県道ふじみ野朝霞線(266号)の鶴瀬~みずほ台のほぼ真ん中あたりに「鶴馬橋」という表示があります。
県道266号線 
 とても橋には見えませんが、脇に入ると「富士見江川親水公園」の入口。
 下を小さな川が流れています。これが富士見江川。
浸水公園入口 
 下りてみると、上の県道とはまったくの別世界。
 樹木で覆われているせいか、ひんやりします。崖の下には四阿が。
 ここは等々力渓谷(東京都世田谷区)か。
 あれほど深くもなく、大きくもないけど、雰囲気は似ています。
富士見江川親水公園 
 それにしても、人がいない。
 この日(006/29)は梅雨の晴れ間で、午後から気温が上昇したというのに、子どもの姿もない。
 もっとも「この水は飲まないでネ」との表示があるので、水質はよくないらしい。
 子どもがこないのはそれでか。

 とはいえこのひんやりした場所は捨てがたい。
 私のような年配者の散歩コースにはいいのではないか。
東武東上線 
 親水公園は東武東上線のガード下で途切れ、暗渠になります。
 そしてガードをくぐると、浅い水路と平行した遊歩道。これが富士見江川プロムナード。
 この浅い水路は富士見市の説明によると井戸水だそうです。
富士見江川プロムナード① 富士見江川プロムナード②
 富士見江川の上流は所どころ暗渠になって、やや深い側溝として流れています。
 安全のため、金網(トレリス)で覆われています。
側溝のトレリス 
 さらにその上流は親水護岸。
 四阿もあるので、ここで休むのもよし。
親水護岸 
 ここは町名でいえば富士見市関沢。
 谷地になっているので、ちょっと入りにくいけど、入ってみるとなかなかの景観。
 近所にこんなところがあるなんて、ちょっとおどろきの発見でした。
富士見江川プロムナードの石碑 
 これからはちょくちょく寄ろうかな。
... 続きを読む
スポンサーサイト

 「彼岸花」(1958)がつくられたのは「東京暮色」の翌年。同監督初のカラー映画です。

 大手企業の常務である平山渉(佐分利信)は長女・節子(有馬稲子)の縁談に気を揉んでいましたが、ある日会社に現れた谷口(佐田啓二)から節子と付き合っていること、結婚を認めてほしいといわれ、驚くとともに不快感を抱きます。


 一方旧友三上(笠智衆)からは、家を出て男と暮らしている娘・文子(久我美子)の様子を見てくれないかと頼まれ、銀座のバーで働いている文子を訪ねます。

 平山は文子には理解を示しますが、自分の娘・節子には無理解。
 妻・清子(田中絹代)や次女・久子(桑野みゆき)も間に入って「谷口さんはいい人よ」とか「お似合いのカップルだわ」と褒めそやしても、ますます頑なになります。



 そんな折、平山の馴染みの京都の旅館の女将(浪花千栄子)の娘・幸子(山本富士子)が上京し、平山に自分の結婚に母が強硬に反対していると悩みを打ち明けます。
 それを聞いた平山は、「そんなお母さんの意見など聞く必要はない。好きな人と結婚すればいいじゃないか」といいます。


 これに対して幸子は、「じゃあ、いいのね、好きな人と結婚して。節子にそう伝えるわ」
 これは節子の仕掛けた罠で、すべて芝居でした。
 さらに家に帰れば妻から、人の娘と自分の娘に対する態度の矛盾を衝かれ、ますます不愉快になっていきますが、最終的には節子の結婚を認めざるを得なくなります。

 この映画には終始違和感を覚えました。
 父の世代と娘の世代が、自らの結婚に関してこんな会話を交わすだろうか。


 私には娘はいませんが、親戚や友人・知人に息子と同世代の女子は何人かいます。
 その娘たちとは小さいとき息子と一緒に遊んだことはありますが、年ごろになってこんな会話を交わすなど、まったく考えられない。(向こうも同じでしょう)


 逆に私たちが若者のときでも、親の世代に自分の結婚話を相談したことはないし、まったく考えられなかった。
 何人かの女性に聞いても同じでした。それどころか父親の友人なんか会ったことがない、という女性も。


 するとこれは私たちよりもっと上の世代?
 仮にそうだとしても、父親と娘の世代でこんな会話を交わす風潮が本当にあったのだろうか。
 私はなかったと思います。


 これは小津安二郎の「こうあってほしい」という父と娘の姿。
 むろん劇映画はフィクションだからそれでいいのですが……。

 「おや、これは?」
 川越、中院の近くの空き地に数基の墓石が立てられています。
 しかも隅には割れた敷石が無造作に積み上げられている……。
 なんだ、ここは。ガラクタ置き場か?
一見ただの空き地 
 私の近所にも何ヶ所かガラクタ置き場があります。
 甕(かめ)や壷の類が多く、石仏や墓石なども転がっています。(便器もあり)
 これもその類いと思ったのですが…。
「南院遺跡」の表示と絵地図 
 よく見ると「南院遺跡」と絵地図の表示があります。
 それによると、ここは「天台宗星野山無量寿寺 多聞院南刹 南院遺跡」
 明治二年の神仏分離令公布に伴い廃仏毀釈によって廃寺となった、とのこと。
石碑 
 喜多院は今では川越屈指の観光地ですが、本来は星野山無量寿寺北院(仏像院)。
 無量寿寺には他に中院(仏地院)、南院(多聞院)があります。
 北院→喜多院、中院→中院は現存しますが、南院はなくなった、と解説にあります。

 私は単純に喜多院の南に中院、さらにその南に南院があったと思ってました。
石仏や墓石 
 しかしこの「南院遺跡」の解説によると、南院はこのあたりにあったらしい。
 すると南院は中院の北東に隣接していたということ?

 空き地はロープで囲まれていますが、入口があるのでなかに入りました。
 石仏や仏塔、石版などが立てられています。そして片隅には壊れた敷石や石柱などが無造作に積み上げられている。どうやらここに全部集められたらしい。
敷石や石柱など 
 絵地図からしても南院はもっと大きかったらしく、この空き地はほんの一部。
 うーん、南院の遺跡がこんなぞんざいに扱われているとは。
仏塔 
 周囲は高校と住宅地。
 市としてはこれ以上拡張できるわけもなく、財政も余裕がないだろうから、放置したままなんでしょう。それどころか、そのうち撤去される?

 なんとも心もとない「遺跡」ではあります。
 「東京暮色」(1957)は小津映画のなかでは珍しく破滅的な作品です。

 銀行に勤める杉山周吉(笠智衆)は男手ひとつでふたりの娘を育ててきました。
 姉の孝子(原節子)は嫁いでいますが、夫との折り合いが悪く、幼い娘を連れて実家に戻ってきます。
 妹の明子(有馬稲子)は遊び人の男たちとつき合うようになり、そのなかのひとり木村(田浦正巳)と深い仲になり、彼の子を身籠ってしまいます。
 中絶費用を用立てするため、明子は叔母の重子(杉村春子)に金を借りようとしますが断られ、重子からこれを聞いた周吉は怪訝に思います。



 明子は木村を捜すために、しばしば雀荘を訪れますが、そこの女主人喜久子(山田五十鈴)はやたら明子に関心を持ち、また杉山家の事情をよく知っているので、彼女こそ自分の実母ではないかと疑問を持ちます。
 喜久子はかつて周吉が京城(ソウル)に赴任していたときに周吉の部下と深い仲になり、出奔した過去がありました。
 明子は中絶手術を受けたものの、木村の不誠実な態度に絶望し、鉄道にはねられ息をひきとります。
 孝子は夫の元に戻り、喜久子は現在の夫と北海道へ行き、周吉はひとり日常生活へと戻っていくという結末です。

 「この話、どこかで見覚えがある」と思ったら、「エデンの東」(1955)。
 ふたりの兄弟を姉妹に置き換えています。

 小津作品というのは、殺風景な家族関係のなかにもひと筋の光明というか、ほのぼのとしたものが感じられますが、これにはまったくない。暗いままで終っています。
 今の感覚でいえば、明子は死ななくてもよかったように思いますが、当時はこのような終らせ方をするしかなかったのか。

 ひょっとして、これは小津安二郎の意欲作?
 本当はこの様に「救いのない家族」を描きたかったのではないか。そんな気がします。
 今週(21日)の正午過ぎ、川越市の菓子屋横丁で店舗など5棟が全焼し、90歳の男性が死亡しました。
 警察の調べでは、亡くなった男性の菓子店の1階調理場付近の焼け方が激しく、ここが出火元と考えられています。原因は目下捜査続行中。

 ニュースではこのあたりには交通規制が敷かれているとのこと。
入口に「行き止まり」の表示 
 たまたま昨日(06/25)川越に用事があったので、帰りに寄ってみました。
 一番街の裏手、養寿院側から入ったのですがが、ほとんどの店は閉まったまま。たった1軒開いている店があったので聞いてみると、「実は今日、入口の門が撤去されたんです。だからどの店もまだ開店してないんです。でもそれでは活気がなくなると思って……」との説明。
ほとんど閉店 たった一軒開いてる店
 その先はフェンスで閉ざされていました。
 そうか、養寿院側の入口に「この先、行き止まり」という表示があったのはこのためか。
 しかもここは前日(06/24)まで閉鎖されていたらしい。
「行き止まり」のフェンス① 「行き止まり」のフェンス②
 いったんそこを出て、高澤通りから現場を見ることにしました。
 まず、フェンスの反対側。
 なるほど、これはひどい。
フェンスの反対側 
 右奥の3階建ての店は鉄骨が残っているだけ、手前の店と左側の店は全壊。残っているのは焼け焦げた木材のみ。こうも無残に燃えるものか。これでは通れないのも道理。
焼け跡・全景 
 横手の駐車場からはよく見えます。
 焼け焦げた木材に混じって電器コードが数本。なかには観葉植物(?)も。
 さらにいちばん外の波板まで溶け崩れていました。火事の強さがわかります。
焼け跡① 波板が溶けるほどの熱だった?
 鉄骨の建物を撮っていると、後ろで見ていたオジサン。
 「これは全部違法建築だよ。ほとんど申請しないで勝手に増築してるだろ。消防署でも薄々気づいていたけど、観光地だけに手が出せなかった」
 「えッ、そうなんですか」
 「今後の調査にもよるけど、元のような復旧案は許可されないだろうなあ。相当厳しくなると思うよ。こういうところは火事でも起こらない限り、再開発できないんだよ」
焼け跡② .
 うーん、そういう事情もあったのか。
焼け跡③ 
 昨日はたまたま寄って無残な光景を撮ったけど、これは自分への戒めを込めて。
 火の始末は用心するに越したことはない。
 「麦秋」(1951)は以前TVで放映されたのを観たことがあります。
 そのときは30代。「こんなものかね」という印象でした。
 自分でもこれを理解できるほど熟成しているとは思わなかったのですが……。

 今回は熟成しているはず(?)の年齢になって改めて観ました。
 北鎌倉に暮らす間宮家は、周吉(菅井一郎)と妻(東山千栄子)老夫婦、医師の長男・康一(笠智衆)、妻・史子(三宅邦子)、ふたりの息子、それに長女・紀子(原節子)という大家族。
 いつも初老の父親役の笠智衆が珍しく息子の世代を演じています。
 息子の世代とはいえ二児(小学生)の父親。きかん坊の子どもたちに「こらッ!」と怒るのですが、なんの迫力もない。もっともこれが笠智衆の持ち味ですが。

 紀子は28歳で独身。勤め先の上司・佐竹(佐野周二)から「売れ残り」と冷やかされます。
 この上司は平気で酒の席につき合せる。どれもこれも今ならリッパなセクハラ行為。
 しかも「オレが紀ちゃんの相手を決めてやる」と縁談を進める。
 まったく余計なお世話です。
 当時のOLはこんなひどい環境で仕事していたのかとつくづく同情いたします。

 さらに同級生との会話
 独身組と既婚組が対立すると、「あなたたち(売れ残り組)にはわからないわよねえ」
 とからかう。
 まったく上っ調子の会話で空々しい。(女の人ってこんな会話するの?)
麦秋 
 家に帰れば兄・康一が「早く嫁に行け」と父親風を吹かす。
 そして佐竹の話に乗り気になり、縁談の相手が42歳であることがわかっても「紀子の年齢では贅沢はいえない」と容認します。
 この一家は老夫婦にはなんの力もなく、紀子の状況に「可哀相にねえ」というだけ。なんの助言もしない。(発言権もない)

 康一の勤める東京の病院には部下の医師・矢部謙吉(二本柳寛)がいて、一昨年に妻を亡くしてからは幼い娘と母親(杉村春子)と一緒に暮らしています。
 その矢部が秋田の病院へ転任することになり、紀子が挨拶に行くと、母親から「あなたのような人を息子の嫁に欲しかった」といわれ、それを聞いた紀子は「あたしでよかったら…」と矢部の妻になることを承諾します。

 間宮家では皆が驚き、佐竹からの縁談のほうがずっといいではないかというのですが、紀子はもう決めたことだといって譲らず、矢部と秋田に赴きます。
 それを機に老夫婦は田舎に隠居し、実った麦畑を眺めて、これまでの人生に想いを巡らせるというところで終わりとなります。
 タイトルの「麦秋」とは、麦の収穫期である初夏をいい、俳句の季語にもなっています。
 私としては映画にリアリティを求めようとは思わないけど、説得力は必要です。
 それまで独身を貫いてきた紀子がなぜ矢部の妻になろうとするのか、さっぱりわからない。
 以前から矢部に好感を抱いていたのか。それとも周囲が敷いたレールに乗りたくなかったのか。
 私は後者と解釈するけど、だったらもう少し「女の意志」を表現してほしかった。

 思わせぶりで、観客に忖度を要求する。小津安二郎もそうだったのか。
 浅草の水上バス発着所から、我われは雷門の前へ。
 ここは浅草寺の総門で、正式名は風雷門。観光の定番だけあって大勢の人で混雑します。
 「この大きな提灯は京都でつくられてるんやで」
 提灯の裏を見ると、『京都 創業享保15年 高橋提燈株式会社 平成25年11月 謹作成』とあります。そういえば2年前、この提灯が張り替えられたとニュースで見たことがあります。
雷門 
 雷門をくぐって仲見世を歩きました。
 「おッ、人形焼か、美味そうやな。こっちは揚げまんじゅう。これも美味そう」
 我孫子の殿様は食べ物に目移り。
 「あかんえ。これ以上お腹が出たらどうすんの」と所沢女。
仲見世 
 「おや、あれは?」
 柳通りに人だかり。なにかと思えば「白波五人男」の人形が。
 「白波五人男」とは歌舞伎の演目『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』に出てくる盗人(ぬすっと)集団で、その首領が日本駄右衛門。
日本駄右衛門と 
 そして屋根には弁天小僧(菊之助)。
弁天小僧 
 壁をよじ登っているのが忠信利平。
忠信利平 
 当方はこの分野には不案内ですが、この連中がグルになって商家の大店の金を盗ろうとするのですが、弁天小僧も日本駄右衛門も大店の縁の者とわかって、なにも盗らずに去って行くという話です。(これについては当方より所沢女のほうが詳しそうでした)

 浅草寺には一応参拝して、オレンジ通りへ。
浅草寺宝蔵門にて 
 ここには芸能・文化人の手形があります。岡本文弥(浄瑠璃)、市川團十郎(歌舞伎)、小沢昭一(俳優)、櫻川ぴん助(江戸かっぽれ、幇間)、古関裕而(作曲家)……など。
芸能人の手形 
 「大沢悠里(アナウンサー)さんの手形も最近ここに入ったんや」
 「難クセつけたんやろ。今度いうといたるわ」
 (これは内輪の話です)

 疲れたので、この通りの喫茶店でコーヒーブレーク。
 「カップが変わってるなあ」
 「スプーンも。これは受け皿に置かんでもええ様に、わざと曲げてるんや」
 「それはわかるけど、洗うの面倒臭そうや」
 コーヒーはなかなか上品な味でした。
コーヒーカップ 
 喫茶店を出て伝法院通りを散策。
 通りの北側はテントの庇を出した小さな店が並んでいるのですが、夕方になって店仕舞い。
 以前、通りの写真を撮ったら、「撮るなよ」と店の人に怒鳴られました。店内を撮ったわけじゃないのに。(怪しい商売?)
伝法院通り 
 ちなみにズケズケと荒っぽいしゃべり方を「伝法な口調」といいます。
 これはその昔、伝法院の寺男が寺の威光をかさにきて境内の見世物小屋や飲食店で無法な振る舞いをしたことに起因するそうです。怒鳴ったのは伝法の人?
大黒屋の前 
 夕食はここの「大黒屋」の天丼。
 浅草では有名な店ですが、関東風の黒っぽい天つゆがかかっているのが特徴。(写真はなし)
 「これやったら、柴又の天丼のほうが美味かったで」と殿様。
 さすが殿様、はっきりいいよる。
 もっとも彼は伝法の人とは違うけど。
 この日(06/20)は土曜日ということもあって、浜離宮の船着場には多くの人が。
 「ワシら、最後尾やで。乗れるんかな」
 「大丈夫や。ここで降りる人もいるし。それに乗ってしまえば5分ほどで日の出桟橋や。そこではもっと人が降りるから」
 実際その通りになりました。
船内 
 折り返しの日の出桟橋からは2階船室の最前列に席をとりました。
 隅田川の水位(潮位)が高くなり、屋上のオープンデッキは(橋をくぐるのに)危険とのことで閉鎖。正解でした。
満員の船内 
 竹芝桟橋には豪華クルーズ「ヴァンテアン号」が停泊しています。
 食事を楽しむもので、私なんかとは趣向が違うかな。
ヴァンテアン号 
 我われが乗っている水上バスは、浅草~浜離宮~日の出桟橋を結ぶ単なる交通機関です。
 今から35年ほど前、浅草から水上バスに乗って、隅田川の川下りを楽しみ(?)ました。
 しかし着いたところは日の出桟橋。ちょっと殺風景なところです。
 歩いて浜松町まで行きましたが、浅草で盛り上がった気分が一気に冷めたのは否めない。
 コースを逆にすればよかったのだ、と痛感しました。
レインボーブリッジ 
 浜離宮も通りました。
 「ああ、あれがさっきワシらがいたところや」
 「そうそう、あの塀のむこうに堀があるやろ。あれが船の水路や」
新型? 
 その先は築地の中央卸売市場。
 老朽化で豊洲へ移転することになっていますが、そうすんなり行くのだろうか。
 卸売市場はともかく場外にはいろんな店があって、これがけっこう楽しかった。これらは一体どうなるのだろう。
左岸は築地 
 「あれが柳橋か。あの先は神田川やろ」
 「そうや」
 「神田川の先はどうなっとんねん」
 「井の頭池が水源やと思うけど……」
 ここで私、重大な誤りをいっておりました。「上流は石神井川」というのは真っ赤なうそで、神田川とはつながってない。お詫びして訂正いたします。
中央大橋 蔵前橋
 そうこうしているうちに、船は清洲橋、蔵前橋と橋の下をくぐり、浅草吾妻橋へ。
 「あのウ〇コビルを見ると、浅草にきたと実感するなあ」
 ウ〇コビルとは橋の東側にあるビール会社のビル。本当は「炎のオブジェ」だそうですが、やっぱりウ〇コに見えるなあ。
おなじみウ〇コビル 
 一昨日(06/20)は京都時代の友人3人と浜離宮に行ってきました。

 新橋SL広場で待ち合わせ、大手門から入る予定だったのですが、入口を間違えてしまい、中の御門から入ることに。新橋の景観も変わっていたからなあ(自己弁護)
新橋のSL広場 
 このあたりは将軍家の鷹狩場でしたが、四代家綱の弟松平綱重が海を埋め立て、屋敷を建設。
 その後、六代家宣のとき、将軍家の別邸になり、「浜御殿」と名づけられました。
 明治になって皇室の離宮となり、名前も浜離宮に。
 戦後になって東京都に下賜され、有料公開されるようになりました。
潮入りの池(大泉水) 
 中の御門から入ってほどなくして潮入りの池。(海水を引いています)
 お伝い橋を渡って中島の御茶屋に出ました。
お伝い橋 
 「こんなところに住みたいなあ。夏は涼しそうやし。ワシ、憧れてんねん」
 「しかし管理が大変やで。土台が水に浸かってるから、腐食するのも早いし」
 「そら大丈夫や。お抱えの大工呼ぶから」
 「そんなん、おんのか」
 「お前や」
 (無茶苦茶いいよる)
中島の御茶屋 
 橋を渡ったところに小高い丘が。(富士見山)
 これは築山といって池を掘ったときにできた土で山を築いたもの。日本庭園の基本です。
 「ほう、けっこう見晴らしええやんか」
 「考えてみたら、都会の真ん中にようこんな広い緑があるんやな。改めて東京は凄い」
 感心しております。(彼は我孫子の住人)
富士見山からの眺め① 富士見山からの眺め②
 その我孫子が「あれ、なんや。防空壕か?」というので、近くまで行きました。
 「トイレか?」
 それにしては板戸で閉ざされている。近くまで行ってやっとわかりました。
 バードウォッチングの野鳥観察場。「なーんや」
謎の建物 実は野鳥観察場
 この我孫子の友は昔からお調子者で、「将軍お上がり場」(将軍が舟で乗降するところ)では偉そうに、「これお供の衆、苦しゅうない」
 「こんな腹の出た将軍、おったかな」
 「おったがな。早う飲み物を持って参れ」
 「はいはい。将軍様の飲み物」と所沢の女史。
 「なんや、水かいな。ビールと違うのか」
 「こんな時間にビール飲んだら、また腹出るで」
将軍様? 
 ここは何回かきていますが、人とくるといろんな話ができて、違う視点から観察できるのが面白い。
 ここは水上バスの発着場の近く。ということで船のくるのを待ちました。
 昨日(06/20)は久しぶりに銀座(中央通り)を歩きました。
 まず一丁目から。
銀座一丁目 
 ティファニー、ダンヒル、英國屋……など、ブランド店が多いように思われました。
 ただしこのあたりは以前からあまりきてなかったので、どんな風に変貌したのか、よくわかりません。
高級ブランド店が並ぶ 

 三丁目には「日本の道百選」の識標がありました。
 当然といえば当然。
 この道は日本の道路の起点となる日本橋から南下したもので、国道1号・国道4号・国道6号・国道14号・国道15号・国道17号・国道20号・都道437号・都道452号の各路線の一部を南北に継ぐ道でもあります。

日本の道百選の識標 

 そして銀座四丁目。
 ここのシンボルといえば時計台。
 戦前からあって昔は服部の時計台といわれていましたが、今は和光の時計台です。

銀座四丁目のシンボル 

 向かい側は銀座三愛。
 ファッションショップが入っていて、若者に人気のあるところです。

銀座四丁目の交差点 

 和光の時計台の斜め向かいでは銀座の移り変わりの写真が展示されていました。
 これはこれで見る価値はありますが……。

銀座風景写真展 

 
 銀座は四丁目から八丁目まで、2年前友人ふたりと歩いたことがありますが、話に夢中になって風景はよく覚えていません。
 六丁目(松坂屋?)は工事中。何年後完成するのでしょうか。

銀座六丁目は工事中 

 ここで八丁目に行く前に、花椿通りを東に入って、燃料会館の角の小路を入りました。
 ここにはかつて原稿を入れていた夕刊紙の事務所がありました。
 お世話になった編集長は他界され、やがて廃刊になりました。
 ビルの下には喫茶店があり、編集の人たちとよく打ち合わせをしたものですが、その喫茶店もなくなりました。

夕刊紙の編集局があったところ 

 そして銀座八丁目。
 ここに「パウリスタ」という喫茶店があります。実はここが「銀ブラ」と密接に関係あるとか?
 そもそも「銀ブラ」の由来は、①銀座をブラブラ歩く、②銀座でブラジルコーヒーを飲む、の2説あって、専門家の間では②が有力だそうです。

 当時、ここには「喫茶ブラジル」と「カフェ・パウリスタ」の喫茶店がありました。
 パウリスタとはブラジル第二の都市サン・パウロからきていて、「パウロの人」という意味です。
 喫茶ブラジルは一度行ったことがありますが、コーヒーは高かった。(店主は東京老舗珈琲店三巨頭のひとり)
 
 それに比べパウリスタはそれほど高くなかったので、夕刊紙に原稿を届けにきたとき、しばしば寄りました。
 ここのコーヒーはコクと香りのある、なかなかいい味でした。

パウリスタは今も健在 

 その「パウリスタ」はまだ健在でした。
 店の様子は以前とは違っているようです。ちょっと惹かれましたが、先を急いでいたので、次回にすることにしました。

 今から35年ほど前、名古屋の某ゲイバーを取材したときのこと。

 ショータイムで踊り手(ゲイ)が変わるたびに乱入してくる男がいました。
 坊主頭にいかつい身体つき。相手に合わせて踊るのです。

 店内からはやんやの拍手。しかしこちらは大迷惑。これではうかつに撮れない。
 撮影の許可は得ているのですが、こんな男が写ってたらぶち壊しになるし、「この野郎、なに撮ってんだ!」といわれかねない。(実際、そのスジの男です)

 しかしこの男、踊りはかなり達者で、洋舞のときは軽やかなステップを踏み、日舞の場合は腰つきや指先などがピシリと決まっていて、見事なものです。
 それに絡むのは最初の数分で、すぐ離れる。
 そうか、離れてから撮ればいいのか。
 ということで、なんとか写真は撮れる。そのうち、男が離れるタイミングもわかってきました。

 「おや?」
 何曲目かで、この男が踊り手との離れ際に、相手の着物の袖に紙幣を素早く入れたのを見ました。
 それはほんの一瞬、しかも客からは死角になるので、まったく見えない。
 なんという男だ!
 男は乱入するたびにそれをやっていたのです。
 頭をガーンと殴られた思いでした。

 これが粋というものか。

 こちらが茫然としている間に、男はもう退席していました。引き際も粋でした。
 今回なぜこんな話をしたかというと、チップの渡し方があまりに品のない町長のことが取り沙汰されているからです。
 なんでも女性演歌歌手にチップを渡すときに胸を触ったとか。
 浅ましい!
 あのヤクザ男とはえらい違いだ。
 ちっとはあの男の爪のアカでも煎じて飲んだらどうだ。
 212号を北に歩くと開国橋にさしかかります。
 ここは平作(ひらさく)川の河口で、ここを渡る橋です。
 橋名の由来は場所的にペリー上陸の地に近いところからですが、開通したのは昭和4年(1929)というからペリーが上陸してから76年も後のこと。
 現在の橋は昭和52年(1977)に掛けかえられたものです。
開国橋 
 このあたりは漁港というか、船宿が多いため、橋のたもとには漁具が無造作に転がっています。
 いかにも漁港の風景。
開国橋付近 開国橋より見る平作川
 神奈川県道212号はこの開国橋を渡るのかと思えば、さにあらず、左折して平作川沿いに上流に向かいます。しかし211号ともいわれ、その区別ははっきりしません。
県道212号線(右は平作川) 
 平作川は三浦半島最長の河川(といっても約8km)。三浦半島最高峰の大楠山東を源とし、横須賀市南東部へと流れ、住宅地や工業地の間流れて、久里浜で浦賀水道に注ぎます。
平作川 
 そこで平作川沿いの道(県道212号)を上流に向かいました。
 雰囲気が横浜の掘割川に似ています。

 「おや?」
 前方に錆びた鉄製の橋。欄干といえるのかどうか、ただの手すり。味も素っ気もない。
 橋名の表示を見ると「御稜威橋」。ごりょういばし?
錆びた鉄製の橋 
 橋の向こうは陸上自衛隊久里浜駐屯地の正面入り口です。
 京急のパンフレットによれば、「見学スポット」。そこで正門の門衛の方に聞いてみたところ、「少々お待ちください」
係りの人がきて、「見学はできるのですが、事前に申し込まれた方でないと」とのこと。
 やっぱりなあ。
 丁重に断られましたが、門衛の方も係りの方もまだ若く、とても感じのいい青年でした。
 これで日本の国防は安心だ。
橋の向こうは陸上自衛隊久里浜駐屯地 
 ちなみにこの橋名は「みいつばし」と読み、「天皇のご威光」という意味らしい。
 恐れ入りました。もっともこの前身は旧海軍通信学校(昭和14年開校)だから、今の天皇には関係ないんだけど。
陸上自衛隊久里浜駐屯地 
 さらに歩くと今度は夫婦橋。    
 昔はこのあたりが平作川の河口で、中央に中洲があり、ふたつの橋が仲よく架かっていたところから「夫婦橋」と名づけられたそうです。
 今は中州はなくなり、橋は一本化されて夫婦橋の面影はありませんが、それを象徴するように橋のたもとには二本の松が植えられています。
夫婦橋① 夫婦橋② 夫婦橋のシンボル? 
 橋のたもとにある記念碑は、新田開発完成のよろこびと神仏への感謝を表したもので市指定史跡になっているそうです。
 このあたりも船宿がいっぱい。
 多くの釣り船が停泊していて、漁港の風景を醸し出しています。
夫婦橋より見る平作川 夫婦橋交差点 
 下は東京湾の部分地図。
 右側は千葉の房総半島。左は神奈川の三浦半島です。
 三浦半島の東に飛び出しているところが観音崎灯台。(日本最初の洋式灯台)
 その南の細長い入り江が浦賀湾、さらにその南の湾が久里浜湾です。
三浦半島 
 浦賀・久里浜は小さな漁村でしたが、嘉永6年(1853)のペリー来航によって幕府は軍艦建造の必要性に迫られ、浦賀造船所を設置しました。(軍艦の造船所は後に横須賀へ)
 それに伴って久里浜にも人が集まるようになり、遠洋漁業の港として発展しました。
久里浜湾 
 第2次世界大戦後は水産加工場のほか各種工場,火力発電所の建設が進んで,工業地区となりました。また房総半島の金谷を結ぶフェリーの発着地となり、今では海上交通の要所となっています。
 下は久里浜の市街図。右下Nの方位マークのあたりが東電の火力発電所です。
久里浜近辺地図 
 東電の北に久里浜港、東京湾フェリーターミナルがあります。
 ここから千葉の金谷まで約40分。1時間に1本出ています。
フェリー乗り場 徒歩乗船通路
 船は「かなや丸」(3,580t/旅客定員数580名)と「しらはま丸」(3,351t/旅客定員数580名)
 金谷に下りなくても遊覧の目的で乗ることもできますが、今回は乗らずに市街地を。
停泊するかなや丸 
 海岸ぺりを走る県道212号線。
 道路の脇が砂浜になっていて、すぐ海に出られるのがうれしい。(道路の反対側にペリー公園)
県道212号線 
 この日もチャリのオッチャンが愛車を止めて、しばし海を眺めていました。
 私もこの近辺に住んでいたら、こうするでしょうね。
212号線沿いの砂浜 
 砂浜から対岸のフェリー乗り場、さらに東電の火力発電所が見えます。
 こうして見ると、久里浜湾は意外に小さい湾であることがわかります。
212号線から観るフェリーと東電 
 212号を北に歩くと開国橋に。
 橋名の由来はペリー上陸の地に近いところからですが、海側の突堤が印象に残りました。
開国橋付近の突堤 
 久里浜はアメリカのペリー提督が上陸した場所ということで、それを記念した「ペリー公園」があります。
ペリー公園 
 嘉永6年6月3日(1853/07/08)、4隻の黒船が現れたのは浦賀沖ですが、その6日後、ペリーが上陸してアメリカ大統領(フィルモア)の国書を日本側に引き渡した場所は浦賀のとなりの入り江、久里浜でした。
ハイネ画「ペリー久里浜上陸図」(横須賀市自然・人文博物館蔵) 
 その47年後、明治33年(1900)、かつてペリー艦隊の乗組員だったレスター・ビアズリー(Lester A. Beardslee)退役海軍少将が久里浜を訪れ、上陸を記念する事物がなにもないことに落胆し、それを米友協会に訴えたところ、共鳴した人たちの尽力で、翌年記念碑が建立されました。
ペリー上陸記念碑 
 高さ約10m、花崗岩の石碑には「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」とあります。
 伯理とはペリーのこと。揮毫したのは(初代内閣総理大臣)伊藤博文です。

 こうしてペリー上陸記念碑は日米友好のシンボルとなりましたが、太平洋戦争中には「アメリカ憎し」の感情が高まり、地元の翼賛壮年団が「碑を破壊するべし」といい出しました。
 これに対して横須賀鎮守府長官は、
 「記念碑には罪はなく、倒してしまおうとは大国民としてあまりに大人気ない。そんなに憎いのならば碑に喪章でも着けたらどうだ」
 と諌めたのですが、壮年団は聞く耳を持たず、昭和20年(1945)2月に碑は引き倒されました。
記念碑と錨(手前) 
 同年8月15日、日本は敗戦し、11月になって米軍の見守るなか、翼賛壮年たちの手で碑の再建工事が行われました。彼らは「戦犯にされるのではないか」と、ビクビクしていたそうです。
 相手のいないところでは勇ましいことをいっても、相手がいるとなにもできない。これが翼賛壮年団の実態です。(こんな「伝統」は願い下げにしてもらいたい)
ペリー記念館 
 なにはともあれ、11月中に再建工事は完成し、翌々年昭和22年(1947)7月14日、ここでペリー上陸95周年記念式典が行われました。
 これを機に毎年7月半ばには久里浜ペリー祭りが行われるようになりました。

 図らずも私はその1ヵ月前にここを訪れたわけですが、日米友好の発端となった記念碑を見ることができて幸いです。
 私は一度「孤独死に至る過程とはこれかな」と思ったことがあります。
 それは2年前の7月8日(月)夕方でした。

 ロフトの上の扇風機の角度が変なので、直そうとしてバランスを失い、梯子段から落ち、床に叩きつけられました。
 右肩が痛くて動かない。左足も痛い。
 まったく身動きが取れなくなりました。

 やたら脂汗が出る。
 起きると苦しいので寝たままなのですが、右肩が開かない。そのため右腕がドサリと自分の腹の上に乗っかかる。脱臼したのだろうか。
 重い。役にも立たない腕というのはこんなに重いものなのか。

 私はかねてより、循環器系の病で倒れたとき、悪あがきはせずに、薄れ行く意識のなかで従容として死につこうと考えていました。ひとりであっても、孤独死は望むところ。
 漠然とではあるけど、そんな覚悟はしているつもりでした。

 しかし、はっきりと意識はある。それだけに痛い。
 それでいて、死ねない。そんなバカな。
 そのとき湧き起ったのは、理不尽さに対する怒りのような感情でした。

 こんなことでくたばってたまるか。

 なんとしても生きてやる。
 以前から考えていた私の「覚悟」などつくづくいい加減なものです。
  *
 こうして身動きとれぬままひと晩過ごし、翌朝になっても右肩と左足は痛くて動かせないので、救急車を呼び、病院に運んでもらいました。

 「右腕は上腕骨剥離骨折、左足首は距骨粉砕骨折しています。左足はギプス固定。右腕は明日手術します。入院手続きをとってください」
 というのがレントゲン検査の結果でした。

 右上腕骨の骨折は梯子段から落ちたとき、とっさに右手で手すりをつかんだため、瞬間的に全体重が右腕にかかったからと思われます。
 骨が数ヵ所折れていたため、それを繋ぐために骨瑞に12㎝ほどの金属の支柱を入れ、ずれないように6ヶ所ほどボルトで固定されました。
 こうして約2ヵ月の入院生活を余儀なくされました。

 入院生活は楽しいものでした。

 理由はいろいろありますが、梯子段から落ちて身動きとれぬまま、不安な気持ちで過ごしたあの夜のことを思うと、入院生活はまるで天国。

 あれが「死へ向かう過程」とは思わないけど、いろんなことを考えました。
 この先、わが身はどうなるのだろう。

 これであの世へ行くのならいいけど、このままではどうにもならない。なんとか助かる方法を考えねば……。
 今にして思えば、これは「生きよう」とする意欲がではなかったか。
 この意欲があったからこそ、右肩の傷みにひと晩中耐えられた?

 それにしてもあのときは、息子や友人のことなど、なにも浮かんでこなかった。
 私は人に対して希薄なのか。
 あるいは、まだ「死」というものがわが身に迫ってなかったからか。

 あんなもので「孤独死」のトバ口を体験したというのは、おこがましいのかな。
 内閣府の意識調査によると、ひとり暮らしの高齢者の4割強が「孤独死」を身近に感じているそうです。(2015年版高齢社会白書)

 白書によると、65歳以上の高齢者のひとり暮らしは、15年時点の推計で600万8000人いて、男性高齢者の12・9%、女性高齢者の21・3%を占めるとのこと。25年には700万人を超すといわれています。

 内閣府は昨年12月、全国の高齢者2624人を対象に面接で意識調査を実施。1480人(56・4%)から有効な回答を得ました。

 誰にもみとられず、亡くなった後に発見される孤独死が身近かどうかたずねると、「とても感じる」が14・5%、「まあ感じる」が30・1%で、合わせて4割を超えた。
 こうした人を日常の会話の状況で分析すると、会話を「毎日」する人は38・2%の一方、「1カ月に1~2回」の人では63・4%。
つまり会話が少ないと、孤独死を身近に感じる人が多くなる傾向があるそうです。(2015/06/ 15・朝日電子版)

 私はひとり暮らしですが、人との会話はなんらかの形で「ほぼ毎日」していると思います。
それでも「孤独死」の可能性はひしひしと感じます。
 私が憧れる「孤独死」は、映画「ウエスタン」(1968=セルジオ・レオーネ監督)に出てくる初老のガンマン、シャイアン(ジェーソン・ロバーズ)の最期。

 彼は銃撃戦で致命傷を負いますが、なに食わぬ顔をして鉄道工事の飯場で働いているジル(クラウディア・カルディナーレ)のもとをたずね、コーヒーを所望します。
 「お前さんの淹れてくれたコーヒーはお袋と同じだ。濃くて美味い」といって辞し去ります。
 本当は彼女が好きなのですが、そんなことはひと言もいわない。
 工事現場を離れ、ハーモニカ男(チャールズ・ブロンソン)に看取られてを引き取ります。惚れた女に死ぬところを見られたくないというガンマンの美学です。



 カッコいいな、と思います。
 これにはエンニオ・モリコーネの音楽効果も大きいのですが……。
 現実にはこんな風にはいかないでしょうね。今のところ、そんな女性もいないし。
 このところ小津安二郎(1903~1963)の作品を立て続けに観ております。
 同監督の名を初めて聞いたのは高校生のときで、数学の教師が、「この人の作品は日本人の機微をよくとらえている」といいました。
 しかし当時は西部劇大好き少年だったので、「それがどうした」という程度でした。

 後にその作品群をTVで観ましたが、「たしかに日本人の機微をとらえているかもしれないけど古いなあ」という印象でした。
 しかし当時は30~40代。これが理解できるほど人間の滋味が備わっていなかった。

 そして今人間の滋味が備わっている(?)はずの年齢になって新たに観たのですが……。

 まず代表作といわれる「東京物語」(1953)。
 これは尾道に住む老夫婦(笠智衆と東山千栄子)が東京に住む子どもたちを訪ねるも、彼らには彼らの生活があり、なんとなく疎外感を抱いて帰宅し、老妻が他界するという話です。



 誰ひとり悪い人間はいない。しかし親子間の齟齬は如何ともし難い。
 最近になって「家族の崩壊」といわれているけど、実はその当時(昭和20年代)から家族は崩壊していた。
 その意味では「先見の明」あり。

 しかし甘さもある。
 この老夫婦はどうして東京くんだりまでのこのこ出かけたのか。子どもたちにとっては迷惑千万、それぐらい察してやれよ。
 「誰ひとり悪い人間はいない」といったけど、敢えていうならこの老夫婦の行動はあまりに無神経。

 どうしても東京見物したいのなら、子どもたちのところに厄介になるのではなく、自分たちでプランを立て、ホテルも予約して行きたいところへ行けばいい。
 そのついでに、「〇月×日に東京へ行くけど、どこかで会って食事でもしないか」と持ちかければ、子どもたちはよろこんで駆けつける。

 さらに甘いのは戦死した次男の嫁(原節子)の描き方。
 徹底的に「いい人」に描いている。これではまるで実の子が冷たく、(他人の)嫁はやさしいといわんばかり。
 小津安二郎にしてみれば、どこかに救いを求めたかったのかもしれないけど、彼女に過度な期待を持たせすぎ。ここはもっとさばさばしたほうが私にはすんなりと理解できる。
 もっともそうなれば別のドラマになり、余韻は残らないかもしれないけど。

 今回、小津安二郎の作品群を観て、これまで漠然と抱いていた「小津観」は吹っ飛びました。
 彼は「古きよき日本」や「ほのぼのとした人間関係」を描いたのではなく、むしろ「寒々とした家族の光景」を描いたのではないか、そんな気がします。
 県木の広場から歩くこと約5分、ハーブ園に着きました。
 ここは130種約3万株のハーブが植えられているそうで、関東でも有数のハーブ園。
ハーブ園入口 
 ハーブというのは薬草とのことだから、おそらく漢方の生薬と共通する部分が多いはず。
 あるハーブの香りを嗅いで、「同じようなものが生薬にもあった」と思ったけど、それが何だったのかよくわからない。
 ハーブティーも何度か飲んだことはあるけど、効き目もよくわからないし。
ハーブ畑 
 それでもラベンダー畑にくると、特有の香りに気持ちが安らぐような気がしました。
 これも薬効かな。
サントリナ(コットンラベンダー) 
 足湯がありました。
 オジサンがひとり浸かっていたので、当方も。
 ブーツを脱いで、ジーンズを膝までたくし上げ、ドボッ。アチチ。
 熱いじゃないか。
足湯 
 それでも浸かっているうち、慣れてきました。
 とくに香りはしなかったけど、これもハーブを使った薬湯とのことです。
 これで疲れが取れるかな。

 ここにも展望台がありますが、眺望は今ひとつ。
 久里浜の市街地を見たってしょうがないしね。
展望台 

 ハーブ園を出て5分ほど歩くと、カフェ&レストランの建物。
 12時近いし、腹も減っていたのでここでひと休みすることに。
レストラン 
 平日(水曜日)だったこともあるのか、店内は当方の他にひとりだけ。(あとで家族連れがやってきた)
レストラン・店内 
 テラス席があり、そこから海が眺められます。
 「あれッ?」
 眼下に久里浜港。しかもフェリー乗り場が手に取るよう。
テラスからの眺め 
 何のことはない。ここがいちばん見晴らしがいいじゃないか。
 ここにくるまで、いくつかの展望台から海を眺めたけど、手前の丘が邪魔して港までは見えなかった。
 ここは高度は低いけど、港のすぐ上なのでよく見える。高けりゃいいってものではないんだな。
金谷に向かうフェリー 
 ここで食べたのは野菜カレーとコーヒー。
 味は?
 ご飯が軟らかくて今イチだけど、安いので文句はいえない。
野菜カレーと珈琲 
 以上が「くりはま花の国」の感想ですが、歩き応えがありました。
 これは散策ではなく、ちょっとしたハイキングだ。食事休憩も含めて約3時間もいたことになります。
 ちなみに入園料は無料。横須賀市はよくやってるよ。
 冒険ランドから次に行ったところは展望台。
 「〇〇と煙は高いところへ上りたがる」わけではないけど、せっかく山(?)にきているのだから、頂上に上りたい。

 展望台へ行くには、入口近くの和風レストランの脇から行くルートもあるけど、それだとポピー園はまわれない。(ひと筆描きでは行けない)
展望台 
 アップダウンはあったけど、10分ほどで展望台へ。
 目の前に久里浜湾が見えます。
 「あの3本の煙突は東電の火力発電所ですよ」
 となりにいたオジサンに教えてもらいました。
展望台の上 
 「左は久里浜港。ここからフェリーが出ていて千葉の金谷まで行けるんですよ」
 なるほど。対岸は今年の2月、友人の車で行ったことがあります。
久里浜湾・港 久里浜湾・東電

 そこから冒険ランドにもどって、正規のルートを進みました。
 両脇にはアジサイが咲いているけど、さして珍しくもない。
両側のアジサイ 
 しばらく歩くと右手に「県木の広場」
 47都道府県を代表する木々が観察できる樹木園とのこと。
 各県の県木に関しては皇居東御苑で見たことがあるので、「もう、いいかな」という気持ちもあるけど、せっかくだから見ることに。
愛の鐘 
 広場があってそこに鐘が設置されています。
 「愛の鐘」といって、ふたりで撞くと永遠に愛を誓えるとか。
 バカバカしいと思いましたが、一応撞いてみました。カーン!
 オッチャンがひとりで撞いてなんの意味がある。

 それでもあたりをブラリと観察。
 リンゴの木→青森県。ウメの木→茨城県。やっぱりなあ。
リンゴ(青森県) ウメ(茨城県)
 おっと、京都の県木「キタヤマスギ」があるではないか。素通りしてはいけない。
 「1200の昔、都が京都に移された時に御料林に指定され、植えられたのか始まりです」(解説板)
キタヤマスギ(京都府) 
 ふーむ、各県平等に取り扱われている。しかも東御苑よりは広い。
 やはり寄った甲斐はありました。
 昨日(06/10)は梅雨の晴れ間とのことで、朝早くから電車に乗り、「くりはま花の国」(横須賀市)へやってきました。
 三浦半島に関しては、昨年は三崎漁港には2回も行き、佐島、秋谷など西海岸にも行ったので、ある程度知り尽くして(?)いるつもりですが、久里浜はまだきたことがなく、一度は訪れたいと思っていました。
くりはま花の国・入口 
 そして久里浜の名所といえば、「くりはま花の国」
 TVのニュースなどで、季節の折々にここの花の風景が映し出されるので、興味も涌いたのですが……。

 きてみると、とにかく広い。しかも山を切り開いた(戦後はしばらく米軍の倉庫)公園で、高低差が激しい。入口からポピー・コスモス園を通る道はいきなり上り坂(整備はされているけど)。
 「これを上るのか!」
右は上り坂、左は刈り込み中のポピー園 
 もっとも「フラワートレイン」という機関車を模したバスがあって、それに乗れば楽なのですが、それだと散策の楽しみがない。

 しかしこの時期ポピーは終ったところで(06/07が刈り取り日)、業者の方が整備してました。
 はなはだ殺風景ではあります。(一面のポピーは壮観だったろうなと思うとよけい)

 それで坂を上った果報はあって、展望デッキから見る景色がなかなかいい。
 遠く久里浜の市街地が見えます。
 ますます山を実感。(ここは「天園」か)
向こうに市街地、手前は刈り込み中のポピー園 

  さらに奥に(実際はU字状になっている)進むと、遊園地に出ました。
 しかもその中心にゴジラの像が……。
 しかも滑り台になっていて、子どもたちがなかに入って滑ってました。
 (当方も写真は撮ったけど、滑るわけにはいかず)
冒険ランド
 これはゴジラの上陸地が観音崎の灯台近く(たたら浜)だったから、(広い意味では横須賀なので)それにちなんで建てたのかなと思ったのですが、以前はたたら浜にあったゴジラの滑り台が老朽化で壊されたあと、ゴジラ滑り台の復活を望む声が強くなり、多くの寄付金とゴジラを製作した東宝の協力によって、ここに建立されました。(1999年)
 身長9m、全長10m、重さ5t、強化プラスチック製だそうです。(解説板)
ゴジラの正面 上り口 後ろ(滑り台)

 この遊園地の遊具は「乗物」ではなく、すべて体力を使うもの。
冒険ランドの遊具類 
 したがって山頂まで行くには階段を上るだけではなく、ロープの橋など様ざまな遊具を渡らねばならない。これは老体にはキツイ。しかし何とか上まで渡りました。しかし……。
ここを渡った ここも…… 渡っているところ(下に見えるのは当方のブーツ) 
 帰りもまた厄介。
 ロープの橋を渡るのはもういやだ。ロープの梯子段(袋状になっている)を下りるのはもっといや。
 仕方なく、全長45mのロール滑り台で下りました。
 ええ年したオッチャン(ジイサン?)がなあ。
滑り台を滑っているところ
 子どもが不思議そうな顔して見てたけど、こちとら(子どもの目など)どうでもいい。
 これしか方法がないんだから。
 滑り心地?
 うーん、あまりよくなかった。背中のデイバッグが邪魔だろうと抱いて滑ったけど、足を投げ出しているので、ときにバランスを失って背中をつく有様。
ここを滑り下りたのか 
 滑り終わって、滑り台を見たらけっこう長い。
 この年でよく滑ったよ。
... 続きを読む
 この時期はなんといっても富士見市の山崎公園。
 別名「せせらぎ菖蒲園」とも呼ばれ、6月になると菖蒲田一面に色とりどりの花菖蒲が咲き、我われの目を楽しませてくれます。
山崎公園① 
 同公園は富士見市の市制20周年記念に平成6年4月にオープンしました。
 園内の菖蒲田には江戸系、肥後系、伊勢系、外国系など約60種、5000株もの花菖蒲が植えられています。
山崎公園②
 そのためこの季節になると近隣はもちろん、所沢や川越、さいたま市のほうから訪れる人も。
 そういえば昨年、志木市の旧村山快哉堂へ行ったとき、案内のおばさんが「山崎公園の菖蒲、もうそろそろですね」なんていってました。
色とりどりの菖蒲 
 昨日(06/09)は午前中は雨、午後にはやんだもののうす曇の空でしたが、それでも大勢の人が観にきていました。
 しかもほとんどの人が写真を撮っている。(当方もですが)
写真を撮る人① 
 それも花のクローズアップが多い。
 品種によって色、形が違う。それを撮りたいのはわかる。
 そこで公園の側で、何系(江戸、肥後、伊勢、外国)の何品種か、せめて名札でもつけてほしい。
写真を撮る人② 写真を撮る人③
 少なくとも3年前まではこういうことはなかった。
 それぞれの花にちゃんと名札がついていたし、植え方ももっと密だった。
 
 私は去年俳句仲間ときたけど、あまりの雑な管理に内心ガックリきました。
 みんなに悪いからいわなかったけど、これでは「菖蒲園」の名がすたるというもの。
名札がついていた(3年前) 咲き方も密だった(3年前)
 東村山市の「北山公園」も菖蒲園として有名ですが、ちゃんと名札はついています。
 富士見市は財政難で公園管理に金をかけなくなったのかな。これではだんだん人がこなくなるぞ。
東村山市の北山公園 
 ちなみに翌月の句会でこんな句が出ました。

 白勝てよ紫負けるな花菖蒲


 これは川越の友人(達人)の句だろうなと思ったら、やはりそうでした。
 菖蒲と勝負を掛けているけど、あまりにベタな句なので採らなかった。
白い菖蒲 
 私の句は、

 撮り甲斐もなく名札無し花菖蒲

 こっちのほうがもっとベタだった?
 所沢・航空公園は四季折々の花が咲き、訪れる人の目を楽しませてくれます。
 今の季節は彩翔亭のアジサイ。
アジサイ① 
 彩翔亭とは同公園のなかにある和風庭園で、築山、池、滝、竹林……が配されて、なかなかの風情があります。
 4年前、初めてここを訪れたとき、「ここは明月院(鎌倉)か!」と感激したことがあります。
 しかし……。
アジサイ② 
 なんだか盛り上がりに欠ける。
 以前はもっとびっしり咲いていたのに、なんかスカスカしている。
 それに色も褪めた感じ。
 前はもっと鮮やかだったのに。
アジサイ③ 
 ちなみに2年前の写真を。
2年前のアジサイ① 2年前のアジサイ②
 それでもここには滝がある!
 とても袋田の滝(茨城県)には及びませんが、岩にチョロチョロ流れ落ち、なかなかの風情。
滝 四阿
 それを観ながら茶を喫することもできます。
茶を喫する人 
 今回はそれはやめました。
 アジサイにガックリしたから?
 (なにもいいません)
喫茶室横のアジサイ 
 昔、劉廷芝という中国の詩人の詩に、「年年歳歳花相似(年年歳歳 花相似たり)、歳歳年年人不同(歳歳年年 人同じからず)」とあるけど、これでは花も変わるではないか。

 紫陽花やながめせし間にうつりけり

 パクリとはいわせないぞ。
 さいたま市は羽根倉橋近くの「千貫樋(せんがんぴ)水郷公園」
 ここは隠れた「桜の名所」とともに「アヤメの名所」といわれています。
 今はアヤメの季節。
アヤメ田① 
 なるほど、一面に咲いているアヤメの花。(実際はキショウブ)
 それにちなんで「アヤメまつり」が開催されていました。
アヤメ田② 
 といってもささやかなもので、小さな舞台では子どものお神楽が。
 ♪ぴーひゃら、ぴーひゃら。テンテケ、テンテケ……。
 ハービーマン? とまではいきませんがなかなか上手です。これに備えてうんと練習したんでしょうねえ。神楽囃子というのはジャズに通じてる、と思いました。
アヤメまつり舞台 
 そのうちおかめが出てきて踊りだすと、やんやの拍手。
 歌と踊り。日本人の文化ですなあ。
おかめの踊り 餅つきも
 この千貫樋については以前にも解説しましたが、荒川が増水すると支流の鴨川に逆流してくるので、それを防ぐために水門が設けられました。それが千貫樋です。
千貫樋 
 その千貫樋は今では役目を終え、道路橋となって上には県道57号が通っています。
 今回は通路になっているところを入って、反対側まで行きました。
 とくに発見はなかったけど、立派なレンガづくりであることはわかりました。
千貫樋のトンネル 
 おかしなことになりました。
 自民党など各党の推薦で参考人招致された憲法学者3人が、集団的自衛権を行使可能にする新たな安全保障関連法案について、いずれも「憲法違反」との見解を示しました。
 政府与党としては、反対意見はどうあれ、自分の御用学者だけは「合憲」というはずで、それを錦の御旗にして押し切ろうと思っていただけにショックでしょう。

 それでも官房長官や防衛大臣などは、「いや、あくまでも憲法の範囲内」といい張っていますが、仲間の国を助けるために海外に派兵し、武器をとるのは明らかに憲法違反。

 ちなみに憲法九条とは、
 (1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 (2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 ちょっとわかりにくい文章ですが、要するに「理由はどうあれ、他国で武力行為をしてはならない」ということ。
 与党の主張する「集団自衛権」の行使が憲法違反であることぐらい中学生でもわかります。

 これが無理くりな法案であることは、官房長官、首相をはじめ与党の人たちも(内心)気づいているのではないか。
  
 ではなぜこれを押し通そうとするのか。
 前にもいましたが、これらの法案は首相個人のイデオロギーでもなく、自民・公明の(イデオロギーによる)政策でもありません。(首相にイデオロギーがあるとは思えないけど)
 彼らは与党についた以上、与党の政策をやらざるを得ない。

 その政策とは「ひたすらアメリカのポチを続けること」で、これは外務省をはじめとする官僚の国家政策。
 これは現在の世界情勢のなかで日本の立場を考えると、やむを得ない面があります。
 とくに中国と確執(机の下での蹴り合い)を考えると、アメリカの武力に頼らざるを得ない。
 そのアメリカからは「これからは御主人のために汗を(血を)流さなければ、助けてやらないぞ」といわれている。
 「これは大変。なんでもやりますゥ」
 ということでポチから番犬、そして軍用犬になる方向に舵を切った。(その先は闘犬でしょう)

 そのため自衛隊はいっそう危険にさらされ(死者が出るかも?)、沖縄はいっそうの負担を強いられ、原発は廃止されることなく(これもアメリカの要請)、東北の復興は遅れるでしょう。
 それでも日本全体の国益を考えればプラスである。

 これが政府与党の考えです。
 妙な話ですが、私はこれをじゅうぶん理解しています。
 それでも賛成はしません。
 個々の痛みを犠牲にした上での「日本全体の幸福」などあり得ないし、そこに政権側の謙虚さが見えてこないから。

 「おっしゃる通り憲法違反です。しかし今の日本の状況を考えると、これ(アメリカに追随すること)しか道はありません。どうかご理解ください」
 と正直にいえば(国家機密でもあるまいし)国民の大半は納得するのではないか。
 (野党はわかっていながら質問しているフシもある)

 今の首相が独裁者面(づら)をしている限り、展望はありません。


 これまで私は数(千?)本の映画を観てきましたが、最も強烈な印象を受けたのが学生時代に観た「続・荒野の用心棒」(1966)
 「続」といってもクリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」(1964)とは何の関係もありません。配給会社が同じだったため、最初の作品のヒットにあやかって「続」とつけたのです。

 マカロニウエスタンに関しては最初の「荒野の用心棒」、さらに「夕陽のガンマン」(1965)でこれまでの西部劇(アメリカの)とはまったく違う様相(演技の濃さ)に衝撃を受けました。
 とくに敵役を演じたジャン・マリア・ボロンテのアクの強さには、「こんな俳優はアメリカには絶対いない」と思いました。

 そんな矢先、この「続・荒野の用心棒 」を観て、ガーン。
 主人公が(山賊と結託して盗んだ)砂金をひとり占めしようとする。しかもそれが底なし沼に落ちたとき、カッと目を見開いて取りに行こうとする。こんなダーティな主人公はこれまで観たことなかった。(アメリカ西部劇には絶対出てこない)
  


 しかもこの主人公(ジャンゴ)はこれまでの西部劇とはまったく異質。
 いきなりコート(インバネス)の懐からピストルをぶっ放したり、機関銃で大勢の敵をバッタバッタとなぎ倒す。ラストでは墓標(十字架)に銃を固定してのファンニング撃ち。実際はあり得ません。イタリアなら受け入れられるのかも。
  
 悪者もひどい。
 神父の耳を切り落として口に銜えさせたり、ジャンゴの手の甲をライフルの台尻で叩きつぶす山賊(自称革命軍)や、無辜の農民を面白半分に殺す南軍の残党兵たち。
 とくにこの南軍の残党兵はメキシコ人への人種差別、行動するときは赤頭巾を被るなど、どう見てもアメリカ南部のディープな「WASP」(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)を揶揄してるとしか思えない。
  
 これではアメリカが怒るのも道理。「史実を捻じ曲げたニセ西部劇」とコキおろしました。
 しかし史実というなら、本家の西部劇こそ原住民に対する歴史観が歪曲され、人種構成が偏っている。目くそ鼻くそを笑う、とはこのことです。
  
 これまでのアメリカ西部劇は「きれいごと」ばかり描いてきた。その点マカロニのほうが人間の深い(醜い?)ところを描写している。
 そんな思いからマカロニウエスタンに惹かれていきました。
   
 その嚆矢となった作品が「続・荒野の用心棒 」だったというわけ。
 これは学生時代に観て、その後TVの放映でも観ました。(耳を切り取るシーンはなかった)
 そして新たにビデオ化(DVDも)されたのが15~16年前。
 ビデオでは何度も観たけど、今回DVDを手に入れ、久しぶりに観ました。
    
 何度観ても、観応えはあります。

 アメ横とのつき合いは学生時代からあります。
 といっても当時は貧乏だったから、年に1~2回、ジーパンを買う程度。
 御徒町近くに「M」というジーパン屋があって、新品のリ●バイスが市価の半額でした。
 ライター時代はこの近くに得意先があったので、よく寄りました。
 生ものは買わなかったけど、乾物類やナッツなどは買ったことがあります。

アメ横 

 しかし取手の友は私よりはるかにアメ横に詳しいようで、中古カメラ店、フィギュアの店、回転寿司屋、餃子店、喫茶店など、いろいろ教えてくれました。

 一昨日(06/03)も昼飯どきだったので、「京風ラーメン、行くか」

 この「京風ラーメン」とは昔銀閣寺の橋のたもとに屋台を出していたラーメン店。
 高校時代は友人と真夜中徘徊したとき何回か食べたことがあります。
 当時は「ラーメンとはそんなもの」と思っていたのですが、ここの味は他のラーメンよりは「しつこい」部類に属します。

  ここ20年ほどラーメンは食べなかったのですが、半月ほど前、取手の友と守谷市のチェーン店で食べて、「あっさりして意外に美味い」と思ったものです。
 というわけで、久しぶりに食べる京風ラーメン。
 麺の硬さ、背脂の量、唐辛子の量に何段階かあって、店員さんにそれを聞かれました。
 友人にいわせると、京都では(量の調整は)ないそうです。
 こちらは「麺やや硬め、背脂少なめ、唐辛子ふつう、半ライス付き」を注文。

京風ラーメン

 運ばれてきたラーメンを口にしましたが……。
 うーん、こんな味だったかなあ。(ほとんど覚えてなかった)
 今の私にはちょっとしつこいかな。



 このあと、夏用のベストを求めてアメ横をぶらり。
 暑くなると上はポロシャツ一枚になるのですが、財布などを入れるところがなくなるので、どうしてもベストがほしい。先日、近所のユ●クロで見たけど、なかった。そんなわけで……。

衣料品店 

 何店か見たのですが、こちらが想定していたより高い。1万5000円以上はふつう。
 ちょっといいなと思ったら、2万5000円、あれッ?
 しかもポケットが少ない。
 理由を聞いてみたら、「ベストのポケットに物を入れると型崩れするので」とのこと。
 こちらはそんな「見てくれ」など、どうでもいいのに。
 取手の友いわく、「アメ横が安いというのは、今では神話になりつつある」
 そんなものかねえ。

今はなきネクタイの店(3年前) 

 それよりも通りの両側に食べ物屋の露店がやたら増えていることに気づきました。
 アメ横通の友人も、「こんなに変わるとはなあ」

食べ物屋が増えた 

 というわけで、なにも買わずに切り上げました。
 ベストは「登山用品の店」で買おうかな。

2015.06.04 旧岩崎邸庭園
 昨日(06/03)取手の友人と台東区池之端にある旧岩崎邸庭園に行ってきました。
 ここは三菱財閥岩崎家の屋敷跡を公園としたもので、国の重要文化財に指定されています。
入口から邸宅までの坂
 位置としては不忍池の西。
 入口から長いだらだら坂を上ります。横は昔の煉瓦塀。
煉瓦塀 
 坂を上りきって券売所にくると、正面に見えるのが白亜の洋館。
 「おッ、まるでマレーシアのような感じや」と取手の友。
 長い海外生活(?)を懐かしむかのよう。
岩崎邸の洋館・正面 
 この建物は岩崎財閥三代目・岩崎久弥によってジョサイア・コンドル(ニコライ堂の設計者)設計で建てられ、明治29年(1896)に竣工されたもの。

 館内に入ると、オジサン(ボランティア)の説明を受けました。
 「このテーブルや本棚などの調度品はイギリスの家具メーカーにジョサイア・コンドルが発注したもので……」
洋館・側面 
 「ジョサイア・コンドルという人は如才のない人やったんやな」
 「そうや。それに飛行技術にも長けていた」
 「なんでや」
 「コンドルは飛んでいく」
 (例によってアホなやりとりを)
洋館・裏 
 他にも床の幾何学模様(箱根細工?)や壁紙に使われた金唐革紙の説明を受けました。
 金色に光っているのでてっきり金箔を使っているのかと思ったら、さにあらず。錫箔にニスを塗ると金のような色になるのだとか。おそるべき日本の工芸技術。

 しかし戦後GHQに接収され、金唐革紙の壁はペンキで塗り込められたとか。
 「なんちゅうことをする。無粋なヤツらだ」
 「おそらく日本の文化がよくわかってなかったのでしょう。ステンドグラスなどは残っているのですが」
 「ステンドグラスは西洋のものだからなあ」
和館 
 ステンドグラスや壁の模様になっているのは主として「アカンサス」の花。
 残念ながら館内は撮禁なので、一切撮影できず。
庭  
 その代わり庭と離れの撞球室は撮れるので、パチリパチリ。
 撞球室とはビリヤード場のこと。主が接待用に使ったとのこと。
 「これだけでも立派な豪邸やなあ」
撞球室 
 岩崎財閥の創始者は土佐藩士の岩崎弥太郎。
 藩主山内容堂の庇護のもと、明治になって実業家に転じ、日清・日露の戦争で財をなし、当屋敷だけではなく、駒込別邸(現・六義園)、向島別邸(現・清澄庭園)、国分寺別邸(現。殿ヶ谷戸庭園)をものにしました。
撞球室・内部 
 「そんなにあるのか。そんなら今住んでるところ売り払って、どこかひとつ買おうかな」
 「そんな金額では庭の置石も買えんぞ」
 「そうかな。やっぱりあの豪邸を手放したらあかんな」
 「どこが豪邸や」

 そんなことをいいながらそこをあとにしました。
 花壇に咲いていた「アカンサス」の花(和名・葉アザミ)が我われを見送ってくれました。
 館内の装飾に使われていたこの花は地中海沿岸の原産で、ギリシャの国花だそうです。
アカンサスの花 
 豪邸を売り渡してはアカンサス

 お粗末でした。
 6月から自転車の交通ルールが変わりました。
 14歳以上の人が「危険行為」で3年間に2回摘発されると、有料講習が義務づけられるといいます。

 では危険行為とはなにか。
 遮断機を無視した踏切への立ち入り、ブレーキのない自転車、酒酔い運転はいうに及ばず、信号無視や車道の右側通行も該当します。

 自転車で徘徊する身からすれば、逆送自転車を厳しく取り締まってほしい。
 道路を走行する場合、(特殊な道路事情を除いて)私はいつも左側通行を心がけていますが、右側通行の自転車とよくすれ違います。
 その場合ふつうなら左側に避けるはずですが、彼らは頑なに自分の右側(建物側)を固執する。間違っているのは自分なのに、なんと傲慢な態度か。
 これは老若男女に関係ありません。

 右側通行の理由は主として、その先で右折するからです。かなり先で右折する場合でも逆走しています。
 私が子どものころ、自転車で交差点を右折するときは、「まず反対側にわたって、それから右の方向にわたりなさい」と教わりました。信号がある場合は2度守らなければなりません。
 しかし右側通行だと、わたる必要がないので信号に関係なく右折できます。まったく横着な態度です。

 右側通行は以前から罰金つき(金額は不明)の違反でした。(道交法)
 「広報けいしちょう」(0707/08)には図解入りで「(道路の)左側の端を通行しなければなりません」と書かれていました。
 また右折にしても、「自転車は交差点を一度で右に曲がれない」(朝日新聞07/07/04)と書かれています。私が子ども時代に教わったこととなんら変っていません。
  *
 自転車の衝突事故は記事にこそなりませんが、よく起こっていると考えられます。
 以前「自転車同士衝突70歳女性が死亡」という記事がありました。
 「八王子の市道交差点で無職の女性(70)の自転車と会社員の男性(44)の自転車が出会い頭にぶつかり、女性が転倒して頭を強く打ち死亡した。この交差点は住宅が立ち並び、見通しが悪かった」(朝日09/06/12)

 記事には詳しく書かれてないけど、「出会い頭にぶつかった」ということからして、どちらかが逆走したのではないか。見通しの悪い交差点だったかもしれないけど、双方が左側走行を守っていたら、衝突は避けられたはず。
 私自身、交差点で急に左から曲がってきた逆走自転車に何度か衝突しそうになりました。
 老人に「バカヤロウ!」と怒鳴られたこともあります。悪いのはそっちなのに。
 このときは「老い先短い人に今さら注意してもしょうがない」とあきらめました。

 一度だけ小学生の男の子に「左側通行を守ろうね」と注意したことがあります。
 その子は知らん顔してピューッと通り過ぎていきました。(うるさいジジイ?)
 いらい、人に注意することはやめました。

 逆走自転車は6月になっても相変わらず。
 一昨日(06/01)はジイサン。昨日(06/02)は女子高生とオバサン。
 いずれも逆走ですれ違いました。みんな当然顔。

 今回の交通ルール改正で、ぜひこれを取り締まってもらいたいものです。
 この国の内閣はいつからこんなに劣化したのか。
 野党議員が意見を述べているときに、反対側で坐っていた首相が「早く質問しろよ」と野次を飛ばす。
 品もなにもあったもんじゃない。こんな人物がわが国の代表とは……。

 これに関して首相は改めて昨日(06/01)謝罪しましたが、(謝罪しないよりはましだけど)だったら最初からするな。いかにも人間が軽すぎる。

 思うに、この首相は自分には甘くて他人に辛い人ではないか。
 野党の野次に対しては「いま説明してるんだから」と怒るくせに、自分は野次を飛ばす。
 これまでこんなお粗末な首相がいただろうか。

 歴代首相のなかで私は、小泉純一郎氏を「ことばの魔術師」(銀流し?)と認定していますが、こんな品のない言動はなかった。

 防衛大臣もひどい。
 野党から武力行使と武器使用の違いを聞かれ、「武力行使と武器使用の違いがわからないなら議論ができない」と発言。
 こっちだってそれが知りたい。野党の議員は(国民の疑問として)聞いているのに、「それがわからないようでは話しにならん」と木で鼻をくくったような態度。
 それを丁寧に説明するのが防衛大臣の役目だろう。この人はいつからそんなに偉くなったのか。(石原〇太郎の再来?)

 そもそもこの連中が3年前圧倒的多数で政権に返り咲いたとき、「奢り高ぶってはいかん。国民の声に謙虚に耳を傾けよう」と誓い合ったのではなかったか。
 それが舌の根も乾かぬうちに、ボロが出てしまった。

 もっともこれは「アメリカのポチ」(宮台氏いうところの「ケツなめ国家」)をますます強めていく規定の路線。
 自・公の(イデオロギーによる)政策ではなく、官僚の国家戦略に基づいた「与党の政策」です。だから民主党が政権をとっても同じ。

 「日本はアメリカの忠犬にならないと生きていけない」
 これがこの国の国是です。

 世界情勢のなかで日本の立場を考えると、これはある程度仕方がない。
 日本はアメリカの後塵を拝して生きる。
 ときには(命ぜられれば)アメリカの手先になって武力行使もする。当然自衛隊は危険にさらされ、日本国民はテロの標的になる。沖縄の米軍基地が撤退することはない。
 それでも日本全体を考えれば国益に適う。

 これが集団的自衛権の本質です。
 威勢のいい「自主独立論」よりは謙虚な姿勢(?)といえなくもない。

 だったら政権側はごまかさないで、「これしか道はありません」といえばいい。先日はオバマに約束したことだし。
 おそらくこれで「かみ合わない議論」をくり返し、間際に多数決で押し切る魂胆でしょう。
 野党にすれば「牛歩戦術」ぐらいしかないけど、これは抵抗の意思表明だけで、最終的には押し切られるのだから虚しい。

 思うに、この政権が威圧的なのはアメリカでペコペコしている反動。
 典型的な内弁慶国家です。
 しかしこの首相は単なるアメリカのポチではなく、腹に一物がある。
 それは「祖父岸信介の名誉を回復したい」という野望。しかしそれを前面に出すと、アメリカにガツンとやられる。謙虚になるか。それとも傲慢をかますか。心のなかであれこれ考えているのでは。
 私としては謙虚になってもらいたいのですが。
 昨日(05/31)久しぶりに川越を徘徊していたところ、川越商工会議所斜め前にある江戸時代の大蔵・茶陶苑が目につきました。
 ここは亀屋山崎茶店の蔵(兼作業場)をギャラリーにしたもの。
 茶陶苑・入口
 亀屋山崎茶店は和菓子の老舗亀屋(山崎家)から明治10年に分家し、茶の商いを始業。
 表の店舗部分は明治26年の川越大火後に新築されたもの。隣接している煉瓦のアーチ門、煉瓦の塀は明治時代のモダンな雰囲気を漂わせています。
茶陶苑・外観 
 煉瓦の塀は奥まで続いており、そこには明治の大火を免れた、嘉永3年(1850)建築の大蔵があります。
 この蔵は川越の蔵のなかでもひときわ大きく、南北12間(約21.8m)東西5間(約9.1m)の吹き抜け2階建てで1階が約60坪、2階が約37坪。
 白漆喰の垢抜けた外装で、銀灰色の瓦は京都の一文字瓦だそうです・
ギャラリー① 
 1階は明治・大正期、茶の輸出が盛んであったころの作業場を復元したもので、茶器や皿のギャラリースペース。陶磁器の歴史の解説も付いています。
 またこの奥の喫茶室で茶を喫することもできます。
ギャラリー② 
 対話用(?)のふたり椅子。
 これで対話が深まるか、はたまた激論になるか。
椅子 
 2階はフリースペース。屋根は頑丈な柱や梁で支えられていることがわかります。
 壁際の格子も本来は落下防止用につくられたものですが、美しく見えます。おそらくデザインも考慮されたものと思われます。
2階 
 ここが見学(有料)できるというのはあまり知られてないのか、訪れる人はまばら。
 それだけにがらんとして、時間が止まったよう。
天井の梁 
 こういうところで時を過ごすのも、年寄りには相応しい、か。
壁の格子模様