2015.05.31 昨夜の大地震

 昨夜(05/30)は友人から譲り受けたデッキをTVにつないで、小津安二郎「お早う」(1959)を観ていました。

 ほのぼのとする作品ではありますが、それほどの感動はない。
 「これは『三丁目の夕日』の原型のようなものだな」
 なんて思っていたところ、足元がガタガタッ、ガタガタッと上下に震動。
 「おや、地震?」
 これまでよりは激しい。しかも長く続いている。

 気になってTVに切り替えました。
 TVでは「凄ワザ」というのをやっていて、ふたつの異なった金属をネジでくっつけるか溶解(剤?)でくっつけるかという技術のバトルをしていました。
 その画面に「8時24分ごろ、小笠原諸島西方沖を震源とする強い地震がありました」とのテロップ。続いて「震度5、東京都小笠原村母島、神奈川県二宮町、埼玉県北部……」
 
 震度5は大きいな……と思っていると、画面は「凄ワザ」を中断して地震のニュース。
 これは一大事!
 と思っていたら、今度はグラグラッ、グラグラッと大きな横揺れ。しかも長い。
 一瞬4年前の大震災のことがよぎりましたが、ほどなくして収まりました。
 テロップによると、私の住んでいるところ(三芳町)は震度4。
 ところがとなりのふじみ野市は震度3。

 どういうことだ、激しく揺れるというのは地盤が弱いってこと?
 (そのくせふじみ野市は一部停電との報道も)
 
 切り替えているうちに「お早う」は終ったので、途中から見直し。
 オチもなにもないドラマでした。

 その脱力感からか急に眠気が。
 本来なら関東の友人たちに「大丈夫か?」とメールをするのですが、それもせず、9時半ごろに眠りに着きました。
 
 翌朝(今朝)起きたのが5時10分前。もう夜は明けてました。
 携帯を開いたら、「地震、大丈夫でしたか? もう寝ていましたか? 暑いねえ」(05/30/23:15)と川越の友人からのメール。(とっくに寝てたよ)
 
 考えてみたら、昨日は夜中の1時5分にも大きな地震で目を覚ましました。(これは報道されなかった)
 そして先日(05/25)も大きな地震。
 
 これはもっと大きな地震の予兆なのか。
 それともこの程度の地震で大きな地震を分散させているのか。
 後者ならばいいのですが。

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 京都の四条通で歩道の拡張工事が進んでいます。
 四条通は京都の繁華街を東西に貫くメインストリート。
 その烏丸通から河原町、四条大橋を経て、川端通までの1.1kmの間を歩道の幅を3.5mから約2倍の最大7.1mに拡げるそうです。(朝日・2015/05/29)
 その分車道は狭くなり、片側2車線が1車線に減らされるとのこと。
朝の四条通(2年前)① 
 これまでの交通政策は車道を広くすることが常識でしたが、市は「歩いて楽しい街」をめざし、あえて車道を減らす策に踏み切ったそうです。

 これについて市民は賛否両論。
 すでに歩道の広がっているところでは
 「すれ違う人にぶつかってイライラすることもなくなった。歩きやすい」(80代主婦)
 という人もいれば、
 「車が前へ進まないほうが迷惑。観光客より市民生活を考えて」(40代主婦)
 と車道が狭くなって交通渋滞に不満を漏らす人も。
 
朝の四条通(2年前)② 
 私はまったくの部外者ですが、この施策には大賛成。
 私の好きな東京・丸の内仲通のような街並になるのではないか。
 この仲通は圧倒的に歩道が広く(平均7m)、車道は2車線(一方通行)。写真を見てもわかるように歩道というより公園。所どころベンチもあります。
 それどころかまったく車を通さない時間帯もある。
丸の内仲通 
 歩道を広げるとどうなるか。
 人々はゆっくり歩くようになる。とくに街路樹、花壇、ベンチなどがあると、通過ではなく、散策に近い行動をとります。
 店舗があってもじっくりと商品を選ぶので、衝動買いをしなくなり、本物志向の店が残ります。そして仲通のように高級店、ブランド店が増える。これは老舗店にとっては追い風になるのではないか。
仲通・歩道 
 一方車道が狭まることによって、交通事情は変わらざるを得なくなります。
 この通りによほど用事(店舗への搬入とか)がない限り、ただ通過するのは迷惑千万。
 したがって市バスは路線変更されるのではないか。それでも川端、河原町、烏丸など南北の道は従来通りなので、四条通の各ポイントには行けるわけだし。
仲通・車道 
 それでも四条通りを急いで通過したい、という人は車(タクシー)など使わず、地下に潜れば阪急という立派な「地下鉄」がある。

 観光都市京都は、観光客に配慮しなければ将来はないぞ。

 先日、ふじみ野市の「エコパ」(余熱利用施設)へ行ってきました。
 約10日ぶりですが、浴場の入口にこんな貼り紙が。

洗い場に予約システムなし
場所取り禁止
入浴マナー
湯汚さず周囲に気遣い

 なんじゃ、これは。「予約システム」なんて聞いたことないぞ。
 怪訝に思って、湯に浸かっていた常連のオッチャンに聞いてみると、
 「ああ、あれね。洗い場に洗面用具を置いた人がいて、そこを使おうとした人に対して『オレの場所だ』とモメたらしいよ。だからこんな貼り紙してるんだよ」
 うーん、考えもしなかったけど、場所取りする人間もいるのか。
 それでモメるとは、なんともせち辛い話だ。
 それにしても、「予約システム」という表現に独特のセンス(?)を感じました。

プール 

 「オレはプールにも入ってるけど、この前婆さんのお尻を触ったジイさんがいて、えらくモメてたよ」
 「痴漢行為?」
 「そうだよ。触ったジイさんはとぼけるし、婆さんはカンカンに怒るし。大変だったよ」
 「そのジイさん、出入り差し止めになったの?」
 「それがね。一昨日もきてたよ」
 「えーッ、いい加減だなあ、ここは」
 「なにぶんにも年寄りだからね。大目に見られてるんじゃないの」
 「ここは痴漢風呂か」
 我孫子の友を思い出しました。(ヤツならきたがるだろうな)

 「かと思えば、先日も外の湯舟でク〇したジイさんがいて、従業員が躍起になって掃除してたよ。そのあと念入りに消毒もして。むろんその間使用禁止よ」
 「とんでもない土産物を落とすヤツだな。みんな憤慨してたでしょ」
 「はははは、フン害ね。みんな呆れてた」
 「貼り紙に、湯汚さず、とあるのはそれか」
 「そうだよ。オレなんかほとんど毎日きてるから、いろいろあるよ」

エコパの大広間 

 ここへくるのはオッチャンたちとの会話が面白いからですが、必ずしも和気藹々ではなく、知らないところでトラブルが起こっているらしい。
 
 一度ぐらい遭遇してみたいと思うけど、やはり遭わないほうがいいのかな。

 私の住まい(埼玉県三芳町)から東京の多摩地区へ行くには、府中街道と小金井街道の二通りのコースがあります。
 行き先にもよりますが、最近は小金井街道を走ることが多くなりました。

 小金井街道の起点は東武東上線志木駅南口(埼玉県志木市)。
 そこからすぐ新座市(埼玉県)に入り40号(さいたま東村山線)を南西方向へ。これが志木街道になります。志木街道は川越街道と交差し、さらに関越自動車道を抜けるとほどなくして清瀬市(東京都)へ。
埼玉県から東京都へ 
 東京都といっても、清瀬なんて都の外れ(悪いね)殺風景なものです。
 さらに南西に進むと長命寺のあたりで道は二手に分かれます。真っ直ぐ行けば志木街道(これは所沢で府中街道に)。
長命寺(清瀬市) 
 左の道は新小金井街道。西武池袋線をくぐると水道道路と小金井街道との五差路に差し掛かります。これを左折して南下、これが小金井街道です。
新小金井街道から小金井街道へ 
 小金井街道は車の通行量の割には道が細く、所どころで渋滞します。
 しかも通過する市が東久留米、小平と、これまた東京のローカルタウン。とはいえ例の喫茶店もあったりして、それなりの賑わいはあります。
珈琲店の窓ガラスに映る小金井街道 
 ところが小金井市に入ってくると、様相が変わってきて駅近くなると高層ビルが建ち並びます。
 小金井ってこんな都会だった?
 急に気おくれがしてきました。
 おかしいな、自分には横浜コンプレックスはあっても東京コンプレックスはないはずなのに。
都会の様相? 
 もっとも小金井駅は大変な変わりよう。
 中央線は高架になり、シャレた駅舎に様変わりしています。

 20年ほど前の小金井駅は北口と南口の連絡が悪く、南口に広場がなかったのでバス乗り場へ行くには細い道を通ったものです。
 それが南口にも広場ができて視界が広がり、バスターミナルもできました。私からすれば隔世の感。
武蔵小金井駅 
 「おや?」
 駅南口の街道沿いに「DJANGO」なる名前の古書店。
 気になったので店主に店名のいわれを聞きました。
 「あれはジャズのジャンゴ楽団から取ったもので」
 「ああ、ギターのジャンゴ・ラインハルトね。マカロニ・ウエスタンのジャンゴとは関係ないの?」
謎の古書店 
 「いや、あれは……。あんな殺伐としたものはどうも」
 「そういうけど、あのジャンゴだってジャンゴ・ラインハルトからきてるんだよ。ラインハルトは火傷で左手の指がほとんど使えなくなったのを克服して独自の奏法を編み出したんだから。映画のジャンゴはそこからつけられたんだよ」
 「そうなんですか」
 なにも買わなかったけど、とんだジャンゴ談義になりました。

 小金井にジャンゴのありて水鉄砲

 水鉄砲じゃ迫力ないな。
 三鷹市にある国立天文台。
 昔(35年以上前)は職員の住宅などがあって、どこからでも入れたものですが、今は金網が張り巡らされ、入れるのは天文台通りの正門のみ。
 入場は無料ですが、受付で見学の申請をします。
天文台・正門 
 天文好きの人にとっては興味津々でしょうが、当方は知識も乏しく興味も今ひとつ。
 それでも太陽系の一衛星である地球に住む者として最低限の常識は心得ておかねば。
 そんなことを思いながらコースを進むと、「太陽系ウォーキング」の展示。
太陽系衛星の展示 
 これは太陽系の距離を140億分の1、天体のサイズを14億分の1に縮めた展示。
 これで太陽、水星、金星、地球、火星、木星、土星……などの大きさと距離を知らしめようとするもの。なるほど、これらがこの距離間で太陽の周囲をまわっているわけ……か。

 メインは「天文台歴史館」
 これは港内では最大のドームで、日本最大の屈折望遠鏡(口径65cm)があります。
天文台歴史観 
 なるほど大きい。
 しかし望遠鏡の接眼部(覗き口)ははるか頭上。天体観測で覗くときは望遠鏡が下りてくるのだろうか、それとも台でも使うのだろうか、と疑問に駆られていたら、望遠鏡の後ろにその仕組みが解説されてました。「この床がせり上がるのか!」
65cm屈折望遠鏡 
 円形の赤い床部分が階下の機械室によってせり上がります。
遠景の床(赤い部分)がせり上がる 階下の機械室
 (床がゆっくり回転するレストランが名古屋にあったけど、関係ないか)
  
 場内には他にも旧型の望遠鏡などが展示された「天文機器資料館」や、太陽電波を受信する「1.2mパラボナアンテナ電波望遠鏡」などがあります。
旧型望遠鏡(天文機器資料館) パラボラアンテナ電波望遠鏡
 
 コースの外れに「太陽塔望遠鏡」(通称アインシュタイン塔)があります。
 周囲は草叢が茂り(しかも「毒ヘビ注意!」の看板)の上に建つ古ぼけた建物。しかも入場は禁止。なんじゃこれは、と半ば後悔の念で戻りかけたのですが……。
アインシュタイン塔 
 「ここは衛星の重力を計算して、アインシュタイン博士の『相対性理論』を検証するために建てられた塔なんですよ。残念ながら観測はできなかったのですが……」
 近くにいた子連れの若い母親から、いきなりこんな説明を受けました。
 
 えッ、この人何者?
 こちとらそもそも「相対性理論」がどのようなものかよくわからないので、それだけでもビックリ。しかもこんな若い女性が……。(ただ者ではない!)
 ここの関係者か、それともよほど天文学(物理学?)に興味のある女性なのか。
 こんな人がいるとは。つくづくこの天文台は奥が深い、と思いました。
2015.05.26 昨日の地震
 昨日(05/25)は久しぶりに富士見市の山崎公園に行ってきました。
 同公園は別名「せせらぎ菖蒲園」といって、菖蒲の季節は賑わいます。
山崎公園 
 時期的にはまだ早いけど早咲きもあるかもしれない、と思っていたら案の定ちらほら咲いているのもありました。
 例年だと6月なかごろだけど、この分ならもう少し早いかな。
菖蒲田① 菖蒲田② 菖蒲田③
 他には見るべきものはなかったので、そこを引き上げ、鶴瀬駅近くのスーパーへ。
 2階の雑貨売り場でいろいろ見ていたら、グラッ……。
 揺れてる?
 フロア全体がグワーンと大きく揺れているような感じ。地震かな。
駅前 
 揺れは30秒ほどで納まったけど、身体はまだ揺れている。余震かな?
 他の客も店員も、とくに騒ぐこともなく、淡々としたもの。

 しばらくして店員さんが「大丈夫でしたか」
 そのことばに、やっぱり地震だったか、と思いました。時刻は午後2時30分。

 ややあって取手の友から電話。
 「大丈夫やったか。震源地は埼玉北部らしいで」
 「いや、大きな建物のなかにいたから、揺れたことは揺れたけど、大したことはなかった」
 「わからんで。帰ったら、棚のものが落ちてるかもしれんぞ」
 「そうかな」
地震情報 
 昨日の地震は友の行った通り、震源地は埼玉県北部。
 茨城県南部で震度5弱、茨城県北部、栃木県北部・南部、群馬県南部、埼玉県北部・南部、千葉県北東部・北西部、東京23区で震度4を観測したとか。

 幸い、家のなかは無事でした。壁に何冊か不安定な形でアルバムが立てかけてあったのですが、それも落ちることもなく、そのまま。どうやら実害はなかったらしい。

 これは大きな地震の前触れなのか。
 注意しなければならないけど、注意しようもない。
 近藤神社から東に300mほど行ったところに龍源寺があります。
 曹洞宗大沢山龍源寺。近藤(宮川)家の菩提寺です。
龍源寺・山門 
 山門の左手に天然理心流の碑。これは昭和63年に三鷹市剣道連盟が建立したもの。
 さらに近藤勇の胸像と墓所の石碑。
近藤勇・胸像 
 それらを撮っていると、「お墓は本堂の裏手にあるよ」
 と石碑のとなりに坐っていたお婆さん。
 近藤勇の像を指差して、
 「いい顔してるだろう。きりッとして。ここの一家はみんないい顔してるんだよ」
石碑とお婆さん 
 お墓は(いわれた通り)本堂裏にありました。
 墓石の一部が削り取られているのが気になりました。
 墓石に傷つけるとはとんだ不心得者。ろくな死に方はしないぞ。
龍源寺・本堂 
 近藤勇の辞世の歌碑もあります。
 右手に近藤勇、勇の娘婿勇五郎(勇の長兄音五郎の次男)、勇五郎の子久太郎、新吉の墓も。
近藤勇・墓 
 説明書きにはこう書かれています。
 「近藤勇は慶応四年四月二十五日に板橋において刑死。勇の娘婿(甥)宮川勇五郎は板橋の刑場で肩の鉄砲傷(慶応三年伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺へ埋葬した」
近藤勇・辞世の歌碑 
 近藤勇の墓は他にも板橋駅東口にあります。 
 これは元新選組・長倉新八(杉村義衛)が最初の屍を埋めた斬首の地に、土方歳三への追悼の意味も含めて建立したもので両者並んでおり、後に長倉新八の墓碑も。
勇五郎ら子孫の墓 
 近藤勇の首は京都の三条河原に晒された後、誰かに持ち去られたとなっていますが、昭和33年、愛知県岡崎市の法蔵寺に埋葬されていたという説が浮上しました。
 詳細は省略しますが、三条河原近くの僧が哀れに思い、こっそりと運んだそうです。

 近藤神社にもどって、人見街道を挟んだ向かいにある撥雲館(はつうんかん)跡。
 ここは近藤勇から天然理心流を引き継いだ娘婿勇五郎が明治9年(1876)に開いた剣術道場。「撥雲」とは暗雲を取り除くという意味で、山岡鉄舟が訪れた際に命名したとか。
撥雲館跡 
 門人は最盛期には多摩地域に3000人いたそうです。昭和6年(1931)に改築され、昭和50年代まで稽古が続けられたそうですが、その後は公共の体育館で続けられ、ここは完全に廃止されました。
天然理心流の碑(龍源寺山門横) 
 この道場跡、今は個人の住宅の敷地内にあるので、なかには入れません。
 その個人とは、なんと「近藤」さん。してみると子孫の方?
 興味が涌きましたが、ご迷惑なので訪問せずにそこを辞しました。

 「ここの一家はみんないい顔してるよ」
 あのお婆さんのことばを思い浮かべながら。
 調布市の人見街道沿いに近藤神社があります。
 ここは新撰組の近藤勇生誕の地。
 近藤勇は天保5年(1834)武蔵国多摩郡上石原村の宮川家三男(宮川勝五郎)として生まれました。
近藤神社 
 この屋敷跡は当時の宮川家の屋敷東南部に位置しており、昭和18年に調布飛行場拡張のために取りこわされるまで使用されていた井戸を「近藤勇産湯の井戸」として残しています。
産湯の井戸 
 近藤神社は昭和初期に生家跡に建立。その後荒廃するも昭和52年に生家跡が調布市史跡に指定されたのを受けて再整備したもの。
 数年前、大河ドラマ「新撰組」が放映されたころは幟旗が立てられ、参詣客も多かったそうですが、今は皆無。くるのは物好きな(?)当方だけ。
近藤勇・生誕の地 
 父・久次郎が武道に熱心で自宅に道場をつくり、勝五郎少年はその道場で修業に励みますが、15歳のときに天然理心流・近藤周助に入門。理心流目録を得て、近藤家の養子となりました。
 「近藤勇」を名乗るのは後になります。
宮川家 

 天然理心流の「試衛館」道場は江戸の牛込柳町(現・市谷柳柳町)にあり、大久保通りに面した柳町病院の裏に「試衛館」跡の記念碑があります。
柳町病院 
 ここで近藤勇や土方歳三が稽古していたといわれていますが、調布~牛込間は20km以上。(土方歳三は日野なのでもっと遠い)
 当時の交通手段は徒歩か馬、駕籠しかないので、通いではなく、多分泊まり込んでいたと思われます。
試衛館跡の碑 
 その試衛館から北東方向へ約3.7km行ったところ(文京区小石川三丁目)に伝通院があります。
 浄土宗の寺で、正式名称は無量山傳通院寿経寺(じゅきょうじ)。
 将軍家の菩提寺で、文久3年(1863)山岡鉄舟・清河八郎によって近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まり、将軍警護の浪士隊が結成され、京に上って新撰組になります。
伝通院・境内 

 昨日(05/22)は珍しく環水平アークが見られました。
 これは大気中の氷粒に太陽光が屈折し、水平な虹が見える光学現象です。原理は虹と同じで、夏至の前後に見られるそうです。(Wikipedia)
 これを見たのが東京都小金井市。
環水平アーク 
 ということで小金井(前原坂上)の地面に目をやると、ちょっと面白い景色が。
 右は小金井街道、そして左は急な下り坂。妙貫坂(みょうかんざか)といいます。
妙貫坂(右は小金井街道)  
 妙貫坂のいわれは、
 「前原坂上交差点は、その昔「六道の辻」といって、六本の道が交差していた。そのうちの一本がこの道で、畑や水田の耕作のための農道であった。急な坂の東側には墓地があり、その南側、現在のカシ並木があるあたりに、明治中ごろから大正の初めごろまで『妙観(貫)』といわれる僧が『庵』を造り住んでいたので、妙貫坂とよばれるようになった」(標識の説明書き)
妙貫坂・下り 妙貫坂・上り
 この妙貫坂はかなり急な坂です。
 その理由はこの地が崖状になっているからです。
 ここは国分寺崖線の一部で、これを「はけ」といいます。
 これは古代多摩川の浸食によってできたもので、国分寺の「殿ヶ谷戸庭園」でも見られます。
殿ヶ谷戸庭園  
 「それって大岡昇平の『武蔵野夫人』に出てくる『はけ』のこと?」
 とご指摘のご仁、よくそんな古い小説読んでましたね。
小金井街道 
 さて妙貫坂を下りずに、小金井街道から東に入る道を進むと下り坂(金蔵院坂)になり、下りたところが金蔵院。ここは永禄年間(1558~1570)に阿闍梨尭存の中興と伝わる真言宗の寺。
金蔵院坂 金蔵院
 そこを東に進むと「はけの道」
 うーん、昔は風情があったのかもしれないけど、最近はふつうの人家が建て込んで、よくわからない。

 それでも湧き水があって、その水路沿いに「はけの小路」があるのがそれらしい風情。
 はけの小路
 なお東に進むと急に南側が開け、武蔵野公園が眼前に広がりました。
 これも「はけの道」の風情、かな。
武蔵野公園 
2015.05.22 郊外型喫茶店
 近所でよく買い物をするマミーマート(三芳藤久保店)。
 その向かいにボロアパートがあって、ちょうど1年ほど前に取り壊されました。
 その後、何やら建設工事が始まりました。「小じゃれたマンションでも建つのかな?」
 ところがそうでもないらしい。大きなガラス窓に黒く塗られた板塀。なんだ、これは?
 そのうち、そこに店の看板が。「星〇珈琲」
 ええーッ、こんなところにできるのか。というより、こんな田舎でやっていけるのか。
藤久保店① 
 この店を知ったのは小金井街道を徘徊していたとき。
 京都の伏見でよく見かける酒蔵のような店構え。喫茶店と知って、「ああいう雰囲気の店はさぞかしコーヒーが美味いに違いない」と勝手に決め込みました。
小金井店 
 一昨年だったか、京都の友人と話していたとき、「うちの近くにも星〇珈琲ができたぞ」と自慢げに(?)いったので、ちょっと不思議な気がしました。
 そっちだってコーヒーの美味い店はいくらでもあるだろう。(いわなかったけど)
藤久保店② 
 この「星〇珈琲」1号店は新宿東口店。
 親会社はドトール・日レスホールディングスで、自社焙煎の豆を使い、1杯ごとにハンドドリップでいれる高付加価値コーヒーを提供。折しも名古屋式のコーヒー店の関東進出により、郊外型喫茶チェーン店の戦いに火が点いたとのこと。(日本経済新聞・2014/01/18・電子版)
新宿東口店 
 なるほど、そういえばお隣のふじみ野市にもあったな。しかしあれは県道東大久保大井線という幹道沿いにあるから、車の客が来るのであって、わが近所は(川越街道からひと筋入った)旧鎌倉街道の細い道沿いだ。駅からは遠いし、誰も来ないのではないか。

 そんなことを思っているうちに昨年9月末オープンしました。
 オープン当初は満員。それはわかる。しかし3ヶ月経ってもまだ客足は途絶えない。
 近所の客というより、車の客が多いようです。
 「こうなれば一度は行かなきゃならんな」
 そう思っていた矢先でした。
藤久保店③ 
 先日、取手の友人のフリマを手伝っての帰り、松戸まで送ってもらったときのこと。
 「コーヒーでも飲んで行くか」
 と寄ったのが「星〇珈琲・松戸きよしヶ丘店」
松戸きよしヶ丘店・外観 
 場所は違うけど同じチェーン店、図らずも念願(?)が叶ったわけです。
 店のつくりはほぼ同じ。値段の割には味はまあまあ。親会社の味よりは品があります。
 (コーヒーの味そのものは先日3人で入った人形町の喫茶店が美味かった)
松戸きよしヶ丘店・珈琲 
 これで近所の珈琲店に行くことはないかな。
 O君と別れ、取手の友と日本橋人形町界隈を歩いていて、「おや?」
 「玄冶店(げんやだな)跡」の標識が目につきました。
玄冶店の碑 
 「玄冶店って、春日八郎の『お富さん』(1954)に出てくる(♪エーサオー げんやだな)
やろ?」
 「そうや、そこ知ってるで」
 取手の友の案内で、玄冶店のあった場所(料亭「濱田屋」)の前を通りました。そして橘稲荷。
 「これがそうや」
 「なるほど」

 玄冶店というのは将軍家の御典医・岡本玄冶(1587~1645)の邸宅があったところ。
 その玄冶店が有名になったのは歌舞伎「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)
 この話は義母からよく聞かされましたが、何度聞いてもよくわからない。
 これは義母の説明が悪いというより、物語自体に整合性がないからではないか。



 ざっとストーリーを述べますと、
 江戸の大店伊豆屋の若旦那・与三郎は身を持ち崩し、木更津の親類に預けられていましたが、あるとき木更津の浜でお富(地元の親分の妾)とすれ違い、互いに一目惚れします。
 ふたりの情事は露見し、与三郎は手下にめった斬りにされ、お富は追われて海に身投げしますが、船で通りかかった和泉屋の大番頭多左衛門に助けられます。
 3年後、与三郎は34ヶ所の刀傷を売りものにする無頼漢となり、あるとき仲間と日本橋にある妾の家を強請(ゆす)りに行きます。この妾こそ3年前に死んだはずのお富。
 「これお富、ひさしぶりだなア…」
 
 ここがこの演目最大の山場で、この邸宅(歌舞伎では源氏店)こそ玄冶店。
 歌謡曲「お富さん」はこの再会シーンを歌にしたものです。
玄冶店のあったところ
 しかしこの歌は原作とは全くの換骨奪胎。
 ふたりの再会をあっけらかんと歌にしていますが、そもそも与三郎はごろつきで、妾宅に金を強請りに行き、相手が(愛する)お富とわかっても、「♪これで一分(はした金)じゃ、すまされめえ」と脅しています。この男の目的はあくまでも金。そのくせ「♪愚痴はよそうぜ、お富さん」なんて、よくいうよ。愚痴ってるのはお前(与三郎)じゃないか。

 歌詞はデタラメでも、「お富さん」は軽快なリズムと春日八郎の歌唱力で大ヒットしました。
 私たちも子ども時代、わけもわからず歌ったものです。
橘稲荷 
 もっとも原作自体がごろつき男と浮気女の「惚れた腫れた」を描いたもので、男と女の再会の感動なんてあったもんじゃない。同じ再会ものでも、ケーリー・グラントとデボラ・カーの「めぐり逢い」(1957)とはまるで違います。 

 さて与三郎のその後ですが、ますます悪者になり、捕らえられて島流しになり、なんとかそこを抜け出し、父親の伊豆屋喜兵衛に会い、宿敵(木更津の親分)にも会い、最後は与三郎の傷痕が消えるという荒唐無稽な話です。

 もっとも歌舞伎は観てないのでなんともいえないのですが、この物語をまともに説明できる人は少ないのではないか、そんな気がします。
 一昨日(05/18)は水天宮で取手の友と、中高時代の同窓生O君と合流しました。
 O君は高校時代は吹奏楽部、人づき合いがよく活発な性格で、学級委員もやってました。
 取手の友とは中3のときに同クラスで、それいらい交流があったようです。
水天宮(3年前) 
 「キミらのクラスは個性派ぞろいや。それだけに個々バラバラでまとまりがない。昨年秋の同窓会ではクラス幹事が『うちがいちばん集まりが悪い』いうてボヤいとった」
 「そうらしいな」

 水天宮は工事中でした。(今さら用はないけど)
 このあたりで食事といえば「玉ひで」の親子丼が有名で、我われが通ったときも長蛇の列でしたが、「並ぶのはきらいや」とO君の知っている天丼屋へ。(写真はなし)
行列のできる親子丼の店 
 「それにキミらのクラスは物故者も多い」
 「そうやねん。この間もなんや向こうが騒がしいと思うたら、同窓会の真っ最中で、しきりに呼んどんねん」
 「やばいな。行ったらあかんで」
 「それがな、意外に楽しそうで、もうちょっとで行きそうになったわ。来年の同窓会は多分あっちやで」
 「あっちへ行ったら、幹事やらされるで」
 「そうなったら、真っ先にキミに招待状出すわ」
 「いややで、破り捨てるわ」
 そんな真面目な(?)ことを語り合って、取手の友の知り合いの喫茶店へ。
 (珈琲は美味かった)

 「これはこっちの(世での)同窓会の話やけど、この秋に関東でもやるんや。くるやろ」
 「うん。その際京都から何人かきよるとおもろいけど」
 「それは呼ぶつもりやけど、きてくれるかなあ」
甘酒横丁 
 話題はさらに同窓生の消息話に。
 「あいつとは銀座で会うたことがあるわ。声かけられたけど、わからんかったで」
 「それはしゃーない。お互い変わっとるから」

 さらに京都の友に電話。
 「こっちは天丼食って食後の珈琲や。そっちはこれから珉珉で餃子食うのか。えらい豪勢やな」
 などと話しております。
ふたりの友人 
 その電話がこちらにも。
 「おう、ワシや。キミのブログに出てきたN翁や」
 「あッ、しもた。今度会うたらボコボコにされるんやないかとビクビクしとったで」
 「かまへん。なかなかおもろいこと書いとるやないか。毎日読んどるで」
 「えらいこっちゃ。プレッシャーでキーボード打つ手が震えるわ」
 「そんなん気にせんと縦横無尽に書いたらええがな」
 「ありがとう。今度ゆっくり語り合おうな」
 そういって電話を代わりました。

 O君は「用事があるから」といって小伝馬町で別れました。
 いろんな人の消息がわかってなかなか有意義な再会でした。
2015.05.19 取手の一日
 雨でフリーマーケットが中止になった日(05/16)の午前中、友人がYou Tubeの音楽をCDに入れるのを見ていました。

 「好きな曲を<お気に入り>に入れているやろ。それだけでは自分のものにはなっとらんのや。著作権の問題で消されることもある」
 たしかに好きな音楽や映画を<お気に入り>に入れておいても消されていることがあります。(ブログでも然り)
 それはまだネット上にあるから。
 
 消されないようにするには、これをネットから出して自分の<ドキュメント>に取り込む必要があります。これにはソフトが要りますが、彼は市販のソフトを使って好きな曲を取り込み、それをCDに保存します。
 これで私のために、「思い出の渚」「真夜中のギター」など、学生時代のフォークを焼いてくれました。
ふれあい道路①
 「次は我孫子のヤツ用のをつくってやるか」
 我孫子の友が好きなのは「夜の銀狐」「長崎は今日も雨だった」などのムード歌謡。
 彼は我われよりサラリーマンになるのが早かったため、クラブでホステスさんたちとカラオケ歌っていたのでしょう。
ラーメン店 
 それが終ると急に腹が減ってきました。「メシ食いに行くか。ラーメンでええか」
 車で10分ほど走って守谷市の某ラーメン店へ。昼どきだったので混んでました。
ラーメン 
 「ほう、ここは歴史があって由緒正しきラーメン店みたいやな」
 ということで極旨醤油ラーメンと餃子を頼みました。
 中華街「徳記」の豚足ソバは別にして、ラーメンを食べたのはほとんど20年ぶり。
 なかなか美味かった。
餃子 
 帰る道中、友人は車を運転しながら、
 「夜も外食というのも何やし、メシ炊くか。ジャガイモとニンジンと豚肉は残ってんねん」
 「そんなら肉ジャガつくったるわ」
 「つくれるのか」
 「肉ジャガ自体はないけど、大体わかる」
タマネギ・ニンジン  ジャガイモ
 友人には同窓会の案内の作成を任せ、こちらは料理。
 ジャガイモは二種類あったので大きいほうは皮を剥き、小さいほうは新ジャガなのでタワシでこすって皮をはがし、下茹で。(煮崩れ防止のため)
切った野菜
 ニンジン、タマネギは適度に切って炒め、軟らかくなったら深鍋に移し、みりん、ダシづゆ、日本酒、水を加え、豚肉を炒めたものを入れて、少し煮込んでから下茹でしたジャガイモを。
 弱火で煮込んでゆっくり冷まし(ジャガイモに滲ませるため)、食べる直前に加熱しました。
ニンジンを炒める   
 「えらい手間かけるんやな」
 「いや、自分ひとりで食べるんやったら、こんな手間はかけんけど、人には煮崩れしたジャガイモを食わすわけにはいかん」
 と、できたのが写真。
 味は、ちょっと薄味。というのもここのダシづゆに慣れてなく、塩辛いような気がして、水が多かった。もっとも彼は血圧が高いので、これでよかった……かな。
肉ジャガの完成 
 昨日(05/17)は取手市(茨城県)に住む友人のフリーマーケットを手伝ってきました。
 本当は一昨日の午前中の予定だったのですが、雨のため中止。翌日に順延となりました。
 「どうする?」と聞かれ、「やるよ」
 日曜は日曜で雑用がありますが、手伝うことは最初から決めていたので、初志貫徹。
朝、店を出す準備  
 これは昨年10月に次いで2回目。(参照
 そのときは興味があって手伝ったのですが、「えッ、こんな物が売れるのか」
 こちらの想像の及ばないことばかり。つくづく「人の欲望は千差万別」と思い知らされました。
 今回はどんな意外性に出会えるか。
早くも客が…… 
 前の晩、出品する品物をひと通り点検ました。
 例によってプリザーブドフラワー。それに和装用のハンドバッグ、小銭入れ、スニーカー、革靴、花瓶、時計、カメラ(ジャンク)、カメラ(デジタル=使用可)、ビデオデッキ、(映画)ビデオ、DVD、自動車の前の部分(フロントグリル)……
 「フロント……? なんやこれ、何に使うねん」
 「これは壁に飾るオブジェや。100円でどや。安いやろ」
 「何がオブジェや。こんなん買う人おらんで。無用の長物や」
 「そんなんわからへん。買う・買わんはこっちで決めることやない」
説明するオーナー 
 翌朝早めに出て、会場(市庁舎の駐車場)に着きました。
 すでに人が出ていて、出店の準備をしていました。
 「花はここに置くんやろ」
 「うん、時計はこっち」
 箱から品物を取り出して並べようとしているときに、早くも客がきて、箱のなかを覗き込む。
 (まだ早いんだよッ)
 しかし怒るわけにもいかない。
他店を偵察 
 「この車の機種はなに?」と、例のフロントグリルを指差して聞いてきた客。
 「さあ、そこまでは……」
 「いくら? 100円? 買うよ。包装紙? いいよ、車に積み込むから」
 これには友人と顔を見合わせて「…………?」
 (あんなガラクタが真っ先に売れるとは……)
 
 しかもまだ品揃えが終らないうちに、いろんな客がやってきて、「これ、なに?」「いくら?」と聞いてくる。こちらは大わらわ。(待てっちゅうに)
 そしてフィルムカメラ(ジャンク品)やスニーカー、小物類が売れました。
 プリザーブドフラワーも。
 これは前回も買ってくれたコアな女性客。
 「あれ、みんなから評判よかったのよ。可愛いって。でも今回は品数が少ないのね」
 「ええ、母の日でほとんど売れまして……」
 「やっぱりね。ちょっぴり残念だわ。でも、それ貰おうかしら……」
 と2000円の花をお買い上げ。
靴、衣料品を売る店
 観察していると、買ってくれた人はあちこちの店を覗いてまたやってくる。コアな客。
 ざっとひと回りして閉店間際にまたやってくる。値下げするのを待っている?

 こちらも他店の様子も見回りました。圧倒的に衣類が多い。
 「ほとんど100円単価でチマチマ売っとるなあ。それに冬物の子ども服なんか今売れへんで。コンセプトが間違っとる」と他店の営業をチクリ。

 友人が今回売りたかったのは時計。
 品揃えの大半はクオーツでしたが、売れ行きはさっぱり。
 「こういうところでは自動巻きのほうが人気なんやなあ。それがわかっただけでもええわ」
 ということで、今回の売り上げは前回を下回りました。
お隣さん 
 「しかしオレにとってはよかった。大成功や」
 「なんでや」
 「あの重いビデオデッキが売れたからや。あれが売れずに持って帰ることを思うと気が滅入った」
 「キミは売れ行きよりも重さを重要視しとったんか」
 「そらそうや、それが従業員とオーナーの違いや」

 ということで今回も無事に終わりました。
 売れる・売れないを自分で判断してはいかんと再認識しました。
2015.05.15 弁天橋
 大佛次郎の「開化もの」に惹かれて、私が横浜に通い始めたころは弁天橋がその起点でした。
 渋谷から東横線でくると、終点が桜木町。
 そこから大桟橋や山下公園に向かうには、まず弁天橋を渡らねばならなかったから。
弁天橋① 
 当時はみなとみらい地区はなかったし、野毛方面に向かうのは5回に1回ぐらい。
 ほとんどが弁天橋を渡って本町通り(国道133号)→万国橋通り→海岸通り……というコースでした。

 弁天橋ができたのは明治4年(1871)、
 当時は横浜港と東海道を結ぶには吉田橋(派大岡川)を渡り、野毛橋(現・都橋)(大岡川)を渡って横浜道を行くしかなかったのですが、交通量の増加とともに海岸よりの近道がつくられ、大岡川を渡る橋も新たにつくられました。それがこの橋。
 当時この橋の東詰付近(神奈川歴史博物館あたり?)に洲干弁天社があったので、弁天橋と命名されました。(神社はのちに羽衣町に移転)
大岡川 
 翌明治5年に鉄道が開通し、横浜駅(現・桜木町駅)ができると、交通量もますます増え、初代の橋の腐朽によって明治6年に木造のアーチ橋に架け替えられました。
 橋台と橋脚はレンガを巻いた鉄筋コンクリート製、幅6~7mの車道に幅1mほどの歩道がついていて、四隅の橋柱にはガス灯が設けられていたそうです。
弁天橋から見るみなとみらい地区① 
 その後弁天橋はプレート状の鈑桁橋に架け替えられ(1908)、関東大震災(1923)では被災したものの落橋は免れ、1928年に復旧しました。
 この橋も鋼材の腐食により昭和51年(1976)に架け替えられました。これが現在の橋です。(4代目)

 橋長は54.4m、幅は27m(車道18m、歩道各4.5m)。橋のたもとの4本の親柱は船の帆をモチーフにしたものだそうです。
 船の帆だったのか。なぜここに加藤清正の兜が? と不思議に思っていたのですが。
弁天橋② 
 その弁天橋もみなとみらい線開通(平成16年=2004)とともに寄らなくなりました。
 東横線の横浜駅~桜木町駅間が廃止されたからです。
 当時はそれが不満だったのですが、直通で馬車道や中華街・元町に行けるので、専らみなとみらい線を利用。現金なものです。
弁天橋から見るみなとみらい地区② 
 去年ここを通ったとき、下流方向の両岸が階段状のデッキになっていました。
 「しばらく見なかったからなあ」
 遠くにランドマークタワーやインターコンチネンタルホテルなどが見えて、なかかなの風情。

 燕来て弁天橋の様変り

 露骨な句になりました。
2015.05.14 象の鼻パーク
 毎度おなじみ象の鼻パーク。
 地下鉄みなとみらい線・馬車道駅で降り、海岸へ向かうと突き当たるのがこの象の鼻。
 今では横浜散策の出発点になりました。(以前は桜木町近くの弁天橋)
象の鼻パーク
 象の鼻の歴史は古く、安政6年(1859)横浜港が開港され、東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が建設され、慶応3年(1867)東波止場を弓なりに湾曲した形に直されたことで、その形状から象の鼻と呼ばれるようになりました。
明治15年・象の鼻ができた頃(赤丸部分) 
 その後、象の鼻は紆余曲折を辿りますが、大桟橋ができてからはその役目を終え、一般人は立入れなくなりました。
 地図には象の鼻突堤があるものの、大桟橋の根元部分には金網で遮られ、「港湾関係者以外の出入りを禁ずる」という標識を恨めしげに通ったものです。
大桟橋ができると役目を終えた 
 そこが開放され、象の鼻パークとして開園されたのは6年前(2009)のこと。
 できた直後に行ったことがありますが、細長い道がドーンとあるだけ。ちょっと拍子抜けしましたが、何度か通っているうちに、これはこれで風情があるのではないかと。
象の鼻突堤のなか  
 ここは横浜港内を遊覧できる水上バスの発着点になっています。
 一度乗ったことがありますが、そのとき乗客は私ひとりだけ。ベイブリッジの下を潜ったり、それはそれで興趣深いものでしたが、なんとなく申しわけないような気持ちにもなりました。
 今度友人たちと一緒に乗れば興趣は盛り上がるかも。
シークルーズ海龍号 
 このときは人気のシークルーズ海龍号が停泊していました。
 ここはまた港湾局の巡視船が停泊しているところでもあります。(怪しい船は許さんぞ)
港湾局の巡視船 
 さてここから左(北方向)に行けば、赤レンガや臨港パークなどのみなとみらい地区。
 右(南東方向)に行けば、山下公園、山手通り。
巡視船 
 どちらに行くか、まさに岐路愛すべし。
 (昔、中国の詩人が旅行中岐路に差しかかって、「自分は北へも南へも行ける」と号泣したそうです)

 私は号泣はしませんが(ひとり笑い?)、「私には選択の自由がある!」
 大袈裟だったかな。
2015.05.13 新港パーク
 パシフィコ横浜から国際橋を渡ると左手に万葉倶楽部があります。
 温泉・宿泊施設なので、いつも素通りしてワールドポーターズか赤レンガ倉庫に向かうのですが、「おや?」
 海に面したところが遊歩道のようになっています。

 対岸のヨコハマインターコンチネンタルホテルや、背後の観覧車がこれまでとは違うアングルで見られて、なんとも新鮮。
左はヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル 
 海沿いに歩いてみると公園になっていて、散歩している人の姿もチラホラ。
 なんだ、行けるのか。てっきり万葉倶楽部の敷地だと思ってたぞ。
背後に見る観覧車  
 角っこは野外ステージ。
 一見カッコいいステージだけど、海をバックのパフォーマンスは大変だぞ。
 集中し難いし、波しぶきを浴びたり、海風に煽られたりする。
 楽器は潮風で錆びやすくなるし、先日の曲芸なんか危険この上なし。
 (よけいなことをいってしまいましたが)
野外ステージ 
 さらに海沿いに進むと松林。
 ♪松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ……
 なーんて、小学生のとき歌った唱歌が聞こえてきそうな景色。
松林から見る海 
 ここは「新港パーク」といって平成13年(2001)に開園した公園。
 かれこれ14年も経つというのに知らなかった。
 横浜通を自認する当方にも盲点があるということか。(謙虚にならんといかんなあ)
新港パーク 
 もっともここは遊具もなく、なんの特徴もないので観光客が訪れることもなく、地元の人の散歩(徘徊?)コースか、釣り場になっている様子。
 それでも万葉倶楽部のとなりに「カップヌードルミュージアム」ができてからは、裏庭の当公園にも人がくるようになったらしい。しかも春は隠れた「桜の名所」とか。
釣をする人 
 真の「横浜通」なら、こういうところこそ押さえておくべきだったか。
巡視船 
 ♪……干網浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ
 見よ 昼の海 見よ 昼の海 

 横浜にもこんなのどかなところがある。

2015.05.12 横浜三塔+α
 先月、象の鼻パークを散策していて、改めて横浜税関の塔の美しさに感じ入りました。
 この塔は頭の部分がイスラム寺院風のドームになっていて、なんともいえない風情を醸し出しています。高さ…約51m 。(1934年竣工)
 横浜の人はこれを「クイーンの塔」と呼ぶそうです。(本当かな?)
クイーン(横浜税関) 
 「キングの塔」と呼ばれる神奈川県庁は日本大通りにあります。
 昭和初期に流行した帝冠様式(洋式建築に和風の屋根をかけたデザイン)建築の屋上に五重塔をイメージした塔がそびえ立っています。高さ…約49m。 (1928年竣工)
キング(神奈川県庁) 
 「ジャックの塔」と呼ばれる横浜市開港記念会館はそれより内陸の本町通りにあります。
 レンガ造りで東南隅に時計塔、西南隅に八角ドーム、西北隅に角ドームを配しています。高さ…約36m。(1917年竣工)
ジャック(開港記念館) 
 キング、クイーン、ジャックで、これを「横浜三塔」と呼んでいます。
 この愛称は、昭和初期に外国船員がトランプのカードに見立てたことが由来とか。

 私の見たところでは「キング」の神奈川県庁が高さの割にはみすぼらしい。
 これは建物の屋上に建てられているからか。(塔は地面から建ってくれ)
 聞くところによると、この塔の部分、傷みが激しくてしばしば大幅な改修工事を余儀なくさせられるとのこと。そのために市の文化遺産にはならないのだそうです。
県庁屋上に聳える(?)キングの塔 
 しかしこの神奈川県庁には屋上に行けるメリットがあります。
 ここから見る象の鼻パークと大桟橋、赤レンガ倉庫、開港広場の景色がなんとも新鮮。
県庁屋上から見た象の鼻パークと大桟橋 県庁屋上から見た開港広場
 他の塔では「ジャック」の横浜市開港記念会館ではボランティアのガイドさんが館内と横浜の歴史を丁寧に解説してくれるし、「クイーン」の横浜税関では展示物(密輸品や密輸の手口まで)が充実しています。
 こうなると甲乙つけがたい。
県庁屋上から見た赤レンガ倉庫 
 キング、クイーン、ジャックとそろったら、エースはないのか、って?
 ありますよ。
 それが馬車道にある「神奈川県立歴史博物館」。もとは横浜正金銀行の建物。(1904年竣工)
 これも屋根のドームが荘厳でなかなかの風情です。(国の重要文化財)
エース(神奈川県立歴史博物館) 
 これらを一日で回ると、いいことがあるとか。
 私は一館だけでもご利益があります。
 三条大橋にはいろんな記念碑があって多くの説明板がありますが、そのなかに「三条大橋・擬宝珠刀傷跡」という表示があります。

 「三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に刀傷があります。これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でも見て取れる刀傷です。三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。 三条小橋商店街振興組合」
三条大橋
 そこでまず南側の擬宝珠を観察。
 頭のすぐ下の部分、斜めの線が二本切り傷があります。
 長い線(6㎝ほど)は右上から左下へ打ち下ろした傷、するとその下の浅くて短い線(3㎝ほど)の傷は?
 どうしてほぼ平行なのか。
 同じところを二度振り下ろしたか、あるいは返す刀(燕返し?)で斬り上げたか。
 (佐々木小次郎じゃあるまいし、実戦でそんな剣術を遣うとも思えない)

 しかも、その下のほうにも同じような角度の刀傷がある。これは?
南側の擬宝珠 
 これら三本の刀傷から次のような情景が浮かびます。
 新撰組の隊士が池田屋から逃げる勤皇の浪士を三条大橋まで追いかけた。追い詰められた浪士は擬宝珠を背にして刀を構えたが、そこへ隊士が右上段から激しく斬りかかった。
 しかし深く入りすぎたため切先が背後の擬宝珠をえぐり、しかも相手の剣にガチッと受け止められた。
 そこで隊士は刀を引くと、再び右上から打ち下ろす。
 今度は先ほどより浅く、擬宝珠を掠る程度だったが、これも受け止められる。
南側の擬宝珠(接近) 
 そして三太刀目。先ほどより低いところから打ち下ろしている。
 これも微かに擬宝珠を掠ったけど、これは相手を斬った……?
 そして北側の擬宝珠。
 ここにも左上から右下に切り下げられた刀傷。
 これも擬宝珠を背にした相手を斬りつけた痕と思われます。
北側の擬宝珠 
 ここから読み取れる情景は、南とは違い一太刀目の右上からの打ち込みは浅く、相手にかわされた。
 しかし左下に切り下げた刀を、今度は左上から打ち下ろす。
 これは擬宝珠を掠って相手の肩先を斬った……?
北側の擬宝珠(接近)
 剣術というのはふつう、右上から左下に斬り下ろす(順)と、次は左上から右下に斬り下ろす(逆)を連続させるもの。つまり字状に剣を振るう。
 その意味では北側の隊士の剣は理に適っていますが、南側の隊士は同じ方向から立て続けに三回。よくこれで相手からの反撃を受けなかったと思います。よほど迫力のある剣だったのか。
 以上が私独自の見解です。
 こんなことを想像できるのも、先日「燃えよ剣」を観たからでしょうか。

 侍の血の騒ぎたる夏の宵

 夏草や兵(つわもの)どもの夢の跡……?
 京都といっても私は左京区に住んでいたので、伏見というのはほとんど知らなかった。
 というのも伏見は京都駅の南にあり、そこへ行くには市電で京都駅に行き、そこから伏見行きの市電(車輌も旧型だった)に乗るしかなかったので、伏見だけ特別区のような感じでした。
 (あとで思えば京阪で行く方法もあったのですが、そのときは考えも及ばなかった)
大倉酒蔵① 
 人づてに「伏見稲荷と酒蔵の町」と聞いていました。
 どちらにもさほど興味はなく、また伏見には親戚も知人もなかったので、行くことはなかったのです。
大倉酒蔵② 
 初めて行ったのは30年前、中学の同窓会が伏見の鳥料理屋で行われたからです。
 (寺田屋を訪れたのはその直前です)
 大きな店構えの酒造があちこちにあり、川に柳の木が植わっていて、落ち着いた風情のある町だなという印象を受けました。
松本酒造① 
 さてその伏見。
 江戸時代は京⇔大坂を結ぶ水運の要所として栄えましたが、鳥羽伏見の戦いの戦場となって伏見の町はほとんど壊滅(寺田屋も)しました。
 しかし明治になってここに陸軍第38歩兵連隊が駐屯してから、その軍需を賄うために商工業が急速に発展しました。
松本酒造② 
 一方でここは昔から豊かな伏流水に恵まれた土地で(伏見の名称は伏水からきているとも)、酒造は何軒かありましたが、需要が増えたために酒造も増え、大型化しました。
 全盛期は30軒以上もの酒蔵がひしめいていましたが、昨今は清酒業界の不況もあって18社に激減しました。
松本酒造③ 
 「ここで有名な酒蔵は月桂冠の大倉酒造と、蔵の景色が美しい松本酒造やな」と友人。
 連れて行ってくれ、と頼むと、「外観だけやで」
 「なんでや」
 「見学はできるんやけど、車の運転してるから利き酒でけへん」
 「利き酒せんかったらええやんけ」
 「目の前に酒があって飲めんほど辛いものはない」
 そこまでいわれたら従うしかなく、外観の撮影だけにとどめました。

 それでも松本酒造の風情ある酒蔵を撮れて満足です。
 酒造の工程は青梅(東京)の酒造で知ってるし、酒に弱い当方は利き酒もちょっと、ね。

 酒蔵に若葉そよぎてほろ酔ひす

 月並みな句になりました。
 伏見に住む友人に「寺田屋に行ってみたい」というと、「やめとけ」
 「なんでや」
 「あそこはインチキや。京都の人間なら誰でも知っとる」
 ええッ?
史跡(?)寺田屋 
 実は私、30年ほど前、寺田屋を訪れたことがあります。
 坂本龍馬ゆかりの船宿とのことで、龍馬に関する展示物などがあり、「寺田屋事件」の際にできた刀痕や、龍馬が伏見の役人に襲撃された際発砲した弾痕などもあったような……。

 「はははは。あれは全部ニセモノや。そもそも当時の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで全焼して、今の建物は明治の後半に建てられたものや。あんなんで観光客を呼びよって、地元の人間からすれば苦々しい限りや」

 うーん。この男の話はときとして尾鰭がつくけど、うそはいわないはず。
 ということで、なかには入らず、外と庭だけ見てきました。
寺田屋 
 あとで調べてみると、友人のいう通り、龍馬やお龍の住んでいた当時の寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868)で焼失したとのこと。
 現在の建物は明治38年(1905)に登記されており、湯殿がある部分は明治41年(1908=お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているとのことで、専門家の間では以前から再建説が強かったそうです。(たしかに「増築登記」なんて、それだけで怪しい)
庭 
 これが明らかになったのは7年前。
 関西のメディアでは散々取り上げられたそうで、平成20年(2008)9月には、「現在の寺田屋は、当時の敷地の西隣に建てられたものである」と公式に結論されました。
中書島駅にある龍馬の写真 
 私が30年ほど前にきたときは、そんなこととはつゆ知らず、まんまとだまされました。
 今となっては笑うしかありませんが、これに関するブログなどを見ると、怒り心頭に発する方もおられる様子。その気持ちもわかります。
 http://wadachi.blog.eonet.jp/wadachi/2010/07/post-0fae.html

 http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/83/

 史跡はニセモノでも、龍馬がこのあたりに住んでいたということで、慰めるしかありません。

 初夏や龍馬掲げる偽史跡

 
今回も駄句で失礼しました。
2015.05.08 今月の出句
 今月の兼題は「姫」
 「姫」なんて使いようはないぞ。「姫はじめ」の時期(正月)は終っているし。
 しょうがないから「かぐや姫」でも使うかな。
 ということで、①-a「筍の掘れぬ御託やかぐや姫」→①-b「講釈師筍掘らずかぐや姫」

 五月だから鯉のぼりの俳句でもつくってみるかと、②-a「風任せ叔父に似たるや鯉のぼり」
 そんな叔父がいたなあ。(えッ、自分のこと?)
鯉のぼり 
 歳時記を見ていたら、「夏来るや」の季語で「夏来るやをみなとをとこと香をわかつ」という句があったので、そこから③-a「山手みち乙女香りて夏来る」
 「山手みち」とは横浜の山手通り。「日本の道百選」のひとつですが、女子高(ブランド校)が多いところでも有名です。
 これを変えて③-b「夏来るや山手に女子の香り立つ」
 そのうち「山手」にこだわることはないか、と③-c「通学路女子の香残り夏来る」
 これでもよかったのですが、最終的に、③「夏めきて女子の香残る通学路」になりました。
女子高のある山手通り 
 兼題「姫」を使った句ですが、「筍」と「かぐや姫」を結びつけるところに無理があるのではないか。そこで鯉のぼりに結びつけ、①-c「てっぺんに泳ぐや姫の鯉のぼり」
 ひとり娘が家で威張っている様子を詠んだのですが、あまり面白くない。

 そこで①-d「ソプラノで泳ぐ歌姫鯉のぼり」
 歌姫を使いたかったばかりに強引な句になってしまいました。
 それならすんなりと①-e「歌姫のソプラノ聞こゆ夏の朝」としたほうがいい。
 「聞こゆ」は説明的なので、①「歌姫のソプラノ届く夏の朝」にしました。

 こうなると「筍」が余りますが、捨てるには忍びがたい。京都の友人にもらった恩もあるし。
 もらった筍は土佐煮、筍ご飯にして食べました。
 その写真を送ったら、「最初は味つけしないでそのまま湯掻き、先端部分を刺身で食べると美味いですよ」との返事。そんな手があったのか。
 それに敬意を表して、②「刺身土佐煮御飯筍尽くしなり」
友人宅の竹林  

 残るはあと一句。
 「風薫る」の季語を見ていたら、「風薫る女の車夫の法被かな」という句が目につきました。
 女車夫の句は「女車夫の手甲脚絆きりり秋」という宗匠の名句(?)があり、そこから女車夫の威勢のいい姿が浮かび、「あらよッ」という掛け声が自然に出てきました。
 そこで、④「あらよっと女の車夫に風薫る」

  以上、太字が今月の出句です。
2015.05.07 燃えよ剣
 司馬遼太郎の時代小説のなかで一般的に人気があるのは「龍馬がゆく」(1963~1966)、「坂の上の雲」(1969~1972)ですが、この2作はエピソードが多く、長すぎてダレます。
 その点、「燃えよ剣」(1964)はピリッと引き締まった傑作中の傑作です。
タイトル
 その原作をNET(当時)と東映が映像化して1970年4~9月に放映されたシリーズ(全26話)をDVDにまとめたもの。多摩に生まれ育った土方歳三(栗塚旭)が幕末の京を舞台に暴れまくり、箱館戦争で死ぬまでの生涯を描いた作品です。


燃えよ剣 投稿者 retudou
 
 彼は多摩で懇ろになった女性をめぐって七里研之助との斬り合いで屠り、京に上って新撰組を結成してからは勤皇の志士たちを斬りまくります。
 勤皇の志士に恐れられた新撰組の強さの源は、士道に背いた者は切腹という「血の掟」。
 そのため隊士の間からも多くの処罰者(切腹)が続出しました。その数30人とか。
 それを指揮し、裏方、憎まれ役に徹したのが副長の土方歳三でした。
近藤勇と土方歳三 
 しかしときの流れには勝てず、鳥羽・伏見の戦いで敗退。さらに江戸帰京後は、隊長の近藤勇(舟橋元)は官軍に自首、沖田総司(島田順司)は肺結核により死去。仲間の隊士、河合耆三郎や原田左之助などは戦死。京時代の新選組は瓦解していきます。
池田屋事件① 池田屋事件②
 それでも土方の闘志は少しも衰えず、洋式兵法を学んだ彼は「刀槍ではなく洋式軍隊でやり合おうじゃないか」と髷を落とし、洋装に着替えて最後の戦地・函館「五稜郭」に赴きます。
 そこには何の野心もなく、相手と戦うことだけが生き甲斐の男の姿がありました。
新撰組の見回り 
 そんな土方にも愛する女性がいました。京で知り合ったお雪(磯部玉枝)です。
 お雪は土方を慕うあまり、江戸、函館にもやってきます。戦いに明け暮れる土方にとってはお雪との逢瀬が唯一安らぎのひとときでした。
 お雪は原作にも登場しますが、これは司馬さんのつくり上げた人物かもしれません。しかし私としては、このような女性がいたと思いたい。
歳三とお雪 
 司馬さんの原作でもそうですが、ドラマではこの土方歳三を「世俗的な欲望のない戦(いくさ)好き(=至上主義)の男」として描いています。
 近藤勇には(幕閣に取り立てられたいという)政治的野望があり、勤皇の志士たちは尊皇攘夷(=革命)を実現したいという政治的野望があります。清河八郎、伊東甲子太郎また然り。
 彼らにとって戦は野望実現のための手段にすぎません。
隊士たち 
 土方は違う。戦うこと自体が目的で、相手と命のやり取りすることを無上のよろこび(生き甲斐?)としています。そこには上杉謙信と共通するものがあります。
 謙信は越後の武将ですが、領土拡大の野望はなく、ひたすら戦を趣味(ライフワーク?)とし、芸術のように愛した男といわれています。
新撰組副長・土方歳三 
 のちに新撰組から分派を企てる伊東甲子太郎はそんな土方の本質を見抜きます。
 「あの男(土方)には思想や理屈は通じない。刀を交えるだけ」(第12話「策士」)
 この土方こそ、明治維新の仇花ともいえる存在ではないか、そんな気がします。
最後の突撃 
 このドラマ(脚本・結束信二)には医者の裏通り先生(左右田一平)と世話人の伝蔵(小田部通麿)という、司馬遼太郎の原作にはない人物が登場しています。
 とくに裏通り先生は飄々とした独特の味わいがあり、この殺伐としたドラマにほのぼのとした空気が漂い、ドラマに深みと客観性を与えています。
土方歳三の最期 
 長いようで、観始めるとあっという間。引き込まれます。
 そして見終わったあとの何ともいえない喪失感。みんな死んでゆく。
 何といっても栗塚旭が魅力的。土方役はこの人を置いて他にはいません。
 もう一度観たいと思いました。
 上野公園をひと通り回ってから、我われは不忍池(しのばずのいけ)に下りました。
 「不忍」の由来は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたからですが、ここで男女が忍んで逢っていたという説もあります。
不忍池 
 我孫子の友は後説を採るでしょうね。
 この不忍池は天海僧正によって琵琶湖に見立てられ、竹生島になぞらえて中之島を築きました。
 それが弁天堂です。
弁財天 
 当初は孤島だったため舟で行き来していましたが、参拝者が増えたので石橋がかけられました。
参道 
 「たしかこの辺に眼鏡の碑があったはずやけど」
 「それならあの舞台の裏にあったで。あそこや」
 「これやこれや。まさかキミに教えてもらうとは思わなんだ」
 前回きたとき見つからなかったので、撤去されたかと思ったけど、屋台に隠れて見えなかったのが真相でした。
めがねの碑 
 これは家康のかけてた眼鏡ということで……。
 「家康ってこんな顔が大きかったんか」
 「あほな。これは拡大されたものや」

 それにしてもこの弁天島は記念碑が多い。
 包丁塚。いと塚。ふぐ供養碑。 鳥塚。芭蕉翁の碑。幕末の剣豪 櫛淵虚冲軒之碑……。
 「櫛淵虚冲軒(くしぶち・こちゅうけん)? そんな剣豪いたんか」
 「知らんなあ」
 我われが知らないだけで、有名な剣豪だったらしい。(櫛淵虚冲軒に関してはこちらを
包丁塚 いと塚 芭蕉翁の碑 
 記念碑や塚が約20基。どうしてこんなに多いのか、その理由は不明だそうです。

 そのなかで印象に残ったのが湖畔に建てられていた「駅伝発祥の碑」
 説明によると、
 「わが国最初の駅伝は大正6年(1917)4月27、28、29日の3日間にわたり開催された。スタートは京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった」
駅伝の碑(不忍池) 駅伝の碑(三条大橋西詰)
 同じ記念碑が京都・三条大橋西詰にあります。先月行ったとき撮ってきました。
 説明文は同じですが、「ここ」の箇所が違います。

 春駅伝上野と京を結びけり

 春駅伝とはちと強引だった? 何分素人なものでお許しあれ。

 我孫子の友が「清水の観音堂があるなんて知らん」というので、案内しました。
 ここは寛永寺を開山した天海僧正が寛永8年(1631)に京都の清水寺を模してつくったもの。
 赤い欄干の舞台がいわゆる「清水の舞台」

清水観音にて 

 あまりのチャチさに笑ってしまうのですが、取手の友いわく、「先人が思いを込めてつくったものを笑うてはいかん」
 失礼しました。

 次に行ったのは上野大仏(パゴダ)。
 「上野に大仏なんかあった?」と思われるかもしれませんが、実はあったのです。
 最初の大仏は 寛永8年(1631)に創建されましたが、罹災→復興をくり返したあげく、関東大震災では首が落ち、第二次大戦時には軍に胴体を徴用されて、顔のみが残りました。

上野大仏 

 「ほんまや、顔だけや」
 「この顔の大きさからすると、本体は相当大きかったはずや」
 「パゴダてなんや」と聞かれて答えられなかったのですが、あとで調べると大仏殿の跡地に建てられた仏塔のこと。旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。

 噴水に向かう途中で大道芸の一団が目につきました。
 最初は(我孫子の好きそうな?)おネエ様のセクシーダンスかと思っていたら、次に出てきた「変面舞踊」に釘付け。踊りの要所要所で顔が一瞬に(赤→青というように)変わるのですが、その仕組みがわからない。(門外不出の秘技だとか)

変面舞踊 

 この一団は「TOKYO雑技京劇団」といって中国からきた東京都公認のヘブンアーティスト。
 次は「椅子倒立芸」といって超危険な芸。台の上に4本の瓶を立て、そこに椅子を置き、その上に立つというもの。

①瓶に椅子を置く→ ②そこに立つ③椅子をどんどん積み上げる

 椅子も徐々に増えていき、最期の椅子は斜めに。
 留め金があるわけでもなく、求められるのはバランスのみ。

④最後は斜めに置く→ ⑤慎重に上がる

 そこに上るのがハラハラ。
 しかも口上の女性が「成功率は60%」というものだから、(失敗するかもしれない)と気が気ではない。

⑥そこで腕立て開脚→ ⑦水平ひねり倒立


 それが成功し、腕立て開脚や水平ひねり倒立ができたときは万来の拍手。(ホッとしたよ)
 「素晴しいものを見せてもらった。ありがとう」
 と我孫子の友。(祝儀もたっぷり)

 このあとは噴水と正岡子規記念球場へ。

噴水 正岡子規記念球場


 「ひと口に上野といっても、いろいろ見どころはあるんだなあ」
 常磐線コンビは感心しきりでした。

 一昨日(05/02)の昼前、常磐線コンビ(取手、我孫子)と上野で会いました。
 「おう、どこで飯食う?」
 「昇龍の餃子どや?」
 「ええな、それ行こ」
 「いうとくけど、汚い店やで」
 「そんなん、かまへん」
 ということでアメ横の餃子屋さんへ。
アメ横 
 行ってみると、すでに3人ほど並んでいました。なかなか客の入れ替えがない。
 「ここはカウンター席だけやから、なかなか空かへんのや」
 店先でおじさんが餃子の皮に具を包んでいます。何とも手際がいい。
 それを見ながら待っていると、我われの後ろにズラーッと長蛇の列。
昇龍の店先 
 15分ほど待って席に着くことができ、出された餃子を見てビックリ。
 「でかッ!」
 ふつうの3倍はある。
 私と我孫子は餃子とビール。「ぷはーッ、やっぱり餃子にはビールやなあ」
 「本当はオレも飲みたいのやけど」
 禁酒している取手はちょっぴり口惜しそう。(心ないことをしてしまった?)
餃子 
 ここの餃子の味はニラやニンニクが入ってないのが特徴。(そこが好まれるのか)
 私の好みはニラ入りかな。周囲には迷惑だけど。

 積もる話はあるけど、客が並んでいるので早々に切り上げ、ルノアールへ。
 「(小学校の)同窓会の日は運動会やて?」
 「そうなんや。偶然とはいえ、おもろいことになった。運動会を見学してから同窓会やるんや」
 「そら、おもろいわ」
 「問題はどれぐらい集まるかや。これを考えると夜も眠れへん」
 「なんとかなるやろ」

 2時間ほど四方山話をして外へ出ました。「上野の山でも行くか」
 ということで、新しくできた「さくらテラス」のエスカレーターで上がりました。
このエスカレーターで上がった 3年前のビル
 昔は似顔絵画家の並ぶ石段から上がったものでしたが、年取ると楽したい。
 「あの石段には、まだ似顔絵やってるんか」
 「やってるで」
 「今度行ってみるかな」
似顔絵画家のいる石段(2年前の撮影) 
  上がったところに西郷さんの銅像があります。
 「あれッ、以前はこんな柵なかった」
 「わかった。油かける不心得者がいるからや」
 「それやったら対応が早すぎるで。それより前からや」
策で囲われた西郷像 3年前は真下まで行けた
 2年前は銅像の真下まで行けたのに、何ともさもしい時代になりました。

 いかにも盆栽村の街並を思わせるかえで通り。
 そのかえで通りに「さいたま市立漫画会館」があります。

かえで通り 案内図(かえで通り)

 ここは漫画家・北沢楽天の旧居を改築し、その功績を記念して建てられた会館です。

漫画会館 

 北沢楽天は明治9年(1876)に大宮宿(現在の大宮区)で生まれ、本名は保次(やすじ)。
 外国人向けの英字新聞社で西洋漫画の手法を学び、「時事漫画」や日本初のカラー漫画雑誌「東京パック」を創刊し、庶民の生活や世相をユーモラスな漫画で表現し、日本の職業漫画家第1号として活躍しました。
 1929年にはパリで個展を開催し、レジオン・ドヌール勲章を受章しました。

展示室① 

 その北沢楽天、太平洋戦争中には日本漫画奉公会の会長も務めています。
 これは当時の政府の国策団体。政治風刺を旨とする漫画家が戦争を正当化し、賛美する漫画を描くとは、その内面はいかばかりか、察するにあまりあります。

 終戦後、昭和23年(1948)、楽天は疎開先の仙台から郷里の大宮市に戻り、新しい自宅を「楽天居」と称し、ここで日本画を描く日々を送りました。昭和30年(1955)没。

展示室② 

 当館に展示されている作品は「撮禁」(=著作権のため)なので、ここに出すことはできませんが北沢楽天の漫画は政治風刺から家庭漫画と幅広く、後に手塚治虫や長谷川町子に影響を与えました。

 展示室には楽天夫妻がよく坐っていたという愛用の椅子があります。

楽天夫妻愛用の椅子 

 ここの庭にも出ることができます。
 それほど大きくありませんが、盆栽村の一角だけあって風情があります。

庭① 庭②

 ヤマツツジがきれいに咲いていました。

ヤマツツジ 

 今、盆栽が国の内外を問わず大人気だそうで、先日、大宮に公園の北にある盆栽村に行ってきました。
 「素人としては、まず盆栽美術館へ行くのがいいのかな」
 との思いで、大宮盆栽美術館へ。
入口 
 ここは盆栽の名品や盆器、鑑賞石をはじめ、盆栽が描かれた浮世絵、さらに盆栽の歴史・資料などが展示されています。開設は2010年。
ホール① 
 大宮盆栽村ができたのは大正14年(1925)。
 もともとは江戸の団子坂(文京区千駄木)周辺には植木職人が多く住んでおり、明治になってからは盆栽専門の職人も多くなり、盆栽町が形成されていました。
 しかし大正12年(1923)関東大震災で大きな被害を受け、業者たちは盆栽育成に適した土壌を求めてこの地に移り住み、2年後に盆栽村を形成しました。

 昭和10年(1935)年ころには約30の盆栽園があったといわれています。そのころが最盛期で、その後10軒程度に減りました。
ホール② 
 しかしこのところ盆栽に対する人気は海外では大ブームで、盆栽展や盆栽市が開かれると大勢の人が集まり、「オー、Potted Tree、ワンダフル!」と絶賛するそうな。
 いくら何でも「ポットの木」はないだろう。(ティーポットしか浮かばんぞ)
 そのまま「Bonsai」といってくれ。
庭園① 
 彼らにいわせると、Potted Treeには「宇宙のすべてがここに凝縮されている」とかで、茶と同じく、日本独自の哲学なんだとか。(うーん、そんな深いところを読んでいるのか)
庭園② 庭園③
 それだけではなく、わが国でも最近は若い女性や子どもたちの間でも盆栽が人気だとか。
 そういえば以前ニュースでも、若者が「この五葉松の枝ぶりがいいね」といえば、小学生が「いや、この真柏は素晴しい」などといってました。(こっちはなんのことだかさっぱり)
上から見た庭園 
 この解説によると、盆栽を観賞するには盆栽全体だけではなく、根、幹、枝、葉の各部分にも注意を凝らす必要があるとのこと。
 五葉松
 まず、根の張り具合。次に幹の立ち上がり。そして枝ぶり。さらに葉のつき具合。
 最期に葉が落ち、幹や枝が枯れたものにも風味があるとのことで、これをジン(神=枝)、シャリ(舎利=幹)」と呼ぶそうです。
 そうすることによって、盆器のなかに凝縮された大自然の情景を鑑賞するのだとか。
 岩松庵(黒松)
 うーん、そういわれてもよくわからん。
 ちなみにここは世界で初めての公立の「盆栽美術館」だそうです。
 (入館料が安いのはそのため?)

 小宇宙から若葉萌ゆ五葉松

 
大した意味はありません。
 2ヵ月ほど前のこと。
 ピンポ~ンとチャイムが鳴るので、出てみるとふたりの女性。
 「…………?」
 「以前にも一度お伺いした者ですが……」
 とチラシを渡されました。
 その人の顔写真とプロフィール。町議会の議員候補らしい。

 「以前お伺いした」といわれても、まったく心当たりはない。
 くるのは大てい住宅やお墓のセールスか、宗教団体(キリスト教系)の勧誘、いつも丁重に断っています。営業の立場もわかるので、突っけんどんな断り方はしません。
 それが裏目に出た?

 「そのときは多分愛想よかったと思うけど、別に支持したわけではないんだよ。年寄りの愛想よさほど当てにならないものはないからね」
 そういうと彼女たちは「そんな……」と苦笑い。
 それでも、「よろしくお願いします」と帰っていきました。

 もらったチラシはいつもならそのまま捨てるのですが、念のためスローガンを読んでみました。
 ●イジメをなくそう。●生きがいづくり……口当たりのいいことが書かれていますが、政党名を見ると「××党」。
 これは某宗教を母体とした政治団体。この母体となった宗教団体は20年ほど前、物議をかもしたことがあり、いい印象はありません。(代表も尊大ぶってるし)

 念のためネットで調べてみると、太平洋戦争に関しては現首相の本音と同じく歴史修正主義(今回アメリカ議会での首相の演説は本心を隠したのが功を奏した)。
 こんな議員に用はない。
 ところが……。
 その後も再三再四やってくる。
 こちらはいつもドアを半開きにして対応しているのですが、ドアノブを握った私の手を握ってくる。こちらは苦笑しながら、「そんなことしても支持しないよ」

 それまで私は今回の地方選挙(04/26投票日)には興味なかったのですが、「こんな人に当選してほしくない」一心で選挙に行ってきました。

 入れたのは以前メールのやり取りしたことのある現職の某議員。私のブログのことは知ってました。それに歴史観も同じようなので。
 選挙の翌日、またやってきた。
 「おかげさまで当選できました」
 当人ではなかったけど、支持者の女性があいさつ。
 こちらとしては、礼儀上「よかったね」とはいったけど、「別に支持してないよ」とも。
 あとで調べると最下位で当選している。残念。