今年はいろんなところへ行きました。(といっても関西と三浦半島が大半ですが)
 そこで印象に残る景色をもう一度。

 まずは彦根市。私の父方の祖先が彦根藩士だったので、ぜひ行きたかった。
 この通りは電線がなく城下町の情緒たっぷりですが、名称は私の性に合わないので、敢えて「京橋通り」と呼ばせていただきます。

京橋通り(彦根) 

 京都御所・近衛邸跡の枝垂桜。私は京都出身ですが、初めて見ました。

御所・近衛邸跡の枝垂桜 

 祇園白川通。ここに京都のエッセンスが詰まっている感じがします。

祇園白川通(京都) 



 横須賀の猿島。前から行きたかったところです。今年は念願の上陸。時期は混雑する夏の直前。
 そのため、じっくり見られたのがよかった。

猿島(横須賀) 

 城ヶ島と三崎漁港も行きたかったので、行けて満足。
 (左)城ヶ島大橋から見る三崎漁港は絶景。
 (右)三崎漁港は素朴な港町。花暮岸壁で家族連れに話しかけられたのがうれしかった。対岸は城ヶ島、左に見えるのは城ヶ島大橋。

城ヶ島大橋から見る三崎漁港(三浦市) 三崎漁港・花暮岸壁



 立石海岸(横須賀市)。この景色も一見の価値あり。横須賀市といえば軍港や走水、観音崎、浦賀、久里浜などのある東海岸に目が行きますが、西海岸もなかなかのもの。

立石海岸(横須賀) 

 森戸海岸(葉山町)。おなじみ「裕次郎」のレリーフのある海岸。森戸神社があって、海水浴場でもあります。また「森戸の夕照」はつとに有名。

森戸海岸(葉山) 



 夏には埼玉県比企郡吉見町にある「吉見百穴」にも行きました。
 残念なことに、ここは先の戦争で軍需工場に使われました。古代文化遺産とでもいうべきところをダイナマイトで爆破して工場をつくる愚行。これで戦争に勝てるわけがない。

吉見百穴 地下軍需工場跡

 小坪漁港と逗子マリーナ(逗子市)。ここは何度かきていますが、何度きてもいい。夏の定番。
 古びた小坪漁港と南欧を思わせる逗子マリーナとの対比が素晴しい。

小坪漁港と逗子マリーナ(逗子) 逗子マリーナ(逗子)



 秋には京都時代の同窓生と横浜散策しました。
 何度もきている場所でも、人とくると新たな発見があります。それに友のよろこぶ顔を見るのも楽しい。忘れられない景色でした。

同窓生と行った山手通り(横浜) 元町公園も…

 平安神宮の大鳥居。同窓会の翌々日の朝。晩秋(初冬?)の京都の景色です。
 堂々たる鳥居の姿はやはり京都の象徴?

平安神宮の大鳥居(京都) 

 他にも川越や東京……など、印象に残ったところはありますが、割愛させていただきます。
 それではよいお年を。

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 大阪南港のATC(アジア太平洋トレードセンター)です。
 また行ってきたのか、って?
 いえいえ、そうではなく、1ヵ月前に行ったときの写真をもう一度、というわけで。
 それだけ好きなところということで、ご容赦あれ。

トレードセンター

 イルカが跳ねる人工池。(いずれもクリックして出た画像をもう一度クリックすると大きくなります)

人工池 

 時刻は日没前。太陽は西に傾いている。この海岸は西向きなので、沖に夕陽が沈む。
 ということで海を背景に撮るとシルエットになるので、きれいな写真になります。
 右に写っている船はは「さんふらわー号」

日没風景 

 このデッキが気に入った景色。

デッキ① デッキ②

 そうはいっても、絵になるのはやっぱりカップル、かな。
 これは女性の腕の間から夕陽が……。ダイアモンドウーマン?

カップルのシルエット 

 おまけは日没後のイルミネーション。

イルミネーション 

 ここにきたのは初めてですが、すっかり気に入りました。
 またきたいと思います。(好っ きやねん、大阪)

 今年は人間関係が広がり、なにかとつき合いが多くなった年でした。
 そのきっかけは昨年夏の骨折事故。
 怪我で入院してから、骨折仲間ができたのもそうですが、この事故により、人間関係が大きく変わりました。
 その典型が俳句会。
 それまでは近所の俳句会に通っていたのですが、私の入院中に数名のお婆さんたちが多数派工作して、会場を公民館から団地の集会室へ移してしまいました。
 退院後これを知った私は、あまりの暴挙にあきれて脱会しました。
地域の公民館 
 もし私が出席していたら、「公の俳句会なのにそんな勝手は許されない」と反対したので、会場の変更はなく、私はこの俳句会を続けていたでしょう。

 辞めたことによって他市の俳句会に行くようになり、ここで元同業者(編集者)と出会い、急速に親しくなりました。
 この人物は私より二歳年上、俳句歴も長く、いつもトップ賞を獲る実力の持ち主で、私は「達人」と呼んでいます。
新河岸川の花見 
 さらに私のあとから入ってきた俳句の上手なおネエさま。
 この人たちとは俳句会の終了後に茶飲み話をしたり、新河岸川の花見や菖蒲園に行くようになりました。
 以前の俳句会では考えられなかったことです。
 今年4月の高校の同窓会。
 ここでは数多くの同窓生と再会しましたが、最も親しくなったのが二次会で会った女流画家。
 彼女に住所を教えたのがきっかけで文通が始まり、絵画展の招待券が送られてきました。

 このころ京都の写真家から、Aという小中高の同窓生が関東に住んでいると聞き、連絡先を教えてもらい、茨城県取手市在住とのことで新松戸で会うことになりました。それが7月1日。
 当時小学校の同窓会をやろうという気運が上がっていたので、「写真を持ってきて」と頼んだところ、重いアルバムを4~5冊持ってきました。これを見て「誠実なヤツ」と思いました。
絵画展(上野・都美術館) 
 さらに絵画展の案内状を見せて、「4日に行くつもりだけど、行く?」
 彼は即座に「行く」と返事。
 このとき私は4日しか行く日がなく、もし断られたら、ひとりで行くつもりでした。
 そうなると彼と女流画家(マドンナ)との接点はなく、3人で横浜へ行くこともなかった。
 こうしてみると、人と人との結びつきは「紙一重」だとわかります。
 これとは別に、私には千葉県我孫子市に住むMと、東京都武蔵野市に住むSがいます。
 ふたりとも小学校の同窓生。それぞれ別個のつき合いでしたが、「この際一堂に会してやろう」とお茶の水で会うことになりました。それが7月31日。
お茶の水 
 会うなり3人とも「オーッ!」と大興奮。
 とりわけA(取手)とM(我孫子)は小学校では同じクラスだったこともあって、たちまち意気投合。利根川を挟んでとなり同士なので、しょっちゅう会うようになりました。
 常磐線コンビ誕生? 予想以上の仲のよさ。
 これぞ仲介者冥利というもので、彼らを見るたび笑いがこみ上げます。
 A君と知り合うことによって大阪のU君、京都のH君と知り合い、小学校の同窓会を手がけるようになってやはり京都のT君、J君、さらに中学の同窓会で新幹事のMO君と親しくなり、メールのやり取りが急激に増えました。

 先日も取手のA君から電話。とくに用事はないのですが、「ロンリークリスマスを送っているやろ」と慰めの(?)電話。「よけいなお世話や」といいながらも内心はありがたい(?)。こちらの愚痴話も出たりして、すっかり長話になりました。
北白川通り(京都) 
 そういえば数人の友人に愚痴をこぼすようになりました。友人とは愚痴友のこと?
 それもこれも友人が増えたから。
 年取ると交遊関係が先細りになるといわれているけど、私は逆。60代の半ばごろからどんどん増えてきました。以前が少なかったこともありますが、これはけっこうなこと。

 これはやはり昨年夏の大怪我がきっかけ。
 このときから「人には会っておこう」という意欲が強くなりました。
 それが相手にも伝わり、友人の輪が広がったのだと思われます。
 「いらっしゃい、いらっしゃい」
 「安いよ、安いよ」
 おじさんたちがだみ声張上げるアメ横の年末風景。
 しかし張上げすぎて、なかには声を枯らす人も。
 ①アメ横のだみ声枯れる師走かな
アメ横 
 「正月になっても特別なことはしない。食事もいつもと同じ」
 と決め込んでいる当方でも、暮れになってスーパーに正月用の食品が並ぶとマイペースではいられなくなります。
 腹が立つのは、いつも買っていた「切り落としベーコン」がなくなり、その代わり体裁の整えられた「特上ベーコン」が並んでいること。
 ②ベーコンも上がのさばる師走かな

 髪が伸びてきたので、そろそろ切ってもらいに行くかと、床屋さんのドアを開けたら、待合室はいっぱい。しまった、この時期は込むのか。
 散髪はあきらめました。
 ③年明けはロングヘアーで通さむと

 それでも靴ぐらいは磨いておかないと。
 ④余所行きの靴を磨きし年の暮
夜の上野
 暮れともなると以前は忘年会の連続でしたが、年取るとめっきり減りました。
 それでも数件の忘年会(らしきもの?)はあります。
 上野のビアホールで京都時代の同窓生と盃を重ねていたら、携帯電話に呼び出しが……。
 なんと京都のお好み焼き屋の女将(同窓生)から、「もしもし、こっちも盛り上がっているよ」
 同窓生が次々に電話に出て、図らずも忘年会の二元中継。
 ⑤携帯で繋ぐ二元の年忘れ

 ちょっと長話になった同窓生。
 彼は野鳥の会に入っていて、先日は六甲山の水鳥を見に行ったところ、あまりの寒さに早々に下山、居酒屋で焼き鳥と焼酎で暖をとったとのこと。焼酎では季語にならないので、
 ⑥熱燗で焼鳥食らふ愛鳥家
 (野鳥の会の面々がこんなことでいいのかッ)
水鳥観察? 
 さてこちらの同窓会、ふだんエロ話ばかりしてるヤツが今回は珍しく輪廻転生の高尚な(?)話に。
 ⑦来世でも再会できて年忘れ

 そうありたいものです。
2014.12.27 年末のアメ横
 「いらっしゃい、いらっしゃい」
 「安いよ、安いよ」
 だみ声でおじさんがマグロを売っています。
夕方のアメ横 鮮魚店  
 おなじみ年末のアメ横の風景。
 この時期、多くの人が訪れます。(1日50万人とか)
 学生時代はよくここでジーパンを買いました。
 新品のリーバイスが市価の半額でした。

 あるとき、「なぜ安いの?」と聞いたら、オヤジはこともなげに、「B級品だからだよ」
 B級品とは、些細な縫製ミスや、織りむらや染めむらで検査で撥ねられたものをいい、今でいうアウトレット商品です。「しかし少しも遜色ないだろ」
衣料店 時計・宝飾店
 私は脚が細かったので、いつもゆったりめのサイズを選びました。すると、
 「あんたね、デニムというのは穿いているうち伸びてくるから、最初はピッタリめのほうがいいんだよ」
 ところが裾上げは、「洗うと縮むから」と長めにする。
 「矛盾するじゃないか」というと、オヤジは、「はははは。横糸は伸びて、縦糸は縮むんだよ」

 ああいえばこういう、口の減らない、憎めないオヤジ。
 今はもういませんが、アメ横の名物オヤジでした。
 ライター時代はこの近くに得意先があったので、よく寄りました。
 そのときは気まぐれにナッツ類やハーシーのココアなど、家族への土産に買ったことがあります。
 しかし生ものとなると、なにを買っていいのかわからず、また電車に乗るので、買ったことはありません。
鮮魚はいずれも安い! 
 今なら「安いな」と思いますが、量が多いのでやっぱりNG。いろいろ考えると、近所のスーパーで買ったほうが安上がりです。
 そんなわけで私にとってアメ横は買出しというより、まったくの観光地。ジーパンも買わなくなったし。
 面白かったのはチョコレートの特売。自らを「アメ横の名物男」と名乗り、1個200円以上するチョコレートを7つ、8つ加えていき、「ええい、10個だ。全部で1000円!」
 おばさんたちの手がワッと上がる。
 名物チョコレート特売 
 つくづく話術が見事だと思います。
 そういうのを見るのが私にとっては楽しいのです。
 (写真は今年12月17日夕方の光景。今はもっと混雑していると思われます)
 日暮里駅西口から御殿坂を進み、経王寺の脇を入ると諏訪台通り。
 この先に諏訪神社があることから、このあたりは諏訪台と呼ばれていました(今は西日暮里三丁目)。
 諏訪神社の手前に「富士見坂」の看板。ここが日暮里富士見坂です。
諏訪台通り 
 この坂のことは以前から知っており、何度かここを通ったこともあります。
 しかし空気がクリアでなかったため(?)富士山を見ることはできなかった。
富士見坂の看板(奥は諏訪神社) 
 一度ぐらいはここから見たいと思っていました。しかし……。
 「しばらく富士山は 見られません」の看板。
 なんだって?
 よく読んでみると、「平成25年11月、千駄木三丁目のマンションが建ったことで、富士山は見えなくなりました……」とあります。(日暮里富士見坂を守る会)
 あとはこの施工会社に対する不満がたらたら。
 「区の要請や、私たちの要請には一切耳を傾けず、工事は続行され……」
看板① 
 よくわからないけど、建築許可は下りたのか?
 もし下りてないのに工事を強行したのなら、行政の側で取り壊せばいいのでは?
 これについてはよくわかりません。
看板② 
 実際に坂上から西の方向を見ると、高層マンションが建っています。
 これじゃ見えないよ。
坂上からの眺め 
 この看板の説明書きを読むと、
 「しかし、高い建物が建つ場所は限られており、わずかな『配慮』によって守ることができます。そして近い将来、失われた『眺め』を再び取り戻すことも可能です……」とあります。

 だとすると、いったん建てたマンションを壊すのだろうか。それには裁判で争わなければならないし、長い年月と金がかかる。他にどんな手段があるのだろう。
 そんな疑念に駆られました。
坂を降りる 
 坂を降りると、道幅は狭く、けっこう急な坂です。
 高校生が坂を駆け上がっています。
坂を駆け上がる高校生(街灯にご注目)  
 「はい、もう一本」
 坂の下では女子が号令。
 それにしたがって男子がダッシュ。
 富士は見えなくてもトレーニングには適した坂らしい。
坂下 
 看板には最後にこう書かれていました。
 「近い将来、また此処でお会いしましょう。それまで『日暮里富士見坂』を忘れないで下さい」
 クリスマスが近づくと「ジングルベル」「聖よしこの夜」などの歌が聞こえてきます。
 クリスチャンにとっては意味深い歌ですが、今や信仰を捨てた私にとっては、この時期の単なる流行歌。そこで、
 ①聖夜曲今は年末はやり歌

 そしてやたら聞こえてくるのが「♪きっと君はこない ひとりだけのクリスマス・イブ~」
 恋愛に関係のない私にとっては、はなはだうざったい。
 ②達郎君勝手に唄えクリスマス
クリスマスツリー(山手西洋館) 
 しかし年末なので掃除ぐらいはしておかないと。
 ③クリスマスすることなくて大掃除

 夕食にしてもチキンもなければワインもありません。
 わが家の定番はご飯に大根おろしをかけ、大量の釜揚げしらすを乗せて、卵を割り入れ、ネギとポン酢をかけるしらす丼。あとは納豆とみそ汁。安くて美味い。
 ④クリスマス夕餉はいつものしらす丼
 
 TVを点けてもこの時期、ろくな番組がない。昨夜は「ためしてガッテン」なかったぞ。
 仕方がないので、ジャズでも聴くか。かけるのはコルトレーンの「マイ・フェイバリット・シングス」(ヴィレッジ・ヴァンガードにて演奏)
 ⑤お気に入りコルトレーンが聖夜曲
クリスマス・デコレーション(山手西洋館)
 聴き終わると、あとは寝るだけ。
 ⑥焼酎で不貞寝決め込む聖夜かな

 そんな私にも忘れられない思い出があります。
 あれはわが子が5歳のとき。
 年末の時期、親子3人で吉祥寺に行ったことがあります。当時は経済状態が最悪で息子にはなにも買ってやれず、情けない思いでした。
 それでもわが子はなにもほしがりもせず、モール街のクリスマスの飾りを見てニコニコしていました。まったく物欲のない子でした。
 あの笑顔は私たち夫婦へのプレゼントだったと思います。
 ⑦クリスマス神の恵みか子の笑顔
クリスマス・イルミネーション(横浜) 
 こういう思いがあると、親はそれだけで生きていけるのです。
 これが本当の「親孝行」だと思います。
 昨日(12/23)、ふじみ野市の「福岡河岸記念館」に行ってきました。
 ここは3ヵ月ほど前に一度行ったことがありますが、「離れ座敷」の2階、3階には上がれなかったので、特別公開日の昨日、再び行ったというわけです。
入口 
 同記念館については前回述べたので(参照)省略しますが、離れ座敷は老朽化が激しいので、2階、3階を公開するのはそれほど多くないのです。

 この離れは客をもてなすための建物で、床柱は外国産の珍しい木、さらに風呂場やトイレに至るまでいろんな工夫が凝らされています。
 当時珍しい木造3階建て。川を行く船からは当時のランドマークタワーでした。
 そのため3階からは、南西に富士山、北東に筑波山が見えるといいます。
中央が離れ座敷 
 係りの人が「案内しましょうか」というのを、「前にもきたから」といきなり離れの3階を所望。(横着な客です)

 3階に着いて、係りの人が
 「ほら、あそこに見えるのが筑波山です。西(左)の頂が男体山(標高871m)、東(右)の頂が女体山(標高877m)。なかなか見事なものでしょう」(女のほうが高いのか!)
筑波山 
 次は富士山ですが……。
 「午前中はくっきり見えたのですが、今は霞んじゃって。でも電柱と木の間にうっすらと雪をかぶった左側の稜線が見えるでしょう」
 そういわれても、その間には数本の電線に邪魔されて、なにも見えない。
電柱と木の間に… 
 「見えるときはこのように見えるのです」
 と見せられた写真でもやはり電線が邪魔しています。
 ここは富士山のビューポイントではないな。(ガックリ)
離れの3階から見た前庭 
 仕方なくそこを辞し、他に撮るものを物色。
急な階段(下り) 
 「トイレでも撮るか」
 洒落た陶器の便器と、窓の透かし彫り。
 客用なので贅は尽くされているのですが……。
トイレ トイレの窓の透かし彫り
 目当てのものが撮れなかったのでは、もうくることもないでしょう。
2014.12.23 大坂城物語
 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が終わりました。
 関が原の戦い(慶長5年9月15日=1600)では東軍が勝ち、勝利に貢献したことで家康に篤く遇されたとよろこぶ息子長政を官兵衛(如水)は冷ややかに見つめ、政界から引退しました。
 その後は詩歌などの趣味に興じ、平穏な家庭生活を送って4年後他界します。(享年57)
乾櫓
 石田三成率いる西軍が関が原で敗れたのちも秀頼は大坂城に留まり、摂津・河内・和泉を支配していましたが、官兵衛が他界して11年後、家康の総攻撃によって豊臣氏は滅亡(大坂夏の陣=1615)し、大坂城は落城しました。
 
 灰燼に帰した大坂城は、江戸時代になって二代将軍秀忠によって再建され、寛永6年(1629)完成しました。城主は歴代将軍、管理は譜代大名が大坂城代として執り行いました。
大坂城
 しかし大坂城はたびたび火災に見舞われました。寛文5年(1665)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城になりました。

 幕末になって二条城から追われた徳川慶喜が大坂城に移り、倒幕軍と対峙しましたが、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日=1868)で敗れ、慶喜は船で江戸へ退却、大坂城は新政府軍に開け渡されました。
 この前後の混乱で出火し、城内の建造物のほとんどが焼失しました。
城から見る市街地
 明治になって新政府は城の東側の敷地を陸軍用地に転用。
 火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠が設けられ、大阪鎮台の司令部になる一方、城内では和歌山城より紀州御殿が移築され、大阪城公園として一般公開されました。
 また昭和6年(1931)には市民の寄付によって天守閣もつくられました。

 しかし太平洋戦争では陸軍用地であったことから米軍の爆撃の対象になり、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓などが焼失、しかし天守閣は破壊を免れました。
金の鯱 
 終戦後、陸軍用地は占領軍に接収されましたが、昭和23年(1948)に接収解除。
 いらい建物の修復が進められ、大阪城公園の再整備も始まり、外堀を含む広域が公園地となって現在に至っています。平成18年(2006)には日本100名城(54番)に選定。
豊国神社
 城の南側に豊國神社(ほうこくじんじゃ)があります。
 これは京都の豊国神社(とよくに じんじゃ)の別社で、かつては中之島にあったのを昭和36年(1961)ここに移設しました。
 平成19年(2007)には秀吉像が建立。肖像画のような端正な顔ではなく、貧相な顔つきがリアルです。これは秀吉に対する大阪人の愛情表現?
秀吉像
 以上が大雑把な大坂城の歴史ですが、何度も消失と復興をくり返していることがわかります。
 それだけにこの大坂城は大阪の人とって心の拠りどころとなるのではないか。
 今回この地を散策し、大坂城の歴史を知るに連れ、そんなことを思いました。
出世絵馬 
 秀吉の命を受けて初代の大坂城を築いた黒田官兵衛は、今の大坂城を見て草葉の陰で笑っていることでしょう。
 昨日は全国高校駅伝を観ました。
 去年もいいましたが、女子が半分の距離で京都市の西側をちまちま走るのが面白くない。
 「都大路を駆ける」というなら、西京極(南西)から宝ヶ池(北東)を走ってくれ。
 女子マラソンだって42.195kmを走るのだから、同じにしてもいいじゃないか。

 それはともかく、女子は4区で2位の大阪薫英女学院(大阪)が1位の立命館宇治(京都)との29秒差をぐんぐん追い上げ、ほぼ同時に5区のアンカーへ。アンカーが引き離して大阪薫英女学院が優勝しました。記録は1時間7分26秒.
 2位は京都、1時間7分34秒。3位は常磐(群馬)、1時間8分11秒。
大阪と京都のデッドヒート 1位大阪 2位京都
 常盤は選手のタイムでは全国一なのですが、駅伝となるとまた別のようです。
 昨年優勝した豊川(愛知)は前半大きく後退しましたが、後半追い上げ、アンカーが数人をごぼう抜きし、6位に入賞しました。これは昨年覇者の意地?
 男子は1区の前半がスローペースだったため、先頭集団50人以上という大混雑。
 後半飛ばして少し差がつきましたが、中継点は大混雑。押し合いへし合い、走者とぶつかって突き飛ばされるという光景も見られました。
男子の1区 第1中継所は大混雑
 それよりも私の楽しみは3区(8.1075km)の市街地。
 この区は実家の近く(百万遍~銀閣寺)を通るので、気合が入ります。
 人には「京都を捨てた」などといっておりますが、いざ映し出されると妙に懐かしい。
 まるで仏映画「ペペル・モコ」(1937)の主人公の心境です。

 さて、その3区。
 2位でタスキを受けた世羅(広島)のポール・カマイシが1位の市立船橋(千葉)をぐんぐん追い上げ、東一条あたりで抜き、百万遍→銀閣寺→宝ヶ池までは楽々のひとり旅。
3区の最初は… ポールが追い上げ
 昨年はここで11人をごぼう抜きし、1位で次のランナーに渡したものの、前半飛ばしすぎて後半バテて、あまり差をつけられなかった。
 今回はそれを反省して、後半もバテることなく余裕でタスキ渡し。4区のランナーもきっちり突き放しました。
ホールが抜き去る ポール独走 4区も世羅が突き放した
 この3区では仙台育英(宮城)の留学生選手が数人をごぼう抜きし、2位に躍り出ましたが、後続が続かず、入賞外に。
一時は仙台育英が2位に躍り出た 
 優勝は世羅。記録は2時間2分39秒.
優勝は世羅 
 問題は2位争い。
 佐久長聖(長野)と埼玉栄(埼玉)が最後まで争い、勝負はトラックに持ち込まれました。
 「埼玉頑張れ!」と秘かに声援を送ったのですが、佐久長聖がぐんぐん突き放し、2位に。2時間4分36秒。
 3位は埼玉栄。2時間4分41秒。
2位佐久長征、3位埼玉栄 
 今年のTV観戦の感想ですが、これまでのような選手の顔や足のクローズアップは極力少なくなり、市街地の全景が映し出されていたように思います。
 地デジになって画面がワイドになっているので、当然とはいえ、好ましい傾向。今後もこれでやっていただきたいものです。
 先日の中学の同窓会では101名が集まり、懐かしい面々と雑談の花が咲きました。
 テーブルは3年卒業時のクラスで編成されるので、話し相手は同級生の面々。
 「最近は小学生の写真指導もしてるんだって?」
 「そうなんや。これがまた面白い。子どもの感覚は鋭いものがある」
 これは写真家・永野一晃氏(同級生です)との会話。
 写真と文章、手法は違いますが、表現に携わるもの同士、話は尽きません。

 「辻君は元気やったか」
 「いや、昨年の夏、大怪我して2ヵ月入院してた」
 「それは大ごとやったなあ。今はどうもないんか?」
 「うん、大丈夫や。それどころか人生観が変わって、人のよろこぶことをしたい、と思うようになった」
 「ええこっちゃ。それこそまさに怪我の功名や。はははは」
 二次会では学級委員をやっていたY君とそんな会話を交わしました。
 そんなとき、「よう!」とさりげなくこちらに参入してきたOという人物。
 彼はY君とは小学校が同じで、仲がよかったようですが、私は中学に入ったときから気になっていました。

 「どこかで会ったことがある」(前世?)まさか。
 しかし同じクラスでもないので話すこともなく、気になったまま別れ別れになりました。

 そのO君が参入してきてY君との会話で、
 「O君は幼稚園どこ行ってたん?」
 「オレか。主婦の友主催の幼児生活団に行ってた」
 幼児生活団、それだ!
 私は当時教育熱心な母親から自閉症児とみなされ、ふつうの幼稚園ではついていけないと思われて、生活団にやらされていたのです。

 「こんなこともあるんやね。これで積年の疑問が解けたわ」
 「はははは。よかったやないか」
 O君はただ苦笑するだけ。彼は私のことなどまったく意識してなかったようです。
 京都の友人K。
 彼もやはり同窓会には参加していますが、いつも翌日に会うので、当日はとくに話すことはありません。
 その翌日。
 こちらの「成果」を話そうと思ったら、
 「いやあ、オレはな。すごい人物に会った。囲碁の女流名人やで」
 Kは碁をたしなむ男で、父親は京都では屈指の腕前。彼も父親譲りでかなりの強豪。
 彼の所属する伏見区の碁会所では師範クラスです。

 同窓会で思いもよらぬ囲碁の達人と出会い、向こうも「あのKさんの息子さん?」ということですっかり意気投合した、とKは興奮冷めやらぬ体で自分のことをひたすらしゃべるしゃべる。
 「お前、写真撮ってたやろ。あの(女流名人のいる)テーブルの写真はないんか。なに、撮ってない? なんのためにカメラぶら下げとんのや」
 と思わず八つ当たり。
 なんでこっちが怒られなきゃならんのや!

 そして結論として、
 「まあ、長生きはするもんやなあ。そして同窓会は出るもんや」
 それこそこっちがいいたかったセリフですが、今回は女流名人に免じて、彼に譲ることにしました。
 小学校の同窓会を手がけるようになって、連絡先のわかる同窓生に「同窓会の是非を問う」というアンケートを送るようになりました。
 なかでもよく覚えている人には、その人との思い出を書き添えました。

 近所に住んでいた友人には、「帰りはいつも一緒だったよね。君の話は知的で面白く、一緒に帰るのが楽しみでした」と書きました。
 これに対する返答はなし。
 こちらはいきなりの手紙でアンケートの協力要請なので、失礼のないように、返信用の封筒にあて先を印字し、切手まで貼っている。それなのに……。
 中3で同じクラスになり、高校の3年間仲のよかった友人がいました。
 ひとりは吉田神社の近くに住んでいたK君、もうひとりは関田町に住むA君。
 高2の夏は3人で伊吹山に登ったこともあります。

 A君が化学部にいた関係で、途中からT君(浄土寺近くに住んでいた)とも仲よくなりました。
 高校卒業時には4人で比叡山に登りました。このときは坂本(琵琶湖側)に降りて、浜大津から京津電車で三条京阪に帰ってきました。
 「ちょっとつき合って」とT君が寄ったのはスポーツ用品店。5kgのダンベル2個買いました。
 「浪人するから身体鍛えないと」といっていたことを、昨日のように思い出します。

 しかしK君、T君はすでに他界しています。
 A君は小学校は同じでした。そこでアンケートとともに、
 「あのとき比叡山に登った4人のうちK君、T君も亡くなったね。(死亡率50%!)こうなったら生き残った者同士仲よく生きるしかないね」
 そんなことを書き添えました。

 しかし、応答はまったくなし。
 高校の同窓生同士で結婚した夫婦がいます。
 夫のB君は面白い男でした。妻のNさん(旧姓)はやはり小学校の同窓生。
 そこで今回(11/30)の中学の同窓会のときに、「あなたの旦那は面白い男だったなあ」
 「今でも面白いですよ。ふざけたことばかりいって。もちろん元気です」
 「オレのことは覚えてないと思うけど、よろしくいっといて」
 彼女は笑いながら、「いっときます」
 そんな会話を交しました。

 アンケートには他の同窓生の連絡先も書いてあり、近況欄には、「孫3人のお婆ちゃん。ジャズダンスに燃えてます」と楽しげな日常生活の報告でした。
 ただし、彼女のクラスは参加希望の人数が少ない。
 そこで、「あなたの旦那のことを『面白いヤツやった』と取手の友人と語り合いました」とはしゃいだ文面とともに、増員のための協力をメールで要請しました。ところが、
 「来年は検査もあって、そんな時間はありません。役員の件はお断りします」
 と(これまでとは打って変わって)剣もほろろの返事。

 役員なんて大そうなものではなく、「あの人がくるなら」とランドマーク的な役割だけなのに。
 この人は、「楽しそうな会には参加するけど、その運営側にまわるのは絶対にイヤ」という一部の京女に見られる特質で、浮かれた(?)当方がバカを見ました。はしゃいで悪かったね。
 ことほどさように、いくらこっちが親しいと思っても相手はまったくそう思ってない、ということが私にはよくあります。
 これはひとえに当方の人徳のなさ。重々承知しているのですが……。
 高台寺の山門から細い参道を降りると「ねねの道」
 昔は高台寺道と呼ばれていたそうですが、二年ほど前、電線を地中に埋め、石畳の道にして「ねねの道」としてリニューアルされました。
高台寺山門 高台寺参道
 なぜか若い女性の姿が目立つ。
 高台寺が北政所(ねね)のお寺なので、なんとなく共感する女性が多いのか。
 うーん、ここへくる女性は美人が多い。しかし地元ではなく、関東の女性ではないか。
 よけいなことを……。
高台寺参道にて 
 たしか通りには電柱がなくすっきりしています。
 ここは「最も京都らしい通り」といわれているそうです。たしかに両側土塀が並んで、昔の街並を思わせます。
ねねの道① 
 私は京都出身でありながら、このあたりのことはあまり知りません。
 清水寺にきたのもほとんど20年ぶり。
 「へエーッ、こんなとこあったんか」
 と思うほどの田舎者ですが、電線の地中化は我が近くの川越市では30年前からやってたぞ。(たまには自慢させてくれ)

 この道を八坂の塔の方向(北)に歩きました。
 北に向かうほど道幅は細くなります。
ねねの道② 
 と、向こうから美しい着物を着た若い女性の集団。
 これはチャンスとばかり、「写真撮ってもいいですか」
 彼女たちは快く、「いいですよ」
着物姿の女性たち 
 彼女たちは貸衣装を利用した観光客だと思うけど、そうだとするとここは観光客のきれいな女性で持っている?
 さすが京都。観光の伝統は脈々と受け継がれています。
 昨日(12/17)の夕方、上野でふたりの同窓生(常磐線コンビ)と待ち合わせました。
 常磐線コンビとは、千葉県我孫子市に住む友人と、茨城県取手市に住む友人です。
 もともとはバラバラだったのですが、このふたりが小学校の同級生と知り、この夏お茶の水で引き合わせたところ、「おおッ!」と大興奮。
 すっかり意気投合し、利根川を挟んでとなり同士ということもあって、しょっちゅう会っているようです。
 まさに仲介者冥利に尽きるというもので、彼らを見るたび笑いがこみ上げます。
上野駅前デッキから見る西の空 
 ということで3人で落ち合って、「どこへ行く?」
 そもそも上野待ち合わせをいい出した張本人が、「ワシ、上野はよう知らんのや」
 例によって行き当たりばったりで、中央通りの「らいおん」(ビアホール)へ。
夕暮れどきのアメ横 
 取手の仁は先日の同窓会には参加してなかったので、まずはその報告。
 集合写真を見ながら、「このお婆さんは誰や?」
 「これは〇〇さんや」
 「えッ、これが。えらい老けたもんやなあ」
 「そら、しゃーない。我われも確実にジジイになっとるんやから」

 「××君は水球でオリンピックに出たこともあるんやで。それが干からびたジイさんになって杖突いて出てきたのにはビックリした」
 「オレがああだったら、同窓会には絶対出ない。それでも出るというのは、よほど強い精神力や」
 「そやろか」
 「オレはそこに彼のメッセージを感じた」

 そんな話をしながら、話題は社会人時代のことに。
 「S電器で営業企画やってたときはビデオが出はじめたときで、意外にもラブホテルからの注文が多くてな。各部屋取り付けるときに……」
 これから先はエロ話に展開。(詳細は省略します)
 「そうか、そういう社員がいたからS電器は潰れたんや」
 3人で笑い転げました。
同窓生  
 アルコールが回ったところでビアホールを切り上げ、話の続きは近くの喫茶「ルノアール」へ。
 話は多岐にわたり、政治の話(若干意見の対立あり)から宇宙の話、そして将来の人類論までスケールが大きくなりました。
 「この50億年もの間、地球及び人類は滅亡と再生をくり返してきた」
 「すると今の人類が滅びても、再生したとき、我われはまた会えるっちゅうことやな」
 「その通りや」
 と、明るい来世像(?)を語り合いました。

 「今日は珍しく知的レベルの高い会話やったな」
 「なんや、いつもアホ話ばっかりしてるみたいやんけ」
UENO3153のイルミネーション 
 3人は夜9時40分に喫茶店を出て、上野駅で常磐線コンビと別れ、帰途につきました。
 久しぶりに充実した忘年会でした。
2014.12.17 祇園白川通
 ひと口に白川通といっても、北は宝ヶ池から南は祇園までと範囲が広いので詳しい定義は省略しますが、ここでいう白川通とは岡崎の国立近代美術館前から鴨川への注ぎ口(縄手通)へ流れる白川沿いの道をいいます。
白川 
 この白川は両岸には柳が植えられ、まるで江戸時代の風景。
 川底も浅く、所どころ川面に降りられるようになっていて、なんとも風情があります。

 川沿いの道といえば、東京では目黒川が有名ですが、あれはドブ川で風情もなにもあったもんじゃない(目黒川流域の皆さん、ゴメンね)。
華頂道から見る一本橋界隈 
 私が好きなのは「一本橋」界隈。
 この一本橋とは、通称「行者橋」ともいって、
 「比叡山の阿闍梨修行で千日回峰行を終えた行者が、粟田口の尊勝院の元三大師に報告し、京の町に入洛するとき最初に渡る橋であり、行者橋とも阿闍梨橋ともいわれる。また江戸時代、この橋を粟田祭の剣鉾が差して渡る『曲渡り』が呼び物であった。京都市」の説明書きがあります。
一本橋① 
 これこれ、この橋を渡ろうとしているサラリーマン氏、修行は終えたかな?
 なに、職場・家庭そのものが厳しい修行の連続であります、とな。
 これは失礼、胸を張って渡られよ。
一本橋② 
 新婚カップルもいます。
 「夫婦の道は一本道!」とばかり、ここを手をつないで渡るのかと思ったら、渡らなかった。
 この日は雨も降ってたからねえ。
新婚カップル 
 さらに下流へと進み、白川南道へ。
 ここには「かにかくに」の石碑があります。
 「かにかくに 祇園はこひし寝るときも 枕のしたを水のながるる」
 「これは祇園をこよなく愛した歌人の吉井勇(1886~1960)が詠んだ一首で、昭和30年、大佛次郎ほか友人たちによって建立されました」と説明書きにあります。
かにかくに碑 
 私は京都出身でありながら、祇園にはついぞ縁のなかった人間なので、この歌に対してはさしたる感慨はありませんが、ひとつの風景としてこの通を味わいました。
白川南道 
 今回私が自分の句よりいいと思ったのは、
 ⑤爪弾きをやめ鈴虫に夜を返す……(3)〇〇。特選が2票、宗匠からの並選が1票。

 琴を弾いていて、鈴虫の鳴き声に気づき、演奏を中止して鈴虫に譲った、という意味でしょう。
 「鈴虫に夜を返す」という表現が粋だと思い、特選に入れました。

 これをつくったのは友人(達人)です。やっぱり。
 彼によると爪弾いていたのは三味線だとか。
 本当かな、本心を隠すために無駄口を叩くことも「三味線」っていうぞ。
 宗匠の評価は、やはり「夜を返す」という表現が巧い、とのこと。

 しかし宗匠が特選で選んだのは同じ達人の句で、
 ⑥老眼鏡あつらへし夜の初みぞれ……(3)◎←宗匠の特選。

 老眼鏡の度もいよいよ合わなくなってきた。「あつらへし夜」と「初みぞれ」の組み合わせが切々たる老境の心情を表現しています、というのが宗匠の評価。
 私はこれにも入れたけど、やはり⑤爪弾きを~のほうがいい。このあたりは好みの問題?
 他には、
 ⑦小春日や鏡のなかのアイウエオ……(2)◎←宗匠の特選。

 この句には意表を突かれました。鏡に向かっての顔面トレーニング。「アイウエオ」が手垢のついてない表現で面白い。(宗匠・評)

 ⑧矢狭間の雪を蹴ちらし鳩の翔つ……(1)◎←宗匠の特選。

 「矢狭間の雪」と「鳩」の取り合わせがよく、きっちりした写生句になっています。雪を蹴ちらし鳩の翔つ、とは合戦の始まりを予感させる緊迫感もあります。(宗匠・評)

 ⑨ポインセチア鏡に晴れやかな私……(4)〇

 これは「ポインセチア」と「晴れやかな私」が効いていて、なかなか良い句です。(宗匠・評)
 (この方は脳の手術で入院していた、とのことで、あとで宗匠から◎に追加)
 私はこの⑦⑧⑨、いずれも採らなかった。
 ⑦「鏡のなかのアイウエオ」とはお調子表現(アン・ドゥ・トロワのような)だと思ったからです。しかしいわれてみると、「アイウエオ」はなかなか面白い。少し見直しました。

 ⑧「矢狭間の雪」といわれても、「矢狭間」そのものがわからないので、パスしました。
 私は選句の際、俳句固有の表現や難しいことばを使った句は最初から排除することにしています。(これは当句会の自己紹介で申し上げました)
 「辞書を引けばいいじゃないか」といわれるかもしれませんが、たとえ辞書を引いて意味がわかったとしても、その言葉自体自分のなかでこなしきれてないので、やっぱり採りません。

 この句に対して、宗匠は「きっちりした写生句」と評価していますが、私は想像句と見ました。
 今の世で「合戦の始まりを予感させる緊迫感」など(ドラマ以外)そう簡単にはないからです。
 むろん想像句が悪いというのではありません。あくまでも好みの問題。

 ⑨「ポインセチア~」は意外に高得票でしたが、私の感覚には合わないので論外としました。
 宗匠にいわせると、「今回は出来がよかった」とのことで、◎特選の大盤振る舞い。
 いつもは1~2句なのに、これはどうしたことか。
 ははァ、今月は12月だから宗匠からのお歳暮か。そう考えるとナットクです。
2014.12.15 十二月の句会
 先日、今月の句会が開かれました。
 今月はひとりが欠席し、人数の少ない句会になりました。

 まず私の句に対する票数。
 ①健さんを気取る鏡の黒ジャンパー(兼題・鏡)……(2)◎←宗匠の特選。
 ②頭巾飛ぶバイク僧侶の師走かな……(1)
 ③マフラーを刎ね上げ臨む尿検査……(1)←宗匠の並選。
 ④永平寺僧の説話に隙間風……(5)
 (出席8名、出句32句、数字は票数)

 なんと④「永平寺~」の句に入った5票は今回の最高得票(トップ賞)。
 自分の句には入れないので、7人中5人が入れてくれたことになります。

 さて、宗匠の評価ですが、
 ①「健さんを気取る」句はあまた出現しました。しかしこの句は黒ジャンパーを着て、鏡でポーズをとっているところが面白い。

 ②は「隙間風」が効いているという声あり。
 しかし宗匠の評価では、このままだと「説話」に隙間風が吹く、と取られて句が小さくなるので、「や」で切ると堂内と説話に隙間風が感じられます、ということで訂正句は、
 「永平寺の僧の説話や隙間風
 なるほど、そのほうがいいのか。

 ③下五に「尿検査」が出てきたのにはびっくりしました。俳句では滅多に使われないことばですが、面白いので並選で入れました。これからも常識にとらわれない素材で詠んでください。

 ④これだと「バイク僧侶」という僧侶と思われかねないので、「バイクの僧侶」にしたほうがいい。それにバイクなので「師走行く」と動きを出したほうがいい、ということで訂正句は、
 「頭巾飛ばしバイクの僧侶師走行く

 そういわれればそのほうがいいような気もするけど、私としてはどっちでもいい。
 というのは私が見たのはバイクではなく、スクーターに乗った僧侶だったから。

 この宗匠は俳句の力はありそうだけど、人間的に軽佻浮薄で失言が多い。(やめてる人もいるし)
 そのため最近は褒められてもあまりうれしくない。
 それよりもみんなからの票が入ったほうがうれしい。
 その意味では今回は(念願の)トップ賞を取ったのだから、素直によろこんでいいはずなのに、なぜかよろこびも今ひとつ。

 その理由は、私の句よりずっといい句があったからです。
 地図にも出ている「ATC」とは、アジア太平洋トレードセンター(Asia & Pacific Trade Center)の略で、住之江区の咲洲(さきしま)に建設した大規模複合施設のこと。「南港ATC」とも呼ばれているそうです。
ATCと海岸通り  
 もともとは貿易の振興施設として大型展示場や会議室などがつくられ、それに娯楽施設などが入ってきたというから、「パシフィコ横浜」に似ています。
 するとここは大阪の「みなとみらい地区」?

 この海岸通りは「オズ岸壁」といってヤシの木が植えられ、まるで逗子マリーナのよう。
 南国の香りがしてなかなかの風情。
ATC・オズ岸壁
 時刻は日没前。太陽は西に傾いています。
 コスモタワーからここを見て思ったのは、この海岸は西に向いているので、葉山の森戸海岸のような、きれいな夕陽が見られるのではないか。

 ということでこの通りをうろうろ。
 クリスタルルームから海を見ると、こんな感じでいい景色です。
クリスタルルームより海を見る 
 「おや?」
 あちこちで写真を撮っている人たちがいます。
 みんな夕陽をバックに撮っています。
撮影する人① 撮影する人②
 夕陽をバックに撮ると、人物はシルエットになって肖像権などさほど問題ではなくなるので、こちらも遠慮なく撮らせてもらいました。
 この写真(↓)は沖に船が見えるけど、人物(家族連れ)がしゃがみこんでしまったので、今ひとつ面白くない。
親子連れ 
 
 高校生の集団がポーズをとって撮影していたので、「もう少しローアングルから撮ったほうが人物が上に伸びてきれいに撮れるよ」と撮った画像を見せてアドバイスしたところ、
 「さすがあ、プロですねえ」と女子高生。
 おだてるでない、プロがこんな小さなコンデジで撮るものか。
 このとき一緒に撮らせてもらったのがこれ(↓)。なかなか決まっているでしょう。
ポーズをつける高校生  

 カップルも撮らせていただきました。
 あるカップルなどは、私が夕陽を撮っているのだと勘違いして、「私たち、邪魔ですか?」
 「とんでもない。むしろおふたりがシルエットになっていい感じですよ」
 こちらは逆に恐縮して画像を見せました。
カップル 
 すると男性はにっこりして、「なるほど、見事やねえ。フォトコンテストでもいけますねえ」
 大阪の人はやさしいなあ。

 ちなみにこのシルエットは日没前だから撮れるので、日が沈んでしまうと(オートの機能上)カメラが勝手に光を補整するのでシルエットにならず、なんの変哲もない写真に(↓)なりました。これは余計だった?
日没後 
 夕陽の写真だけではなく、大阪の人と話ができたことも大きな収穫でした。
 天保山マーケットプレースから次に行きたかったところとはATC(トレードセンター前)。
 ここへ行くには地下鉄中央線のコスモスクエア駅でニュートラムに乗り換える必要があります。
 このニュートラムは無人運転。横浜のシーサイドラインに似ています。
無人運転のニュートラム 
 ここにコスモタワー(大阪府咲洲庁舎展望台)という高い塔があるのを知り、行ってみたくなりました。

 1階から52階までエレベーターで一気に。そこからはエスカレーターで展望台に上がります。
 高さ252mというから、新梅田シティのスカイビル(地上40階/173m)よりは高い。あべのハルカス(地上60階/300m)には負けますが。
展望台入口 展望台へのエスカレーター
 展望台に上ってみると、「見える、見える!」、なかなかの眺めです。
 まず北方向。北港が見えます。
北・北港 
 北東には先ほどまでいた天保山。天保山大橋と大観覧車が見えます。
北東・天保山大橋と大観覧車 
 東方向には湾岸線と赤くて長い橋が見えます。港大橋です。
東・港大橋 
 南方向はかもめフェリーターミナルなど。
南・南港フェリーなど 
 南西は倉庫街。
南西・倉庫街 
 そして西側。遠く明石海峡大橋が見えるそうですが、このときは逆光で見づらかった。
 しかし手前に大きな貨物船が停泊しているのがみえました。これは北埠頭。
 さらに倉庫街を挟んだ右側は南港野鳥園。
西・北埠頭と南港野鳥園 
 これを撮っているうちに、あることに気づきました。
 下の岸壁に行けば夕陽が見られるのではないか。
西側の足元 
 そう思うと矢も盾もたまらなくなり、展望台を降り、ATCの岸壁に向かいました。
 天保山公園が横浜の山下公園なら、その南西側にある天保山マーケットプレースはクイーンズスクウエアではないか。
 近くに大観覧車があり、大きなショッピングモールがある。
 そのため、初めてきたという感覚はなく、すぐに溶け込めました。
天保山マーケットプレース 大観覧車
 広場では大道芸をやってました。(この日は土曜日)
 これも見慣れた光景。観客は横浜に比べると少ないけど、パフォーマーは一所懸命。
 そのいじらしさが伝わってきました。
大道芸 
 マーケットプレースの外側は天保山埠頭。
 素晴しい眺めです。観ていて飽きません。
 埠頭の内側は倉庫街。これも山下埠頭で見慣れた光景です。
天保山埠頭 天保山埠頭の倉庫街
 「おや?」
 壁面に妙な図柄。黒と白の縞模様ですが、よく見ると人の横顔に見えます。
 「歓迎 WELCOME」と銘打ったこの絵はグラフィックデザイナーの福田繁雄さんのデザインによるもの。
福田繁雄作・歓迎 
 さらに岸壁に沿って南西に進むと大きな船が停泊しています。サンタマリア号。
 大阪港周遊の帆船型観光船です。(乗船料1600円)
 サンタ・マリア号といえば、1492年コロンブスがアメリカ大陸に上陸したときに乗っていた船。
サンタマリア号 
 そんな恐れ多い船で大阪港を周遊できるとは。
 乗船料もけっして高くないし、大いに惹かれましたが、他に行きたいところもあったので、これはまたの機会にして、マーケットプレースのなかに入りました。
なにわ食いしんぼ横丁 
 なかはふつうのショッピングモールなので、それほどの妙味はありませんが、いかにも大阪らしいと思ったのは飲食街の「なにわ食いしんぼ横丁」
 ちょうど腹も空いていたので、ここの「まぐろ屋・天」という店でねぎとろ丼を頼みました。
ねぎとろ丼 
 美味かったです。
 横浜はもちろん、横須賀や三崎など、港好きの私は大阪の港も見てみたい。
 そこで「築港」といわれていた天保山にやってきました。地下鉄中央線・大阪港駅で降ります。
天保山岸壁 
 おッ、ここは……。
 まさしく波止場。しかも昔の横浜の光景。
 今の横浜の港はオシャレな観光地に様変わりしましたが、変わってないところがいい。
 右手に天保山大橋が見えます。
天保山大橋 
 天保山は天保2年(1831)安治川の川浚(さら)いをした際、その土砂を河口に積み上げてできた築山のことで、当時は20mほどの高さがあったそうです

 「川浚えの土砂を積み上げてできた天保山は、夜間航行の便をはかって高灯籠を設けるなど、船舶入港の目印とともに遊興地としても整備され……冬の雪見、夏の遊船るいは和歌俳諧の会合など遊覧船で賑わいました」と解説され、「浪花天保山風景」の絵が公園入口に掲げてあります。
天保山の錦絵 
 幕末になって大阪湾防衛の理由でここに砲台が築かれたものの、一度も実戦には使われず、明治になると洋風レンガ造りの灯台が設置され、山の高さは7.2mになりました。

 その後は港湾の整備が進み、付近一帯は「築港」と呼ばれるようになり、昭和33年(1958)に天保山公園が開設。
 しかし高度経済成長後、地下水のくみ上げで天保山周辺の地盤沈下が起こり、1971年(昭和46年)に7.1mだったのが、昭和52年(1977)には4.7mまで標高が低下しました。
 その後少しずつ下がって現在では4.53m。「日本一低い山」になりました。(実際は2位)
日本一低い山の標識 
 公園の北側に「日本一低い山」の標識があります。
 「これがそうだよ」と公園整備のおじさんが指差したのがその手前、敷石のなかの×印。
 なるほど、これがその地点か。

 とはいえあまり面白いものではない。写真は撮ったけど、地味だし。
 そう思って所在なさげにしていたところ、「対岸に行く船があるよ」
 なに、船?
天保山渡船場 
 なるほど、近くに「天保山渡船場」があります。
 ここ天保山から対岸の桜島を結ぶ約400mを船で渡ります。時刻表を見ると30分毎。しかも無料。これはありがたい。
 浦賀(横須賀市)の渡し船は150円取られたぞ。ええなあ、大阪は。

 待合室にいたときは2、3人だったのに、船が着くと急に人が増えました。
 自転車の人が多い。しかも外国の方。観光客というより、生活の足にしているようです。
船に乗る人々 
 おおッ、なかなかの絶景!
 こちらは港の情景をパチリパチリと撮っているけど、彼らは珍しくもなさそう。
船から見る大阪港 
 この渡し船は明治38 年に開設され、紆余曲折があって市の建設局が運営するようになりました。1日平均約900人が利用しているとか。
船内の様子 
 対岸の桜島に着きましたが、「USJ」(ユニバーサルスタジオ・ジャパン)があるだけで、用のない私にはあまり面白くないところ。
 結局30分時間をつぶして、再び船に乗り、天保山にもどりました。
2014.12.09 今月の出句
 今月も俳句会があります。
 相変わらず駄句を連ねておりますが、今月は兼題が「鏡」とあって、
 「鏡見るどこの杣人(そまびと)冬帽子」→①「杣人か鏡の向ふの冬帽子」
 という句がすらりと出てきました。
 杣人とは樵夫(=きこり)のこと。冬用の帽子を被って鏡を見たら、樵夫に見えたという意味です。

  次に、②「マフラーを刎ねて臨みし俳句会」
 句会に臨むときは否が応でも気合が入る。その気持ちを、長いマフラーをビシッ刎ね上げる動作に託しました。

 ③「頭巾飛ぶバイク僧侶の師走かな」
 これは昔、故郷の京都で見た光景です。
 当時はヘルメット着用の義務はなかったので、僧侶は頭巾を被ったままスクーターに乗って、檀家回りをしていました。その僧侶がスピードを出しすぎて頭巾が飛んだ光景を目撃しました。
 そのときは師走ではなかったけど、僧侶が急いでいる様子を師走の風物詩として詠みました。

 コートを使った句をつくりたかったので、
 ④「郷帰りコートの襟をそっと立て」
 里帰りしても知ってる人には会いたくないので、コートの襟で顔を隠すという意味です。

 隙間風を使った句もつくりました。
 ⑤「徹夜して膝の痛みし隙間風」
 ⑥「兄弟で酒酌み交せど隙間風」
 ⑦「父親の通夜の宴や隙間風」
 ⑧「本堂の僧侶の読経や隙間風」

 <推敲>
 ①は杣人ということば自体がなじめないので、あまり気乗りがしない。そこで先日亡くなられた「健さん」を使おうとして、①’「ジャンパーの襟立て鏡の健さん風」
 しかし、「健さん風」はちょっと苦しい。そこで……。

 ②は俳句会というのが当たり前すぎて面白くない、と考えていたところ、尾篭な話で恐縮ですが、小用を足そうと前に垂れた長いマフラーを後ろに刎ね上げたとき、「これだ!」
 ②’「マフラーを刎ねて臨みし立小便」
 しかしこれではあまりに下品なので、いろいろ考えていたら「尿検査」が浮かびました。
 マフラーをビシッと刎ね上げ、気合入れてコイツは何に臨むのだ、と思ったら尿検査。
 そのガックリ感が面白いのではないか。
 採尿済み 
 ③はこれでいいのではないか、と思いました。

 ④⑤⑥⑦はまったく面白くないので、バッサリ切り捨てました。
 しかし「僧侶の読経や隙間風」は脈があるのではないか。
 そこで場所を具体的に「永平寺」にし、読経ではなく「説法」にしました。
 永平寺(福井県)は観光客にまで僧侶が説教するお寺。その説教もちっとも面白くない。そこで「隙間風」をかけました。

 ということで、今月の出句は、
 ①健さんを気取る鏡の黒ジャンパー(兼題・鏡)
 ②マフラーを刎ね上げ臨む尿検査
 ③頭巾飛ぶバイク僧侶の師走かな
 ④永平寺僧の説話に隙間風
 の四句です
 4人は正門前に集まりました。
 「できれば校舎を見たいんやけど」
 しかし門は閉じられ、母校のなかに入ることはできません。今はどこも厳重になっています。
 そこでOさんが呼び鈴を鳴らし、「大昔の卒業生ですけど、ちょっとなかを……」
母校の校庭 
 ひとりの先生が出てきました。「あら、〇〇先生……」
 孫が通っているので(三世代)、Oさんにすれば勝手知ったる母校。
 彼女のおかげで少しの間だけ校舎に入ることができました。
 「校舎の位置が変わったんやな」
 「校長室はあのままやった」
 「運動場も狭いと感じるなあ。こっちが大きくなっているからやけど」
 そんなことをいいながら通りを東に歩き、京大のキャンパスに入って、カフェテラスでティータイムをとりました。

 「紫蘭会館は京大関係者だと安くなるから、聞いてみるわ」
 Oさんは元京大職員とのことで、なにかと役に立ちそう。それと母校の見学にも。
 そしてクラスの幹事を決めねば。
 「3組はT君、我われのクラス(1組)はB君かK君、2組はまだ決まってないけど、Nさん(旧姓)に当たってみるわ」
京大キャンパス 
 ここで私、重大なことに気づきました。
 彼らは<役>をやらされることは極力嫌う。しかし具体的に「これやって」「あれやって」と仕事を頼むとやってくれる。京都人の扱い方はこれか!
 この年になってやっと京都人の扱い方がわかりました。
 みんな(元学級委員も)完全な指示待ち人間。気は小さいけど、心根はやさしいのです。
 ちなみにその後の集計では、
 参加したい……30、 どちらともいえない……6、 参加しない……4、  未回答……7
 圧倒的に<参加したい>が増えましたが、これは集団のなかで書いているから、いく分バイアスが掛かっている?
 これを丸々信じていいものかどうか。
 あとはT君に頼んで他の同窓生の連絡先を教えてもらい、<参加したい>が40人ぐらいになれば踏み切ってもいいかな。
 このあとみんなと別れ、出町柳から叡電に乗って茶山にある同窓生のお好み焼き店へ。
 今回のアンケートなど世話になったので、そのお礼です。
 頼りにしていたT君、取手のご仁はこなかったけど、女流画家と、彼女を引き合わせてくれたM君、電気屋のY君がきてくれました。
 女将(小学校の同窓生)からは、
 「前から同窓会やってほしいと思ってたんえ。そんなときに辻さんからアンケートがきて、うれしゅうてうれしゅうて、みんなに声かけたんや」
 えらく感謝されました。
同級生と 
 私としては「同窓会やりたければ、自分たちでやればいいじゃないか。誰かが旗上げるのをただ待っているだけか」との思いですが、これが彼女としては目いっぱいの尽力。受身的だけど、京都人がいじらしく思えてきました、

 こうなったら、オレが音頭とってやったるわい。
 一時はB君に対して不信感を抱いたこともあったけど、今日きてくれたことでじゅうぶん。
 これからは同窓会実現のために粉骨砕身しようと思いました。
 中学校の同窓会は三次会まで参加しました。
 これについては別の項で述べますが、午後7時過ぎにみんなと別れ、アルコールも抜け切らぬまま、会場近くの宿に着きました。浴衣に着替えて今日こなかったOさん(女性)に電話。
東一条 
 「くると思ってたら、こんかったやんか。けっこう盛り上がったで」
 「みんなには会いたいけど、最近は行くと役やらされるから、行かへんねん」
 「またそれや。役やったらええやないか。京都の人間はズルイなあ」
 「そんなこといわんといてえな」
 そんな会話からはじまり、明日の午後1時、四錦の正門前に集まって、通学路を散策したあとティータイムを持つ旨を伝えました。
 「わかった。行けたら行くわ」

 またしても、行けたら行く、か。重宝なことばだ。
 これを断りのことばとして連発していたら、関東では確実に嫌われるけど、京都では通用するらしい。
 なんというところだ。
 翌日(12/01)は朝から雨。だんだん激しくなってきて、清水寺にいるときは舞台もかすむほどの大雨になりました。と、私の携帯に呼び出し音。T君です。
 「ごめん、用ができて行かれんようになってしもた」
 最も頼みにしていたT君が……。
 ガックリきました。なんだかんだ口ではいいこといっても、結局はこれか。

 まあしょうがない。彼らの不実を責めるよりも、こっちに人徳がないということ。
 そもそも私のような者が同窓会の旗上げしても、ついてくる人なんていないから。
 それにこの大雨だし、誰もこないことは目に見えている。それもオレらしい、か。
レストラン紫蘭 
 早めに東一条に着いたので、会場候補になっている「紫蘭会館」を訪れました。
 そこで料金システムや料理、予約状況などを教えてもらい、母校の四錦に向かいました。

 「おや?」
 正門の斜め向かいの民家の軒下に見たような顔。
 B君です。忘れもしない、8月17日電話でやり合って、「そっちでやって」と名簿を投げつけてきた件の人物。コイツのおかげでこちらは孤独な作業をやらざるを得なくなった。(参照
 しかしこのとき私は「きてくれたんだ」と感謝の気持ちでいっぱいになりました。
紫蘭会館ロビー 
 さらに……。
 目の前に現れた小柄な女性。昨夜電話したOさん。「行けたら行く」といってたけど、実際にきてくれた。もっとも彼女は母校のすぐ近くに住んでいます。
 そして、同じクラスだったK君。彼も学級委員をやってました。
 正門前にきてくれたのはたった3人だけど、私としては「よくきてくれた!」との思い。
 胸が熱くなりました。
 私が考えていた同窓会の構想は、母校(四錦)の正門前に集まって(35名ぐらい)、なかに入らせてもらって、現在の校舎を見学しながら当時の学び舎を偲び、そののち会場に入る、というもの。したがって会場は母校の近くが望ましい。
 そう思っていたところ、T君から、
 「それなら東一条の『紫蘭会館』がいいのではないか。ここのレストランなら雰囲気はいいし、料理もいい。母校に近い」との提案を受け、「紫蘭」に決めました。
会場のある京都駅
 中学の同窓会当日。
 T君とは受付30分前にポルタ(京都駅地下街)の喫茶店で打ち合わせをしました。

 私の懸念は京都に拠点がないこと。
 京都の母校で、京都の同窓生が大半で、しかも会場は京都。
 埼玉の田舎から同窓会の案内を出し、出欠を回収するというのは不自然であり(不審がられる?)、会場との連絡などでなにかと不便ではないか。
 これに対してT君は、
 「拠点なんてとくに必要ないと思います。辻さんが同窓会を発起されたのだから、代表は辻さん。案内状の発信も回収も埼玉で問題ない。ただし会場との連絡は京都の人間がやります」

 それにクラス代表の幹事を決める必要がある。
 これには今日の機会を利用して四錦生だけで会合を開く必要があるけど、それは中学の同窓会なので気が悪い。
 そこで翌日集まって決めたい。
 しかし私はこれまで京都の同窓生と連絡を取り合うなかで、「同窓会はやってほしい。しかしなんらかの<役>をやらされるのはご免」というスタンスを散々思い知らされました。
 そこで会議ということではなく、「プレ同窓会への誘い」と銘打って、下見を兼ねた母校周辺散策→ティータイムの勧誘文を急遽つくり、アンケートと同時に配布することにしました。

 会場では同窓会の受付が始まりました。
 私はT君の紹介で代表幹事(U氏)に会い、四錦同窓会計画の主旨を説明しました。
 「そういうことなら……」と彼は快諾し、「フリータイムの終るころに四錦生の集まる時間をとりましょう」
テーブル毎の撮影
 そうこうしている間に中学の同窓会が始まり(参加101名)、懐かしい面々と雑談の花が咲きました。
 「お前、どうしてん。以前はむっつりしとったけど、えらい愛想ようなったやんけ」
 「うん、大怪我してからキャラが変わったんや」
 「なんやそれ」
 「人生観も変わってな。人のよろこぶことをしたい、と思うようになった」
 「ええこっちゃ。それこそまさに怪我の功名や。はははは」
 学級委員をやっていたY君とそんな会話を交わしました。

 宴もたけなわになって、「辻さん、出番や」と呼ばれ、マイクを持たされました。
 「えッ、ここでしゃべるのか」
 一瞬頭が真っ白になって、「辻です。埼玉からきました……」といい始めたところ、T君から「違う、違う。四錦生だけ外へ出るようにいって」

 あわてて四錦生(25名ぐらい)を外に出して、説明しようとしたら、「時間がない」ということで、いきなりアンケートを配り、翌日の集まりについて手短に説明しました。
小学校の同窓生
 ふーッ。バタバタしたけど、一応こちらの主旨はみんなに伝えた。あとは彼らの意見の回収するのみ。
 これにはCさん(お好み焼き店の女将)の協力を得ました。

 そして翌日の集まりに対するみんなの答えは「行けたら行くわ」
 行けたら行く、か。
 私はこれまでの京都人とのやりとりで、これが婉曲な断りのことばだと痛感しています。
 関東ではこういういい方はあまりしません。行けないときは「行けない」とはっきりいいます。
 アメリカ東部に住む従姉にいわせると、「相手に期待を持たせるような断り方と、<役>をやりたがらないのは、京都人のお公家さん体質」とのことです。

 ともあれ賽は投げられた。
 何人くるかわからないけど、「行けたら行く」という京都人特有のことばがどれほどのものか確認するためにも翌日現地に行くしかありません。
2014.12.05 浪速の黄葉
 大阪府のシンボルの木はイチョウ(公孫樹)。そのため街路樹のほとんどはイチョウ。
 秋になるとこの町は至るところ黄一色。なかなか見事です。

 ①御堂筋
 ここの並木は大阪を代表する景観。
 この日は雨でしたが、雨に濡れたイチョウも風情があります。
御堂筋① 御堂筋② 日本銀行大阪支店の前

 ②大阪城・お濠端

 お濠端に植えられているのはやはりイチョウ。
 ここでも走っている人を見かけました。この日は雨でしたが、それでも黙々と走る、走る……。
 ご苦労様です。
大坂城のお濠端 お濠端の公孫樹落ち葉

 ③大阪城公園
 イチョウはお濠端だけではなく、城内にも。ここも黄一色でした。
大坂城公園① 大阪城公園②  

 ④天保山公園
 大阪のウォーターフロント?
 天保山とは天保2年(1831)安治川の川浚(さら)いをした際、その土砂を河口に積み上げてできた築山のことで、当時は20mほどの高さがあったそうですが、今は標高4.53m、日本一低い山として認定されています。
天保山公園① 天保山公園②
 その公園もイチョウ。
 大半は落葉状態でしたが、それもなかなかの風情です。


 ⑤港住吉神社
 天保13年(1842)航海や漁労の安全を祈って祭られた住吉大社の末社です。
 当初は天保山の上に建てられましたが、大正6年現在地に移転しました。
港住吉神社の参道 
 神社は公園の奥にあって、参道は銀杏並木。
 ここもイチョウか、という感じで、大阪とイチョウの木は切っても切れない縁のようなものを感じました。
2014.12.04 古都の紅葉
 ①清水寺
 ご存じ清水さん。舞台から見た紅葉が素晴しい。見ていると紅葉の海に飛び込みたくなる?
清水の舞台 清水の舞台から見た紅葉

 ②高台寺
 ご存じ、ねねさん(北政所=豊臣秀吉の正室)縁のお寺。大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ関が原合戦。ねねさんの影響は大きかった。その理由は……。
高台寺の参道 高台寺の境内

 ③円山公園
 桜の名所ですが、ここの紅葉も見事です。
円山公園① 円山公園②

 ④渉成園
 真宗大谷派の本山・真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地。国六朝時代の詩人陶淵明の「園日渉而成趣」の詞にちなむそうです。周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)と呼ばれています。
印月池の紅葉 回棹廊 逆光で見る紅葉

 ⑤光明寺
 京都府長岡京市粟生にある寺院。西山浄土宗の総本山。法然が初めて「念仏」の教えを説いた地です。
 法然を慕い帰依した、弟子の蓮生(熊谷直実)が、建久9年(1198)当地に、念仏三昧堂を建立したのが始まりとか。
 のちに法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂を建てたとき、法然の石棺からまばゆい光明が発せられたことから、光明寺と名づけられました。
境内の紅葉 紅葉の絨毯
 紅葉の名所です。
 行ったときは散紅葉の状態でしたが、それもまた風情があります。