これは今月初め、京都時代の友人と横浜を散策したときのこと。
 「あれは、なに?」
 友人が指差したところを見ると、むき出しの煉瓦塀。古色蒼然としています。
 場所は開港記念館の向かい側。
むき出しの煉瓦塀  
 見ると、これは「開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構」とのことで、こう説明されています。
 「この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であると考えられています。
 建物は、大正12年(1923)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。
 平成26年(2014)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました」
説明と当時の写真
 この辺りはよく通っているはずなのに、まったく気づかなかった。
 この建物は洋食屋さんだったようで、閉店して解体してみるとこのような煉瓦塀が出てきたらしい。それが昨年のこと。
裏側 
 夏は終戦(本当は敗戦)の季節ですが、第二次世界大戦で横浜が空襲の被害が少なかったのは、この地がアメリカと密接なつながりがあったことを知っていたからと思われます。
 その証拠に終戦後米軍はこの地を好んで(?)占拠した。

 ということは、古い建物から今後もこのような遺構が出てくる可能性があるということか。
煉瓦塀  
 今回は友人の指摘で気づきました。(ここ1年この辺りはこなかった?)
 人と散策する功徳はこんなところにもあります。
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 「小早川家の秋」(1961)は京都伏見の造り酒屋を舞台にした作品です。
 京都の造り酒屋の当主・小早川万兵衛(中村鴈治郎)は最近行き先も告げずにこそこそと出かけることが目立つようになり、長女の文子(新珠三千代)と経営を取り仕切る入り婿の久夫(小林桂樹)夫婦が心配して行方を突き止めると、そこはかつての愛人・佐々木つね(浪花千栄子)の家でした。
小早川家の秋① 
 小早川家には亡くなった長男の未亡人・秋子(原節子)がいて親戚が再婚話を持ってきたり、次女の紀子(司葉子)も婚期を迎えて縁談が持ち込まれるものの、彼女は大学時代の友人で札幌に転勤する寺本(宝田明)に思いを寄せていました。(これは小津映画のパターン)
小早川家の秋② 
 万兵衛はつねとその娘百合子(団令子)との触れあいに、特別な安らぎを感じているようだったが、そこで倒れて亡くなり、葬式の日、紀子は秋子に札幌へ寺本と一緒に行く決心を告げるのでした。
 小早川は「こはやがわ」と読むそうですが、そんなことはどうでもよろしい。
 登場人物も多く、入り組んでいますが、それも大したことではなくて、当主・万兵衛を中心としたパターン化された小津映画です。

 中小企業の経営者は外で女をつくる、というのがその典型。
 これが山田洋次の「寅さんシリーズ」になると、印刷工場のタコ社長(太宰久雄)は女もつくらず、金策に明け暮れる姿が描かれています。
小早川家の秋③ 
 作風の違い、といってしまえばそれまでですが、会社の重役がしょっちゅう銀座に飲みに行ったりして、小津映画では経営者側の苦労が描かれず、「けっこうなご身分」と思うだけで、あまり切実なものは伝わってきません。
 私にとって唯一の見どころは、葬儀のとき木津川に架かる流れ橋が出てくること。
 これは京都の南部に架かる木の橋で欄干がなく、川が増水すると流される構造になっています。
 正式名は「上津屋橋」(こうづやばし)というのですが、流されるので流れ橋。
 友人のブログでもときどき出てきます。生きているうちに一度は見たい。
小早川家の秋④ 
 それがこの映画で見られたのがよかった。
 昨日(07/28)は高校野球選手権の埼玉と神奈川の決勝戦を観ました。といってもTV観戦。
 炎天下ではなく、家で観るのは楽ですね。(臨場感はないけど)

 まず午前中の埼玉は、花咲徳栄(加須市)-白岡(白岡市)。
 花咲徳栄(はなさきとくはる)、なんともおめでたい校名ですが、春夏5回甲子園へ行っている私立の強豪校。
 対する白岡は白岡市(初めて聞いたぞ)にある県立高校。準決勝では強豪浦和学院を破っての決勝進出なので、ひょっとしたら? という期待感を抱かせました。
埼玉大会・決勝① 
 先制したのは白岡ですが、すぐに逆転され、加点されて9回表で1-5。
 それでも9回表意地を見せて1点を取り、さらに満塁にまで詰め寄ったのですが、そこまで。
埼玉大会・決勝② 
 白  岡 1 0 0 0 0 0 0 0 1=2
 花咲徳栄 0 2 1 0 0 2 0 0 x=5
埼玉大会・決勝③ 
 埼玉は157チームが参加していて、強豪校も年によって出来不出来があり、優勝校は番たび変わります。今年は花咲徳栄の出番ということでしょうか。
 午後は神奈川。
 ここは準々決勝から横浜高校に注目していました。
 同校の渡辺元智監督が今夏限りで勇退するといわれていたからです。
順々決勝① 
 高校野球でいえば、実は私、昔から横浜商業(Y校=県立)のファンで、私立の横浜高校に関しては「強いけど憎たらしい」という思いがありました。
 しかしここ数年、とくに松坂投手が出たころから、同校の勝負強さに惹かれるようになりました。まあ、同じ横浜なんだしし……。
順々決勝② 
 その横浜は最近では甲子園に出ても、勝ち上がる勝負強さが見られない。渡辺監督も淡々とした表情で、勝利に対する執念が感じられなかった。これは加齢のせい?
準決勝① 
 今回はノーシードから勝ち上がりました。
 準々決勝、準決勝では相手に先制されての逆転勝ち。これには監督というより、「なんとしても監督を甲子園に連れて行く」という選手の執念が実ったと思われます。
準決勝② 
 しかし、東海大相模は強かった。
 3回表は相模の集中力もさることながら、横浜の守備(外野手)も集中力を欠いていたように思われます。
東海大相模の堅実な守備 3ランホームランで勝負あり
 そして7回表、相模の3ランホームラン。勝負ありました。
 横浜はランナーが出るも拙攻で併殺のくり返し。
好投手・小笠原の前に手も足も出ず 東海大相模優勝
 東海大相模 0 0 0 3 0 0 4 2 0 =9
 横   浜 0 0 0 0 0 0 0 0 0 =0
渡辺元智監督 
 私の見たところでも、走攻守相模のほうが上でした。
 ともあれ渡辺監督、お疲れ様でした。
 甲子園でグレーのユニホームが見られないのは、ちょっぴり寂しい思いがしますが。
渡辺監督ありがとう 
 本牧から小港町に出て、そこからワシン坂を上りました。
 ワシン坂とは奇妙な名前ですが、この由来には諸説あって、
ワシン坂入口 
 ①和親条約のワシンからきた。
 ②鷲見坂がなまってワシン坂になった。
 ③ワシン(ウシン)という外国人がこの付近に居住していた。
 ④坂下に清水が湧き出る所から「ワキシミズザカ」が外国人たちの口によって「ワシン坂」と
 呼ばれた。
 (「横浜橋めぐり坂あるき」より)
 とのことですが、あとで調べると湧き水説が有力らしい。
 この水は市民の生活用水として使われていたとされていますが、迂闊なことに、水の注ぎ口の写真は撮らなかった。(残念)
チャペルのある教会  上りきったところから振り返る
 この坂は(一部急なところもあるけど)全体的になだらか。
 途中に教会もあるので、ひょっとしてここが森山良子さんの「さよならの夏」(1976)に出てくる坂?
 一番に「♪光る海に かすむ船は さよならの汽笛のこします ゆるい坂を おりてゆけば 夏色の風に 逢えるかしら……」 
 二番に「♪散歩道に ゆれる樹々は さよならの影を おとします 古いチャペル 風見の鶏 夏色の街は みえるかしら……」
坂から見る港の景色
 するとこの坂は上るより下ったほうがよかった?(もう遅い)
 坂を上りきったところに韓国総領事館があります。
韓国領事館 

 その脇道を入り、神奈川近代文学館の裏手を通って、霧笛橋の下に出ました。
 崖沿いに下りの石段があります。これがチドリ(ムジナ)坂。
霧笛橋の下 チドリ坂下り口
 この坂の由来はよくわからないのですが、ある人のブログによると、この石段は関東大震災(大正12年=1923)がきっかけらしい。
チドリ坂下り 
 それによると震災で火に追われた人々がここに追い詰められ、近くの英國海軍病院のテニスコートからそのネットを伝って崖下(新山下側)に降りたそうで、その後防災の意味もあってつくられたとのことです。
チドリ坂上り口 新山下二丁目
 今ではアニメ「コクリコ坂から」の舞台として知られているとか。
 このアニメは観てないので、なんともいえません。
 海っぺりは涼しいと思ったけど、本牧埠頭の海釣り桟橋は日差しがもろにあたるため大して涼しくない。
 そこで本牧せせらぎ公園にやってきました。
入口の円柱 
 こんもりと緑に囲まれて、しかもちょろちょろと水が流れています。
 場所は本牧ベイタウン(元マイカル本牧)の北側。
 開設されて26年になるというのに、あまり気にもしなかった。
庭園の風情 
 涼しいことは涼しいけど、人は少ない。
 このとき見た限りでも、ここでゆっくり休んでいるのは近くのお店の従業員らしき人ぐらい。
四阿 
 私自身、あまりゆっくりしたいとは思わない。
 なぜか。
 私の感覚では本牧らしさがないから。
水路 水のせせらぎ
 むしろ通りの反対側の空き地のほうが、近くにしゃれた喫茶店があり、オープンカーが止っていたりして本牧の風情を感じさせます。
 ここなら「いかにも本牧にいる」という感じがするので、ベンチに坐って. 通りを眺めたいという気分になります。
向かいの空き地  
 ということで、あまり本牧らしくない(森林)公園の写真を撮って、ここをあとにしました。
奥は森林 
 シンボルタワーからの帰り、海釣り施設に寄りました。
 タワーの展望室空から見た沖桟橋の景色に惹かれたのと、大勢の人がここで降りるので、ちょっと興味が湧いたからです。
新護岸釣り場 
 釣りに関しては編集者時代、釣り好きの同僚に連れられて江ノ島と相模湖へ行ったことぐらい(道具一式買いました)。釣果? 江ノ島はボウズ。相模湖はワカサギとヤマメが7尾と散々。
 それでも釣には興味があります。
渡り通路と沖桟橋 
 この日は釣りはせず、ただの見学。
 とにかく人が多い。夏休みに入っているからか家族連れ。女性が多いのも意外でした。
沖桟橋 女性がカッコよく見える 
 釣場は新護岸300m、旧護岸300m、渡り通路100m、桟橋300mの両面、延べ1300mあるとのこと。これだけ大きければ500人は楽に収容できそう。
沖桟橋から見る海 
 「今、なにが釣れるの?」と聞くと、「アジかな」「サバだよ」「カサゴも釣れるぞ」と答えはマチマチ。(それだけ多くの種類が釣れるということで)
釣れる魚一覧表 
 「あららら、絡まっちゃった」
 こちらは糸が絡まったオマツリ父子。
オマツリしたけど釣れた 
 しかし上げてみると魚がダブルでかかっている。「釣れたよ。お父さん」
 息子はニコニコ顔。小さなアジでした。
小アジでした 
 こういう光景を見ていると、当方も釣りたくなるぞ。
 しかし今回はやめました。
 もし大きいのが釣れたら持ち帰るのが大変だから……。
 なーんてね。
投げ釣り? マイペースで 
 海からの潮風は吹いていたけど、カンカン照りでしかも海面の照り返しもキツかった。
 おかげで顔も腕も真っ赤に焼けたぞ。
 連日暑いので涼を求めて(?)横浜へ。
 行ったところは本牧埠頭D突堤の先端にある横浜港シンボルタワー。
 高さ58.5m。開設されたのは昭和61年(1986)7月。
シンボルタワー全景 
 タワー内には港の風景を一望できる展望室や展望ラウンジがあり、港を観察することができます。(入場無料)
 正面の中央部にあるステンレス製の貝のオブジェ「遥かなるもの・横浜」は国際平和と国際港湾都市横浜の発展を祈念しているそうです。
ステンレス製のオブジェ 
 まずは上の展望室。(煙と〇〇は高いところに上がりたがる?)
 エレベーターはなく、なかの階段(140段)を上りました。
 「この方向は富士山……」などの表示はありますが、基本的には放ったらかし。
展望室 
 360度の大パノラマ?
 地上36.5m(海抜42.4m)ではあまり高くないけど、それなりの眺望は楽しめます。
 とくに眼下の海の景色が素晴しい。水平線がわずかにカーブしていることで、地球が丸いことがわかる?
眼下の海 
 ただし人は少ない。階段上るのが面倒だから?
敷地より海を見る 
 下りてみると、意外にも2階の展望ラウンジ(半円形の回り廊下)のほうが開放感があって、眺めがよろしい。
渡り廊下 
 横浜港を行き交う船や、コンテナターミナルも見られるし、変わったところではベイブリッジを裏側から見ることもできます。しかも海の風が通り抜けて涼しい。
海の景色 逆からみるベイブリッジ
 このシンボルタワー、単なる憩いの場所ではなく、階下にある本牧船舶通航信号所より情報や信号を送って、横浜港に出入りする世界中の客船や貨物船が安全をはかる大きな役割を果たしています。(名称は本牧船舶通航信号所)。
芝生と駐車場。ドーム屋根の建物は売店 
 それだけに信号の読み方も学べます。
 例えば「I」という文字が点滅していると、「入港してよい」(総トン数500G/T以上は出航禁止)、「O」は「出港してよい」(総トン数500G/T以上は入航禁止)という具合。
 これらがわかると、港の状況がわかっていっそう面白くなるというのですが、こちらは単に涼を求めにきたのでね。
芝生 

 「秋日和」(1960)は原節子が初めて母親役を演じた作品です。

 亡き友の三輪の七回忌に集まった間宮(佐分利信)、田口(中村伸郎)、平山(北竜二)の3人は、未亡人の秋子(原節子)とその娘アヤ子(司葉子)と談笑していました。
 「アヤ子ちゃんもそろそろだな。誰かいい人いるのかい」
 「いませんわ」
 「じゃあ、私が当たってみよう」



 間宮の紹介で知り合った後藤(佐田啓二)とアヤ子がお似合いだと考えた3人は、アヤ子が嫁ぐ気になるためにはまず母親が再婚することが先と思うがうまくいかず、秋子の再婚相手として話が進んでいると勘違いした男やもめの平山は有頂天になります。

 
 その再婚話を誤解したアヤ子は母親と仲違いし、それを聞いた同僚の佐々木百合子(岡田茉莉子)も間宮たちを散々やり込めます。
 これは誤解ということがわかり、母娘の結婚話が進むことになります。

 
 しかし秋子は娘とふたりで出かけた旅先で、自分はひとりで生きていく決意を伝えます。
 娘の結婚式を終え、アパートに戻った秋子は静かに微笑を浮かべました。

 昔の映画といってしまえばそれまでですが、私にとってはまったくの絵空ごと。
 私だけではなく、同世代の男も娘世代の女性と縁談を巡ってこんな突っ込んだ会話をした体験はないと思います。
 私の友人は、「娘の結婚? そんなものは娘の勝手」

     
 では私たちの世代の女性は若いころ、父親世代の男たちとこんな会話を交わしたのか。
 おそらくないと思われます。

 したがってここに登場してくる人たちの会話は、私にとってはすべて空々しい。

 小津映画に関しては、若いころ理解できず、年取ればわかるのではないかと思っていたけど、老境に差し掛かった今でもよくわからない。
 ひょっとしたら、自分の年の取り方が間違っているのではないか、そんなことを思わせる作品です。

 

 富士見市の市役所近くにふたつの神社が隣接しているところがあります。
 諏訪神社と氷川神社。

 まず諏訪神社。祭神は建御名方之命(スサノオノミコト)
 由緒書きにはこうあります。
 「当神社は隣接の氷川神社と同様古代人の住居跡の中に建立された神社で、創立年度は不詳である。……ただし御神木の大欅(ケヤキ)などから推察すると遙か古い時代の創立と思われる……」
諏訪神社・鳥居と拝殿 
 よくわからないけど、御神木の大ケヤキは立派でした。
御神木の大ケヤキ 

 次に通りを挟んだ氷川神社。ここも祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)。字が違うだけ。
 ここの由緒書きも諏訪神社とほとんど同じで、建立年度は不詳。
氷川神社・鳥居 
 ただし、「境内に弁天池の湧水があり、それに通ずる『雲居の滝』の涼気をさそう緑の散歩道がある」と書かれています。
氷川神社・拝殿 
 一応拝殿にお参りしたあと、緑の散歩道「雲居の滝」を降りました。
雲居の滝散歩道・入口 
 降りてみると、四阿(あずまや)があり、緑豊かな公園(?)ではありますが、滝はどこ?
四阿 
 水が流れていて、小さな島に祠が……。
 これが説明板に書かれていた弁天様か。
 どうやらその背後に湧き水があるらしい。
弁天社 
 それはいいとしても、この散歩道(?)はなんだ、
 あたり一面水浸し。所どころ板が敷いてあるけど、奥へ行くほど川と地面の境がなくなっていく。これではとても歩けない。
湿地帯 
 この流れはおそらく地下水路になって、市役所脇の水路を通過し、新河岸川に注ぎ込むと思われます。
小川 
 たしかにここは緑が鬱蒼として涼しいことは涼しい。
 その意味では「涼気をさそう」との看板に偽りはないけど、これが散歩道かね。

 ゴム長履いて歩くしかないぞ。
 昨日(07/21)は暑かった。
 こういうときはできるだけ「徘徊」は避けているのですが、食料の買出しに出かけたついでに、みずほ台まで足を伸ばしました。
公園入口 
 東武東上線みずほ台駅近くの栗谷津公園。
 この公園はすり鉢状になっていて、底部は池になっています。それもきれいな湧き水で、枯れることなくこんこんと湧き出ているとか。
 地元の人はこれを「不動様の流れ」と呼び、飲み水や農業用水に利用しました。
形はすり鉢状 
 この流れは大切にされ、荒らされないように次のような伝説が生まれたとか。
 「あるとき、ひとりの若者がこの小川からドジョウをたくさん捕らえ、鍋で煮たところ、ドジョウではなく、血が煮えたぎっていた。その後、この小川からドジョウを獲る者はいなかった」(解説板)
倶利伽羅不動明王の碑 
 池の湧き水のところに倶利伽羅不動明王の石碑(高さは約1.7m)が立っています。
 嘉永元年(1848)に水子・針ケ谷地区の山岳信仰者によって建てられたそうです。
 龍が剣に絡み、剣先から呑み込もうとしています。
 これは倶利伽羅剣といって、不動明王の立像が右手に持つ剣。不動明王の象徴です。
倶利伽羅不動明王の碑・アップ 
 倶利伽羅不動明王(尊)は水と縁のある仏様で、あらゆる災厄を断ち切り、人々を守護して幸運をもたらすとして、古くから篤い信仰を集めてきました。
 余談ですが、刺青のことを「倶利伽羅紋紋」(くりからもんもん)というのは、龍の絵に由来します。
すり鉢状の底部の池 
 ちなみに栗谷津公園の「栗」とは「倶利」からきているのではないか。
 「谷津」とは谷底の湿地帯のこと。この地名は千葉や横浜にもあります。
 元は「倶利伽羅谷津」と呼んでいたのではないか。それが倶利谷津→栗谷津になった。(栗は当て字)
 富士見市の説明によると、同公園は昭和61年、針ケ谷特定土地区画整理事業により開園したそうです。
四阿から見る池 
 緑が多く、澄んだ池があって、格好の避暑地。
 しかし人っ子ひとりいない。その理由は……。
 ここへくるまでカンカン照りのアスファルトの道を歩かねばならないから。
 こんなところで涼んでいるのは、当方のような酔狂者だけか。
 京急久里浜駅近くの長安寺はちょっと珍しいお寺です。
 本堂の左側に仏像とレリーフが屋外に展示されています。
レリーフと仏像
 千手菩薩もあれば十一面観音も。
千手菩薩 
 同寺は戦国時代に創建された浄土宗寺院。 正式名は亀養山松樹院長安寺。
十一面観音 
 手水の水口が亀なのも亀養山だからか。
亀の手水 
 本尊は不動三尊像。もと近隣の村にあった丸山不動院の本尊でしたが、江戸前期にこのお寺が山津波にあい、以後長安寺に祀られているとのこと。三浦不動尊二十八札所のひとつ。
レリーフ 
 大正12年の関東大震災で倒壊、昭和4年に新築されました。

 仏像の屋外展示はインドなどでは見られますが、日本の寺院では珍しい。
観音像 
 私の友人に京都の女流画家がいますが、もっぱら仏像画を描いています。
 その彼女が見たら、なんと思うか。
長安寺・墓地 
 境内は緑が多く、涼しかった。
 先月の久里浜散策。花のくに→久里浜港→海岸通り→平作川流域を歩いて、久里浜駅を通りすぎ、辿り着いたのがここでした。
長安寺境内 
  久里浜。思っていたより大したことなく、もう一度くるかどうかわからないけど、不思議に長安寺が印象に残りました。
 高い工費のため非難轟々だった新国立競技場について、安倍首相は「計画を白紙にもどす」と表明しました。
 これはアメリカに約束した安保関連法案を衆議院に通し、法制化できる目処がついたので、安倍にとってはどうでもいい「新国立競技場問題」を世間に迎合したのです。

 それに競技場の形を変えたところで、IOCが「NO。そんなことしたら東京オリンピックを召し上げるぞ」などというわけがない。
 案の定バッハ会長は「デザインの変更は問題ではない」といっている。
 そりゃそうだ。IOCだって今さら他の都市へ変更できないからね。
 こうなったら日本はもっと強気になって、できるだけ低予算のショボイ競技場をつくってやれ。

 ところで最初の新国立競技場のデザイン(ザハ・ハディド案)、誰が決めたの?
 録画で見る限りでは建築家の安藤忠雄氏がザハ案を推奨しています。
 ところがその安藤氏は「どうしてこんなに高くなったのか、私も知りたい」
 コストがかかるというのは、ザハ案を改めて試算したところ3,000億かかると出たわけで、安藤氏はそこまで見抜けなかったのか。(これは責任というより能力の問題?)

 では誰の責任かというと、文科省と森喜朗オリンピック会長が責任のなすり合いをしています。
 しかし発言などから推理すると、「2,500億円ぐらいの金がどうして出せない」と未だにいっている森喜朗でしょう。
 この人にとってみれば自分の金ではないから工費にいくらかかろうと知ったことではない。
 立派な競技場でオリンピックと、自分が会長を務めるラグビーのW杯をやりたかった、ということで、この人が真の責任者。即刻会長辞任しろ。

 その森喜朗、競技場のキールアーチの屋根については、「生ガキみたいなスタイルはもともとイヤだった」などとトボけたことをいっている。だったら最初からいえ。
 このキールアーチの屋根については評論家の大宅映子さんがこんなことをいいました。
 「あの形は女性器に似ていて多くの女性が不快感を抱いていた」
 エエーッ、そんなこと初めて聞いたぞ。本当かね。
 これも「だったら最初からいえ」の類(?)だけど、いいにくいか。

 日本人は責任を取らない、という体質は私自身、同窓会の幹事をやってみて痛感しました。
 郷里在住の元学級委員と連絡を取り合っていて、いざ具体的にアクションを起こすとなると、「いやや、そっちでやって」と名簿を投げてよこしました。
 こうなればしょうがない。オレが責任とったるわい、と腹をくくって動き出したら、「全面的に協力するから、なんでもいって」
 これが彼なりの精いっぱいの誠意。でも責任はとらないからね。

 そんなことよりオリンピックそのものができるのか。私はそっちのほうに関心があります。
 東京五輪についてはもともと反対で、「TOKYO」に決ったとき、非常に不快でした。
 その直後これを京都の友人にいうとこういいました。
 「心配するな。福島原発の汚染水処理が行き詰って7年後はオリンピックどころではなくなる」
 彼は元電気工事の技師で原発の構造は熟知しています。

 その彼がいうには、原発の汚水は溜まる一方。浄化するには60~100年ぐらいかかる(まさに負の遺産)。したがって巨大な水槽をつくり続けるしかない。しかしそのころには水槽をつくる余地があるかどうか。
 そこで海へ流すのではないか。そうなると国際的に大問題になる。
 これに関しては茨城県に住む友人も「すでにこっそり流しているのではないか」といいます。
 彼のいう「心配するな」とは、「どうせできなくなるのだから、反対、反対などと叫ぶ必要はない」という意味です。

 どうなることやら。
 私は静かに見守ることにします。それまで生きていれば。
 先日、京都の友人(中学校からの同窓生)から電話が掛かってきました。
 用件は、H市に住んでいる女性(同窓生)の電話番号を教えてほしい、というもの。

 私は小学校の同窓会の幹事をしているので、その女性の電話番号はわかります。
 しかしいくら友人といえども、そう簡単に教えるわけにはいかない。
 「なんでや」と聞くと、
 「いや、これはオレやない。Yのヤツが知りたがっとるのや」
 Yとは彼の友人で、私もよく知っています。
 小さいときは悪ガキでしたが、今は人懐っこい男(ジジイ?)です。
 ただしいうことに品がなく、下ネタを連発しては女性の顰蹙を買っています。昨年会ったときもそうでした。
 飲食店の女将に卑猥なことをいうので、たしなめたところ、「そういうことではないんや」と軽くいなされ、逆に当方がにユーモアの解せぬ男扱いされました。口の達者なヤツです。

 「しかしなんでYのヤツが彼女の連絡先を知りたがっとるんや」
 「寂しい、いうんや」
 「なに、寂しい?」
 「ヤツはことのほか寂しがり屋でなあ。ちょっと電話しないと、『最近冷たいやないか』というてきよる」
 「かなんな、そんなヤツ。その寂しさを紛らわすのにH市の彼女か」
 「そういうこっちゃ」
 H市の彼女というのは私の少年時代、近所に住んでいた女性です。
 美少女で性格もよく、男たちの憧れでしたが、今は介護の仕事をやっています。(H市のマリア・テレサ?)だから、(エロ)ジジイの介護なんてお手のもの。ヤツはそこに目をつけた?
京都・平安神宮の鳥居 
 「安易なヤツやなあ。しかし、寂しいなんて、そんな境遇か?」
 「いや、ヤツには看護士さんの奥さんがいて、これがなかなかできた人で、毎月小遣いを3万円くれるんや。さらに3人の娘がそれぞれ1万円。友だちと飲みに行くといえば、支払いで恥かかんようにと奥さんが5千円渡してくれる……」
 「なんやそれ、オレにはそんなん、おらんぞ!」
 頭にきました。そんな恵まれた身で、なにが寂しいだ。

 「甘ったれるな。人間、誰だって寂しい。みんなそれを我慢して生きてるんや」
 「オレもそう思う」(彼は奥さんに死なれてひとり暮らし)
 「お前だってYにはさんざん迷惑かけられているのに、そこまで世話焼くことないやないか」
 「それはそうやけど……」
 このあたりは、デキの悪い友ほど可愛いという心理が働いている?。

 ひょっとして友人はYから懇願されて、一種の板ばさみ状態になっているのではないか。
 こうなったら私が悪者になるしかない。
 「これは個人情報やから教えられん。しかし今度の同窓会で彼女に会うてそれを伝えるから、あとは彼女次第や。Yにはそう伝えてくれ」
 「わかった」
 人間は誰だって寂しさを抱えています。
 ひとり暮らしの私は、それをむしろ楽しんで生きていますが、それでも人に去られたとか、協力を得られなかったときなどは、いいしれぬ孤独感に苛まれることがあります。
 
 しかしそれは耐えるしかない。ヤセ我慢です。
 ヤセ我慢することに人間は鍛えられ、強く生きることができる。そう思うのです。
 昨日、日暮里で中古DVDを2本買ったと述べましたが、もう1本がこれ。
 この作品「ガンヒルの決闘」(原題: Last Train from Gun Hill=1959)はマカロニ好きの私には珍しくアメリカ西部劇です。監督は「OK牧場の決斗」のジョン・スタージェス。
 マット・モーガン(カーク・ダグラス)はオクラホマ州の小さな町の保安官。
 ある日、森のなかで妻がふたりのチンピラに襲われ、殺害されます。
 マットは犯人の残した馬の鞍を見て、それがかつての親友クレイグ・ベルデン(アンソニー・クイン)のものであることに気づきます。
ガンヒルの決闘① 
 クレイグは今やガンヒルの町を支配する牧場主。
 ことの真相を突き止めるためマットは汽車に乗り、ガンヒルに向かいます。
 ふたりが旧交を温めるのもつかの間、マットはクレイグの息子リックが犯人であることを直感し、クレイグはそれをごまかそうとして、気まずいものになります。
ガンヒルの決闘② 
 「こうなったら、リックを捕まえるしかない」
 マットは酒場に乗り込み、マットを捕まえてホテルの部屋に監禁します。
ガンヒルの決闘③ 
 これを聞いたクレイグは激怒。手下20人を引き連れてホテルを包囲。
 「マット、リックを釈放してくれ」
 「だめだ。今夜9時の列車で連行して、裁判にかける」
 「では、仕方がない」
 銃撃戦が始まり、手下3人がマットの銃弾に倒れますが、リックを窓際にやられてはクレイグもうかつに手が出せない。
ガンヒルの決闘④ 
 なんとかリックを取りもどそうと、行きの列車で知り合ったクレイグの愛人リンダ、さらにクレイグも部屋に入って交渉を試みますが、マットの意志は固く、交渉はもの別れに。
 「こうなったら持久戦だ」とクレイグ。
ガンヒルの決闘⑤ ガンヒルの決闘⑥
 あたりが暗くなって、事態が動きました。
 マットの妻を殺害したもうひとりの片割れリーが、リックを救おうとホテルに火をつけます。
ガンヒルの決闘⑦ 
 リンダの計らいでショットガンを手にしたマットはそれをリックの喉元に突きつけ、「手を出すとリックの命はないぞ」と馬車で駅に向かいます。
ガンヒルの決闘⑧ 
 駅ではリーが待ち構え、マットに発砲。弾はリックに当たり、咄嗟にマットも撃ったので、リーも倒れました。
ガンヒルの決闘⑨ 
 これを見たクレイグは、マックに決闘を挑みます。「抜け!」
 「よせ、オレはあんたを撃ちたくない」
 しかしクレイグは聞かない。
ガンヒルの決闘⑩ 
 両者ほとんど同時に発砲しますが、倒れたのはクレイグでした。
 「マット、息子をいい子に育てろよ」
 そういってクレイグは息を引き取りました。
ガンヒルの決闘⑪ 
 これはアメリカ西部劇のなかではかなり良質の作品です。
 妻を殺された怒りと悲しみを抑えて判断を法律に委ねようとする男とバカ息子を溺愛する父親、男同士の友情が巧みに描かれています。

 しかしこうした西部劇は今のアメリカでは一切つくれません。過去の作品を劇場で上映することも、TVなどで放映することもできません。DVD店でもほとんど扱ってないそうです。

 その理由は登場人物に人種構成上の偏りがあること、先住民(インディアン)の描き方が公平ではない(史実に反する)とのことで、過去の死物扱いです。

 それはその通りですが、いいものはいい。
 こういう作品を観られる日本はつくづく幸せだと思います。
 昨日(07/16)は朝から大雨。
 いくら徘徊好きの私だって、こんな日は出かけません。晴耕雨読ならぬ「晴徊雨観」。
 「観」とはDVD観賞。
 実は友人と日暮里→谷中を歩いた日(07/14)、日暮里のDVD店で中古の洋画を2本買いました。これはそのひとつ。マカロニウエスタンの「さすらいの一匹狼」(1966)
さすらいの一匹狼① 
 「またマカロニか」と思われるかもしれませんが、これはマカロニファンを自称する当方が不覚にも見逃した作品。ニコ・フィデンコの主題歌はさんざん聴いたし、スコープ付のライフルは当時話題になったけど、観る機会がなかった。こんなところに転がっていたとは



 賞金稼ぎランキー・フェロー(クレイグ・ヒル)が小高い丘から下を見ていると、騎兵隊を山賊が襲い、金を奪うところを目撃します。
 ランキーは望遠照準器付きライフルで遠距離から山賊をひとりずつ射殺していき、首領(フェルナンド・サンチョ)も屠り、無事金を取り戻して町に帰ってきます。
さすらいの一匹狼② 
 ランキーは金を守った報奨金を銀行から受け取り、さらに山賊の首領に掛けられていた懸賞金も受け取りますが、町の富豪から「盗賊から金塊を守ってくれたら、報奨金をさらに倍増しょう」と賭けを持ちかけられます。
さすらいの一匹狼③ 
 その盗賊とは、弟を殺した仇ケネベック(ジョージ・マーティン)とその一味。
 ランキーはその賭けに乗り、町ぐるみでケネベックらを迎え撃ち、銀行にダイナマイトを仕掛けて山賊を一網打尽にします。
さすらいの一匹狼④ さすらいの一匹狼⑤
 ひとり生き残ったケネベックは、ランキーに決闘を挑みます。
 ランキーが手にしたスコープ付きライフルを指差し、「それで百発百中か」
 「使いたければ貸してやるぞ」
 ケネベックがその銃で狙いを定めたとき、ランキーのピストルの弾はスコープに命中し、眼を撃ち抜いていました。
さすらいの一匹狼⑥ 
 この映画は、銃撃戦は派手だけれどもマカロニ特有のギラついた重量感に欠けます。
 例えば町の資産家や銀行の頭取など、ひとクセありげな連中で、ランキーに罠を仕掛けるのではないかと思ったけど、そんな罠はなにもない。金塊の隠し方に工夫があっただけ。
さすらいの一匹狼⑦ 
 ランキーとケネベックの決闘シーンでも、300m以上の遠距離ならいざ知らず、せいぜい50mほどの近距離ではスコープ銃の威力は発揮できない。それにまんまとハマったケネベックの間抜けぶり。
 悪人たちが意外に呆気なかったのが当方には物足りなかった。
 娯楽映画といってしまえばそれまでですが。
 今日は朝から台風による大雨ですが、一昨日(07/14)はこの夏いちばんの暑い日でした。
 我われは東日暮里をあとにして、日暮里駅南口の跨線橋を渡って谷中霊園へ。
 「墓地やから、なにかと涼しいと思うてな」
 「ぼちぼち歩くんか」
 「いや、幽霊が出るとぼちぼちなんていうてられんぞ」
谷中霊園 
 谷中霊園は日暮里駅南に位置する約10万㎡の都立霊園で、およそ7,000基の墓があり、徳川家15代目将軍慶喜や鳩山一郎・横山大観・渋沢栄一などが眠っています。
 「谷中墓地」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれているというのですが、その境界はよくわからない。

 中央園路(さくら通り)をしばらく歩くと「五重塔跡」の表示が。
 「五重塔って、あの幸田露伴の小説のモデルになった塔やろ」
 「そうらしいな」
 行ってみると、塔の跡は柵で囲われており、雑草が伸び放題。
 柵の前に説明書きと写真があります。
 「そうか、火事で焼失したんや」
五重塔跡  
 説明書きによると、ここは天王寺(もとは感応寺)の敷地で、最初の五重塔(1644~1771)は目黒行人坂の大火で焼失。
 その19年後、寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)棟梁八田清兵衛ら48人によって再建されましたが、これが幸田露伴の小説「五重塔」のモデルになっています。
 総欅造りで高さ34.18m。関東で最も高い塔で、当時は谷中のランドマークになっていました。
 明治41年(1908)に東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭わなかったのですが、昭和32年7月6日心中による放火で焼失しました。
 五重塔の写真

 そこをあとにすると、今度は「徳川慶喜の墓」。ご存じ最期の将軍。
 「お供え物はショートケーキ(慶喜)やで」
 「アホなことを……」
 軽口を叩きながら向かうのですが、これがけっこうキツイ。墓地の通路をあちこち折れ曲がって、ようやく墓のあるところへ。塀に囲まれています。
 広い。しかも入口の門は閉ざされたまま。
徳川慶喜の墓所 
 「あらあら、今日はうちの殿様のところにお参りいただいてご苦労様です」
 門のところで騒いでたオバサマ御一行に声をかけられました。うちの殿様?
 聞いてみると、水戸からやってきたとのこと。なるほど。
 
 門扉の向こうの写真を撮ってもいいですか、とお伺いを立てると、「許す。苦しゅうない」
 「ははーッ。有り難き幸せにござります」
 と撮らせていただいたのがこれ(↓)。(大して有り難くもないか)
徳川慶喜の墓と記念碑 

 そこをあとにし、「どこかで珈琲でも飲もう」と寄ったのが、旧吉田酒店(下町風俗資料館付設展示場)の向かいにある喫茶「カヤパ」
 ここは古いたたずまいでなかなか風情があり、過去に何度かきたことがあります。
 その後店主が亡くなって閉店に追い込まれたのですが、ファンに支えられ、有志が共同で経営するようになった店です。このことはNHKでも取り上げました。
旧吉田酒店 喫茶カヤパ 
 しかし行ってみると、「今満員です。少しお待ちください」
 あまりにバカバカしいので、そこをあとにし、上野に向かいました。
 暑い。(都内ではこの夏最高だったとか)。そこで幽霊のポスターを。
幽霊のポスター 
 これで少しは涼しくなったかな。
 昨日(07/14)は朝から暑かった。
 6時にゴミ捨てに外へ出たところ、すでにカンカン照り。27℃?
 そんな暑い日にも関わらず、所用があって取手の友と日暮里で待ち合わせ。
日暮里駅東口 
 日暮里といっても、最近は西側の谷中・根津・千駄木方面に目が向いてしまうので、東側にはまったく出たことはないのですが、久しぶりに東口を散策しました。
太田道灌像 
 東口広場には江戸城を築いた武将・太田道灌(1432~1486)の銅像。
 道灌像は川越市役所にもありますが、この周辺はよく鷹狩りをしたということで、駅前の銅像はその雄姿。近くに「道灌山通り」があり、「道灌山下」という信号もあります。
ステーションガーデンタワー 
 「たしか東口の北側に駄菓子屋横丁があったはずやけど」
 しかしそれらしき横丁は見当たらない。
 駅前の交番で聞くと、「ああ、あれは駅前の再開発でなくなりました」
 7年前に新交通システム「日暮里・舎人(とねり)ライナー」開通にともなって、ここも急激に再開発され、ごちゃごちゃした横丁は撤去。きれいさっぱり整理されたらしい。
 ただし一部の店が高いビル(ステーションガーデンタワー)の3階に残っている、とのこと。
ステーションガーデンタワー3階 
 そこで件のビルの3階に行ってみたのですが、飲食店があるだけで、それらしい店はなし。
 ビルのフロアガイドを見ると、駄菓子・玩具を取り扱っている店がたった一軒1階に。
 そこへ行ってみたのですが、すでに飲食店に変わっていました。
 「結局、やっていけんということか」
 あきらめて、そこをあとにしました。
 
日暮里繊維街  
 次に向かったのは、南側の繊維街。ここは「布の道」といわれるほど、生地屋さんがびっしり並んでいます。
 「ここは皮の店やな。ここは和服の生地も扱ってるのか」
 と取手の友。
 彼は呉服関係に勤めていただけに生地には詳しい。
皮の店 和服生地の店
 その一角に衣料雑貨の安い店があり、女性で大賑わい。
 「しかし、みんな日本の人と違うで。聞こえてくるのは外国語ばっかりや」
 たしかに中国語をはじめ、外国語が飛び交っています。
 観光客ではないので、さすがに「爆買い」は見られなかったけど、安い店はよく知られているということか。
 安売り店
 「たしかこの辺に時計を扱う店があったはずやけど……」
 しかしその店はなし。
 「変わったなあ、ここも。しばらくこないとこの有様や」
サンダル
 我われはまたしても「浦島太郎」を認識させられ、東日暮里をあとにしました。
 一昨日(07/12)夏の高校野球全国選手権・埼玉大会を観終えて大宮公園野球場を出ると、公園の道路にオレンジ色のシャツ(NTT?)を着た集団が並んでいます。
 なんだなんだ、この連中は。
整然と並ぶオレンジ集団 
 最初はロックグループの野外ライブかと思ったのですが、家族連れも多く、音楽系ではなさそう。
 先頭の看板を見ると、サッカーの試合らしい。
 チームの名前は大宮アルディージャ。この球場はNACK5スタジアム埼玉といいます。
 そうか、この人たちはサポーターか。
表示事項 
 サッカーのサポーターというのは粗暴な人たちというイメージがあったのですが、みんな行儀よく並んでいます。
 ざっと見たところ、100組ぐらいでしょうか。
サポーター① 
 聞いてみると、大宮アルディージャはJ2で1位とか。
 サッカーのリーグにはJ1とJ2があり、J2はJ1より下のランクであることは知っています。プロ野球なら二軍に相当するはず。
 そんな下のリーグのチームに、こんなに多くのファンが集まるのか。
 おどろきました。
公園入口 
 昨日のラジオのニュースでこの大宮アルディージャがとりあげられ、「手話応援」をやったとか。
 これは2006年から始まった企画で、今回は過去最多の約1900枚のチケットが発券されました。
 用意された特別席は、チームカラーであるオレンジの特別Tシャツを身にまとった参加者で埋め尽くされた。試合前には、大宮の応援歌のひとつ「雨あがりの夜空に」に乗せた「愛してるぜ We are ORANGE」を手話を使って大合唱。
 ゲーム中にも「愛してるぜ~」の応援が始まると、参加者は手話とともに選手に声援を送ったそうです。(スポーツ報知 7月12日・電子版)
サポーター② 
 するとあのとき並んでいたなかに手話応援の人たちがいたのかな。
 そう思っても、今さらサッカー好きにはならないけど。
 ちなみに一昨日の試合は大宮が3-0で岡山を下しました。
 ご同慶の至りです。
 昨日(07/12)は大宮公園野球場(県立大宮球場)で夏の高校野球全国選手権・埼玉大会を観てきました。

 私の住まいからだと所沢航空球場や朝霞球場のほうが近いのですが、大宮公園野球場はまだ無名の高校生・長嶋茂雄さんがバックスクリーンに特大のホームランを打ち、脚光を浴びた球場なので愛着があります。
大宮公園野球場  
 前にもいいましたが、野球は球場で観るのとTVで観るのとではまったく違うスポーツです。
 TVだとバッテリーと打者のやり取りが中心。投手と打者の表情まで映し出されます。
 球場のスタンドからだと遠く離れているので選手の表情はわからないけど、全体が見わたせます。どこを見ようとまったく自由。
 その代わりなんの解説もないし、「ビデオでもう一度」ということもない
バックネット裏① 
 私が球場に着いたときは第二試合、岩槻vs.朝霞戦。4回裏が終ったところでした。
 3-2で朝霞がリードしています。
 なんとなく朝霞に活気が感じられたのですが、案の定5回の裏に2点を挙げ、朝霞が勝ちました。

 岩槻 020000000 =2
 朝霞 12002000x =5
バックネット裏② 

  このあとグラウンド整備が行われますが、これは勝ったチームがやっています。
 5回裏終了時にも行いますが、これは両チームで行います。
 どこもそうだと思いますが、これは非常にいい風習です。「自分たちが使うグラウンドは自分たちで整備する」
 そんな気概にあふれていました。
グラウンド整備
 第三試合、秩父vs.春日部東。
 前の試合の勝者・朝霞の選手が内野の土の整備をしていて、外野では次のチームがキャッチボールに取り掛かるのですが、このとき秩父の選手がキャッチボールを始めているのに対して、春日部東の選手はライト線上に成立したままじっと瞑目(精神統一?)。
 やおらキャッチボールを始めましたが、その前にお互いに深々とお辞儀。礼儀正しい。
ノック 
 その後両チームのノックによる守備練習が行われましたが、ノッカー(監督?)の上手さ、選手の動き、守備の上手さ、選手の肩の強さなどを判断して、「春日部東有利」と見ました。
水撒き 
 ノックを見ての私の予想は大体当たるのですが、昨年の川越工vs.埼玉栄は外したので、あまり偉そうにはいえません。
放送席 
 試合は最初から春日部東が押し気味。1、2回とランナーが出るのに決め手を欠き、無得点に。
 しかし3回裏、無死1、2塁で打者の打った球はサードゴロ。
 サードが取ってベースを踏み、一塁へ送球、アウト。ダブルプレー成立……。
 と思いきや、打者は走ってない。???
秩父高校・応援団 
 球審の指示でオールセーフ。
 どうやら捕手による打撃妨害があったらしい。
 これに関しては説明もなく、ビデオもないのでなにもわからない。(球場で観る欠点)
春日部東・応援団
 このあと2本の外野フライとヒットで春日部東が3点を挙げ、4、5、6回に1点ずつ加点し、勝負ありました。予想通り。

 秩  父 000000000 =0
 春日部東 00311100x =6

 今回は凡戦で、今ひとつ面白くなかった。暑かったし。
売店 
 昨日は気温が上がり、埼玉では62名が熱中症で病院に運ばれた(死者1名)とか。
 いやあ、暑かった。野球観戦はもういいかな。
 「浮草」(1959)は小津作品には珍しく旅芸人の一座を描いた作品です。
*
 とある港町に旅回りの駒十郎一座がやってきます。
 駒十郎(中村鴈治郎)は大衆食堂を営むお芳(杉村春子)のもとを訪ね、その昔ふたりがもうけた清(川口浩)を見て目を細めます。清は郵便局に勤めています。
 そして駒十郎はお芳の兄、清にとっては「伯父さん」ということになっていました。

 駒十郎の連れ合いのすみ子(京マチ子)はこれを不審に思い、座員の加代(若尾文子)に清を誘惑するように頼みます。
 純情な清はたちまち加代に夢中。ふたりは恋仲になり、それを知った駒十郎は加代とすみ子を激しく叱責します。



 そんな折ベテランの座員が一座の金を持ち逃げし、さらに客の入りは悪くなった一座は解散することになります。
 清は加代との恋愛を反対する駒十郎に反発するようになり、お芳から駒十郎が実の父親だと打ち明けられても聞く耳を持たず、ふたりは一緒になる決意を固めます。

 「これではどうもならん」
 駒十郎は気が抜けたように駅に行きますが、そこにはすみ子が待っていて、ふたりは車中の人となりました。
*
 この作品は不満だらけです。とくにすみ子(京マチ子)の人物像。
 座長の相方として役者としても力があり、経済的にも座長を助けてやったという肝の坐った女かと思ったら、座長から別れを切り出されるとすがりつく。そんなに弱い女だったの?
 少しは「女の意地」を見せてくれ。

 また若いカップルの描き方も紋切り型で、ちっとも面白くない。
 思うに小津安二郎という人は、「女はこんなもの」と決め付けているのではないか。

 今の女性はもっと「自己肯定感」が強いから、ここに出てくる女性にはなんの共感も覚えないでしょう。
 むしろ女性にとっては迷惑千万、そんな風に感じました。

 一昨日(07/08)は近くの総合病院へ行ってきました。
 前立腺肥大の診察と治療ですが、ごく軽度な症状なので通院は2ヵ月に1回。投薬される薬は最も軽いものだそうです。

 いつも問診の前に尿検査があります。
 担当医(病院長)はそれを見て、
 「うん、大丈夫だ。とくに変わったことはないね」といって終り。
 あとは処方箋を持って薬局へ。いつものパターンです。

 ただし前回(4月末)は採血された(年一回の血液検査)ので、今回はその結果通知があります。
近くの総合病院 
 この病院は2年前、骨折で約2ヵ月入院していたところです。
 ロフトの梯子段から落ちて腕と足を骨折して動けなくなったのが7月8日。
 今日7月10日は右上腕部剥離骨折の接合手術をされた日でした。
 この日から8月末まで長い入院生活を余儀なくされることになります。
 当初は右腕を固定され、車椅子で移動するという重症患者でしたが、病院スタッフの暖かい励ましや、患者仲間との交流もあって、非常に楽しい入院生活でした。

 おかげさまで今は日常生活になんの支障もなく、元気に「徘徊」できるようになりました。
 (右肩はまだ多少痛みますが)
 それだけにこの病院には懐かしいものがあります。
 待たされてもまったく気にならない。

 さて私の番になったので、診察室に入ると担当医は私の顔を見るなり、
 「癌の心配はないよ。血液はまったく異常なし」
 うれしそうな顔でした。続いて、
 「今回の尿検査も正常。調子はいいようだね」
 「毎年夏はいいんです。夜中トイレに行くこともないし」
 「汗に出るからね。じゃあ、いつもの通り」
 医師との問診はこれで終わりです。

 あとで血液の検査表を丹念に見ると、血糖値やコレステロール値などすべて正常値の範囲内。
 ただし赤血球数、血色素量、ヘマトクリットの数値がいずれも正常値の下限を少し下回っていて、Lの字がつけられています。(低いということ?)

 これは赤血球が少ないということで、いわば私の体質。
 貧血気味とか、出血すると止まりにくいという弊害があります。
 それなのに、なにもいわれなかった。
 「まあ、赤身肉とかほうれん草、ひじきを食べて、鉄分を補強すればいいのかな」
 そんなことを考えながら、薬局に向かいました。

 開港記念館を出て、我われは日本大通りへ。
 「お茶にしよう」
 というので、安い路上喫茶に行ったのですが、日陰の席はどこも満員。

日本大通りの路上喫茶店  

 7月に入ってから現在(09日07時)までの東京の日照時間はたった12分っていうけど、横浜はそんなことなかったぞ。この日(07/02)午後3時半~4時半まではカンカン照り。女流画家は日傘をさしていた。
 仕方なく、みなと大通りの「V」へ。

 
 ここで40分ほど休んで、横浜公園へ。
 「ここは春になると花壇一面のチューリップで壮観なんやけど……」
 この時期はなにもなく、案内のしようがない。ベイスターズも落ちてきてるし。

ヨコハマスタジアム 噴水の前 

 「ここはもともと遊廓やった。それが大火事で焼失して吉田新田に移ってから、跡地を整備して洋風庭園にした。これが横浜公園の始まりや」
 公園の一角に日本庭園があり、「岩亀楼の灯籠」が立てられています。岩亀楼(がんきろう)とは遊女屋のひとつ。

日本庭園 

 「横浜公園一帯は江戸時代の末期までは入海で、1865年(安政3)に埋め立てられ太田屋新田といった。横浜開港にともない新田の沼地約15000坪がさらに埋立てられ、港崎(みよざき)町と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えた。(以下略)」
 解説板にはそう書かれていますが、なにが「国際社交場」だ、外国人相手の娼家じゃないか。はっきり「遊廓」と書け。(しかも遊廓開業は外国側の要望によるもの)

水琴窟 

 ここで取手の友が「水琴窟ってなんや」と聞くので、説明にひと苦労。
 最初は竹筒の差してあるところで音を聴いていたのですが、どうも違う。
 そこで竹筒を役石の間に突っ込んで耳を当てさせ、手水鉢から役石に水をこぼました。
 「どや、シャランシャラン……という音がするやろ」
 「ほんまや」
 取手の友が音は取ってたけど、写真は撮らなかった。残念。

 このあとはお決まりの中華街。

善隣門は工事中 中華街大通り

 大通りの店で食事してから、喫茶「ブラジル」へ。
 「ここは以前は角にあって、もっと広かったけど、だんだん路地に引っ込んで、店も狭くなる一方や。それでも昔の味を守っているというので、ファンも多いんや」
 「ほう、ネルドリップで淹れてるのか」
 「うん、ネルドリップ特有のくどい苦味があるけど、これが妙に懐かしい」

ブラジル店内 コーヒー

 この日は午前中雨が降ったけど、午後から止んだし、その後(3、4日)の雨の降り具合を考えると、この日(の横浜散策)で正解だったのではないか。

 そんなことを思いながら、女流画家を桜木町近くのホテルまで送り、我われは桜木町から横浜をあとにしました。

 大さん橋をあとにして、我われは横浜開港記念館にやってきました。
 これは大さん橋の三塔ビューポイントから見たとき、ジャックの塔が見づらかったので、説明するよりは実際に行ったほうが理解できると判断したからです。
開港記念館 
 「なかなか風情のある建物やな」
 「ここはボランティアの方が案内してくれるんや」
 と、なかに入ったのですが、生憎客が多く、ボランティアの方が「出払って」いたため、私が説明することに。
当時の照明 
 横浜開港記念館は、大正6年(1917)横浜開港50周年を記念し、市民の寄付金で建てられたもの。当時は「開港記念横浜会館」と呼ばれました。塔の高さは約36m。
 その後大正12年(1923) 関東大震災により倒壊。時計塔と壁の一部のみが、かろうじて残存したのを、昭和2年(1927)に復旧されました。ただし塔のドーム屋根は復元されず。
 ※この説明はあとづけ

 「ここが塔に上る階段や。ふだんは閉鎖されてるけど、年に数回開放される日もある」
塔に上る階段 
 「これが薔薇窓いうて、当時の洋館で用いられた鉄製の窓や」
薔薇窓 
 続いてステンドグラス。
 「呉越同舟」の絵と、「鳳凰」の絵。(真ん中の菱は横浜のシンボルマーク)
呉越同舟の絵 鳳凰の絵
 そして「日米不平等条約」の絵。
 これは明治時代の「日米不平等条約調印」の様子を描いたものだそうです。
 船の名前はポーハタン号。条約を結ぶのに日本の役人が小舟で乗り込むところ。 (本来なら相手が上陸するところなのに)
 ということで、この絵は日米の力関係を表す屈辱的(?)ともいえる絵です。
ポーハタン号の絵 
 同館は太平洋戦争終戦の昭和20年(1945)連合国進駐軍により接収されました。
 本来なら取り壊されるところ、この絵に描かれた星条旗を見て、進駐軍は「日本人は敵国の旗を守ってくれてたんだ」と感激し、取り壊さなかったといわれています。
 この絵には反米的(?)気持ちも込められていたのに、皮肉なものです。
 いらいこの絵は「日米友好のシンボル」になりました。
ホール 
 昭和33年(1958)接収が解除され、翌年「横浜市開港記念会館」に名称を変更して、公会堂として利用されるようになりました。
 昭和60年(1985)創建時の設計図が発見され、平成元年(1989)横浜市によってドーム屋根等が復元されました。今は「ジャックの塔」として市民に親しまれています。
 ※この説明もあとづけ。

 こんなおぼつかない説明で、ふたりは納得したのかにゃー。
 
 我われは赤レンガパークをあとにし、新港橋を渡って象の鼻パークへ。
 ここで遊覧船に乗って横浜湾内を巡る案も浮かんだのですが、聞いてみると遊覧船はさっき出たばかり。次の船は50分後。待つ時間がもったいないので大さん橋に向かいました。
象の鼻防波堤 
 取手の友が「ここはなんで象の鼻というねん」と聞くので、その前に象の鼻防波堤へ。
 「上から見ると象の鼻に見えるからや」
 これは神奈川県庁の屋上から撮った写真です。(↓)
上から見た象の鼻防波堤 

 「あれはなに?」と女流画家が興味を示したのは逆傾斜屋根(?)の「大さん橋ふ頭ビル」。
 しかし入ってみると(クルーズ)船客のための待合室。しかも上階には上がれず。
 「なーんだ」とガックリ。
 昔は巨大スクリーンがあって、港の様子が映されていたのですが……。
大さん橋ふ頭ビル 
 「このデッキは波型になっとんのやなあ」
 以前は2階建ての構造で、1階には事務所(税関・出入国管理・検疫施設)、2階はガラス張りで旅客や歓送迎者の待合所、土産物店やレストランなどがあり、両側はデッキで、歓送迎(及び見物)はそこで行われました。
 大型船が入港したとき、大勢の人でごった返したのを今でも覚えています。
大さん橋から見る横浜の町 
 その大桟橋は平成14年(2002)年にウッドデッキ風にリニューアルされました。
 税関などの事務関係は地下に。したがってこの建物は厳密にいうと「桟橋」ではなく「岸壁」だそうです。桟橋とは橋脚で支えているもの。そのため(?)表記は「大さん橋」です。
カップル① 
 「このデッキから振り返ると横浜の中心地が見えるんや。横浜三塔が見られるところもある」
 と大きな靴あとのビューポイントを案内。
横浜三塔が見える地点 
 横浜三塔とは神奈川県庁(キング)、横浜税関(クイーン)、開港記念館(ジャック)の塔のこと。この愛称は、昭和初期に外国船員がトランプのカードに見立てたことが由来とか。
ハートロック? 
 「なんやこのハートロックスポットとは」
 前の金網におびただしい数の錠前が掛けられています。
 「横浜のステキな伝説にちなんで、大さん橋にハートロックスポットを設置! 願いを逃がさないよう、しっかりロックしましょう」との説明。
 以前こんなのあったかな。(しばらくこなかったから?)
カップル② 
 それにしてもカップルが多い。
 私としては以前の大桟橋のほうが懐かしいけど、それは単なる懐古趣味?
港を背景に記念撮影 
 こうして見るとこれでいいのかな。
2015.07.06 赤レンガ倉庫
 コーヒーブレイクには時間をとりましたが、ハワイアン喫茶をあとにし、(ワールドポーターズの)デッキストリートに出たときは、雨はもう止んでいました。
 「止まない雨はない」(ジャンゴの歌にもありました)
デッキストリート 
 「この柄、ええなあ」
 女流画家がアロハシャツを見ております。
 このデッキは衣料品、雑貨類が並ぶストリート。
 ふだんなら素通りする場所ですが、人とくると、「こういうところも興味を持たれるのか」と発見できるのが面白い。

 サークルウォークを渡って、赤レンガ倉庫へ。
 この日(07/02)は初夏→夏への切り替えの時期で係員が測量をしていました。
 毎年夏は「南国パラダイス」風になります。
赤レンガ倉庫 
 ということで、広場にはなにもないので、2号館のなかへ。
 なかは雑貨、アクセサリー、土産物店が並んでいます。
 私がここへ初めてきたのは今から30年以上前。息子(当時小5)と一緒でした。
 当時は貨物のコンテナ化で衰退の一途をたどり、廃墟寸前でしたが、ドラマや映画のロケ地として知られるようになりました。 
 周囲は(前述したように)ペンペン草が生え、倉庫内はガランとしてカビ臭く、壁には大きな落書きがありました。それでも「ここが新港埠頭の倉庫か」との感慨に耽ったものです。
 その赤レンガ倉庫も平成元年(1989)には倉庫としての役割も終え、平成14年(2002)には装いも新たに「横浜赤レンガパーク」なる商業施設がオープンしました。
夏は南国模様に 
 「なんでもかんでも商業化しやがって」
 当初は不満でしたが、中央広場では季節によって多様なイベントが開催されるので、「これもいいか」と思うようになりました。
 「2階もあるんやね」と2階に上がり、バルコニーへ。
 このバルコニーから見る港の景色はなかなかのものです。
バルコニー 
 「テラスとベランダ、バルコニーの違い、わかるか」
 「似たようなもんやろ」
 「いや、テラスというのは屋根がなくて、屋根があるのがベランダ。そのベランダが2階以上にあるのがバルコニーや」
 「するとここはやっぱりバルコニーでええのか」
 「そういうこっちゃ」
バルコニーから見た港の景色 
 バルコニーの突き当りには「幸せの鐘」
 「ふたりの愛が永遠に続くことを誓う」というのですが、撞いてみると、カァ~ン!
 うるさいのなんのって。「かなわんな、こんなやかましい愛は」
幸せの鐘 
 そういいながらも、ふたりはベンチに。ところが男女離れて座っても中央でくっつく。
 「オレの意志と違うで」
 「うそつけ、うれしそうな顔しとるやないか」
 「ええやん、これも鐘のご利益や」
 もう、勝手にせえ。
愛の(?)ベンチ 

 汽車道にやってきました。
 汽車道とは貨物線の跡地を利用してつくられた遊歩道。(1997年開通)
 いく分、小降りになってきました。

汽車道 

 「ほら、レールが残ってるやろ。当時は赤レンガ倉庫まで貨物が走ってたんや」
 「あの赤レンガ倉庫か」
 「そうや。今から30年ほど前、息子ときたことがあるけど、そのときは廃線のまま放置されていて、ペンペン草が生えとった」
 「ほんまかいな」
 (本当です)

対岸はコスモワールド 

 「ここは春になると桜でいっぱいになるから、花見客で賑わうで」
 (これも本当)

桜の季節 

 「あれ、なに?」
 「あれは海龍号。遊覧船や。この湾内をあちこち回ってるんや」
 正面から見たのは初めてなので、龍の船首像(figurehead)を撮っておきました。
 「あれ、尻尾は蛇やで」
 「わかってるで、竜頭蛇尾っていいたいんやろ」
 「バレたか」
 「わかるわい」

海龍号 

 そんなことをいいながら、ワールドポーターズへ。
 ここにハワイアンタウンがあるので、そこでコーヒーを飲もうと計画していました。
 しかし着いたときは11時を少し過ぎていたので、コーヒーの前に昼食を。

ワールドポーターズ 

 「たしかカレーがあったはず……」
 見たけどなかったので、変更して入口の「三崎漁港」なの回転寿司店へ。
 (写真は撮らず)

ハワイアンタウン 

 「ハワイアンの店なら、衣装持ってくるんやった」(女流画家)
 「それ着てフラダンス踊るんか」
 「そうや」
 「あそこに舞台があるで」

フラダンサーと 

 実際には踊らず、フラダンサーの人形と記念撮影を交互に。

 ここで飲んだのは「コナコーヒー」だったのですが、ふつうのコーヒーとの違いがよくわからなかった。これって、単に当方の味覚の問題ってこと?

コーヒーブレイク 

 我われは「ヨコハマグランド・インターコンチネンタル」の角から南下し、国際大通りを渡って、右手にクイーンズスクウェアを見ながら「桜通り」を南下しました。
 ここは春は桜並木になるのですが、この日は雨で、ランドマークタワーにも霧がかかるほど。
ランドマークタワー 
 そうこうしている間に階段広場に。
 「この広場では休日になると、大道芸なんかやるんや」
 「キミもここでギターを弾くんやろ。あそこに掛かってるやつで」
 と看板のエレキギターを。
大道芸の光景 
 「いや、エレキはあかんのや。アコースティックやないと。『禁じられた遊び』なんか上手いもんやで」
 「キミが弾くのは、『禁じられた遊び』やろ」
 「はははは。バレたか」

 雨が降っているので広場はそこそこにして、となりのドックヤードガーデンへ。
 「ここで船を修理するんや」
 とドックの仕組みをひとくさり。
上から見たドック 
 下にも下りてみました。
 「下りてみるもんやね。視線が変わるとドックが見えてくる」
 と女流画家。なるほど。
 私は横須賀で実際のドック跡を見たことがありますが、底はもっと深くて狭く、船底のキール(竜骨)部分が浮くようになっています。
 ここは途中で埋め立てられ、敷石で舗装されています。これでは船は立たない。
ドックの下 
 雨は相変わらず降り続いていて、このときが最も激しく、「ティータイムにするか?」と提案されたのですが、心を鬼(?)にして、「いや、それはこの先で」と一蹴。
 彼らは文句もいわず、土砂降りのなかでもカメラを向けるとニッコリ。(サービス精神?)

雨ニモ負ケズにっこりと

 「ここはランドマークタワーの真下なのね。撮っておこう」と女流画家。
 当方も撮ったけど、先端部分に霧がかかってまったく見えない。
 70階建て、高さ296.33m。
 昨年あべのハルカス (300.0m)に抜かれるまでの21年間、超高層ビルとしては日本一の高さを誇っていました。
ドックの下から見たランドマークタワー 

 少し小降りになったので、ドックヤードガーデンをあとにすると、左手に「帆船日本丸」
 その手前に当時の船会社の写真が。
 これは海から見た景色で、左手のドックが現在「日本丸」が入っているところ、中央の「Y.D.C」とあるのが(おそらく)今のドックヤードガーデン。
海から見た当時の船会社 
 「日本丸」は昭和5年(1930)に進水した文部省の航海練習帆船で、昭和59年(1984)に退役した後、翌年よりパーク内の展示ドックで浮体展示されています
日本丸メモリアルパーク 
 「今は帆は張られてないけど、月に1回展帆する日があるんや。そのときはけっこう見物人で賑わうで」(あとで調べると、冬の期間は展帆されない。次回の展帆日は07/20)
展帆された日本丸 
 「帆は張ってなくても絵になるなあ。こんな景色は京都では絶対見られんから」
 そういって友人は写真(動画?)を熱心に撮っておりました。
日本丸にて 
 昨日(07/02)は同窓生ふたり(取手の友と京都の女流画家)と横浜を散策しました。
 横浜駅ポルタ前で待ち合わせ、日産グローバル本社ギャラリーを経てとちのき通りへ。

 遊歩道を降りたところが「マリノスタウン」
 雨にも関わらず、横浜マリノスの選手か懸命に練習しております。
 「偉いなあ、こんな雨やというのに。これぐらい練習せんと強うなれんのやな」
横浜マリノスの選手たち 
 「考えてみたら、ワシなんかでも高校時代はハードなことやっとったで。授業終ったら御所一周走っとった」
 この友はハンドボールをやっていたので、そのころの思い出をひとくさり。
臨港パーク
 臨港パークに着きました。
 「雨の海辺も風情があってええなあ」
友人  
 「おや?」
 入り江の入口の網になにかが掛かっています。
 しかしよく見るとゴミ。「なんや、海藻か貝でも掛かってるのかと思った」
 「はははは。キミらしいな。採って食うつもりやったんやろ」
 「そうや。それどころか昼飯にご馳走するつもりやった」
 「そんなん。要らんで」
 例によってアホな会話を。
引っかかるのはゴミばかり 

 「なんや、リマちゃんて」
 といいながら、友人が女の子の石像と握手しています。
リマちゃんと握手 
 像の横にある説明書きによると、これは日本人がペルーに移住100周年を記念して1999年につくられたもので、リマとはペルーの首都。リマちゃんはペルーの方向を向いているそうです。
リマちゃん 
 ここは何度もきてますが、まったく気づかなかった。
 人とくると、このような発見ができるのが面白い。

 あとは定番「錨のモニュメント」前で記念撮影。
 私も撮ってもらいましたが、掲載はしません。
錨のモニュメントと 
 例の「ヨコハマグランド・インターコンチネンタル」の前で女流画家がうしろを振り返って、
 「あの木のシルエットが素晴しい!」
 なるほど、単純な構図ですが、雨に煙って海と調和してなかなかの風景です。
一幅の絵?  
 さすが絵描きさん、見るところが違います。
 「くりはま花の国」南門から徒歩5分、212号線沿いに「住吉神社」があります。
 住吉神社といえば、佃島(東京都中央区)の住吉神社は大坂の住吉大社と密接な関連があるので、「ここもそうか」と思ったら、関係はないらしい。
一之鳥居 
 それでも共通点はあります。
 一般的に住吉神社とは、主として底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)の「住吉三神」を祀る神社で、それぞれ海の神、航海の神、和歌の神とされています。(Wikipedia)
石段を上ると二之鳥居 
 住吉は古くは「すみのえ」と読まれていたそうで、「澄んだ入り江」のことで、澄江、清江とも書きますが、平安時代のころから「スミヨシ」と読むようになったとか。
 大坂市の「住之江区」の名称も、古代からそう呼ばれていたそうです。
さらに石段を上る 
 久里浜の住吉神社も、由緒書きによると、主祭神は中筒之男命(ナカツツノオノミコト)、配祀神には表筒之男命(ウワツツノオノミコト)、他には天照大神(アマテラスオオカミ)、金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)、素戔男尊(スサノオノミコト)がおられるとか。
 底筒はどうした?
本殿 
 創建年代は不詳ながら、吾妻鏡や相模風土記などによると、約1000年前と考えられています。
 昔は栗浜(くりはま)大明神といわれ、三浦半島を支配していた三浦一族水軍の守り神として信仰されていました。

 また源頼朝も政子と参詣したそうです。
 これは政子の出産の御礼で、このとき馬を奉納したとか。
幸神社(左)と稲荷神社(右) 
 いろんな文献から想像すると、当時はもっと大きな神社だったと思われます。
 本殿のつくりはなかなか風格がありますが、側面に回るとガラス戸。
 うーん、ちょっと興ざめ。
側面はガラス戸 
 ちなみに住吉神社は全国に約600社あるとのこと。
 このようなガラス戸本殿は他にもあるのだろうか。
 当面の興味はそれだけになってしまいました。
2015.07.01 久里浜天神社
 京浜久里浜駅から「くりはま花の国」へ行く途中に「久里浜天神社」があります。
 全国各地にある菅原道真公を祀った天神様です。

 境内の「由緒書き」によると、ここは三浦半島に鎮座する88社の神社のなかでも唯一の天神様だとか。
久里浜天神社・鳥居 
 学問の神様だけあって、ご利益の「受験合格」「技芸上達」はわかるけど、「ぼけ封じ」?
 当方にとっては最も切実な願いごとではありますが。

 天神様には大てい牛がいるものですが、ここは珍しく道真公が乗っておられる。
 気品があって聡明なお顔立ち。
牛に乗った道真公 
 この牛は「願掛け撫で牛」といって、自分の患部と牛の同じ箇所を交互に撫でさすると「霊験あらたか」であるらしい。
 誰だ、そこで生殖器を撫でてるのは?
 そんなことをしたら牛さんが「もおーッ!」と怒るぞ。(それでも願いは叶えてくれる?)
願掛け撫で牛 

 それにしても、どうしてこんなところに天神様が?
 不思議に思いますが、これには込み入った事情があります。ざっと説明しますと……。
 この地はもともと芦原でなにもないところでしたが、江戸初期に大坂出身の砂村新左衛門 (1601~1667)が幕府の許しを得て、あたり一帯を開拓することになりました。
本殿 
 開拓は困難を極めましたが、ある夜新左衛門の夢枕に大坂の福島村天満宮の祭神・道真公と天照皇大神のお告げがあり、おかげで(?)新田開拓を完成することができました。
 新左衛門はその感謝を込めて、万治3年(1660)道真公をここに分霊して、天神社を創建したというわけです。
 天神様の御神木といえばふつうは梅ですが、ここは欅(ケヤキ)。
 ケヤキは大きく伸びるからねえ。
御神木 
 道真公といえばやはり学芸の神様。
 境内にはご幼少の折に詠まれたという歌の絵看板があります。
 「うつくしや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」
 御年5歳ですと。
 私なら鼻水垂らしてピーピー泣いとった。
道真公の歌 
 できる人は小さいときから違うんですね。