2014.11.30
現在、関西旅行中のため、ブログは休止します。
本日は中学の同窓会。
記事の更新は帰ってからになります。
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 T君とはクラスが違い直接面識はないのですが、人づき合いがよく、中、高の同窓会には必ず顔を出し、幹事の経験もある人物です。
 彼はこのとき「K」というお好み焼き店から電話をかけてきました。
 というのもここの女将が同窓生で、彼女にもアンケートを送ったからです。
晩秋の北白川通り 
 この日T君は友人と飲みにきて、女将から「こんなんきてるえ」と同窓会の是非に関するメッセージを見せられ、「自分も参加したい」と飛びついてきたというわけです。
 もちろんこちらも大歓迎。

 彼は勤めの傍ら能面を打つのが趣味で、こんな写真を送ってくれました。
 これは今春、彼が出品した作品。左は「逆髪(さかがみ)」。右は「不動」。
逆髪ー正面 『不動』 正面
 なかなか見事なできばえです。当人はこれでもまだ不満足らしいけど、どこが悪いのか、私のような素人にはよくわかりません。

 その彼から次のような提案をされました。
 「小学校の同窓会のアンケートや住所録の件、中学の同窓会の際に私もCさん(お好み焼き店の女将)と協力して配布しますから、一網打尽作戦で行きませんか」

 それはいいけど、発起人の私としてはふんぞり返っているわけにはいかず、各クラス(テーブル)「アンケートのご協力、よろしくお願いします」とあいさつに回ったほうがいいのではないか。
 それを彼に伝えたところ、
 「それだと時間がかかるし、クラスで盛り上がっているところへ行くと、水を差すことになるかもしれん。ここは代表幹事の承認を得て、我われの学校だけ5分間ほど集まって、という形を取ったほうがいいのでは」

 なるほど、そういうことができるなら、そのほうがいい。
 彼は最初に中学の学年同窓会を手がけたことがあり、同窓会のノウハウには詳しい、それに今の代表幹事とも親しい。
 願ったり叶ったりの強力な助っ人です。
 
百万遍

 ちなみに例の「手紙作戦」はその後、他の同級生のあて先を教えてもらって全部で27通出しました。
 あて先不明で戻ってきたものが4通ありましたが、回答を集計すると、
 参加したい……11、 どちらともいえない……4、 参加しない……3、  未回答……5

 うーん、これが中学の同窓会ではどのような結果になるのか。
 こうなればそれに任せるしかない、と考えました。
 同窓会について、「過去を振り返ることより、これから如何に過ごすかに関心がありますので、貴君の計画する同窓会には参加しません」と返答された方がおられました。

 そういう考え方もありますが、私は違います。
 20年ほど前のアメリカの心理学者の実験で、当時50代の男性数名を彼らの若いころ(1950~60年代)流行った家具やポスターなどを室内に配し、当時のポップス音楽が流れている環境に数日間合宿させたところ、記憶力や判断力など脳の働きや身体能力が上がり、身長や指の長さが伸びたというデータがあります。
 同博士の結論は「昔のことを思い出すことによって脳が活性化され、それが身体の機能にいい効果をもたらすのではないか」とのこと。(ディーパック・チョプラ「エイジレス革命」講談社)

 これと同じような効果が得られるのが同窓会です。
 私は27年前に中学時代の同窓会に参加したことがあります。
 みんな顔を合わせたとたん、互いに「おおーッ」と声を上げ、「お前、なにしてんねん」といい合い、ワァワァと取りとめもない話が尽きず、気持ちはすっかり中学生にもどっていました。
 このように同窓会というのは、心身ともに若返りの効果があるのです。
 さて、名簿を送られた当方ですが、いつまでも途方に暮れているわけにはいかない。
 今の自分にできることは、この名簿をもとに手紙を書くことしかない。
 そう考えて知っている人を中心に、中学の同窓会で配る予定のアンケートと、こうなった経緯を述べたメッセージを郵送しました。
 メッセージには相手のエピソードを交えてのもので、一人ひとり違う文面です。
 公平の原則には反しますが、まだ何もないところから公平性を考えてもしょうがない、個人の心をつかむにはこれしかないと思いました。(最初に出したのは20通ほど)
当時の通学路 
 2週間ほど経ったころからポツポツと返信が届きました。
 圧倒的に女性のほうが協力的。
 他の同窓生の連絡先を書いてくれた人もいたし、アンケートの回答以外に近況を連綿と綴られた便箋や、「ていねいな説明と写真を送っていただきありがとうございます」「お世話になります。くれぐれもご自愛ください」など、感謝と激励の手紙が寄せられていました。
 これはうれしかった。これでどんなに勇気づけられたことか。
 *
 アンケートの最初は、「同窓会について」(参加したい・どちらともいえない・参加しない)の項目ですが、「参加しない」が3人いました。
 そのうちのひとりは、その理由として「当時の友だちがいない。顔が一致しない。自分的に盛り上がらなさそうに思う」と答えました。
 たしかに目立たない人で、3年間同じクラスでありながら、会話を交わした記憶はありません。
 近況のところには「スーパーのNに勤め、転勤で大阪→東京→愛知→岐阜→東京→H市(茨城県)とまわり、H市で退職し、20年ここに住んでいます」と書かれています。
 これはこれで誠実な回答だと思いました。

 しかし……。
 回答を寄こさない人間もいる。これはどういうわけか。
 こちらはいきなりの手紙でアンケートに協力してもらうのだから、失礼のないよう返信用の封筒にこちらのあて先を印字し、切手まで貼っている。それなのに……(回答拒否?)。

 とくに私の近所に住んでいた友人には、「帰りはいつも一緒だったよね。君の話は知的で面白く、楽しかった」などと書いたのですが、まったくのナシのつぶて。
 こちらが一方的に「親しい」と思っていただけか。(これも私にはよくあることです)

 これを手がけてからというもの、女子の手紙でよろこんだり、薄情者の仕打ちにガックリきたり。悲喜こもごもの日々でした。

そんなある夜、Tという人物からいきなり電話がかかってきました。
「小学校の同窓会を計画してるんだって? ぜひ、ぼくも参加させてください」
 私には昨日の同級生S、Kの他に、もうひとりMという同窓生がいます。
 Mとはクラスは違いましたが、近所なので学校から帰ると日が暮れるまで遊びました。
 しかし高校は別々になり、顔を合わせることはなくなりました。
 その後、私は進学で上京し、こちらで家庭を持ちました。

 子どもができて里帰りしたとき、二度ほど立ち話しました。ふたりとも子持ちになってました。
 しかしその直後、彼は転勤で家族ごと九州へ行ってしまいました。
 これでもう一生会えない。

 ところが5年前、「おう、元気か。ワシや」
 聞けば10年ほど前から、千葉県A市に住んでいるというのです。
 いらいMとの交流が復活しましたが、彼の消息を探し出し、私たちを結びつけてくれたのがN君(故人)でした。
 今年6月になって郷里の同窓生でもある某写真家により、茨城県T市に住む同窓生のA君と連絡が取れるようになりました。
 A君とは小、中、高と同じクラスになったことは一度もなかったのですが、高校のときいくつかの教科で一緒になり、そのときの仲よしグループの一員でした。
 7月初旬に新松戸で再会し、いろいろ話しているうち、彼は小学校のときA市在住のMと同クラスだったことがわかりました。

 「こうなれば両者を引き会わすしかない」
 ということで、A君とM君、さらに武蔵野に住むSとお茶の水で一堂に会しました。(07/31)
 「おう、おう」
 思わぬ再会に握手を交わす3人。
 彼らのよろこびはしゃぐ顔を見て、こちらもうれしくなりました。
母校② 
 登場人物が多くて話がややこしくなりましたが、60代も半ばをすぎると、それまで途絶えていた人間関係の回路が(運命の綾?によって)復活するといいたいのです。
 一方京都の元学級委員(暫定幹事?)であるA、B両君とは、4月の高校の同窓会以降メールで交流することになりました。
 こちらは知っている限りの同級生の連絡先を教えたり、関東での会合の様子、そこで話し合われたことなど逐一報告しました。
 ところが……。

 彼らからの返答は一切なし。正確にいうと5月18日いらいまったく返答がありません。
 7月31日お茶の水で会ったとき私のつくった(同窓会の是非を問う)アンケートを3人で検討し、「これを中学の同窓会で配り、その場で回収したい。回収先はB君」と送ったのですが、それもまったく返答がない。

 「変だな」
 いくら私が世情に疎くても、「何かおかしい。無視されているのではないか」ぐらいの疑念は抱きます。
 そこで8月17日(日)B君に電話しました。すると……。
 「約束が違う」「ぼく、かなんねん(かなわない)」「いややねん」の連発。

 約束が違う、とは当初「6年卒業当時のクラスで」といったのですが、関東にいるのは他のクラスが多く、他の関西の同窓生からも「みんな何かとつながりがある。一クラスだけというのは意味がない。やるなら全クラスで」という声が強い。私もその通りだと思いました。
 「今さら一クラスだけに固執するのはおかしい」
 そう反論したのですが、、
 「学年全体なんて、荷が重い。ぼく、かなんねん」
 「今さら関係ないよ。一クラスであろうと全体であろうと。それにB君なら顔が広いし、みんなOKするで」
 そういっても「いやや。荷が重い」の一点張り。さらに「ぼく、仕事もあんねん」

 「そういわずにやってよ」
 「いやや。かなん」
 そうした押し問答をくり返し、最後はややヒステリックな口調で、「もう、そっちでやって」
 とクラスの名簿を(メールで)投げて寄越しました。

 3ヵ月間こちらを黙殺した挙げ句がこれか。
 なによりも信頼していたB君に降りられたことにガックリきました。
 それにこんなもの送られても……。この先、どうすればいいのだろう。
 途方に暮れました。
 もうすぐ(11/30)中学の同窓会が行われます。
 郷里には数人の友人がいて、再会を楽しみ(?)にしているヤツもいるので出席します。
 それに、もうひとつ私には別の目的があります。
 小学校の同窓会を実現したい。
 私の中学は三つの小学区で構成されていますが、他の小学校は結束がよく何度か同窓会が開かれ、何かにつけて卒業生が会合を持っているのに対して、わが小学校は何の結束力もなく、同窓会は皆無でした。
母校① 
 それはそれでいい。
 私には小学校の同級生で、上京してからも交流し続けてきた友人がふたりいます。
 ひとりは武蔵野市に住む元女子高教師<S>、もうひとりは兵庫県に住む元電気技師で今は農夫(?)の<K>。
 武蔵野市のSとは年に1~2度、兵庫県のKとは彼が上京してきたときに3人で会うようになりました。
 昨年などは3人で晴海の海員会館に一泊してベイエリアを散策しました。
 これが非常に面白かったので、「またやろう、次回は横浜で」ということになりました。
 今年4月に高校の同窓会でAとB、ふたりの小学校の同級生と再会しました。
 「おう、〇〇君やないか、久しぶり」と声をかけているのに、ふたりともまったくわからず、「えッ、誰?」
 「辻だよ、薄情なヤツだな」
 といってようやく「ああ、辻君か」
 (こっちが覚えているのに向こうは覚えてない、ということがよくあります)

 A、B両君は当時学級委員をしていただけに、その後も同級生の消息を知っているようで、こちらの知らなかったこと(物故者の情報も)を教えてもらいました。
 そこでこちらも「SとKとは今でも交流あるんやで」
 すると「えッ、SとKと連絡取れるんか」
 ふたりの目が急に耀きました。

 無理もない。Sは中高は私立、Kは高校は工業高校に進んだため、連絡が取れなくなったようです。
 そこで「小学校の同窓会やろうや」
 ということで、A、B両君と連絡を取り合うようになりました。
 川越散策の市街地から西へ約2kmの川越水上公園。
 前回行ったのは夏の終りごろでしたが、今回は晩秋。木々の紅葉が見事でした。
水上公園 
 湖畔に植えられた木はメタセコイアです。
 スギ科の木だけあって、真っ直ぐ伸びています。
メタセコイアの木 
 池ではボートに乗る人が……。
 前回きたときは暑かったからボートなど乗る人はいなかったけど、今回は賑わっていました。
ボートに乗る人 
 圧倒的にスワン型ボートが多い。
 これ、私も乗ったことがありますが、前へ進めるには絶えずペダルを漕がねばならず、これがけっこう面倒くさい。しかもふたりで力を合わせる必要がある。
 パートナーが小さい子どもだと全部こちらに比重がかかってきて、重いのなんのって。
 このお父さん、苦労してますね。
スワンボート 
 私はほとんどオールのボートでした。
 高校時代、Kという友人と宝ヶ池でさんざん乗ったから、慣れたものです。
 子どもが生まれてからは、井の頭公園でよく乗りました。
ボート親子 
 おっとこの親子、危ないなあ。
 オールの使い方も父親の位置も違っている。ちゃんと教えてやれよ。
 私はこの子ぐらいのときからわが子にはちゃんと教えました。
 「大きくなったら、彼女とボートに乗るとき役に立つぞ」とよけいなこともいいましたが。
イチョウの黄葉 
 この公園はあちこちにアスレチック器具が設えられ、テニスコートや釣り場まであります。
 運動公園?
 だったらなおのこと、ボートの漕ぎ方ぐらい教えてやれ。
アスレチック器具 
 喫茶店もあります。
喫茶店 
 一昨日(11/21)は取手市に住む友人と川越散策をしました。

 「川越の街は30年ほど前から電線を地下に埋めて、観光誘致に成功したらしい」
 友人のいう通り、蔵造りの街のメインストリートの電線は地下に埋められたので、すっきりした景観でレトロな雰囲気が味わえます。
蔵造り一番通り 
 「それだけやない。電気、水道、ガスのライフラインの工事も一括するようになって、予算の削減に成功したとも聞いたで」
 彼は行政の事情にも精通しているようで、他の都市ではいかに無駄なことをしているか、縷々説明してくれました。

 というわけで、最初に行ったのは蔵造り一番街。川越のメインストリートです。
 通りに電線がなくて景観はすっきりしているのですが、彼をうんざりさせたのは車の多さ。
 「うーん、これが玉にキズやなあ」
 この通りは県道川越・栗橋線という幹線道路でもあるので、車の通行量が多いのはたしかなのですが……。
 市としてもいろいろ考えたのですが、今のところ妙案はないようです。
友人 
 時の鐘にやってきました。
 「ここが有名な時の鐘か。みんな写真撮っとるなあ」
 と彼もパチリ。
 
時の鐘通り 時の鐘を撮影する友人
 ちょうど昼飯どきだったので、その近くの豆腐料理店で、豆腐の盛り合わせご飯を。
 ざる豆腐やごま豆腐、いろいろ種類が豊富でけっこうなお味でした。
豆腐定食 
 蔵造り資料館では昔の火消し道具や、家具などを見学。
 ここからも「時の鐘」が見えたので、撮っときました。
当時の火消し道具(蔵造り資料館) 蔵造り資料館から見る時の鐘
 このあと、菓子屋横丁に寄りました。
 昔こんなお菓子あったな。懐かしい」
 といいながらも写真撮るだけで、買う気はなし。
 「日本一長い麩菓子」に関しても、見ただけで通りすぎました。
菓子屋横丁 
 このあと成田不動尊別院や喜多院にもまわりました。
 「ここは正月になると混むんやで。お参りするだけで長蛇の列や」
 「そうやろなあ」

 ここで列の並び方について県民性、国民性によっても違うとお互い薀蓄をひとくさりしましたが、話が長くなるので省略します。

 この様にいろんなことを話しながら、勝手知ったる川越を散策するのも実に楽しい。
 ひとりでは味わえない面白さがありました。改めてこの友人に感謝です。
 私の句はともかくとして、今回は他流試合ということもあって、なかなかいい句が揃いました。

 最高得票を得たのは、
 ①合掌し海を見ている枯蟷螂……(5)〇〇〇
 ②漱石の「猫」が添い寝の夜長かな……(5)〇

 票数は同じですが、①のほうが特選が多い。
 私はどちらにも入れましたが、特選で選んだのは②のほう。
 その理由は、この「猫」とは実在の猫ではなく、作者が寝ている間に漱石の「我輩は猫である」の夢を見たか、あるいは「我輩は猫である」を読んでいるうちに寝入ってしまったか、味わい深い句だと思いました。

 ①は絶命寸前のカマキリが鎌を構えて海のほうに向かっている姿が「海を見ている」と見えたのでしょう。雰囲気が出ています。

 ①は宗匠の作。(やっぱりなあ) 
 ②は友人(達人)の作。さすがです。本を読んでいるうちに寝入ってしまったことを詠んだ句だそうです。
紅葉 
 次に4選句。
 ③光り合ふ葦の穂波と鳰の湖……(4)〇
 ④秋の暮かごめかごめの背後霊……(4)〇〇
 ⑤行く秋やバリウム液のただ白く……(4)〇
 全部宗匠の句。うーん、さすがだと思いました。客人がくるので本気出した?

 しかし友人も健闘していて、
 ⑥短日やしまひ忘れの靴ふたつ……(4)
 ⑦後出しのじゃんけんの手のもみぢかな……(2)

 宗匠にいわせると、⑦の場合、もみじに例えた子どもの手が季語になるかどうかは微妙だとか。
落葉 
 他に良かったのは、
 ⑧負け組といふ気楽さや落葉ふむ……(3)〇
 ⑨つむぎ織る音のなかなる柿紅葉……(3)〇
 ⑩後ろより迫りくる斧冬の波……(2)
 ⑪晩秋や名もなき坂のすぐ終る……(2)

 4句とも客人の句。しかも市の俳句会で最優秀賞を獲った人。
 ⑩の句でサーフィン体験者かと思いましたが、そうではないとのこと。
 全句コンスタントに票を獲っています。実力あり、と見ました。
 ぜひ当句会に入ってほしいのですが、この人がくるとこっちが割りを食う?
 いやいや、そんな狭い了見はありません。
2014.11.21 十一月の句会
 先日、今月の句会が開かれました。
 今月は文化月間ということもあって、参観者が加わりました。
 といっても単に傍観するというのではなく、ひとりが欠席投句、三人が投句して選句にも加わりました。
 三人とも俳句経験者で、しかもそのうちのひとりは市の俳句会で最優秀賞を獲った人。
 図らずもレギュラーメンバーに道場破りが乗り込んできた形。いわば他流試合。
 しかも今月は披講係。否が応で身が引き締まります。

 まず私の出句に対する票数と宗匠の評価。
 ①帰国後は目黒で食はむ焼さんま(兼題・後)……(3)◎
 ②櫛選ぶ釣瓶落しの城下町……(3)〇〇
 ③図書館で開く詩集やもみぢの葉……(0)
 ④寺の町迷ひし路地に金木犀……(2)
 (出席12名、出句52句、数字は票数)
さんま焼定食  
 ①◎長いこと外国へ行っていると日本食が恋しくなります。この句は落語の「目黒の秋刀魚」を踏まえて面白いところを詠んでいます。せっかく「さんま」は季語となっているので漢字のほうがよろしい。(初めて宗匠から特選をもらいました)

 ②〇櫛というと阿六櫛(おろくぐし=木曽名物)が連想されます。情景が良く出ています。
御城下 
 ③△「開く」は読んでいるので不要です。詩集は誰の詩集なのか具体的に。秋にふさわしい中也としましょう。「もみじ」は葉が不要。
 ということで訂正句は「中也読む図書館の窓散り紅葉」
 そうではなくて、開いた詩集に紅葉が栞(しおり)に挟んであった、と詠んだつもりなんだけどなあ。

 ④△一句が散文のように説明・報告に流れています。
 ということで訂正句は「寺町の路地を迷うて金木犀」
 うーん、これはこっちのほうがいいのか。
路地 
 私としては「釣瓶落し」でリベンジしたかったので、②は会心の作。これに特選がふたつ入ったので満足です。

 今回は◎もらったけど、③など換骨奪胎された感じで、総体的にはあまりうれしくない。
 未熟なのは承知していますが。
2014.11.20 航空公園の秋
 所沢にある航空公園。「日本の航空発祥の地」として知られている公園です。
航空公園①
 所沢に日本初の飛行場が完成したのが明治44年(1911)4月1日。
 その4日後に徳川好敏大尉が操縦するアンリ・ファルマン機が高度10m、飛行距離800m、滞空時間1分20秒の飛行を行ない、これが日本初の飛行となりました。
航空公園② 
 いらい陸軍飛行場として試作航空機や飛行船、航空兵の操縦訓練に使用されました。
 戦後はアメリカ軍に接収され、米軍通信基地となりましたが、市民による返還運動によって約6割の土地が返還され、その一部が県営の公園として昭和53年(1978)にオープンしました。
 それがこの航空公園(正式名「所沢航空記念公園」)です。
紅葉と黄葉 
 ここに展示されている飛行機はC-46中型輸送機(天馬)
 「製造はアメリカのカーチス・ライト社。1940年。当初は軍用輸送機として使用されていましたが、戦後は民間機として使用。日本では航空自衛隊が保有。
  この輸送機は『空のデゴイチ』とも呼ばれ、、航空自衛隊では災害時の緊急物資輸送などに広く活躍しました。このC-46A型輸送機は、航空自衛隊入間基地で使用されていたものを分解、運搬し、当公園のシンボルとして設置したものです。
 全幅32.9m、全長23.3m、全高6.6m、自重13.6トン。最大速度433km/h、上昇限度8,400m、航空距離は2,200kmで、乗員5名、輸送人員は50名」と解説されています。
c-46中型輸送機 
 私は飛行機には詳しくありませんが、「空のデゴイチ」と聞いただけでありがたく思います。

 他には日本初の滑走路を花壇にして痕跡が残された「沈床茶園」
 地元の小学生らによって植えられた花が咲いています。夕方にはライトが点灯するそうです。
沈床茶園 
 同公園は桜や銀杏をはじめ、多くの木々が植えられているので、この季節になると紅葉が見事です。アメリカ産のユリノキはやはり米軍基地だった痕跡?
ユリノキ 
 俳優の高倉健さんが亡くなられました。
 正確にいうと、亡くなられたのは今月10日だそうです。享年83。

 健さんに関しては2年前のブログに「高倉健という生き方」(2012/09/11 ) を投稿しました。
 これはこの年の9月の8日、10日と2回にわたって放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀」高倉健インタビュースペシャル(NHK総合TV)を観てのものです。
 俳優・高倉健は今年81歳。これまで「鉄道員(ぽっぽや)」、「南極物語」、「幸福の黄色いハンカチ」などで、寡黙で不器用な男を演じ、私生活を明かさなかった男が最新作「あなたへ」のロケ現場を含めて、長期密着取材に応じました。異例のことです。
プロフェッショナル 仕事の流儀① 
 今の人は「鉄道員」や「幸福の黄色いハンカチ」を思い浮かべるでしょうが、私は「網走番外地」「昭和残侠伝」などのヤクザ映画で育った世代です。

 学生のころ池袋「文芸座」地下の映画館で、「昭和残侠伝シリーズ1~4」をオールナイトでぶっ続けで観たことがあります。
プロフェッショナル 仕事の流儀② 
 ストーリーの展開はいつもきまっています。
 花田秀次郎(高倉健)が世話になる親分は人情派の人。それに対抗する相手の組は極悪非道で、罪もない人がひどい目に合わされ、それを助けようとした仲間も惨殺されます。
プロフェッショナル 仕事の流儀③ 
 それまで耐えに耐えていた秀次郎ですが、堪忍袋の緒が切れて長ドス抱えて、相手の組に殴り込みをかけます。そのときいつも関わりができる風間重吉(池部良)。「あっしもお供いたしましょう」
 壮絶な斬り合いの末、相手の親分は絶命しますが、風間重吉も命を落とします。秀次郎はその遺体をかき抱いているところを官憲に取り囲まれ、縛につく……というパターン。
プロフェッショナル 仕事の流儀④ 
 当の建さんも俳優は食うためにやっている仕事で、しかも毎回同じパターンで気持ちも入ってなかったといいます。それなのに映画は大受けする。「これはなんなのだろう」。そして「ヤクザ映画は好きではなかった」とも。
プロフェッショナル 仕事の流儀⑤ 
 高倉健は「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドの抑えた演技を手本にしているといいます。
 マーロン・ブランドは抑えた演技ですが、アクの強い俳優です。
 健さんはそこまでアクは強くない。むしろ純朴さが出ていて好感が持てます。これが建さん流だったと思います。
 このようなことを当時書きました。
 このとき健さんは「あなたへ」(降旗康男監督)を撮り終えたばかりで、昨年は文化勲章を受賞、来年(2015)は新作に打ち込む準備をされていたそうです。
 もっともっと出てほしかった。残念です。合掌。
 代々木公園にやってきました。
 そう、デング熱騒動で一時は立ち入り禁止になった代々木公園。
入口 
 同公園は明治神宮に隣接し、敷地面積540,529.00㎡(およそ東京ドーム11個分)。
 東京23区内の都市公園のなかでは、葛西臨海公園(約79ha)、水元公園(約76ha)、舎人公園(約71ha)に次いで4番目に広い公園です。
園内 
 ここはもともと大日本帝国陸軍の代々木練兵場でした。
 第二次世界大戦後はワシントンハイツとなり、昭和39年(1964)では東京オリンピックの代々木選手村として一部が使用され、後に再整備され、昭和42年(1967)に代々木公園として開園されました。
大噴水 
 昔、原宿の竹の子族取材のときにこの近辺は何度もきていますが、この公園に入った記憶はありません。入ったような、入ってないような……。

 今回改めて入ってみると、走っている人が多い。
 この寒いのにほとんどが短パン姿。そりゃあ、蚊に刺されるよ。
走る人 
 公園のあちこちには「蚊にご注意!」の看板。
 園内では、次のことに気をつけてください。
 〇長袖シャツ・長ズボンなどを着用し、肌を露出しない。
 〇素足でのサンダル履きは避ける。
 〇必要に応じて虫よけ剤などを使用する。

 とあります。
蚊に注意!の看板 
 「騒動のときはこなかったけど、解禁されてからは走ってるよ。こう寒くっちゃ蚊もお陀仏だろうよ」
 とは園内を短パンで走っていたオッチャン。元気だなあ。

 11月も後半になって、公園内にはクリスマスリースが飾られていました。
ゲートにはクリスマスリースが… 
 昨日(11/16/)は横浜国際女子マラソンが行われました。
 舞台は横浜、しかもこれで最後というから、当然観ます。
①産業道路 
 コースは山下公園をスタートして、本牧市民公園、八幡橋を経由し聖天橋交差点で折り返し、山下公園まで戻る。
 →山下公園から神奈川県庁前を周回する形で、再びへ本牧方面に走り、本牧市民プール前で2度目の折り返し。
 →本牧市民プール前から山下公園前を経由し、みなとみらい21地区を周回し、山下公園内のゴール地点に向かう、というものです。
②山下公園前 
 同じ道(産業道路)を二度も往復とは芸がない、と思いましたが、コースを長く延ばすと交通規制の範囲が広くなるし、警備などにも手間がかかるのでこれはやむを得ない。むしろ山下公園の前を何回も通り、神奈川県庁(キングの塔)を一周したほうが横浜らしい景色を提供できる。
 ということで、このようなコースになったのではないか。
③テクノコスモス 
 レースは中盤まで日本の野尻あずさ、田中智美、岩出玲亜、ケニアのフィレス・オンゴリ、キャロライン・ロティッチが先頭集団を結成し、40km過ぎて野尻あずさが脱落、19歳の新人岩出玲亜も遅れました。
④赤レンガパーク 
 中継をTV観戦していて、気になったのは解説の増田明美さん。よけいな情報が多すぎる。
 例えば、「この選手は出産でしばらく休んでいましたが、〇〇ちゃんという男の子が5歳になってから現役に復帰しました」など、実名まで出す必要はないのではないか。(他にも選手の両親の名前を出していた)
 むろん熱心に取材し、(取材対象に)愛着を持っているのはわかるけど、それらをすべて出すことが解説ではない。末梢的な情報で、聞いていてわずらわしい。
⑤山下公園に入っても接線 
 それはともかく私としては「誰が勝つか」というより、「どこを走っているか」が気になります。
 みなとみらいに入ってから、岩出玲亜の走る左手に観覧車(テクノコスモス)が見えたり、田中智美とフィレス・オンゴリが競り合っている左手に赤レンガパークが見えると、知ってる道だけに、「ここがコースになっているのか」と感慨もひとしおでした。
⑥海からの映像 
 田中とオンゴリは最後まで競り合い、山下公園に入ってからも抜きつ抜かれつの大接戦。
 これについては海からの映像が圧巻でした。
 結果は田中智美がリードしてそのままゴールへ、初優勝。記録は2時間26分57秒。
 2位はフィレス・オンゴリ。
 3位はマラソン初挑戦の岩出玲亜。記録は2時間27分21秒。これは10代の最高記録だそうです。
⑦田中智美優勝 ⑧岩出玲亜3位
 横浜国際女子マラソンは今回が最後。来年からは観られないかと思うと、寂しい限りです。
 道玄坂を下り、山手線のガードを越えた反対側(青山方面)の上り坂が宮益坂です。

 上京した当時、私は地下鉄銀座線の渋谷駅がどうして地上3階にあるのか不思議でしたが、この坂を見ると納得できます。
 渋谷は名の通り谷底の地、東側は山(青山)。
 当時(昭和12年)は谷底に地下鉄を掘るよりも地上に出したほうが楽だったようで、渋谷の高架駅から山の中腹にトンネルを穿って地中に入れる方法がとられました。(四谷、お茶の水、後楽園も同じ)
地下鉄銀座線 
 宮益坂の標識には次のように書かれています。
 「かって、富士見坂とも呼ばれていたこの坂一帯は古くから矢倉往還(大山道中)として江戸の町と郊外農村の接続点であったので、ささやかな商人町を形成していました。ここが渋谷宮益町と称されていたので、宮益坂と呼ばれるようになりました」
宮益坂・上り 
 宮益町と称されていたのは、この坂の途中に千代田稲荷(現在の御嶽神社)があったからだそうです。
 名の通り昔はこの坂から富士山が見えましたが、坂下の左側に東横デパートができると、見えなくなりました。
 坂の上は「国道246号」と合流し、青山通りになります。
 宮益坂のほうは大学側(青山学院)のため風俗店はほとんどなく、こちらには用なしでしたが、一度息子とこの坂を上ったことがあります。
 この坂上から青学側に下りたところに「Seabird」というジャズ喫茶があり、従弟のライブ演奏が行われたからです。
御嶽神社 
 当時息子は高校2年生。一応進学志望でしたが、担任からは「こんな成績では大学は受からないぞ」といわれてました。当人も落ち込んでいた(?)ようです。
 父親としてはどうすることもできないので、気分転換(?)のために連れて行ったというわけです。
宮益坂上 
 従弟はオーディオメーカーのパッケージを手がけるデザイナーですが、ジャズピアノもなかなかの腕前(自称大森のWinton Kerry?)で、年に2~3回ジャムセッションを行いました。
 このときのメンバーはピアノ(従弟)に、ドラム、ベース、ヴォーカル(女性)のカルテット。
 乗りもよく、それぞれの持ち味が出ていました。好きな「Softly, As in a Morning Sunrise」も聴けたし。
 ときどき小さなミスがあり、メンバーが顔を見合わせて苦笑するという場面もありましたが、それもジャズの面白さ。

 しかし私が演奏に気を取られている間に、息子はバーボンを飲みながら演奏を聴いてました。
 「この野郎!」と思ったものの、怒る気にはなれなかったのはあまりのふてぶてしさに成長を感じたからです。
宮益坂・下り 
 「なかなかよかったね」
 坂を下りての帰り道、息子がボソリといいました。勝手にバーボン飲みやがって。
 しかしこのときから息子は急に大人になっていったような気がします。
 私の学生時代はジャズ喫茶全盛の時代でした。
 新宿には「DIG」「DUG」「Village Gate」「びざーる」「木馬」「Pit Inn」があり、渋谷には「Sub」「Blackhalk」「Genius」「Swing」がありました。
 私は大学が東横線だった関係で、もっぱら渋谷。それも道玄坂の「Swing」でした。
  *
 しかし自由が丘の「5Spot」を発見してからは、渋谷からは遠ざかりました。
 自由が丘は大井町への乗換駅。しかも「5Spot」はジャズ評論家いソノてルヲ氏が経営する店で、当時は鈴木勲さん(ベース)や日野皓正さん(トランペット)が出ていました。
 その割に料金も安かったので、我われ学生でも気軽に入れました。
道玄坂・下り 
 その後、学生寮を出て浜田山(井の頭線)に引っ越してからは明大前「マイルス」に通うようになりました。
 ここでよく聴いたのが、Bud Powell「Cleopatra's Dream」、Wes Montgomery「A Day in The Life」、John Coltrane「My Favorite Things」ですが、当時は夜10時をすぎると演歌がかかりました。緑川アコ「夢は夜開く」、竹越ひろ子「カスバの女」「東京流れ者」、扇ひろ子「新宿ブルース」はここで聴きました。
明大前「マイルス」 
 「コルトレーンもいいけど竹越ひろ子もいいねえ」とはマスターの口癖でした。
 ジャズをがんがん聴いたあとに聴く演歌は不思議にマッチして、身体にしみ込みました。
 学園闘争が終ると私はキャンパスを離れ、新宿の出版社に勤めるようになって、家庭を持ってからは、ジャズ喫茶へはほとんど行かなくなりました。
 そのころからジャズ喫茶は廃れはじめ、新宿、渋谷のジャズ喫茶はどんどん消えていきました。
ムルギーは健在 
 数年後、私はフリーのライターになり、風俗の取材も手がけるようになりました。
 そこで再び通うようになったのが、道玄坂・百軒店の風俗街。
 昔ジャズ喫茶のあったところは、ほとんど風俗店に変わっていました。
 「なんとまあ、変われば変わるものだ」
 もう笑うしかありません。
Swingのあったところ Subのあったところ(右)
 風俗の取材というのは風俗嬢にインタビューして写真を撮り、そのプロフィールを週刊誌や夕刊紙に記事を書く仕事です。
 それ自体は単純な作業ですが、ときとしてディープな領域に足を踏み入れることもあり、毎日が刺激的で、スリルの連続。私はここからいろんなことを学びました。
 道玄坂の由来について、渋谷道玄坂公式サイトでは次の二説が上げられています。
 ①この辺りに道玄庵という寺があったので、道玄坂といわれようになった。
 ②大和田太郎道玄という和田義盛一族の残党の子孫がこの辺りで山賊となっていたので、道玄坂の名がついた。
百軒店から道玄坂を見る 
 どちらが正しいか明らかではありませんが、私は②の説を取ります。
 殺伐としていますが、由来というのは案外そんなもの。
 山賊の巣窟から、ディープな街への変遷。両者には共通点があるような気がするからです。
 道玄坂は渋谷・ハチ公前広場から西に進み、109の三叉路を左に進む上り坂をいいます。
ハチ公前広場 
 109の近くに木の標識があって、こう書かれています。
 「江戸時代の道玄坂は、大山街道の一部として多くの人が往来していました。当時の道玄坂は、現在の道玄坂から世田谷区街道に入り目黒側の松見坂までを広く呼んだものでした。江戸中期より道玄坂とは専ら今の坂を指すようになったのです」

 大山街道といわれてもピンときませんが、世田谷街道(世田谷通り)とは道玄坂上で合流する玉川通りの先、松見坂は駒場に向かう坂のこと。それだけこの坂が広範囲だったということです。
道玄坂・標識 
 上京して間もなく、同じクラスのKという男と友人になりました。
 彼は地元っ子でジャズ好き。高校時代から渋谷のジャズ喫茶に通っていたといいます。
 その彼に連れられて入ったのがジャズ喫茶「Swing」

 ドアを開けると、いきなり耳をつんざくような曲が流れてきました。
 しかも狭くて、薄暗い店内。紫煙がもうもうと立ち込めています。「…………?」
 音楽といえば、ポップスとクラシックしか知らなかった私は違和感を覚えました。
 彼がリクエストしたのはJohn Coltraneの「Meditation」
 サックスの音色が♪ピロピロピロ……、やたら、けたたましい。「なんじゃ、これは」
道玄坂・上り 
 しかし聴いているうちに、激しいスウィング、絶叫するようなサックスの音色にはなにか訴えるものが感じられました。「これがジャズの真髄かもしれない」

 店を出てからも、あの強烈な音楽はまだ耳について離れません。それどころか、「もう少し、聴いてみたい」とも。

 「はははは。あれはジャズの好ききらいをはっきりさせる曲だよ」
 彼は初心者の私を「ふるい」にかけたのかもしれません。
 さらに友人は、渋谷には他にも「Sub」「Blackhalk」「Genius」というジャズ喫茶がある、といい、「これからは、ひとりで行け」
百軒店 
 「Swing」は道玄坂の中腹右手の百軒店(ひゃっけんだな)の奥にありました。
 その斜め向かいに、「Sub」(1F)、「Black Halk」(2F)がありました。
 「Black Halk」はロック系だったので一度だけでしたが、「Sub」はときどき入りました。しかし大半は「Swing」でした。
 「Swing」は本格派の店で、みんな修行僧のようにジャズを聴いていました。
 芋洗坂は六本木交差点の喫茶店「アマンド」の左脇から南下するなだらかな下り坂で、六本木駅前郵便局、朝日神社(朝日稲荷)を経て、319号線にぶつかります。
 この通りは、西側に寺社仏閣や中学校があるため、華やかな六本木にしては比較的地味な街並です。
六本木アマンド 
 私にとってはあまりなじみのない通りですが、今から30年ほど前、ニューハーフの取材でこの坂の中腹にある「〇〇小僧」に入ったとき、少なからずショックを受けました。
 私はそれまでニューハーフ(ゲイ)とはきれいに女装した男と思っていたのですが、この店接客員は女装はしておらず、着流し姿の男。業界用語でいう「男(だん)カマの店」
道標 
 このときになって初めて男の同性愛には二種類あることに気づきました。
 それは①女性化した男と、男との愛、②男の姿そのままでの愛で、一般的に①はGay、②はHomoと呼ばれています。
 「しかしねえ、この境界ははっきりしないんです。当人でさえ、自分はどっちなのか、わかってないこともありますから」
 とはこの店のマスター。うーん、ややこしい。
 この世界の深遠を見たような気がしました。
芋荒坂・下り

 芋洗坂の由来は諸説あって、
 ①朝日稲荷の前に市があり、そこで芋が売られていた。
 ②坂下に「家主の権六」という者が営む芋問屋があった。
 ③古来、芋とは疱瘡(痘瘡)のことをいい、坂の中腹にある法典寺の弁財天に病気回復の祈願をして水で洗った(芋洗い)ため、それが起源となった。
 
 しかも「Wikipedia」によると、この坂は昔は芋洗坂ではなく「饂飩坂」といい、西側の麻布警察裏から下りる坂が本来の「芋洗坂」であった、といいます。
 しかし「饂飩坂」は外苑東通りから下りてきて(現在の)芋洗坂に合流する坂のことで、その標識が立っています。ということは、芋洗坂・饂飩坂がそろって東へ移動した?
 わけがわかりません。
饂飩坂

 それから10年ほど経って、麻布十番のSMクラブを取材したとき、何度かこの坂を通ったことがあります。
 当時麻布十番は近くに鉄道の駅がなく、「陸の孤島」といわれていました。渋谷からここを通るバスが出てましたが、最も近い駅は六本木(徒歩25分)。もちろん歩きました。
 例の男カマの店「〇〇小僧」はすでになく、別の飲食店になっていました。
芋荒坂・上り 
 地図を見ると、芋洗坂の下を都営地下鉄大江戸線が走っています。
 今は大江戸線や南北線(東京メトロ)の開通によって麻布十番まで簡単に行くことができるので、この坂を上り下りする必要もなくなりました。
麻布十番「赤い靴をはいた女の子」の像
 麻布十番には「赤い靴をはいた女の子」の銅像があります。
 それを見に行ったときは地下鉄で行きました。
 目黒区にある柿の木坂は都立大学駅の前から大学へ向かうなだらかな坂道です。
 この駅に降り立ったのは2年前。
 大学を離れてからも、このあたりはちょくちょくきていたので、少しずつ変化していることに気づいているはずなのに、学生時代の印象が強いため、浦島太郎のような気になります。
都立大学駅 
 駅近くにある遊歩道は、昔はドブ川(呑川)で、一角に小さなラーメン店がありました。
 店主はぶっきらぼうなオヤジで、注文を聞くと「ラーメン一発!」と復唱。
 手際よくラーメンを盛りつけると、最後に小さなウズラの卵を左手でつまみ、大きな包丁で浅右衛門よろしくスパッと横切りして、中身を落とし入れ、「へい、お待ち!」
ドブ川も今は遊歩道に 
 味は脂っこく、ボリュームがあり、学生に人気がありました。
 今はもうありません。多分美容室(写真)あたりが……。
 
 駅前の通りを北に進むと上り坂。これが柿の木坂です。
 当時あった喫茶店、「ロワール」「パンセ」「コニーク」「アイリス」、炒飯が美味かった中華料理店(ゴキブリ亭?)はもうありません。
 私が初めて麻雀を覚えた雀荘も、古書店「都立書房」も……。
 柿の木坂の由来は諸説あって、
 ①坂の近くに大きな柿の木があった。
 ②柿を運ぶ車から子どもが柿を抜き盗んだ「柿抜き坂」が転じた。
 ③人家が少なく暗くなると人々が駆け抜けて通った「駆け抜け坂」が転じた。

 ①は「さもありなん」、②も聞いたことはあります。
柿の木坂・上り 
 しかし「Wikipedia」によると、この名がついていた当時、柿の木があったという記録はなく、今では次の説が有力であるとのこと。
 「当時の柿の木坂は周囲の農家や商人が大八車に荷物を載せて行き来するために使われ、急で長く続く坂を登るのは慣れていても大変な作業であった。
 そのため登坂中にはスリに荷物を盗まれる事も多く、積荷を荷台から抜き取る行為が『引っ掻き抜く』と呼ばれていた。
 それが転じて『掻き抜き坂』となり、明治の初め頃には『柿』が当て字として広く遣われるようになり現在の地名の元となった」
柿の木坂・下り
 なんだ、そんな殺伐とした由来だったのか。
 当方は歌謡曲の「♪柿の木坂は 駅まで三里……」(青木光一)のようなほのぼのとしたイメージを抱いていただけにガックリ。
 坂を上りきった左手が母校のあったところ。
 ここは1991年に八王子の南大沢に移転しました。移転後一度きたことがあります。
 大学のA棟、B棟は跡形もなく、結婚式場(?)になっているのを見たときは思わず笑いました。
 今はそれもなくなって「目黒区民キャンパス公園」です。まさに「万物は流転する」
 もっとも裏に、「ここに大学があった」と門跡の一部が残されています。
キャンパス公園 大学の門跡
 向かいのパン屋「旭ベーカリー」はまだありました。
 ここは、ゆで卵を刻んだエッグサンドが美味く、よく食べました。
 大学が移転して、利用客がごっそりなくなったというのに、よく持ちこたえてきました。味で近所の支持を得ていたのでしょうか。
パン屋 
 「柿の木坂の殺伐とした由来のなかで、唯一心温まる話はこれか」
 そんな思いで、坂を下りました。
 
 ※都立大学は現在、首都大学東京と名前が変わっています。東横線「都立大学」の駅名はそのままです。
 目黒・権之助坂(ごんのすけざか)は目黒通りの一部で、JR目黒駅から目黒川の目黒新橋に至る400mほどの坂です。
権之助坂① 
 上京して最初に住んだのは東大井の海っぺりでしたが、近くに目黒まで行く都バスの停留所がありました。
 そのバスにはほとんど乗ったことはなかったのですが、あるとき新聞の映画欄を見ていて、「目黒スカラ座」へ行ってやろうと思いました。
 映画のタイトルはマカロニ・ウエスタンの「続・荒野の用心棒」(1966)

 目黒スカラ座は権之助坂の中腹(南側)にありました。
 封切りだったと思います。けっこう混んでました。



 衝撃的な映画でした。(映画の説明は省略)
 あとで考えると「そんなバカな」と突っ込みどころ満載ですが、当時の私には「どんな逆境にあってもあきらめてはいけない」と教えられた映画でした。
 それいらい、私にとってこのジャンゴ(主人公)が心の支えになりました。
 権之助坂は元禄時代に開かれました。
 それまで人々は「行人坂」を通っていましたが、急坂であったため、荷を運ぶ人々は大変な苦労をしていました。
 権之助坂が開かれてのちは、主要交通路は行人坂から権之助坂に移り、今日に至ります。
行人坂 
 坂の名は菅沼権之助に由来するそうです。
 その理由は権之助自身が坂を開いたとする説や、重たい年貢に苦しむ農民のために年貢軽減を直訴してそのために処刑された権之助の名を、慕う農民が開かれたばかりの新坂につけたとする説などがあります。(Wikipedia)
 さて、映画を観終えて、「どこかで夕食でも……」と思い、匂いにつられてフラリと入ったのが駅近くのラーメン店。
 メニューにあった「バターラーメン」に興味を惹かれ、それを頼みました。(高かった)
 なんとおツユ自体が黄色くドロリとしたバターの溶液?
 ゲッ、これはさぞかししつこいだろうなと思ったら、ダシの風味もあって、意外に美味い。
 ペロッと食べてしまいました。
 「さすが東京、変わったものがあるんだなあ」
 そんな思いでそこをあとにしました。
権之助坂② 
 その後、友人たちと何度かラーメン店で「バターラーメン」を食べましたが、いずれも醤油ラーメンか塩ラーメンにバターの欠片を乗せたもの。
 「これは本当のバターラーメンではない」
 そういうと、みんな「なにをいっとるのだ。これがバターラーメンだよ」
 「違うんだって。オレが食ったラーメンはおツユそのものが黄色いバターの溶液で……」
 というと、「はははは。そんなグロテスクなラーメンがどこにある。夢でも見たのだろう」
 取り合ってもらえませんでした。

 悔しいので半年後、例のラーメン店へ行ったところ、別の店になっていました。
 もう証明することはできません。
権之助坂・歩道 
 この悔しさは家庭を持ってからも続きました。
 息子にいっても、まったく信じてもらえない。「そんな妙なラーメン、あるわけねえよ」
 終いには、「またまたァ……」(オヤジのホラ話がはじまった、といわんばかり)
 友人たちが信じてくれないのはいい。しかし息子に信じてもらえないのはキツかった。
このあたりだったような… 
 このバターラーメンに関しては、その後TVの「ラーメン特集」で、富山のラーメン店が出しているのを見ましたが、息子は見たかどうか。今さら信じてくれなくてもいいけど。
 ジャンゴとバターラーメン。
 目黒・権之助坂といえば、このふたつが私にとって切っても切れない因縁があるのです。
 菅沼権之助氏は草葉の陰で笑っている、かな。
 アメリカ・オレゴン州在住の女性、ブリタニー・メイナードさんは、末期の脳腫瘍という診断を受け、 尊厳死の選択という患者の権利を積極的に提唱してきました。
 そしてブリタニーさんは11月1日、自宅で医師から処方された薬を服用し、家族に見守られながら29歳で死去したそうです。

 「本日は、末期の脳腫瘍を患う私が、尊厳をもって死ぬために選んだ日です。世界は美しいところです。旅が私の最高の師であり、また身近な友人や家族は多くのものを私に捧げてくれました。さようなら、世界のみなさん。良いエネルギーを広げていってください。次につなげていきましょう!」
 これが彼女の最期のことばです。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/10/15/a-29-year-old-woman-plans-to-die-nov-1_n_5987492.html

 彼女の安楽死に全世界で賛否両論が巻き起こりました。
 反対意見としては、ローマ法王庁が「尊厳とは自分の人生を終わらせることではない。不条理で非難すべきことだ」と非難したとのことです。

 日本では、回復の見込みがなくなった患者について、本人の意思を尊重して延命治療をやめることは可能です。これは「尊厳死」といわれています。
 私の理解ではホスピスがそれで、治療よりも緩和ケアに重点が置かれます。

 しかし、日本ではこれと医師が薬などで患者の死期を早める「安楽死」とは違うと一線を画しています。そして安楽死を認める法律はないといいます。
 私には癌で亡くなった身内や知人が数人います。
 その人たちを見送って感じたことは、「安楽死を認めてもいいのではないか」

 今から約7年前、胃癌で他界した弟は死の半年前から激しい苦痛を訴えていました。
 彼の闘病記には、「昨夜は周期的に突き上げるような腹痛のため、まともに眠れなかった」(07/07/18)とか、「またもや周期的にやってくる突き上げるような、あるいは絞られるような腹痛がひどく、七転八倒の苦しみに。もちろん何も食べられず、下半身浴すら出来ない状態」(07/07/21)と記述されています。
 6月の後半から癌は進行し、抗癌剤を変えても病状は好転するどころか、悪化する一方でした。
 7月に入って抗癌剤による便秘と下痢のくり返し、さらに腸に水が溜まるようになりました。

 「周期的にやってくる突き上げるような、あるいは絞られるような腹痛」とはどんなものでしょうか。癌の痛みは想像を絶するといいます。

 私がこれまで味わった最大級の痛みといえば、痔の手術後の排便時のものでした。
 このときは肛門から脳天にズッキーンと激痛が走り、思わず涙が出たものです。しかしそれはほんの1~2分で、なによりも「治る」という希望がありました。
 人間は希望があればどんな苦痛にも耐えられるのです。

 しかし治る希望のない痛みほど残酷なものはありません。耐えることになんの意味があるのでしょうか。
 私には尊厳死と安楽死の違いはわかりません。尊厳死を認めるなら、安楽死も認めていいのではないか。

 弟は絶望的な痛みにも耐え、不平不満を訴えることはありませんでした。
 症状がさらに悪化してからは、家族をはじめとする周囲に対して感謝の気持ちを忘れず、亡くなるまで医師のいうことを真摯に聞く優等生患者であり続けました。(享年58)

 私には多分そんな強い意志はありません。
 治る見込みのない激しい苦痛に苛まれたら、「早く死にたい」と願うだろうと思います。
 大井町駅から区役所通りを東に5分ほど歩くと、交番(仙台坂巡査派出所)があります。
 そこから急な下り坂に差し掛かります。これが旧仙台坂。
 歩道には赤いレンガを敷き詰められ、シャレた感じです。
区役所通り 
 今から50年近く前、上京して最初に住んだのが東大井の海っぺりの学生寮。
 通学のための最寄り駅は大井町ですが、歩くと約25分。
 京都の市内に住んでいた人間には、考えられないこと。
坂を下る① 
 実は鉄道の駅では京急・鮫洲が最も近い(徒歩10分)のですが、これを利用するとなると、品川に出て、山手線に乗り換え渋谷、そこから東横線に乗り換えて都立大学。京急、国鉄(当時)、東急の三社線を使わねばならず、交通費がバカ高くなるし、乗り換えも面倒。

 ところが大井町から田園都市線(当時)に乗れば、自由が丘で東横線に乗り換えると都立大学はとなりの駅。みんな大井町まで歩きました。
坂を下る② 
 したがって大井町は私にとっては青春の町で、そこから寮と行き来するのに否が応でもこの坂を上り下りするのですが、これがけっこうキツイ。当時は道も細く、殺風景な石段でした。
 大井町でイッパイやって、千鳥足でこの石段を下りるのがキツイのなんのって。何度も足を踏み外し、転げ落ちました。
旧仙台坂の標識 
 そんな石段も今ではなだらかな坂道になっています。道幅も広くなり、車道はトンネルに。
 「ほう、ここがなあ」
 私としては万感の思いです。

 自転車の人を見ろッ。みんな歩いて引いてるじゃないか、どこかなだらかな坂道だ、って?
 わかってますよ(わざと撮ったのです)、でも当時は石段だったから自転車を引くことさえ困難でした。
泊船寺の地蔵 
 坂の下に標識があり、簡単な解説が書かれています。それによると、
 「江戸時代(1603~1867)に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東大井四丁目と南品川五丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていました。
 しかし現在は青物横丁に抜ける道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました」とあります。
 また通称「くらやみ坂」と呼ばれている、とも。
京浜急行のガード 
 坂下の右手に泊船寺(東大井四丁目)がありますが、当時はまったく気づかなかった。
 そして坂を下りると第一京浜(国道15号線)、目の前には京急が走っています。
坂下から旧仙台坂を見上げる 
 この交差点から上りを見ると、やはり急な坂。
 もう通学する身ではないので、帰りはさすがにこの坂は上らず、京急に乗りました。
2014.11.07 今月の出句
 句づくりに関して、以前は直前に一気に仕上げる「やっつけ」仕事でしたが、最近は句会の半月ほど前から大雑把につくり、その後気がついたら直していく、という手法になりました。

 最初に思いついたのは、
 ①後追ひて迷ひし路地に金木犀(兼題・後)
 ②台風や後は野となれ山となれ(兼題・後)
 ③図書館で開く詩集に一もみぢ
 ④猟師町朽ちし魚網や秋の海
 ⑤城下町釣瓶落しに櫛を買ふ
漁師町 
 <推敲>
 ①は誰の後を追ったのか? ストーカーみたいでいかにも怪しい。そこで「後」を外し、「隣町迷ひし路地に金木犀」にしました。
 
 ②は台風の被害にあった方もおられるのであまりに不謹慎。ボツにしました。

 ③は本の栞に一葉のもみじが使われていた、という意味ですが、「一もみぢ」では収まりが悪いような気がして、「もみぢの葉」にしました。

 ④「秋の海」を活かした句をつくりたかったので、他にも「ダ・カーポが聞こえてきそうな秋の海」(だれもいない海)、「馬鹿野郎思わず叫ぶ秋の海」(森田健作?)などが浮かびましたが、いずれも面白くない。そこで「秋の海」を使った句はやめました。
 ⑤は遠い昔、松本市を旅行したとき、連れが櫛を買うのにいろいろ迷っているうちに日が暮れた、という句です。そこで上五と下五をひっくり返し、「櫛選ぶ」にしました。
城下町(彦根) 
 ⑥こうなると「後」を使った句を新たにつくらねばならない。そこで、この時期外国から帰ってきたときはサンマだろう、と「帰国後は大根おろしと焼サンマ」という句を思いつきました。
 しかし「大根」は冬の季語。そこで「帰国後は羽田で食らふ焼サンマ」
 一週間ほど経って、「どうせなら、羽田よりも目黒にしたほうがエスプリが効いている」と思い、「どうしても目黒で食いたい」という強い意志を表すため「食はむ」にしました。

 ①については、さんざん上五を取り替えた挙げ句、「隣町」では風情がないので、「寺の町」にしました。
路地 
 というわけで今月の出句は
 ①帰国後は目黒で食はむ焼さんま(兼題・後)
 ②櫛選ぶ釣瓶落しの城下町
 ③図書館で開く詩集やもみぢの葉
 ④寺の町迷ひし路地に金木犀


 になりました。
 久しぶりの川越市街地ですが、私の知らない間に新しい観光施設ができていました。地域最大級の蔵と銘打った「椿の蔵」
蔵造り一番街 
 入口は吹き抜けになっていて、なかに入ると手ぬぐいや風呂敷、各地の民芸品など日本の雑貨を扱った店。箸はもちろん、和物の櫛、簪などもあり、さらに奥は日本各地のこだわり食材、お酢や国産ジャムなどを売っています。
椿の蔵 
 「2階は展示施設?」と思って上がってみると、どうやらここもアクセサリーを商っている店舗。
 とくにストーンアクセサリーに力を入れているようで、「天然石の効能」が説かれていたり、誕生石や占いなど、石に関するものは揃っています。
店内① 
 「水晶には強い浄化作用があり、疲労回復に効果があります……」
 などと解説されていますが、当方はよくわからず、「ふうん」と頷くばかり。
店内② 
 「おや?」
 奥の階段の踊り場に飾られた絵は、横浜の文明開化当時の風景。
 それもそのはず、この「椿の蔵」の本社が横浜にあるとか。これも東武東上線⇔地下鉄副都新線⇔東急東横線の連結によって川越⇔横浜が直通できた効果か。
なぜか横浜の絵が… 
 それよりも興味深かったのは奥の庭にある足湯。
 植えられているのは椿を中心に四季折々の花というから、一年を通じて花を眺めながら足湯を楽しむことができるとのこと。
 この日もふたりの女性が足を浸けておられました。
和風庭園で足湯 
 足湯は無料とのことですが、ただ物見遊山に入った当方は遠慮しました。
 今度、飲み物を注文したら入ろうかな。
足湯でくつろぐ人 
 このところ「子どもの声は騒音か、否か」が大きな社会問題になっているとか。
 神戸で近所の保育園に防音設備の設置や慰謝料100万円の支払いを求めて訴訟を起こしたことや、東京都が子どもの声を規制の対象から外すことも含めて条例を見直す方向で検討しているとの報道が発端になって、賛否両論沸騰しているそうです。

 東京都がこれまで子どもの声を(騒音の)規制の対象としていたことにおどろきますが、「図書館や病院、劇場、式場など、静けさを求められるところではもっての外ですが、学校や保育園、街なかでの子どもの喚声は仕方がない」と私は考えます。

 子どもの喚声について、私には切ない思い出があります。

 今から30年以上前、某アダルト出版社(渋谷近辺)に勤めていたときのことです。
 当時私は岐路に立たされていました。
 某作家センセイ、印刷関係者、営業関係者が集まり、「昔一世風靡した刊行物を出すから、編集の腕を振るってほしい」と頼まれ、二足のわらじを履くことになりました。

 その年の暮れから、昼間は従来通り出版社で仕事をし、終わると新出版社の事務所へ行き、そこで編集作業に取りかかりました。新事務所は池袋サンシャイン近くのマンションの一室。
 刊行物はA5判、250頁ほどの雑誌。特集あり、対談あり、コラムあり、写真、イラストあり……と種々雑多。原稿は400字詰めで、約300枚。
 月刊誌でこれらを割り付けるのは、編集者2~3人がかりの仕事ですが、人件費をかけるわけにはいかず、私ひとり夜通しやり続けました。

 それでも午前4時すぎると、がくんと能率が落ちるので眠ります。
 起きるのは8時すぎ。マンションのとなりが小学校なので、下から子どもたちの騒ぐ声で目が覚めます。
 ここから渋谷方面の会社に出社し、「正規」の仕事をして、夕方退社すると、また池袋の事務所へ。自宅にはもどれません。いわば単身赴任。こんな生活が3ヵ月続きました。
 電話連絡は毎日しましたが、妻はよく耐えたと思います。
写真は本文と関係ありません 
 連日睡眠不足が続き、孤独な作業でした。
 そのときの私は肉体的な辛さや、仕事の過酷さ、孤独感には少しも苦になりませんでした。
 しかしたったひとつ、朝、下のほうからワイワイと子どもたちの遊ぶ声が聞こえたときは、気持ちがグズグズになりました。
 息子は小学2年生。今どうしているだろうか。
 この子たちのように元気に学校に行っているだろうか。父親がいなくて寂しい思いをしてないだろうか……。
 そのころから私の胸の奥には息子が占めるようになり、「この子のために頑張ろう」と思うようになりました。
                        *
 あんなに大変な思いをしたにも関わらず、新出版のほうは作家センセイのデタラメぶりがぼろぼろ露見して、失敗に終わり、多額の借財が残りました。
 作家センセイは逃げ、借財の大半は印刷屋がかぶりました。
 そのころ私は昼間の出版社も辞めていたので、無一文状態で家にもどりました。

 残ったのは私と息子との絆。
 私はフリーのライターになって、夕刊紙のコラムに首都圏の社会風俗レポートをするようになり、日曜日になると原宿や横浜、鎌倉など、息子を連れて取材に出かけました。
 いわば私の「罪ほろぼし」です。

 そんな気持ちになったのは、孤独な作業をしていたとき、下の小学校からワイワイと聞こえてきた子どもの喚声。
 というわけで、子どもの声は私にとって少しも騒音ではないのです。
 さんさき坂が谷中墓地にぶつかり、都道452号(神田白山線)が南に折れる直前に左側にある中華料理店「珎々亭」(チェンチェンテイ)の角を曲がり、北上すると右に「朝倉彫塑館」を見て、御殿坂(ごてんざか)に出ます。
御殿坂 
 御殿坂とは日暮里駅西口から谷中銀座に向かう下り坂。
 この坂は荒川区(北側)と台東区(南側)の境界線。
 解説板には、「江戸時代に白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)があった……」とありますが、長たらしいので省略します。
夕やけだんだんより谷中銀座を見る 
 それよりも、その先にある「夕やけだんだん」
 この上から谷中銀座(西方向)を見ると、きれいな夕やけが見えることから、一般公募で選ばれた石段です。(段数は36段)
夕やけだんだん① 
 4~5年前、「♪夕やけだんだん……云々」という歌謡曲を何回か聴いたことがありますが、歌手もタイトルも知りません。もう聴かれなくなりました。
 夕方になると、階段に座って夕やけを待つ人もいるそう。
夕やけだんだん② 
 夕やけだんだんを降りると谷中銀座。
 平日というのに相変わらずの活況ぶり。
 ここで有名なのはメンチカツ。
 この商店街には肉屋が4~5軒あり、どの店も店頭でコロッケやメンチを揚げていて、いずれも長蛇の列。
 ガイドブックを見て並ぶ女性もいれば、メンチのはしごをする人も。
谷中銀座① 
 30年ほど前、息子(小4)ときたことがありますが、当時メンチカツの店は2軒だけ。そのうちの1軒で食べた記憶があります。なかなか美味かった。
 しかしこの年になると、ひとりで食べるにはさすがに体裁が悪い。見るだけにしました。
谷中銀座② 
 団子坂を下って元の地下鉄千代田線・千駄木駅(団子坂下)にもどると、その向かいはまたゆるやかな上り坂になっています。これが「さんさき坂」
団子坂下(千駄木駅出口)向こうがさんさき坂
 漢字で書くと三崎坂ですが、さんさき坂と読みます。
 台東区教育委員会(平成十六年三月)の標識板によると、
 「地名の由来は駒込・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。また安永二年(1773)の『江戸志』によると、30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことから別名を『首ふり坂』という」とあります。
 また三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」の舞台にもなったところです。
さんさき坂①
 この通りも都道452号(神田白山線)の一部で車の通行量は多いのですが、道の両側にはお寺や老舗飲食店、シャレた民芸品店、雑貨店が並んでいるので、人通りは多く、それなりの風情があります。

 例えば千代紙の「いせ辰」
 千代紙とは伝統的な文様を木版手刷りした紙。なんとこの店には千種類の千代紙があるといいます。
さんさき坂② 
 道路の反対側ではそばの「大島屋」
 50年以上続く老舗で、秘伝の出汁つゆは創業当時そのままの製法を守り続けているとか。
なんとなく雰囲気がありそう。
由緒ある蕎麦店 
 そして喫茶「乱歩゜」。「歩」ではなくて「歩゜」です。
 店主はミステリーの愛好家で、店内にはジャズが流れているとか。
 ただし入ったことがないので軽々にはいえません。
喫茶・乱歩 
 このあたりになると坂は急になり、谷中墓地にぶつかります。
 さんさき坂はそこで終わりですが、都道452号(神田白山線)は南に折れるようにして上野まで続きます。
さんさき坂③ 

 地下鉄千代田線・千駄木駅から西方向に上る道が団子坂です。
 下から見ると真っ直ぐに見えますが、カーブがあってかなり急坂です。

団子坂下(千駄木駅出口) 

 坂の途中の説明板にはこうあります。
 「団子坂~文京区千駄木2丁目と3丁目の境
 潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
 千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々(護府内備考)

団子坂下から見る団子坂  

 団子坂の由来は、坂近くに団子屋があったともいい、悪路のために転ぶと団子のようになるからといわれている。また、「護府内備考」に七面堂が坂下あるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられる。
 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。<文京区教育委員会>」

団子坂・上り

  団子屋については夏目漱石「我輩は猫である」にも出てくるので、やはりこの説が有力でしょう。
 当時は二間半(5m弱)の狭い坂道でしたが、現在は都道452号(神田白山線)の一部になっているので、道幅は20m近くに広げられ、車の通行量も多い道になっています。

団子坂・下り

  「由緒ある坂にしては風情がない」
 2年前の初夏、ここを訪れたときの感想です。

夏目漱石旧居跡

 坂の上には夏目漱石旧居跡の石碑がありました。
 また近くには青いペンキも新しい手押しポンプが。
 押してみると多量の水がジャーッ。
 「このあたりは昔から地下水が豊富で、人家が多かったのかな」
 そんなことを想像させました。

手押しポンプ 

 また近くには観潮楼跡の残る鴎外記念本郷図書館もあるそうです。