昨日(11/29)近所の小学校で、「福祉まつり」が開催されました。
 昨年は京都にいたため見られなかったのですが、この地へ引っ越してから毎年行ってます。
会場 
 呼び物はバザー。
 フリーマーケットみたいなものですが、とにかく安い。
衣類 
 フリーマーケットに関しては、友人(取手)の出店を手伝ったことがあるので相場は心得ているつもりですが、それよりも安い。
クリスマスリースも 
 前々回はブランドもの(?)バッグの争奪戦。
 ヴィトンが2000円。シャネルのバッグがン千円。
 本物かどうかは不明だけど、あっという間に売れちゃった。
花の販売 
 今年はゆっくり行ったので、そんな修羅場(?)は見なかったけど、それでもオバサマたちがあちこちで段ボールをひっくり返して衣類を漁ってました。
段ボールから取り出す 
 引っ越してきたときはここで食器などを買い揃えたものですが、もう必要ないので、茶器セットを中心に見回りました。これも安い。外国製の高価なティーカップのセットが300円。
 とはいえ必要もないので、買わなかったけど。
野菜 
 野菜も安いけど、もうあるからなあ。
 ということで、買ったのは柚子だけ。一袋100円は安いけど、前回はもっとたくさんあったぞ。
買ったのは柚子 
スポンサーサイト
 川越城は昔は本丸、二の丸、三の丸とあって、濠で区切られていたのですが、その濠も今では埋め立てられて市街地になり、城跡は富士見櫓など所どころに見られる程度。
 しかし本丸御殿は残っています。
本丸御殿外観 
 本丸御殿がつくられたのは嘉永元年(1848)、江戸時代後半。天守閣はなく、入母屋造りです。唐破風づくりの玄関を入ると大広間(36畳)。
庭  
 手前には控え武士の詰所があり、奥に行くと坊主当番の詰所、さらにその奥に家老の詰所があります。
 「寒い!」
 靴を脱いで板の間を歩くので、足もとがスース―する。
 しかも戸が開け放しなので外気が入ってくる。
 昔はもっと寒かったというから、当時の武士はエライなあ。
廊下 
 家老詰所は奥の離れにあります。
 ひと口に家老詰所といっても、手前には記録方詰所があり、たくさんの部屋があります。
 なんと奥の間では3人の家老が評定(会議)中。
家老たちの評定の様子 
 「我が藩の財政はひっ迫しております。どのような再建策をお考えか」
 「お女中のリストラであろうな」
 「それは消極案でござる。むしろお女中たちを活用してセレブな遊郭をつくるのはいかが」
 「藩が郭を経営するとは無体な。たちまちお取り潰しになろう」
 「いや、そこはバレないように表向きは民間にして」
 「そんな上手くいくものかな」
 「いきますとも。どこかの国の元首はそれで大儲けしたといいますから」
 そんな評定が行われているかどうかわからないけど、いかにもそれらしく見えるから不思議。
奥の座敷 
 この家老屋敷、本来は長い廊下を渡ったところにあったそうですが、紆余曲折を経て、現在の位置に移築されました。庭の眺めもよく、上手く納まっています。
座敷から庭を見る 
 また玄関と広間が残っているのは、ここと高知城だけだとか。
 ふーむ、きてよかった。
広間  
 本丸や藩の評定すきま風

 本丸も会議もお寒うございました。当句に至りましても……。
 川越散策の市街地から西へ約2kmの川越水上公園。
 中央の修景池は入間川の調整池にもなっていますが、木々が植えられ、自然と一体化して景観も素晴らしい。
川越水上公園① 
 湖畔に植えられた木はメタセコイア。杉科だけあってまっすぐ上に延びています。
 その紅葉(黄葉?)も見事。
川越水上公園② 
 公園の西側はウォーキング(ランニング)コースがありますが、ひねくれ者の当方は設えられたコースなど歩きたくない。
 ということで、芝生の上を歩いてみたけど、あまり収穫はなかった。
 (これなら素直にコースを歩けばよかった)
ウォーキングコース 
 南西の車のたまり場には多くのイチョウが植えられています。
 夏はそれほどでもなかったけど、この季節の黄葉は見事です。
イチョウ① イチョウ②
 ことばは不要。
 置き忘れられたサッカーボール。
サッカーボール 
 見捨てられ銀杏落ち葉に毬ひとつ

 毬とはオレのこと?
 紅葉を愛でむとご近所を徘徊したところ、ありましたな、ふじみ野駅近くの勝瀬原記念公園。
 平成19年(2007)の夏にオープンしたというから、比較的新しい公園。
勝瀬原記念公園① 
 園内には、33種もの春夏秋冬の木々が植えられ、一年中緑や花が楽しめるとのことですが、やはりこの季節がいちばん。

 同公園のあるふじみ野東地区は富士見市に属しています。
 ふじみ野なのに富士見市?
勝瀬原記念公園②  
 このあたりは富士見市とふじみ野市が、まるでフォークを合わせたように、絡み合っているところ。したがって同じ道を歩いていても富士見市→ふじみ野市→富士見市→ふじみ野市という箇所もあるぐらい。
勝瀬原記念公園③
 ちなみにふじみ野駅は富士見市に属します。
 ふーむ、ややこしい。
ふじみ野駅前通り 
 さらに勝瀬原記念公園のとなりにある小学校は富士見市立ふじみ野小学校、なんじゃそれは!
ふじみ野小学校  
 しかしお子様たちはなんのわだかまりもなく、すくすくと勉学に励んでおられる。
 (わだかまっているのは当方だけ?)
勝瀬原記念公園④ 
 そんなことより、紅葉を愛でていればいいってことか。
 ちなみにふじみ野市には「富士見」という町名はありません。
 川越城本丸御殿の東に三芳野神社があります。
 三芳野とは「神聖な美しい広い土地」の意味を表す「美よし野」からきているそうです。
 ここは「伊勢物語」の在原業平が訪れたという石碑と、「わらべ歌発祥の碑」があります。
境内 
 業平に関しては入口に歌碑があります。
 「我が方によると鳴くなる三芳野の 田面の雁をいつかわすれむ」
業平の歌碑 
 しかしこれについては的場の三芳野天満宮に「伊勢物語に出てくる場所」とあり、伊勢物語の記述と当時の様子を鑑みて、業平が訪れたのは的場の天満宮のほうではないかと推測されます。

 そこにも「わらべ歌生れしと云う 三芳野の天神さまに ほそき道あり」という石碑があり、ふたつの三芳野天神が「業平」と「わらべ歌発祥の地」を取り合っているように見えます。
参道 
 このわらべ歌とは童謡「とおりゃんせ」。

 ♪とおりゃんせ、とおりゃんせ 
 ここはどこの細道じゃ
 天神さまの細道じゃ
 ちょっと通してくだしゃんせ
 ご用のないもの通しゃせぬ
 この子の七つのお祝いに お札をおさめにまいります
 行きはよいよい帰りはこわい
 こわいながらもとおりゃんせ とおりゃんせ
社(やしろ) 
 この天神さまは川越城内にあったため、一般の参詣者は役人の取調べを受けました。
 「ご用のないもの通しゃせぬ」がまさにそれ。

 神社の境内の広場に「わらべうた発祥の地」の碑があり、歌詞の一部が刻まれています。
 「ここはどこの細道ぢゃ 天神さまのほそみちぢゃ」
 わらべ唄の石碑
 さて、帰りはなだらかな下り坂。
 お役人の詮議を受けることもありません。いささか拍子抜け。
帰り(黄泉?)の道 
 ♪行きはよいよい帰りもよいよい
 (私ぐらいの年になると、「よいよい」は別の意味?)
     
 とおりゃんせ行きはよいよい黄泉の道

 将来の暗示? とくに意味はありません。
 川越・蔵造り街一番街を西に入ったところに長喜院という寺があります。
 曹洞宗の地味な寺ですが、注目すべきは本堂の正面左、沙羅の木の下にある苦行の釈迦像。
 「さとりを開く直前直後の姿」とのことで、目は落ち窪み、骨と皮になって、あばら骨が浮き出るほどの凄まじい姿です。
 立札には「開悟の後、人の幸せの道を説く」と解説されています。
長喜院の釈迦像
 この像はスリランカの彫刻家ソーマ・パーラーの作で、本物はインドのラホール美術館にあります。
 ここにあるのはレプリカですが、なかなか迫力があり、見るものを圧倒します。
 悟りを開くには食を断たねばならない。
 (私は無理)
 一方、一番街の東にある法善寺。
 天文18年(1549)の古刹で、京都東本願寺を本山とする浄土真宗の寺ですが、ここに「虫食い奴(むしくいやっこ)の墓」というのがあります。
 酒樽に腰をかけた袴姿の侍の石像。
 名を瀬川嘉右衛門といい、川越城主松平信綱に仕えていた奴(やっこ=槍持ち)ですが、この男は「剛強不屈で、常に大飲を好み、一斗以上も飲み、又、食肉を好み、禽獣、蟲、魚を問わず俎(まないた)上にある物は、美悪腐肉でも皆食した」(広報川越)とあります。
法善寺の虫食い奴  
 とんだ悪食(あくじき=ゲテモノ食い)野郎ですが、酒の肴に虫などを食べたので「虫食い奴」と呼ばれました。大食いタレントもここまで徹底すれば表彰モノ?
 嘉右衛門は生前から変わったことを求め、晩年には自分の姿を石に刻み、墓を建立し、法善寺に納めました。したがってこれは墓ということになる?

 釈迦像と虫食い奴。
 食を断つ者と、食に貪欲な者。
 誰だ、「真理は両極にあり」といったヤツは。
 川越大師として多くの参詣者を集める喜多院は、三代将軍家光誕生の間や、春日局化粧の間などで有名な客殿(重要文化財)、さらに五百羅漢などがあって、川越の一大観光客地。
喜多院  
 あまり知られてないけど、この裏に「どろぼう橋」という小さな橋があります。

 由来は江戸時代。
 あるとき川越の町で泥棒を働いた男が捕り方に追われ、裏手の橋をわたって喜多院に逃げ込みました。当時ここは御神領といって幕府直轄地で、川越藩の役人でも立ち入れない。
 「へっへ、うまくいった」
 と思ったのもつかの間、寺男たちに捕まり、さんざん油をしぼられました。
 これには男も改心し、「私が悪うございました。これからは真人間になります」と元三大師に許しを乞うたところ、「ならば、許す」
 寺側がそれを町の奉行所に伝えたところ、「ならば、よし」ということで無罪放免。
 男は町の商家に奉公して、二度と悪いことはしなかった。
 いらいこの橋(当時は丸木橋)を「どろぼう橋」と名づけたそうです。
どろぼう橋① 
 うーん、いい話だ。
 しかしこの話、どこかで聞いたことがあると思ったら、ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル(ああ無情)」のジャンバルジャンとミリエル司教のくだり。
どろぼう橋② 
 罪を憎んで人を憎まず……か。
 私もそうありたい。

 改心をしたフリをして舌を出す

 ダメだよ。
 大相撲九州場所が終わりました。
 今場所はなにもかも異例ずくめ。

 まずは行司の差し違え。
 3日目の日馬富士―碧山戦、7日目の白鵬―隠岐の海戦がそれ。
 3日目はともかく、7日目の白鵬―隠岐の海戦は明らかに体が入れ替わっており、素人の私が見ても「白鵬がうっちゃった」と思いました。(決まり手はやぐら投げ)
 行司はいずれも立行司第40代式守伊之助。3日間の出場停止になりました。
○豪栄道(首投げ)栃煌山 
 それに10日目、白鵬の猫だまし。
 これについてはすでに述べましたが、終わってからの支度部屋での会見によると、(私の推測通り)いろんな技を試しているようです。本人はそれを「楽しんでいる」と。
○照ノ富士(押し出し)琴勇輝 
 白鵬は朝青龍(やんちゃ横綱)引退したあと、ひとり横綱で相撲界を引っ張ってきました。
 東日本大震災のときは白鵬自ら率先して東北へ炊き出しに出向き、八百長問題で逆風が吹き荒れたときも一人者として相撲界を支えてきました。
 63連勝は双葉山(69 )に次いで2位、優勝回数 35回は1位、当分破られないでしょう。
 相撲解説者の杉山邦博さんにはこう話したそうです。
 「優勝の記録は達成したし、目標がなくなった。あとは相撲を楽しみたい」
○稀勢の里(寄り切り)日馬富士 
 これは本心だろうと思います。
 モンゴル出身で、日本の相撲界にこんなにも貢献してくれた横綱に、これ以上なにを注文つける。楽しんだっていいじゃないか。しかも我々にいろんな技を披露してくれるんだし。
日馬富士が負けた瞬間の白鵬 
 それを北の湖理事長が「横綱としてやるべきことではない」とイチャモン。
 「なにをいっとるんだ、この理事長は」と思ったら、その理事長が13日目の夜に急死。
 以前から体調が悪いのを隠して公務に励んでいたそうです。ことばもありません。
 今はただご冥福を祈るばかり。
○鶴竜(寄り切り)白鵬 
 明けて14日は豊ノ島、大砂嵐、琴奨菊がバタバタと休場。不戦勝が3番もあって白けました。

 そして優勝の可能性として千秋楽までに残った、日馬富士(1敗)、白鵬(2敗)、松鳳山(2敗)がいずれも負けて、日馬富士が優勝。
 「オレ、負けて優勝かよ」
 その瞬間、日馬富士の当惑した顔が印象的でした。これも前代未聞。
優勝した日馬富士 
 北の湖氏亡きあと、相撲協会はどう変わるのか、目標がなくなったあとの白鵬が新体制の協会側とどう折り合いをつけながら、自らの相撲を楽しんでいくのか、興味津々です。

 ※写真はいずれも千秋楽のものです。
2015.11.22 皇居東御苑
 喫煙所は二重橋から内堀通りを越えたトイレの脇にありました。
 そこから我われは北上して大手門へ。そこから皇居東御苑に入ります。
大手門 
 東御苑とはかつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡、つまり江戸城跡。
 明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設があったのを、戦後の1963年に特別史跡に指定、1968年から一般に公開されるようになりました。
 
 私は以前梅の時季に入ったことがあり、「ここは都内徘徊の穴場」と思っただけに、ふたりにはぜひ見せたかった。

 まずは二の丸庭園。
二の丸庭園
 「この前いってた子だくさんの将軍って十二代家斉のことね」
 「そうや。三代将軍家光はホモやった」
 「ええッ、ほんまか?」
 「有名な話や。そやから春日局が世話焼いたんや」
 景色を観ながら、将軍家の話をひとくさり。

 庭園のとなりに「都道府県の木」という林があって、47都道府県の木が植えられています。
 まずは宮崎県のフェニックス。「おーッ、東京都心に南国の木が」
宮崎県のフェニックス 
 京都の木は、と調べてみると北山杉。やっぱりなあ。
 ちなみに滋賀県はもみじ。(紅葉はまだでした)
 茨城県は梅。まあ、そうでしょうな。
京都府の北山杉 
 そこから我われは天守閣跡へ。
 「将軍家の力はすごいなあ。全国から石を集めさせたんやなあ」
 「こういう石を組んで、大きな地震でも崩れないというところがすごい」
天守閣跡への登り口  
 「ここにまた新しく天守閣を建てるという計画もあるそうや」
 「そんなんやらんでええわ。予算かかるばっかりや」
 「大きな予算がかかるところは利権も絡むしな」
 天守閣跡
 「オリンピックがええ例や。あんなもん、東北復興になんの役にも立たんのや」
 「そうや、『Tokyo!』と決まった瞬間の画面がいまだに腹立たしい」
 勝手知ったる同窓生、いいたいことがいえる。しかもみんな似たようなことを考えている。
本丸跡広場 
 為政者よ、よく聞け。こんな年寄りの意見もあるんだぞ。
 江戸時代の目安箱に入れたいぐらい。
 三菱一号館広場に喫煙所がないので、「この近くに喫煙所は?」とガードマンに聞くと、「皇居広場の一角にあります」
 そこで我われは皇居に向かいました。
皇居前広場
 「広いなあ。京都御所よりスケールが大きいわ」
 「♪ひさしぶりに手を引いて~島倉千代子さんが歌うてはったな。今にして思うとええ歌や」
 「♪あれかあれが二重橋 記念の写真を撮りましょうね~」
 「そういえば修学旅行できたな。二重橋の前で記念写真撮ったわ」
 ということで、我われは二重橋へ。
二重橋? 実は正門石橋 
 我われを含めて、お上りさんが多い。
 「これやこれや。ここの前で撮ったんや」
奥へ進む 
 この眼鏡橋をみんな二重橋と思っているようですが、正しくいうとこれは「正門石橋」
 ここから奥へ行くとこの橋を渡るところに出ます。
石橋の向こうが正門 
 といってもふだんは閉ざされ、渡ることはできません。(↑)
 新年や天皇誕生日の皇居一般参賀のときは正門が開放され、渡ることができます。
 その場合、石橋を渡って正門から宮殿内に入ってUターンするような形で奥の橋を渡ります。これが「正門鉄橋」。
  実はこれが二重橋。
 「うそッ」と思われるかもしれないけど、事実そうなんだから仕方がない。
 (東京の観光公式サイトGO TOKYO)
正門鉄橋、これが本当の二重橋
 ではなぜこれが二重橋なのか。
 Wikipediaによると、「この橋は江戸城の西丸下乗橋にあたり、木造時代には橋桁が上下二段に架けられていた。そこから、二重橋と呼ばれるようになった。現在の鉄橋は昭和39年(1964)に架け替えられたもので、橋桁は二重ではない」とのこと。
写真撮影の定番 
 手前の正門石橋は江戸城の西丸大手橋にあたり、石橋に架け替えられたのは明治20年(1887)。二重アーチ構造であることから、「これが二重橋」と思われるようになったとのこと。
 これが二重橋というのは誤解ですよ。
2015.11.20 晩秋の丸の内
 昨日(11/19)は午後1時前後に取手の友と都内で会う約束だったのですが、午前10時すぎに電話がかかってきて、「こっちの用事は終わった。なにしてんね、早う、こい」
 「早う、こい」といわれたって、こっちだっていろいろ用事がある。
 「すぐは無理や。今から行っても11時半ぐらいかな。場所は東京駅丸の内南口にしてくれ」
皇居から見た東京駅丸の内駅舎
 ちょうどパスタを茹でていたところなので、中止するわけにはいかない。
 大急ぎで仕上げて(固茹でだった)、急いで食べて家を出たのが10時35分。
 池袋で地下鉄丸ノ内線に乗り換えて、東京駅に着いたのは11時50分。
KITTE館

 「なに、うろうろしてんのん」
 ドームの下で所沢の女(同窓生)に声をかけられました。
 「あれッ、キミもきてたんか」
 「気づくかな、と観察しとったんや」と取手。小型ビデオで撮ってたらしい。
 「悪い趣味や」
丸の内仲通りのビルにて 
 「どこへ行く?」
 「その前に軽く食べたい」
 というので、KITTE館のカフェへ。
 ふたりはパスタを食べ、私はコーヒーだけ。
 (さっき自分が食ったのと)同じようなものを食っとるわい。むろんプロと素人の違いはあるけど。
三菱一号館広場① 
 「タバコが吸いたい」というので(禁煙席だった)、そこを出て丸の内仲通りへ。
 「あそこなら喫煙場所があるかもしれない」
 と三菱一号館広場へ・
 三菱一号館広場②
 ここはサラリーマンが休憩するところなので、喫煙所ぐらいあるかなと思ったけど、いずこも禁煙マーク。
 考えてみれば千代田区というのは喫煙には最も厳しいところ。
 選択を誤った?
三菱一号館広場③ 
2015.11.19 所沢・東光寺
 近所を徘徊していると、思わぬ名刹(?)を発見することがあります。
 それが所沢市東部にある東光寺。曹洞宗のお寺で、山号は醫王山。
東光寺山門 
 石段を上ると本堂。御本尊は薬師如来。
 お堂は滝の城の城主・北条氏照によって建てられましたが、当時の寺の名は不明。曹洞宗ではなかったらしい。
 曹洞宗に改装したのは永禄7年(1564)。
本堂 
 江戸時代初期・慶長5年(1600)本寺である永源寺(所沢市久米)の孝山大舜大和尚が開山となり、醫王山東光寺になりました。

 本堂の奥に小高い丘があり、金毘羅山と呼ばれています。
金毘羅山 
 細い石段を上ると金毘羅社。
 金毘羅大王尊が祀られており、毎月10日は縁日で「朝金毘羅」ともいわれ、朝早くお参りをすればするほどご利益があるそうな。
金毘羅社 
 家内安全・交通安全にご利益があるそうですぞ。
金毘羅の図 
 ちょっと変わった石像もあります。
石像① 石像②
 昨日(11/17)漫然と相撲を観ていたら、面白いことがありました。
 横綱白鵬が栃煌山に猫だまし。
 猫だましとは相手の顔の前で両手をパチンと叩く戦法。
 相手に対する目くらまし戦法で、トリッキーな技です。ただし決め手にはなりません。
 白鵬は立ち合い栃煌山の目の前で両手をパチン。突進する相手をひらりとかわしました。
 慌てて振り返った相手の顔に向け、再びパチン。
 面食らう栃煌山を組み止め、グイッと寄り切りました。
 Youtubeの検索(←ここから選んでください)
 
 私は面白いと思いました。館内もけっこう受けていたようだったし。

 しかしこれに理事長が「横綱としてやるべきことではない」苦言を呈したそうです。
 マスコミも理事長の表現下手を忖度したのか、「相撲を舐めているととらえられかねない」などと知った風なことをいってるけど、そんなに悪いことなのか。
 猫だましというのは、自分の手を打ってるだけで相手を叩いてない、なんの危害も加えない平和的(?)な戦法。これのどこが悪い。
 それどころかやったほうはその瞬間無防備になるので、そこを付け込まれるリスクのほうが大きい。
 事実舞の海か何度かこれをやったけど、成功例を観たことがない。
 それも当然で、小兵の力士がこれをやってもなにも怖くないし、すぐ捕まえられる。やったほうが負けることが多いのです。
 では大柄な格上の横綱がなぜこれをやったのか。
 白鵬は「強い力士」というだけではなく、「相撲の研究者」という側面があります。
 モンゴル出身の白鵬にとって、日本の相撲はやればやるほど奥が深く、興味の尽きないライフワーク。
 大鵬ならいつも安全な「寄り切り」で勝っていたけど、白鵬がそうしないのはいろんな技を実験しているからではないか。
 「ほう、こんなワザがあるのか」「これはどんなときに効果を発揮するのか」と、日々研究(研鑽)していると思われます。
 研究すればその成果を発表したい。力士ならその発表は土俵の上になるのは道理。

 この日白鵬は勝負が決まった直後、栃煌山の胸を親しみを込めてポンと叩きました。
 それは「自分の実験に協力してくれてありがとう」という感謝の意ではなかったか。
 さらにいうと観客に対するサービス精神もあります。
 「相撲にはこんなワザもあるんだよ」
 と横綱自ら相撲の面白さを我われに伝えている。

 こんなことは白鵬でないとできません。
 弱い力士がこれをやっても、負けたら「発想は面白いんだけどな」「所詮は奇襲戦法」で終わり。ワザの真意は伝わらない。
 強い力士がやって成功してこそ、ワザの真意が伝わるのです。 

 そんな横綱の心意気もわからず、理事長はなにをつまらんことをいっている。
 そんなことより観客を増やす努力しろ。九州場所は空席が目立つぞ。
 白鵬はその危機を感じて、なんとかして客をよろこばそうとパフォーマンスしているのではないか。
 むしろ感謝してもいいぐらいと私は思うのですが。
 政治の話は社会人になっても、同僚や上司とふつうにしました。
 エロ出版社といえども編集者には右も左もいて、いろんな「思想」が飛び交いました。それでも激しく論争するまでには至らず、呉越同舟で仲良く飲むこともありました。
 仕事に支障がなければ、なにをいっても許されたのです。(私などは「全共闘崩れ」と思われていました)

 フリーになって新聞社や出版社に出入りするようになり、編集者やライター、カメラマン、イラストレーター、さらに風俗業者と関わるようになると、いろんな「思想」の持ち主と出会うようになりました。
 過激な左翼もいれば、右翼の親玉もいます。
 マスコミというところは、それを互いに知りつつ、ケンカもせず、仲よくやっているので、私も自説を述べることもありましたが、とくに険悪になることはなかった。
 昨年暮れ、郷里の友数人で忘年会をしたことがあります。
 このとき珍しく現代史の話になり、友人が「連合国の経済封鎖を打開するのと、植民地支配からアジアを解放するために日本は戦争を起こしたのだ」といい出しました。
 これには私も看過できず、「違う、あれは侵略戦争だ」と反論。
 「いや、そうじゃない」
 彼は穏やかな顔をしても譲らない。

 ふたりとも虎の尾を踏んだ?
 彼とは小さいときから一緒に遊んだ仲。今さらこんなことでケンカしたくない。
 おそらく彼もそうだったと思います。この話はそれで打ち切りました。

 学生時代、友と論争することは相手を論破して、自分の意見に従わせることに意味がありました。(それができなければ決裂)
 しかし年老いた身で相手を論破しても、今さらなんの意味がある。
 むしろ不快さと虚しさが残るだけ。
 それよりも残された時間を、友と仲良く過ごすほうが賢明ではないか。
 高校生のとき、一風変わった(?)友人がいました。
 神社の前を通ると深々とお辞儀をする。
 京都の女流画家の話では、朝ひとり黙々と教室を掃除していたそうです。
 しかし私とは気が合い、帰りは一緒で、何度か彼の家に遊びに行ったこともあります。
 写真マニアで自室に暗室を持つほどでした。

 しかし政治的なことになると激しく対立しました。
 当時はふたりとも未熟で、自分の意見をいい募るだけでしたが、それでも仲違いすることはなかった。
 彼をよく知る栗東の歴史研究家によると、
 「あいつは右翼や。気難しい面もあったけど、情に厚い男やった。激しく論争しても決裂しなかったのは、気に入られてたんやろな」

 その彼は数年前に他界しました。
 再会は叶わなかったけど、激しく論争しても仲良くしてくれた彼の姿を思い浮かべました。
 そうか、あれが彼のメッセージだったのか。

 このメッセージは今の私のなかに活かされているような気がします。
 もう2ヶ月ほど前のことになりますが、郷里で行われた小学校の同窓会の三次会で数人とカラオケルームに入ったときのこと。

 となりに座った同窓生と日ごろたしなんでいる趣味の話になりました。
 私は俳句、彼は剣道。そこまではよかった。

 彼はさかんに武道のよさを力説し、私もそれには賛同しました。日本古来の伝統文化を我われは引き継いでいる。
 しかしそこから派生して、「我々はこの国土を守らなければならない」というようになりました。

 こうなると、守るとは何を守るのか、またどういう方法で守るのか、という議論になってきます。弱ったな、と思っていると、彼は「現政府の提唱した集団的自衛権は正しい」ということをいい始めました。

 私は仕方なくこういいました。
 「集団的自衛権はすべてアメリカの指示(命令)によるものだ。日本はアメリカの隷属国家になっている以上、従わざるを得ない。ただしこれによって日本の自衛隊員の血が流れる」

 「それは国土を守るためには仕方がない」
 「集団的自衛権は国土を守るということではなく、他国の戦争にも参加することだ」
 「しかし、それは大きな意味(同盟国?)でやっぱり国土だ」

 「本音をいえば、私はいやだな。そんな勇ましい戦争肯定論に与したくない」
 「そうはいっても、攻めてこられたらどうする。武力で戦うしかないだろう」
 酔いもあったのか、話はいきなり極論になりました。

 これが行きつくとどうなるか。
 『戦わないのは国民として卑怯で無責任だ』
 『しかし戦うといっても、あんたじゃないだろう。若い人に戦わせるわけだろう』
 剣呑な論争になります。
 他の連中は大音量でカラオケに興じ、しゃべったりしているので、こっちの会話はまったく聞こえない。したがって仲裁する人もいない。

 私は小用で席を外し、もどってからこういいました。
 「お互い政治の話はやめよう。仲良くしよう」
 これには彼も同意しました。

 学生時代ならとことんまでやり合いました。
 そして決裂し、もうつき合わない。みんなそうでした。
 当時は同じような「思想」を共有することが友人の必須条件でした。
 I氏の司会進行による第Ⅰ部(規約の説明や役員の選出)は終わり、第Ⅱ部は講師の講演。
 先ずは「万葉集の植物」とのことで、入間川の川っぺりで採れた植物を披露。

 「これは飯桐(いいぎり)といいます。葉っぱが大きいでしょう。当時の人はこれでおむすびを包みました」
 なるほど、そういうものか。
 感心してメモは取ったけど、写真は撮り損ねました。

 写真を撮ったのは、マメコウジ(センリョウ?)、サオトメバナ(ヘクソカズラ)=ハンドクリームの原料(?)、ナンキンハゼ=蝋の原料、シデ、ヌルデ……など。
マメコウジ 
 講師の先生から「俳句をやられているから、ご存じでしょ?」と水を向けられても、こちらとしては苦笑するばかり。(実はなにも知らんのです)
ヘクソカズラ 
 もともと花はおろか、植物など、まったく不得手。
 万葉集にしても、高校時代に習った「瓜食めば子ども思ほゆ……」の歌を覚えているだけ。
 この歌は父親になってからひしひしと実感します。
ナンキンハゼ 
 このあと、また「ここに俳句の大家がおられるので、まことにやりにくいのですが……」と、芭蕉、蕪村、一茶の作風の違いを説明。
 こちらとしては「そんなものか」と思うだけ。
シデ 
 最後に窪田空穂(うつぼ)という歌人の
 
わが指の高き節みよ世に経るは 難きといはし手を出しぬ父

 の鑑賞。

 これは、「お前はいっぱしの文学者を気取っているが、この節くれだった指を見ろ。世間を渡るとはこういうことだ」(お前なんかまだ青い)と農夫の父が手を出した、という意味。
 「では空穂がこれを詠んだとき、お父さんは生きていたか、そこまで読まなければなりません」
ヌルデ 
 うーん、難しいなあ。
 川越の俳友は、「なーに簡単だよ。五七五に七七をつければいいんだから」というのですが。

 川越に住む俳友から
 「川越市の短歌の会が講師の高齢化などもあって、当初より会員が半減。そこで初心者の人に声をかけて新しい教室をつくるため、集まることになりました。もしよかったら顔を出してみませんか」
 との誘いを受けました。
       
 彼は俳句の達人ですが、短歌でも達人クラス。
 こちらとしては(短歌を)やる・やらぬは別にして、俳句にプラスになるのであれば、と軽い気持ちで昨日(11/13)参加しました。
 場所は川越駅西口のウェスタ川越。
 ウェスタ川越とは今年春オープンした自治体と民間でなる複合拠点施設。

ウエスタ川越  

 会場はこの2階の会議室ですが、1階のフロアで「おう、おう」と友人が同年代の男性とあいさつ。どうやら短歌の会の友人らしい。
 友人からは「こちらは私の俳友です」と紹介されました。
 「今回は様子見ということで」
 「そうですか、ごゆっくり」
 彼(I氏)はいわば短歌の会の世話役。
        
 部屋に入ると、このときの参加者は約30名。
 ほとんど女性ばっかり。それも年配。
 俳句は男も多いけど、短歌は圧倒的に女が多いのか。
 ざっと見たところ、俳句の女性よりは開放的で明るいイメージを受けました。(あくまでも独断です)
        
 会はI氏の司会進行によって進められました。
 最初の旗揚げなので、会の名称(はつかり短歌教室)と規約などの説明、開催日時・会場を確認して、会長や会計、清記係の選出に移りました。

準備風景 

 これに関しては最初少し難航しました。
 なかなかなり手がない。
 しかしI氏が私の後ろにいたおじさんに頼むと、「私は短歌初心者なもので」といいながらもOK。
 会計や理事に関しても年配の方は「体力に自信がない」と固辞されましたが、比較的若い方が「私、やります」
         
 いつも思うのですが、こんな場合、京都ではなかなか決まらない。とくに女性は「いやや、いやや」と最後まで固辞する。
 その点、関東の女性のほうが公共心に厚いのを感じます。
          
 そして清記係(各人のつくった短歌《詠草という》をまとめる係)は友人が「私がやる」
 こうして会の運営についてはほぼ決定しました。
          
 とはいえ、これだけでは短歌というものの神髄がわからない。
 やるもやらぬもない、といったところでした。

 伏見の友のいう「小田急ビーチハウス」は昭和31年(1956)7月に建てられました。
 当時小田急は片瀬西浜一帯にレジャー施設を建設し、昭和33年には小田急シーサイドパレス、昭和36年には小田急鵠沼プールガーデンをオープンさせました。(小田急80年史)
 小田急ビーチハウスは今はなく、駐車場になっています。
江の島周辺 
 こちらとしてはヤツの「青春の思い出」とやらの手助けになればと、漁港、江の島の写真をプリントしました。
 柴漁港に関しては金沢シーサイドラインから撮ったものしかないけど、これは仕方がない。
 それに金沢八景周辺の地図をコピーして郵送しました。
柴漁港  
 2日後、伏見から電話がかかってきました。
 「今日届いたよ。あんな写真いっぱい、悪いね。……ところであの漁港やけど、どうも金沢漁港という気がする」
 「やっぱりそうか。しかし、金沢文庫行きのバスはどこから乗ったんだ」
 「それが、よう覚えとらんのや。なにせ50年以上前のことや。それに辺鄙な漁師町やった。およそ横浜らしゅうない」
 「元町も中華街も行かんかったんか」
 「行かん。そんなとこ知らんかった。そもそも金沢文庫(称名寺)も行っとらんのや」
 「すぐ近くやないか」
漁港 
 「しかし、どうしとるかなあ。あの漁師の娘は」
 「そら、もう、今はええお婆さんや」
 「そんなことは考えとうないな。一緒に泳いだだけで、手も握らんかった」
 「ええつき合いやないか。それがいちばん心に残るんや」
 「そうかもしれんな」
金沢漁港
 話は今年2月に亡くなられた叔母さんのことに。
 「大往生やったらしい。なにせ100歳近い年齢や」
 「あの叔母さん、若いころはきれいやったんやろな」
 「そうや、ワシが行くたび旦那が変わってた」
 「ほう、それで老後はホームでひとり暮らしか」

 「子どももいなかったからな。ひとりになってもカクシャクとしてたのは信仰の力らしい」
 「それはホームの名前でわかった。聖書に出てくる地名や」
 「あの叔母さんには、ワシ、可愛がられたんや」
 「そやろな。あのときえらい喜んではった。叔母さん孝行したやんか」
江の島海水浴場 
 「それにしてもお前と話していると、当時のことが蘇るなあ」
 「それはよかった。年取ると、昔のことを思い出すのも脳の活性化や。これはアメリカの心理学者が実証しとる。……今年は無理やけど、来年になったら金沢漁港と江の島に行ってくる。ただし千恵子という女の消息については責任持てんぞ」
 「はははは」
 そんなやりとりで電話を終えました。

 伏見の友には、京都へ行くたび車で市内(主に南部)を案内してくれるので世話になっているので、これで多少は「恩返し」できたかな。
 翌日、伏見の友にメールを出しました。
 「夏過ごしたのは金沢八景のどこだ。また行くから探索してくる。すっかり変わっているぞ。できれば一緒に行こう。案内してやる」

 すぐに伏見からの返信。
 「もう忘れたけど漁村(漁師町)だったよ……。そこの漁港の防波堤から毎日リールを投げてキスやあいなめ、石鯛なんか釣って晩御飯のおかずにして食っていた! アサリもどっさり採れて……。つまり、こないだ亡くなった○○ホームの叔母さんの旦那が肺結核で漁師町の空き家を借りて療養してた頃、夏休み中遊びに行った思い出だ。いつも夕方になると、漁師の娘たちと一緒に泳いだりした純朴な少年時代が鮮明に思い浮かぶ」
野島の漁師町 
 なにが純朴な少年時代だ、と思ったけど、○○ホーム(戸塚)の叔母さんと聞いては捨て置けない。
 この叔母さんとは4年前に一度お会いしたことがあります。
 90代の半ばというのに、70代にしか見えない。小柄だけどほんのり色気もあり、不思議なパワーを感じました。
 もう一度お会いしたいと思っていたのですが、今年の2月に亡くなられました。

 そこで、こちらが出したメール。
 「金沢八景の漁村といえば、柴漁港、金沢漁港、野島あたりが考えられけど、地名は思い出せないか。年内は無理だけど、また行くから漁村にあったものや、海岸や沖の景色など、できるだけ具体的なものを教えてくれ」

 これに対して伏見からは乱雑なメモ書きと、
 「たしか、金沢文庫行きのバスに乗って行ったような気がする」
友人のメモ書き  
 うーん、金沢文庫に近いのは柴漁港だけど、このメモ書きでは金沢漁港のようでもある。いずれにしても写真と地図を送って、それで判断してもらうしかないか。

 そんなことを思っていると、今度は少し長めのメールがきました。
 「高校2年~3年の夏休みは鵠沼海岸(江ノ島の近く)でアルバイトしていた。あのとき初恋といえるかもしれないが、△△千恵子とゆう同じ年の女の子を好きになり、夕方の海辺で語り合ったのがしみじみ思い浮かぶ。あの海岸に行くことがあったら、江ノ島をバックに写真撮って送ってほしい。 
 今はないと思うが小田急ビーチハウスとゆうところでバイトしていた。もしあったら昔千恵子とゆう女がいたかと?たずねてほしい。髪の長い女だったよ。歌の文句じゃないけど、50年以上前の話してる俺はかなり可笑しいかもしれんが、無性に懐かしい。今会ったらお互い絶望するだろうな」
江の島 
 今度は鵠沼か。ころころ変わるヤツだ。
 それに、なにが千恵子だ、長い髪をしてただと? 五番街のマリーじゃあるまいし。
 平潟湾徘徊の常として、最後は琵琶島。
 枇杷島は島の形が琵琶に似ていることからそう呼ばれました。
枇杷島 
 島といえば弁天様。ここの弁天様も北条政子が近江(琵琶湖)の竹生島から勧請したものとか。
 それはともかく、松林から見る平潟湾もなかなかの風情です。
枇杷島から見る平潟湾 
 そこを出て、瀬戸橋を渡ると船宿の船着き場。
 たくさんの船が停留しています。
瀬戸の船着き場 
 「おや!」
 気になる船が……。変な解釈は無用に願います。
こんな船も… 
 一応瀬戸神社にお参りしました。
 神社の前を横須賀街道が通っていますが、以前は前に道はなく海に面しており、ここと枇杷島は橋で結ばれていたそうです。(枇杷島の説明書き)
瀬戸神社 
 帰るにはまだ時間がある。
 しかしこれまで歩き続けてきたので、金沢八景駅近くのベーカリーでコーヒーブレイク。
ベーカリーにて 
 午前中、深浦湾の景色があまりに素晴らしかったので、携帯電話(ガラ系)で数人の友に写メを送りました。
 感動を共有したいという思いからですが、感動の押し付けでもあります。(迷惑?)
 幸いこの日は数人から「いい徘徊されてますね」と好感触の返信。

 調子に乗って、そうだ、アイツ(京都市伏見区在住)にも送ってやろう。
 平潟湾の写真と、「今日は追浜から深浦湾へ行って、今金沢八景の喫茶店。平潟湾の夜風に吹かれてから帰ることにするよ」とのメッセージ。

 平潟湾の写真にしたのは、ヤツが金沢八景に住む叔母さんの家でひと夏を過ごしたことがあると聞いたから。
夕暮れの平潟湾 
 ベーカリーを出て、夕暮れの平潟湾を徘徊してから、京急に乗りました。
 今日は充実した徘徊だったな……。
 うとうとしかけたとき、伏見からのメール。

 「金沢八景、なつかしいなあ! 高校一年生のとき毎日釣りやアサリと自給自足の生活してたことがあるよ! まっくろに日焼けし、毎日が青春だった!」
 夕照橋から平潟湾プロムナード(湾沿いの道)を歩きました。
 山手通り(横浜)や哲学の道(京都)が「日本の道百選」に選ばれているのなら、どうしてここが選ばれないのか、と思うほど気に入っている道です。(私のなかでは一位)
平潟湾プロムナードの地図 
 平潟橋。侍従川が流れています。
 この川には照手姫伝説というのがあって、説明書きによると、
 「昔、常陸国での戦いに敗れた小栗判官には、照手姫という侍女がいました、照手姫は藤沢から朝比奈峠を超え、六浦港に出ようとする所で追手に捕らえられ、侍従川に投げ込まれるなど、何度か危機を迎えますが、その度に日頃信仰している観音の功徳によって奇蹟的に助かり、その後無事に小栗判官と再会できたという話です。また、川の名前も、「侍従」という名の照手姫の乳母にちなんでつけられたといわれています」
平潟橋 
 「侍従」という名の乳母?(乳母であり、侍従だったという意味?)
 実は、照手姫がここへ投げ込まれて死んだと聞かされた侍従が悲嘆して身を投げたから、というのがこの川名の由来らしい。
 照手姫は小栗判官と再会し夫婦になって幸せに暮らしたというから、この侍従のことがいっそう哀れに思われたのでしょう。
 そこまで書いてくれないと、この説明書きではよくわからない。
侍従川 
 ここへは何度もきてるけど、この川にこんな伝説があったとは。

 それはともかく、この平潟湾プロムナードは歩いているだけでも楽しい。
 道は棕櫚や椰子の木などがあって南国情緒豊か。海を見れば漁船やヨットが係留されている。
平潟湾プロムナード 平潟湾
 また釣りをやる人も多い。
 最も多いのは鯊(ハゼ)、他にはメバルやスズキなども釣れるそう。
 近くに高校があるので、放課後ともなるとグループで釣りに興じる女高生もいます。
釣りをする夫婦 
 4年前ここで黙々と釣り糸を垂れていた老夫婦に「釣れますか」と聞いたことがあります。
 すると亭主が「さっぱりです」
 しかしバケツを見ると大小の鯊が14~15尾。どこがさっぱりだ。
 この亭主、よほど謙虚なのか、それともこの程度では「さっぱり」の部類なのか。
鯊が数尾 
 その1年後、こんな句を詠みました。 

 夕日浴び夫婦無言で鯊を釣る

 句会ではトップ賞に次ぐ高得票で、宗匠からも褒められました。
 今にして思うと単なる説明句ですが、初心者には甘かったからでしょう。
 先月(10/22)号の続きです。
 横須賀のリサイクルショップをあとにして、夏島貝塚通りを西(追浜駅方向)に進み、途中追浜公園から北上し、平潟湾に出ました。
金沢八景・平潟湾 
 地図でいうと、右下のほうから歩いてきて、平潟湾の裏手(河口側)に着いたことになります。
 
 「ほう、これが平潟湾か」
 野島が正面に見えます。しかし……。
 なんだかうら寂れた感じ。
対岸は野島
 その最大の理由は砂の堆積。
 これは河口の宿命というもので、放置しておくと海から運ばれてきた砂がどんどん溜まる。
 そうなると水路が塞がるので、定期的に砂を掻き出すのですが、それには膨大な費用がかかる。
 ということで放置されているのでは。
桟橋跡 
 放置しているといえば、桟橋の残骸らしい錆びた鉄柵。
 ここに数羽の鵜(う)が。

 同じ平潟湾でもプロムナードの側では見られなかった景色です。
 神戸の鳥見男ならよろこぶかもしれないけど、私のような平潟湾大好き人間からすれば裏切られた思い。
桟橋跡と鵜 
 観光客はここまではこない、と横浜市は手抜きしているのか?
 むろん予算の問題なので、こちらがとやかくいうことではないのですが。
ブイに停まる鵜 
 この平潟湾、昔の金沢八景の図を見るとずいぶん違うことがわかります。
 これによると野島はもっと小さく、平潟湾の南にもうひとつ湾があった(今の関東学院や横浜創学館は埋め立て地)ことがわかります。
昔の金沢八景 
 ときが経てば景色も変わる。

 当たり前のことですが、そう思うとうらぶれた景色にがっかりしているようでは真のファンとはいえない。これも平潟湾の一風景として愛でるしかない。

 そんなことを教えてくれた金沢八景です。
 見晴公園の北に広い公園があります。「見沼・市民の森」
 広いだけではなく、農園や農場、植物園や盆栽園、温室やりすの家などもあって内容は盛りだくさん。
芝生広場 
 入口にはおじさんたちがたむろしていて、なにやら世間話。
 「ここはいいところだよ。夏涼しいし、冬暖かい」
 なんでも地元の人たちからは「大宮の軽井沢」と呼ばれているそうですが、本当かね(ウソです)。
入口 
 今の見ごろは秋のバラ。
 なかなかきれいですぞ。
バラ園 
 またりすの家もあって、シマリスが約300匹。
 可愛いりすたちがチョロチョロ走り回っているのを見ることができます。
 ただしこれからは冬眠する時期に入るそうです。
リスの家 リス
 私が注目したのは温室。
 広い。温室だけあって亜熱帯・熱帯の植物が植えられているのはもちろん、サボテンが充実しています。
立派な温室 
 こっちなら冬の季節も暖かいので、いいのではないか。
 おじさんが「夏涼しくて、冬暖かい」といってたのはこれだったのか。
温室内 サボテン
 南国草冬を見沼に過ごすなり

 駄洒落句です。
 大和田公園から用水路沿いを北に進むと、なぜか風車が。   
 ちょっと見ぬ間(見沼)に。
 それでも見ていると、不思議にマッチしているから、許す!
風車 
 ここは見晴(みはらし)公園。
 風車はそのシンボルというわけ。
デッキから見る公園の景色
 公園名の通り、風車のデッキからは見沼の田んぼが見渡せます。しかし……。
デッキから見る見沼田んぼ 
 あの風車、実は電動だとの話が。
 なんだそれは。
 風車というのは風(自然)の力を利用して風車を回し、それで穀物を挽く。つまりエネルギーを生み出すもの。
 ところが電気で動かすとなると、逆にエネルギーを食うわけで、これでは本末転倒。
 ガックリしたぞ。

芝川 
 そこから東に向かうと芝川に差し掛かります。
 その橋の親柱の飾りの鷲の立派なこと。今にも飛び立たんという姿。
鷲山橋  
 他にはヒナに餌をやる親鷲の橋飾もあります。
親柱の鷲 
 シルエットで見る鷲の姿も。
 風車よりも見ごたえがあります。
シルエットで見る鷲 
 先月(10/15)号の続きです。
 万葉の並木道を北上すると、左側(西)に寂れた公園があります。
 寿能(じゅのう)城址公園。
寿能城址公園 
 説明書きをかいつまんでいうと、
 「寿能城は潮田出羽守資忠(すけただ)の居城であったが、天正18年(1590)、豊臣秀吉小田原攻めの際に、豊臣勢の攻撃で落城した」とのこと。
物見櫓の跡 
 この公園一帯がかつての本丸跡で墓碑の立っている塚は物見櫓の跡らしい。
 墓碑銘には「潮田出羽守資忠之墓」とあります。

 秀吉の小田原攻めのことは知っているけど、周辺の小さな城まで余波を受けていたことを改めて知りました。
潮田出羽守の墓 
 それよりも私が気になったのは、寿能という名前。
 「寿(ことほ)ぎ能(あた)う」
 そういう地名だそうですが、私は氷川神社の神事に関係があるのでは、と見ました。
 知ってた?(Do you know?=ジュノウ?)
 ところで万葉の並木道の右側(東)にも公園。
 これは大和田公園。 
 といっても野球場「さいたま市営大宮球場」があるだけ。 (テニスコートや体育館もあるそうです)
大和田公園の碑 
 大宮にある野球場といえば、高校時代の長嶋茂雄がホームランを打った「大宮公園野球場」(県営大宮球場=1934年完成)が有名だけど、近くに同じような野球場が。(ややこしいぞ!)
 もっともこっちは1967年完成と比較的新しい。
スコアボード 
 県営と市営。それぞれ管轄は違うといっても、隣接していて、しかも高校野球の地方大会では両球場ともいっぱいになる。学校数の多い東京都だってこんなところはないぞ。
 埼玉県民はよほどの野球好き?
外野スタンドからホームを見る 
 野球場と同じく公園のほうも、大宮公園は県営、大和田公園は市営、管轄が違うようです。
 さいたま市にはこういうところが数ヶ所あるけどややこしい。
 神田明神の裏手に「妻恋神社」という小さな神社があります。
 ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)縁の神社だそうです。
妻恋神社・一の鳥居 
 同社の説明書きにはこうあります。
 「その昔、日本武尊が東征の折この地に滞在し、倉稲魂神(稲荷神)を祀ったことが起源である。また日本武尊が三浦半島から房総へ渡るとき、大暴風雨に遭い、妃の弟橘媛命(おとたちばなひめ)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救ったことから、妃を船魂神(海神)として当社に祀ったという」
妻恋神社・二の鳥居 
* 
 この話、どこかで聞いたことがある……。
 そうだ、横須賀の走水(はしりみず)神社。
 走水海岸を望む小高い丘の中腹にある、見るからに由緒ありげな神社でした。
走水神社(横須賀) 
 そこにもその伝説が書いてありました。
 当時は関東から東北へ行くには三浦半島から海を渡って房総(千葉)へ行くのが東北へ向かうコースだったようで、海が荒れて船が出せなくなったため、海神の怒りを鎮めるために弟橘媛が海に身を投じ、風波を鎮めさせた。それがこの地である、と。
 すると日本武尊がここ湯島界隈に滞在したのは、そのずっとあと(東北遠征を終えて?)ではないのか。
 彼はその間ずっと亡き妻のことを想っていたのか。(だからこその妻恋神社なのですが)
本宮
 江戸時代は、当社は妻恋稲荷大明神と呼ばれ、多くの参詣客を集めたそうです。
稲荷明神 
 今は(妻を想うということで)恋愛成就、家内安全(夫婦相和し?)祈願の神社としてひっそりと(?)営まれています。
絵馬 
2015.11.04 清瀬・円通寺
 旧森田家を出て、野球場を通り過ぎると小さな公園に出ました。
 ここに付近の案内図があって、近くに円通寺(清瀬10景)の表示があります。

 「10景とあらば行くしかないだろう」
 ということで行ってみると……。
本堂  
 説明書きによると、同寺は真言宗豊山派寺院。山号は清水山。
 建立は暦応3年(1340)清瀬では最も古い寺で長屋門、観世音菩薩は市の有形文化財に指定されているとか。
長屋門
 この長屋門はもともとは茅葺き屋根だったけど、戦後は河原になったとか。「由緒ある……」といわれれば、認めるしかない。
境内から見た長屋門 
 一方の観世音菩薩。これは新田義貞の弟新田義助が鎌倉の松ヶ岡から持ち帰った観音像とのことで、馬に乗ったままここを通ろうとした者は必ず落馬したことから別名「駒止観音」と呼ばれているそうな。観音像はよく見えなかった。
円通寺境内① 
 うーん、見たところそれほどの特徴は感じられない。
 強いていえば石庭と弘法大師像ぐらいかな。

 石庭はきれいに砂が掃き清められ、中央に小高い山があります。
 いわゆる枯山水。
 私としては池のほうが好みだ。
石庭 
 もうひとつの弘法大師の石像。
 近くにその由来が書かれていますが、つくったのは現住職が奈良に住んでいた戦前の尋常小学校の同級生でビルマで戦死。享年24。入隊前につくられたものらしい。
 そう思って見ると、なかなか若々しいつくり。
円通寺境内② 
 うーん、これが清瀬10景ね。
 それ以上はいいませんが。

 私の住まいから最も近い東京都といえば清瀬市。
 ここだと所沢経由、新座経由どちらでも自転車で40分ほどの距離。
 先日(10/21)金山調整池に行ったとき、「ここも清瀬か」と興味を持ち、一昨日(11/01)行ってきました。
 この日は所沢から清柳橋を渡って柳瀬川沿いを散策しました。

旧森田家入口 

 「おや?」
 古民家らしい風情。門が開いているので入りました。

 絵を描いている人もいます。

写生する人 

 古民家は数え切れないほど入っているので、さしたる感慨はありません。
 ここの特徴は馬屋があることぐらい。

馬屋 

 管理人らしきおじさんが座っていたので軽くあいさつ。
 パンフレットがあるので見ると、これは旧森田家。清瀬市の指定有形文化財だそうです。

旧森田家 

 パンフレットによると、この建物はもとは野塩にあった森田家の主屋を移築したもの。
 森田家のご先祖は、かつて墓碑銘(現円通寺)から推定して16世紀後半には野塩に定住し、幕末期には名主役をつとめた旧家で、主屋の建築は江戸時代中期から後期前葉頃と思われるとのこと。

室内 

 ただし「見学の場合は下宿地域市民センターまで申出ください」とあります。
 門は開いてたし、自由に見学できるみたいだけど、なぜ申し出なきゃならんのだ。
 なんか悪いことをしたみたいで、ひと通り写真を撮っただけで、早々に引き上げました。

戸棚 

 ここへ入った人のブログによると、ふだんは閉まっていて、市民センターまで申出るとそこの職員の方が開けてくれるらしい。
 この日は日曜日だから開いていて、用心のためにおじさんがいたのか。

 もう二度とくることはないから、別にいいんだけど。

2015.11.02 私の春画考
 一昨日(10/31)のTBSラジオ「久米宏のラジオなんですけど」の今週のスポットライトは「春画について考える」でした。
 ゲストは日本美術史研究者の山本ゆかりさん。

 春画とは江戸時代に描かれた男女の交合図。いわば日本の古典ポルノグラフィー。
 交接している男女の性器もリアルに描かれているため、TVでは公開できないけど、ラジオなら(ことばに気をつければ)OK、というわけで山本さんの解説とともに久米宏が説明。

 「私たちがよく見る浮世絵の女性と違って、こちら(春画)のほうは女性の表情が豊かだなあ。恍惚の表情や、相手の男が可愛くてたまらないという表情、そしてこれは快感を食いしばってこらえている表情。いいなあ」(久米)

 「それに当時は贅沢禁止令のため浮世絵で使う色や華美な絵も禁じたので、彫り師、摺り師、絵師たちにとってみれば、こっち(春画)のほうが(非合法の出版だけに)自分たちの腕をふるえたのでしょうね」(山本)

 「この絵はすごい。女のカラダは骸骨なんだけど、男の性器を咥える女性器だけはリアルに描かれている」(久米)
 そんなシュールな春画もあるのか。

 「これなんかヘアーの一本一本ていねいに描かれてます。これは版画ですよ。ということはここまで精巧に彫り師が彫って、摺り師が摺る。すごい技術だと思います」(山本)

 話を聞いていると、春画というのは単なるワイセツ画ではなくて、立派な芸術という気がしてきました。
*
 春画に関しては苦い思い出があります。

 小学5年のとき父親の長持から春画を発見し、それを近所の遊び仲間に見せたことがあります。
 我孫子もそのひとり。「あのおかげでワシはスケベになったんや」
 いまだにいいます。(春画のせいにしやがって)

 さらにいうには、
 「軍人(軍医?)と看護婦が絡んでたのがあったな。あれが強烈やった」

 そういえばそんな絵もあったような気もするけど、だとすると江戸時代ではなくて、明治時代に描かれたもの? それはそれで価値があると思いますが……。

 しかし私はそれらを全部焼却しました。
 3歳下の弟に見せたくなかったからです。
 ある日の夕方、近くの京大のグラウンドの片隅で一枚一枚燃やしました。
 小学5年生の、誰にもいえない孤独な作業でした。

 それをいうと我孫子にさんざん貶されました。    
 「アホか、お前は。あんなええもんを」
 取手も尻馬に乗って、
 「貴重な日本の文化財を勝手に燃やすとは重大な犯罪や」

 ボロクソにいわれても、当たっているだけに反論できない。
 しかも後に就く仕事(エロ本の編集)のことを考えると、先見の明もなかった。
 私にとっては一生の不覚。あのときから人生の選択を誤った?
 ふじみ野市はお隣りなのでよく徘徊しますが、たまにいつものコースを外れると思わぬ発見があります。それがこのコスモス畑。
コスモス畑 
 それほど広くないけど、あたり一面のコスモス。
 「これも撮っておこう」
 と一応は撮っておくのが私の習い性。

 小さな子どもを連れた女性が花畑のなかを遊ばせていましたが、どことなくきれいに見えます。
女性もきれいに見える? 
 「おや?」
 一方で花を摘み取っている老婦人たち。
 ここはJAいるま野の手によるものだそうで、10月15日を過ぎたら摘み取り自由とのこと。
 なるほど。
 
 摘み取った花も撮らせてもらいました。
 「花だけじゃだめだよ。別嬪さんも撮ってあげないと」
 と相方の女性。
摘み取ったコスモスの花
 「えッ、どこに別嬪さんが?」
 おどろいてあたりを見回すと、「この人のことだよ。はははは」
 思いもよらないことをいう。(これがふじみ野一流のジョークらしい)

 そういわれても顔はトリミングしました。
 (ふじみ野美人を画面に出すのは心苦しい)
花のアップ① 
 その代わりコスモスのクローズアップを。
花のアップ② 
 コキア(古希や?)もあります。
 ここの別嬪さんは古希をとっくに過ぎているけど。
コキア(古希や?)