、ラジオ関東で放送していた「Port Jockey」の味わい。
氷川丸② 
 水の守護神も昼間とは違う味わい。
水の守護神 
 最後はホテルニューグランドの中庭。
 この時期らしくクリスマスのイルミネーション。
中庭のイルミネーション① 
 豪華ななかにも落ち着きがあります。
 さすが、伝統あるホテル。
 戦前は大佛次郎が定宿にし、戦後はマッカーサーが泊まっていただけのことはあります。
中庭のイルミネーション② 
 横浜在住の方のブログでときどき投稿される「横浜イングリッシュガーデン」の写真を見て、一度行ってみたいと思っていました。
 ここは横浜駅西口の住宅展示場の奥にあります。
住宅展示場 
 「この時期(12月)なので花の種類は少なくなっておりますが、よろしいでしょうか」
 と受付で念を押されました。
 「よろしいでしょうか?」といわれても、今さら引き返すわけにもいかないし。
入口 
 まずはローズアーチをくぐり、奥の広場へ。
ローズアーチ  
 なるほど、この時期らしく、小さな車(英国車?)にクリスマス装飾が施されています。
クリスマス装飾されたゲート 
 世のなかはこぞってクリスマスモード、ここでもか。(当然、の声あり)
クリスマス装飾された車 
 同園は面白い構造になっていて、奥は広いローズ&シュラブガーデン。
 意味はよくわからんけど、灌木や大型植物が植えられ、所どころベンチもあって、散歩できるようになっています。
ローズ&シュラブガーデン 
 さらにアーチの外は様々なローズガーデンになっていて、狭い空間を効率よく花々がちりばめられています。
 パンフレットによると、
 「1,200種類のバラを中心に、横浜の気候風土にあった草花や樹木を散りばめて、春の芽吹きから枯れゆく秋の自然の風景を何年もかけて育てていきます。特バラは香り高い四季咲きの種類をふんだんに使い、春から秋までバラを楽しむことができるイングリッシュガーデンです」

 ということは、バラはもう終わりか。
 いやいや冬には冬のバラが咲きます、咲かせます、ということで、ピンクのストロベリー・アイスや真っ赤なイングリット・バーグマンが見られました。
ストロベリー・アイス 
 イングリット・バーグマンなんてスウェーデンの女優じゃなかったっけ?
イングリット・バーグマン 
 他にはアメリカ産のシンコ・デ・マヨという背の高い花、日本産の空蝉(うつせみ)も見られました。
 シンコ・デ・マヨとは、お新香にマヨネーズをあえたもの?
シンコ・デ・マヨ 
 空蝉は源氏物語に出てくるから愛着があります。(本当かね?)
空蝉 
 ここは春のバラやアジサイの季節もいいそうですが、当方としては、もういいかな。
2015.12.21 師走の多聞院
 多福寺から南西に約600m行ったところに多聞院(所沢市)があります。
 真言宗豊山派の寺で、山号は宝塔山、寺号は吉祥寺。本尊は大日如来。
渡り廊下と地蔵  
 おッ、なんだ、境内の柿のたわわなるは!
 柿に関しては川越の友人が名句を詠んだのですが、人の句なので発表することは控えます。
境内の柿
 川越藩主柳沢吉保は元禄9年(1696)このあたりを開村した際、村民のために祈願所として毘沙門社(多聞院)を創建しました。
 この毘沙門堂には武田信玄の守護神である金の毘沙門天(高さ4cm)が祀られているそうですが、真偽のほどはわかりません。
狛寅と毘沙門堂 
 ここは多福寺と比べると参拝者が多く、お札やおみくじなど今から用意されて、初詣客への準備はおさおさ怠りない。商魂逞しいというべきか。
初詣の準備? 
 もっともここには稲荷神社もあるので、一応伏見稲荷に行ったご利益にあずかれる?
稲荷神社 
 しかしここの強みは、なんといっても富士山。
 多聞院から少し南東に下り、道路の右側(南西)を見ると、畑の向こうに富士山が見えます。
富士山 
 この日は上空に数多くのカラスが舞っていました。
 それもよし。初詣はやはり多門院に限るわい。
富士山とカラス 
2015.12.20 師走の多福寺
 近所の多福寺です。
 臨済宗(禅宗)京都妙心寺派のお寺で、山号は三富山。
 元禄9年(1696)川越藩主柳沢吉保により開拓農民の菩提寺として、 上富地蔵林の中に建立されました。
本堂 
 新年の5日間、本堂裏の枯山水の庭園を観覧できるので、参拝客が多くなります。
 私も毎年初詣には当寺とこの近くの多門院に参拝し、それを当ブログに投稿してきましたが、もうそろそろ卒業して(飽きた?)、今回は昨日(12/19)訪れました。
境内 
 いつ行ってもここは手入れが行き届いています。
 今の時期は初詣を控えて、庭木の小枝もきれいに刈り取られ、用意万端おさおさ怠りない様子。
山門(呑天閣) 
 もっとも初詣といっても、所詮は田舎のお寺なので晴れ着姿の女性が訪れることもなく、近所の老夫婦がぽつぽつと訪れる程度。地味なものです。
鐘楼 
 16羅漢が安置された山門、元禄の銅鐘(埼玉県指定文化財)、当時の井戸など、落ち着いたたたずまい。
元禄の井戸 

 しかしいつも同じ景色ばかり撮っていては芸がない、そう考えて表の広場に出ました。
 ここには「木ノ宮地蔵堂」があります。
木ノ宮地蔵堂 
 説明板にはこう書かれています。
 「木ノ宮地蔵堂は縁結び、子授け、子育てのお地蔵様として信仰されており、堂内には多数の絵馬が奉納されている。毎年4月、23、24日、と8月23、24日の縁日には多くの参拝客と出店で賑わいを見せ、昔と変わらぬ信仰の厚さを物語っている」

 さらに別の看板には「縛られ地蔵」の説明。
 それによると、ここの地蔵は夜な夜なお堂を抜け出し、あちこちの村に出没するという噂が流れ、村人たちは地蔵を鉄の鎖で縛ったところ、出没しなくなったとか。
木ノ宮地蔵 
 これには興味を覚えて(不謹慎にも)お堂の外から内部を撮影してみました。
 うーん、なかなか立派。天井にもいろいろ絵が描かれている。

 ついでに「奥之院の石地蔵」も。
 ここは細かい格子戸にカメラを突っ込んでやや強引に撮影しました。
奥之院の地蔵堂 
 これが石地蔵。なんだ、縛られてないじゃないか。
石地蔵 
 昨日(12/18)は朝から冷え込みました。この冬いちばんの寒さとか。
 こんな日は空気が澄んでいるに違いない。
 ということで、川越を徘徊。

 「おッ、見えた!」
 水上公園通りを走っていると、左方向に富士山が……。
水上公園通りから見る富士山① 
 川越からすれば富士山は南西方向。
 この方向に山とか高い建物がなければ見えるはず。
 その意味ではこの辺りは一面畑だから、見えるのも道理か。とはいえ電線が邪魔だ。
水上公園通りから見る富士山② 
 水上公園にやってきました。
 ここは以前にも取り上げましたが、今回は池ではなくて入間川沿いの土手。
水上公園の土手から見る富士山① 
 この土手に上がると、前方(上流方向)にかすかに見えました。
 ここは何度もきてるけど、はっきり見えたためしがない。
 (日ごろの心がけが悪いのか)
水上公園の土手から見る富士山② 
 そこから下流方向に向かいました。初雁橋。
 ここから見る富士山素晴らしい。私としては関東一と思っています。
初雁橋 
 しかし見え方は今イチ。これだったら、今年1月にきたときのほうがよかった。
 もっといいときは入間川の川面にも映って「逆さ富士」が見えるそうですが、そんな幸運にはまだあずからない。
初雁橋から見る富士山 
 ここでも電線が気になります。
 電線を撮らないようにしようとすれば、どうしても空をカットしなければならず、富士が寸詰まりになって、雄大な感じがしない。
 川越市が電線を地中に埋めたのは蔵造り一番街だけ。
 ここもやってくれッ。無理でしょうな、こんなローカルなところは。

 オマケは帰りの160号線から見た富士。
 ここも電線が邪魔です。
160号線よりみる富士山 
 大通公園から関内駅の下をくぐり、横浜市役所→横浜公園を経て、日本大通りへ出ました。
 ここは横浜公演から象の鼻を結ぶ、約400mの道路。
 大通りというだけあって幅36m。とにかく広い。
 街路樹はすべてイチョウ。この時期はいっせいに黄葉し、人々の目を楽しませてくれます。
横浜公演から見る日本大通り
 江戸時代末期このあたりは埋め立てられたばかりの湿地帯でした。
 海岸から400mほど奥地に濠をめぐらされた港崎遊郭がありましたが、慶應2年(1863)の大火事によって焼け落ち、その跡地に「横浜公園」がつくられました。
イチョウ並木 
 それだけではなく、都市計画の意味もあって公園と海岸を結ぶ幅36mの広い道路がつくられました。完成は明治3年(1870)。設計は横浜公園と同じくイギリス人建築家リチャード・ブラントン。
夕暮れの日本大通り(左は神奈川県庁) 
 当時は歩道3m、植樹帯9mを含む36mの幅員を持ち、日本初の西洋式街路として、横浜のメインストリートになりました。
 この道路は5年後「日本大通り」と名づけられました。
イルミネーション① 
 今の時期はイチョウだけではなく、所どころにクリスマス・イルミネーションが施されています。
 これがなかなか可愛い。
イルミネーション② 
 当方としては夜遅くまでいるわけにもいかず、夕暮れどきまで待って撮りましたが、それでもなかなかの景観です。
 愛用していた「さくらBakery」が明日(12/18)で閉店することになりました。
 当地にはパンの老舗「銀座木村屋」の工場があり、同店はその直営店。
 工場直営というだけあって、毎朝格安のパンが売り出されるので、地元では人気がありました。
閉店の知らせ 
 5年前、ここにきた当初は開店(10時)前になると長蛇の列でした。
 3斤分の長い食パンが200円で、これは争奪戦。すぐなくなりました。
 アンパンやロールパンなども安くて買ったこともありますが、甘いものは食べなくなったので、買うのは食パンと、ときどきカレーパン。
ミニアンパン 
 東日本大震災(2011/03/11)直後は節約停電のあおりを受けて販売量が少なくなったり、その後は小麦粉の高騰などで食パンが値上がりしました。
 今は1.5斤が160円。それでも他に比べると安い。
 (スーパーで安い食パンも売ってるけど、不味い!)
食パン 
 その閉店を(貼り紙で)知ったのは1ヵ月前。ショックです。
 「本当なの? じゃあ、これからはどうやって明日のパンを手に入れればいいのだ」
 レジのおばさんにいうと、
 「そうなんですよね。私たちも行き場がなくて困ってます。本社にじゃんじゃん抗議してください」
 レジのおばさんにとっても職を失うことになるらしい。
右はレーズンロール 
 もっとも最近は長蛇の列とはならなくなりました。
 朝10時に行っても食パンがない。「食パンはお昼ごろになります」
 そのため私も昼近くに行くようになりました。
さくらベーカリー 
 売れ行きが悪くなったからか、全体的に売られるパンの量が減ったような気がします。
 そのため店がジリ貧で、とうとう閉店に。

 昨日(12/16)行ってきました。パンの買い納め。
 閉店二日前だというのに、混むこともなく、客はぱらぱら。
いつもの食パン 
 「明後日でお終いか。寂しくなるなあ」
 体格のいいおじさんが食パンやカレーパンなどを爆買い。

 こちらはなにもいわず、いつも通り1.5斤の食パンを2本、それに(最後なので)ミニカレーパンを一袋(10個・200円)買いました。
ミニカレーパン 
 今年いっぱいは持つけど、来年からはどうやってパンを手に入れればいいのだ。
    
 人はパンのみに生くるにあらず。(←神の声?)
 ははーッ。
 真金町の旧遊郭街から大通り公園に出ました。
 ここ(地下鉄板東橋駅付近)から約30m幅で、JR関内駅まで真っすぐに伸びています。長さ約1.2km。
 公園はテーマ別に4つのゾーンから構成され、野外ステージなどもあります。
大通公園 
 以前にも述べましたが、ここは元運河(新吉田川)でした。
 新吉田川も水運の役割を終え、昭和48年(1973)地下鉄の建設とともに埋め立てられました。そして昭和53年(1978)同園がオープン。
 公園の真下に横浜市営地下鉄ブルーラインが通っています。
逆光の大通公園 
 今の季節、街路樹(メタセコイア)の紅葉がなかなか見事です。
 メタセコイアはヒノキ科メタセコイア属、原産は中国湖北省で単子葉、落葉、高木。
 メタセコイアといえば川越・水上公園の池の周囲に植わっているけど、横浜のような都会で見られるとは思わなかった。
街路樹の紅葉 
 ちょっと疲れたので、通り沿いの喫茶店へ。(この日2軒目)
 珈琲を飲みながら外を眺めるのも乙なものですが、このときはオジサンが邪魔でした。
 (もっともメタセコイアの写真では余計な影もあるので、人のことはいえない)
喫茶店 珈琲
 さて、喫茶店を出て、再び大通公園へ。
 関内駅近くになると、花壇があって、女性像の彫刻。(オーギュスト・ロダン作「瞑想」)。
花壇 横から見た「瞑想」 
 なかなか躍動感のある作品ですが、むしろ逆光で見たほうがシルエットになって不思議な味わいがあります。
 ロダン作「瞑想」
 洪福寺松原商店街→藤棚商店街(本当は六角橋?)ときたら、次は横浜橋商店街しかないッ。
 横浜橋とは大通り公園を横切る道。
 大通り公園は昔は運河(新吉田川)で、ここにかかっていた橋が横浜橋でした。
横浜橋 
 横浜橋商店街は全長約350m。ガラス屋根のアーケード街になっていて、食料品はもちろん、衣料品、日用品、薬局など135店が軒を並べています。
商店街入り口 
 ここは商品を地べたに置くようなことはせず、店員さんの掛け声もそれほど多くない。
 ざっと見て感じたのは加工食品(惣菜)が多いこと。それもキムチや餃子など東アジア系。
 野菜なども安いけど、洪福寺松原ほどではありません。客の数も負けてるし。
八百屋 中華総菜店
 衣料店「ハマモード」は活気があります。
 なにしろ元町のハマトラ(横浜トラディショナル)ファッション(?)が10分の1以下の値段で買えるというのだから、女性に大人気。
衣料店 
 この商店街の歴史は古く、戦前からあった(古い店は明治から)そうですが、今では地元はもとより、伊勢佐木町や関内周辺の飲食店からも仕入れにくるといいます。
 また桂歌丸師匠がこの地の出身者とあって、強力な応援者となっているのも大きな特徴です。
商店街 
 商店街のなかほどに「横浜橋市場」と書かれた看板。
 入るとムワッとする脂っぽい煙。ズラリと並んだモツや豚足などの内臓肉。さらにキムチやトッポギなどの韓国食材。「ここは鶴橋(大阪)か!」
横浜橋市場の入口 
 そこから向こう側に出られます。
 出たところは金毘羅大鷲神社の近く、町名は真金町。昔、遊郭があったところです。(参照
 ということは、当時ここには多くの娼婦たちが住んでいて、彼女たちも買い出しにきていた?
真金町側に出た 
 そう思うと楽しい。
 ある意味ではディープな商店街なのかもしれない。
 今度は夏にきて、モツ焼きにビールで一杯やろうかな。(痛風街道まっしぐら?)
金毘羅大鷲神社 
 さて、横浜の続き。洪福寺松原商店街の次は藤棚商店街。
 横浜一長い商店街とのことですが、西前銀座商店街、藤棚一番街商店街、藤棚商店街,サンモール西横浜商店街,久保町ニコニコ商店街の5つの商店街が連合したもの(約1.2km)なので、その一部藤棚一番街商店街を歩きました。
藤棚① 
 16号の藤棚交差点に小さな藤棚があり、次のような解説板があります。
 「横浜へ向かう保土ヶ谷街道の要衝であった此の地に、明治の初め頃より道行く人の憩の酒饅頭店があった。その店先の藤棚に、くる春毎に見事な純白の花房を垂れ、町の飾り門の観を呈し、行き交う人は勿論市電の窓越しにも観賞され、当時誰言うことなく此の辺を藤棚というようになった」
藤棚② 
 いっては悪いけど、しょぼくれた藤棚だ。
 こんな藤棚なら近所に山ほどあるぞ、といっても花の名所とは規模の大きさには関係なく、背景との関わりにあるのだからしょうがない。
藤棚一番街① 
 藤棚一番街商店街は所どころアーチがかかっていて、オシャレな雰囲気。
 洪福寺松原商店街のように商品が地べたに置かれることはありません。品がいい。
藤棚一番街② 
 ただし、車の駐車がやたら多く、その割に人が少ない。
 (昔はもっと盛況だったとの声あり)
藤棚一番街③ 
 ちょうど昼飯どきだったので、商店街のなかの定食屋(焼き鳥屋?)に入りました。
 ここで「カキフライ定食」を注文したら、突き出しにキンピラと湯豆腐が。
 この湯豆腐が意外に美味い!
湯豆腐 
 カキフライもなかなか美味かった。図らずも宣伝してしまったけど、店名はいわないぞ。
 写真を見たらわかるって? しまった。
カキフライ 
 次に喫茶店。
 ここもコーヒーは美味く、雰囲気もよかった。
喫茶店 
 ということで、ここはショッピングというよりも部外者にとっては昼飯と珈琲が最適。
 藤の季節(4月下旬)にまたこようかな。
2015.12.13 中院の紅葉
 12月になったある日、川越の友人からこんなメールがきました。
 「たいした風も吹かず、気持のいい秋晴れですね。御老人(私=京一郎のこと)は今日はどのあたりを徘徊なさっていらっしゃいますか? どこを徘徊しても気持ちいいでしょうね。明日あたり川越の紅葉を見に行ってみようかと思っています……」
本堂  
 このメールを受け取って、「ははァ、このご仁、中院へ行く気だな」
 そう思った私は翌日、中院へ。川越の紅葉といえば中院しかないじゃないか。
 境内の紅葉
 中院は天長7年(830)慈覚大師により無量寿寺として創建しました。
 永仁4年(1296)、尊海が慈恵大師を勧請して当寺を再興し、北院(現喜多院)・中院・南院となる各房が建てられました。
 寛永10年(1633)仙波東照宮建造の際に当地へ移転しています。(HPより)
境内
 中院には島崎藤村ゆかりの茶室があります。
 これは藤村の妻・静子の母親・加藤みきが川越の人で、茶道の師匠であったことから、ここに茶室をつくりました。これが「不染亭」です。
不染亭前① 
 不染亭の前の紅葉もなかなか見事です。
不染亭前② 
 またここは「狭山茶発祥の地」でもあります。
 これは円仁が京都より茶を伝え、境内で栽培を始めたのがきっかけで、やがて狭山丘陵で茶の栽培が広まりました。元は「河越茶」といったとか。
 30年ほど前までは境内に茶畑が残っていたそうです。
鐘楼門① 
 この中院、春はしだれ桜も見事ですが、この時期の紅葉も素晴らしい。
 川越の紅葉といえばここしかない。
鐘楼門② 
 私がこの寺にいたのは午後1時前後。
 あのご仁はこの紅葉を観たのかな。
 そんなことをチラッと考えながら、中院をあとにしました。
逆光で見る黄葉 
 後日そのご仁から電話がかかってきて、彼は中院には行かず近くの御伊勢塚公園に行ってきたとのこと。「紅葉は大したことなかったよ」

 やっぱりなあ。
 川越の紅葉は中院に限るんだって。

 一昨日(12/10)仙波河岸史跡公園の上に愛宕神社(仙波愛宕神社)があります。

愛宕神社 

 ここは防火の神「火産霊神」を祀った神社で、拝殿は石段を上った高台にありますが、これは古墳。(川越市指定の史跡「愛宕神社古墳」)

階段 

 解説板にはこうあります。
 「仙波台地の東南端上に築かれたもので、高さ6m、東西30m、南北53mを有し、基壇のある二段築成の円墳で、6世紀中葉期のものと思われる。現在は愛宕神社が祀られている」

山上の拝殿 山頂から下を見る

 また境内には松尾芭蕉の句碑があります。
        
 名月に麓の霧や田の曇

芭蕉の句碑 

 といっても芭蕉がここへきてこの句を詠んだのではなく、ここ仙波の高台の眺望がよく、月見には絶好の場所だろうと、後世この地の俳句好きが句碑を建てたのです。
      
 句碑とはそういうもので、必ずしもその俳人が訪れたわけではありません。芭蕉の句碑は全国至るところにあります。恥ずかしながら、私、以前はこれを誤解してました。
 (句碑の数からすれば、芭蕉はどれだけ全国を行脚しているのだ)
       
 芭蕉の句では他に、
     
 蓬莱に聞ばや伊勢の初便り
          
 
の句碑もあります。
 元旦に江戸で詠まれた句だそうです。(これからはピッタリ)

 この神社の裏に「延命地蔵尊」があります。

延命地蔵 

 仙波愛宕神社の裏手には延命地蔵尊があります。
 解説板にはこう書かれています。
 「この延命地蔵尊は、今から約270年前の元文元年(1736)に祀られ、延命、利生を請願する地蔵尊であります。新しく生まれた子を護り、短命、夭折の難を免かせるという。お姿は半跏像(左足を垂下する格好)です。歴史を訪ね、先人の信仰の篤かったことを偲びながら、拝観するのも意義あることでしょう」

延命地蔵(アップ) 

 なんだこれは。こんなもので長生きできれば苦労はない。
 私は父、弟の短命の遺伝子に逆らって、独自の健康法でなんとか命永らえて(?)いる。
 しかし、これも一種の信仰なのかな。

 一昨日(12/09)作家の野坂昭如さんが亡くなられました。享年85。

 野坂さんは私の若いころ、かなり影響を受けた作家でした。
 学生時代は友人に「(雰囲気が)野坂昭如に似てる」といわれ、最初は「こんなヤツに……」と思いました。サングラスをかけて、キザな野郎だ。無頼派を気取りやがって。

 しかしなんとなく気になる存在でした。
 小説では「エロ事師たち」(1966)「火垂るの墓」「アメリカひじき」(1968)など代表作は読みました。
 西武線桜台に住んでいたころ、友人と酒飲んで深夜近所をほっつき歩いたことがあります。
 「駅の向こうに野坂昭如の家があるんだよ」
 「行ってみよう」
 「ここだ、ここだ。野坂くーん、出てらっしゃーい」
 「呼んだって出てこないよ」
 「しょうがないな、せっかくきたのだから、あいさつぐらいしておこう」
 シャーッ……。
 野坂さん、ゴメンネ。桜台当時のお宅の門柱に放尿したのは私たちです。
* 
 エロ本の編集者になってからは「エロ事師たち」は我われのバイブル的存在でした。
 これについてゴールデン街で飲んでいるとき、先輩編集者がこういいました。
 「主人公(スブやん)はなぜああまで自己主張するのか。どうせ金儲けでやってるのだから、黙ってればいいのに」
       
 これに対して私は「いや、多分彼は金儲けというより、『世のため人のため』という気持ちがあるのではないか。だからどうしても自分を正当化しようとする」
 先輩は「なるほど」とナットク。
 学生運動上がりの青臭い意見です。むしろ先輩の心の広さを感じました。
 「火垂るの墓」は戦時中栄養失調の妹を看取るという哀しい話ですが、学生時代熱中して読んだ高橋和巳「憂鬱なる党派」(1965)のラストの回想のくだり(西村恒一が原爆で死んだ妹を焼くところ)と混同しました。
 比べてみると、野坂作品のほうが感傷に流れたように思います。
 評論で印象に残っているのは、三島由紀夫のことを書いた「赫奕たる逆光」(1987)。
 三島由紀夫とは国家観などまるで違いましたが、「金閣寺」が好きで、三島文学に惹かれていました。
 そのため「なんでこんなつまらない死に方をする」と残念でならなかったのですが、「仮面の告白」「禁色」などを読むと、「国を憂う」というより、自らの同性愛志向の行き詰まりからではないか、と思うようになりました。
 それを野坂さん自身が見聞きした実例をあげて、スパッといい切ったのが「赫奕たる逆光」でした。
 野坂さんの文体は独特でした。
 句点ではつながるのですが、なかなか切れない流麗な谷崎調(?)。長い文章だけど一気に読ませる力があります。
 これはとても真似できない。
 三島さんでもそうですが、流麗な文章表現は「才能」だと思います。それは野坂さんにも感じました。

 私にはそうした才能はないので、書いては読み返しの訓練を重ねましたが、名文、美文を書くことはあきらめました。
 それでもひとつ真似てやろうとしたのは体言止め。(←これがそうです)
 野坂さんはこれを効果的に使う。
 私は?
 やたら頻繁に使って、スローガンのようになって文章にならなくなり、相変わらず下手クソです。
 その野坂さんは2003年に脳梗塞で倒れ、リハビリを続けながら新聞、雑誌、ラジオに寄稿されていました。
 主旨の大半は「あの愚かな戦争を二度と繰り返してはならない」というものでした。

 それらを含め、野坂さんからはいろんなことを教わりました。
 いわば人生の恩師。
 ご冥福をお祈りいたします。

 川越城本丸御殿から2kmほど南下したところに「仙波河岸史跡公園」があります。

仙波河岸史跡公園 

 湿地帯に木道が渡されて、なかなか風情のある公園です。
 今の時季、紅葉が見事です。

船着き場跡  

 ここの解説板にはこのように書かれています。
 「江戸時代の川越は新河岸川の舟運(しゅううん)によって栄えた。とりわけ幕末、上野国(前橋)の生糸を扱うようになって物資の量はいっそう多くなり、それまでの五河岸では間に合わなくなり、より川越城下に近い河岸(船着き場)が望まれた。
 そこで着目されたのが愛宕神社の下から流れ出る『仙波の滝』の水路。これを利用して明治12年(1879年)新しく開設されたのがこの仙波河岸」(意訳)

当時の河岸風景

 仙波河岸は新河岸川の河岸場の中でも最も上流にあり、最後にできた河岸場。これによって他の川越五河岸は衰退しました。
 新河岸川舟運は、大正3年(1914年)の東上鉄道の開通、さらに大正9年(1920年)から始まった新河岸川の改修によって水量が減少したため、昭和6年(1931年)終焉を迎えました。

雑木林 湿地帯

 その後、仙波河岸跡は一部埋め立てられて宅地化されたものの、大半は雑木林と湿地として残され、平成16年(2004)「仙波河岸史跡公園」として開園しました。

木道の紅葉 

 この仙波の滝については説明書きと当時の写真があります。写真は明治34年ごろ、仙波の滝で憩う人びとの様子を写したものです。

仙波の滝風景(明治34年頃) 

 当時は船着き場としてここに人が集まっていたと思うと、隔世の感があります。

現在の仙波の滝跡 

 浅間神社から600mほど進む(この辺りは南西方向)と、洪福寺松原商店街にぶつかりました。
 横浜では横浜橋通商店街、六角橋商店街と肩を並べるビッグな商店街。ハマのアメ横?
 一度は行きたいと思っていたのですが、旧東海道の一部だったとは。

かなりの賑わい 

 入ってみて感じたのは人出が多く、活気があること。
 「いらっしゃい、いらっしゃい」
 「安いよ、安いよ」

菓子店 

 あちこちから店員さんの掛け声。
 これは横浜橋や六角橋以上ではないか。

鮮魚店 

 この洪福寺松原商店街は200mほどの間に約98店が並び、一日の人出は平日2万人(休日だと2万5000人)とか。

衣料雑貨店 衣料品店

 当方も自炊している身、食料品の値段は大いに気になるところ。
 野菜、果物、魚など、値段をチェックしてみたけど、たしかに安い。
 この感じでは横浜橋や六角橋より安い。客が多いのもむべなるかな。

青果店 

 ここの特徴はほとんどの店で商品が低い位置(地べた)に置かれていること。
 果物、野菜などの生鮮食料品も。

靴店と青果店 

 むろんこれにはそれなりの必然性があり、買う側もそれを受け入れているので、外部の者がとやかくいうことではありません。

生花店 

 したがって仮に私がこの近くの住民になったら、おそらくここで買うと思います。
 郷に入っては郷に従え。地べたに置かれていても、なんの抵抗もなくなるに違いない。
 それほど値段が安くて活気があり、魅力があるってこと。

商店街のゲート(16号側) 

 宣伝する気は毛頭なかったのですが……。

 旧東海道は新横浜通(13号)で中断されます。
左は新横浜通 
 新横浜通を渡り、これまでと同方向の細い道を入ると、どうやらこれが旧東海道らしい。
 しばらく歩くと「浅間神社」の鳥居。これは参らなければ。
浅間神社・入口 
 二の鳥居は朱塗りで、堂々たるもの。高台にあって由緒ある神社のようです。
二の鳥居 
 しかし境内には他に参拝客もおらず、ジャージー姿の老人が掃除しているだけ。

 先ずはお参りして写真を撮っていると、
 「あの浅間神社の揮毫だけど、上手くないだろう?」
 ジャージー老人に話しかけられました。
社殿 
 「上手くないだろう?」といわれても軽々に同意するわけにもいかず、黙っていると、
 「あれはね、○○という知事が書いたんだよ」
 えッ、知事が……。ということは、この人、宮司さん?
浅間神社の揮毫 
 「浅間神社というからには、どこかに富士塚があるのですか?」
 「いや、ありません。その代りこの社殿自体が富士の形をしていますから……」
 「なるほど」
 「これね、今建て替えようとしたら7億円もかかるんだよ」
 「7億円、そりゃ大変だ」
社殿の屋根は富士山を形どっているとか 
 「実際、神社の運営は大変だよ。これ(神楽殿)なんかもうボロボロ。ほら」
 宮司氏が濡れ縁に突き出た横木をつかむとボロッ。
朽ち果てた濡れ縁 ボロリと取れた
 「あッ、取れた」(こちらは笑いをかみ殺してパチリ!)
 「ここも直さにゃいかんなあ。大工に頼むと金がかかるから、自分で直しているんだよ」
神楽殿 
 「御神木はあの銀杏の樹ですか?」
 「いや、御神木はこっち」
 と社殿の脇から裏のほうへ。
御神木を指し示す宮司 
 「大きいでしょう。あれはハブの木だよ」
 ハブの木?(あとで調べると南国の木らしい)
御神木 
 「それよりも、これ(祠=ほこら)が由緒あるんだよ。黒沢明監督のデビュー作『姿三四郎』にも出てきたんだよ。もっとも撮影されたのは昭和17年。私が2歳のときだからね」
 彼はここで宮司の子として生まれ、大学卒業後は鎌倉の八幡宮で修業したそうです。
由緒ある祠 
 「今は閑散としているけど、初詣になると参拝客でいっぱいになるんでしょうね」
 「そりゃそうだよ。下からもう長蛇の列だよ。屋台も出るし」
 ようやくにこやかな顔に。
閑散とした境内 
 「ところであんた、どこからきなさった?」
 「埼玉です」
 「ほう、そんな遠くからはるばる……」
 「なあに、最寄駅から一本で横浜ですから」
 「なるほど、便利になりましたなあ。まあ、気をつけて回ってらっしゃい」
 「ありがとうございます」

 そんな会話で別れました。
 こんなことがあるから神社参拝(探訪?)は面白い。
 上台橋から300mほど進むと、右手に「軽井沢公園」とあるのが目につきました。
 「軽井沢だと?」
公園のネームプレート 
 奥のほうには高速道路が見え、ほんの小さい公園。
 しかしケヤキやイチョウなども植えられて、ちょっとした森林気分。
 だから住民が「軽井沢」と呼ぶようになった?
向こうは高速道路 
 そうではなくて、軽井沢というのはれっきとした町名であります。
 長野県の軽井沢は山道で、上りは険しく荷が重く感じるけど、峠を越えて沢に出ると軽く感じられる。というわけで「軽い沢」になったとのこと。(柳田國男説)
町名の標識 
 これに対して横浜の軽井沢は「涸れ沢」からきているとの説が有力。
 この辺りは元は海で、明治になって埋め立てられました。
 埋め立て地とはいえ、土地の凹凸によって沢ができる。しかし所詮は雨水の溜まったものなので、日照りが続けばすぐ涸れる。だから「涸れ沢」と呼んだのではないか。(京一郎の解釈)
軽井沢公園 
 この軽井沢公園、手入れも行き届いていて、閑静な佇まい。
 ベンチではお年寄りが日向ぼっこをしておられる。
 夏は格好の避暑地になるのでしょうね。

 公園の北にお寺があります。勧行寺。法華宗で山号は学陽山。
勧行寺 
 ご本尊は大曼茶羅。
 あとで知ったことですが、ここには天然理心流の始祖・近藤内蔵之助長裕(ながひろ)の墓があるそうです。新撰組局長近藤勇は四代目。
ご本尊 
 しまった、事前に調べておけばよかった。
 もっともこれが行き当たりばったりの徘徊の持ち味なのですが。
 横浜市の地図を見ると、旧東海道が横浜駅の北側で東西に走っています。
 4年前、その旧東海道を川崎方面に歩いたことがあります(前ブログに掲載)が、今回は逆方向、保土ヶ谷方面に歩きました。

 まず横浜駅きた西口から鶴屋橋(工事中のため迂回)を渡り、北上すると大きな道に突き当たりました。これが青木浅間線(83号)。
 さらに北上しますが、突き当り。
 そこで東に大きく迂回して、さらに北へ進むとマンションに挟まれた細い上り階段。
この石段を上る 
 ここを上ると、両側にマンションがびっしり並んだ細い一本の道。「神奈川宿歴史の道」の標識があります。ここが旧東海道。
神奈川宿歴史の道の道標 
 横浜駅のある市街地とはかなり段差があります。
 昔の東海道はこんな高台にあった?
今の旧東海道 
 目の前に看板があり、昔の東海道(神奈川)の図と解説が。
 「神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町です。現在の台町あたりは、かつて神奈川湊を見下ろす継承の地でした」
 図は神奈川宿(保土ヶ谷方向)。左側は海。
 ということは、横浜駅のあるところは昔は海だったわけ。
昔の東海道の図 
 しかし両側のマンションに阻まれて、旧東海道の風情はまったくなし。どこが景勝地だ。

 看板にはなおも料亭「田中屋」の説明。
 「ここは文久3年(1863)創業。高杉晋作やハリスなども訪れたそうで、明治になってからは坂本龍馬の妻おりょう(注1)がここで働いていた。英語が話せ、月琴を弾くことができた彼女は外国人の接待に重宝された」とあります。
昔の田中屋 
 この「田中屋」は今でも営業しています。
今の田中屋 
 ここから保土ヶ谷方向に歩いたところに「神奈川台の関門跡」があります。
 開港後、外国人がしばしば攘夷浪人たちに襲われたので、幕府は東海道の随所に関門や番所を設けて警備を強化しました。
神奈川台の関門跡 
 またここは「袖ヶ浦」といわれ、海が見える景勝地だったそうですが、マンションに阻まれてその面影はまったくありません。
当時の神奈川台関門 
 その先の上台橋。
 当時の東海道はどうなっていたのかわからないけど、これが東海道の一部だとすると、この下は海だったわけで、横浜市街地(西区、中区)の大半は埋め立て地だったことがわかります。
この下は海だった?(上台橋より) 

(注1)おりょうはその後再婚して横須賀で暮らし、明治39年に他界しました。享年66。
お墓は横須賀市大津の信楽寺にあり、3年前行ってきました。


※昔の写真は看板のものを使わせていただきました。
2015.12.05 蓮光寺の紅葉
 旭橋から1kmほど下流のところに蓮光寺があります。
 曹洞宗のお寺で、山名は鷲嶽山。
新河岸川土手から見る蓮光寺 
 同寺のHPによると、下野国足利郡山川村の長林寺の末寺で、創建の年代は不詳なれど、室町時代中期。当時は広大な田園が広がり、農業を中心とした比較的穏やかな土地柄であったと想定されるとのこと。
山門 鐘楼  
 本堂には古来医薬の仏として信仰される薬師瑠璃光如来がご本尊として祀られています。
本堂 
 境内には十二支の動物を携えたお地蔵様(十二支地蔵)が並んでいます。
十二支地蔵 どの地蔵も可愛い
 枯山水も手入れが行き届いていてなかなか見事。
枯山水 
 写真を撮っていると、「あっちの紅葉が見事ですよ」
 近所の方らしい老婦人。
紅葉①  
 いわれたところは総門。
 この門は高麗門というつくりで朱塗りの門。それに輪をかけるように紅葉が。
総門
 境内の参道も紅葉に覆われてなかなかの風情です。
 ここは「川越百景(No.66)」となっているけど、市の外れにあるからくる人は少ない。
 穴場ですぞー。
紅葉② 
 船着き場跡の上は神社の境内。
 立て札には「日枝神社」とあります。なるほど。
日枝神社 
 鳥居があってその奥の石段を上ると日枝神社の社殿。
 一応神社の作法でお参りしたのですが、その横にお堂がある。これは?
 そこに坐っていたおじさんに聞いてみると、「観音寺のお堂じゃよ」
観音寺の本堂 
 観音寺?
 するとお寺。お寺と神社が同居?
 ということは明治時代の廃仏毀釈を免れた?
 (廃仏毀釈とは、それまで神仏習合の寺社を廃して明治政府が神仏分離を押し進めたこと)
 ふーむ、骨のある寺社かもしれない。
石碑 
 しかしここが観音寺というお寺だとすると、参道もなければ山門もない。
 道路側からは鉄柵の間から入るという、なんとも有難みのない入り方。
 まあ、権威なんかなくてもいいのですけど。
日枝神社・観音寺の境内 
 道路の反対側は古めかしい家(商店?)
 これは元船問屋「伊勢安」の建物だそうで、かつては多く船問屋が並んでいたのですが、今は一軒だけ。
伊勢安 
 蔵の前には解体された大八車が置かれていました。
大八車 
 川越の繁栄は新河岸川の水運(物資の運搬)にあるといわれています。
 当時は旭橋の近くに船着き場がありました。
旭橋 

 その旭橋のたもとには「新河岸川河岸場跡」の立て札が建てられています。
 それによると、
 「寛永15年(1638)川越が未曾有の大火に見舞われ、喜多院や仙波東照宮一帯も火の渦に巻き込まれたため、その再建のために資材を江戸から新河岸川を使って運び込まれたのが舟運のはじまりとされている。その一年後、越藩初代藩主の松平信綱が改修し、水量を確保して川越―江戸間の舟運体制を整えた。川越からは醤油、綿実、炭、材木が運ばれ、江戸からは油、反物、砂糖、塩、荒物、干鰯などが運ばれた」

 解説の立て札
 橋の近くに船着き場跡がありますが、コンクリートと鉄柵、当時の面影はありません。
渡し場跡
 この写真はあとで撮ったものですが、私が見たときは数羽のカモが護岸で休んでいました。
渡し場のカモ 
 しかし近寄ると、みんなドブンドブンと川へ。
 怪しいヤツ、と思われたのでしょうか、岸から離れて行きます。
飛び込んで対岸へ 
 いかにもオレは怪しいよ。

 ここは新河岸川のイベントで舟を出す際は船着き場として利用されるようですが、ふだんはカモさんの休憩所になっているらしい。
渡し場跡から見る旭橋 
 「行ってらっしゃ~い」
 カモさんたちに呼びかけても彼らはまったく知らん顔。
 当方はカモの習性を知らんからな。
川を泳ぐカモたち 
 えッ、当方がカモってこと? 
 ふーむ、バードウォッチングとは自分をみつめることか。
 ある人間が得意になって自らの健康法を説いても、聞いてるほうは感心するより「どうだかな」と冷ややかに思っているのではないだろうか。
 そんなことを感じさせられたのが、昨夜のTV「私の何がイケないの?」

 今回は「1日1食主義」で超健康と主張するピンクレディー未唯とサンプラザ中野。

 ピンクレディー未唯は早歩き、ジムに通うなど運動には余念がない。
 昼をすぎても食事は摂らず、空腹しのぎにアーモンドを5粒かじるだけ。
 しかし夕食は豪勢で、フカヒレなどコラーゲンたっぷりの食事。
 「これで肌の潤いはバッチリよ」と当人は豪語する。

 一方のサンプラザ中野。
 とくに運動はしない。飲むのはコーヒー。砂糖は入れない。(甘いものは摂らない)
 自分のヒットした歌と踊りを小学生に指導(健康体操?)
 激しく動いた割には汗ひとつかかない。「健康になってからは汗かかなくなったの」と本人。
 朝、昼の食事は摂らないけど、空腹しのぎにカボチャの種を10粒ほど。
 夕食はスタッフと居酒屋へ。
 アルコールは飲まず、食べるのは野菜のみ。魚、肉などは一切食べない。
 豆腐にかけるカツオ節も「それは抜いて」

 観ている側にとっては突っ込みどころ満載。
 ピンクレディー未唯の食事は典型的な「王様の食事」
 野菜が少なくて、コラーゲンの多いぜいたく料理。(料金は1万6000円也)
 コラーゲンはタンパク質から得られるものなので、直接摂ってもそれほど意味はない。
 美肌を目指すならむしろビタミンC、カルシウム、乳製品を摂ったほうがいいのではないか。
 それにコラーゲン中心の料理ばかり摂っていると、男なら痛風街道まっしぐら。
 女性の場合は(ホルモンの関係で)痛風にはなりにくいけど、だからといって身体にいいとは思えない。
 
 サンプラザ中野は明らかに偏食。
 肉を食べないのであれば、せめて魚ぐらい食べなさい。動物性たんぱく質を摂らないと、身体そのものが形成されないぞ。

 ふたりの骨年齢や血管年齢、肌年齢などの数値を測定してみると……、
 ピンクレディー未唯の場合骨年齢は(運動しているので)20代の若さだけど、血管年齢はそれほど若くなく、肌の保湿(水分)に関しては77歳。「エーッ!」と当人。
 当人の名誉のためにいっておくと、肌のハリやキメの細かさに関しては20代と若い数値。
 ただマイナスの数値だけ強調されるのがこの番組の意地悪いところ。
 観ている側は(批判的だっただけに)「やっぱりなあ」と溜飲が下がる?

 サンプラザ中野の場合はもっとひどく「このままでは寝たきり老人になりますよ」と医師にいわれてガックリ。
 ここでも観ている側は溜飲が下がる。もっともこれが番組の狙いらしい。

 結論をざっくりいうと、1日1食は薦められない。食事はバランスを考えなさいってこと。
 さらにいうと素人が説く健康法は聞くほうにとってありがた迷惑?

 翻って当方。
 これまで何人の人に自ら編み出した健康法を説いてきたことか。
 みんな「ふむふむ、なるほど」と聞いていたけど、それは大人の対応で本心は「なにをいってやがる」と冷笑していたのではないか。
 あーッ、穴があったら入りたい。

 これからは人に健康法など説かないほうがいいのか。
 そんなことを考えさせられました。