翌26日(土)同窓会当日は朝4時に目が覚めました。
 宿泊したのは同窓会会場の別館のホテルです。
 開催は12時。受付は11時30分からですが、準備をする必要があります。
東一条 
 その前に朝食を……と思って外へ出たら、丁度取手の友に会い、コンビニでパンを買って、部屋で最終打ち合わせ。
 そうこうしている間にレストランの方が会場を設営してくれたので、席の番号を振り、受付の設営。
 10時30分近くなったので、「行ってくるわ」と集合場所の母校に。
会場のレストラン 
 正門前にはすでに同窓生が集まり、あちこちで雑談してました。
 初めて会ったという同窓生も多く、
 「おう、生きとったか」
 「しばらく会わんと死んだと思われるからきたんや」

 当日は運動会。見学は自由とはいえ、わけのわからん年配者たちがぞろぞろと入っては不審である、ということで「同窓会」と書いたシールを貼らされました。
 「しかし校舎も変わったなあ。当時とはまったく違うで」
ロビー 
 女性数人から「立ってるのが疲れたから、もう会場に行っていいですか」といわれ、三々五々会場へ。
……………………………………………………………………………………
 開催にあたって

 私たちの小学生時代は貧しく、なにもなかったけど、元気に遊びまわっていました。
 毎日がなんと新鮮で活き活きとしていたことか。

 あれから半世紀以上の歳月が流れました。
 姿・形は変わっても、当時の仲間と再会すれば、あのころの精神は必ず蘇る……。
 そんな思いを込めてこの度、同窓会を開催しました。

 平成27年9月26日
              昭和○年度卒業生      ○○ 京一郎
……………………………………………………………………………………

 これがリーフレット(出席者名簿)に記したことばです。
 受付は11時30分とのことでしたが、前倒しし、無事進行しているように思えました。
ロビーにて 
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 今月の25~27日、京都に行ってました。
 取手の友の車で京都に入ったのは25日(金)の夕方。同窓会の前日です。
 途中の栗東(滋賀県)で歴史研究家(中学の同窓生)と合流し、3人で向かったのは北白川のお好み焼き店。
 我孫子の友が所沢女史とともに「あそこで前夜祭をやろう」と提唱していたからです。

 実はこのお好み焼き店の女将は小学校の同窓生。
 小学校のころは金太郎さんみたいな女の子でしたが、成人して「いい女」になりました。
 といっても今は「お婆さん」ですが。(奇しくも私と誕生日が一緒)
お好み焼き屋の女将と我孫子 
 「おう!」
 入るなり、入口の席に白髪の男。中学の同窓生です。
 前回は中学のクラスの同窓会で会ったので、ほとんど30年ぶり。
 「元気やったか」
 「いや、このところ体調を崩してな。ようやく回復した」
 「それはよかった。このところどんどんあっちへ行く人間が多くなって」
 「あっちのほうが賑やかかもしれんな」
中学時代の同窓生② 
 そんなことを話していると、ガラリと戸が開き「お待っとさん」(我孫子です)
 「おう、ええ役者はあとから出てくる」
 「もちろんや」
 「腹引っ込めたらええ役者なんやけどな」(所沢女)
 「それをいうなて」

 私が白髪男と昔話に興じているとき、向こうでは我孫子と一乗寺の鳥見男、栗東の歴史研究家などが他愛もないエロ話に。
 「そもそもワシがスケベになったのはあいつ(私)のせいや。小5のとき『ええもん見せたるわ』とあいつの家の行李にあった春画を見せられたんや。大人ってこんなことするんか、とショックで……」(我孫子)
中学時代の同窓生① 
 「ショックを受けた割には、それを肯定してスケベになったんやろ」(取手)
 「そうや。しかしあいつアホやで。それを全部燃やしよったんや」
 「それはいかんな。貴重な日本の文化財を勝手に燃やすとは」
 「そやろ。そやからあいつはアホなんや」

 「それがのちにエロ本の編集やるとはな。あれがあったらどんだけ仕事に役立ったか」
 「ほんまに、先見の明のないヤッちゃ」
 私をボロクソにコキ下しました。

 まったく、前夜祭というのは幹事をボロクソにけなす集まりかい。

 出張校正での作業は煩雑で責任重大ですが、同時に楽しいこともあります。
 会社から離れているので、社長や営業の連中もいないため、解放された気分になります。
 直属の上司(編集長)はいますが、その編集長にしてもどことなくリラックスしていました。
   

 それに印刷所からすれば我われはお客さん。お茶はもちろん、昼食が出ました。といっても近所の食堂のランチですが。
 遅くなると夕食も出ました。当時独身のF君は「これは助かる」とよろこんでいました。
        
 F君はお茶を運んでくる女子社員の名前を片っ端から聞いてはリストアップし、勝手にランキングをつくりました。
 いかにも編集者がやりそうなことですが、それ以上には発展せず、可愛いものでした。
    

 ゲラ刷りが出るまで時間がかかるときは、印刷所の営業マンとチンチロリンをやったこともありました。これについては以前「チンチロリン」で述べた通りです。
   

 それよりも私が楽しかったのは、他の編集者と呉越同舟することです。
 作業の基本は同じですが、二校、三校をとったり、大声で読みあげたり、やり方はそれぞれ違い、興味をそそられました。
    

 私たちのとなりのブースは「週刊ベースボール」でした。
 顔を合わせれば互いにあいさつする程度でしたが、彼ら同士のやりとりにときどき吹き出すことがありました。
  
 「今年のカープは優勝に急カープ。よし、これで行こう。がははは」
  野球評論家の千葉茂さんでした。
  校正というより、コラムの川柳を担当していたようです。
   

 「往年の巨人の強打者がなあ……」
  巨人ファンのF君がぼやきました。
 「この前なんか鼻提灯出して居眠りしてたよ。こんなボロい印刷所にくすぶるとは。人間落ちぶれたくないなあ」
         
 もっとも千葉茂さんはのちに野球殿堂入りし、2002年に他界されました。
 人間というのは臥薪嘗胆する時期があるものだ、と思い知らされました。
           

 印刷所は飯田橋から九段方向に下りたところ、昔の貨物線「飯田町駅」の近くにありました。
 歩くとミシミシ揺れるバラックでした。
 こんなところによく活字棒や印刷機械など、重いものを置いていたなと思うとぞっとします。
 今なら違反建築でしょう。飯田町駅の廃止とともになくなったと聞きました。(参照
    
 今ではほとんどオフセット印刷に変わり、原稿にしてもPCのワードでやりとりし、それをPCのレイアウト画面に流し込み、それがそのまま版下になる時代。
 あの膨大な活字の棒や、文選・植字の職人技は今となっては無用の長物ですが、出張校正の楽しみは味わえないでしょう。
     

 ※このシリーズは旧ブログ2011/06/22~24に投稿した記事をリメークしたものです。

 文字校正に編集者がなぜ印刷所に出向く必要があるのか。
 例えば活版部分のページ数が96p(32の倍数)とすると、ゲラ刷り(初校)は一度に出てくるのではなく、さみだれ式に出てきます。
 校正作業をスムーズに進めるには、編集者が近くにいて、次から次に出てくるゲラ刷りに赤を入れて戻すしかないのです。
          
 オフセットやグラビアの場合、文字は写植(写真植字)を使いますが、図版(写真やイラスト)が誌面の主流を占めるので文字は少なく、いちいち写植屋に行くまでもありません。
 同じ雑誌でもオフセットやグラビア部分は製版・印刷に時間がかかるので先に進め、印刷にそれほど時間のかからない活版は最後の工程になります。
        
 活字の校正ですが、雑誌の場合よほどのことでない限り二校は取らず、なるべく初校で終わらせるため、徹底的にチェックします。
 誤字脱字はもちろん、文字の横転や〓なども厳しくチェック。
 「印刷所が直してくれるだろう」という甘い考えは許されません。このチェックが甘いと、同僚からは未熟者と見なされます。
    
 この出張校正、ふつうは2日かかります。2日目の後半になると、前日赤を入れて戻した直し校(最終校)ができあがってきます。
 
 同時に図版(写真やイラスト)の製版(ジンク版)と見本刷りが製版屋から届けられてきます。
 そこで文字を入念にチェック(赤を入れることもあり)した上、最終校に見本刷りを貼り付け、ジンク版の裏に位置番号を振って、ページ順に束ね、編集長が「校了」の判を押して印刷所に提出します。
 編集の作業はこれで終わりです。
     
 印刷所ではレイアウト通り文字と図版を組み合わせ、さらに刷版の枠に組み込みます。
 これで印刷するかと思うと、さにあらず。紙型(しけい)に取り、そこに亜鉛を流し込んで印刷用の版をつくり、初めて本刷りが行われるのです。
  
 この紙型、増刷に備えて一定期間保管されますが、不要になると廃棄されます。
 廃棄された紙型は小学校の工作の教材になります。
 私もこれでペン立てをつくった覚えがあります。これは活版印刷の副産物です。

 最近友人と昔の仕事の話をすることが多くなりました。
 大半は営業職ですが、私は雑誌の編集業。それもエロ雑誌。
 「あんなものはよほどのスケベか変態男がつくってるんだ」と思われがちですが、誤解です。
 内容が何であれ、本の編集には違いなく、編集のスキルが必要とされます。
           
 実は昨日の川越の友人も編集者(彼はS社。メジャーです)。
 それだけに話がよく合います。
 そんなこともあって、今回は編集のなかでも活版印刷について述べてみます。
      
 活版印刷とは活字を組み合わせて版をつくり、印刷することです。
 その活字とは印鑑や木版(イモ版、リノリュウム版)と同じ凸版印刷で、出ている部分にインクがついて刷り上る仕組みです。
 そのため活字で印刷された単行本や新聞の文字には「しっかりプレスされた」という独特の風格が感じられます。
      
 活版印刷をするには、まず活字が必要です。
 例えば「京一郎」と印刷するには「京」「一」「郎」の活字の棒を組み合わせなければなりません。
 そのため無数にある漢字、平仮名、カタカナの活字棒のなかから文字を選び(文選)、原稿通り文字を並べる(植字)必要があります。
 これは大変な作業で、まさに職人技。
 映画「男はつらいよ」に出てくるタコ社長の印刷屋に勤める博(さくらの夫=前田吟)の仕事がこれです。
   
 私が出版社に勤めたころでも活版印刷は斜陽気味でしたが、それでも編集者の間では「編集者は活版ができてこそ一人前」といわれていました。
  私は最初グラフ誌担当でしたが、編成換えのとき活版を希望して実話誌の編集部に編入されました。
    
 グラフと活版ではレイアウト用紙が違います。
 グラフは無地ですが、活版の場合は14字×35行×5段というように文字が入る小さな豆粒が並んでいます。
   
 記事原稿はふつう20×20の原稿用紙に書かれます。これを14字詰めで行数を換算し、豆粒のレイアウト用紙に割付けます。
 最初のころは行数の間違いが多く「なんでこんな面倒で、不合理な作業をしなきゃならんのだ」と思いました(新聞社には字詰めに合わせた原稿用紙がありました)が、慣れるとそれほど難しい作業ではなくなりました。
           
 活字の編集といっても雑誌の場合は文字だけではなく、写真やイラスト、見出しの書き文字などが入り、それをレイアウトし、個別に製版屋に発注しなければなりません。
 オフセットやグラビア印刷と違ってこれが面倒な作業です。
     
 さらに文字の校正には印刷所に出向く必要があります。これを「出張校正」といいます。

 茶飲み話が終わって、我われは外に出ました。
 クレアモール商店街です。

 「多くの川越市民はこの通りを自慢するけど、大した通りじゃないのになあ。なぜ蔵通りや喜多院を自慢しない」
 「それが地元民と観光客との意識の違いだよ。地元民はあくまでも生活が大事なんだよ」
 「なるほど。そんなものかね」
クレアモール商店街 
 友人は「まるひろ」(デパート)の向かいの花屋さんに寄りました。
 「仏壇に供える花を買おうかと思ってね。うちの近所にはいい花屋がなくてね。わざわざここまでくるんだよ」
 といいながらも、「ここは高いなあ」といって買わずじまい。

 「この先は大正浪漫通りだよ」
 「知らないなあ。もっとも行けばわかると思うけど。大体あんたは地元民より川越をよく知ってるなあ」
 「しょっちゅうきてるからね。自転車で」
 「徘徊ですか」
 「そう、徘徊」
大正浪漫通り 
 とある瀟洒なマンションの前で友人がいいました。
 「金があったら、妻と別れてここに住みたいなあ。ここなら交通の便はいいし、食べるものには不自由しないし」
 「それはいいけど、そんな金あるのか」
 「あれば、の話だよ」
 「たら、ればならなんとでもいえるよ。オレだって(金があったら)金沢八景に住みたい」
 「あそこは津波が心配だからいやだ」
 「津波がこわくて湘南に住めるか」
食事処は長蛇の列 
 ほどなくして大正浪漫通りへ。
 「ああ、ここ知ってるよ。何度もきてる」
 「やっぱりなあ」
 食事処はどこも長蛇の列。やはりシルバーウィークだからでしょうか。
例の喫茶店 
 このあと蔵通りからクレアモールに戻って、以前よく入った喫茶店へ。
 珈琲が美味く、拙句「語り合ひ珈琲冷める春の午後」の題材となった店でもあります。
 しかし入口に「体調不良のためしばらくの間お店を休業させていただきます」の張り紙。
 閉店状態が続いています。
店主の愛車 
 友人にいわせると体調不良とは心の病。酒の飲みすぎもあるようです。
 駐車場の店主の愛車はそのままでした。早く快癒してくれい。
 昨日(09/22)は川越の友人と茶飲み話に興じました。

「先日の源氏物語ミュージアム。あれはよかった。私も行ってみたい」(熱心な読者です)
「たしかに。あれいらい源氏物語読んでみようかな、という気になってね」
「おおッ、読むんですか」
「いや、原文では読まないよ。あくまで口語訳。誰の訳がいいのかなあ」
「円地(文子)さんは難しいから、やっぱり寂聴さんかな」

「寂聴さんは怒ってたなあ。いつかきた道だって」
「怒るのも無理ないよ。これでいよいよ日本も戦争に参加するわけだから」
「しかし安倍に怒ったってしょうがない。日本は独立国じゃないんだから。寂聴さんもデモの連中も、いい加減気づけよなあ」

「それに気づけば、日本国民はどうなります?」
「がっかりするだろうね。愛国心なんか持てなくなるし。その上で選択はふたつしかない。服従するか、独立戦争を起こすか。しかし独立戦争となると、いっそう多くの犠牲者が出る。結局一部の自衛隊員の血が流れることで、あきらめるしかない」
珈琲

「それにしても中谷も佐藤も元自衛官でしょ。部下を戦地に向かわせてよく平気だね」
「彼らは戦争大好き人間だからね。いよいよ俺たちの出番だ、と張り切ってるんじゃないの」
「しかし辞める自衛官も出てくるだろうし、志願者も少なくなるだろうな」
「そのために四国の高校は自衛隊のための科を設けた。国防教育をバッチリやるんだろうね」
「それでも自衛官は減少するから、結局は徴兵制になる。孫の世代がワリを食うんだね」
「そうだよ」

「私には孫はいないけど、いやな時代になるんだなあ。長生きしたくないよ」
「そんなこといわないで長生きしてくださいよ。短歌や俳句に長じてるんだし」
(彼の投降した短歌は市主催の大会の一位にノミネートされているそうです)

話変わって読書の話題。
「私はこのところ電子書籍ですよ。これは安いので助かるよ。最近は司馬さん」
「よく読んでるねえ。私なんかPCやってから読まなくなったねえ。さすがにこれではいかんと思ったよ」
「司馬さんの『燃えよ剣』が好きなんでしょう。新選組に関していえば、木内昇さんの『新撰組裏表録 地虫鳴く』(集英社文庫)が面白い」
「なるほど。でも源氏物語のほうが先かな。最近読むスピードが遅くなってね」
「お互い年は取りたくないですなあ」

年配男の取りとめもない茶飲み話です。
 武蔵野線で気になって一度下車した越谷レイクタウン駅。
 新駅で、オープンしたのが平成20年(2008)。
 しかもここは吉祥寺を抜いて、首都圏で住みたい町No1。
入口の建物
 こんなところが? という思いで一度途中下車したのですが、このときは短時間だったので、人工池とそのとなりにある古民家を訪れただけ。
エスカレーターを上がって入口へ 
 これではならじ、と一昨日(09/20)流山に行く前に再度挑戦。
 前回は行かなかった駅北口のイオンレイクタウンへ。 ここは国内最大級のショッピングセンターだそうです。
渡り廊下 
 駅前から見るとそんなに大きなショッピングセンターにも見えない。「ここが?」
 エスカレーターを上ると、そこは入口の建物で、ガラス張りの渡り廊下を渡ってみてやっと本物のショッピングセンター。1~3階まであり、所どころ吹き抜けになっています。
 「ウヒャーッ、大きい!」
吹き抜け①  
 しかも奥まで行くと、他にもアウトレットモールなどこのようなショッピングセンターがふたつもある。
 今年の4月近所に「ららぽーと富士見」がオープンして、大きいと思ったけど、規模からすると「ららぽーと富士見」×3、やっていけるのか。
フロア 
 入口のところで撮禁のマークが出ていたので、各店舗は撮らず、フロアの全景のみ(それでもいけないのですが)にとどめました。
案内図 
 もっとも私にとっては各店舗、違いがわからず撮る意味はさほどなし。
 ザーッと見ただけで、引き上げました。
吹き抜け② 
 私の好きな横浜もクィーンズスクウェアやワールドポーターズなどのショッピングセンターにはさほど興味はありません。
 この駅の魅力が日本最大級のショッピングセンターだけだとすると、ここへくることはもうないかな。
 昨日(09/20)は午前11時に取手の友と我孫子の友とで千葉県の流山で落ち合って、「昼飯でも食おうか」ということになりました。

 「食事はあとで頼むから、まずはドリンクバー」
 国道沿いの某ファミレスでウェイトレスさんにそういって、同窓会に披露する写真や、出席者名簿などを確認していたら、我孫子の携帯に所沢の女性(同窓生)から電話。
流山の某ファミレス

 「いや、ここで3人で集まっているのや。えッ、なに、今からそっちへ?」
 取手の友に代わって、
 「女帝の命令には逆らえんから、行きますゥ」
 ということで予定を変更して、急遽所沢へ。

 取手がカーナビを設定しました。
 「高速を使えば1時間ほどで行けるな」
 ところが流山から車が大渋滞。
 仕方なく大きく迂回して、常磐→外環→関越と3つの高速を通ることに。

 「しかし高速も混んでるなあ。やっぱりシルバーウイークやからか」
 とくに外環の反対車線は大渋滞してました。
車から見た反対車線 
 所沢インターを出ると浦和所沢バイパス(通称ケヤキ並木)に出ました。
 ところがここも大渋滞でなかなか進まない。
 自転車での徘徊でときどき航空公園からの帰りにこの道を使いますが、車で通ったのは初めて。
 「車だと全然進まんなあ」。

 何度も所沢の女性に電話して、「悪いね。車が混んでなかなか進まんのや」
 その都度、到着時間を修正。

 予定より1時間も遅れてようやく着きました。
 「おう、すごい豪邸やんか」(個人情報のため、場所、私生活は省略)
航空公園 
 手料理でもてなされ、(ビールも出ました)よもやま話に。
 京都の女性にも電話して、携帯を回して雑談。私には「幹事役、ごくろうさんです」

 そうこうしているうちに、私の携帯にも電話。同窓生(女性)です。
 「出席するつもりでしたが、足を怪我して歩けなくなったので、欠席します」
 これは困ったことになったと思ったけど、承認するしかない。しかし……。
 「わかりました。でも、ちょっと待って、別の人に代わるから」と所沢の女性に。

 「もしもし、あんた、なにしてんの。怪我ぐらいなんや。おいない(いらっしゃい)。○○さんも、△△さんもくるえ」
 さらに取手の友に代わり、
 「単に歩けない、ということやったら、私が車で迎えに行くから」
 ということで、キャンセルを翻させました。

 事前に連絡を受けたとはいえ、この時期(1週間以内)での人数減は会場には取り消すことができず、こちらの負担になるので痛い。かといって欠席者に「会費を負担してください」とはいいにくいし……というのが実情でした。
 これが回避できたので、ほっと胸をなでおろしました。
 「ラッキー。ここへきて正解やった」

 あまり遅くなるのも悪いので、そこそこで切り上げ、私は西所沢で車を下してもらい、そこから西武線→東武東上線を乗り継いで帰宅しました。

 あちこち移動して、いろんな人としゃべったけど、実りも多く、面白い一日でした。
 次に連れて行ってもらったのは、宇治市にある源氏物語ミュージアム。
 宇治はもともと源氏物語とは縁のある土地。

 同ミュージアムは建物全体が総ガラス張り。
 古典文学の館としては意外でした。
源氏物語ミュージアム
 「源氏物語。高校のとき習ったけど、もう忘れたなあ」
 「あれは習ったというても、ほんのさわりや。詳しいことは教わらんかった」
 「まあ、プレーボーイの話やからな」
 「オレな。こんなんが日本の古典文学やと思うと、恥ずかしかった時期があったで」
 「まあ中国なんかは国破れて山河在り、政治闘争がテーマやからな。日本は色恋沙汰や」

 ここには幻の写本とよばれる「大沢本」など「源氏物語」に関する資料が収集・保管されているそうです。といっても、「大沢本」がいかなるものなのか、さっぱりわからない。

 資料よりも当時の平安貴族の生活展示のほうが面白い。
 女性ふたりが碁を打っているところを男(光源氏?)がのぞき見しています。
 こらッ、のぞき見は軽犯罪だぞ。
のぞき見する男 
 「ほほう、碁石の並べ方もでたらめではないな。有段者が並べとる」
 友人は碁をやるので、関心の持ち方が違います。

 牛車の展示もあります。
 牛車というのは当時の貴族でもぜいたく品。今でいえばロールスロイスかベンツのリムジン?
牛車 
 牛車の店員は4人。ひとりで乗るときは前方左側に右を向いて座るとのこと。
 意外でした。正面向くのではないのです。
 ちなみにここの牛車は簾が半分上がっていて、なかに女御らしき人が座っているけど、前を向いてるぞ。違うじゃないか。(ご愛敬)
牛車のなかの女御 
 このあと映像タイムがあり、「宇治十帖・橋姫」を見せていただきました。
 うーん。なかなかよかった。女人の気持ちが少しはわかったかな。

 「こうしてみると源氏物語も奥が深いのやな。単なるプレーボーイのエロ絵巻ではないのや」
 「キミはエロ絵巻のほうだけ真似したんやろ」
 「いや、女心も少しは学んだぞ」
 「ほんまかいな」
 「ほんまやで」
ガラス張りの廊下 
 ええ年したおっちゃんでも熱く語れる(?)ミュージアム。
 源氏物語、改めて読んでみようかな。

 石峰寺をあとにして、深草駅から京阪電車で中書島駅へ。午前11時。
 「おう!」
 伏見の友人はいつも通り車でやってきました。
   
 近くのファミレスで昼食をとったあと、
 「流れ橋のことは調べといた。正式には上津屋(こうづや)橋というんや」
 いつもは彼の案内に任せるのですが、今回は私のリクエスト。
 「上津屋橋の場所は……と」
 カーナビをセットしてスタート。

ながればしの石碑 

 車は伏見を南下し、久世郡久御山町(?)高速道路のインターらしき下をくぐり、細い市街地へ。
 「おかしいな。たしかここを入るはずやけど」
 同じところを行き来して、土手の道らしきところを直進。
 「やっと着いた。これが『ながればし』の石碑や」

木津川の看板の右奥に見えるのが…  

 しかしながれ橋らしき橋が見えない。変だなと思って、犬を散歩させていたおばさんに聞くと、
 「あれがそうです」
 「えッ、あれが……」
 なるほど、はるか下方に並んだ木の橋桁。あれがそうか。

ちょっと見にはわかりにくいのですが…

 近くまで寄ったものの、橋の前は通行止め。橋板は川の増水で流されたものと思われます。
 橋がちゃんと架かっていれば、冥途の土産にわたってやろうと思っていたのですが、これにはガックリ。

 上から見たながればし 橋の前は通行止め

 この上津屋橋は小津安二郎「小早川家の秋」(1961)のラスト近く、葬儀のシーンに出てきます。全長356.5m、幅3.3m。
 歩行者と自転車の専用橋となっており、周辺住民の生活道路の一部として利用されています。
 手すり、街灯はなし。
 川が増水すると流される構造なので「ながればし」と呼ばれ、最近では観光名所になりました。

ながればし① 

 友人である京都の写真家N氏のブログにもときどき出てくるので、一度は見てやろうと思っていました。それが流されたあととは……。
 「まったく、誰の心がけが悪いのや」
 といってみても、リクエストしたのは私。

ながればし② 

 「詰めが甘いというか、間抜けというか、このような目に遭うのもいかにも私らしい」
 苦笑するしかありません。

 伏見稲荷の次にやってきたのは、その南にある石峰寺。

 「伏見稲荷の近くに他に見るべきところはありますか」
 前の晩、宿の女主人に聞いたら、
 「石峰寺はどうかしら。ジャクチュウの五百羅漢は有名ですよ」
 ジャクチュウとは絵師の伊藤若冲(1716~1800)のこと。
 江戸時代中期、主に京で活躍し、写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として知られている(Wikipedia)とのことです。
 宿の女主人は自ら絵筆をとる方なので、日本画の世界にも造詣が深く、このような答えが返ってきました。
石峰寺参道 
 石峰寺は京阪深草駅を東に入った細い路地の奥にひっそりとあります。
 寺の宗旨は黄檗宗。山号は百丈山(ひゃくじょうざん)。本尊は釈迦如来です。
ご本尊 
 「これは……」
 山門が変わっています。
 ふつうは木造なのに、ここは朱塗りのコンクリート製。
 なんだか中国か韓国の寺院の雰囲気です。
山門 
 雨が降っているからか、参詣者は他にはおらず、「受付」を入って、係の人(和尚さん?)を呼び出し300円を払うと、「奥の生垣のところを道なりに進むと裏山に出ます」との説明。
 これならまっすぐ進めば、払わなくても入れたのに。(いけませんよ)
裏庭へ行く道 
 石段を登り、山門と同じような朱塗りのコンクリートの門をくぐると、そこは裏山。
 「おおッ、これは……」
 小高い築山のあちらこちらに、怒った顔、泣いた顔、笑った顔……たくさんの石仏が。
 そのも個別ではなく、三体が合体している石仏もあります。これが五百羅漢。
石仏① 
 川越喜多院の五百羅漢は何度も見ていますが、あれは狭いところにズラリと並べられていて、一体一体に表情があるとはいえ、あまり情緒のあるものではない。
 その点ここは山の散歩道に石仏が散在している感じでなんとも情緒深い。
石仏②
 出口近い石仏群には「賽の河原」の標識。物語性があります。
 これらはすべて若冲が下絵を描き、当時の住職と相談して石工に彫らせたものだそうです。
 さすがは京の都だと思いました。
 
 石仏の写真はあとで「撮禁」と知り、モザイク処理を施しました。
2015.09.17 伏見稲荷大社
 9月6日(日)朝7時40分。伏見稲荷大社の境内にいます。
 ここは全国約3万社の稲荷神社の総本社。
 初詣では近畿一の参拝者で賑わいますが、最近は外国人観光客から高い人気があり、二年連続一位(日本国内)とか。その幟旗が境内のあちこちに立っています。
鳥居越の楼門 
 私にとって伏見稲荷は念願の場所。
 京都にいた時代は一度もきたことがなかった。
 それだけに心残りで、最近は京都に行ったときはぜひ寄ってみたいと思っていました。
本殿 
 この日は伏見の友人と11時に合うので、その前に寄りました。
 宿の人からは、
 「遅くなると外国人観光客で混むから朝早く行くのが賢明」
 「山登りは疲れるから、四ツ辻あたりで降りたほうが……」
 といわれていました。

 本殿から祈祷受付所を通ると千本鳥居。
 伏見稲荷の名所ともいうべきところで、鳥居がびっしり。
 まさに鳥居のトンネル。陽がささず、薄暗い。
千本鳥居 
 そこを過ぎると奥社奉拝所で、その奥に「おもかる石」があります。
 説明書きによると、この石は願いを念じて持ち上げたとき、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないとのこと。
おもかる石 
 「そんなことをいうのだから、よほど重いのだろうな」
 ある程度重さを想像して持ち上げたところ、うッ、重い。予想以上?
 うーん、これでは願いは叶わんか。
 (いいわけをさせてもらえば、二年前の骨折で腕の力はかなり落ちている)
 まあ年寄りの願いは叶わないということだな。だったら力持ちだけ心願成就してろ。
 そんな捨てゼリフを吐いて先に進みました。

 鳥居の石段は急な上り坂。なんだこれは。
 やっと山頂らしき(?)ところに着きました。ここから京都市内(伏見区)が見えます。
 しかし境内図を見るとここが「四ツ辻」で、まだ先がある。
四ツ辻から見る京都市内 
 上ってやろうじゃないか。
 内心、神社の山だ、大したことはあるまい、と思ってました。
 お年寄りも上っていることだし。

 ところが上っても上っても、まだ上りの石段。しかも両側はずっと鳥居。
 どこまで上らせるのだ。
 最初こそ鳥居のトンネルにワクワクしたけど、もううんざり。
 鳥居のトンネルは竹中稲荷(吉田山)でじゅうぶんです。
上りの鳥居 
 一方では山の慣習も芽生えてきて、すれ違う人には「おはようございます」
 これに対して大てい「おはようございます」と答えてくれるのですが、なかに無言のグループも。どうやら中国の方らしい。
 外国人でも欧米系の人は「コンニチワ」とか「Good Morning」と答えてくれます。
 別に中国の方を非難しているのではありません。彼らにはそんな習慣はないのかも。

 孫を連れたお婆さん(?)を追い抜くとき、「お先に~」と声をかけたら、「頑張ってね」
 逆に励まされました。
 「お先に、といったけど、この先で追いつかれるかもしれませんよ」
 といったら、思いっきり笑われました。
一の峰(山頂) 
 三ノ峰、間ノ峰から二ノ峰を経て、ようやく一ノ峰(上社神蹟)へ。山頂です(標高233m)
 ここでお祈りをしている家族を見ました。お婆さんから小さい女の子まで。その一心不乱にお祈りしている姿に、改めて伏見稲荷の信仰の奥深さを感じました。
 「こっちにしてみれば観光→山登りだけど、この人たちにとってみればこれが信仰」
参詣する家族 

 ここからは下り。これがまたキツイ。膝がガクガクする。
 二年前足首を骨折してからは、下りのほうが(古傷が)痛むのです。
下りの鳥居 
 上るときは途中の社や塚を丁寧に参拝し、写真も撮ったけど、下りは疲れて雑に流し気味。
 (それでも四聖人は撮ったけど)
四聖人 四聖人のもうひとり
 楼門のところに降りてきたのは10時近く。
 雨にも関わらず多くの観光客(外国人?)が集まってきました。
 結局2時間30分かかって稲荷山を一周したことに。ちょっとした山登りです。
人が増えてきた(楼門前) 
 こんなにキツイとは思わなかった。けれどももうくることはないだろうな。
 そんなことを思いながら伏見稲荷をあとにしました。

 「金戒光明寺、行ったことあるか」
 「黒谷さんのことやろ。多分一度ぐらいは行ったと思うけど、まったく記憶がない」
 「行ってみよか。会津藩の本陣があったところや」

境内①  

 彼は新選組の足跡にはひとかたならぬ興味があるので、どうやら何度も行っているらしい。
 車は熊野から錦林小学校の裏に入り、金戒光明寺の駐車場へ。
 (あとで地図を見ると、真如堂と隣り合わせでした)

 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。
 浄土宗七大本山のひとつ。

山門 

 立派な山門です。万延元年(1860)完成。
 山門の桜上正面に「浄土真宗最初門」と書かれた額が掲げられていますが、これは法然上人が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因み、後小松天皇から賜ったものだそうです。

         

 境内に「勢至丸(せいしまる)さま」の銅像があります。
 勢至丸とは法然上人の幼名。
 説明書きによると、勢至丸は幼いころから、よく西の壁に向かって端座合掌していたとのこと。

勢至丸さまの銅像 

 「オレもな、世界が平和になるようにと子どものときから端座合掌してたんや」
 「キミが端座してたのは、エロ本読んでたからやろ。それが将来役立ったやないか」
 「ばれてたか」
 「そんなん、わかってたで」

本堂 

 この寺院は江戸時代初期に城郭構造に改修された。
 そのため幕府は幕末の京の治安を守るため文久2年(1862)ここに京都守護職を設け、会津藩に当たらせました。

子を抱いた上人 

 その下につくられた警備組織が新選組。
 したがってここは新選組発祥の地でもあります。
 映画「燃えよ剣」にもしばしば会津藩の本陣が出てきますが、この金戒光明寺のことです。
 (撮影のロケ地に使われたこともあります)

境内② 

 境内には「直実鎧掛けの松」があります。
 熊谷次郎直実(1141~1208)は武蔵国の武将。
 一ノ谷の合戦(1184)で平敦盛を討ったものの、相手が自分の息子の年代の若い武者だったため無常観にとらわれ、法然上人を慕って出家します。
 これはそのとき直実が鎧を洗い、ここに掛けたという松の木ですが、青々としてまだ若い木です。
 「これが?」と思いますが、実は三代目。去年(平成26年)植え替えられたばかりです。

熊谷直実鞍掛の松 

 私のような凡人は「本当に直実が鎧をかけたのか」との疑問に駆られますが、栗東の歴史研究家N氏にいわせると、
 「史実かどうかではなくて、そういう言い伝えが残っているというのが大事なことなんや」
 なるほど。勉強になります。
      
 紫雲山の山号は法然の縁起によるものですが、後光厳天皇に戒を授けて「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになったとか。
 「金を戒める」
 いいことばだと思いますが、金に縁のない人間はどう戒めればいいのだ。

 宗忠(宗忠)神社は私にとって吉田山から真如堂へ行くときに通過するところにすぎませんが、実は黒住教の教祖である黒住宗忠を祀る神社です。
 黒住(くろずみ)教とは江戸時代(文化11年=1814)に開かれた教派神道で、同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に幕末三大新宗教のひとつです。(Wikipedia)
宗忠神社参道 
 知らなかった。
 この参道は春は桜のトンネルになり、隠れた桜の名所ぐらいしか思わなかったのです。
 (近所の人間の意識なんてそんなものです)
春は桜のトンネルに 

 宗忠神社の参道を下りて、さらにまっすぐ進んだところが真如堂(しんにょどう)。
 正式にはは真正極楽寺といい、天台宗のお寺。山号は鈴聲山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算。
本堂 境内
 「ここは紅葉の名所や」
 「知ってる。8年前の暮れにきたときはきれいな紅葉やった」
 末期癌の弟を見舞いにきて、途中散策に寄ったところです。あのときの紅葉は今でも覚えています。弟はその1か月後に亡くなりました。
 三重塔 大仏様
 「おや、これは?」
 古刹には似つかわしくない「映画誕生の碑」
 「ここはよう映画のロケ地になるからや」
 説明書きを見ると、京都で最初につくられた劇映画「本能寺合戦」(牧野省三・監督)のロケ地がこの境内だったところから、それを記念して建てられたとのこと。
映画誕生の碑 
 その近くに小さな池があります。
 「この池や。高校生のとき私が亀を放したのは」
 「浦島太郎みたいな奴やな。本当は飼うのが面倒くさくなったんやろ」
 「違うで。亀は池にもどしてやったほうが自然やろと思うて」
 「ええ心掛けや。そしたら数日後、亀に連れられて竜宮城へ行ったんやろ」
弁天池 
 「それがな。数年後、友人の亀田君に連れられてキャバレーへ行ったんや」
 「なんや、それは。でも当たらずといえども遠からずか」
 「そうや。やっぱり亀は助けとくもんやな」
 
 この池には「赤崎辨天」が祀られ、周防国(現山口県)の赤崎辨才天に由来するそうです。
 辨天様といえば芸能をつかさどる女神様。
 彼がキャバレー行ったのは、ひょっとしたら辨天様のご利益だったのかな。
 申し遅れましたが、今月(4~6日)の間、同窓会の打ち合わせで京都に行っておりました。
 用事は4日に済ませ、5、6日はこれまで行きたかったところを行ってきました。

 5日(土)の朝は東一条から吉田神社へ。
 この道は小学校の通学路でした。
 写真(↓)向こうに見える山は大文字山で、吉田山は手前の低い山です。
 下校時は大文字山を正面に見て歩いていたのだ、と改めて思いました。
吉田神社・一の鳥居 
 ふだんならここから歩いて参道を上るのですが、この日は取手の友と車できたので、銀閣寺から宗忠神社の脇を上り、吉田神社の斎場大元宮から入りました。
吉田神社・大元宮 
 私は吉田山のふもとで育ち、吉田神社の氏子でもあるはずですが、この神社のことはどうもよくわからない。
 山蔭神社とか竹中稲荷などいろんな末社があって、どうやら神社の複合体らしい。
吉田神社境内図  
 本宮に入りました。
 昔は左手に吉田幼稚園があったのですが、今は池の向かいに移動しました。
 私はこの幼稚園には行かなかったのですが、小学生のころは我われの遊び場でした。現在我孫子(千葉県)に住んでいる友とはよく遊びました。
吉田神社・本宮
 この幼稚園の縁の下にむき出しの土があり、そこに洞穴をつくって秘密基地にしていました。
 小5のとき母親と喧嘩して家出したときは、ここで夜を明かすつもりでした。しかし洞穴のことを知っていた弟に服を引っ張られ、家出は断念しました。
 そんな苦い思い出があります。
 山頂の四阿 吉田山から見た大文字山
 「ここに神楽岡社というのがあるやろ。ここが我われ神楽岡(町)に住んでいた住民の神社や。小っこい社やけど、これでもちゃんと独自の例大祭があるんやで」
 そんなのがあると初めて聞きました。
神楽岡社 
 山頂からちょっと脇に出ると、美味そうなカレーの匂いが。
 我われが京都を出てからできた喫茶店でした。
 「こんなん、なかったなあ」
 まだ準備中だったので入るのはやめました。
喫茶店 
 「紅もゆるの碑も変わったなあ。こんなにいろいろ説明がつけられて」
 「オレなんか、ここはよう上ったもんや」
 「私もや」
紅もゆるの碑 
 このあと竹中稲荷から彼の住んでいた神楽岡地区へ。
 「おかしいな。すっかり変わってしもた」
 たしかに変わっていたけど、彼の記憶もちょっと怪しかった。
神楽岡地区 
 「そうそう、ここに私の家があったんや」
 「ほう、なかなか広いところに住んどったやないか。豪邸やで」
 「豪邸いうほどのことでもないけどな」
 とはいうものの、ここは閑静な住宅街で、どの家も立派な佇まいです。
友人の実家があったところ 
 神楽岡となると、この友の愚痴ること。
 「神楽岡の子どもの通学は大変やったんやで。山(吉田山)ひとつ越えてたんやから」
 「オレだって百段は知ってるから大変なことはわかるけど、S君(現武蔵野市在住)はそんな愚痴一言もいわんかったぞ」
 「S君は人間ができてるからや。キミら本町は平場を歩いとったんやないか」
 「申しわけございません」(なんで謝らんならんのや!)
百段 山頂の指標(標高105m)
 こんな話をしながら我われは竹中稲荷→宗忠神社を経て真如堂に向かいました。
2015.09.13 白糸台掩体壕
 府中市の甲州街道沿いに「白糸台掩体壕」があります。
 掩体壕(えんたいごう)とは戦闘機を空襲から守るための格納庫のこと。

 府中に住んでいたころ、市内の数カ所戦時中の掩体壕が残っていることを知り、興味はありましたが、そこまで行くのが面倒で、行くことはなかったのです。
 それが府中を離れて行くことになろうとは。皮肉なものです。
 
 大國魂神社、サントリービール工場、東京競馬場を見たとあっては、掩体壕を見るしかない。
上(甲州街道)から見た掩体壕
 白糸台は府中市のなかでも調布に近いところ。調布といえば飛行場。
 調布飛行場は、昭和13年(1938)東京府によって計画され、北多摩郡多磨村(府中市)・調布町(調布市)・三鷹村(三鷹市)にまたがる約50万坪の土地に、昭和16年(1941)4月に官民共同の飛行場として設置されました。
 しかし同年8月には陸軍専用の飛行場として使用されることになり、帝都防空の拠点として「飛行第244戦隊」が置かれ、三式戦闘機「飛燕」など多数の戦闘機が配備されました。
正面から見た掩体壕 
 戦争末期には、鹿児島県の知覧基地への中継点として特攻隊の訓練も行われましたが、同時に戦闘機を米軍の空襲から守るため、昭和19年(1944)調布飛行場周辺に約60基の掩体壕がつくられました。
反対側から見た掩体壕
 戦後、多くの掩体壕は取り壊されましたが、そのまま放置されたものもあって子どもの遊び場にもなりました。
 そのうちの一基が白糸台掩体壕(正式名は旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕)。
戦後は子どもの遊び場に・昭和29年  
 ここは旧所有者が繰り返し補修を行ってきたため、良好な状態で保存されてきたものを市が調査し、保存修理を施して平成24年(2012)歴史遺産として一般公開しました。

 なかまで入ることはできませんが、その全容を知ることができます。
 うしろ(上)から見ると、ただの小高い山。その下に戦闘機が隠されているとは。
掩体壕の裏側 
 説明書によると、この掩体壕は戦闘機「飛燕」とほぼ同じ規格で造られていたことが判明し、平成20年(2008)に市の史跡に指定されたとのこと。

 また掩体壕には有蓋掩体壕と無蓋掩体壕の二種類あることがわかりました。
 大雑把にいうと、有蓋とは屋根を土やコンクリートで固めたもの、無蓋とは周囲を土で囲ったのみで屋根がなく、上は草や木で覆いをかけたものをいいます。
無蓋掩体壕・昭和20年3月 
 歴史遺産として保存し、さらに公開するにはこのような手入れの仕方はやむを得ませんが、子どもの遊び場になっていたときの姿を見てみたいと思いました。
 「おや?」
 いきなり部屋がガタガタッ……と突き上げるような揺れ。
 地震だ!
 縦揺れです。しかも激しい。
 一瞬4年前の「東日本大震災」のことが頭をよぎりました。

 地震はなおも続き、今度はグラッグラッと大きな横揺れ。
 大変だ、これは大地震……。

 しかし揺れは20秒ほどで収まりました。時計を見ると5時49分。
地震速報① 
 ラジオ(TBS)では生島ヒロシがCMを読み上げていました。
 何のよどみもない。ふだんならちょっとしたことでうろたえる生島ヒロシが平然とCMを読み上げている。
 それが終わっても何の報道もない。

 変だなと思ってTV(NHK)をつけたら地震速報をやってました。
 TBSラジオが地震情報を伝えたのは、CMなどがひと通り終わってから。
 民放だからスポンサーが大事なのはわかるけど、ラジオが情報が早いというのはうそだね。
 それに土曜朝の生島ヒロシの番組が実は録音だったということがばれたし。
地震速報② 
 震度に関しては、埼玉南部は震度4。
 のちに震度3に変わったけど、あの激しさでは絶対4はあったぞ。

 最も激しいところは東京都調布市で震度5弱。
 多摩地区が震度4というのはわかるけど、荒川の北のさいたま市北区が震度4で、荒川より南で多摩地区に隣接している埼玉南部が震度3とはどういうこと。

 震度はふつう震源地からの距離に反比例するけど、離れていても震度が高いというのは地盤が弱いってこと?
 さいたま市の方、くれぐれもご用心。
        
 現在、首都圏のあちこちで水道管の破裂が起こり、また交通機関の遅れがあるようです。
 大したことがなければいいのですが。

 ※通常の記事は下記に(↓)
 昨日(09/11)のTVニュースでは、洪水のなか電柱につかまっていたおじさんのことが何度も取り上げられていました。
 濁流に流されても電柱なら流されないだろうという「冷静な」判断をキャスターはしきりにほめていました。
濁流が家を呑み込む 
 しかしこのおじさん、なぜ流されたかというと、堤防が決壊したと聞いて、わざわざ見に行ったわけでしょう。なにが冷静な判断だ。
 現地のアナウンスはなかったかもしれないけど、以前から「水位が上がっている河川には近づかないように」といわれていたはず。
 助かったからよかったものの、救助ヘリの手を煩わせてるんだぞ。人騒がせな。
 私にだって、水位の上がった河川を見たいという願望はあります。
 しかしそこをぐっとこらえるのが「分別ある」大人というもの。
 というわけで雨の上がった昨日、近所の河川を見に行ってきました。(なんのこっちゃ)

 まず手始めは新河岸川。
 なんの変りもなく、平然と流れている。
新河岸川 
 次にびん沼川・
 ここは荒川の傍流というもので、荒川の水量を調整する役割があります。
 そのためふだんより水位は上がっているように見えました。
びん沼川 
 そして真打の荒川。
 これを治水橋から見ました。
 濁流です。しかもふだんより水位は高く、流れも急。
 やっぱり大雨の影響はあったようです。
治水橋より見る荒川 
 しかし水位はどれぐらい上がったのか。河川敷を超えたのか。
 河川敷を見ると、野球場の内野の部分が水浸し。外野は芝生のため水はけがいい?
 うーん、軽々に判断はできないけど、一時的に河川敷も水浸しになったのかな。
荒川河川敷① 
 これか大雨後の河川の様子でした。
 なんの報告にもなってない?
 失礼しました。ただの徘徊です。(しかし救助ヘリの手は煩わせてないぞ)
荒川河川敷② 
 大変なことになりました。
 関東地方を中心に降り続いた大雨の影響で、昨日(09/10)鬼怒川が増水し、堤防が決壊しました。
 そのため常総市の住宅地に濁流が流れ込み、一面水浸し。
 県によると、濁流に流されるなどして9人が行方不明となり、逃げ遅れた多数の住民が民家などに取り残されました。
鬼怒川 
 昨日の朝、ゴミを捨てに外へ出たとき雨は上がっていたので、「午後からは晴れるだろう」と勝手に思い込み(一昨日の天気予報ではそういってました)、「久しぶりに徘徊するかな」などとノー天気なことを考えていました。

 午前中、取手の友から電話があって、「そっちはどうや」
 「降ってることは降ってるけど、大したことないで。そっちは?」
 「こっちもそれほどでもないけど、関西の連中が心配しとるのや」
 「心配するほどのことはない、いうといて」
鬼怒川の堤防決壊 
 川越の友人からも電話があり、「あれ(雷が女子高校生に落ちたという富士見市水子)はあんたの家の近くだったの?」
 「そうなんだよ。そっちはどう?」
 「どうってことないよ。入間川が氾濫することはなさそうだし」
 私は情報源としては専らラジオ(TBS)ですが、ニュースで「鬼怒川が決壊しました」
 これはただごとではない、とTVをつけると、あたり一面水浸し。えーッ!
濁流激しく 
 そのうち京都の友から電話がかかってきて、「大丈夫か、そっちは」
 どうやらTVのニュースを観ていたらしい。
電柱につかまった人をヘリで救助 
 画面は激しい濁流と浸水で取り残された人家をヘリコプターで救助する光景。
 なかでも電柱にしがみついていたおじさんを救助隊のヘリが救出するところは固唾を呑んで観ていました。
 また人家が流される画面もあり、大雨の恐ろしさを見せつけられました。
家が流された 
 解説によると、南北に流れる鬼怒川の上空に帯状の雨雲がぴったり重なって増水したとのこと。
 こちらでは午後になって小降りで、さすがに徘徊はやめましたが、北関東ではこんなにひどい雨になるとは。同じ関東でも北と南では大違い。
ヘリで救助 
 もっとも埼玉も越谷などでは川の氾濫により、浸水したところもあったようです。

 この大きな雨雲は北関東を過ぎ、宮城・岩手の東北地方に向かっているそうですが、くれぐれも被害の少ないのを祈ります。

 昨日(09/09)は台風18号上陸の影響を受け、各地は大雨になりました。
 とくに浜松など東海地方は土砂災害や浸水、河川の氾濫に見舞われました。
 今日(09/10)は栃木県が数10年に一度という大雨に見舞われているそうです。
   
 首都圏も大雨で、東京の都区内でも避難勧告が出たところもありました。
 埼玉も例外ではなく、秩父や狭山地方は土砂災害の注意報。

 NHKの災害情報では、私の住んでいるところも「土砂災害警戒情報」のテロップが流れていました。
 「土砂災害といっても、近くに山はないのでその心配はない。それにいくら多量の雨が降ったとしても、水は低地のふじみ野市に流れるから、洪水になることもあるまい」


 そんなときに取手の友から電話。
 「ものすごい雨やな。絶好の徘徊日和やで。こんな日こそ出かけるんやろ」
 「アホな。いくら徘徊好きのオレでも、こんな雨では行かんで。DVDでも観るわ」
 「またジャンゴか」
 「まあ、そんなとこや」

     
 そんなわけで昨日は外出せず、なにも起こらずにすみましたが、夕方のニュースによると、埼玉県富士見市水子で女子高校生が落雷で怪我をしたとのこと。
 目撃者の話では「バアーン!」という爆発音がしたそうです。
 富士見市水子といえば近くです。
 そんな大きな音、気がつかなかった。

  
 雷が人に落ちたら黒焦げになると聞いてましたが、しびれ程度ですんでよかった。

2015.09.09 競馬博物館
 ビール工場のあとは「♪右に見える競馬場~」ということで、競馬場にきまってるじゃないか。
 工場の前の通りを北上し、中央高速をくぐると右側が競馬場。歌詞が間違ってないことがわかります。
競馬場通り 
 この競馬場は開催日以外でも一般公開されています。(無料。開催日は入場料200円。月、火は休み)
競馬場正門 
 見たいのはやはり芝のコース。広い!
 TVの競馬中継に出てくる景色がそのまま。
 第三コーナーのあたりにケヤキ(?)の木があって一瞬レースの様子が見えなくなります。
 「邪魔だから、切れ」という声もあり、関係者のほうも切ろうとしたのですが、そのたび事故が起こり、切るのを断念しました。ケヤキの祟りといわれています。
芝のコース 
 総ガラス張りの観覧席は圧巻です。
 私は競馬には興味なかったのですが、こういうところならレースの様子を観てみたいと思いました。
観覧席 
 公園広場があり、近所の子どもたちの格好の遊び場になっています。
 海賊船「DERBY号」、なるほど。
公園広場 公園の海賊船
 なんといっても見ておきたいのはJRA競馬博物館。(1991年10月26日オープン)
 競馬の歴史から競馬開催の舞台裏、さらにこれまで出場した馬の写真がズラリ。うーん、アカネテンリュウ、いたなあ。
競馬博物館の前 
 さらに2階にはレーシングシミュレーションがあり、本物の発馬機のなかに入り、スタートでゲートが開くのを 体験できたり、ロボットホースに乗って目の前の画像で騎乗体験ができます。
 このときは(私の馬の扱い方が上手かったから?)優勝。やったー。
競馬博物館 
 写真がないじゃないか、って?
 悪いね。ここは撮禁だから撮れなかった。
 うそだと思うなら行ってください。(役所広司口調)
 ユーミンの「中央フリーウェイ」の歌に
 「♪中央フリーウェイ 右に見える競馬場 左はビール工場 この道は まるで滑走路~」
 とのくだりがありますが、これは中央高速の府中あたりを歌ったもの。
ユーミンのサイン 
 調布から山梨方向に向かうと、北側(右手)に競馬場、南側(左手)にビール工場があります。
 ビール工場とはサントリー府中工場のこと。
サントリー府中工場 
 ここは見学することができます。
 原則として予約制ですが、空きがあればOK。
 私は予約なしで申し込んだのですが、平日だったため、すんなりと入れました。
見学者たち 
 まずは映像での解説。
 サントリー府中工場が建設されたのは1963年。良い水が採取できるというので当地が選ばれました。ビールの3条件とは、「水」「麦」「ホップ」とのこと。
ビール醸造釜 
 映像が終わると、工場内を歩いての見学。
 麦、ホップ、さらに醸造釜やビン詰めの工程などを説明してもらいました。
瓶詰工程 
 最後は試飲タイム。
 私はチャリできているので、ノンアルコールビール。
 これがなかなか美味い!
 (本当はプレミアム~を飲みたかったけど、これは仕方がない)
試飲タイム 試飲のビール
 新製品のPRもぬかりなく。
 なかなか面白い工場見学でした。
新製品のPRも 

 N産業はベトナム戦争が終ると衰退し、ディーゼルエンジンを製作する会社と合併、さらにK機械という大きな会社に吸収合併されて、移転しました。

 その跡地には高層住宅(ビーコンヒルズ)とイトーヨーカドーが建ちました。
 おしゃれなショッピングセンターもあり、当時の面影はまったくありません。

イトーヨーカドー②

 今回そこを歩いてみて、京急のしたたかな宅地政策を垣間見ました。
 駅名を谷津坂から能見台に変えたのは、もう少しディープな事情があったのではないか。
 これから先は、あくまでも私の推測です。
        

 そもそも谷津というのは谷戸、谷の集落のことで(〇〇谷戸とはある種の蔑称)、宅地販売するにはイメージが悪い。
 さらにいうと、谷津坂駅の歴史はD兵器→N産業という軍需産業とともにあった。
 谷津坂といえば、「ああ、兵器工場のあったところね」といわれかねない。
      
 そうしたダーティなイメージを払拭し、魅力ある住宅地として売り出すには、なんとしても駅名を変える必要があった。

ビーコンヒルズ①

 こうして昭和57年(1982)谷津坂駅は、江戸時代の景勝地にちなんだ駅名「能見台駅」に生まれ変わりました。
 駅前にはおしゃれな店が建ち並び、商店街は活気を帯びてきました。
 駅名だけではなく、町名も谷津坂から能見台に変えたことによって、分譲地は売れ、地価も上がりました。
     
 人口は急激に増え、一日平均乗降者数は2013年度で31,758人。30年前より倍増しています。
 駅の周辺はおしゃれな住宅街に変身し、今では「横浜で住みたい町」の上位にランキングされています。
 京急の計画は見事に成功したのです。

 ビーコンヒルズ②

 私はN産業を取材したというのに、それが軍需工場だとは思いもしなかった。
 それを知ったのは、今回、能見台に行ってから。
 ついでに京急の宅地政策も知りました。
 これも今日まで生きたればこそ。やはり長生きはするものだと思いました。
      
 ※このシリーズは旧ブログ2012/10/15~17に投稿した記事をリメークしたものです。 
 

 N産業の歴史を紐解くと、前身は「D兵器株式会社」(昭和13年設立)という軍事産業でした。
 戦後は「N産業」と改称し、機械の部品をつくる工場になりました。

 しかし一方では銃器、弾薬もつくっていて、自衛隊などにも納めていたようです。
 当然、社の景気は戦争に大きく左右されました。
 朝鮮戦争では潤い、戦争が終結すると赤字(昭和29年、会社更正法申請)。ベトナム戦争が始まると黒字……といった具合です。

 私が取材に行ったのは、まさに好景気のころでした。
 社としては、戦争で儲けているとは人聞きが悪い。
 そこで自社の技能優秀者をスター扱いすることによって、社のイメージアップを計ろうとし、(軍人つながりの)業界誌に多額の広告費を投じたのではないか。

イトーヨーカドー① 

 気になるのは、インタビューし、写真を撮らせてもらった技能優秀者である工員の人たち。
 大半が私と同世代。なかには私より若い人もいました。
 彼らはあの工場の「秘密」を知っていたのか。
 今もし再会できれば、聞いてみたい。

 一方、京急谷津坂駅が開業したのは昭和19年(1944)、ほとんど軍需工場(D兵器株式会社)の関係者のための駅でした。

 戦争が終わり、昭和21年、駅の北側に(私立)横浜高校・中学がきてからは、乗降客の大半はN産業の社員と、横浜高校・中学の生徒、教職員が占めました。

横浜高校 

 駅を同じくするよしみもあって、横浜高校からN産業へ就職する卒業生は多く、N産業には「横浜高校OB会」もあるほどでした。

 私は学生時代ベトナム戦争に反対し、街頭デモに参加したこともあります。
 しかし学生をやめて間もなく、知らなかったとはいえ、ベトナム特需の企業のお先棒を担いでいたとは。
   
 今の私には「軍需産業、怪しからん!」という気はありません。
 アメリカの属国である日本では致し方のないことであり、どうあれ人々はそれでメシを食い、子どもを育ててきた。
 戦争特需で日本は潤い、我われは高度成長を享受した。
 誰にも非難する資格はないのです。

 横浜高校の台頭によって、初めて知った能見台駅。
 京急の路線図から忽然と消えた谷津坂駅。
 この両者が同じだったとは。

 2012年10月12日、私は能見台駅に降りました。
 「おかしいな。N産業がない」
 駅前の周辺地図を見ましたが、N産業はありません。
 たしか駅前の通りを少し下りたところに、線路に沿って大きな工場がありました。地図でいえばイトーヨーカドーのあたり……。

能見台駅 

 そばで地図を見ていたお婆さんに聞きましたが、「ここへは病院に通うのにきているので、知らない」とのこと。聞くのではなかった。

 駅前を横切る能見台通りの急な坂を上ると、小さな郵便局がありました。
 郵便局ならわかるだろう。

能見台通り 

 窓口の女性に尋ねました。
 「40年以上も昔のことですが、近くにN産業という工場があったの、ご存じですか?」
 「ああ、それなら今のイトーヨーカドーのところにありましたよ。もう20年ほども前ですが」
  
 すると奥から年配のオッチャンがこういいました。
 「N産業ね。あそこはテッポウつくってたんですよ」
 「えッ、鉄砲? 武器の?」
 「そうですよ。この辺の者ならみんな知ってます。有名な軍需工場ですよ」

駅南側、下は16号線 

 知らなかった。
 銃器製造は、わが国ではご禁制のはず。(個人でつくれば逮捕されます)
 それが大きな工場で、堂々とつくられていたなんて。
                         *
 しかし、そういわれると思い当たるフシはあります。
 一緒に行った営業のオッチャンは元軍人で、相手先の会社の総務部長とは軍隊仲間でした。
 「オタクは第〇連隊でしたか。私は第△連隊」
 これで話が通じ、広告を取るという、まことに不思議な営業でした。

 これが軍需産業だとしたら、すべて腑に落ちます。みんな軍部つながり。
 今にして思えば、私が取材に行った杉田(横浜市)、田無(東京都)、狭山工業団地(埼玉県)の工場も、みんな軍需(関連)産業でした。

 1990年代、甲子園大会で横浜高校の松坂投手が活躍していたころ、京浜急行「能見台(のうけんだい)」という駅名をよく耳にしました。同校の最寄り駅だというのです。
 「そんな駅、あったっけ?」

 上京して最初に住んだのは品川区東大井の海っぺりで鮫洲(さめず)駅の近く。そのため京浜急行にはひときわ愛着があります。
 横浜より先でよく知っている駅名は日ノ出町、黄金町、弘明寺(ぐみょうじ)、杉田、金沢文庫、金沢八景。しかし能見台は聞いたことなかった。

 「待てよ。谷津坂という駅もあったはず」
 私は20代前半、新宿の出版社に勤める前、ある業界誌の編集を手伝ったことがあります。
 この業界誌は「現代の名工」と銘打って、工場などの技能優秀者を取り上げて称賛し、その企業から広告費を取るというやり方でした。
 私は営業ではなかったけど、営業のオッチャンと一緒にあちこちの工場を取材にまわりました。
京浜急行 
 「これじゃ使えない。撮り直すしかない」
 横浜南部にある京急沿線のふたつの工場を取材し、技能優秀者の青年の写真を撮りましたが、そのうちの一件がまるでピンボケ。もう一度行くしかありません。
 N産業という、機械の部品をつくる工場でした。

 「またですか」
 工場に二度も撮影ということで、受付に怪訝な顔をされました。
 それでもわけを話すと了承してくれ、撮影は無事に終わりました。
 あの工場の最寄り駅が谷津坂駅でした。
 あのときは勘違いして(もうひとつの工場のある)杉田駅で降り、あわてて乗り直したので、谷津坂の駅名はよく覚えています。
 しかし京急の路線図を見ても、ない。谷津坂駅が消えている!

 待てよ、と思い、「谷津坂駅」を検索しました。
 すると、真っ先に出たのは「能見台駅」。昭和57年(1982)駅名変更とあります。

 そうか、そういうことだったのか!
 これで謎は解けました。

 ではなぜ谷津坂から能見台に改名したのか。
 Wikipediaによると、京急がこの地域を開発分譲する際、駅の少し上にあった、江戸時代から有名だった景勝地「能見堂」にちなんで能見台にしたというのです。

 こうなったら、現地に行ってみるしかない。
 能見台駅に対する興味が俄然湧き起りました。

 集団的自衛権が成立して、それが施行されると自衛隊は世界の戦地に赴く可能性が出てくる。
 死者が出ることも予想されます。
 となると、自衛隊をやめる人が増え、志願者が減る。そのため隊員が減少する。
 では自衛隊員を確保するためどうすればいいか。
 徴兵制しかありません。
    
 これについて内閣は「徴兵制なんてひとこともいってない」と躍起になって否定しているけど、予想される事柄を敷衍していけば、否が応でも「徴兵制」にたどり着きます。
     
 それかあらぬか安倍側近の若手議員がこんなことをいいました。
 「国会前でデモをやっている連中は『だって戦争に行きたくないだけじゃん』という利己主義者」(武藤貴也衆院議員=滋賀4区)。
 図らずも将来「徴兵制が施行される可能性もある」と認めたようなもの。
 これは亀井、山崎両氏のいう「戦争好き体質」でしょう。


 もっともこの議員、株の売買疑惑で自民党を離党しました。離党ですむ問題か。


 まだある。
 中谷元防衛大臣。
 この人、以前から「防衛省設置法にある文官統制規定が戦時中の軍部独走への反省によるものとは思わない」と歴史を無視したようなことをいって物議をかもしましたが、共産党の議員の突っ込みで「安保法案成立を前提とした自衛隊の来年の行動計画」がばれてしまいました。


 それだけではなく、沖縄で米軍のヘリが墜ちたとき、そこから日本の自衛隊員が転がり出てきた。早くもアメリカの手下になって行動している。


 むろん本国アメリカの指令なのだから、属州日本国は従わざるを得ないけど、直接的にそれを指示している防衛大臣が戦争モードに突入しているからでしよう。


 戦争モードといえばこの人、委員会の質疑で「弾薬は武器でしょう」と突っ込まれたとき、「弾薬は武器ではありません。消耗品です」と答えました。


 弾薬が消耗品?
 おそろしいことばです。戦地で機関銃を撃ちまくっていれば、「タマ(銃弾)をどんどん持ってこい。タマは消耗品だ」という感覚でしょう。


 山崎、亀井氏がいっていた「戦争大好き内閣」とはこのことか。
 すると安倍は戦争法案をいやいや通しているのではなく、喜々として通している?
 日本は従来通りアメリカの属州を続けている限り、将来は「万全」なのでしょうけど。

 日曜日(08/30)安保法制に反対する市民(12万人?)が国会議事堂を取り巻き、「戦争法案、今すぐ廃案」「戦争反対、今すぐ廃案」などのシュプレヒコールを上げました。
 今回の特徴はかつての学生運動や労働組合のような組織化されたものではなく、ごくふつうの市民が自然発生的に集まったとされています。

 そんな国民の声を無視して、安倍内閣は安保法案を「粛々と」進めていくようです。

 私はこの法案には反対ですが、日本は独立国ではないので、これは仕方がないと考えています。
 早い話が、安倍内閣はアメリカの傀儡政権。(アメリカのポチ)
 もっとも安倍に限らず、これまで日本の政権はすべてアメリカの傀儡でした。
 古くは安倍晋三の祖父、岸(信介)内閣による安保改定をはじめ、最近では郵政民営化、TPP参加、秘密保護法案、原発再稼働……すべてアメリカの要請(というより強制)によるもの。

 集団的自衛権もそう。
 「お前たち(日本)は我われ(アメリカ)を守る義務がある」
 と強制的にやらされているのです。
 そのため野党から突っ込まれても、まともに答えられない。まるで他人事のような説明です。
 自分たちの意志に反して押し付けられた法案を通しているのだから、答えられるわけがない。

 そのくせ憲法に関しては「アメリカに押し付けられた」といっているのだから、世話はない。
 以前NHKのドキュメントで憲法が生まれた経緯を特集していましたが、それによると当時アメリカが日本に憲法をつくらせたところ、戦前の「大日本帝国憲法」と大差なかったので、「これはだめだ。日本はまだ成人に達してない」とアメリカが草案をつくり直したのです。
 それを「押し付けられた」とはよくいうよ。自分たちに自浄能力がなかったくせに。

 話が逸れましたが、一連の「戦争法案」は「(国民の意志に反して)気の進まないことをやらされている。日本の権力者は辛いなあ」と同情していました。

 ところが先日TBSラジオ「デイキャッチ」を聞いていたら、ゲストの元自民党の重鎮山崎拓氏と亀井静香氏がこういいました。
 「集団的自衛権については、安倍の周囲には戦争大好き人間がいて、その連中が強硬に進めた」

 亀井氏は「安倍さんはそうではない」といい、山崎氏は「いや、安倍さんだって相当な戦争好き」と主張。ふたりの対立点はそこだけで、「周囲はほとんど戦争大好き人間ばっかり」と口をそろえました。ただし「名前を挙げるわけにはいかん」

 「えーッ、そうだったのか」
 おどろくと同時に腑に落ちることもありました。
 昨日(08/31)は所用があって上野に行き、不忍池に寄りました。
 実はほぼ3ヵ月前(06/03)にも寄ったのですがそのときとはまるで景色が違いました。
「蓮の葉が伸びている!」
8月31日撮影 
 ちなみに6月と昨日では葉の高さがまるで違います。
6月3日撮影 
 弁天堂も。
6月3日の弁天堂 8月31日の弁天堂
 おどろいたことに蓮の花が咲いています。
 蓮の花の開花期はふつう7月~8月中旬、それも朝のみ、といわれています。
 6月の時点ではまだ咲いてなかったのですが、もう終わりになって見られるとは。
蓮の葉に水滴が 
 ここの蓮のメインは大賀蓮です。
大賀蓮① 
 大賀蓮とは、(説明によると)大賀一郎博士(1883~1965)が昭和26年(1951)千葉県検見川の東京大学運動場の地下の青泥層より発掘した実を発芽・開花させて得られた系統で、古代蓮と呼ばれているとのこと。
 不忍池の大賀蓮は、東京大学で育てられてきた蓮根を分けていただいたものだそうです。
大賀蓮② 
 大賀蓮といえば、府中に住んでいたころ、近くの寿中央公園にも咲いていました。
 ここも「大賀蓮発祥の池」と称していましたが、これは大賀博士が府中市に住んでいたことによるもの。
 実は5日前の8月27日、府中に行ったときこの公園にも寄りました。
 しかし蓮の花はとっくに終わり。(舞妃蓮なんて府中市が名づけた?)
府中市寿中央公園の大賀蓮 
 それを思うと不忍池の蓮の花は健気です。
 「あんたはエライ!」
 と褒めてあげたい。