2014.06.30 猿島の思い出
 今日は6月30日、今年も半年が過ぎました。
 月日の経つのは早いもの。最近とみに感じます。
 この半年を振り返って、印象深いのはやはり先日行った猿島。

 ここは昨年から行きたい場所でした。
 しかし不慮の骨折事故にて断念。
 これが悔しくて、今年はなんとしても行きたいという気持ちが募り、6月の夏至間近に決行しました。
ビールも飲める

 「今日はなんとしても猿島に渡るぞ!」
 そんな意気込みで6時30分(鶴瀬)発の直通に乗って横浜へ。京浜急行に乗り換えて、8時40分に横須賀中央着。乗船場には数人が並んでいるのではないかと気になりましたが、到着すると誰もいない。拍子抜けしました。6月中だったから?
猿島行きのフェリー
 船内はガラガラ。島に着いてからもひとりで島内を歩きまわりました。
 ひとりには慣れているのでとくに不満はなく、あちこちを探索しました。その模様はこちら(参照)。

 あれほど念願だったところなのに、それが実現してみると、さしたる感慨はなかったのです。
 「希望が叶うというのはこんなものなのか」

 かといって猿島に失望したわけではありません。
 切り通しや洞窟のなかに入ると、要塞として使われていた当時への想像が掻き立てられ、ワクワクしました。(軍事オタクではありませんが)
海軍港の碑

 しかしそれよりもこちらは次行く場所を考えながら歩を進めている。それに平坦な道ではなかったし。感慨に浸る余裕などなかったのです。

 それが今ごろになってジワジワとこみ上げてきました。
 とくにフェリーが三笠桟橋を離れ、海から横須賀市を見たときは新鮮な光景でした。
 そして目の前に猿島が近づいたとき。「やった、ついに上陸!」と思ったものです。
船から見る横須賀市街地 猿島に近づく

 さらに岸壁でなにやら作業をしているオジサン。
 「水質検査をされているのですか?」と聞くと、「いんや、貝殻を洗っているんだよ」
水質検査?
 なるほど、白い小さな貝殻を洗面器で洗っています。これから島にやってくる子どもたちへのプレゼントだそうです。「毎年やっているけど、みんなよろこんでねえ」
 私もひとつもらいました。今ではペン皿に入って宝物になっています。
 こんなやさしいオジサンもいるとは。
貝殻 もらった貝殻

 さらにいうと、ここへきたことで、この日の旅の目的の大半は達せられたわけで、それからのうみかぜ公園→新安浦漁港→魚市場(食堂)→安浦地区、さらに京急三崎口→城ヶ島→三崎港の旅はすべてオマケのようなもの。気楽なものでした。
 そのおかげで三崎港がすっかり気に入り、再度くることになりますが、それも猿島上陸を果たせたから。
 改めて猿島に感謝です。
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 久々に友人に借りたDVDの感想記。
 今回はフランス映画「あるいは裏切りという名の犬」(原題「36 Quai des Orfevres」、2004)
                              *
 パリ警視庁の警視レオ・ヴリンクス(ダニエル・オートゥイユ)とドニ・クラン(ジェラール・ドパルデュー)は、かつては親友でしたが、今は部署の違うライバル同士。次期長官の座をめぐって火花を散らしていました。
あるいは裏切り…①
 そんな折、重火器を使って現金輸送車を襲撃する強盗事件が勃発。被害総額200万ユーロ、死者9名に及ぶ凶悪事件に、長官はヴリンクスに指揮権を与え、クランには補佐にまわるよう指示します。
 功を焦ったクランは強盗犯捕獲作戦でフライングしてしまい、そのためヴリンクスの同僚エディの命を奪われ、ふたりはますます対立を深めていきます。
あるいは裏切り…②
 ヴリンクスにも弱みはありました。
 元情報屋シリアンから「取って置きの情報がある」と誘われ、車に乗せたのですが、途中でシリアンは昔の仲間を殺害しました。
 これに関してクランは目撃者の売春婦から車を運転していたのがヴリンクスであることをつかみ、密告します。悪いことに担当の判事は大の警官嫌い。そのため厳しい判決が下されます。
あるいは裏切り…③ あるいは裏切り…④
 ヴリンクスの妻カミーユは途方にくれますが、そんなときシリアンから「話がある」
 夫に有利な証言が得られるかもしれない、そう思ったカミーユはシリアンに会いますが、それを盗聴していたクランはふたりを追跡。激しいカーチェイスがの末、ふたりの車は道路から大きく転落し、ふたりとも死んでしまいます。カミーユはシリアンに撃たれたとのことですが……。
あるいは裏切り…⑤
 7年後、ヴリンクスは刑期を終え、釈放の身になりました。
 クランの元の部下を訪ね、実はカミーユを殺したのは(新しく長官になる)クランであると知りました。
 「片をつけてやる」
 ヴリンクスはクランの就任の祝賀パーティに紛れ込み、復讐を企てます。
                              *
 この映画は1980年代に起きた実話を基にしているそうです。
 まさか(パリ)警察の内部でこんな醜い権力争いがあるなんて、にわかには想像しにくいのですが、監督は元警察官のオリヴィエ・マルシャル。「こんなことは日常茶飯事」といわんばかりの描き方です。
 犯罪組織の面々は人命を屁とも思わない凶悪な連中ですが、退行する警察官も負けず劣らず荒っぽい。
あるいは裏切り…⑥
 アメリカ映画のように正義や国歌に対する忠誠心に重きを置くのではなく、フランス映画はアナーキーなところがあります。これがヨーロッパ流フィルムノワールの継承というものでしょう。
あるいは裏切り…⑦
 原題の「36 Quai des Orfevres」は「オルフェーヴル河岸36番地」の意味でパリ警視庁の所在地です。なんとも「勿体つけた」邦題に変えてしまいました。

 城ヶ島大橋を渡って三崎に着きました。
 ここは三浦半島の最西南端にある港町で、城ヶ島と向き合っています。
 三崎港はいくつかの入江が合成された港なので、遊覧船と漁船が多い。
 そのため三崎漁港とも呼ばれています。
三崎港
 私は昔から漁港が好きで、何度見ても飽きません。
 とはいえ、新安浦の魚市場で食事してから、休みもなく歩いてきたので、少々疲れました。

停泊する漁船
 港町には必ず美味い珈琲を飲ませる店がある。
 それを信じて疑わない私ですが、さて、どこか。

 湾に面して「岬」なる喫茶店。もう少し店構えが地味ならいいんだけど、まあいいか。
 他にないので、入りました。
喫茶「岬」
 店内は経営者の老夫婦のふたりだけ。
 メニューを見ると食事もできるようですが、珈琲はサイフォンで淹れているようです。
 味はけっこう美味かった。さりげない老夫婦の接客もよかったし。
珈琲

 30分ほどで店を出て、あたりを散策しました。
 大きな船が停泊する岸壁(花暮岸壁)では家族連れで魚釣りをしていました。
 「なにが釣れるの?」と聞いたら、若いお母さんが「今のところ子鯖しか釣れないのよ。食べるのも可哀相だからあとで放してやるつもり」
魚釣りする家族
 「どこからきたんですか?」
 「埼玉だよ」
 「えッ、そんな遠くから。マグロは食べました?」
 「うん、美味かった」(横須賀で食べただけです)
 「もう一泊されるんでしょう」
 「どうしょうかな」
 「泊まっていきなさいよ」
釣った子鯖
 気さくな若い母親との会話です。
 いかにも三崎を愛しているようで微笑ましく思いました。

 このあと対岸の産直センター「うらり」に寄りましたが、5時で閉館。まだ日は明るいのに。
 ヨットが停泊して、おじさんが帆の手入れをしていました。白髪ですが、精悍な身体つきです。
 これぞ海の男。
 パチリ(悪いね)
海の男

 裏のほうでは中学生がタムロしていました。
 カメラを向けると、「イエーイ!」とVサイン。
 こういう少年たちの屈託ない反応にはこっちも元気が出てきます。
 ありがとうな。
 思わずVサインで返しました。
子どもたち
2014.06.26 城ヶ島大橋
 城ヶ島といえば浮かんでくるのが北原白秋作詞の「城ヶ島の雨」

 ♪雨は降る降る 城ヶ島の磯に
 利休鼠の 雨が降る
 雨は真珠か 夜明の霧か
 それとも私の 忍び泣き

 舟は行く行く 通り矢のはなを
 濡れて帆あげた 主の舟……
城ヶ島の雨の歌碑
 市街地から城ヶ島大橋に向かう途中に「白秋記念館」がありました。
 しかし時刻は午後4時、閉館の支度をしていました。
 館内をざっと見わたしたところ、文献資料はあれど見るべきものはそれほどないと判断して、パンフレットなどをもらいました。
白秋記念館
 それによると、白秋は大正2年5月から翌年3月まで三浦半島の最南端三崎に移り住みました。
 これは人妻との密通事件(桐の花事件)の傷心を癒すための期間でしたが、詩歌の創作に充実した時期でもあり、そのため白秋はこの地を深く愛したといわれています。

 歌碑の向こうに城ヶ島大橋が見えます。
城ヶ島大橋①
 白秋が三崎に住んでいたころは、城ヶ島とは渡し船で行き来していましたが、昭和35年(1960)城ヶ島大橋が開通してからは自由に行き来できるようになりました。

 実は私、50年近く前、この城ヶ島大橋を渡ったことがあります。
 早春のころ、江ノ島から鎌倉の海岸を歩き、逗子からバスに乗って城ヶ島に入り、ユースホステルに泊まりました。
 そして翌朝、宿で知り合った東京の若者と城ヶ島大橋を徒歩で渡りました。橋からの眺めは壮観でした。
 このとき通行料として10円徴収されましたが、「景色代と思えば安いもの」と笑いました。
城ヶ島大橋②

 あれから約半世紀。やっぱり景色は壮観。とくに西側の景色がいい。
 カメラを向けると、一羽の鳶が目の前を横切りました。これぞ吉兆!
城ヶ島大橋より西側を見る

 橋を渡って三崎側に着いても、今回は徴収されなかった。
 これがラッキーなこととは思いたくありませんが……。
2014.06.25 城ヶ島灯台
 京急県立大学駅。
 夏至に近いので帰るにはまだ早い。下り電車に乗りました。浦賀行き。
 しかし浦賀は去年行っているのでもういい。
 となりの堀ノ内で、あとからきた快特に乗り換え三崎口へ。

 地図を見ると、三崎口駅はかなり内陸。海岸へ出るには30分以上歩かねばならない。
 海沿いの道ならそれもいいけど、ただの国道を歩くのは時間の無駄。
城ヶ島の市街地

 そんなことを考えながら三崎口に着くと、停車場には城ヶ島行きのバス。
 「ままよ」とばかり飛び乗ると、すぐ発車しました。
 この停車場から出るバスは三崎港行きと城ヶ島行きのふたつ、城ヶ島行きに乗ったのもなにかの縁。終点まで行ってやれ。
展望台
 というわけでバスは城ヶ島大橋をわたって、終点に着きました。
 城ヶ島は三浦半島の最南端に位置し、周囲約4 km、面積0.99 平方km、神奈川県最大の自然島。行政は三浦市で、200世帯以上が暮らしているそうです。

 着いたところは島の西側、ただの駐車場。
 なにもないじゃないか。
 土産物屋のオジサンに「ここを進むと灯台があるよ」といわれ、そちらに向かいました。
城ヶ島灯台
 なるほど、灯台か。
 城ヶ島灯台は西端の長津呂崎にあって、標高約 30 m の崖上(展望台)に建ち、相模灘を照らします。日本では5番目に点灯した西洋式灯台で、現在は二代目だそうです。
西側の海を見る
 しかしなかには入れない。観音崎は入れたのに。
 仕方がないので、展望台から周囲を眺めました。今イチ面白くない。
城ヶ島漁港
 展望台をあとにして市街地を通り、漁港に寄りました。
 人がいない。
 「夏休みになれば、どっと人が押し寄せるんだけど」とは土産物屋のオジサン。
 空いてる時期にくるのも良し悪し。
 というより、行き当たりばったりのツケがここに回ってきた……?
 京急横須賀中央駅のとなり(三崎方面)は「京急安浦駅」でした。
 ここはかねてより興味のある場所でした。安浦カフェー街(赤線地帯)のあったところ。
 いわゆる風俗街。
市街地①
 神奈川県の風俗街として有名なのは川崎堀之内、横浜初黄飲食街、横須賀安浦カフェー街。
 川崎、横浜はよく知ってるけど、ここは初めて。

 「しかし、それらしき風情は……」
 安浦三丁目あたりがそうだと聞いていましたが、跡形もない。
 所どころに古びた家や、飲食店などがありますが、これがそうだと断定できないほど変わっています。
傾いた家

 駅名は平成16年(2004)、「県立大学駅」に変わりました。
 前にも述べましたが、谷津坂→能見台と変えたように、駅名を変えることによって地域のイメージチェンジを図るのは京急お手のもの。(東武だって玉の井→東向島と変えてるけど)
建立大学駅

 安浦神社。
 これは当時からあったはず。遊女や業者、そして客などがお参りしたことでしょう。
 吉原遊廓(東京)にはやはり吉原神社があったし。
安浦神社

 大通りに救世軍の建物を発見しました。
 遊廓あるところに救世軍あり。
 救世軍は昔から廃娼を訴え、遊女の駆け込み寺的な存在になり、業者と対立しました。
 吉原では山室軍平(1872~1940)が第一線に立ち、業者の凄惨な暴力を受けながらも、廃娼運動を続け、数人の遊女を堅気にもどしました。(のちにその40%ほどは遊女に逆もどり)
救世軍
 山室たちの行動は、当時遊女の置かれていた状況からすれば立派だと思いますが、自由意志で職業を選べるこの時代、敢えて風俗嬢を目指す女性がいることを山室はなんと思うでしょうか。

 さらにいうなら、横浜の某風俗チェーン店は寮や託児所など福利厚生施設が充実して、ガールズ・プアの救世主のような存在です。
 これは私自身が実際に取材したことであり、またNHK「クローズアップ現代」(14/01/27)でも取り上げていました。
 これを知ったら、山室は草葉の陰で「そうか、それはよかった」と微笑むに違いない。
市街地②
 
 そんなことを思いながら、「県立大学」駅をあとにしました。
 うみかぜ公園から海岸沿いに南東に進むと魚市場があります。
 ちょうど食事どきなので、その入口の食堂で魚を食べることにしました。
食堂

 横須賀というば海軍カレーが喧伝され、横須賀名物とまでいわれていますが、2年前、有名どころの海軍カレーを食べたところ、「……?」
 やたら粉っぽくて、パンチもなければコクもない、小学校の給食で食べた味。
 ブログでもそのことを書いたら(もう少し婉曲な表現だった)、地元のブロガーさんから、「地元の人間は食べない」とのことでした。
 いらい横須賀ではカレーは食べず、海鮮ものを食べるようにしています。
地魚丼
 さてその食堂。
 魚のミックスフライは完売とのことで、またしても地魚丼。
 魚はその日によって違い、金目鯛、いしもち、生しらす、かます、シメ鯖がトッピングされています。
 ただし2年前に比べると、魚の盛りが少なくなったように感じました。気のせい?

市場
 この食堂の裏手に魚市場があり、さらに海っぺりには新安浦港があります。
 ここは東部漁協の事務所があり、土曜日には朝市が開かれるところ。
 新鮮な魚介類が安く買えるというので、毎回盛況だそうです。
東部漁業組合
 調べてみるとこの安浦港は、昔は16号線寄りにあったそうですが、その後埋め立てられてできた新しい町「平成町」(平成元年にできた)に移ってきました。
新安浦漁港

 安浦というところは、事情があってどんどん変わっていくようです。
2014.06.22 うみかぜ公園
 横須賀市のうみかぜ公園は多目的公園とでもいうのか、老若男女を問わずいろんな遊びが楽しめるところです。

 北端に起伏に富んだ岩と土の丘は、マウンテンバイクの練習コース。
 この凹凸はかなりハードなコースです。ここを自由に行き来できるのは上達者だと思いました。
マウンテンバイク

 スケートボードエリア。
 AJSA(全日本スケートボード協会)の協力でデザインされたスケーティングエリアだそうです。
 それだけにここで練習するのは熟達者が多く、ふだん若者のスケボー練習などに関心のない私でも見飽きなかった。自分ではとてもできないけど、上手な人を見るのは楽しい。
スケボー

 他にも3on3バスケットコートや壁打ちテニスコートがあって、勝手に楽しんでいるようです。
 ただしキャッチボールは禁止。
古代ローマ風花壇

 スポーツエリアから古代ローマ風円形花壇を抜けると芝生広場。
 ここでバーベキューを楽しむ集団。
 楽しそうだったので写真を撮らせてもらったところ、「オジサンも食べる?」といわれたので、辞退しました。脂っこいものは食えない。
バーベキュー

 岸壁ではたくさんの釣り人たち。
 なかに細長い魚を釣った女性がいて、これも撮らせてもらいました。計ると80㎝ありました。
 嘴が大きく、獰猛そうですが、「ダツ」という魚で、食べられるそうです。
魚釣り ダツが釣れた

 そこから南側に階段状の護岸があります。
 さらにその先に石で築かれた堤防があり、一部潮だまりになっています。
 これは水生物を観賞するためだそうです。ただし採取は厳禁。
親水護岸

 ここは私のいちばん好きなところです。
 一昨日(06/19)横須賀の猿島に上陸しました。

 ここはかねてより念願の場所でした。
 昨年は7月中に行く予定でしたが、不慮の骨折事故で断念しました。

 昨夏のニュースで、夏休みに多くの若者が猿島に押し寄せ、ごったがえしているのを見て、「行くなら6月中、それも夏至の前後」と決めていました。
猿島桟橋

 わが家から横須賀・三笠公園の船着場まではかなりありますが、早朝家を出ただけあって、9時30分発の船に間に合いました。ところが……。
 船内はガラガラ。定員200人ほどの船に、乗船客は7~8人。私のもくろみは的中しましたが、これはこれでちと寂しい。
切り通し

 猿島は横須賀沖に浮かぶ無人島で、東西約200m・南北約450m・周囲約1.6km・標高約40m。
 ここは昔から東京湾の防衛拠点で、弘化4年(1847)に江戸幕府により国内初の台場が築かれ、明治になって陸軍省・海軍省の所管となり、猿島砲台が築かれました。
愛のトンネル

 第二次世界大戦後はアメリカ軍に接収されましたが、昭和36年(1961)横須賀市に返還され、紆余曲折を経て、平成7年(1995)航路が再開され、翌年には海水浴場が再開されました。
 猿島が観光地として脚光を浴びるようになったのは最近のことです。
愛のトンネル(中)
 猿島の軍事施設は実戦に使われたことはなかったのですが、レンガで覆われた切り通しやトンネルのあちこちで兵舎や爆薬庫などの要塞施設跡が並んでいます。
展望台

 「猿島」の由来は建長5年(1253)日蓮上人が房総から鎌倉へ渡る途中嵐に遭い、船の進む方向さえ危うくなったとき、どこからともなく一匹の白猿が現れ、船の舳先に立って島へ案内したという言い伝えから名づけられたそうです。(パンフレットより)
日蓮洞窟への階段
 その日蓮上人の洞窟も見られます。ただし、海に向かって急な階段を降ります。
 ここは縄文時代や弥生時代の土器・人骨が出土し、考古学上でも貴重な場所だそうです。
日蓮洞窟

 この猿島、船の便は午後5時まで1時間に1本あるので、たっぷりいるのは可能ですが、あんなに憧れていた島なのに1時間もいればじゅうぶん。10時45分発の船で猿島をあとにしました。
2014.06.20 六月の句会
 先日、六月の句会が開かれました。
 私の出句は
 ①名札見て訛り聞こえし花菖蒲(兼題・名)
 ②縁切りをしばし忘れむ紫陽花寺(あじさいじ)
 ③ジーンズを膝より切りて更衣(ころもがへ)
 ④ごきぶりを退治した縁今夫婦


花菖蒲の名札
 ①は山崎公園の花菖蒲を詠んだもの。「肥後系〇〇」や「伊勢系△△」のように名札がつけられ(今年はなかった)ているので、そこからお国言葉が聞こえてきそうだという気持ちです。
 ②鎌倉の東慶寺。ここは有名な縁切り寺。縁切り祈願をかけにきたものの、紫陽花の美しさに忘れてしまったという句です。
 ③膝が抜けたジーンズは年配者が着るとどうもみすぼらしい。そこでその部分を切って夏使用に短パンにした様子を詠んだもの。
 ④数日前の久米宏「ラジオなんですけど」(TBS)のゲストはスウェーデンからきた空手家の女性。当時下宿の部屋にゴキブリが出たので、「キャーッ!」。たまたま近くにいた同じ道場の男に退治してもらい、それが縁で夫婦になったという話を句にしてみました。

 結果は、
 ①……(0)
 ②……(0)
 ③……(4)
 ④……(0)
 (出席10名、出句40句)
東慶寺

 今回は〇(特選)はなかったけど、③ジーンズ……に4票。しかも先生の票も入っています。
 ①この句に対する皆さんの反応は薄かったようで、まったく無視。こちらは期待したのに。
 ②これが東慶寺とは思われなかったか、まったくの無反応。先生の評は「紫陽花でらではなくて、紫陽花じですか。ちょっと収まりが悪いねえ」ということで、修正句は「縁切りを紫陽花寺(でら)に忘れをり」
 ③これは古くなったジーンズを膝から切って、それを衣替えにするという着想がいい。「感覚が若い」との声。ジーンズという今風のものと、更衣という昔風の取り合わせの妙もあります。
 ④これは京一郎さんのことですか、と聞かれたので、慌てて「違います。友人のことです」
 これにはみんな爆笑(友だちのせいにして?)。友人といわずに「ラジオです」といえばよかったのかな。

 期待した①には入らず、簡単につくった④に4票も入るとは。わからんものです。
                              *
 ちなみにこの日の最多得票句は
 江戸っ子と名のって食わむ初がつを……(7)〇〇
 出席者は先生を入れて10名、自分の句には入れられないので、9人中7人が入れた(私も入れました)ことになります。これは凄い。しかも〇(特選)がふたつ。

 私が〇を入れた句は
 行くあてのなき停車場や夏の月……(5)〇〇〇
 「行くあてのなき」という侘しさに惹かれました。

 実はこの二句、例の俳句の上手なおじさんの句です。
 5選句、7選句を取り、〇(特選)も多く獲得したおかげで、俳句の上手なおネエさま(いつも高得票)は割りを食い、二句に1票ずつ。「惨敗よ」と悔しがっていました。
 おじさん、おそるべし。
 これからはこのおじさんを「俳句の達人」と呼ぶことにします。
 これまで紫陽花の名所を求めてあちこち駆けずり回りましたが、近くに紫陽花の名所(?)があるのを忘れてました。
川越街道、それもわが家のすぐ近く。
川越街道①
 わが家から川越街道に出る道は何本かあるのですが、ほとんど通らないところです。
 その中央分離帯に数本の紫陽花が咲いています。
 2年前、撮ったことがありますが、車道に沿って咲いているだけなので、今イチ面白味が感じられず、ボツにしました。
川越街道②
 しかし昨日ここへきてみると、「撮りようによっては面白いのではないかい」
 赤、青、紫、白い柏葉紫陽花もあります。
柏葉紫陽花
 紫陽花の名所といえば、ふつうはお寺で、雨上がりの紫陽花にわけありげな(若い)女性が物憂げに佇んでいるという情景が好まれるようですが、こちとらもうそんなものに関わりのある年でもなし、紫陽花と別のものの対比を求めているのが実情。
紫陽花①
 その意味では街道の紫陽花、いいんでないの。
 紫陽花と車の取り合わせもまた違った味わいがあります。
紫陽花②
 えッ、やっぱりお寺もほしい?
 しょうがないな。
 この近くに広源寺というお寺があります。(曹洞宗・大栄山広源寺)            
 寛永16年(1640)竜国呑海和尚の開基とされる由緒ある寺院です。
広源寺
 紫陽花は申しわけ程度に咲いているので、それを入れて本堂の風景を。
 それだけでは申しわけないので、オマケに七福神の写真。
七福神
 すぐ近くにこんな形で紫陽花が見られるとは。
2014.06.18 川越の句碑
 川越にはいくつか句碑があります。

 まず喜多院境内北東(参道の石段横)にある芭蕉の句碑。
 「名月や池をめぐりて夜もすがら」
 貞亨3年(1687)八月十五夜の月を詠んだもの。芭蕉43歳。
名月や…
 仲秋の名月を眺めながら池の周囲を歩いていたら、いつの間にか夜が明けてしまった、という意味です。
 この句碑は寛政3年(1791)建立だそうです。
                              *
 芭蕉が月を詠んだ句碑は仙波の愛宕神社にもあります。
 「名月に麓の霧や田の曇」
名月に…
 元禄7年(1694)伊賀上野赤城(今の三重県)で月見したときの作品。芭蕉50歳。
 このあたりは 江戸後期から俳句が盛んで、この句碑は安政4年(1857)愛好者たちによって建てられたといいます。
                              *
 県道51号川越上尾線(川越キリスト教会のある通り)のスカラ座近くに正岡子規の句碑があります。
 「砧うつ隣に寒き旅寝哉」
 明治24年、子規は吉見百穴を旅行し、その帰り川越に泊まったときの句です。
砧打つ…
 砧(きぬた)とは布を打つ道具。木の板の上に麻や木綿などの布を木槌で叩いて柔らかくしました。こうすることによって目が詰まり、艶が出るのです。
 砧打ちは秋の夜長の仕事とされ、秋の季語に使われ、俳句や和歌に詠まれていますが、男女の営みを意味することばにも使われました。
 しかし子規が泊まった今福旅館のとなりには織物店があり、夜遅くまでトントンと布を打つ音が聞こえていたようで、これは正真正銘の砧打ちでしょう。

 今福旅館はその後料亭になり、現在は個人住宅になっています。昭和37年(1962)その一角にこの句碑が建てられました。
 中院(星野山無量寿寺)にやってきました。
 ここが柏葉(かしわば)紫陽花の隠れた名所であることは去年にも述べましたが(参照)、花見の時期以外はひっそり落ち着いたところが気に入り、しばしば訪れています。
 最近ではヤマツツジ(05/01)もUPしました。
境内の紫陽花
 さて、本堂から右手の細い通路。
 ここに数輪の柏葉紫陽花が咲いているのですが、途中で人がつかえている。
 なんだなんだ、迷惑な。
 そう思ってよく見ると、白無垢と黒い礼服の花嫁花婿。
 どうやら撮影らしい。
新婚カップルの後姿
 撮影とあらば仕方がない。
 私は雑誌の編集をやっていたこともあって、撮影には寛容です。

 それどころか、このふたりを正面からとって見たいという衝動に駆られました。
 そこで柵内の庭に入り、反対側に出ました。
撮影風景①
 撮影は意外に大掛かりで、正面から大きなレフ版で花嫁の顔を照らしています。
 この場合逆光気味なので花嫁の顔は暗くなるのですが、花嫁の顔がパッと明るい。これぞレフ版の効果。

 うしろに黒い服を着た女性がいたので、「あれは本物の花嫁花婿さんですか?」と聞いたところ。
 「そうです」
 式の前に記念撮影をここで行っているらしい。
撮影風景②
 なるほど、ここでツーショットを撮る手もあるのか……。
 なかなか粋なことをやるもんだ。
彼らがいなくなったあと

 彼らの去ったあとをもう一度撮ってみたけど、心なしか寂しいものでした。
 川越に紫陽花の名所はないのですが、強いて挙げると川越八幡。
 この時期になると参道にはビッシリと紫陽花が咲くのですが、今年はビッシリではなく、まばらな感じです。
参道①
 なおも進むと、いつもとは違う人だかり
 鳥居の前の広場にはテントが張られ、その周囲にも。
 これでは境内の紫陽花はまったく見られない。
参道② 鳥居周辺

 みんな紫陽花には目もくれず、中央のテントを向いてひたすら応援。
 なにをやっているのかというと、これが小学生の相撲大会。
 「残った残った」と行事。
相撲大会
 「頑張れ!」
 「もうひと押し!」
 お母さんたちの声援が飛びます。
紫陽花よりも…
 小学校の3~4年生と思われます。
 紫陽花をとっくり観賞することはできなかったけど、これはこれで面白い、かな。
 この川越八幡は別名「相撲神社」ともいわれ、相撲の神様を祀っているので、ここで相撲大会が行われるのも道理。
縁結びの木
 また「縁結びの木」もあって、若い女性が絶えないのですが、この日ばかりは相撲に取られてました。
 花菖蒲が見ごろと聞いて、俳句の先輩方を富士見市の「山崎公園」に案内しました。
 かねてより俳句の上手なおじさんから「菖蒲はいつごろですか?」と催促されていたので、準備していましたが、これまた俳句の上手なおネエさまの耳に入ると、「私も行きたい」
菖蒲田①
 私はふたりの足を考えて、(東武東上線)みずほ台からバスで行こうとしたのですが、「大丈夫、それぐらいの距離なら歩けます」ということで、アップダウンの激しい道を徒歩で。
菖蒲田②
 横浜や川越と違い、富士見市の面白くもない(悪いね)市街地を30分ぐらい歩くのですが、
 「あの『夢の底行く』はシュールだね。俳句にはシュールが受けると最近わかったよ」
 「シュールってなによ?」
 「表現に飛躍があるということ。わかりすぎると説明句になって面白くないんだよ」
 そんな話をしているうちに山崎公園に着きました。
菖蒲田③
 「おうおう、きれいに咲いてますなあ」
 と俳句の上手なおじさん。早速一句浮かんだそうです。ただし「教えない」
 次の句会で投句するというから、これは仕方がない。
雑草が…
 この山崎公園は富士見市の市制20周年記念に平成6年4月にオープンしました。
 園内の菖蒲田には5000株もの花菖蒲が植えられ、「せせらぎ菖蒲園」とも呼ばれています。
 品種は江戸系、肥後系、伊勢系、外国系など約60種
名札なし

 しかし……。
 同公園の花菖蒲は3年前と2年前に見にきてますが、もっときちんと整備されていた。名札もつけられていたし。
 しかし今年は雑草が目立ち、名札もない。きれいだな、と思っても、何系のなんという花かわからなければ興味は半減。
2年前①
 富士見市は今年から菖蒲田の管理に費用をかけなくなった?
 それとも、「名前などにこだわることはない。観賞はご自由に」という突き放し政策?
 そんなわけ、ねえだろ。
2年前② 2年前③
 北浦和駅近くにある北浦和公園は、その昔旧制浦和高等学校があったところ。
 戦後旧制高校は廃止になり、昭和25年(1950)以降は埼玉大学に。
 その埼玉大学も昭和44年(1969)には西方の下大久保に移転し、その跡地が公園として整備され、昭和49年(1974)に開設されました。
北浦和公園
 さらに昭和57年(1982)には公園内に埼玉県立近代美術館が開館しました。
 そのため公園内には様ざまなオブジェがあります。
近代美術館

 まず園内に入ると「エミリオ・グレコの女性像」が迎えてくれます。
エミリオ・グレコの女性像

 あとは奇妙なオブジェのオンパレード。オジサンにはわけのわからないものもあります。
 サックスの噴水と、豊満な女性「横たわる人物」
サックスの噴水 横たわる人物

 「天空へのメッセージ」と「流水の門」
天空へのメッセージ 流水の門

 旧制浦和高校の学生像もあります。
 学生服にマント。これが当時の定番ですが、顔は意外に中性系。もっとバンカラかと思ったぞ。
旧制浦和高校・学生像

 解釈はどうにでも。観る人の勝手。
 この突き放し感がなんともタマりません。
2014.06.13 新しい生命
 昨日は骨折仲間のH子が検診にくるというので、病院に顔を出しました。
 彼女の場合は同じ骨折でも以前の病気の後遺症もあり、これ以上治しようがないのですが、間隔を置いての検診があるようです。

 「ほら、可愛いでしょう、もう1ヵ月になるのよ」
 彼女は赤ちゃんを抱いて私の前に現れました。
 2ヵ月ほど前は娘の出産検診で会ったのですが、そのとき娘は大きなお腹を抱えていましたが、その後無事出産。女の子です。目かパッチリして可愛い。 (写真を撮るのを忘れたので送られてきたものを使用)
赤ちゃん
 「孫というのはわが子の子育てとは全然違うのね」
 H子にいわせると、わが子のときは泣いたりすると、その原因がわからずオロオロしたけど、孫に対しては「喉が渇いたのね」とか「オムツ交換してほしいのね」とすぐわかるそうです。

 してみると女性にとって孫とは子育てのリターンマッチ?
 私にも孫はいるけど、(子育ては)じゅうぶんやったので、リターンマッチはいいかな。

 しかし現役世代にはいうべきことはあります。
 「子育ては父親の役割も重要だよ。女の子は父親に愛された確信が持てないと、後の恋愛に自信が持てなくなる」
 H子が検診に行っている間、娘に対して子育て体験をひとくさりしました。
                              *
 彼女の診察が終ったので3階のリハビリ室へ。
 エレベーターから廊下に入った瞬間に、特有の(消毒液?)の匂いに「懐かしい!」

 受付のおじさんに担当の療法士さんのことを尋ねたところ、「辞めちゃったよ」
 なんでも体調を崩されたとのこと。
 まだ20代の元気な療法士が体調を崩して退職するとは不可解。
 ひょっとしておめでた?

 私は(当時新婚の)彼女に施術してもらいながら、「女性にとって、新しい生命を胎内に宿すことがいかに神秘的で素晴しいことか。そしてその幼い命を育てるのがいかに楽しいことか」を説いたことがあります。
 そして「あなたならいい母親になれるよ」とも。

 それが功を奏したか?
 これに対するおじさんの答えは曖昧なものでしたが、私としてはぜひそうあってほしい。

 またしてもお礼をいい損なったけど、「これでよかったのだ」との確信が持てました。
 東福寺の紫陽花ではなんとなく物足りないので、航空公園に寄りました。
 距離的には少し離れていますが、同じ市内。
紫陽花①
 航空公園のなかに彩翔亭なる日本庭園があります。
 ここは池あり、滝あり、築山ありの変化に満ちた庭で、四季折々の花が咲くので、いつ行っても楽しめます。
 今の季節は当然紫陽花。
紫陽花②
 鎌倉の紫陽花寺にはとても敵いませんが、東福寺よりは量が多いのです。
紫陽花③

 前にもいいましたが、紫陽花に限らず花の名所とは、①種類が多いこと、②数が多いこと、③背景に由緒があることで、花そのものはどこでも同じ。
四阿①
 ここは四阿(あずまや)周辺が素晴しい。
 いつもは正面から滝を撮ることが多いのですが、今回は紫陽花の集まっている四阿を中心に。
四阿② 四阿③
 名所ではないので人があまりこず、ひっそりしてるけど、それが逆に情趣深い。
 じっくりと紫陽花を楽しめました
四阿④
 梅雨入りいらい、関東は連日激しい雨に見舞われてますが、昨日は梅雨の晴れ間。
 そこで所沢の東福寺に足を伸ばしました。
本堂
 ここは「所沢の紫陽花寺」といわれている真言宗のお寺。創建は1606年。
 本尊は不動明王、本堂には室町時代作の阿弥陀如来像と両界曼荼羅が納められ、市の指定文化財だそうです。
紫陽花① 紫陽花②
 それより紫陽花。
 うーん、鎌倉の紫陽花寺に比べると、いささかしょぼい。
紫陽花③ 紫陽花④

 仕方がないので、ここの名物守護観音(約20m)のお姿を。
 けっこう大きい。
観音像① 観音像②

 厄除大師の像もあります。
厄除大師
 菩薩様も……。
菩薩様

 こうしてみると、紫陽花以外にも見るべきものはあります。
 先週末は雨のため外出できなかったので、友人に借りたDVDを観ました。
 観たのはフランスのシャンソン歌手エディット・ピアフ(1915~1963)の生涯を描いた「エディット・ピアフ~愛の賛歌」(2007)です。
エディット・ピアフ①
                      *
 1919年、4歳のエディットは路上で歌う母に養われていましたが、生活が不安定なため、娼館を経営する祖母に預けられます。
 それもつかの間、軍隊から帰ってきた大道芸人の父と旅に出ます。
 大道芸人の常として過酷な旅でしたが、彼女はそこで人前で歌うことを覚えます。
エディット・ピアフ②
 「なかなかいい声してるじゃないか」
 20歳のとき、パリの路上で歌っているところを名門クラブのオーナーにスカウトされ、エディット・ピアフという名で歌手デビューを果たしました。
エディット・ピアフ③
 舞台は大成功、ピアフは一躍時の人となりますが、翌年オーナーは何者かに殺害され、後ろ盾を失います。その彼女を救ったのは著名な作曲家レイモン・アッソ。
 彼の猛レッスンを受け、復帰コンサートを開いたピアフは見事カムバックします。
エディット・ピアフ④
 歌手として栄華を極めたピアフは、1947年、ボクシングの世界チャンピオン、マルセル・セルダンと出会います。
 セルダンには妻子持ちでしたが、ふたりは急速に惹かれ合い、ピアフの歌も円熟味を増していったとき、1949年、セルダンの乗った飛行機が墜落します。
 失意の中で、ピアフは代表作「愛の賛歌」をステージで歌い、喝采を受けました。
エディット・ピアフ⑤
 その後もピアフは歌手としての活動を続けましたが、一方では酒やドラッグに溺れる破滅的な生活を送り、1963年、47歳の生涯を閉じました。
エディット・ピアフ⑥
                      *
 映画は波乱に満ちたエディット・ピアフの一生を現在、過去を交互に描いています。
 思うのは、なんと人との別れの多いことか。
 最初は母(後にエディットにたかる)、娼館の女性、路上歌手時代の相棒、クラブのオーナー、そして最愛のボクサー。
エディット・ピアフ⑦
 私はこれまで「愛の賛歌」という歌がきらいでした。(参照
 元のフランス語の歌詞を調べてみると、「あなたがそうしろと言うのなら/月を奪(と)りに行ってもいい/大金を盗みに行ってもいい/もしあなたがそうしろと言うなら/祖国を売ってもいい/友達を捨ててもいい/愚かだと笑われていい……」(野内良三・訳)という文言があり、こんな大仰な表現はフランス特有のものだ、自分には合わない、と思ってました。
エディット・ピアフ⑧
 しかし今回この映画を観て、この歌が生まれた背景が多少は理解できました。
 ともあれピアフの恋愛は、孤独に耐えられずに人を求める愛で、不安と恋しさが表裏一体になっています。これを「激しい愛」と思っている人は多いようですが、やがて破綻する愛です。
 飛行機事故がなくても、セルダンとの恋は長続きしなかったと思います。
 今月5日、関東地方で梅雨入り宣言されたと思ったら、翌日(6日)は大雨。さらに翌々日(7日)も間断なく雨が降り続け、外出できず。
鎌倉街道

 ニュース報道によると、関東のある地域では6、7日の2日間で、6月の総雨量を上回る雨が降ったとか。
 そのため関東各地では、川の護岸が削り取られたり、崖崩れや土砂流出、床下浸水の被害が起こり、行方不明者も出ました。
畑
 気象庁によると、これは本州の東部海洋に大きな高気圧が居座り、そのために偏西風が蛇行し、大雨をもたらす低気圧がいつまでも関東にとどまっているからだそうです。
野菜の被害①
 こちらはそれほどの被害はなかったけど、一昨日の夜半は大きな雨音で目が覚め、「どうなることか」と思いました。
 外に出ないと食料品にも困るので、昨日午前中出かけたところ、大雨ではなかったけど、篠突く雨にポケットに入れた財布が濡れ、スーパーのレジで、こちらが支払った千円札が(機械を)通らないという椿事が起こりました。
 「怪しいのですか?」
 と聞くと、レジの女性は苦笑して「お札が濡れると、ときどきこういうことが起こるんです」
 危うく偽札使用犯にされるところだった?
野菜の被害②

 帰りは雨もいく分小康状態になったので、雨に濡れた道路や、畑などを撮ってみました。
 川越は入間川を渡ったところに河越館跡公園があります。
 河越氏は平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国一帯に勢力を伸ばした豪族。
河越館跡公園① 河越館跡公園②
 河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(京姫=郷御前)は源義経の正妻になりましたが、義経と4歳の娘と共に平泉・衣川館で最期を遂げ、重頼も頼朝に誅殺されました。
常楽寺山門
 この公園の南側に常楽寺という時宗(じしゅう)の寺があります。
 ここは河越氏の持仏堂が基となって発展したものといわれ、河越氏が滅びたあとも存続しました。
境内
 境内の解説書によると、河越氏は重頼没後も鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、河越館は武蔵国政庁として機能しました。
本堂
 室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏でしたが、応安元年(1368)武蔵平一揆以降没落し、河越館に関する記録は表舞台から消え、その後は北条家の重臣・大道寺政繁が支配しました。
 その北条は秀吉に敗れ、大道寺政繁はこの地で自害しました。

 境内には大道寺政繁の供養搭があり、河越重頼・京姫(郷御前)・源義経の供養塔もあります。
重頼、京姫、義経の供養塔
 また境内に一遍上人の像があります。
 枯山水の庭にある石灯篭は、かつて東京芝の増上寺の徳川家の墓所にあったものだそうです。
一遍上人 枯山水の庭
 河越氏が義経と深い関わりがあったとは初めて知りました。
 歴史にはわかっているようで知らないことがたくさんあります。
2014.06.06 季語の難しさ
 先月WEBで「季語別俳句」を見ていたら、五月の季語として「聖五月」が載ってました。
 聖五月といえば、先生の「産院にはためくうぶ着聖五月」という句があります。

 そこで聖五月の意味を調べてみると、カトリックの行事で、聖母マリアの処女懐胎を寿いだ催しで、この時期にあたるそうです。したがって聖四月、聖六月はありません。
 ただしカトリック信者の間では使わず、わが国では俳句や詩歌など、文芸の世界で使われるようになったとのこと。

 そうだったのか。
 それでやっと、「はためくうぶ着」の意味がわかりました。
 私はなんとなく、「孫でも生まれたのだろう」と思っただけでしたが、この時期ならではの句です。深い。
                             *
 ついでに私の拙句「語らひて珈琲冷めし春の午後」(3月の句会)
 これは〇ふたつもらった句ですが、先生としては物足りなかったようで、「語らひて」よりは「語り合ひ」がいいとのこと。さらに「春の午後」という季語はムードに流れているので、もっとインパクトのある季語にしたほうがいいとのことです。

 したがって修正句は「語り合ひ冷める珈琲黄水仙」になりました。
 プロの目から見ればそうかもしれないけど、季語を変えられてはこちらの面目丸つぶれ。
 私としては「春の午後」のほうがよかったなあ。
                             *
 季語の問題ではありませんが、先月の拙句「大道芸言葉も濡らす春の雨」(〇ひとつ)は、「も」はやめたほうがよいとのことで、「濡らす」も「洩るる」が文語的表現だそうです。
 したがって「大道芸言葉の洩るる春の雨」が修正句。

 また「藤棚や隙間に宇宙の覗きをり」(〇ひとつ)は「覗きをり」としないで、「覗き見る」と自分を強く表現したほうがいいとのこと。
 したがって「藤棚や隙間に宇宙を覗き見る」が修正句。

 さらに「往きし人運ぶ疎水の花筏」は意味不明とのことで、「今昔を往き復ふ川の花筏」が修正句。
 これではまったくの換骨奪胎で、逝った同級生を偲ぶ句にならないような気がするのですが……。

 俳句はつくづく難しい。
 富士山の山開きは来月ですが、年中開いているのが所沢南西部にある荒幡富士。
 聞いたことないって?
 所沢市の民俗文化財なのに。
荒幡富士
 この荒幡富士は人工の山で、明治17~32年まで15年かけて、地元の人たちが力を合わせて築きあげました。富士信仰の塚で荒幡富士塚ともいわれています。
登山口
 登山道(?)はまず浅間神社から。
 ここからジグザグの登山道を上ります。
登山道
 「まさか、上ったら、もうひと山あるんじゃないだろうな」
 (何度もダマされているので)
 そんなことを考えているうちに山頂に着きました。(拍子抜けしたぞ)
山頂
 一応360度の眺望。西武遊園地の観覧車が見えます。
 晴れた日には(本物の)富士山も見えるそうですが、この日は見えなかった。残念。
 それもあって、それほどの感動はありません。
 また下山しました。
360度見晴らし
 下にある「いきものふれあいの里センター」の展示を見ると、標高119m、山自体の高さは約18m、富士塚としては日本でも最大級だそうです。
下界を見る

 世界文化遺産に登録された本物の富士山には登るべくもありませんが、ここに上っておけば、登ったことになるの、かな? (んなわけねえだろ)
 先日、郷里の幼なじみに会いました。今は千葉県A市に住んでいます。
 前回会ったのが1月末なので、約4ヵ月ぶりです。
 今回は4月に行われた同窓会の報告です。(彼とは高校が違うので)

 「盛況やったらしいな」
 「うん、135名も集まった。しかしあれだけ集まると収拾がつかん。あとで名簿見て、『あいつ、きとったんか』ということがかなりあった」
 最初は神保町交差点近くの和食の店で。
神保町交差点

 同窓会の翌日、実家の近所を歩いたことも話しました。
 「キミとこは駐車場になっとった。となりの家は壁に穴が空いてぼろぼろ」
 「知ってるよ。オレも10年ほど前通ったから」
 話は近所に住んでいた1年上のYちゃん(男)のことに。
 「Yちゃんには世話になった。当時オレは細くて弱かったから、Yちゃんに守られてた」というと、
 彼は「オレはあいつにはようイジメられた。外面はええけど、陰険なヤツやった」
 「えーッ。みんな仲ようやってたと思ってたけど。わからんもんやなあ」
 初めて聞く話です。
 彼は私と違ってヤンチャだったから、ときにはシメられたらしい。
 もっともそのYちゃんも今は故人。遺恨はとっくにありません。
白山通り①

 神保町は白山通りと靖国通りが交差するところです。
 我われは和食店を出て、靖国通りの喫茶店に場所を移しました。

 「オレは今小学校の同窓会を画策してるんや。とりあえずクラス単位で、こっちの知ってる限りの情報を京都の連中に送ってるけど、なかなか進まない。これが京都のペースかね」というと、
 「京都の人間はいろいろ配慮するからなあ。無遠慮に聞き回るわけにはいかんのや」
 「しかし我われにはもう時間はない。悠長にはしてられん。それに営利目的でもないから、遠慮なく聞き回ってもええと思うけど」
 思わず愚痴をこぼしてしまいました。
白山通り②

 彼とはクラスが違いますが、こうなってはクラスの垣根など取っ払ったほうがいいのではないか。
 「キミんところは何組やった」
 「覚えとらん。〇〇先生の組やった」
 「学級委員は?」
 「うーん、誰やったかなあ。何せ転勤の連続で京都のことなど思い出す暇もなかった」
 写真などもあるかどうかわからん、といいます。

 「いずれにしても今年中の実現は無理や。学年合同になって、オレが声をかけたら行くか」
 「そら行くで。それどころかS恵(所沢)、M子(マリアテレサ=彦根)、K子(お好み焼き屋=京都)、Y江(京都?)もワシが声かけたら行きよる」
 「なんや、女ばっかりやないか」
 「そらしゃあない。ワシは女好きやし」
 「はははは。変わっとらんな」
靖国通り

 そんなアホなことばかり話して別れました。
 実りがあったような、なかったような……。
 これが幼なじみのよさだと思います。
 境内にズラリと並んだお人形。それも「お人形さんありがとう」
 所澤神明社で行われた「人形供養」です。
 針供養や鋏(はさみ)供養は知ってましたが、人形供養は初めて。
お人形さん①

 私のところは男の子だったので、赤ん坊のときにくまのぬいぐるみで遊んだ程度で、それもぼろぼろになったので捨てました。
 あれはいけないの? ちゃんと供養しないと。
お人形さん②
 行ったときはすでに供養は終ったらしく、境内中央では係りの人が焚いた(?)灰に水をかけて片づけていました。
焚いたあと

 しかし人形は残っている。どういうこと?
金太郎と西洋人形
 そこで人形の近くにいた人に聞いてみると、燃やしたのは人形の身代わりのお札とのこと。
 「今どき人形を燃やすなんてできませんよ。有害物質が出るおそれもあるので、社会問題になりますから」

 所沢は昔から人形や羽子板の製造が盛んなところで、年に一度人形協会が主催してお焚き上げを行ってきたとのこと。
 「しかし近年になってこれらを直接燃やすわけにはいかなくなり、身代わりのお札を燃やすようになりました。人形ですか?これはきちんとお祓いし、然るべき処分をいたします」
 しかるべき処分か、なるほどねえ。(廃棄処分かリサイクル?)
所澤神明社鳥居
 この所澤神明社は日本武尊(ヤマトタケル)がこの付近で休憩をした際、天照大御神に祈りを捧げたという伝説にちなんで祀ったとされていますが、文政9年(1826年)の火災で記録資料が全焼したため、それ以前の詳細は不明とのこと。(だったらなんとでもいえるぞ)

 それよりも明治44年(1911)所沢飛行場において初飛行した徳川好敏が前日に関係者数名とともに参詣したことから、今日では空の安全祈願の神社とか。
 空の安全の神なら交通安全にもご利益はあるだろう、そう思ってお祈りしました。
 まず中央線・飯田橋周辺の地図(↓)をごらんください。
 地図の左下は神楽坂、右上は小石川後楽園です。中央が飯田橋駅。
飯田橋
 明治時代は飯田橋から水道橋(右)寄りに、甲武鉄道(私鉄)飯田町駅がありました。明治39年(1906)甲武鉄道は国有化され、昭和8年(1933)客車駅は飯田町駅と牛込駅が統合して飯田橋駅になり、飯田町駅は貨物専用駅になりました。(参照
飯田町駅の記念碑

 飯田町駅は戦後も日本貨物鉄道(JR貨物)中央本線の貨物駅として存続しました。
 近くには新聞社や印刷工場が多数あった関係で紙輸送のための倉庫もつくられて、貨物駅としては珍しい高架式でした。
 駅舎は飯田橋駅から急カーブで内側に曲がり、今の「東京しごとセンター」のあたりまでありました。貨物駅なので関係者以外は入れなかったのですが、外観は今でも覚えています。
 飯田町駅は平成11年(1999)に廃止されました。
路地を入る

 20代半ば、新宿の出版社に勤めていたころ、この向かいにあった「T印刷」という活版印刷の工場へ出張校正でよく行きました。工場・事務所の建物はバラックで、歩くとミシミシ揺れるオンボロぶりでした。(参照

 この印刷所はその名の示すように官公庁の「〇〇白書」印刷が主な仕事でしたが、他方では週刊ベースボールや、わが社のようなエロ本の印刷も手がけており、校正室はまさに呉越同舟でした。
 彼らとはあいさつする程度のつき合いでしたが、官公庁、野球雑誌、エロ雑誌…とジャンルは違っても、お互い編集に携わる者としての気概を共有することができました。

 私が出版社を離れ、フリーのライターになってからもこの印刷工場はしばらく続いていましたが、数年後取り壊されたと聞きました。
                               *
 「あれからもう40年以上も経つのか……」
 今回そこへ足を伸ばしました。
 飯田橋から目白通りを九段方面に歩き、「甲武鉄道飯田町駅」の記念碑の角を左に入ります。
 貨物の駅舎はすでになく、目の前にはホテルや「東京しごとセンター」の大きなビルが建ち、当時の風景とはまったく違います。まるで浦島太郎のよう。
謎のビル①
 ではあのT印刷の建物は……というと、そこにはなく、目の前には30階建ての黒いビルがドーンとそびえています。
 「…………?」
謎のビル②
 近寄って建物の名前を見ると、なんと「T印刷株式会社」
 「エーッ、こんなビルに……」
 あまりの変わりようにヘナヘナと腰が崩れる思いでした。