今月某日、いつものスーパーマーケットで食料品の買出しをしていたところ、となりのレジで見覚えのある老人の姿が目につきました。
 前の俳句会の宗匠……。
 その老人はレジを終え、となりの台で食料品をカゴから持参の袋に入れてました。
 一瞬、どうしょうか、と迷ったのですが、「〇〇先生!」
 声をかけました。

 相手は一瞬きょとんとした目で私を見、しばらくして「ああ、京一郎さん……」
 ようやくわかったようです。(これなら知らんふりしててもよかった?)
 「その節はお世話になりました」と礼をいいました。
                              *
 私が前の俳句会を辞めたのは、私が骨折で入院している間、会場が公民館から団地の集会所に変わり、その理由が「公民館まで通うのが面倒だから」と知ったからです。
 これは数人の婆さんたちの多数派工作によるものですが、情けないのは代表者がそれをすんなり受け入れてしまったこと。
 代表者も団地の住人だったのですが、明らかに立場は違うはず。
 「そんな勝手は許しません。会には団地以外の方もいるし、公民館で俳句会を続けてるからこそ町の文化活動の一環と認められているんです」と一喝すべきでした。(そういえばみんなから尊敬されたのに)

 「これでは俳句会の体をなさない」
 ガックリした私は「辞めます」と宣言しました。
 先生には悪いけど、その先生だって最近は指導が雑だし、私のような素人目にも句力が落ちている、そのくせ自分の結社への勧誘には熱心……と失望気味だったので、これは仕方がない。
                               *
 「いやあ、女房のヤツすっかりおかしくなってねえ」と先生。
 奥さんは退院したものの、呆けてしまって、今や料理や食料品の買出しなど家事はすべて先生がやっているとか。
 その姿を痛々しく思いながらも、「今は別の俳句会に行ってます」
 先生は「ほう!」という顔をするので、今度の俳句会のやり方を説明しました。
 「それが本来の句会のあり方だ」と先生。
 「これからもしっかりやりなさい。京一郎さんらしい句をつくりなさいよ」
 そういわれて、ははーッ、恐縮しました。

 「奥様、くれぐれもお大事に」
 そういって別れました。
 話ができてよかったと思いました。
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 吉見百穴→岩室観音堂から通りに出てみると、松山城跡の表示があるので行ってみました。
 松山城跡入口とあるので、そこを入ると石垣らしきものもなく、ただの山道。
 それも昨夜の大雨で道はぬかるんでいて、上るのもひと苦労。
松山城跡
 「これは困った」
 かなり上ったのですが、山道はまだまだ続きそう。
 これではとても上れないとあきらめ、引き返しました。
                              *
 「おや、これは?」
 招福寺とあります。福を招く。実にありがたそうなお寺。
 さらにに「ぴんころ観音」の赤いのぼり旗。
 その怪しげな名前に惹かれ、境内に入りました。(怪しげなもの、大好きです)
招福寺入口

 ぴんころ観音の説明書きによると、
 「ぴんとは、ぴんぴん元気で健康に授かった命を大切に働き、長生きをし、寿命が来たら煩う(患う)ことなくころと大往生で人生を終るという意味です。
 ぴんころ観音様は、「元気」「健康」「長寿」「幸福」「大往生」が叶う観音さまです」
ぴんころ観音① ぴんころ観音②

 さらに「聞き取り地蔵」というのもあります。
 「●いやな話 ●悔しかった話 ●笑顔を無くしてしまった話 ●ストレスの溜まった話 ●人にいえない愚痴、悩み ●ここでしか話せない話……何でも話しちゃおう。
聞き取り地蔵
 貴方のお話何でも聞き取ります。
 お帰りの際には、嫌な事は全て聞き取ってもらい、 お忘れ物(日頃忘れてしまった笑顔、微笑み)をお持ち帰り下さい」
 というから、カトリックの懺悔聴聞僧のようなもの?

 さらに「念珠地蔵尊」というのもあります。
 「百八の念珠の輪をくぐり 罪障懺悔、罪障消滅し、煩悩を除去しましょう」
念誦地蔵尊

 デパートじゃあるまいし、ご利益が盛りだくさんのところがよけい怪しい。
 とはいえその怪しさを笑えば、この寺の思うツボ。はははは。やられました。
 先日「吉見百穴」の帰り、山を背に古い山門らしきものが目につきました。
 「廃寺?」
 気になったので、上がってみました。山門ではなくて、ここが本堂の1階部分。
 説明書きには「岩室観音堂」とあります。
観音堂
  それによると、この観音堂は弘法大師が岩窟を選んで、高さ一尺一寸(36.4㎝)の観音像を彫刻してこの岩窟に納めその名を岩室山と号したとか。
 いらい松山城主に庇護されてきましたが、北条についたため、天正18年(1590)豊臣の軍勢に滅ぼされ、それに伴い観音堂もが焼失したそうですす。
 その後江戸時代の寛文年間(1661~1673)に近郷の信者の助力を得て再建され、現在に至っています。
裏から見た観音堂
 「こんなところにお寺があるのね」
 「ちょっと不気味ね」
 とは当方のうしろからついてきたオバサマふたり連れ。
石仏①
 左手と右手に多くの石仏が並んでいます。全部で88体あるそうです。
 これは四国八十八箇所の霊地に建てられた本尊を模したもので、わざわざ四国まで行かなくても、ここを参ればそのご利益が得られる(?)というもの。
 もっともそんな虫のいい話はなく、この近辺一帯で「比企西国三十三所観音札所巡り」という巡礼コースがあり、岩室観音は第三番の札所。残りも巡れよ、ってこと?
石仏②
 こちらが石仏を観察しているうちにオバサマたちはさっさと2階へ。
 こんな急な階段、よく上るよ。
 こちらも負けじと上りました。
天井の絵画
 おッ、意外に見晴らしがいい。
 それもそのはず、これは京都の清水観音堂にならってつくられた「懸造り」構造の建物。
 懸造りとは山の斜面を利用して建てられたもので、江戸時代としては珍しいそうです。
舞台から下界を見る

 涼しい風が吹いています。
 私として札所巡りはどうでもよく、清水の舞台を思い出しました。
 川越夏祭りの二日目。
 この日は川越ゆかりの時代行列がありました。
 当時の川越藩主松平斉典公には「り〇な銀行川越支店」頭取の△△氏。「皆のもの、苦しゅうない」
 ははーッ。
川越藩主? 奴さん?
 とはいえ、この行列の呼び物は鉄砲隊の実演。
 会場本川越交差点に川越藩火縄銃鉄砲隊保存会の方々(約15名)がズラリと陣を構え、指揮役の「弾込めえ!」の合図に隊員たちは銃口から火薬を詰め、棒で押し込み、弾を入れ、キッと構えます。
鉄砲隊 火縄銃
 そして「撃て!」の合図にズドン!
 時間差を置いて別の隊員がズドン!
 (いずれも空砲です)
弾込め
 この射撃音に父親に抱かれていた幼児が「ギャーッ!」
 射撃音については、昔見た府中市の火縄銃保存会の実演のほうがはるかに大きく、「ドン!」と耳をつんざくような音で、腹にもズシンと響きました。
発砲①
 状況によって火薬の量や種類を変えているのでしょうが、今回は小さく間の抜けた音に感じました。これぐらいの音で泣くなよな、川越坊主。ひ弱いぞ。
 (ちなみにうちの子は泣かなかった)
発砲②
 この射撃、全員一斉ではなく時間差射撃であるところに、単なる儀式ではなく、実戦も考慮に入れられていると思いました。皆さんキリッとしてよかったです。

 それが終ると御一行は隊列を整えて次の会場(連雀町)に向かいました。
 本川越の会場ではこのあとフラダンスの演舞が行われました。しかしこれが……。
フラダンス
 最初は4人ほどのおばちゃんダンサーがスローな曲に合わせて踊ったのですが、あまり大きな腰の動きもなく、ハワイアンに詳しくない当方にとっては退屈極まりない。
 冒頭は「カイマナ・ヒラ」のような馴染みのある曲で大勢で賑々しくやったほうが観衆の心をとらえるのではないか。(あくまでも素人の意見です)
 二曲目もやはり静かな踊りだったので、単調さに耐えられず、会場をあとにしました。
 私のような人も多かったようです。

 こちらとしてはメイン(鉄砲隊の実射)を見たので、もう帰ってもよかったのですが、大正浪漫通りで太鼓と踊りのパフォーマンスが行われており、そのほうがよほど迫力があって面白かった。
太鼓と舞い① 太鼓と舞い ②

 夜はジャズの演奏もあるとのことでしたが、前日は帰りが遅くなったので、この日は早めに切り上げました。
 昨日(26)、今日(27)は川越百万灯夏まつり。
 これは嘉永3年(1850)に逝去した川越藩主で越前松平家8代当主・松平斉典公を偲んで家臣の娘が切子灯篭をつくって軒先に下げたことから、城下に広がり、趣向を凝らした提灯まつりとなりました。
埼玉県警カラーガード
 この「提灯祭り」は一時中断されましたが、昭和32年(1957)に復活、昭和57年(1982)からは「川越百万灯夏まつり」という名称に変更されました。今年で33回目になります。
川越女子高校
 いかにも城下町川越の夏祭りで、神輿や各学校のマーチングバンドやカラーガードがくりひろげられます。
 この日は川越女子高や埼玉県警のカラー・ガードのパレードがありました。
 カラーガード(Color Guard)とは、マーチングバンドとともにフラッグ、ライフル、セイバー(サーベル)などの手具を用いるパフォーマンス。
 県警のおネエさまが凛々しく見えました。
チアリーダー① チアリーダー②
 また絹織物の大産地だった文化を守ろうとのことで、「川越きものの日実行委員会」なる浴衣姿の女性のパレードもありました。しかし若い女性の姿は見られなかった。
川越きものの日実行委員会
 むろん若い女性の姿は多く見られました。女性というより女子。
 激しいリズムのダンスがお好みのようで、多くのグループが披露していました。
女子ダンスチーム
 他には♪ピ~ヒャラ、ピ~ヒャラ、♪ドンドコ、ドンドコ……の祭囃子で太鼓を叩いているのがほとんど女子。
まつりの宵 祭囃子
 夕方になってからは色とりどりの提灯が灯されたなか、神輿や囃子の山車が行き交います。
 女子の活動が目立つのも、祭りの発端が家臣の娘のつくった切子細工という伝統が息づいているからでしょうか。
神輿 粋な(?)オヤジも
2014.07.26 吉見百穴
 崖に数多くの穴が空いている「吉見百穴(ひゃくあな)」には以前から興味がありました。
 東上線沿線に住んでいるからには、一度は行っておかないと。
 ということで、昨日(07/25)行ってきました。
吉見百穴①
 吉見百穴(埼玉県比企郡吉見町)は古墳時代の末期(6世紀末~7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年(1923)国の史跡に指定されました。
吉見百穴②

 詳しい経緯は省略しますが、この横穴郡が注目されたのは(考古学が確立された)明治になってから。
 当初は「コロポックル人の住居」とされましたが、その後詳しく調査した結果、古墳時代後期の横穴式石室と同じもの、しかも葬られている人は「豪族」や「渡来人」といった当時のセレブだそうです。
頂上からの眺め
 現在確認できる横穴の数は219基といわれています。
 崖面には鉄製の階段が設えられ、上のほうまで見ることができます。
 穴のなかは二畳ほどの小部屋。高さは130㎝ほど。住まいとは考えられません。
横穴
 なかはひんやりしています。
 やっぱり遺体安置所なのか、と思いました。
                                *
 その後、太平洋戦争に突入すると、ここは大規模な地下軍需工場になりました。
 日本古代の貴重な史跡をダイナマイトで爆破して軍需工場をつくるとは、いかに日本軍が傲慢で愚劣であったか、これでわかります。こんな連中に日本の伝統文化が守れるわけがない。
軍需工場跡
 侵略戦争もさることながら、国内においてもろくなことをしてない。この戦争を正当化し、美化する理由はどこにもありません。
                                *
 また、ここでは「ヒカリゴケ」(=国指定天然記念物)も見られます。
 ヒカリゴケはコケ類の一種で蛍光作用があり、緑色の光を出しているように見えるので、この名がつきました。一般的には中部以北の山地に見られますが、関東平野で見られるのは植物学上珍しいそうです。
ヒカリゴケ① ヒカリゴケ②

 明治24年(1891)12月、正岡子規はここを訪れ「神の代はかくやありけん冬籠」という句を詠み、その句碑が立っています。
 当時は「コロポックル人の住居」説が有力だったから、「冬籠」と詠んだのでしょうか。
 子規に聞いてみるしかありませんが……。
正岡子規の句碑

 富士見市の北にある「びん沼自然公園」は市内有数の納涼地帯とのことです。
 同公園は大宮へ行く途中、「渡戸橋」の手前にあります。
 「近くじゃないか」
 ということで行ってきました。
びん沼自然公園
 「びん沼自然公園」は荒川の支流であるびん沼川の蛇行を利用して平成14年(2002)オープンしました。総面積は約5.7ha。
 なるほど。公園内に一歩足を踏み入れると、心なしかひんやりします。
 ヨーロッパの森林を思わせる雑木林と、その向こうは葦の繁る湿地。
展望デッキ
 とにかくだだっ広い。
 公園のなかほどに木製の展望デッキがありました。
 上がってみると、見えるのは湿地帯のみ。晴れた日には富士山が見えるとのことですが、この日は見えなかった。
デッキから見る湿地帯

 「うーん、これだけではなあ」
 自然そのものの公園であることはわかる。
 しかし、そのなかに一軒ログハウス調のカフェテラスがあってもいいのではないか。ここで飲む珈琲はきっと美味いに違いない。
対岸はさいたま市
 公園の北側にびん沼川が流れています。
 この川は元々荒川の本流でしたが、氾濫しやすいので大正14年(1925)改修工事が行われ、現在の荒川がつくられ、元の荒川は調整池になりました。これが瓶(ビン)の形をした沼ということで、「瓶沼(びんぬま)」と呼ばれるようになりました。
 今では水の流れがあるのでびん沼川と呼ばれています。
さいたま市(左)、富士見市(右)
 対岸はさいたま市。市境です。(といっても、なんの緊張感もありませんが)
 なぜか釣り人が多い。聞いてみるとヘラブナやバスがよく釣れるそうで、釣りの名所とか。
釣り人

 こっちは釣りをしにきたわけでもないのでそのまま帰りましたが、途中の田んぼで妙なものを見ました。
 「これは……?」
 マネキン人形。
モダン案山子① モダン案山子②
 どうやら案山子のつもりらしいけど、なんとモダンな。
 これが本日の唯一の収穫……?
 昨日(07/23)は大暑の日。午後からムワーッと暑くなりました。
 こんなときは川っぺりを歩いたら、少しは涼しいんじゃないか。
 ということで所沢市の南を流れる柳瀬川流域を散策してきました。

 柳瀬川は狭山湖(所沢市)から東にチョロチョロと、ときには滔々と流れ、新座市から志木市に入り、志木市役所近くで新河岸川と合流して、朝霞市で荒川に合流します。
 なかでも志木大橋から東武東上線の鉄橋までは桜の名所で、わが家から近いこともあってよく行きますが、この所沢はなじみがない。
清瀬橋から見る柳瀬川
 興味をそそられたのは、柳瀬川の南は東京都清瀬市であること。つまり柳瀬川は埼玉県と東京都を分ける県境の川ということです。

 ところが実際にきてみると、清瀬橋は丸ごと清瀬市の管轄。
 地図をよく見ると、川が県境になっているのではなく、川の大半は清瀬市の管轄。
 ちょっと白けましたが、このあたりは川幅が狭いので境界線など引いたってしょうがないのでしょう。

 南側を歩きました。こちらのほうが景色がよさそうな気がしたからです。
 釣をしている女性がいたので聞いてみると、オイカワやニゴイ、たまにブラックバスとのこと。
 「晩御飯のおかずになりそうですか?」
 「それだったらいいんですけど」(笑)
 そんな会話を交わしました。
釣をする人
 松柳橋という細い端がありました。地図上にはありません。
 この部分は川が所沢側にえぐれているので、南側も所沢市(下安松)という珍しい部分。
松柳橋 松柳橋から見る柳瀬川
 さらに下流に進むと川幅は広くなり、金山橋近辺では川遊びができるようになっています。
 この日は暑かったので、子どもたちが川に浸かってました。
 川原では家族連れが弁当を広げてました。(親は水に入ってもしょうがない?)
川遊び 犬も川遊び 食事風景

 ちなみに川の北側にある「金山緑地公園」はけっこう広いけど清瀬市の管轄。
 清瀬市の石碑もあり、看板もあります。
 県境を歩いても、なんの面白味もなかった。
金山橋① 金山橋② 清瀬金山緑地公園の石碑
 昨日(07/22)、関東地方は梅雨明けとなりました。
 昨年はもっと早く明けていたそうですが、そんなことに気がつく間もなく骨折事故を起こし、手術→入院の運びになりました。
 したがって去年の今ごろは病院のなか。

 当時のメモによると、この日(23日)で入院二週間目。「夕方から雨。下剤を飲む」とあります。便秘に悩んでました。
 右腕は三角巾とバストバンドで固定。左足はギプス固定。
 移動は車椅子。排尿は尿瓶で済ませていいました。

 環境が変わり、運動もしないので、大のほうが出なくなりました。
 座薬も効かず、「それでも出なければ浣腸します」と看護士さんにいわれ、ビビッていたところ、三週間目になって薬剤士さんから軟下剤を処方されたら出るようになりました。
 (最初からこれでやってくれえ。そうもいかないのか)
                              *
 その前の日(22日)、俳句の先生が見舞いにきました。
 「レントゲン検査してきて、そのついでに寄ったんだよ」
 この先生は出版社に勤めていたので、しばし編集談義に花が咲きました。

 その後、30分ほどして、やはり俳句会のK氏の見舞いを受けました。
 この人は先輩で並外れて俳句の上手な人ですが、「辞める」といったのを私が慰留したので、激しい口論になりました。
 重症患者相手に論争するほうもするほう(どこが見舞いだ!)ですが、身動き取れない身体でやりあう患者も患者(つい感情的になりました)
 その後はみんなで行った横浜の話になり、また俳句の話になると穏やかな口調になりました。
 その間病室は静まり返っていました。すっかり迷惑をかけてしまいました。。
                              *
 私のベッドは4人部屋の窓側。向かいは私より2歳下の糖尿病患者の男。
 内科病棟に空きベッドがないため、整形外科病棟に入れられました。ヤクザっぽい男でしたが、なぜか気に入られ、しょっちゅうバカ話をするようになりました。

 そんな折、となりに入ってきた右腕骨折男。会うなり「ぼくはお調子者です」
 彼は秩父の登山中、足を滑らせたとき手のつきどころが悪く、腕が外側に折れたとのこと。
 入院に関してはこちらが先輩なので、手術に臨む心構えなどを教えてやりました。
                              *
 二週間も経つと病院の生活にも慣れ、当分は3人で四六時中バカ話をして過しました。

 「同室の人と仲良くやってね」
 という息子からの忠告メールもなんのその、「入院生活って意外に楽しいじゃないか」と思い始めたのもこのころです。
 プロ野球にはまったく興味なくなったのに、高校野球は観ています。それも地方大会から。
 以前は府中市民球場の近くに住んでいたので、毎年この時期になると、何度か西東京大会を観に行きました。
 今は埼玉。それも由緒ある「大宮公園野球場」(参照)なので、気分がいっそう高まります。
スタンド風景

 野球というスポーツは球場で観るのとTVで観るのとはまったく違います。
 TVだとバッテリーと打者のやり取りが中心。投手と打者の表情まで映し出されます。
 しかし球場のスタンドからだと遠く離れているので、選手の表情はわかりません。
試合風景
 その代わり全体が見わたせます。どこを見ようとまったく自由。
 バッテリーを見なくても、一塁手や三塁手を見てもいいし、外野手でもいい。極端にいえばスタンドを見てもいい。選択の自由があるわけです。

 これは走者がいるときに、バントを阻止しようとして、一塁手、三塁手が突っ込んできたり、ゴロを打ったとき、内野手がどんなフォーメーションを取るのか一目瞭然。球の行方と野手の動きを切り替えるTVのほうがむしろ煩わしいぐらい。
放送席
 ただし慣れないと、フライが上がったとき、どこに飛んだかわからないことがあります。
 しかも見る場所によって、わかりにくい。いちばんいいのはバックネット裏の後方。(放送席があるところ)
 ここからだと、フライが上がる度に、「すわッ、ホームラン?」
 ほとんどは野手のグラブに納まるのですが、そんな期待感を抱かせます。これも球場ならではの醍醐味。
ノックの光景
                              
 プレーではありませんが、試合の始まる前と、5回裏終了時、試合終了後、選手全員でグラウンドを整備します。みんなトンボ(グラウンド整備用具)を使って真剣に土をならしています。
 それは義務でやらされているのではなく、「ぼくたちがプレーするグラウンドは、ぼくたちで世話する」という意気込みが感じられました。
 このような姿勢は、日本人サポーターがサッカーW杯で試合後スタジアムのゴミ拾いをしたことと、けっして無縁ではないと思います。
グランド整備
 今回気づいたのは、ファールボールを追いかけた捕手のマスク(フライを取るときは外す)を相手打者が拾って捕手に渡していたこと。
 打者にしてみれば、相手は自分をアウトにしようと球を追いかけた憎たらしいヤツ。そのマスクを拾って(なかには砂を払ってまで)渡すとは、なんと心の広いことか。
 これは今回観た試合のすべての打者に見られました。彼らにとってみれば当たり前のことかもしれないけど、私には「清々しい」光景でした。

 試合の前後にホームプレートを挟んで挨拶(審判にも)する風習もいいと思います。
 アメリカ人がこれを見ると、「日本人はベースボールを武道に変えてしまった」と思うそうですが、誰がなんといおうと、いいものはいい。
試合後の握手
 応援団のエール交換も好きな光景です。
 1回、7回、試合後、自チームを鼓舞したあと、必ず相手チームにもエールを送り、送られたほうは拍手で応えます。彼らにしてみれば、これは一種の儀礼的なもので、当たり前のことかもしれませんが、やはり相手を思いやる気持ちが出ています。
応援風景

 野球ができる感謝の念と、相手に対する思いやり。
 このようなことを感じるのも、球場へ足を運んだからこそ。
 いいものを見せていただきました。
 昨日(07/20)は夏の高校野球・埼玉大会を観てきました。
 埼玉県にきてから、さほど遠くないところに大宮公園野球場(県立大宮球場)があることに気づき、一昨年から行くようになりました。(昨年は骨折で行けず)
大宮公園野球場
 球場に着いたのは午前10時20分ごろ。
 外でワーワーと歓声が上がっていたので、入ってみると第一試合の狭山ヶ丘vs.秀明英光戦で、7回の表、狭山ヶ丘が一挙5点を上げたところでした。
スタンドは満員

 スタンドは(日曜日だったため?)けっこう混んでました。
 バックネット裏でも、前のほうの陽の当たる席は空いているのですが、屋根のあるうしろの席はギッシリ。熱中症を避けるため、辛うじて三塁寄りの最後列の席を確保しました。
 試合は6―1で狭山ヶ丘の勝ち。
                                *
 第二試合は埼玉栄vs.川越工。
 試合前のノックを観ていて、川越工のノックが雑な感じがしたので、「埼玉栄が勝つ」と予想しました。
 1、2回は埼玉栄が走者を出すもタイムリーが出ず無得点。
埼玉栄ー川越工戦
 ところが3回表、川越工は走者を溜めて長打が出たり、埼玉栄の拙い守備もあったりして一挙4点を上げました。
 それまで盛り上がっていた埼玉栄の応援席はシーン。「4点とはヤバイな」との声も。
 反対に川越工の意気は上がります。応援団が激しく動き、何度も水がかけられました。
埼玉栄・応援団
 その後は雑な展開になりました。
 埼玉栄の各打者は大振りが目立ち、凡打の山。
 川越工はヒットで走者を出すものの、拙い攻めで得点できず。8回などは3人の打者がヒットで出塁するも、ことごとく牽制死と盗塁死でスリーアウト。とんだ珍記録(?)です。
川越工・応援団
 とはいえ埼玉栄も集中力が切れたようで、9回表は凡ミスで2点を献上。
 結局6―0で川越工が勝ちました。
 予想では埼玉栄(強豪校)が勝つと思ったけど、野球はわからん。ノックの予想など当てにならない?
 川越工といえばミュージシャンの大友康平氏が出たところ。よろこんでいるでしょうね。
                              *
 第三試合は慶応志木vs.春日部共栄。
 わが家からすると春日部よりは志木のほうが近いので、慶応に親近感があります。
慶応志木ー春日部共栄戦
 ユニフォームはグレーの、いわゆる慶応カラー。カッコいいけど、野球も応援も春日部共栄に圧倒され、3回裏には一挙7点を失い、6回も3点取られて0-10のコールド負け。
 選手の動きなどを見ていると、実力の差は歴然としているように思われました。
慶応志木・応援団 春日部共栄・応援団

 今年の埼玉は浦和学院など強豪校が敗れ、どこが勝ち上がってくるのかわからない。
 これでベスト16が出そろい(出場は156校)、今後はTVで観るつもりですが、球場で観ただけに興味津々です。
2014.07.20 玉蔵院の涼風
 さいたま市(旧浦和市)は中山道の宿場町でした。
 今はその面影はありませんが、今も一般道路として使われている旧中山道の高砂町(浦和駅近く)に石碑があります。
中山道浦和宿の碑
 そこから300mほど北上すると、左手に門前通り。
 これが玉蔵院の参道ですが、ふつうに飲食店などがあり、およそ参道らしくない。
 それでも山門脇には弘法大師の銅像が立っています。
参道 山門 弘法大師

 玉蔵院は真言宗豊山派の古刹で、平安時代に創建されました。開山は弘法大師といわれています。
 天正19年(1592)徳川家康は10石の寺領を寄進。
 元禄12年(1700)本堂が焼失。その後再建されて現在に至っています。
本堂入口
 境内(広場?)を突っ切ると通りに出て、その向かいに本堂入口があります。
 そこに入ると石橋があり、そこから石庭を見わたせます。これが白砂の枯山水。
 「ここは京都の竜安寺か?」
枯山水
 本堂左手にある地蔵堂。木製のお地蔵様が祀られているそうです。
 今はさいたま市の文化財に指定されています。
地蔵堂
 本堂の前の通りは石畳になっていますが、木が多く、ここだけ涼しい風が吹きわたります。
 なんとなく懐かしい。
 京都の町並みを思い出しました。
玉蔵院の通り

 8月23日には、死後に餓鬼道に堕ちた衆生を供養する「施餓鬼」が行われるそうです。
 この施餓鬼は、杉戸・永福寺「どじょう施餓鬼」、秩父・四萬部寺「川施餓鬼」と並んで、関東三大施餓鬼といるとか。

 私はグルメ志向ではないし、食べ物には恬淡としている(健康志向ですが)つもりだけど、死んだら餓鬼道に堕ちるのかな?
 伊佐沼の西どなりに伊佐沼公園があります。
 ここは親水公園と森林公園に分かれていて、親水公園は子どもの水遊びで賑わい、森林公園はバーベキューで賑わいます。というか、バーベキューのみ。
伊佐沼公園① 伊佐沼公園② バーベキュー
 森林浴なんてどこの話。
 煙もうもう立ちこめるなか、みんな汗ダラダラ流して肉を食っている。
 さぞかし美味いだろうねえ、こんなところで食う焼肉は。
                              *
  伊佐沼の北側に「農業ふれあいセンター」があります。
  この前の公園(空き地?)は遊ぶところはありませんが、芝生や植え込みは刈り込まれ、色とりどりの季節の花々が植えられて、よく整備されています。
公園① 公園② 公園③
  子どもがキャーキャー騒ぐこともなければ、煙もうもう立ちこめることもない。
  静かで落ち着いています。
  おじさんはこっちのほうがいいなあ。
  (もっともなんの刺激もないので、退屈ですが)
                               *
 伊佐沼から700mほど東の「川越運動公園」
 ここは2年前に完成した公園で、陸上競技場、総合体育館、テニスコート、自由広場などの施設を備えています。
川越運動公園① 川越運動公園②
 それだけではなく、広場でキャッチボールやバドミントンもOK。
 この日は朝早かったので、人は少なかった。
川越運動公園③
 芝生広場にはすペリ台や健康遊具もあり、子どももお年寄りにも楽しめる公園です。
 早朝の伊佐沼。
 時刻は5時30分。夜は明けていますが、夏至のころに比べると、日の出が遅くなっています。
 それでもまだ陽は低く、白々と照らされた湖面を見ると、「きてよかった」と思います。
早朝の伊佐沼①
 ここへきたのは2年ぶり。
 毎年この季節には蓮を見にくるのですが、去年は骨折事故で入院したため、こられなかったのです。

 それだけに今回は5時前に家を出てきました。
 夜半に雨が降ったのか、道が濡れています。外はまだ薄暗く、涼しい。
 早朝がいいのは道が空いていること。
 おかげで車に脅かされることなく、40分で着きました。(いつもより10分も早い?)
早朝の伊佐沼②

 この季節(7月初旬~8月初旬)、蓮田一面に蓮の花が咲きます。
 そのため多くの人が訪れます。写真撮る人も。(私もそのひとりですが)
一面の蓮①
 「おッ、咲いてる咲いてる」
 蓮田一面の蓮の花。今年も健気に咲いています。
一面の蓮②
 「今年も見られてよかったよ」
 「やはりこの季節はこれを見なきゃね」
 と木道で話し合う老夫婦。
木道
 かと思えば体格のいい爺さんが木道を精力的に歩きまわって、大きなカメラでパチリパチリ。
 小柄な奥さんはなにもいわずに、付き従うだけ。
 いろんな夫婦がいるものです。
クローズアップ

 蓮もいいけど、こういう光景を見るのも面白い。
 久しぶりの伊佐沼は、やはり「きてよかった」
 今回は朝早くきたのがよかった。伊佐沼は早朝に限ります。
 今月の句会は私が披講係を務めました。
 当句会では出席者が選句した用紙を一括して披講係が読み上げます。
 なぜ一括するのか。
 これは私の想像ですが、出席者全員が順々に披講していくと、あとで披講する人は(前の披講に左右されて)変えることができるので、それを防止するためではないか。

 この披講係は当番制で、新人といえども免れず、私も「どんなものか、やってやれ」という気で臨みました。

 やってみると、他人の句を読み上げるのはつくづく難しい。
 例えば「もの足りて戦なき世に雹(ひょう)あまた」を「あられあまた」と読んだり、「漢みな止まり木が好き夏灯(とも)し」を「夏あかし」と読んでしまいました。(汗)
 また自分の句ですが、「夕立止むまで」は中七を守るため(?)「ゆだち」と読むそうです。

 披講係の役目はそれだけではなく、一句一句作者を聞いていく進行係もしなければなりません。
 これがけっこう難しい。
 というのは先生の解説は常に脱線して駄洒落が飛び出すので、(時間の制約上)どこかで切り上げる必要がある。さりとてなにもいわせないと師に失礼だし、味気ない。気を遣います。
 それでも初めてにしてはよくできた……かな?

 さて今月の最高得票句は「①見せたくて褒められたくて初浴衣」(5)〇〇〇〇
 そして「②半夏生天衣無縫の黒部川」(5)

 ①はほとんどの人が、「小さな女児の初浴衣を詠んだ句」と解釈しましたが、作者は「友人宅に泊まった(金髪の)女子留学生が初めて浴衣を着たときの心境を詠んだ句」と明かしました。
 可愛いというよりは、ちょっぴり艶っぽい句です。
 これを詠んだのはまたしても達人のオジサン。〇(特選)のひとり占め。

 ②は渓流釣りの好きなオジサンの句。
 この人は魚が釣れると先生のところに届けにくる。あるとき大量にもらったので、先生が調理法を聞こうと電話したところ、奥さんが出て、「えッ、あの人、魚持って帰ったことなんか一度もない」といったとか。そんなオヤジです。
 この句は「天衣無縫」の四文字熟語で表現を逃げていると思い、私は入れなかった。
 勿論①には入れました。

 達人のオジサン、遊びの句もつくっています。「白勝てよ紫負けるな花菖蒲」(1)
 この句は「勝負」と「菖蒲」をかけています。(「どれぐらい入るか試した」ですと)
 なんたる余裕。
 もっとも私は入れなかった。その手にゃ乗らんよ。
白や紫の花菖蒲

 ちなみにおネエさまは今回も惨敗。両巨頭(?)の割を食いました。
 私は4票(〇ひとつ)、これでも善戦したほうです。
2014.07.16 七月の句会
 先日、七月の句会が開かれました。
 私の出句は
 ①炎天下塩吹く伊達の黒い服(兼題・黒)
 ②朝早く遠出にときめく夏至の空
 ③御堂筋送り送られ夏至の宵
 ④さよならは夕立止むまで預けをり


 ①大事な用で人と会うときは、暑い日といえども黒い服でピシッときめたい。しかし炎天下だと汗ビッショリになって、それが乾くと塩が吹く。黒い服だとよけいに目立つ。それを皮肉って詠んだもの。

 ②夏至の日は昼の時間が長いので、遠出に有利。朝早くから、「今日は目いっぱい楽しむぞおッ」という意気込みを詠んだ句。
夏至の朝

 ③これは坂本スミ子「たそがれの御堂筋」の「♪送りましょうか 送られましょか」にヒントを得たもの。夏至の宵はなかなか暮れないので、「送り送られ」している様子を詠みました。

 ④最初は「夕立の止むまで延ばす別れかな」にしたのですが、説明的で面白くないので、ひっくり返しました。「別れは」では上五に合わないので、「さよならは」にしました。
夕立

 結果は、
 ①……(1)
 ②……(0)
 ③……(1)
 ④……(4)〇
 (出席8名、出句36句)

 ①にもう少し入ると思ったのに、1票(絵描きオジサン)だけ。絵も描くけど、俳句のベテラン。この人に認められたのはうれしい。
 ②には内心期するものがあったのに、ゼロとは心外。

 ③は遊びの句ですが、入れたのは先生。「これは欧陽菲菲の歌ですね」といわれたので、「坂本スミ子です!」と気色ばんで訂正してしまい、私の句だとバレました。
 先生は苦笑しながら、「うん、御堂筋がよく効いています」とお褒めのことば。
 (先生はこういう句が好きだからなあ。食いついてくると思ったよ)
御堂筋

 ④これに4票入るとは、素直にうれしい。
 「これは単に『夕立が止むまで別れを延ばそう』というのではなく、『まだ別れたくない』という思いを、夕立をいいわけにしているのです」と説明されました。

 その通りです。よくぞ深読みしていただきました。
 京急三崎口駅は港よりかなり内陸にあります。
 そのため三崎港に行くには三崎口からバスに乗らねばなりません。
 距離にすると約3km、歩くと30分以上かかります。
 これが私には大いに不満。
 「こんな中途半端なところで止めないで、(線路を)港まで延ばせよな」
三崎口駅

 ではなぜ三崎口駅は内陸にあるのか。
 これは私の勝手な推測ですが、京急の営業上の遠謀深慮(?)ではないか。
 ①どうせみんな(三浦半島先端の)三崎港と城ヶ島へ行くのだから、手前で止めれば否が応でもバスに乗らねばならない。そのため京急バスの利用率が上がり、収入が増える。
京急バス

 ②三崎港は潮風の強いところ。そんな海っぺりに駅をつくれば、駅舎はむろん、レール、送電線、車輌、機械部分すべて錆びやすくなり、消耗が激しくなる。その経費はバカにならない。
 以上の理由で、港から遠ざけたのではないか。(あくまでも個人的見解です)
                              *
 ということで、駅周辺にはなにもない(?)
 ガイドマップにお寺が記されていたので、そこでも行ってみようと歩き回ったのですが、四方畑に囲まれ、どこをどう歩いているのかさっぱりわからない。
 (私にはよくあることですが)
 それでも野菜はなにを植えているのかと見たら、見事な南瓜でした。
 「三浦半島は大根が有名だけど、南瓜も特産なのか」
南瓜畑 南瓜
 結局寺は見つからず、やっと大きな建物にたどり着き、もう歩きたくなかったので、「この近くにバス停は?」と聞くと、「バス停より駅(三崎口)が近いですよ」
 「農業技術センター」の事務所でした。
 なんのことはない。♪グルーッと回って元の位置ィ。(大恥かきました)
 南瓜を撮ったのが唯一の収穫?
                              *
 収穫はもうひとつありました。
 駅の食堂「えきめん茶屋」
 腹が空いたので、きつね蕎麦とイワシの唐揚げを頼みました。
えきめん茶屋 きつね蕎麦とイワシの唐揚げ
 蕎麦はともかく、イワシの唐揚げは6本で200円。安い。少々塩辛かったけど、カリッとして美味でした。
 駅自体はけっして悪くないのですが……。
2014.07.14 油壺~荒井浜
 油壺(あぶらつぼ)のバス停。そこから南側に降りる道があります。
 急な坂ですが、降りてみると、なんとも静かな海。数隻のヨットが停泊しています。

 これが油壺湾です。「海がきれいなところ」と以前から聞いていました。
 たしかに波のない穏やかな海。
油壺湾
 油壺の由来は湾内が油を流したように静かなためとも、16世紀三崎城が落城した際、三浦氏の死体で水面に油が漂ったからともされています。
 油壺湾は三浦半島の南西部に位置し、相模湾に面しています。北側の網代崎と南側の名向崎に挟まれたリアス式海岸の入り江で、東西に細長く、外海のうねりが到達しないので、昔は漁船の避難所になっていましたが、今はヨットハーバーになっています。

 しかし海岸の道はそこで切れているので、再びバス停にもどって、西に進んで荒井浜に。
 ここは海水浴場。数軒の海の家があります。
荒井浜ビーチ 荒井浜・海の家
 ガイドブックでは、「油壺マリンパーク」の周囲をぐるっと回れるように記されてますが、岸壁で閉ざされているように見えます。本当に行けるのか?
 海の家の人に聞いてみると、「行けますよ」
岸壁① 岸壁②
 それに意を強くして、進みました。しかし……。
 行けども行けども岩場ばかり。
 この岩場というのが実に歩き辛い。足の着地角度がまったく不規則。そのため足首がとんでもない方向にねじられたりして、痛いのなんのって。これじゃ山歩きより辛い。痛めていた左足の外くるぶしが早くも悲鳴をあげました。
岩場
 何度も「もどろうか」と思いましたが、もどるにしても同じ岩場。行くも地獄、もどるも地獄。
 「こうなったら、前に進むしかない」
 それにしてもキツイ。足首だけではなく、膝ががくがく。
 (コースもハードですが、老化もあります)
 しまったなあ、くるのではなかった、とも思いましたが、前に進むしかありません。

 どれほど歩いたか、前方に石段と手すりを見たとき、「やれ、助かった」
 やっと人工の道に出会えたからです。それまではなんの道もない、ただの岩場でしたから。
岩場の手すり

 そして小さな湾にたどり着きました。胴網(どうあみ)海岸です。
 ここにも海の家があったけど、こんな寂しいところで海水浴?

 その後アップダウンの激しい細い道を歩いて、やっと着いたのが「三浦道寸の墓」
 三浦道寸(義同=よしあつ)は相模三浦氏の当主でしたが、北条早雲に滅ぼされ、最後の当主といわれています。(前述の油壺伝説にも関連あり)
三浦道寸の墓
 これでやっと「油壺マリンパーク」の周囲をぐるっと回ったわけですが、疲れました。
 この年でこんなハードなところを歩くとは。
 一昨年の秋、鎌倉の「天園ハイキングコース」を歩いたとき、「こんなハードなことはこれで最後だろう」と思ったのですが、けっこうキツイ。(もう懲り懲り)

 その後、横堀海岸にも降りましたが、さっきの岩場歩きに比べれば楽なものでした。
横堀海岸① 横堀海岸②
 川越の蔵造りの街並を知っている人でも、川越織物市場跡を知っている人は少ないでしょう。
 この織物市場は織物産業が盛んになった時期、川越に製品を集約させるために、明治43年(1910)につくられた市場です。
 広い中庭を挟んで2棟、2階建ての長屋形式の建物は、江戸時代の町家の風情が感じられます。
正面の建物
 川越は当時商業の中心で、一時は活況を呈しましたが、対面形式の商売は時代遅れとなり、また恐慌の影響を受けるなど浮き沈みを繰り返し、大正8年(1920)に閉鎖されました。
 その後は賃貸住宅になりました。

 ところが平成13年(2001)11月マンション建設のため解体計画が発表されると、保存を求める市民有志が署名運動を起こし、川越市に陳情。マンション業者、市、市民の話し合いの結果、市が買い取り、保存されることになりました。(平成14年)
 平成17年(2005)には川越市の有形文化財に指定されました。(川越織物市場の会)
向かい合った棟

 今後は再生活用するために、保存修理と整備をしていくそうです。
 おそらく「新たな観光地に……」と目論んでいるのでしょうが、それには莫大な費用がかかるので、今はコツコツと。
 ふだんは閉鎖されていますが、月に一度見学できます。
所どころ開いている

 私が行ったときは雨が降っていて、見学者は少なかったのですが、関係者の方もおられて、いろいろ説明していただきました。
関係者の方々

 建物のなかに映画「無法松の一生」のポスターが貼られていたので、聞いてみると、昭和38年(1963)の作品(監督・村山新治)のロケ地になったそうです。
 「無法松……」といえば舞台は北九州の小倉、それがなんで川越で? との疑問に駆られるけど、この川越には明治の面影が残っていたので、格好のロケ地になったとのこと。
 「とくにこの建物は(主人公)松五郎(三國連太郎)の住まいとして撮影に使われたんですよ」
 えーッ、松五郎の。でもそういわれると似合うような……。
映画のポスター

 向かい側にちょっと変わった台が置かれていたので、聞いてみると、「イベント関係の人が、休憩用につくった」とのこと。
 なーんだ、最近のものか、とガックリしたけど、これはこれで風情があります。
風情のある台

 また敷地内には旧栄養食配給所も残されています。これは当時の従業員のために中小織物工場主たちが設立したもので、やはり市の文化財に指定されています。
栄養供給所

 富岡製糸場(群馬県)が世界文化遺産に登録されたので、織物市場もそれに便乗できるかも……?
 直木賞を受賞した車谷長吉の同名小説を映画化したもの(2003年)です。
                              *
 尼崎の陋巷にひとりの青年が流れ着きました。名は生島与一(大西滝次郎)。
 焼鳥屋「伊賀屋」の勢子(大楠道代)の世話で、安アパートに住み、モツを串に刺す仕事をあてがわれます。安い仕事ですが、黙々とやり続けます。
赤目…①
 「あんたは変わった人や。こんなところにいる人やない」と勢子にいわれます。
 同じことは若い女・綾(寺島しのぶ)にもいわれました。
 綾は刺青師・彫眉(内田裕也)の愛人で、ヤクザ者の兄がいます。
赤目…②
 あるとき綾が生島の部屋にやってきました。彼女の背中には迦陵頻伽の刺青が彫られています。
 ふたりは激しく抱き合いますが、綾は「生島さん、私と逃げて」
 極道な兄のために3000万円もの借金ができた今、博多に売り飛ばされるといいます。
 生島は綾を連れ、大阪天王寺、そして赤目四十八瀧(三重県)を彷徨います。
 「もう、死ぬしかない」
 しかし、ふたりは死にきれず、綾は生島と別れ、ひとり博多へ向かいました。
                              *
 タイトルからはおどろおどろしいイメージを与えますが、「心中未遂」というので、これは「ヘタレ」の物語だなと予想したところ、その通りの結末です。予定調和とでもいうのか、意外性もなにもない。

 この主人公はなにを拗ねたか、尼崎の陋巷にやってきて、好奇の目にさらされながらも安い仕事を黙々と続ける、それでいて「あんたはこんなとこにいる人やない」といわれます。
 それは自分でもわかっていて、「この世に居場所を見入出せない」と思っています。
赤目…③

 「オレはどこへ行っても異邦人だなあ」
 これは大学を中退し、港湾労働者→港の酒場のバーテンダー→ピンクサロンの客引きになった友人のことばです。
赤目…④
 彼ほどではありませんが、私も社会人になる前、(短期間ですが)似た体験をしました。
 そのため当時は「オレはどこへ行っても異邦人」には共感を覚えたものです。
赤目…⑤
 しかし、その後家庭を持つようになると、当時のことは否定的になりました。
 「あんたはこんなところにいる人やない」
 さらに「どこへ行っても異邦人」「オレには居場所がない」
 これらは一種の自己陶酔であり、所詮はカッコつけ。
 太宰治より続く「あかんたれインテリ」の系譜。どこまで母性本能をくすぐれば気が済むのか。
赤目…⑥

 我われ日本人は、もうそろそろこれから決別してもよいのではないか。
 今、60代後半にもなった私は(当時の自戒を込めて)彼らにこういいたい。
 「甘ったれるな。自分の居場所ぐらい自分で獲得しろ!」
 三崎の寺社や商店街など、歩き回って少々疲れました。お腹も空いたし。
 時刻は10時50分。
 「マグロでも食べるか」
 前回きたとき、喫茶「岬」の角を入って突き当たりにある鮮魚店直営の食堂があるのをマークしておきました。
鮮魚店①
 開店は11時。
 そこで椅子に坐って待っていると、あとからやってきた自転車ライダーのお兄ちゃんが予約表に記入してました。
 「えッ、それに書くの?」
 「そうだよ」
 ということで、こちらも記入。
 席に関して<椅子、座敷、どちらでもよい>には、ブーツを脱ぐのが面倒なので椅子に〇を。
待合椅子 予約表
 11時になって、食堂のおネエさんに名前を呼ばれ、店内に案内されました。
 店内は三方壁に囲まれた窓のない狭い部屋。息が詰まりそう。
 2階が座敷らしいけど、やはりこんな感じ? いずれにしても、もう遅い。
店内
 お茶に関してセルフサービスは仕方がない。しかし窓ひとつない閉ざされた空間で食べるのはどうも……。

 メニューを見て、「まぐろ定食」(1400円=税込み)を頼みました。
 これがそうです。
まぐろ定食
 味は? むろん美味しかった。魚も新鮮だし。
 ただし現地ならではの割安感はそれほど感じなかった。
 これぐらいの料理なら、横須賀では1000円前後で食べられる。それとどう違うのか。
鮮魚店② 干物
 それに食べる空間が……。
 海の見える店内で、とはいわないけど、せめて外の景色ぐらいは見せてくれないと。こんな閉鎖的なところでは食べた気がしないぞ。

 今度三崎にきたら、別の店で食べます。
 三崎のなかで、ここも私の好きなところです。
 最初にここを訪れたとき、家族連れが釣りをしていて、とても楽しそうに思えたからです。
魚釣りする家族

 ここは「花暮(はなぐれ)岸壁」といって、対岸に城ヶ島、左手に城ヶ島大橋が見えます。
 釣り人の間では人気の釣り場だそうです。
 釣り方は、投げ、ウキ、サビキ……なんでもOK。
 アジ、イワシ、サバ、シロギスなどが、簡単に釣れるそうです。
花暮岸壁①
 というのも、大きな船が停泊するので水深が深く、それほど遠投しなくてもいいそうで、「ここなら初心者でも面白いほど釣れるよ」(釣り人)とのことでした。
花暮岸壁②

 この花暮岸壁、遠洋マグロ漁船出港の拠点になっています。
 そのため乗組員の家族用の待合室があって、説明板には、
 「いつまでも尾をひく別れのテープ 胸をさす出船の汽笛、港町の哀歓を見ることができます」
 と感傷的な文章が書かれています。
花暮岸壁③
 さらに、
 「かつて、このあたりは一面の岩礁が小さな入江をつくっていたところで、磯崎と言われていました。享保年間(1720年代)後背地の丘を崩した埋立てや、昭和2年に始まった県の漁港埋立を経て今日に至ったものです。
家族待合所①
 花暮の地名のおこりは『昔、城ヶ島ノ花ニ貴賎ココニ集リ眺望、観賞シテ日ヲ暮ス……』といわれています。
 花暮は古くから三崎漁村集落の中央部にあたり、明治以降の急激な三崎の水産物の流通海運の進展に需要な役割をはたしてきた地でもあります。三浦市」
 とありました。
家族待合所②

 この待合室、観光客でも受け入れOKの感じでしたが、
 「船員さんの休憩所  船員さんとご家族の方、船舶関連のお仕事をされている方、どうぞご利用ください。 積み込みトラックの運転手さんもどうぞ」
 との貼り紙に、いずれにも該当しない当方は遠慮しました。
2014.07.09 三崎・商店街
 三崎の商店街は以前から行きたかったところです。
 横浜・横須賀の路地裏の写真ばかり撮っているブロガーさんの記事によく出ていたからです。
 それによると、三崎の商店街は「錆びたトタンの、うら寂れた、レトロな街」との印象でした。
商店街
 今回二度にわたってこの商店街を歩きましたが、「錆びたトタン」は大袈裟。
 たしかに路地裏などを見ると、錆びたトタンが目につきます。
路地①

 しかしこれは港町の宿命というもので、年中強い潮風に晒されれば、錆びやすくもなります。
 (湘南に住む友人が「自転車がすぐ錆びる」といってました)
 そればかり撮って掲載すれば、「三崎は錆びたトタンの街」の印象になるよ。
港が見える

 ただし、人は少なくシャッターが目につきました。
 開いているのはマグロ定食を売り物にする食堂や、洋品店、酒屋さんなどで、あとは開いていても店の人が見当たらない。
 「これで商売が立ち行くのか」と他人事ながら心配になります。
洋服店 ピザ店

 「かつてはマグロ遠洋漁業の町として栄華を極めたこともある」とのことですが、近年はその水揚げ高も減少しているそうです。

 それでも一歩横丁に入ると、錆びたリアカーが置かれていたり、喫茶店があったりと、それなりに味わいがあります。入らなかったけど、レトロなカフェレストランもありました。
 なるほど、風情のある街並です。
路地② 路地の奥に喫茶店

 聞くところによると、そのレトロさを活かして「昭和の商店街」と銘打って町興しをしているそうです。事実、映画やドラマのロケに使われているといいます。
 この日も大きなカメラを抱えたオジサンがあちこち写真を撮ってました。撮るのはレトロな風景。
 (私ではありませんよ。私は小さなコンデジ)
レストラン
 この三崎、日曜の朝早く「朝市」で賑わうそうです。
 しかし私のようなものは無理。朝市に行くには前の日から泊り込む必要があります。
 それに海産物を買ったところで、持ち帰るのに時間がかかるし、宅配に頼むとなると輸送費がバカにならない。結局現地で食べるしかないのです。
壊れた時計が…
 「食べるといっても、そんなにいっぱい食べられない」
 朝市は当分お預け、かな。
 今日は7月8日。
 ちょうど一年前、骨折事故を起こしました。

 ロフトから落ちて左足と右腕を痛め、身動きが取れなくなりました。
 そのときは「捻挫と脱臼」と思い、翌日まだ治ってないようだったら医者に行こう、と考えていました。

 腕は鈍痛。激しい痛みではなかったけど、動かないのが辛かった。肩が開かないので、右腕が腹の上にドサリと乗ったまま。重い。ダラダラと脂汗が流れました。

 私は、循環器系の病で倒れたとき、従容として死につこうと考えていました。孤独死は望むところ。

 しかし、これでは死ねない。ただ苦痛あるのみ。
 そのとき湧き起ったのは、「こんなことでくたばってたまるか」という強い思いでした。

 それがあったからこそ右肩の傷みにひと晩中耐えられたのだと思います。(参照

 その後は、救急車→病院検査(左足距骨粉砕骨折、右上腕部剥離骨折)→入院→手術→リハビリ……と約2ヶ月もの入院生活が続きましたが、この夜の重苦しい状態に比べれば、天国のようなものでした。

 これは私の人生にとっても大きなできごとでした。
 骨折、全身麻酔手術、長期入院……いずれも初めての体験で、人生観が大きく変わりました。

 ①これからはできるだけ人のためになることをしよう。
 ②人に対しては、会えるときには会っておこう。

 以前の私からすれば、大変な変わりようです。

 そのきっかけになったのが昨年の今日。
 したがってこの日は、私の「骨折記念日」とさせていただきます。
 A君と朱葉会展を観終り、「珈琲でも飲むか」
 しかし出たところにある「STARBUCKS」は満員。
 仕方がなく広小路近くの「ルノワール」に行くことにして、公園内を南下しました。
上り口
 「このあたりは春になると桜が咲いて、賑わうぞ」
 「知ってるよ、何度かきたことがある。花見もやったことがあるし」
 上野公園については熟知してるようです。
清水坂
 「じゃあ、あれ知ってるか。清水の舞台」
 「えッ、そんなんあるんか」
 「まあ、清水の舞台いうても、チャチなもんやけど」
 彼を清水観音堂に案内しました。

 清水観音堂は京都の清水寺を模した舞台づくりのお堂で、寛永8年(1631)天海大僧正により建立されたもの。この舞台は本場とは違って朱塗りです。
清水の舞台
 「へエー、こんなとこあったんや」
 「うん、ここから向こうに不忍池が見えるやろ。あれは琵琶湖に見立てとんのや」
 「なるほど、琵琶湖か」
 彼は珍しがって何枚か写真を撮ってました。
 今回は歌川広重の「名所江戸百景」で描かれた「月の松」がつくられてました。(2年前はなかった)
月の松越しの不忍池
 本堂には千手観音が祀られているそうで、安産・子育てにご利益あり。(撮禁)
 アッちゃんの十一面観音とは観音つながりです。
本堂①
 その後、ルノワールで珈琲を飲みました。
 「不思議なもんや。なにもしてないのに、60過ぎてからこれまで途絶えていた人間と急につながるようになった。これが人生か、と思ったよ」
 「同感や。オレも今回初めて同窓会に出席して、友好関係が急に増えたわ」
 「年取ると、おもろいことは向こうから転がり込んできよる。長生きはするもんや」
 そんなことを話し合いました。(久しぶりの関西弁です)
本堂②

 それもこれも京都の女流画家アッちゃん(慣れなれしくてゴメン!)のおかげ。
 改めて感謝です。
 一昨日(07/04)上野の都美術館で開催中の「第94回朱葉会展」をA君と観てきました。

 朱葉会とは大正7年(1918)女流画家の活動拠点として発足した団体で、創立委員は与謝野晶子、小笠原貞子氏……など、錚々たる顔ぶれ。
 しかも当時の顧問・審査員が満谷国四郎、有島生馬、岡田三郎助、安井曾太郎、辻永、藤田嗣冶氏というから、いかにレベルが高いかがわかります。
上野駅・公園口

 その伝統ある朱葉会に京都に住む同窓生アッちゃんが出品しています。
 彼女は同会の会員。相当実力がないと会員にはなれないはず。

 先日(07/01)新松戸でA君と会ったとき誘ったら、ふたつ返事で「オレも行く」
 持つべきものは取手の友、意気に感じるとはこのことです。
上野公園

 「まず、彼女の作品は……」
 会場はいくつもの部屋に区切られ、出品数も多いので、どこにあるかわからない。
 そのため作者名を確認しながら観てまわりました。
都美術館
 「あった!」
 十一面観音像。
 そういえば「彼女は仏像画を描いている」とM君から聞かされていました。
 なるほど、こんな絵を描くのか。
朱葉会展
 十一面観音像は長谷寺(鎌倉)にあるのですが、非公開のため、いつも観るのは紫陽花ばかり。
 写真で観る十一面観音像は、観音菩薩の頭に10体の菩薩の顔が冠状になっています。

 彼女の描いた十一面観音像は、写真よりやさしく、柔らかみがあるように感じられました。
受付

 それにしても、風景、人物、動物……ではなくて、なぜ仏像を。
 それも十一面観音とは「衆生の十一品類の無明煩悩を断ち、仏果を開かしめる功徳を表す」(wikipedea)とされるので、相当難しいテーマに挑みました。
 そのあたりの彼女の心境を聞いてみたいと思いました。
 三崎港から少し山手に入ったところにある海南神社。相模国三浦総鎮守。

 当社の歴史は古く、貞観6年(864)皇位継承争いで謀反人扱いされた藤原資盈(すけみつ)が九州を船で脱出するも、シケに流されて三崎に漂着。当時三崎の人々は海賊に苦しめられていましたが、資盈はこれを平定。そのため資盈の没後ここに祠を建てて祀ったのが始まりとされています。(説明書き)
海難神社
 またここは「料理の神様」ともいわれ(由来省略)、包丁塚があります。
 これは築地神社にもありました。ここもマグロの本場だけに、あって当然という気もします。
大銀杏の木
 なお境内には樹齢800年、周囲5mの銀杏の木があります。
 これは1192年、鎌倉幕府を開いた頼朝が三浦半島の水軍の敬意を表してここに植えたとされています。

 三崎下町銀座の通りから港の反対側は急勾配の丘がそびえており、そこにふたつの寺院が並んでいます。光念寺と本瑞時。

 光念寺は浄土宗、山号は見龍山。
光念寺 光念寺・本堂

 本瑞寺は曹洞宗。
 ここには永正13年(1516)、小田原北条に滅ぼされた三浦氏の菩提寺です。
本瑞寺・鐘堂 本瑞寺・石仏

 丘の上にあるので見晴らしがよく、三崎港や城ヶ島が見わたせます。
 また春は桜の名所ともいわれています。
寺からの眺め
 このふたつの寺院、隣接していますが、表門から移動しようとすると、石段の参道をいちいち上り下りしなければなりませんが、裏門からだとその必要はないので、すぐ移動できます。
本瑞寺・参道
2014.07.04 三崎港、再び
 6月19日の夕方、三崎港を散策してすっかり気に入った私は、数日後再びここを訪れました。

 「なるほど、朝には朝の顔がある」
 朝といっても午前9時すぎ。
 それでも夕方とはまた違う光景が見られます。
停泊する漁船

 停泊する漁船に前日収穫されたイカが干されています。漁港ならではの光景。
 埼玉からきた者にとっては新鮮です。
スルメ① スルメ②

 産直センター「うらり」に入りました。(前回は閉店で入れなかった)
 ざっと見回っての感想は、「魚屋さんの集合体」(悪いね)
 魚は新鮮とのことですが、メチャ安いということでもない。
産直センター・うらり
 仮にマグロの切り身を買ったところで、持ち帰るのに時間がかかる。宅配に頼むとなると輸送費のほうが高くなる。
 結局近所の魚屋さんで買ったほうがいいという、身もフタもない結論に至りました。
 要は現地で食せばいいこと……。(これはあとで述べます)
PR映像

 ただしこの「うらり」のいいところは2階のデッキがあること。
 ここから漁港が見わたせます。
ボードデッキ
 ここなら湾のノドの部分が見えるし、対岸の城ヶ島も見えます。これは一見の価値あり。
三崎港 向かいは城ヶ島

 とはいえ、ここにばかりいてもしょうがない。
 漁港の潮の香りを胸いっぱい吸って、産直センターをあとにしました。
 一昨日(07/01)茨城県T市に住む同窓生のA君と新松戸で会いました。
 彼とは小、中、高と同じでしたが、同じクラスになったことは一度もなく、高校時代いくつかの教科で一緒になり、そのときの仲よしグループの一員でした。

 飄々とした性格で、変テコリンなクイズを出すのが得意。
 「ここに10m間隔で6本の樫の木が立っている。そこへ5匹のサルが一度にすべての木を登るにはどうすればよいか」
 うーん、いくら考えてもわからない。
 「参った、降参」というと、
 「これは不可能なんや。むつかしござる(六樫五猿?)いうて」
 「なんや、それは……」
 そんなアホなことばっかり話してました。

 彼のことは京都市在住の写真家N君が教えてくれました。
 こちらは小学校の同窓会を目論んでいたので、ぜひ会いたかった。
 会う場所を新松戸にしたのは、ここが武蔵野線と常磐線の交差駅だからです。
新松戸駅前①

 「ちょっと道が混んどった」
 彼は車でやってきました。
 新松戸で私を拾って近くの喫茶店へ。

 彼は重いアルバムを4~5冊持ってきました。
 車ならではの利点ですが、事前に「写真など資料になるものを持ってきて」との要望に、きちんと応えてくれたのです。

 小学校のアルバムはありません。クラスごとの写真のみ。
 「こいつ、このクラスやったんか」
 改めてわかることが多かった。
 というのも他の2クラスに関しては、誰がどのクラスだったかわからなかったから。
 このクラスは勉強のできる美女子が多い。それに引きかえ……。

 「アイツはえらい老けよったたな。この前(同窓会)会うてビックリした」
 「水球やっとったから筋肉隆々やったのに、干からびた爺さんになっとった」
 「若いころ運動で鍛えても関係ないんやな」
 話題は高校時代に。

 「キミは変なクイズをよう出したな」
 例のクイズ(六樫五猿)のことを話してやったら、「せやったかなあ」
 まったく覚えとらん。
 もっともこっちだって、彼の仲間の写真を見せられても知らない顔が多かったので、人のことはいえないのですが。
新松戸駅前②

 彼はT市に住むものの、京都にも家を持っていて、しょっちゅう行き来しているとのこと。
 「本当はここを引き払って京都にもどりたいんやけど、今売っても大損するし……」
 これに関しては千葉県A市に住む幼なじみも同じようなことをいってました。
 みんな年取ると故郷に帰りたがる。そんなものなのか。

 こうして2時間ほど語り合って別れました。「じゃあ、またな」
 非常に有意義なひとときでした。
 毎年6月には紫陽花を見に鎌倉へ行くのですが、一昨年、昨年と行ったので、「今年はもういいかな」と。
 それでも有名どころに一度も行かずに終るのは口惜しい。
 そこで昨日行ってきました。千葉県松戸市にある本土寺(ほんどじ)。
 日蓮宗の本山。山号は長谷山です。
山門
 本土寺は文永6年(1269)、日蓮に帰依した蔭山土佐守が「小金の狩野の松原」(現松戸市小金近辺?)に法華堂を建てたのが起源とされています。
 その後、建治3年(1277)曽谷教信(胤直)が平賀郷鼻輪(現松戸市平賀)に法華堂を移し、日蓮の弟子日朗が開堂供養しました。
境内① 境内②

 なお日朗、異母弟にあたる日像(四条門流の祖)、日輪(池上本門寺3世)はいずれも平賀氏の出身で、平賀郷は日蓮宗の祖師ゆかりの地になりました。
境内③

 そんなことよりも、我われにとっては紫陽花で有名。
 境内の至るところに紫陽花が植えられ、この季節になると参拝者の目を楽しませてくれます。
 その数1万株ともいわれており、今や「あじさい寺」として親しまれています。
菖蒲田と紫陽花
 6月の初旬~中旬は花菖蒲も一斉に咲いて圧巻ですが、さすがにもう終わりました。
 その紫陽花も7月に入って、心なしか乾燥気味でした。
境内④ 境内⑤

 おそらく今週いっぱいで終わりでしょう。
 見られてよかったです。