2015.10.31 元町厳島神社
 ファッションのメッカ元町。
 その元町の路地の奥に小さな神社があります。厳島神社。
元町 
 由緒書によると、元は横浜村洲干島にあったそうで、明治になってこの地の鎮守様になったとか。洲干島というのは今の弁天橋の先にあり、当時は洲干辨天と呼ばれていたそうです。
路地の奥に神社が 
 この洲干辨天(→元町厳島神社)は大佛次郎の文明開化モノの作品に出てきます。
 それによると、同神社は今の場所からずっと上の山手の丘にあり、人々は石段を登って参拝したそうです。
厳島神社の鳥居 
 境内からは横浜の市街地が見渡せるので、参拝客も多く、若い女性が給仕をする茶店もあって、当時の横浜ではちょっとした名所だったようです。
本殿 
 ただしこれはフィクションなので、実際どうだったかはよくわかりません。(由緒書にも書いてなかった)
 今はその石段はなく断崖絶壁になっています。
神社裏の断崖 
 山手の丘の上にあれば、この神社はもっと有名になっていたかもしれない。

 そんなことを思いながら同神社を参拝しました。
 参拝者は少ないながらぽつりぽつりと。意外にも若者が多いように見受けられました。
 同神社はこの地の鎮守様とのことで、商店街の商売繁盛のご利益が見込まれていますが、恋愛成就や学業成就にもご利益あり?
参拝する若者 
 境内は若い母親が子どもを遊ばせていました。
 子育てにもご利益あるぞ。
境内 
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 「日本の道百選」の横浜山手通りがハロウィン一色ではいささか情緒に欠ける(?)。
 そこで当方はイギリス館の裏手に回りました。

イギリス館の前 

 紫色の花。
 あとで調べるとアメジストセージ(シソ科)。

イギリス館の裏手 

 そして脇のローズガーデンへ。
 これからは秋バラの季節。

バラ園 

 といっても所どころまばらで、ようやく咲き始めた(?)ばかり。

 ローズヨコハマもあります。(↓)

ローズヨコハマ 

 これは水路の脇の深紅のバラ。

水路 

 背景にベイブリッジを見るのも山手ならではの景色。やはり、きてよかった。

向こうに見えるのはベイブリッジ 

 山手に着くといつもなら真っ先に「港の見える丘公園」に行くのですが、この日はバス停近くのイギリス館へ。
 しかし人がいっぱい。日曜日だっただけに、家族連れが多い。なんだ、これは?

 どうやらハロウィンの人出らしい。
 ある部屋では小さな子どもたちが並んでいるので、なにかと思ったら、フェイスペインティング。(100円)
イギリス館にて  
 興醒めしたので山手通りへ。しかしここもハロウィンらしき人出。
 小さな女の子はいっぱしにドレス着て、顔にはおきまりのペインティング。
 なるべく撮りたくないけど、どうしてもフレームに入る。排除するのは諦めました。
山手通り 
 毒食らわば皿まで、とペインティングの光景も撮ったけど……。
フェイスペインティング
 教会は(もともと西洋の宗教行事だったので)イベントをやるのは当然としても、ふだんは何でもない空き地にも屋台が出て、そこも人がいっぱい。
屋台はいっぱいの人 
 もっとも山手は西洋館が集まっている場所だから、欧米の風習を実施するのは仕方がないのか。

 それでもちょっと外れたイタリア庭園まで行けば静かなものだろう、と思って行くと、ここもハロウィンの人出。どうやら西洋館巡りのスタンプラリーというのがあるらしい。
外交官の家 
 ふつうの景色は何度も撮っているから、これはこれで山手通りの「ひとつの光景」として撮ればいいだけのこと。
イタリア山庭園 
 そうは思っても私のような年配者にはハロウィンの風習のなにが面白いのかよくわからん。
 西洋では伝統に乗っ取った行事なのだろうけど、意味もわからず表面的な行為(仮装行列)だけ真似てどこが面白い。
ブラフ18番館 
 もっともこれは取り残されていく人間の「引かれ者の小唄」にすぎないけど。
ブラフ18番館にて 
 日本丸の総帆展帆を観たあと、本来なら像の鼻パーク→大桟橋→山下公園へと向かうのですが、「先に山手に行ってやれ」という気になりました。
 そこで桜木町のバス停からあかいくつ号に。
あかいくつ号 
 これは市内を走っているのでよく見かけるものの乗ったことがなく、一度乗ってやろうと思ってました。ところが……。
 なんだ、なんだ。バス停は長蛇の列。(日曜日だったからかも)
桜木町乗り場 
 バスは「みなとみらい(M)ルート」と「中華街・元町(C)ルート」があり、Mルートは臨港パークのほうを通って赤レンガへ。Cルートは赤レンガから中華街→港の見える丘公園に。
 当然Cに乗ります。

 長蛇の列といっても、バスはすぐくる(土・日・休は15分置き)ので大丈夫。私はちゃっかりいちばん後部の席に。
車内 
 バスが走り出すと、次のバス停の案内とともに「前方に横浜税関のクイーンの塔が見えます」などと観光案内のアナウンスも流れます。
 途中で乗ってくる人もいるけど、座れない。もっとも赤レンガでかなり降りるけど。
赤レンガパーク 
 降りる人もあれば乗る人もあり、バスはそこそこいっぱいに。
 バスは大桟橋→日本大通りから裏通りを通り、中華街入口へ。ここも乗降客多し。
大桟橋 中華街入口
 元町でも少し停まりましたが、バスはいよいよ谷戸坂を上って山手へ。
 けっこうキツイ上り坂で、ここがいちばんの難所。
 春は桜の名所ですが、それ以外は疲れるので最近は地下鉄「元町中華街」駅のエレベーターでアメリカ山に出ることが多くなりました。
 港のみえる丘公園
 そうこうしている間にバスは「港の見える丘公園」に着きました。ここはほとんどの人が降りるので、いちばん後ろの席でも大丈夫です。
 市街地は車の通行量も多く、所どころ停滞したこともあって約40分。
 これで100円は安い。
 一昨日(10/25)朝の臨港パークです。
 この日は快晴。しかし風が強く肌寒く感じました。

 「おや……?」
 強風のため波が荒く、しかも強い陽光を浴びて海面がキラキラ輝いています。
 これを写真に撮ると逆光。
 人物などは暗くなって見えないので、ふつうなら没です。
海面の輝き 
 しかしそのことで逆光の面白さがあります。
 そこで敢えて逆光で撮ってみました。
対岸は新港パーク 
 走る人。
 シルエットだけに動きがよくわかります。しかもこれなら肖像権に配慮することもないし。
 対岸はベイブリッジ。
走る人 
 これは歩く人(女性)。
 背筋を伸ばして上を向いて歩いています。
散歩する人 
 これは順光。
 本来なら好きな景色なのですが、今回は当たり前すぎて面白くない。
これは順光 
 錨のモニュメントです。
 この写真がシンプルで最も気に入ってます。
錨のモニュメント   
 久しぶりの横浜。
 このところ同窓会の雑事に追われていたのと、横須賀の海が気に入って浮気(?)しておりました。
 昨日(10/25)は帆船日本丸の総帆展帆の日。
 そのため朝から、みなとみらい地区をうろうろ。(知ったところなのでいささか食傷気味)
日本丸周辺に人だかり 
 10時少し前に日本丸の前に着きました。
 椅子に座っていると、どたどたと家族連れが……。となりの席は私より少し上、骨格のがっしりした老人。
 「これから帆を張るんですな」
 「そうです。でも今日は風が強いからね。あまり強いと全部張らないかもしれません」
 「なぜですか」
 「帆船というのは帆に風を受けて移動するでしょう。ところがこれは固定されているので帆に受ける風圧が大きくなり、帆が破れたり、マストが折れたりするからです」
 「なるほど」
船に上がる帆挙げ隊 
 そうこうしている間に帆挙げ隊(ボランティア)の人たちが船上へ。69人中女性が20人。
 号令のもとそれぞれがマストに上がってロープを緩め、帆を垂らします。
 「みんなきびきび動いてますなあ」
 「ボランティアといっても、厳しい訓練を受けてますからねえ」
 「それでもやりたいのですかなあ」
 「そうみたいですよ」
少しずつ帆が張られる 
 そんなときに取手の友から電話。
 「昨夜はあれからバタンキューや。なに、今横浜にいるの? 元気やなあ」
 「そうや、朝6時に家を出たんやで」
 「それも、早々にブログ書いとるやないか。昨日(10/24)私がいってたことを……」
 「そうや、気になることはすぐ書かんと」
 「あれ違うで。私のいう『東西時間推移論』はアインシュタインの相対性理論に匹敵する理論や。キミのいう『関東人開き直り説』は論理のすり替えで、反論になってへん」
 「そうか、それは悪かった」
総帆展帆①
 その間にも帆は張られて行きました。
 「あの建物は高いですなあ」(となりの老人)
 「ランドマークタワーですね。あれはビルとしては日本一だったのですが、昨年大阪の阿倍野ハルカスに抜かれました」
 「昨日は家族であの展望台に上り、みんなで食事しました」
 「ほう、それはよかったですなあ。どこからおいでです?」
 「沖縄からきました。孫が陸上競技大会に出るもので、ついでに家族で横浜見物ですよ」
 ジイサンのとなりは孫らしい中高生の兄妹、その両親らしい男女。ジイサンを別にして彼らでしゃべっております。
総帆展帆② 
 帆はほとんど張られ、てっぺんの帆を残して(強風のため?)完了。
 子どもたちはバラバラと退散して、ジイサンひとりに。
 「なに、今赤レンガにいるの。もう少ししたらそっち行く」
 携帯電話でやり取りをしてました。
正面からみた日本丸 
 私は「周囲を観てきます」といってその場を辞し去りました。
 前回(13/04/14)は横浜のおじさんに話しかけられたけど、展帆の日はこういうことがあるのかな。
逆サイドから 
 昨日(10/24)御茶ノ水の「東京ガーデンパレス」にて高校の同窓会・関東部会が行われました。
 参加人数は30名。これまで京都で行われた同窓会で会った人もいれば、初めて会った人もいます。
受付風景 
 「あれッ、キミ、こっち(関東)にいたのか」
 「そうや、オレはこっちには長いのや」
 「ぼくなんか転勤で13回引っ越しや。今鎌倉に住んでる」
 「おおッ、ええとこや」
 そんな会話を交わしました。
会場風景 
 取手の友も一緒です。彼がいうには、
 「こっち(東)のほうが老けてるな。とくに女性は」
 我われは1カ月前、京都で小学校の同窓会を開いたのですが、京都のほうが若々しかった、というのです。
 それは私もそう感じました。
集合写真 
 そこから彼が導き出した説は、
 「これは京都と東京では流れる時間が違うからや。京都はのんびりして時間がゆったり流れるのに対し、東京はせかせかして時間が早く流れる。そやから老ける速度が早いのや」

 新説誕生。ひょっとしてこれはノーベル賞もの?
 いやいやこれにはからくりがあります。
 たしかに小学校(京都)の同窓会に出席した女性は平均すると若々しかった。
 けれどもそれは若々しい人だけが出席したのであって、老けた人はこなかった。欠席者でじゅうぶん老けた女性を私は何人か知っている。
校歌斉唱 
 ところが関東は老けた人もかまわず出席する。これは「開き直り」の差ではないか。
 京都の女性は体裁をかまうのに対して、関東の女性はかまわない。それに服装や髪型など、関東のほうが個性的(奇抜?)だった。なかには杖をついてくる女性もいた。
 それからして、人の目は気にしてないと見ました。
二次会 
 「京都と東京では流れる時間が違う」という取手の友の説に対して、「京都の女性は体裁をかまうが、関東はかまわない」というのが私の説。
 どちらを取るかは読者にお任せします。
 
 ただし女性の好みをいえば関東。わかりやすいから。
2015.10.24 いも街道再び
 一昨日(10/22)再びケヤキ並木通り(通称いも街道)へ。
いも街道の表示 
 前回はこの地の名産「紅赤」はまだ出荷されてなかったのですが、もうそろそろいいだろう。
 生憎店頭にはなかったのですが、「必ず届けます」とのことで、二年前大怪我で入院したとき、さんざん世話になった恩人(息子)向けに発送しました。
イモの販売所 
 おや?
 喫茶店の店頭にハロウィンのデコレーションが置かれてました。
 なるほど、カボチャのくり抜きなんて農家ではお手のものだろうよ。
喫茶店 ハロウィンのデコレーション
 ここは前回入ろうとして、満員だったため断念したところ。
 「バカな。こんな田舎の、しかも農家のなかの喫茶店で、なにが満員だ」
 笑わせるなという思いと、なぜだという思い、なんとも複雑でした。

 この日は平日で、しかも夕方。
 案の定、客は(私以外)なし。
 だろうな、こんなところに客などくるわけがない。
店内① 
 内装はウッディ調でシートもゆったり。しかも、もうひとつ部屋があることに気づきました。
 それでも満員だったとはなあ。
店内② 
 コーヒーはサイフォンで淹れる本格的なもの。(イモが原料ではなかった)
 店内はジャズが流れてなかなかの雰囲気。
コーヒー 
 しかし、いかんせん農家の敷地内。
 外を見ても港が見えるわけでもなく、きれいなおネエちゃんが通るわけでもない。
 農家のおばさん?
 それはそれで味わい深いものかもしれませんが……。

 それにしてもそこを出て、自転車で帰る田舎道のなんと侘しかったことか。
 一昨日(10/21)は久しぶりに南方に足を延ばし、所沢の南端に行ってきました。
 柳瀬川の北側に金山緑地公園というのがあります。
 川が境界線なら所沢市(埼玉県)ですが、ここは清瀬市(東京都)の管轄。
 その東側にある金山調整池も清瀬市。(かなり所沢に食い込んでいるのに)
調節池 
 ここは東京都による柳瀬川の改修工事の一環として洪水対策を目的に平成6年に整備されたもので、河川が増水すると水が調節池に入り、溜まった水は河川が減水してから排水するという仕組みです。

 それよりもここは格好の散歩コースとして多くのお年寄りが歩いて(徘徊して?)おられる。
 徘徊には清瀬も所沢もない中立地帯(エルサレムか!)。
カメラを構える人たち  
 おや?
 池のほとりで数人のおじさんたちがカメラを構えて待機。それも超望遠の立派なカメラだ。
 コンデジの当方のなんとみすぼらしいことか。

 それでも臆せず、「なにを撮っているのですか」
 すると、「カワセミですよ。ほらほら、あそこに出たみたいですよ」
何を狙っているのか 
 「ほらほら……」といわれても、こちとらその趣味はないので撮らなかったけど、神戸の鳥見男ならよろこぶのかな。

 その調節池から北東に上がったところに大きな花畑があり、一面にコスモスが咲いています。
コスモス畑① コスモス畑②
 「わあ、きれいねえ」
 と老婦人。
 当方より立派なカメラでカシャッ。
コキア 
 思わず気後れしてしまい、看板を撮りました。
 いいこと書いてあるぞ、「人間は我欲のかたまり」だってよ。
こんな看板が 
  貝山緑地を出て、さらに海側へ。
 先ほど展望台から見たオシャレな建物がなんなのか、気になりました。
 近寄ってみると、アイクル?
 横須賀市営のリサイクルプラザです。「容器包装リサイクル法」に基づく施設では国内最大規模だそうです。
謎の建物
 うーん、ホテルや商業施設ではなかったのか。(内心ガックリ)

 受付で案内マップを渡され、2~5階の展示を見ることができます。
廃品がリサイクルされる工程を展示 
 家庭から分別排出された資源ごみを、選別、圧縮、梱包、一時保管をして、リサイクル事業者に引き渡す工程が具体的な展示によって説明されています。
カラスビンのリサイクル 
 2階で機織りをされていた女性グループがいたので聞いてみると、これは「市民工房」といって、趣味のグループだそうです。

 「どこからいらしたのですか?」と聞かれ、「埼玉です」と答えると、
 「えーッ、そんな遠いところから」
 「なーに、横浜まで一本ですから、楽勝ですよ」
ペットボトルからつくられた服 
 「それにしても、なんでまあ、こんなところまで」
 「横須賀の海が好きなんですよ。ヴェルニー公園、観音崎、浦賀……行ってきました」
 「すると、油壷や小網代湾も?」
 「ええ、去年行ってきました」
 「それじゃ、横須賀の人間よりよっぽど詳しいのね」
 「それほどでもありませんが」

 話好きなオバサマたちで、こんな話を延々と。
 アイクルから見た横須賀湾
 「アイクル」とは環境に対する「愛」と「リサイクル」の合成語で、施設の名称を公募したところ小5の女の子の案が採用されたとのこと。
アイクル脇で釣りをする人々
 オバサマたちとの会話で感じたのは、このあたりの人々は津波に対する防災意識が高く、「なにかあったら高いところへ避難する。それも自分だけでなく、周囲の見知らぬ人にも呼びかける」とのこと。
岸壁から見たアイクル 
 この地域の人々がよそ者に対して親切(?)なのは、このあたりにヒントがあるのではないか。
 そんなことを考えながら、そこをあとにしました。
岸壁から見た横須賀港 
 写真はアイクルのさらに東端から見た横須賀港。
 夏島貝塚通りに出ました。
 この通りは追浜駅から東に延びる道ですが、その先の夏島町(日産自動車テストコースの手前)に縄文時代初期の夏島貝塚があることから、この名がつけられています。
夏島貝塚通り 
 ちょうど昼飯時だったので、まずは腹ごしらえ。
 近くの定食屋で「穴子天丼」を食しました。
穴子天丼 
 そこを出て、一路東へ。
 貝塚の探索は横須賀在住のブロガーさんにお任せして、当方は貝山緑地に。
貝山緑地入口
 この辺りは横須賀海軍航空隊、海軍航空技術廠、追浜飛行場と海軍航空の一大拠点であった場所であり、日本の海軍航空発祥の地です。
予科練誕生の地・記念碑  
 説明書きによると、ここには地下壕が掘られ、戦闘機制作の工場や格納庫(掩体壕)がつくられていたとのこと。
海軍航空発祥の地・記念碑 
 緑地内には予科練誕生之地記念碑や海軍航空発祥の地の記念碑があります。

 それらを巡っていると、「ここ、初めてなの?」
 と話しかけてきたジャージー姿のおじさん。
 「ここは展望台以外なにもないよ。展望台は上へ上へと登っていけばいいんだよ。じゃ、お気をつけて」
展望台へ行く道 
 この追浜地区にきて感じたことは、「ここの住民は旅人(よそ者)に対して実に親切である」

 駅の近くでは法福寺の場所を丁寧に教えてくれた強面(?)のオヤジ、観音寺の場所を古めかしい日本語で説明してくれた老人、そして官修墓地の場所をわざわざ山道を歩いて案内してくれた老婦人。
 さらに深浦湾の遊歩道では、「歩いてこられたのですか」と声をかけてくれた地元の人。

 もっとも、怪しいヤツには先手を打って声をかけておこう、との警戒心が働いている(?)のかもしれないけど……。
展望台
 そうこうしているうちに展望台に着きました。
 ここからは北方に野島が見えます。
 勝手知ったる野島が近いというのは、なんとも心強い。
展望台からの眺め・向かいは野島 
 東方は横須賀港。
 手前にはシャレた建物。ホテルか、あるいは商業施設か。
 「あそこなら海を見ながらコーヒーを飲める喫茶店でもあるのではないか」
展望台から見る横須賀港 
 そんなことを思いながら、砲台跡まで足を伸ばしてそこを辞しました。
砲台跡 
 (深浦湾の続きです)
 深浦湾を北上すると追浜トンネルに。
 ここは明治45年(1912)につくられ、当時は「鉈(なた)切トンネル」と呼ばれていたのですが、昭和8年(1933)に改修され、追浜トンネルと名前が変わりました。
追浜トンネル 
 そのトンネルの手前に「官修墓地」の道標があるので、そこを上りました。かなり険しい階段と坂道。
トンネルの手前の標識 険しい山道
 それでもどんどん進むと、所どころに人家があり、そこを通るとまた急な上り階段。
 そこを上がると見晴らしのいい高台に。あれッ、墓地は?
見晴らしのいいところに 
 そこで近くにいた年配の女性に尋ねると、「ここではなくて、もっと下です」
 と案内されました。200mほどの山道を歩いてもらって申しわけない。当人は「散歩の途中ですから」といってましたが。

 官修墓地は荒れた草むらのなかにありました。
 解説板によると、この墓地は西南戦争(明治10年=1877)に出征した政府軍兵士の墓。
 「この戦役で負傷した兵士が帰ってくる途中、船内でコレラが発生し、数人が亡くなり、そのうち遺族不明の48名の遺骨を政府がここに埋葬した」とのこと。
官修墓地 
 圧倒的に水夫(船員?)が多い。政府軍の兵士といえども、劣悪な環境に置かれていたんだな。
 西南戦争は我が国最後の内戦。この戦役で西郷軍は滅びましたが、政府軍も6200人以上の死者が出たとのこと。
 両軍の犠牲者に対して手を合わせました。
墓標 
 先ほどの老婦人の話では、毎年4月の慰霊祭になると墓地はきれいに清掃されるのですが、それが過ぎると放置されるそうです。

 墓参を終えて再び高台へ。
 ここからは、追浜駅から東に延びる夏島貝塚通りが見えます。
 まっすぐ(北)進むと平潟湾、右(東)に進むと横須賀の海。
浦郷高台から見る景色。正面は横須賀スタジアム。小高い山は野島。 
 時間はまだある。東へ行こう。
 と尾根伝いを下に向かいました。この尾根の両側はコンクリートづくり。
 風情はないけど、崩落の怖れを考えるとやむを得ないのか。
浦郷高台の尾根道 
 それにしてもこの地域は予想外に山が多い。
 横須賀市はトンネルの多いところで120基あるといわれていますが、なかでも追浜地区は16基もあるそうです。
2015.10.19 川越まつり
 昨日(10/18)は川越まつりを観てきました。
 昨年は行かなかったけど、これで3回目。

 川越まつりは360年以上も続く由緒ある祭事で、29基の山車が市内を巡行する盛大な催し。
 2日間で80万以上の人出があるとのことですが、昨日の人ではおそらくそれ以上?
大勢の人 
 祭りの呼び物は市街地のあちこちで山車同士が接近する「曳っかわせ」
 どこかの祭りのように接近しても衝突するようなことにはなりません。
 お互い♪テンテケ、テンテケ、ピヒャラ、ピーヒャラのお囃子に合わせて、おかめ、ひょっとこ、天狐、獅子が踊りを披露。
曳っかわせ 4基の曳っかわせ
 いわばエールの交歓。ジャズの演奏にも通じるものがあります。(↑写真はいずれも3年前)

 ただしこれが盛り上がるのは夕方なので、それまでの間、他のスナップ写真を。
 やはり和服姿の女性には目を引かれます。
和服姿の娘さんたち 
 あとは食べ物の屋台。イカ焼き、コロッケに人気がありました。
イカ焼きに長蛇の列 コロッケにも人気
 女性がなめているのは川越特産の芋(紅赤?)ソフトクリーム。
芋ソフトクリーム 
 そうこうしている間に、豆屋さんの角で2基の山車が接近しての曳っかわせ。
 まだ早い時間帯なので、今ひとつ盛り上がらなかったけど、山車の車輪を小刻みに動かすときは、係の人がテコで車輪を動かすことがわかりました。
今年の曳っかわせ これで車輪を小刻みに回す
 祭りが佳境に入るのはもっと先ですが、この人混みには耐えられないので、これで退散しました。
2015.10.18 深浦湾を歩く
 正観寺から浦郷公園に出ました。
 なんの変哲もない公園ですが、横切れば海に出られるのが唯一の取柄(悪いネ)のような公園。
浦郷公園 
 おおッ。
 公園を出たとたん、目の前に広がった深浦湾。白いヨットが整然と並んでいます。
深浦湾 
 ここは深浦ボートパーク(榎戸湊)といって、一種の臨海公園。
 ボードデッキを歩くのもよし、ベンチに座って湾を眺めるのもよし。
 波穏やかで、水もきれいだ。
 ふーむ、こんなところで日なが一日過ごすのもいいか。
ボードウォーク 
 そうはいっても、こちとら一所にじっとしてられない性分なので、ボードデッキを湾の奥(のど元)に向かって歩きました。
 ヨットだけではなく、モーターボートや漁船なども係留されています。
係留されているヨット 桟橋 モーターボート
 おや?
 遊歩道はそれほど広くなく、堤防の上にすぐ家が建てられています。
 しかも各家の出入り口は海側になく、玄関は反対側に。
 敢えてこのようなつくりにしていると思われますが、これがすっきり効果をあげています。
海辺の住宅 
 以前湘南(七里ガ浜)に住んでた友人がいますが、海の眺めはいいけど、水道管など金属類がすぐ錆びるそうです。(自転車も)
 「ここなんか潮風をもろに受けるだけに、塩害(?)も大変なのだろうな」
 そんなことを思いながら、深浦湾ののど元へ。
のど元から見る深浦湾 
 湾や入り江はのど元からの景観がいいのですが、生憎この時間帯は逆光。
 それもまたよし。なかなかの風情です。
対岸から見た住宅 
 海っぺりの住宅も反対側から見ると整然としていて可愛らしい。
 ヴェルニー公園、観音崎、小網代湾……横須賀にはいろんな海があります。
 ここもそのひとつかな。
 豊海稲荷を南に進みました。
 この辺りは山に囲まれているからか、交差する道路のすぐ向こうにトンネルがあったり、急な上り坂になっていたりと起伏が激しいのが特徴。
右側の住宅にご注目あれ 
 「おや、あの建物は?」
 角の白い建物ではなく、その右側の住宅群にご注目あれ。
 コンクリートの足場の上に住宅が建っています。1階はガレージ。そこから階段を上って家に入ります。というのもここは崖沿いの家。
 見晴らしはいいけど、高所恐怖症だと住めないだろうな。
崖沿い住宅 
 そんなことを考えているうち、道を間違えた?
 そこで出てきたお年寄りに「観音寺はどう行けばいいのですか?」と尋ねると、
 「行きすぎましたな。ここにくる前にトンネルがありましたろう。その手前に小さな登り口があるので、それをどんどん登ればいいのです」
 と丁寧な説明。
急な坂道 
 いわれた通り、石段と急な坂道を上へ上へと登りました。
 単なる山道ではなく、住宅もあります。この辺りに住む子どもは大変だなあ。
 「ワシら、通学では難儀したんやで」とボヤいていた同級生がいたけど、ここはあんなものではないぞ。
観音寺・本堂  水子地蔵
 そうこうしているうちに観音寺へ。
 車など入れない。自転車も無理。山号は坂中山(そのままやないか)。浄土宗のお寺です。
 水子供養も有名なところらしく、水子地蔵がありました。
 ここからの風景は「浦郷八景」のひとつに入るほど美しいとのことですが、今は建物も増え、それほどでもありません。
観音寺境内から見た景色
 
 京急が出しているガイドマップでは尾根伝いに降りる道があるようですが、迷うと困るので元きた道をもどり、トンネルをくぐりました。
 このトンネルは「筒井トンネル」といって、明治38年につくられたもの。狭いので入口には「先入車優先」の表示板が。
筒井トンネル 
 これを抜けると能永寺。山号は楽浦山。時宗。本尊は阿弥陀如来。
能永寺 
 そして高台にある正観寺。山号は医王山。浄土宗。本尊は阿弥陀如来。
正観寺 
 「なんだ、追浜といいながらこれまで寺社と山ばかりじゃないか。浜はどこにある」
 との不満が聞こえてきそうですが、この正観寺の境内にきて、ようやく海が見えてきました。
 よろこぺ、海はもうすぐ。
境内から見る深浦湾
 昨日(10/15)午前8時25分。京急追浜駅(横須賀市)に着きました。
 「おいはま」ではなく、「おっぱま」と読みます。
 地名の由来には諸説ありますが、源範頼が兄頼朝に追われてこの浜で討たれたから、という説が有力のようです。
追浜駅 
 まず最初に行ったのは、駅の北にある雷(いかづち)神社。
 創建は931年。雨乞いの神様が起源とか。
 当初は築島地区(追浜町3丁目)にありましたが、天正9年(1581)に現在地に移されました。
雷神社・鳥居 雷神社・本殿
 境内には戦没者の慰霊碑や浜空神社(前身は追浜海軍航空隊の守護神であった鳥船神社)もあります。
境内の大イチョウ 
 雷神社の近くに傍示堂(ほうじどう)という小さなお堂が建てられています。
 説明書によると、この辺りは武蔵と相模の国境で、隣村から悪人や病気が入ることを防ぐ意味も込めてつくられたのがこの地蔵様らしい。
国道沿いの傍示堂 
 現在ではさすがに悪人や病気除けの役割はありませんが、ここは国道16号線沿い、車の通行量も多く、交通安全を祈って地元の人たちから信仰を集めていると思われます。
傍示堂 
 さらに近くには法福寺という寺院があります。山号は蒲谷山。日蓮宗。
 立て続けに寺社を訪れたので、さしたる印象はありませんが、迷っていたら強面のオジサンに話しかけられ、「ああ、そのお寺なら」と丁寧に説明してくれました。
法福寺山門 
 見かけで判断してはいけない、というかこの地域の人は親切だということが(後に)わかりました。
法福寺。ご本尊 
 次に向かったのは豊海稲荷。
 小さいながらも幟がたくさん立っていて、地元の信仰を集めていることがわかります。
 私は先月、その大元締めである伏見稲荷大社を参ってきたので稲荷神社には親近感を覚えます。
豊海稲荷・鳥居 
 正式名称は「正一位豊海稲荷大明神」といい、豊漁を祈願していたと思われます。
祠 
 大宮第二公園の西側に小さな川(ドブ川?)が流れています。
 これは見沼用水西線(見沼代用水路西縁)といって、江戸時代灌漑用につくられた水路のこと。
万葉親水公園
 この用水路沿いに遊歩道があって、水車を回しています。浅い水路で水遊びもできるようになっています。
 これを「万葉親水公園」といいます。
水車 
 ふーむ、これがなぜ「万葉」なのか。名づけるのは勝手ですが……。

 さらに上流を遡ると「万葉の並木道」の石碑。
 どうせなら「人生の並木道」(♪泣くな妹よ 妹よなくな……?)と名づけてほしかったけど、大宮の御仁はよほど万葉集が好きなのか。
万葉の並木道の石碑 
 説明書きによると、この並木には万葉集に詠まれた草花が植栽されているとのこと

 由緒ある見沼用水路には、万葉人が親しんだ草木こそ相応しいとの主旨のようです。
見沼用水西線 
 そういわれるとなんとなくわかったような。

 「瓜食めば我が子を想う……」
 これは万葉集じゃなかったっけ(違うかもしれません)。
並木道 
 そんなことを考えながら、並木道を歩いて行くと、その外れのところに小じゃれたベーカリー。
 ふーむ、これも万葉の心が込められているのか。
ベーカリー 
 「パン食えば我が子を想う……」
 これも違うかな。
  パン屋さんには寄らなかったけど。
 昨日(10/13)は新座まで足を伸ばし、野火止用水跡の緑地帯を見てきました。
 野火止用水(のびどめようすい)とは 、立川市(東京都)の玉川上水か新座市を通り、新河岸川(志木市)に続く用水路のこと。全長約25km。
野火止緑地 
 かつてこの地は関東ローム層の乾燥した武蔵野台地が広がり、生活用水に難渋していましたが、江戸幕府によって上水工事が行われたため、農地開発が進みました。

 上水開発にあたったのが老中でもあった川越藩の松平信綱(伊豆守)。
 そのため近郊の人々はこの用水を「伊豆殿堀」と呼ぶようになりました。実際に「伊豆殿橋」という橋もあります。
伊豆殿橋 
 老中松平信綱は島原の乱を鎮圧し、お庭番(裏柳生の忍者)を使って反幕府勢力の情報収集し、弱らせるための権謀術数を用いたので別名「知恵伊豆」と呼ばれた人物。あまりいいイメージはなかったのですが、領民には善政を施したため地元では今なお敬愛されています。
カラスの捕獲檻 
 野火止用水は水道の普及によってその役割を失い、また水質汚染も激しくなり、暗渠化が進みましたが、埼玉県と新座市は「野火止用水を滅ぼしてはならない」と用水路の浚渫や氾濫防止のための流末処理対策を実施し、1984年水流が復活しました。
 そしてその周辺は緑地帯になっています。
現在の野火止用水 
 現在の野火止用水は新座市をほぼ縦断するように流れていますが、この日私が行ったのは平林寺裏の野火止緑地。
 その脇に幅1mほど、水位の浅い川がチョロチョロと流れています。これが今の野火止用水。

 「いやあ疲れた。清瀬から歩くとけっこうありますなあ」
 「ほんとね。しかも所どころ暗渠になっているから、辿るのに苦労したわよ」
 とは道中知り合った年配者三人組。
 清瀬からというと7~8km? すごい健脚だなあ。
緑地公園にて 
 彼らはここから新座駅まで歩いてJR武蔵野線で帰るらしい。
 この日は晴天で日差しが強かったけど、ときおり秋の風が吹いていました。
 格好のハイキング日和だったのでしょう。

 私も頑張らねば。次の遠出はどこにするかな。
 先日、志木市のコスモス街道(?)のことを取り上げましたが、「たしか山崎公園の先にもあったはず」と思い出し、昨日(10/12)行ってきました。
 山崎公園(富士見市)は我が住まいの近く、別名「せせらぎ菖蒲園」といわれ、6月は菖蒲でにぎわい、当ブログでも何度か取り上げたことがあります。
コスモス街道① 
 そのコスモス街道というのは山崎公園の傍を流れる富士見江川の川沿い。寿橋から木染橋まで約1.2kmの間。
コスモス街道② 
 なるほど、狭い道の両側にコスモスがびっしり。
 しかもやたら人通りが多い(当方もその一員)。ふだんはほとんど人通りがないのに。
急ににぎやかに 
 コスモスはピンクと白。ときどき真っ赤な花もあります。
 歩いても歩いてもコスモス。
コスモスのアップ 
 これは圧巻。
 先日、志木市のコスモスの群れを「コスモス街道」といったけど、あんなものは断じてコスモス街道ではない。これぞコスモス街道。
写真を撮る人 
 とはいえ……。
 当方としては、全部見てやれと寿橋⇔木染橋間を往復しましたが、どこもかしこもコスモスばかり。たまにはキバナコスモスがあったけど、どこも同じ景色でいささか食傷気味。1.2kmは長い。
 つくづく人間は(当方だけ?)勝手なもの。
キバナコスモスも 
 地元の人によると、このようになるまで「コスモスの会ふじみ」の方々が種まきや除草作業に取り組んでこられたそうで、その成果を我われが楽しんでいるというわけ。
 ご苦労様です。誰だ、食傷気味なんていったヤツは?
2015.10.12 大宮第二公園
 一昨日の大宮第三公園に続いて第二公園。
 ここも遊具などは皆無の公園。梅林と日本庭園があり、その奥に広大な窪地。
大宮第二公園 
 中央に池(ひょうたん池)がありますが、これは芝川の調整池。
 調整池とは台風や梅雨前線の大雨のとき、川の氾濫をふせぐために川の水を一時的に溜めて水量を調節する池のこと。
芝川 
 したがってここへきた人は、池の景観を眺めるか、池の周辺を歩くしか楽しみ(?)はない。まさに大人の公園。
大きな木々も 
 説明書きによると、この辺りは見沼という地名でその名の通り沼地が多く、田んぼとして利用されてきたけど、田んぼを廃止してからは調整池になりました。
反対側から見たひょうたん池 
 荒川をはじめ埼玉県の河川には、その流域にいくつかの調整池が見られます。
 これは、これまで水害に遭ってきた歴史が行政に活かされていると考えられます。
ひょうたん池で釣りをする人々 
 翻って先月鬼怒川の氾濫によって水害を受けた茨城県のJ市。
 むろんここにも調整池はあったと思うけど、川床より低い土地に住宅を建てていたといわれています。
堡塁 
 その点ここ大宮は広大な低地にはなにも建てず、住宅地にもせず、ただの公園にしているだけ。
 「もっと有効な土地利用を」という意見には一切耳を貸さない(?)。
 これはこれで立派な施策だと思います。

 なおここは大宮二十景に選ばれています。
 昨日(10/10)の夕方、駅(鶴瀬)周辺が賑わっているので、なにかと思ったら、東口商店会で「夢灯り大市」と銘打って夜店をやってました。
夜店風景 
 そういえば駅にポスターがあった。これのことか。
ポスター 
 場所は駅の東側。ふだんはあまり用はないのですが、どんなものが出ているのかと……。

 ♪ピーヒャラ、ピーヒャラ、テンテケ、テンテケ……お神楽の舞台では赤ちゃんを抱いたおかめがお囃子に合わせて踊り出しました。
お神楽 
 しかしマジメに観ているのは当方ぐらいで、みんな知らん顔。せっかく踊ってるんだから、観てやれよなー。
古書販売 
 大半は焼きそば、お好み焼き、から揚げ、カレーなど、食べ物目当て。
 意外にも綿あめには長蛇の列。
綿あめ(?)に長蛇の列 
 夜店では定番の金魚すくい、スマートボール、ヨーヨーつりはけっこう子どもで賑わってました。
スマートボール ヨーヨーつり
 そういえば私も子どものころ、夜店へ行ったことがあります。
 季節は夏。銀閣寺の疎水べりでした。たこ焼きを食べた記憶があります。
金魚すくい 
 金魚すくいもやりました。
 私はドン臭かったのですぐ紙が破れ、「こんな業者はインチキや」と思ったものですが、友人(我孫子)は手早く数匹をゲット、腕の差を見せつけられました。
焼きそば 
 それも昔。
 今はその風景を外から見るだけ。それもよし。
射的 
 ただし、何回か私の足元で「キャン!」という犬の鳴き声。
 ちっちゃい犬(ダックスフンド?)の足を踏んでました。
 そのたび謝ったけど、飼い主も愛犬をチョロチョロさせるなよ。そもそも人混みに連れてくるのがおかしいと思うけど。
2015.10.10 大宮第三公園
 まずこの断崖絶壁にご注目あれ。
断崖絶壁?
 なにこれ。ミニグランドキャニオン?
 そんなバカな。
 これは「河川低地景観」といって、河川の氾濫によって台地の一部が削り取られ、地層がむき出しになったもの。
といっても超ミニ絶壁 
 ここは大宮第三公園。
 このあたりはもともと見沼田んぼのあったところ。
 それだけにこの景観を残そうと再現したもので、コンクリートで固められています。
 はなはだ興醒めではありますが、これは管理上やむを得ない。
河川景観の再現 
 同公園は大宮第二公園の南側の県道2号線(旧国道16号線)を渡った先にあります。広さは約10ha。オープンしたのは平成13年(2001)。
大宮第三公園入口 
 公園の奥に沼地があり、木道が渡されています。
 しかし芦が生い茂っているので、水がほとんど見えず、沼の実感がない。
 とはいえ、大雨のときは水が溜まって川が氾濫しないよう治水の目的はたしているので、感謝しなければいけない?
沼地の木道 
 さらに奥にはバードウォッチング用の野鳥観察舎があります。
 私が見たときはカラスが「カア、カア」とうるさかった。まあカラスだって野鳥には違いありませんが。
野鳥観察舎 
 広い割にはそれほど特徴のある公園ではありません。
コスモス畑 
  コスモスはきれいでした。
 私の住んでいる地域に通る「ケヤキ並木通り」(県道さいたま・ふじみ野・所沢線)は通称「いも街道」)と呼ばれています。
 通りの両側に約30軒のいも農家があり、直売しているからです。
ケヤキ並木 
 先日、ぶらりとここを徘徊しました。
 この通りは農家と倉庫しかなく、食事処が一軒、「OINO Cafe」なる喫茶店(?)らしき看板がひとつ。
 思えば2年前、とある農家に立ち寄って知人宅へいもを配送したことがありまが、今回は「OINO Cafe」看板に惹かれて、角の農家に入りました。

 入ってみると車がいっぱい止まっていて、奥に進むとイモの販売所。
 喫茶店はその手前の右側にありました。コーヒーの他、カレーライスなど、食事もできるようです。
喫茶店 
 覗いてみると30席ほどの店内は満員。いずれも家族連れ。
 あの車の群れはこれか。
 「すみませんねえ。今日は休日なので。平日だともっと空いているんですよ」
 と愛想のいいおネエさんにいわれては仕方がない。諦めて芋の直売所へ。
収穫されたイモ 
 種類は紅東、なると金時、シルクスウィートなど。サイズはL、M、Sがあり、価格はLが最も高く5㎏―2,500~2,700円。
 この地は「紅赤」という種類が特産ですが、収穫時期は今月の後半とのこと。

 「紅赤ってなかまで赤いのですか?」
 「いえ、名前は紅赤でも、中身は黄色いですよ」
 なかが赤いのはムラサキイモという種類だそうです。失礼しました。
 せっかくなので知人宅になると金時とシルクスウィートを配送しました。
販売用のイモ 
 「いも畑は奥にあるのですか?」
 「そうです。見ますか?」
 ということで、畑を案内してもらいました。

 この地の農家は、住居、畑、林と分かれていますが、最も狭い住居の敷地でも駐車場、倉庫、作業所などがあって、じゅうぶん広い。
先祖代々の墓 
 「あそこに墓があるでしょう。このあたりの農家にはみんな先祖代々の墓があるんです」 
 「いいですねえ、しょっちゅう墓参りできるし。お寺に供養料を払うこともない」
農家の畑 
 今は白菜、ネギが中心だそうです。
 その向こうにキャベツ、ブロッコリーなど。これはほとんど親戚へ配るとか。
 親戚になりたいなあ、今野菜高いから。
 志木市のガイドマップに白色彼岸花の写真を見つけました。場所はいろは橋の近辺。
 同市の新たな観光スポットだそうです。
 それなら一度は行かねばならんかな、と昨日(10/07)徘徊してきました。
いろは橋 
 新河岸川にかかるいろは橋、その左岸を少し下ったところがそうだというのですが、ない。
 白色彼岸花なんてどこにもない。
 よく見ると「ここに白色彼岸花が植えられています」という囲いがあって、花は終わってました。それも道理、彼岸花は彼岸がピーク、今ごろきても遅いんだよ。
新河岸川 
 仕方なく、いろは橋から新河岸川左岸を遡りました。
 ガイドマップにはコスモス街道(長さ1.5㎞、約4,000株)とあります。
コスモス街道① 
 しかし左岸にはなにもない。まだ季節が早い?
 ところが袋橋近くなって反対側(右岸)を見るとコスモスらしい群れが。
 ははあ、ここだな、と反対側に回ってみると、やはりそうでした。
コスモス街道② 
 1.5㎞は大げさ。せいぜい500m。それでもコスモス街道といえなくもない。
自転車もゆっくり 
 多少の不満はありますが、ぜいたくはいえない。これで我慢するしかないのかな。
右は袋橋   
 次に栗東の歴史研究家に案内されたのは大津市の北方、坂本にある西教寺(さいきょうじ)。
 天台真盛宗の総本山で、山号は戒光山、本尊は阿弥陀如来。
 創立者は聖徳太子とする説もあるが不明、室町時代、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛が入寺してから栄えたそうです。(Wikipedia)
境内 
 総門をくぐると、一本の長い参道(上り坂)。左右に六つの子院が並んでいます。広い。
参道 子院
 参道をまっすぐ進むと勅使門に突き当たります。
勅使門 

 その左に宗祖大師殿があり、可愛い少年像が。
 これは宝珠丸といって、宗祖真盛大師の少年時代の像。
 「これがワシの少年時代や」
 「それが今は翁の面被ってるんか」
 「そうや、なにをいわすねん」
宝珠丸(真盛上人の少年時代) 
 奥の小高くなった場所から琵琶湖が見渡せます。
 「今日は曇ってるけど、晴れると琵琶湖の景観がええのやで。この楼門から見る琵琶湖が一幅の絵や。春は桜も見事やし」
楼門から見る琵琶湖 琵琶湖
 さらに高くなったところに本堂。
 ときどき「カーン」と鐘の音が聞こえますが、これはテープではなく、本堂のなかで坊さんが読経の傍ら小さな鐘を叩いています。(見せてもらいました)
本堂 
 ここには明智光秀とその一族の墓があります。
 西教寺は織田信長による比叡山焼き討ちで焼失しました(1571)が、のちに坂本城主となった明智光秀の援助(推定)もあって関係が深く、光秀の死後(おそらく徳川時代になってから)、光秀とその一族の供養塔が建てられました。
明智一族の墓 
 光秀の辞世の句碑があります。
 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
光秀辞世の句 
 「これはな、修行の道には順縁と逆縁とあるが、実はひとつで、人間の心の源に達する大道である。わが五十五年の人生の夢もすべて一元に帰するものだ、という意味や」
 「おう、よう知っとるな。さすがや。……なんや、ここに説明書きがあるやんけ」
 「はははは。ばれたか」
 「せやろな。おかしいと思うたで」

 物知りの歴史研究家の鼻を明かしてやろうと思ったけど、すぐネタがばれました。
 「近くに芭蕉の墓があるお寺があるで。案内したるわ」
 先月、栗東の歴史研究家に案内されて行ったのが滋賀県大津市にある義仲寺(ぎちゅうじ)。
 名の通り木曽義仲公を祀った天台宗系の寺院で、山号は朝日山。本尊は聖観音菩薩。
山門 
 入ってみると意外に境内は狭く、小さなお寺です。
 まずは義仲公のお墓にお参り。続いて巴御前のお墓にも。
義仲の墓 
 説明書きによると、
 「同寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、『われは名も無き女性』と日々供養したことにはじまると伝えられる」
 とのこと。
巴御前の墓
 巴御前は才色兼備の女性なれど武術にも優れた女傑で、粟津の戦い(1184)で義仲公とともに戦死したと思っていたけど、生きていたのか。
 本堂を朝日堂というのは義仲公が朝日将軍と呼ばれていたから。
朝日堂 
 同寺は俳人松尾芭蕉ゆかりの寺でもあり、お墓もあります。
 芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、たびたびこの地に滞在し、無名庵で句会も盛んに行われたそうです。
境内 
 「芭蕉が亡くなったのは大坂ですが、この地が好きで、ここに埋めてほしいとの遺言でお墓が建てられたんですよ」
 と境内で知り合った老夫婦に教えてもらいました。
芭蕉の墓 
 境内には、弟子の又玄(ゆうげん)による「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑があります。

 見回すと境内の至るところに句碑が建てられています。
 有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑も。さすが芭蕉ゆかりの寺。
古池や…の歌碑 
 老夫婦によると、大阪御堂筋に「松尾芭蕉終焉の地」の記念碑があるそうです。
 今度行ってみようかな。
 考えてみたら、ここは前の晩も前夜祭できた店。
 それを思い出すとまた振り出しに戻ったような気になりました。
 兵庫県の農夫と大阪の筋肉男はまだ飲み(話し?)足らんような感じでしたが、私はもういい、彼らを送り届けて辞すつもりでした。
 しかし、「まあ、ええやんけ」といわれ、仕方なくウーロン茶を。

 私としてはつき合いきれないので、この際取手の友と引き合わせてやれ、と電話。
 「悪いな、今また近○の店にきとんのや。きてくれるか」
 「うん、行くわ」
 彼は三次会として女性グループをここへ連れてきたのですが、彼女たちを送って(京都の家に)帰るところでしたが、私の要請にふたつ返事できてくれました。

 「しかし今日はおもろかったなあ。(同窓会をやってくれた)キミに感謝や」
 「いや、こっちこそ。キミがきてくれたおかげで、同窓会が盛り上がった」
 彼と女子高教師はクラスでの存在感は大きかったものの、消息がつかめなかっただけに、出席者は大感激。私としては土産物を届けた気分でした。
 とくに大阪の筋肉男は感慨もひとしおだったようで、「こんな感激した同窓会はない」
お好み焼き屋にて 
 カウンター席なので横一列、奥から農夫、取手、私、大阪の筋肉男、鳥見男の順にならびました。
 「考えてみたら、この三人(鳥見男と私)は男ヤモメやなあ」と君肉男。
 「寂しいことないのん?」とカウンターの向こうから女将。
 「なにも寂しいことなんかあらへん」

 「しかしなあ、死なれたときの喪失感は大きかったで。オレはなにもしてやれんかった、と自分を責め続けた」
 「ええ奥さんやったんやなあ」
 「うん、今から思えばええ女やった」
 「ほんなら幸せやったやんか」
 「まあな」

 「ワシなんかあかんな。女房に死なれたら、ひとりでよう生きていけんわ。ワシが先逝くで」
 「先逝ったもん勝ちやな」
 「いや、そうともいえん。生きてたらええこともある。こうして再会もできるし」
 「ほんま、長生きはするもんや」

 そんなことを話しながら、夜は更けていきました。
 私は同窓会の流れで、最後までつき合ったのは初めて。
 いやではないけど、散会してからのことを考えるともういいかな。

 「こんなディープなことを話すとは思わんかった。これも小学校の同窓会やからかな」
 ぽつりとつぶやいた筋肉男のことばが頭に残りました。
 二次会はほとんどのひとが飲み物一杯だけで、話に夢中になり、2時間ほど経ってようやくお開き。
 誰かが「カラオケ行こう!」といい、兵庫の農夫が「よし、行こう」
 意外でした。この男とは卒業以来数年に一回の割で交流を続けてきましたが、音楽は苦手なはずでした。音楽の話などしたことなかったし。

 この男と大阪の筋肉男が妙に共鳴し、宇治の男と浄土寺の元学級委員、黒服女の6人で、近くのカラオケルームへ。
 私はウーロン茶しか飲まなかったけど、他の5人はチューハイをガンガン。黒服女も強い。

 宇治の男と元学級委員、黒服女は歌いまくり、農夫と筋肉男は語り合いながらときどき歌うという流れに。私はどっちつかず。(それでも「くちなしの花」は歌った)
カラオケルーム① 
 農夫の唄う歌は古い。フランク永井の「夜霧の第二国道」、石原裕次郎「赤いハンカチ」など。(やっぱりなあ)
 歌は苦手だといってた割にはそこそこ歌いこなしている。
 これは電気工事技師として勤めていた(のち自営)ころのつき合い(営業?)で、さんざん歌ったのだなと推測されました。

 黒服女がイルカの「なごり雪」を歌うと、「その歌はかなり最近の歌やろ」
 これには学級委員が「こんなんなにも新しいことあらへんで、30年以上も前の歌や」と学級委員がいう一幕も。

 黒服女とは小中高と同じクラスになったことはなく、ほとんど接点はなかったのですが、私が幹事をやるようになってからは、他の同窓生の消息を教えてくれるなど、陰で協力してくれました。
 けっして美人ではないけど、愛嬌があって可愛い。
 その魅力が発見できたのも収穫(?)でした。
カラオケルーム② 
 このカラオケルームは5時半から入り、2時間のはずが1時間延長して結局出たのは8時半。
 そこで一応解散になったのですが、兵庫の農夫が、「まだ飲み足りん。もう一軒行こう」といえば、大阪の筋肉男がそれに呼応して、「そや、近○の店へ行こう」

 近○(女)とはやはり同窓生。北白川の外れでお好み焼き屋をやっていて、今や中学の同窓生のたまり場になっています。この日も二次会のあと数人が彼女の店に行きました。

 私は彼らにつき合う気はなく、場所を教えるだけにして、京都駅近くの簡易宿泊施設で早く休みたかったのですが、農夫に「お前、案内せえ」といわれ、この男の命令には逆らえずタクシーに同乗。

 近○の店に着いたときは9時を回り、すでに同窓会のグループは帰った後でしたが、一乗寺の鳥見男(彼は小学校は違うものの中高の同窓生)が残っていて、「お疲れさん」
 またしても宴(四次会?)が始まりました。

 歓談会で半世紀ぶりに会ったY君。「ようきてくれた」と声をかけたら、
 「感謝されるほどのことはない。オレがいちばん近くに住んでんのや」
 (会場とは同じ町内です)

 この男は中学時代はワルだったのですが、今はボーッとして物静かなジジイ。
 「○○(私)君? そんなヤツおったかな」
 半分ボケとる。
 いろいろ関連した人物やエピソードなどを挙げると、「そうや、そんなこともあったな」
 ワルにはワルなりの一家言があるのかと思ったらなにも出てこず、拍子抜けしました。

 そのあと、中学校の同窓会では顔を見せず、初お目見えの人物があいさつしました。
 皮切りは兵庫県の農夫。彼は長々と自分のルーツを説明。
 「長いぞ」と同時に「えらいおとなしなったやないか」とのヤジが。
 おとなしくなったとは、当時の彼は傍若無人で態度が大きくブイブイいわせてたから。

 歓談会の終わり近くになって、進行係が「今日は本当に楽しい同窓会でした。これが我われ初めての同窓会です。次回もやりたいひとはご起立ください」というと、ほぼ全員が起立。
 (これはその場の空気でそうなります)

 歓談会(一次会)を終えて、みんなで三々五々、二次会会場へ。
 こちらは会場の後始末と支払いがあるので、取手の友と残りました。
 「早う行こ、みんなが待っとるで」
 「その前に荷物を整理したい。この服(黒の上下)も着替えたいし」
 駐車場に止めてあった彼の車に荷物を運び、手早く着替えて二次会会場である百万遍の喫茶店へ。
二次会 
 二次会の会場では、長いテーブルふたつにそれぞれ10人ずつ席に着き、雑談してました。
 「遅いで」
 「悪い、悪い」

 喫煙席(?)の側には兵庫の農夫と武蔵野の元女子高教師、大阪の筋肉男、京都の自転車男を中心に雑談してました。
 「いやあ、面白いなあ。中学では会えなかったひとがきてるし」
 「おタクは女子高の先生やってはったんですか。ええ仕事ですねえ」
 「わははは、こいつやからやっていけるんで、お前のようなヤツはあかんで。すぐ手ェ出すから」
 「そういうキミはなんや」
 「オレなんか、もろ宝の山に入った気分や。わははは」

 兵庫県の農夫と武蔵野の元女子高教師は私とは交流があったものの、みんなからは消息のつかめなかった人物。
 4年前の中学の同窓会で小学校の学級委員と再会したとき、「同窓会をやったら、このふたりを連れてくる」といったことがあります。
 しかしその後学級委員が放り出したため、関東の当方がやらざるを得なくなり、今日に至りました。「同窓会にふたりを連れてくる」という当初の目的はこれで達せられたことになります。
       
 別の席では、足を怪我したので欠席したいといっていた山科の喫茶店マダム、取手の友の申し出を断り、タクシーで会場に駆けつけ、さらに二次会まで歩いてきました。
 そのマダムは三重県のパティシェ学校の学長先生からケーキの焼き方を教えてもらって、懸命にノートをとってました。無理して出席した甲斐(?)があったというもの。

 私はボーッと彼らの雑談を聞いているだけ。
 こちらとしてはやるだけのことはやった。あとはみんなが楽しんでくれればそれでいい、そんな心境でした。
 12時近くなって、受付も滞りなく進んでいるように思えたのですが、「あとひとり、きとらん」
 きてないのはNさん。

 このひとは一部では死亡説もあり、私が別のルートから探し出したひとだけに私しか連絡先は知らない。すぐ携帯に電話しました。すると間延びした声で、「今小学校にきてますゥ」
 「もう始まってるで、こっちへこんと」
 「そやかて、場所わからへん」
 「そこから東一条方向にまっすぐ歩いてきたらええんや。ぼくが迎えに行く」
 私も飛び出しました。
集合写真 
 東一条から西に歩いて、道の両側こっちへ歩いてくるひとに目を配りました。しかしそれらしき女性はなし。
 歩いても歩いても一向にこない。変だな。
 このときになって、東一条から小学校までが意外に長いことに気がつきました。

 そして半分以上歩いたころ、向こう側から日傘を差した和服姿の女性が歩いてきました。
 「おッ、Nさん」
 「あら、お久しぶり」
 ということで、ふたりで話しながら会場へ。
雑談風景① 
 「あなたの書いた『ちえの王様』、今でも覚えてるで。あれはよかった」
 「ええッ、私、そんなん書いたん?」
 「なんや、書いた当人が覚えとらんのか。その後、絵本なんか見たけど、あれは完全なオリジナルやった。だからてっきり脚本家の道に進んだとばかり思うてた」
 当人が覚えてないというので、こちらはストーリーを話し、わが子が小さいころ、絵本の読み聞かせのついでにこの話をしてやったことも話しました。当人は「へーッ」というばかり。

 このひとには学芸会の劇のことを是非話したかったので、今回の目的の大半(?)は果たされました。(あとはオマケ?)

 会場に戻ると、集合写真を撮るのにみんな待っていて、「早う、早う」とせかされて前列中央の席へ。(撮影時間に待たされたのは大ブーイングだったそうです)
雑談風景② 
 こちらの気持ちが落ち着く間もなく、みんな席に着いて進行係が開始のあいさつ。
 そして私が幹事としての同窓会開催のあいさつ。

 いうことは大体決めていて、開催に至った経緯を手短に述べるつもりだったのですが、いざ話してみるとなにを話していいのかことばが出てこず、「これはいかん」と焦りながらも、
 「小学校の同窓会の是非を問うアンケートを出したところ、『中学の同窓会と同じ顔ぶれなので意味はない』という意見が寄せられ、これに猛反発してやってきた。今回の参加者は30人。多いか少ないかわからないけど、これまで出てこなかった人も数人参加している」
 ということを述べました。
記念撮影 
 あとは所沢女史による乾杯のあいさつで食事・歓談会に。
 こちらは食欲もなく、なにをしてよいのかもわからなかったので、参加者の一人ひとりに礼を述べようとしましたが、人によって長話になったり、他の人の歓談を中断してはいかんかな、と思ったりして、すべて網羅することはできなかったと思います。