中院から北へ200mほど行ったところにある喜多院。
 山号は星野山(せいやさん)、天台宗の寺院で、別名川越大師。
 境内には三代将軍家光誕生の間や、春日局化粧の間などで有名な客殿(重要文化財)、さらに五百羅漢などがあって、川越の一大観光客地。
花見風景 
 それだけにこのシーズンは花見客で大にぎわい。
 桜の下ではブルーシートが敷かれ、おじさんたちや家族連れが集っています。
花見の準備? 
 とはいえ、ほとんどがお茶を飲みながらにこやかに談笑していて品がいい。
 TVに出てくる上野の花見客とはえらい違いだ。
 もっとも時間が午後1時ということもあって、飲酒タイムではなかったからかな。
慈恵堂と桜 
 そんなことより、こちらは桜の風景を撮りたい。
 うーん、多宝塔にかかる桜を撮っても陳腐だしなあ。
多宝塔と桜 
 いろんなところから桜を撮ってみて、私が気に入ったのはこれ。
 本堂(慈恵堂)から撮った桜の景色。桜の花だけではなく、飾りつけが施されていたり、屋台が準備中だったりして雑前としています。そこがいい。
慈恵堂から見た桜 
 桜(ソメイヨシノ)は単体では絵にならないのです。
慈恵堂傍の桜 
 単体で絵になるのは客殿の前のしだれ桜。
 大きくてなかなか立派だけど、あちこち突っかい棒で枝を支えています。かなりの老木と見ました。枝が重力に耐えられなくなり、下に落ちるからです。
しだれ桜 
 「立派なものだねえ」
 と大きなカメラで撮っていた老カメラマン(?)。
 自分にこと寄せているのかな。 

 行く末に想ひを託す老ひ桜

 託されたって老木のほうは迷惑かも。
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 昨日(03/29)は川越を徘徊しました。
 先ずは中院(なかいん)
中院の桜 
 ここは天長7年(830)慈覚大師によって創建された星野山無量寿寺(せいやさんむりょうじゅじ)の一角。
 当時の無量寿寺は大きく、北院、中院、南院に分かれていました。その中院です。
 (ちなみに北院→喜多院、南院→廃寺)
しだれ桜① 
 ここはしだれ桜の名所で、境内には10本近く、大小のしだれ桜が植えられています。
 「今、中院にきてるんだけどさ、しだれ桜が見事だよ」
 とは携帯電話をかけているおじさん。
 相手は友だちかな。
電話をかけるおじさん 
 「この季節になるとここへくるけど、いつきてもいいわね」
 とは携帯でしだれ桜を撮っていたオバサマ。所沢からきたそうで、「ここは俗化してないからいい」とのこと。
 たしかに。お寺の境内だから、花を観るだけ。(宴会は禁止)
 それもまたよし。
しだれ桜② 

 ご無沙汰と遠くの友へ花便り

 しだれ桜の傍で電話をしていたおじさんのことではありません。あくまでも私個人のこと。

 余談ですが、ここの庭はなかなか見事。6月になると柏葉紫陽花が小径の両側に咲き並んで、なかなかの風情です。
庭の小径 
 よく見ると、この敷石は瓦が縦に埋められている。水はけなどを考慮してのことでしょうか。
 瓦にこんな使い方があったとは。おどろきました。
小径の敷石 
2015.03.29 春の駄句
 春の句として、卒業式は外せない。そこで、
 ①卒業式明日から晴れて陋巷へ
 ②卒業式わが六道のとば口


 六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のこと。とくに「地獄・餓鬼・畜生・修羅」の悪い道ばかり強調されるので、ロクな印象はないのですが、「清濁併せ呑む」ということで。

 ③議論尽き灰皿埋もる春の宵
 ④酔えば愚痴吐いて倒れし花の宴


 二句とも学生時代の思い出。
 ④は学生寮でのこと。飲むと愚痴をいうヤツがいました。中庭でぶっ倒れているのを助け起こしたら、ゲロをかけられました。「恩を仇で返す」とはこのこと。

 遍路は春の季語なので、これも使いたい。
 
 ⑤我が遍路酒色に溺れて徘徊に

 いくら「清濁併せ呑む」といっても、「濁濁」併せ呑んではいけない。自分のこと? いえ、友人のことです。

 ⑥徘徊も無我に至りて遍路なる

 「無我」の境地ではなく、認知症になったとの説もありますが。

 「風光る」という季語でなにかつくれないか。そう思って「季語別俳句」を見ていたら、
 「二人乗り自転車の父子風光る」という例句がありました。

 どうせなら自転車よりも一輪車のほうが面白いのではないかと、
 ⑦乗れたよと一輪車の子風光る

 しかし「乗れたよと」は稚拙。そこで上五に「転んでも」「起き上がる」「颯爽と」を入れてみたけど、どうもしっくりこない。結局一輪車の句はこれ以上進展はなく、消化不良になりました。

 バカな議員がいました。なにをトチ狂ったか、企業のモラルを説くのに、「八紘一宇の理念のもとに、世界がひとつの家族のように睦み合えるように……」とぶち上げました。
 この「八紘一宇」こそ日本の侵略を正当化するために使われたことば。
 そんなことも知らずに(知っていたら、なおのこと性質が悪い)滔々と述べられては、この人の歴史認識、教養そのものを疑います。アメリカを初め世界中の笑いもの。
 こんな人が政権党の議員とは、日本の恥さらし。ということで、

 ⑧馬鹿議員八紘一宇花冷える

 以上の句はバカ議員とともにごみ箱行きです。
 横浜には「リンデン」「ファースト」をはじめ数多くのジャズ喫茶があります。
 なかでも野毛「ちぐさ」は有名で、日本最古のジャズ喫茶といわれ、デビュー前の渡辺貞夫、秋吉敏子、日野皓正など多くのジャズメンが通っていた店です。

 例の首猛夫も大学(四谷)から逗子の自宅に帰る際、よく立ち寄ったそうです。
 「先日は『ちぐさ』のオヤジとジャズ談義をしてきたよ」

  オヤジとは「ジャズ界にこの人あり」といわれる吉田衛(まもる)さん。そんな伝説的人物と気安く話を……。(その図々しさが首猛夫の持ち味ですが)
 「オヤジは『ジャズは気楽に聴くものだよ。音楽って音を楽しむと書くだろ。これがジャズの真髄だよ』といってたよ」

 私が「ちぐさ」に行ったのは彼が関西に行ってから、ずっと後のことです。
 最初に行ったときは、John Coltraneの「My Favorite Things」をリクエストしました。



 店主(吉田衛さん)はレコードプレイヤーのそばにいましたが、おそれ多くてとても話しかけることはなかったのです。

 二度目は風俗取材のついでに立ち寄りました。店主はすでに亡くなっており、妹さんが継いでいました。
 このときリクエストしたのはMal Waldronの「Left Alone」



 ドラマなどでもよく流れる有名な曲です。
 私自身もその心境でした。

 その「ちぐさ」は2007年をもって閉店しました。
 それから5年後、「ちぐさ」は場所を移して復活しました。
 私が行ったのは野毛大道芸大会の日でした。
野毛「ちぐさ」 
 入ってみると、店内は20人ほど、中高年客ばかり。けっこう混んでます。
 ジャズ喫茶の常として、相席で坐りました。
 夫婦者も3組ほど。なかには大道芸見物の流れらしく、デイバッグにカメラを手にしたご仁も。(当方もそうなのですが)
店内 
 店は以前より少し広く、窓も開いて、明るい感じです。
 雰囲気は似てますが、開放的で以前よりは居心地がいい。コーヒー500円は、高くありません。
メニュー 
 またしても「My Favorite Things」をリクエストしました。
 しかし……。
 曲は同じですが、Coltraneの重厚感がない。これは最初のVillage Vanguard版ではないな。
 ちょっとガックリ。しかも後半ダレる。
 これだったらBud Powell「Cleopatra's Dream」のほうがよかったかな。
 こんなことを迷っているようでは、ジャズ離れの兆候。加齢現象?
珈琲 
 もうくることもないか。
 そう思って「ちぐさ」をあとにしました。
 (完)

 ※このシリーズは、前ブログ「愛と孤独」に投稿した「ジャズ喫茶の思い出」(2010/05/16 ~21)に現在の状況を加えてリメークしたものです。
2015.03.26 狭山湖の春
 所沢の西南端、狭山湖にやってきました。
 また徘徊?
 そう取られてもけっこうですが、ここへくるには相当な上り坂。徘徊にも体力と気力を要します。
狭山湖① 
 狭山湖(別名山口貯水池)は所沢市の敷地ですが、東京都水道局の管轄で、東京都の水がめとなっています。
 埼玉県が東京都民に水を提供?
 そうではなくて、水源は主として多摩川(東京都)。そこから小作取水堰や羽村取水堰から地下の水路で水を引いてここに溜められているので、埼玉県は貯水池を提供しているというわけ。
狭山湖② 
 埼玉県は荒川水系という豊富な水源があるし、秩父地底湖の豊富な地下水に恵まれているので、ここの水にはなんの執着もなく、ひたすら東京都民のために「確保」しております。
堤体 
 そんなことより、この狭山湖の景観は素晴しい。
 堤体(堤防)から見ると左側(南)に取水塔が見えます。なんとも風情があります。
 となりの多摩湖(村山貯水池)の取水塔の屋根はドーム型ですが、こちらはトンガリ屋根。真似したくなかったのでしょう。
取水塔 
 堤体のたもとには大きな石碑が。
 「五風十雨の味わい」とあります。
 説明によると、五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降る……気候が順調なこと、転じて世の中が平和なことを意味しているそうです。
五風十雨の石碑 
 書いたのは、湘南の暴れん坊作家・元都知事、今は国を憂うる老志士? うーん。
 ことばと人間は別物だと思いたい。
所沢市街地 
 堤体からは湖の反対側に所沢の市街地を見下ろせます。
 もしこの堤体が決壊したら、所沢市は水浸し。
 そんなことにならぬよう18年前に大規模な強化工事をしたばかりですが。
堤体工事前(平成9年) 
 帰りは下り坂。楽だと思うと大間違いで、自転車だからスピードが出すぎて危険この上ない。
 ブレーキが磨り減るから、なるべくかけたくないけど、命には替えられない。

 徘徊も命磨り減る春の坂

 なるほど。
 私が通い始めた当時「マイルス」は1階にありましたが、やがて2階に移りました。
 私も社会人になり、住まいも浜田山から桜台→国分寺→府中と変わり、家庭を持ったため、ジャズ喫茶へは行かなくなりました。
 府中に移り住んで京王線を利用するようになっても、途中下車することはなかったのです。
 マイルスは私にとって完全に「青春の思い出」でした。

 50をすぎて私の環境が一変しました。原点回帰です。
 「そうだ、久しぶりに行ってやろう」
 明大前で下車しました。
マイルス 
 「あら、しばらくぶりねえ」
 ママは私を覚えていました。
 四半世紀ほどのブランクがあったというのに、まるで昨日別れて今日会ったような口ぶりです。
 当時の常連客についても、「みんな元気よ。そのうち会えるわよ」
 そのことば通り何回か通っているうちに懐かしい面々と再会することができました。牢名主のN君とも。「薄情なヤツだなあ」といわれましたが。

 この店でもう一度聴いてみたい曲がありました。Gabor Szaboの「Wind, Sky And Diamonds」です。
 当時はよくリクエストがかかったものです。ただしジャズ喫茶では異色の曲でした。
 「あれねえ、うちでは今かけないのよ」とママ。
 「でも、たっての望みだからかけてあげる」
 と別のところからレコードを取り出しました。
 それに針を落とし、例の曲が流れました。「…………?」



 聴き覚えはありますが、こんな曲だった?
 なんの感慨もありません。
 聴く前は懐かしさのあまり「思い出ぼろぼろ」になるような気がしたのですが、すっかり拍子抜けしてしまいました。
 そのことをママにいうと、「思い出なんかそんなものよ」
ドアにあった写真 
 現実はドラマのような劇的なことは起こらないものです。
 昔の面々と再会しても、互いに「おッ」「あら」というだけで、手を取り合って涙を流す……なんてことはありません。

 「思い出なんかそんなものよ」
 そのことばを胸のなかで反芻しながら帰途につきました。
 「なじみのジャズバーがあるんだけど、そこで一杯やりません?」
 ジャズピアノをやっている従弟にそういわれました。場所は高田馬場です。
 高田馬場のジャズ喫茶としては「INTRO」が有名ですが、もっと早稲田寄りに「PONY」という店があるというのです。

 なるほど、従弟のいった通り早稲田松竹の向かいの地下に「PONY」というジャズバーがありました。
 雰囲気のある店です。Bud Powell「Cleopatra’s Dream」がかかっていました。

 ベーコンの焼ける匂いにつられ、ベーコン&ポテト炒めと唐揚げを注文しました。けっこう美味い。飲むのはもちろんバーボンです。
 「ここのオヤジは以前新宿にいて、ジャズ喫茶だけじゃなく料理店もやっていたそうです」
 あとでドリアも食べましたが、いい味でした。
早稲田松竹 
 従弟の本職はデザイナーで、ふだんはオーディオメーカーのパッケージデザインをしているのですが、幼少のころからやっていたピアノもなかなかの腕前で、ときどきジャズ喫茶でジャムセッションするほどでした。

 私も何度か行ったことがあります。いつも満員でした。
 「すごい人気だね」
 「くるのは関係者ばっかり。余興ですよ」
 その仲間たちとジャズを聴きながら、一杯やるのがこの店だというのです。

 「しかし変だぞ。さっきかかっていたのはジャズじゃなくて、イブ・モンタンの『枯葉』だったぞ」
 「そうなんですよ。店主の趣向でジャズのスピリッツのあるものならジャンルは問わないんです」

 なるほど、かなり柔軟性のある店らしい。イブ・モンタンだけではなく、フランク・シナトラもかかりました。
 「おや、××さん」
 ひとりの若者が入ってきて、従弟のとなりに腰をおろしました。
 「とうとう買ってきましたよ」と、包みを解きました。出てきたのは志ん生の落語のCD。
 こちらとしては「……?」

 「ジャズと落語には共通点があって、ジャズをやっている人には落語好きが多いんです」
 なるほど、そういえば林家正三(当時はこぶ平)や小朝など、ジャズに造詣の深い落語家が多いのが納得できました。

 さすがに落語はかかりませんでしたが、「目からウロコ」の思いをしました。
 その影響を受けて、私は古今亭志ん生の落語を徹底的に聴きました。

 これは25年も昔のこと。今はもうこの店はありません。
 昨日(03/22)は久しぶりに所沢を徘徊しました。
 まず行ったのは小手指元町にある北野天神社。
北野天神 
 由緒書きによると、日本武尊が東征の際、この地にニギハヤヒ・ヤチホコの二神をまつり、物部天神・国渭地祇神として尊称したとか。
 その後、長徳元年(995)菅原道真の子孫(五世)修成が武蔵国司になって、この地に京都北野天神を勧請し、坂東第一北野天神と称せられるようになりました。
北野天神・本殿 
 天神というからには道真公ゆかりの神社とは思っていたけど、やはりそうか。
 そして天神様といえば梅。
北野天神・紅梅 
 境内には紅梅、白梅があちこちで咲いています。
北野天神・白梅
 それにしても、いささか寂しい。
 こっちは坂東第一北野天神というのに、都内の湯島天神や亀戸店人に比べると人影はほとんどなし。
 これが田舎の悲哀というものか。
 ここまでくれば足を延ばして、西端の金仙寺へ。
 ここは真言宗豊山派の寺院で、号は別所山西光院。
金仙寺 
 創建年代等は不詳ですが、平安時代に傳燈阿闇梨覺堂が字堂入に創建したと伝えられています。
 その後、小田原北条氏滅亡の際に焼失、天正18年(1590)堯戒律師が当地へ移転して中興、慶安年間には寺領9石の御朱印状を拝領したとのこと。奥多摩新四国霊場八十八ヶ所66番です。
お地蔵様 
 ここはしだれ桜が有名。樹齢140年だそうです。
 しかし開花はまだ。残念。せっかくきたのに。
金仙寺・しだれ桜 
 これこれ、ムカッとしてはいかんよ。
 こちらの心を見透かしたように「〇い心で」(まるい心で)と、花壇に書かれている。苦笑。
〇い心で 
 ここは奥多摩新四国霊場八十八ヶ所66番とのことで一句、
 徘徊も寺社を巡れば遍路なり

 お見事!(自分でいってりゃ世話はない)
 昨日(03/21)はふじみ野市を徘徊しました。
 ソメイヨシノの開花宣言は今日明日あたりですが、同市の地蔵院の境内にはしだれ桜の老木があります。

 地蔵院(真言宗智山派)は鎌倉末期の古刹で、このしだれ桜はふじみ野市指定文化財・天然記念物とされています。
 高さ6.3m、根回り周囲が3.9m、枝張りは最大7.5m。
 樹齢は、市の文化財に指定された時点(昭和53年=1978)で350年前後(江戸時代中頃)というから、現在だと400年近くになります。
地蔵院・山門 
 通常のしだれ桜の樹齢は300年程度といわれているので、この桜はとっくに寿命を過ぎていて、枝が重力に抗し切れず下がってきます。
 「しだれ桜だから当然じゃないか」と思われるかもしれませんが、最初から垂れているのと枝が弱って下がっているのとではまったく違い、突っかい棒で支えているのです。
 (その意味では臥龍梅と同じ)
しだれ桜① 
 「えらいもんじゃのう。こんなになっても花を咲かせるとは」
 と杖をついた老人。
 境遇的には同じ(?)だから、一入(ひとしお)の思いがあるのでしょう。
しだれ桜② 
 しだれ桜はエドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)の一種でソメイヨシノよりは早く咲くので一応開花はしているのですが、満開とまではいかないから花の咲き具合は今ひとつ。
 去年は満開のしだれ桜を見たので、今年はこれでよしとするか。
去年はこんな感じ 
 足を延ばして上福岡のほうに行ってきました。
 「おや、これは!」
 駅前通りに鮮やかなピンクの花が咲いています。おおッ、河津桜。
駅前通の河津桜 
 今年この桜を見たのはこれで3回目。
 神奈川県の大井松田や三浦海岸まで行かなくても、ここでも見られるのだ。
 とはいえ、来年は三浦海岸の河津桜を見に行きたいぞ。
河津桜 
 そんなことを思った昨日の徘徊でした。
 ご近所を花見がてらに徘徊す

 お粗末。
 今回トップ賞を獲った句は、
 ①母逝くやでんでん太鼓鳴らぬ春……(7)〇〇

 自分の句には入れないので、11人中7人が入れたことになります。(私も並選で入れました)
 でんでん太鼓とは小さな球がついていて、振れば「テンテン…」と鳴る太鼓。本来は赤ちゃんの玩具ですが、これが病床のお母様の「玩具」だったのでしょうか。なんとも切ない句です。

 この作者は友人。やっぱりそうだったか。
 この人は編集者時代はヤクザとしょっちゅうケンカしていた無頼派人間。それがこんな可愛らしく、繊細な句をつくるとは。(わからんものです)
 「これは『悲しい』『淋しい』など、感情語を使わず『でんでん太鼓』を持ってきたところが見事」と宗匠も絶賛。

 当人はさらりと、「兼題が『太』だから、太鼓を持ってきただけだよ」
 なるほど。でもそれで常にトップ賞を獲るのだから、安定した力があります。
 私などはたまに宗匠から特選を賜ることもあるけど、実力ではまだ敵いません。

 今回私が〇特選を入れたのは、②この先も持ちつ持たれつ春の土手……(1)
 老夫婦のほのぼのとした愛情が伝わってきます。しかも「妻」「夫」のようなことばを使わずに表現しているところが上手だと思いました。(入れたのは私だけ)

 宗匠が褒めたのは、
 ③未来図の太き街筋風光る……(2)宗匠の並選

 「未来に描く整然として碁盤の目のような街筋が見えます。現代を詠んで、まるで平城京や平安京を思わせるところが巧みです」(宗匠)

 ④雉鳴くや桃太郎てふクリニック……(1)宗匠の並選

 これは地元の「桃太郎クリニック」という診療所を詠んだもの。
 「雉と桃太郎の取り合わせ、面白いですね。地元への挨拶句ともなっています」
 (挨拶句なんて、そんなジャンルがあるのか)

 ちなみに宗匠の句は、
 ⑤やあやあと兜太の貌の地虫出ず……(3)〇
 
 兜太とは俳人金子兜太(かねこ・とうた)のこと。
 埼玉県の俳人だから畏敬の念を持たれているのだろうけど、私としては「自分の身の丈から出た実感を詠むのが俳句」と思っているので、素通り。
 それは④も同じ。私にとってはまったく無関係だから。
2015.03.20 今月の句会
 先日、今月の句会が行われました。私の出句は、
 ①黙々と白梅の下太極拳(兼題・太)
 ②紅梅の屋敷のマダム紅の濃く
 ③故郷を発つ餞(はなむけ)や春一番
 ④恋猫と歌垣(かがひ)を交はす仲となり

 の4句です。
 今回私が会心の作と思ったのは、④「恋猫と歌垣を交はす仲となり」の句。
 これは「恋猫」を使った数多くの句からヒントを得てつくったものですが、恋猫と歌垣を結びつけた句など皆無だし、例句のなかでもいい線行っているのではないか。自分の生涯でも10指に入るのではないかと思うほどのできばえです。(参照

 さて句会が始まりました。
 今回出句は48句(12名)。
 作者はわからないまま48句のなかから、ひとり5句(うち〇特選1句)選びます。

 宗匠以外の選句で私が獲得したのは③「故郷を発つ餞や春一番」……(3)〇のみ。
 (〇を入れてくれたのは友人=ガチの選句です!)

 ①、②に票がこないのは、ある程度予測していました。しかし④にまったく票が入らないとは……? 一体どうなっとるんだッ。(どいつもこいつも句を見る目は節穴か)

 次に宗匠の選。
 まずは並選。宗匠が選んだ6句のなかに私の句はなし。
 次に特選。
 「本日の特選は、『恋猫と歌垣を交はす仲となり』。以上です」

 宗匠が特選句を読み上げると、ふだんなら称賛の声や拍手が起こるのですが、このときはシーンと静まり返りました。みんな「なぜこれが?」という表情。
 どうやら皆さん「歌垣」ということばが理解できなかったらしい。

 俳句というのは古(いにしえ)の文芸。ことばも旧仮名遣い。だとしたら昔の風習ぐらい多少は心得てないと。というか高校の古文で習っただろう。
 友人は(意味は)わかっていたけど、「川柳に近いかな」と思ったそうです。
 バカめ。これが川柳か。

 次に宗匠の評。
 「この句は凄い。よくぞ歌垣ということばを引き出した。おそらく作者は考えに考え抜いてこのことばを使ったものと思われます。本来は嬥歌(かがひ)といって、男女が集まり、酒を酌み交わしながら歌を詠み交しつつ踊る古の風習です。恋猫と嬥歌を結びつけた大胆な発想と表現に驚きました」と絶賛。

 うーん、私としては複雑な心境。
 この宗匠はいつもくだらない駄洒落(ダジャレー夫人とか)を飛ばす野卑な男。それでもみんながちやほやするものだから、天狗になっている。
 私とは性格的に反りが合わず、何度やめてやろうと思ったことか。その都度友人からは「やめないでくれ」と慰留され、辛うじて留まっていました。

 ところが「腐っても鯛」というか、句の眼力はある。
 しかも皆に阿ることなく私の句だけ高く評価した。
 正直いって、この句が一顧だにされなければ、「はい、さようなら」とケツをまくってやろうかと思ってました。
 しばらくはコイツとつき合ってやろうかな。

 帰り道、俳句の上手なおネエ様と一緒になりましたが、彼女にいわせると、「今回の特選は、先生の好みが入ってるわねえ」
 これは他の人たちも同じ思いでしょう。

 まあ、そう思っている限りこの人に進歩はない。もっともお婆さんだから、これ以上の進歩は望むべくもないか。
 そう思うと笑いがこみ上げてきました。
 一昨日、昨日(03/18)と暑い日が続きました。
 どうも調子が悪い。
 元来寒いのは苦手で、早く暖かくならないかなと思っていたのですが、それを通りすぎて暑くなると「冬仕様」の身体が夏日に順応できず、火照ってボーッとしたまま。集中ができない。
 これって認知症?(認知症は前からだよ)

 ということで、「徘徊老人」の常として、外へ。
 (気がついたら、「あれッ、どうしてここにいるのだ?」ということも???)
民家の河津桜 
 おやッ、これは……早咲きの桜?
 民家の庭先で見事に咲いています。河津桜?
 河津桜に関しては先日山崎公園で見たばかりですが、それよりも立派。
 花びらの色からすると寒緋桜の一種かもしれないけど、こんなご近所で見られるとは思わなかった。

 さて、ここから駅に向かおうとしたのですが……。
 道路に「工事中」の標識が立てられ、あちこち規制線が。
 どうやら道の拡幅工事らしい。
道路の拡幅工事 
 わが住まいの一帯は細い道が入り組んで、まるで迷路のよう。
 それでいて車の通行量は多いので、数年前から道のあちこちを拡げてきました。
 それがわが家の近くにも及んできたというわけ。
元は狭い道 
 拡幅工事はいい。
 しかし現実に人が住んでる人家もあるぞ。
 むろん立ち退き交渉はしてると思うけど、立ち退いたところから道路整備をやるとは、露骨というか、イヤミ(プレッシャー?)というか。
反対側から見た道路 
 これ、一軒でも立ち退かなければ永遠に道路の拡幅はならないわけで、はてどうなるのか。
 行政の都市化事業も住んでる人の意思次第とは、いかにも心もとない。
 これに関しては定期的に観察するつもりですが……。
民家の菜の花 
 帰りは民家の菜の花。
 やっぱり早いのかな。
2015.03.18 暑い日の徘徊
 昨日は朝から暑かった。
 冬用の下着を脱ぎ捨ててもまだ暑い。
 これは「水温む」どころではない、初夏の暑さ。
びん沼川 
 「今日は暖かいから、当然徘徊するんやろ」
 と取手の友。
 最近は句友からも「今日は徘徊しないんですか」といわれる始末。
 みんなして当方を徘徊老人のように扱いおって。
公園 
 彼らのご期待に応えて、富士見市の「びん沼自然公園」に行ってきました。
 ここはびん沼川の蛇行を利用して平成14年(2002)開設された公園で、総面積は約5.7ha、その半分近くが葦の茂る湿地、子どもが遊ぶ遊具は一切なし。そのため子どもの姿はほとんどなく、お年寄りが散歩(徘徊?)する姿があちこちに。
湿地 
 私もむろん徘徊しました。
 いつきてもびん沼川の河畔は釣り人でいっぱい。ここはヘラブナのメッカだそうです。
 びん沼川・河畔
 ちょっと面白い木がありましたが、なんという木かわかりません。
謎の木① 謎の木②
 取手の友にいわせると、なんの目的もなく、ただふらふらと歩きまわるのを「徘徊」という。
 今の私はまさにそれ。
雑木林
 昨日の気温は21.2℃だったとか。これは4月下旬の気温。
 道理で暑いと思ったよ。
 私のジャズ喫茶時代はよく上智大学のT君と行動をともにしました。
 そんな彼がある日こんなことをいいました。
 「最近ドイツ文学に凝ってきまして、ポル語はどうでもよくなりました」

 たしかにドイツ文学に詳しく、いったん話し始めると私の知らない作家の名前(オットー・バイニンゲルとかグリパルツァーとか)がどんどん出てきます。
 単なる趣味にしてはすごいな、とは思ったけど、今さら編入するのもなあ。
 私が出版社に勤めるようになって(家庭も持ち)、マイルスからは遠のきましたが、彼との交流は続きました。
 そのころ彼は千歳烏山から逗子(神奈川県)に引っ越していました。
 「遠くなったなあ」というと、
 「ラクショウ、ラクショウ。京浜急行で一本だし」
 それに日の出町で下車すれば、「リンデン」「ファースト」「ちぐさ」(いずれも野毛のジャズ喫茶)にも立ち寄れる、と笑いました。
ジャズ喫茶の本場、横浜野毛 
 「ラクショウ、ラクショウ」は彼の口ぐせで、他にも「ふむふむ」「いいこといいこと」がありました。
 その雰囲気は「あっは」「ぷふぃ」を連発する「首(くび)猛夫」(=埴谷雄高「死霊」に出てくる人物)を彷彿させました。
 その後、彼とは連絡が途絶え、2年ほどして関西から手紙がきました。
 関西学院大学に入ってドイツ文学を専攻しているというのです。
 「やっぱり思いは強かったんだなあ。それにしても20代半ばにして1年生からやり直すとは」
 こっちはただおどろくばかりです。

 彼とは京都で一度会いました。熊野神社近くの「河道屋」で食事し、荒神口の「しゃんくれーる」に行きました。
 ここは倉橋由美子の「暗い旅」にも出てくる有名なジャズ喫茶です。
 彼がここでリクエストしたのはジャズではなく、ワーグナーの「マイスタージンガー」でした。
荒神口(この近くに「しゃんくれーる」があった) 
 その後、T君の消息は完全に途絶えました。
 人づてに聞いたところでは、関西で予備校の英語の講師をしているとのことです。私としてはもう一度会いたい。
 「BACKLUSH」が好きだった理由を聞いてみたいから。
 「神保町にはなかなか渋い店があるよ」
 と上智大学のT君に教えられて入ったのが「響」
 しかし店に入ると、店員さんがいきなり座る席を指定。
 「なんだ、この店は」
 本格的な店とは聞いてたけど、どことなく高飛車な感じで、それっきり。
 (私も若かった)
 彼に教えられたもう一軒の「コンボ」は、左翼系書店「ウニタ」の近くにありました。
 薄暗い店で、音量も大きくがんがん響きました。
 彼は当時Freddie Hubbardの「BACKLUSH」をよくリクエストしていました。



 威勢のいい曲で、これは音量の大きい店のほうが合うかもしれません。

 あるとき彼は仲よくなった同級生の女子をここへ連れてきました
 「T君、いい店知ってるのね」
 彼女もジャズ好きだったらしく、気に入ったようでした。
 そこまでならよかったのですが、彼はその勢いで彼女に告白。(前から好きだったらしい)

 結果は? 見事フラれました。
 バカめ、こんなやかましいところで告(こく)ったって落ち着かないし、本気にされないだろう。フラれるのは最初から決まっとるよ。
 それいらい彼は「コンボ」に行かなくなりました。
 神保町から水道橋に足を伸ばしました。「おや、この店は?」
 神田川のたもとにジャズ喫茶を発見しました。「Swing」の店名。
 入ってみると、ディキシーランドジャズが流れています。
 妙に懐かしい。
 デューク・エリントン(A列車で行こう)やカウント・ベイシー。
 京都にいたときも聴いたことがあります。(茶色の小瓶など)

 ひょっとしたら自分はこっちのほうが合ってるのではないか。
 しかし「なんだディキシーか」とバカにされるような気がして、このことは黙っていました。

 後年T君にこの店のことを話すと、
 「ああ、水道橋のSwingね。渋い店知ってるじゃないの」
 こんなことなら、もっと早くいえばよかった。
 年とともにモダンジャズよりもディキシーランドが聴きたくなります。
 しかし水道橋の「Swing」はもうありません。

 最近、句友とジャズ喫茶の話をするようになって、この店に「ノルウェイの森」の作者が若いころバイトしていたと知りました。
 私が行ったとき、彼はいたのかな。どうでもいいことですが。
 埼玉の梅の名所といえば「越生(おごせ)梅園」があります。
 水戸偕楽園、熱海梅園と並ぶ、関東三大梅園のひとつ。
 面積2ha(東京ドームの敷地の約半分)、そこに白梅・紅梅取り混ぜて約1200本が植えられています。
越生梅園① 
 この梅園の由来は、観応年間(1350~52)にこの近くの梅野神社に太宰府天満宮を分祀した際、菅原道真公にちなんで梅を植えたことが始まりだそうです。
ミニSLも走る 
 それだけに樹齢200年以上の古木が園内に点在しています。その数約100本。
 古木は恭しく柵で囲ってあり、ありがたく見えます。(年寄りを大事にしろよ?)
古木 
 なかに「臥龍梅」(がりゅうばい)といわれる梅の木があります。
 木というのは上に伸びるものですが、これは横(あるいは下に?)に伸びるので、所どころ突っかい棒をして木を支えています。

 「臥龍」は寝ている龍という意味で、天にのぼる前に地にひそみ隠れていると解釈されています。それだけに人々はこの「臥龍梅」に畏敬の念をはらってきました。ところが……、
臥龍梅 
 解説によると、梅の木というのは200年をすぎると、幹が弱ってきて自分の体重を支えられなくなり、ドッテーンと横倒しになる。突っかい棒で支えるのはそのため。

 臥龍梅って、人間でいえば足腰立たぬ寝たきり老人のこと?
 それでいて花を咲かせるのだから、生殖活動だけはお盛ん。いやはや、おそれ入りました。
 (人々が畏敬の念を抱くのはそれか)
 越生梅園②
 ところでこの越生梅園、梅の本数はたしかに多く、由緒もあります。
 しかし紅梅の種類に関しては少なく、「見せる」という意味では「森林公園」の梅園には劣ります。ここに植えられているのは白梅を中心とした梅の実を採るための実質的な梅の木。
梅の木の盆栽販売 
 そのためかあちこちの売店で「当地名物」の梅干が販売されておりました。
 他には梅の木の鉢植えも。
 なるほど、ここは梅農家の一大産業。そんな顔が見えてきました。
梅干の販売 
 ということで私の一句、

 花を観せ実も商ひし梅の郷

 お粗末でした。
2015.03.14 大宮公園の梅
 埼玉にはいくつか梅の名所があります。
 大宮第二公園の梅林もそのひとつ。
 同園の解説では
 「この梅林は昭和57~59年にかけて造成されたもので、5000㎡の梅林には45品種、約520本の梅が植えられている。内訳は紅梅150本、白梅350本、枝垂れ梅20本」
大宮公園の梅林①  
 花の咲く順番は紅梅→白梅→枝垂れ梅だそうです。
大宮公園の梅林② 
 白梅の代表格「白加賀」(しろかが)
 気品があります。
白加賀 
 「藤牡丹枝垂」(ふじぼたんしだれ) もよかった。
 八重咲きでぽったりした、ほのかなピンク。色気があります。
藤牡丹枝垂 
 白加賀が貴婦人なら、藤牡丹枝垂はバーのチーママ。

 こんな見方は不謹慎かな。
 もっとも花に無粋な私はこんな見方しかできないので、なにとぞご容赦。
梅林の一角にある松籟園 
 大宮公園は氷川神社の裏手にあり、公園内には長嶋茂雄が高校生のときホームランを打った伝説の野球場があります。
 桜の時期は大勢の花見客で賑わいますが、今の時期の地味な梅見もなかなか風情があります。

 朝起きて携帯の電源を入れると、句友からのメール。
 「本日、目の手術があるので、ちょっときてほしい」とのこと。
 手術といっても注射器で目のなかの水を抜くだけなので、すぐ帰れるのだけど、奥さんがよんどころない事情でこれなくなり、不安だからといいます。
 
 友の窮状とあらば放っておくわけにはいかず、行くことに。
 時間は10時30分、場所は西新橋の慈恵医大病院。

慈恵医大病院 

 同病院は過去に二度きて診察券も持っているのですが、ほとんど20年ぶり。当時とは変わっており、あちこちの受付で聞いては院内を歩きまわり、やっと当人に会うことができました。
 
 これから手術かと思ったら、もう終ってあとは支払いを済ませるだけ。ただ直後のため視力が覚束ないので、電光掲示板に(自分の)番号が出たら教えてほしいとのこと。
 それぐらいお安い御用。ふつうに歩けるので肩を貸すまでもなかった。
 「以前は一泊入院させられたんだけど、最近では日帰りなんだよ」

 支払いを済ませて、「せっかくだから神保町へ行きましょう」
 ここはかつて彼が事務所を持っていたところで、勝手知ったるところ。
 共栄堂でポークカレーをご馳走になりました。
 うーん、品のある辛さ。美味かった。
 ここでも彼は顔。店主にあいさつされてました。

共栄堂のポークカレー 

 「コーヒーはあそこ」と、私も友人と入ったことのある「トロワバグ」
 ここでも彼は顔。女主人が「あらッ」と。
 彼は目の手術の経緯を説明してました。

トロワバグ トロワバグ・入口

 以前この店名の由来を聞いたことがありますが、「トロワ」はフランス語で3、「バグ」は輪っかとのこと。そのときは「ふーん」と聞いただけでしたが、あとで調べるとオーナーの名前が三輪さん。だったらそのときいってくれ。

コーヒー 

 このあとジャズ喫茶「ビッグボーイ」にも入りました。
 ここでも顔。「この方(当方)はジャズ喫茶に詳しい」とマスターに紹介され、「今後ともよろしくお願いします」と深々とあいさつされてしまいました。「この方(句友)のお守りも」とも。

 同店を出てから裏通りを歩きました。
 「他にも音楽喫茶があるよ。ミロンガはタンゴ、ラドリオはシャンソンの店。今度行きましょう」
 うーん、私このあたりは知ってるつもりだったけど、まだまだ知らないところが多い。

ミロンガとラドリオ 

 彼と歩くとまた違う風景が見えてきたのが不思議でした。

2015.03.12 梅と河津桜
 昨日(03/11)はよく晴れて、暖かかったので、久しぶりに外出(徘徊?)しました。
 先月から(風邪は治ったものの)痰が絡み、喉がすっきりしない。人としゃべっていても「声が通ってないな」と自分でわかるぐらい。

 そんな様子を見越してか、2歳上の句友には「ご老体」と呼ばれ、取手の友からは「気がついたら徘徊してるんやろ」といわれる始末。オレは徘徊老人か。
山崎公園の梅林 
 梅の季節なので、富士見市の「山崎公園」へ。
 ここは6月半ばの菖蒲が有名ですが、四季折々の花が咲き、いつ行っても楽しませてくれます。
 ということで今は梅。
 ここには小さな梅林があります。
 白梅もあれば紅梅もある、なかなかの風情。
白梅 
 この公園の傍を富士見江川が流れています。
 「おや、これは?」
 土手に咲き並んだ河津桜。
富士見江川 
 河津桜は静岡県の河津町がルーツの桜で、2月上旬から咲き始め3月上旬までに咲く早咲きの桜。花が大きくピンクが濃いのが特徴。
 神奈川県の松田町や三浦海岸が有名ですが、こんなところで見られるとは思わなかった。
 まあこれも日ごろの心がけがよい(?)からで……。
土手の河津桜 河津桜
 このあとふじみ野市の「エコパ」(余熱利用施設)へ行ってきました。
 しばらくきてなかったなあ、2週間ぶりか、そんなことを思いながら湯に浸かっていると、
 「おや、あんた、久しぶりだねえ。もう死んだかと思ったよ」
 「生きてるよ。しばらくこなかったのは風邪気味だったから」
 「やっぱりなあ。このところ風邪の人が多いから」
 「それにしてもずい分だなあ。ここでは2週間こないと死んだことにされちゃうの?」
 「そうだよ。オレなんか3日こないだけで、『あの野郎、お陀仏した』といわれたもの。だから毎日こないと」
 「そんなわけにはいかないよ」
 そんな会話を交わしました。
 
 「おや、こんなところにも白梅が」
 エコパの帰り道、路地の空き地に白梅が1本。
 梅 だけで見るなら、山崎公園よりもここのほうが見事な感じ。
帰りに見た白梅
 帰宅してニュースを見たら、「東日本大震災」の追悼式を報道してました。
 「3.11」のことは朝のラジオでも聞いていたので、忘れたわけではないのですが、みんなが黙祷していた時刻(14時46分ごろ)は、エコパでオッチャンたちと愚にもつかない話をしていた。
 なんともお粗末でした。
 当時「マイルス」には「Swingジャーナル」誌が置いてあり、そこからの情報や、マイルスの仲間の話をもとに東京のジャズ喫茶めぐりをしました。

 吉祥寺「メグ」(=スピーカーが定評)、「ファンキー」、高円寺「St.Germein」(サン・ジェルマン)も行きました。

 下北沢「マサコ」は洒落た店でしたが、ジャズ喫茶という割にはシャンソンもかかり、音量も小さく、もの足りない感じでした。
 しかも2時間ほど経ってコーヒーの再オーダーを求められ、腹が立って店を出ました。(今となっては経営者の気持ちもわかりますが)

 新宿には「びざーる」「DIG」「DUG」「Village Gate」「木馬」「Pit Inn」がありました。
 「びざーる」は駅の近く(地下)にあって入りやすい店でした。靖国通り側にあった「DIG」「DUG」はアルコール中心だったので、1~2度入っただけでした。
 
 「歌舞伎町の『木馬』はスピーカーが大きくて迫力があるよ。『Village Gate』は通の客が多いから、掛かる曲が渋い」
 とは上智大学の学生だったT君。

 彼は高松(香川県)の出身で私より3歳年下でした。ポルトガル語専攻でしたが、英語は堪能、知らないことばはなく、ラテン語の語源から解説するという徹底ぶりでした。
 大変な博学で、例えば話題が邦画になると小津安二郎から語り始めるし、音楽となるとジャズだけではなく、クラシックからラテンやインドの音楽に至り、とくにワーグナーについてはその真髄を熱弁しました。今でいう「オタク」人間です。

 T君もマイルスで知り合った仲ですが、新宿「Pit Inn」や映画館「日活名画座」「シネマ新宿」などでも遭遇しました。

 「Pit Inn」はコーヒーが安く、長時間粘れるので我われ貧乏学生にとっては格好の店でした。
 T君によると、ここに入る裏ワザがあって、コーラの瓶を5本集めて裏口に持っていくと、50円で引き取ってくれ、その金で早朝割引で入れるとのこと。いい時代でした。私はやらなかったのですが。
 コーヒーを注文すると、ウェイトレスの女の子が腕をぐるんと振る独特の仕草をしました。
 「あれでコーヒー、紅茶、コーラなどの種類はもちろん、数まで伝えるそうだよ」
 ひょろりと背の高い、あごのしゃくれた女性でした。あの仕草は店共通のものだったのか、あの子特有のものだったのか、今となってはわかりません。 

 その「Pit Inn」はいきなり裏側に移転し、狭くなりました。しかも「生演奏の店」になり、営業時間も夕方から、料金も高くなったので、行くのはやめました。
 その後はいろんな場所に移転し、現在は新宿二丁目で営業しています。

 「Village Gate」は本格派の店でしたが、その後店名は「ジャズ喫茶V」→「ぴてかんとろぷす」に変わり、洞窟のような内装になりました。
 おそらくCharles Mingusの「Pithecanthropus Erectus 」を意識したものと思われますが、薄っぺらな感じになり、やがて閉店しました。
 私が通い始めた当時、「マイルス」は1階にありました。
 いつもボックス席の奥に君臨していたN君は、人なつっこい反面理屈っぽく、酔うと絡む傾向にありました。
 私はひそかに「マイルスの牢名主」と名づけておりました。

 N君をはじめ、店の常連は「新左翼」のシンパでした。ジャズを聴きながら、激しい議論を闘わせました。なかには活動家もいて、店で落ち合ってデモに出て、負傷して帰ってくる学生も数人いました。
 今思えば店にはずい分迷惑をかけたと思いますが、店のママとマスターはなにもいわず、黙って受け入れてくれました。

 ここでよく聞いたのがBud Powell「Cleopatra's Dream」、Wes Montgomery「A Day in The Life」、John Coltrane「My Favorite Things」などですが、夜10時をすぎると演歌がかかりました。
 緑川アコ「夢は夜開く」、竹越ひろ子「カスバの女」「東京流れ者」、扇ひろ子「新宿ブルース」、などはここで聴きました。



 変わったところでは、淺川マキの「夜が明けたら」
 ♪夜が明けたら、いちばん早い汽車に乗るから、切符を用意してちょうだい…
 初めて聴いたときは「なんじゃこりゃ」と思いましたが、何度も聴いているうちに味わいがあると思うようになりました。

 ジャズをがんがん聴いたあとに聴く演歌は不思議にマッチして、身体にしみ込みました。これらはマスターの趣味でした。

 マスターはコーヒー豆のように苦味走った男でしたが、けっこう話好き。
 しかしいうことがニヒルで、「人生に意味なんかないんだよ」が口癖でした。
 それはそれで深い意味があるのだろうと思い、私はこのマスターと話すのが楽しみでしたが、いつの間にかいなくなりました。
 若い女性客と浮気して追い出されたとのこと。
 ニヒルさを装って女を引っかけた? それいらいニヒルな考えの持ち主は信用できなくなりました。

 ママはほっそりして、色が白く、「男と女」に出演したフランスの女優アヌーク・エーメに似ていたので、私はひそかに「和製アヌーク・エーメ」と名づけていました。
 ママは口数が少なく、あまり表情のない女性でしたが、ひとりで店を切り盛りするようになってからは、気さくに話すようになりました。
 芯の強い、古典的な日本女性でした。
 明大前の「マイルス」を知ったのは、ジャズ喫茶通いして1年以上も経ってからです。

 そのころ私は杉並区の浜田山に住んでいました。
 新宿、渋谷に近かっただけに、しょっちゅうジャズ喫茶通いをしていました。
 井の頭沿線はたまに下車する程度、それも下北沢が多く明大前にはほとんど関心はなかったのです。

 弟が京都からきたので、たまには地元を案内しようと明大前をうろつきました。
 ここは学生街で安い定食屋が多く、それ以外にめぼしいものはなかったのですが、すずらん通りの外れに「マイルス」というジャズ喫茶が目につきました。
 「最近、ジャズに凝ってんねん」
 「ジャズに、か」
 「入ってみよか」
 ということで入りました。

 ドアを開けると、手前右にボックス8席、奥にL字カウンター7席ほどの小さな店です。
 店内はこれまでのジャズ喫茶とは違う雰囲気でした。
 アットホームで客同士が和気藹々としています。みんな常連のようでした。
 私たちに対しても気さくに話しかけてきました。

 私は当時初対面の人間とはあまりなじめなかったのですが、弟の手前、なんとか「東京流」を見せようと、無理して彼らに応対しました。
 なかでもボックス席の奥にいたN君は、とくに馴れ馴れしく私に話しかけてきました。
 (あとで同い年だと知りました)

 「なにが好きなの」
 と聞かれ、Dave Brubeckの「Take Five」と答えたら、「月並みだね」
 初対面でこんなにずけずけいわれたのが、私にとっては新鮮でした。

 この店は私にとって大きな発見でした。
 弟はその翌日京都に帰りましたが、彼を見送ったあと、再び「マイルス」に寄りました。
 彼らも私を覚えていたようで、それいらい店の常連になりました。
 先日、句会の友人と話していたら、彼がジャズ喫茶に詳しいことを知りました。
 「神保町では『響』が有名だろ。あれは場所が移った。今は『さぼうる』のとなりに『ビッグボーイ』、白山通りを西に入ったところに『喫茶去』がある」
 「えーッ、今どきジャズ喫茶なんて商売として成り立つの?」
 「うん、なんとかやれてるらしいよ」
 おどろきました。ジャズ喫茶なんてとっくに寂れ、過去のものとなったとばかり思ってました。
神保町 
 私が上京してジャズを知ったのは、渋谷百軒店の「Swing」であると道玄坂の項(参照)で述べましたが、この際彼に対抗(?)してジャズ喫茶の思い出を綴りたいと思います。
 学生寮が大井町にあったので、通学の帰り自由が丘にはよく下車しました。
 自由が丘は当時からオシャレな街で貧乏学生にとっては少し敷居が高かったのですが、ここに「5SPOT」がありました。

 「5SPOT」は生演奏の店。
 その割にはふつうのジャズ喫茶並みの料金だったため、月1回ペースで通いました。「やっぱり生は迫力があるな」
 今にして思えばベースの鈴木勲さんやトランペットの日野皓正さんも演奏されていたのですが、ミュージシャンの名前に関してはまったく無頓着でした。

 寮で同室だったTもまた「5SPOT」が好きで、ときどき行っていたようです。
 しかしいうことが振るってる、「あそこはいいよ。気持ちよく眠れる」
自由が丘 
 たしかにジャズを聴きながらうたた寝することはあります。それは退屈だからではなく、心地よいからです。これはクラシックも同じです。しかし――。
 「この前なんか、いちばん前の席でグウグウ寝ちゃったよ」
 いくらなんでも演奏者の目の前でグウグウ寝るのは失礼だよ。

 その「5SPOT」はほどなくしてなくなりました。
 同店はジャズ評論家いソノてルヲさんが経営されていたとあとで知りました。
 低料金で生演奏を聴かせる「良心的な店」と思ったのですが、経営的には難しかったのでしょうか。残念です。
2015.03.07 今月の出句
 今月の兼題は「太」
 そこでまずこんな句が浮かびました。
 ②-a「黙々と梅見に太巻食らふなり」

 太巻は黙って食うもの(恵方巻?)なので、「黙々と」にしたのですが、これではあまりに芸がない。他に「太」のつくことばはないのか、と辞書で片っ端から拾い上げていくうち、目についたのが太極拳。
 すると梅の木の下で黙々と太極拳をやっている情景が浮かんできました。太巻よりはこっちのほうがいいだろう、そしてこれは白梅に限ると、

 ②黙々と白梅の下太極拳

 ちょっと安易だったかな?
白梅 
 白梅でつくったのなら紅梅もと、
 ③-a「紅梅の屋敷の娘のピンク顔」

 紅梅と娘が華やかさを競う。
 しかし「ピンク顔」ということばは幼稚で気に食わない。
 そこで年齢を上げ、紅梅と紅を競う女性の様子を詠みました。
 ③-b「紅梅の屋敷の夫人紅の濃き」

 これには「紅の濃き」を上五に持ってきて、③-c「紅の濃き紅梅屋敷の夫人かな」
 こっちのほうが納まりはいいけど、「紅梅屋敷」は変なので元にもどし、「夫人」よりも色っぽく「マダム」に変えました。 
 

 ②紅梅の屋敷のマダム紅の濃く
紅梅 
 「春一番」も使いたい。
 しかし例句は「春一番遠出かなはぬ身に吹けり」「春一番品川駅をおそひけり」など、ろくなものがない。

 私としては遠い昔、故郷を発った(捨てた?)朝、駅で受けた春一番の印象が強いので、
 ④-a「故郷(ふるさと)を捨つる駅舎に春一番」

 しかし「捨つる駅舎」は変なので、④-b「故郷を捨つる朝(あした)に春一番」

 これでは説明句なので、「春一番」を門出を祝う意味にしようと「捨つる」はやめ、
 ④-c「故郷(こきょう)発つ駅での餞(はなむけ)春一番」

 「駅での」は余計かと、④-d「故郷(ふるさと)を発つ餞に春一番」

 これでもいいけど、「春一番」を上五に持ってきて、④-e「春一番故郷を発つ餞に」

 こっちのほうがすっきりして、俳句らしい落ち着きがあります。
 しかしこれではインパクトが弱いと思ったので元にもどし、「餞に」では説明的かなと思い、「餞や」に変えました。

 ④故郷を発つ餞(はなむけ)や春一番

 一応これで決定ですが、④-eも捨て難いものがあります。
 俳句をたしなむ人が、その句が生まれるまでのプロセスを説明することは、まずありません。
 「俳句とは説明を拒否するもの」と前の句会の先輩に教わりました。
 たしかに他の俳句ブログを見ても、できあがるまでの過程をつまびらかにした記事など見たことはありません。
 したがって私の記事は「説明がましいかな」と思い、やめようか、と思ったこともあります。

 しかし同じ句会の友人に、「あれは面白い。こちらとしても句づくりの参考になる。ぜひ続けてほしい」といわれました。
 えーッ、あれが参考に。
 彼は私より句歴は長く、はるかに卓越した人。いつもトップ賞を獲るので私は「達人」と呼んでいます。達人クラスともなると、下手なヤツからも吸収(?)できるらしい。

 私の俳句のつくり方は、同じ季語をつかった例句(webの季語別俳句)をたくさん読むことから始まります。片っ端から(二百句ほど)読んでいるうち、「おや?」と思う句にぶつかります。
 それを「私ならこうするのに」と変えてみて、そこからどんどん変化していきます。

 なかには例句をいくら読んでも触発されないときもあります。
 そんなときはその季語をあきらめ、他の季語の例句に移ります。
 二月の季語に「恋猫」というのがありました。
 猫のラブコール。夜になると「ワァワァ」と不快な声で、やかましい。
 この季語を使った句に「恋猫の声色真似て追ひ払ひ」というのがありました。
 主旨はわかります。私も若いころ恋猫の声色を真似たことがあります。
恋猫? 
 しかし、どうせ声色を真似るなら、追い払うのではなく、相手になってやったほうが面白いのではないか。
 そこで、①-a「恋猫の声色真似てラブコール」

 ただし「ラブコール」ではあまりに芸がない。もっと風雅なことばがあったはず。
 
 そう思っているうち、高校の古文を思い出しました。
 男と女の求愛歌のやり取りのことを、たしか「歌垣」(かがい)といわなかったか。
 そこで古語辞典を引っ張り出して確認しました。

 「歌垣」(かがひ・うたがき)とは男女が一ヵ所に集まって求愛歌を掛け合う古(いにしえ)の遊び。今でも中国の雲南省では、少数民族の間で「恋愛問答歌」を競う風習がある。

 ということで、①-b「恋猫の声色真似て歌垣かな」

 しかし「声色真似て」は説明的だし、「歌垣かな」は、いかにもひけらかし。
 うーん。
 さんざん試行錯誤した挙げ句、「歌垣」を当たり前のように扱ったほうがひけらかしにならないと考え、さらりと、

 ①恋猫と歌垣を交はす仲となり


 私には珍しい想像句です。
 クラス対抗の駅伝大会でアンカーに選ばれた私でしたが、わがクラスの走者はなかなか到着しません。
 その後も走者は次々と交代しました。
 いずれもよそのクラスです。
 「早くこいよなあ」
  係員が叫ぶたびに「わがクラス……」と思うのですが、他のクラスばかりです。

 アンカーはひとり減り、ふたり減り……と徐々にいなくなり、3人ほどが残されました。
 「なかなかこないね……」
 互いにいにライバルですが、妙な連帯感も生まれます。

  しかし、それもつかの間、他クラスの走者が到着しました。
 「それじゃ、お先に」
 「うん、頑張ってな」
 残るは私ひとり。遅いなあ……。ため息が出ました。

 10分(?)ぐらい待たされたでしょうか。やっとわがクラスのランナーが入ってきました。
  「す、すまん……」
 断トツの最下位でした。
 しかし怒りの気持ちはなく、「これでやっと走れる!」とよろこんだぐらいです。
 それからは無我夢中でした。
 時間的に見ても、前のランナーに追いつくことは不可能でしたが、「少しでも差を縮めたい」

 しかし走っているのは私ひとり。縮まっているのか、引き離されているのか、さっぱりわからない。なんのつかみどころもなく走るだけ。
 晩秋の陽はすでに暮れかかっていました。
御所(コースの一部だった) 
 どれぐらいの時間が経ったでしょうか。やっと校門に着きました。
 ゴールには数人の係員がいるだけ。

 「よくやったぞ!」
 誰かが叫んだような気がしました。
 しかしその姿はなく、係員は私の姿を認めると記録をつけ、そそくさと後片づけをはじめました。
 誰からも注目されないゴールでした。

 そのとき私はこう思いました。
 たとえ与えられた条件が劣悪でも、ベストを尽さねばならない。
 人が見てようと見てまいと関係ない。
 自分の場合、人より遅れをとるかもしれない。それでもあきらめてはいけない。

 これは自分の将来の暗示のような気がしました。
 それから幾星霜の今、実際その通りになりました。

※このシリーズは前ブログ「愛と孤独」で、2010/09/29 ~10/01に投稿した記事をリメークしたものです。
 私のランニングが「世間的」に認知されたのは高2の体育の授業です。
 あるとき京都御所の一部を回る約4kmのタイムトライアルが行われました。タイムは忘れましたが、私は47人中8位。(なかにはセコいヤツも→参照

 「おッ、えらい早いやないか」
 体育の教師はビックリ。同級生からも意外な顔をされました。
 それもそのはず、私は体育が大の苦手。いつも「こんなしんどい科目なければいいのに」と思っていました。
運動場  
 そんな私にとって、この順位は快挙です。
 他人と比べることには興味のなかった私ですが、私より遅い陸上部員もいたので、秘かな自信になりました。
 「練習はうそをつかない」とは本当でした。

 このことはわがクラスでも知らるようになり、きたるべきクラス対抗駅伝大会の選手に推挙されました。それどころか、「お前、アンカーやれ」
 えッ、アンカーを?
 駅伝のなかでもいちばん大事なポジションです。各チームここに強力な選手を投入するというのに。
 「そんなの、自分がやっていいのだろうか」

 とはいえ他に早いメンバーがいたかどうか。
 タイムは事実だ、自信を持とう。そう自分にいい聞かせました。
母校
 駅伝のコースは、学校をスタートして京都御所を含む市街地を通過し、学校へもどるというものでした。
 ひとりが走る距離は4kmほどです。
 「これぐらいの距離なら、いつも走っているのと同じだ」

 アンカーの中継地点は御所のなかにありました。
 そこで待機しているのは(私を含めて)13人のアンカー。
 知っている顔もいれば、知らない顔も。彼らがどの程度走るのか、まったくわかりません。
 「競り合いになれば、勝てるだろうか」「抜かれたのでは目も当てられない」
 つい余計なことを考えてしまいます。

 「〇〇組、△△組。用意して!」
 係員が叫びました。私のクラスではありません。
 前の走者が駆け込んできました。

 「頼んだぞ」
 「まかせとけ!」
 待機していた他クラスのアンカーたちは、次々とタスキを受け取り、走って行きました。
 高校生のとき、夜中の0時になると家を飛び出し、近所を走るのを日課としていました。
 最初は眠気を覚ますのが目的でした。
 当時はランニングウェアという洒落たものはなく、上は丸首のシャツ、下は白のトレパンでした。
 冬の寒い日はわざと上半身ハダカで走ったこともあります。
今出川通り
 わが家は市電の農学部前を少し南に入ったところにあったので、そこから今出川通りに出て百万遍に向かいます。
 百万遍を左折して(東大路を南下)、熊野神社前へ。
 熊野神社前を左折して(丸太町通りを東に)、天王町へ。
 天王町を左折して(白川通りを北上)、銀閣寺へ。
 銀閣寺を左折して(今出川通りを西に)、農学部前から路地に入ってわが家にもどる、というコースです。
百万遍交差点 
 地図で見ると、このコースは京都市の主要な道路を四辺とする変則四辺形(五角形?)をなしています。全長約3.7kmありました。
 今では一部、京都の駅伝大会のコースにもなっていますが、当時はなんの変哲もない道でした。
 まして真夜中、人通りはほとんどありません。もちろん走る人など皆無です。
丸太町通 
 「なんでこんなとこ、走ってるんやろ」
 走りはじめたころは、頭に浮かぶのはこんなことばかりでした。
 マラソンというのは自己の懐疑心との闘いです。
 今走ろうと走るまいと、どうでもいい……いつもそんな思いにとらわれました。
 それでも足は走ることをやめません。
 やめるほうが勇気が要ります。
 これは惰性? それとも一種の業(ごう)のようなもの?
 あのときの心理は、今になっても上手く説明できません。
銀閣寺交差点 
 ところが走るにつれ、タイムを気にするようになりました。
 計りはじめたときは17分台でしたが、少しずつ早くなり、16分台の前半で走るようになりました。
 さらに「今日は調子いいぞ」とか「今日は重い」とか、その日のコンディションがわかるようになりました。
 こうなると面白くなって、もうやめられなくなりました。

  しかしそれは自分で満足しているだけで、これが世間的に早いのか遅いのか、知るよしもなかったのです。
 高1のとき、クラスにワルそうな男子生徒がいました。
 空手部に所属し、休憩時間には「型」をやっておりました。有段者だったそうです。
 ふだんは面白いことをいう男で、私は危害を加えられことは一度もありませんが、なんとなくヤバそうな気がして距離を置きました。

 とはいえ英語の授業は同じクラスで、しかも彼は私のうしろの席。
 試験のとき、「(答案を)見せえ」といわれました。
 カンニングの強要です。
 ムカッときました。「これまでの自分の努力を、こんなヤツに召し上げられてたまるか」

 しかし断るとなにをされるかわからない。
 私は「いいよ」といって、最初に間違った答を書き、うしろからよく見えるように身を屈め、写し終わったころを見計らって消しゴムで全部消し、正しい答を書き入れました。
 ざまァ見ろ。これが私の精いっぱいの抵抗でした。

 2年の体育の授業で、御所の一部を走るタイムトライアルがありました。
 体育は苦手だったのですが、このときは最初から先頭グループ。
 というのも私は当時、夜中の12時になると近所を4kmほど(自宅→百万遍→熊野神社→天王町→銀閣寺→自宅)走ることを日課としておりました。
京都御所 
 「あれッ」
 終盤近くなって、塀の破れ目から体育着姿の生徒がヌッと出てきました。例のワル男。私の顔を見るなりニヤッと笑いました。
 ずるいぞ、コイツ。
 そう思ったけど、それまで私は真面目に走ってきたので、汗びっしょりで、息もハァハァ。なじる余裕もありません。
 彼のほうもさすがに気が引けたか、私の前を走ることはなかった。余力は私よりあったはずですが。

 タイムは忘れましたが、このとき私は47人中8位。私より遅い陸上部員もいました。
 「練習はうそをつかない」
 私はそれで満足でした。彼がズルして私の前を走ろうが、どうでもよかったのです。
 (それに比べると1年のときの何たる狭量さよ)
 彼との関わりはそれぐらいですが……。

 昨年後半から同窓生と再会するようになってから、彼にまつわるエピソードをいくつか聞きました。
 「1年の初めのとき、ポケットから万年筆を5~6本取り出し、『1本500円でどや』。上級生から脅し取ったんやて。そのときから凄いヤツやと思った」
 「文化祭のときは、よその生徒が殴り込みにくるちゅうて、門のところで番張っとった」
 「部室の陰でいつもHというヤツを殴っとった。そのためHは中退したんやで」
 「頭は切れる男やった。真面目に勉強してたら、国立でも行けたやろ」
 なかには私と違って、カンニングに協力した(心の広い?)同窓生もいました。

 彼は卒業後、ヤクザになったそうです。
 「ぼくが会ったときは、小指がなかった。改めてあの世界の不気味さを感じた」
 「ワシが会うたときはピシッと背広着た立派な紳士や。物腰も低かったで。不動産会社に勤めてる、いうとった。わからんもんやな。見かけだけでいうたら辻君のほうがよっぽどヤクザや」
 (最後のことばは余計や)

 その彼はもうこの世にはいません。
 彼はカンニングの真相を知ることなく逝きました。今となっては、以って瞑すべし。
 ただ合掌するのみです。
2015.03.01 雉子橋の由来
 神田・専大前の交差点から竹橋(皇居清水濠)に向かう途中、首都高速の下に青い橋があります。これが雉子(きじ)橋。
専大通り 
 説明によると、雉子橋の由来は、
 「この近くに外国からの使節をもてなすための 雉(きじ) や鶏を飼育する囲いがあったことから、『雉子橋』 と呼ばれるようになった」とあります。
雉子橋① 
 そして、
 「この 『雉子橋』 を詠んだ川柳に次のような句がある。
 『雉子橋でけんもほろろに叱られる』(今井卯水)」
雉子橋② 
 これはこの付近の警備の厳しさと、「けんけん」 という雉の鳴き声をかけたもの。
 この川柳は昭和初期に詠まれたようですが、江戸のころから現在まで、警備の厳しい地域であることに変わりはないようです。
雉子橋から見る日本橋川 
 もとは木の橋でしたが、明治36年(1903)には鉄の橋に架け替えられています。
 現在の橋は大正14年(1925)に震災復興事業で架けられたもので、鉄骨造りの上路式アーチ橋である。

 現橋の架設から既に90年。
 歴史ある橋ですが、あちこちガタがきているはず。全面的に架け替えることも考えられます。