神楽坂の次に行ったのは小石川後楽園。
 ここは元水戸藩の江戸屋敷。水戸徳川の二代目光圀(黄門様)によって寛永6年(1629)に造られました。
 「後楽園」の名は、儒教の影響を受けた光圀が「為政者が楽しむのは庶民の後」との考えに基いてつけたそうです。
 後楽園の名は明治になっても継承されましたが、大正12年(1923)国の名勝に指定される際、岡山市の後楽園と区別するため、頭に「小石川」をつけました。
入口
 ここは梅の名所(参照)でもありますが、四季折々の草花が見られます。
 今の時期は花菖蒲だろう。そう思ってきたのですが……。
大泉水
 菖蒲田にはパラパラと。うーん、三分咲きかなあ。
 まだちょっと時期が早かったようです。
花菖蒲
 まあいい、見るところは他にもあります。私が好きなのは円月橋。
 橋の半円部分が水面に写る半円とつながって満月に見えます。明の儒学者・朱舜水の設計によるものといわれています。
 ただしこの橋を渡ることはできません。あくまでも横からみるもの。
円月橋
 渡れるのは(同じ月でも)渡月橋。
 渡月橋?
 京都の人は目を剥くかもしれませんが、渡月橋はあちこちに(六義園にも)あります。
 立札にも「京都の渡月橋の名をとった」と書かれています。
 下を流れるせせらぎは大堰川。(三代将軍家光が名づけたそうです)
渡月橋
 そこから上に昇ると清水観音堂跡。
 ここには京都清水寺の観音堂を模したものがありましたが、関東大震災で崩れ落ちました。今は竹で囲ってあるだけ。
清水観音堂跡
 そして愛宕坂。
 愛宕山は港区にもありますが、これは京都の愛宕山の坂をならってつくられたもので47段あります。
愛宕坂

 ということで花菖蒲はまだ盛りではなかったけど、これは近所の「山崎公園」で見ることにしているので、よしとします。そのときは俳句会の先輩も誘ってやらなければ。
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 JR飯田橋西口を出て、外側(新宿方向)に向かうと神楽坂下に出ます。
 いかにも♪ぴ~ひゃらぴ~ひゃら……とお神楽が聞こえてきそうな地名ですが、実際にこの坂の歴史は古く、江戸時代から高田穴八幡や津久戸明神の門前町として賑わっていたそうです。
 この坂から裏通りに入ると、静かなたたずまいの料亭などがあり、芸者さんの姿も見かけます。
神楽坂入口
 この坂を上りきってしばらく行くと地下鉄東西線・神楽坂駅があり、その近くに新潮社があります。ここで発行していた「FOCUS」という写真週刊誌に関わっていた関係で、よく行きました。
神楽坂・上り
 大ていカメラマンのS君と行ったのですが、その帰りは神楽坂をブラブラ歩いて飯田橋に出ました。
 途中に「五十番」という中華料理店があり、そこの肉饅が有名で、蒸かしたてを買って向かいの毘沙門天の境内で食べるのが楽しみでした。
五十番 肉饅
 毘沙門天は武将上杉謙信が信奉していた守護神。
 「オレも謙信のように強くなりたい」
 S君がよく祈ってました。
 当時「FOCUS」カメラマンは突撃性が求められていたので、それにあやかりたかったのか。
毘沙門天① 毘沙門天②
 息子ときたこともあります。
 そのときはまず毘沙門天でお参りし、五十番で蒸かしたての肉饅を買って、少し離れた小石川後楽園で食べました。
 当時息子は高校生。食べ盛りで大きな肉饅をふたつ求めました。
 「デカいなあ。食い切れないよ」
 いいながらもなんとか食べて満足そうな顔をしていたのを思い出します。
神楽坂・下り

 今回上ってみると、けっこう急な坂。
 当時はそれほどとは思わなかったのに、これを急勾配と感じるのはこちらが年取った証拠か。
 肉饅は買わず、毘沙門天にお祈りして、坂を下りました。
 先日、アメリカ東部に住む従姉からドライフルーツ類が届きました。
 この従姉はやさしい人で、季節の折々にご当地の食品などを贈ってくれます。それも私のためを思って、健康によいもの。
 今回は「赤いものは身体にいい」(Eat Red Heart Health)ということで、リコピンを主体としたドライフルーツ。トマト、クランベリー、オメガミックス。

 従姉によると、「トマトなどリコピンを含む食材は11年間の検証で、26%の心臓病を減らしたそうです。そのまま食べてもいいし、パスタ料理、スープやカレーなどに入れてもいいです」
トマト
 たしかにリコピンには抗酸化作用があると聞いたので、ピーマンは赤を食すようにし、トマトは缶詰のホールトマトを毎朝1個食べています。

 クランベリーに関しては「HDL Cholesterolを10%増やし、心臓病死を40%減らしたそうです」
クランベリー
 クランベリーは、「超酸っぱい」と聞いていましたが、食べてみるとけっこう甘い。
 これは乾燥させることによって甘みが増すそうです。

 オメガミックスにはレーズンや松の実、(西洋)クルミなどが入っています。
 これもなかなか美味で、珈琲と一緒につまんでいると、けっこう急ピッチで食べてしまいました。
オメガ・ミックス

 「野菜に関しては豊富な色を摂取すると、抗酸化作用でとくに癌などの予防によいとされています。日本では五味五色を推奨しているのと一致します。呆けて長生きはしたくありませんが、健康長寿を願って、少しでも気をつければいいかなと思います」(従姉のことば)

 改めて従姉に感謝です。
 2ヵ月前の3月29日、新橋~虎ノ門を結ぶ「マッカーサー道路」(約1.4km)が開通しました。
 この道は「環状第2号線」の一部で、すでに利用されている神田佐久間町~虎ノ門までの「外堀通り」から延長した道路とのことです。
①新橋から虎ノ門方向を見る
 ただし「外堀通り」は虎ノ門~新橋間も続いています。この道はJR(京浜東北線、山手線、東海道線、新幹線)のガードをくぐり、昭和通りにつながっています。

 ではなぜこれ以外の道をつくろうとしたのか。
 それには諸説ありますが、虎ノ門のアメリカ大使館から東京湾の竹芝桟橋まで進駐軍が自由に行き来できる道をつくりたいというGHQの要求があったからとされています。
 つまりもっと外側(南側)。
②途中から新橋方向を振り返る
 その構想はいいとして、それを建設するための用地買収に難航しました。
 そしてすったもんだの挙げ句、90年代になって建設が着工され、68年もかかってようやく開通したというわけです。
 これが「マッカーサー道路」が開通されるまでの経緯。
③虎ノ門ヒルズの脇
 とはいえ新橋近辺は風俗ライター時代、週刊誌や夕刊紙の編集オフィスがあったので、よく知っています。
 今回改めてこの新しい道を歩きました。
④路地
 道幅は広い。40mぐらいあるかな(構想では100m)。
 一部工事中。歩道も広く、歩行者と自転車が分かれているのも新しい。
⑤虎ノ門ヒルズ(近景) ⑥虎ノ門ヒルズ
 新橋側から虎ノ門方向を見ると正面に見慣れぬ高いタワー。
 近くまで寄ってみると、これが建設中の「虎ノ門ヒルズ」
 その下を車の道が通り、歩行者はその両側を巻くようにして、虎ノ門病院の北側を通って特許庁の前に出ます。虎ノ門ヒルズからはかなり強引に斜めに入るので、このあたりの道路や建物はかなり取り壊された?
⑦特許庁
 うーん、こんな道ができたのかなあ。
 勝手知ったる場所なのに、初めて通った道。長年生きていると、こういうこともあるか。
 この道の完成を当のダグラス・マッカーサー氏(1880~1964年)は草葉の陰でよろこんでいる、かな。

 一昨日(05/25)の日曜日はまたしても所沢航空(記念)公園。
 先日行ったときは大して花は咲いてなかったのですが、24、25日は「バラまつり」と聞いていたので。
露天も
 ところが……。
 人出は多く、屋台もでている。それどころかフリーマーケットまでも。
 しかし肝心のバラはというと、パーゴラの周辺にぱらぱらと。あまりにしょぼい。
ばら園① ばら園② ばら園③
 「神代植物公園のバラ園までは期待してなかったけど、これでバラ園といえるのか」
 (いえます、と陰の声)
 うーん。一応バラは咲いているからなあ。
お子ちゃまも

 仕方なくフリーマーケットを見歩きました。
 中央の放送塔から南門への通り(約200m)の両側に露店がビッシリ。
 大半は不用品を売ってるようだけど、なかには中古のジーンズ(ヴィンテージもの?)をズラリと吊るしている(オール1000円)店もありました。(20年若ければ買ったかも)
 年取ると、あまり剥げたジーンズはみすぼらしい。
フリーマーケット 着物が安い
 さらに着物を吊るしている店も。
 浅草仲見世顔負けの派手な柄ですが、これもオール1000円。
 これらは不用品というのではなく、おそらくバッタ品を仕入れていると思われます。
ひと休み
 なにか面白いものがあれば買ってやろうと思いましたが、この日はなにも買わず帰りました。
 大相撲夏場所が終わりました。優勝は横綱白鵬(29)、2場所ぶり29回目です。
 実力的に見ると、やはり白鵬の力が抜きん出ています。
千秋楽、白鵬○ー●日馬富士
  しかし……。
 今場所は雑な相撲が目につきました。
 相変わらず引き、はたき、投げで勝とうとする。
 そのため11日目の豪栄道戦では安易にはたき、豪栄道に残されて、結果的には押し出されて敗れました。「えッ」という表情。(えッ、じゃねえよ)
9日目、白鵬ー遠藤戦 白鵬〇ー●遠藤
 しかし白鵬は「ここ一番」というときは俄然ひっちゃきになり、9日目の遠藤戦、12日目の稀勢の里戦では怒濤の寄りで勝ちました。やればできるじゃないか。
12日目、白鵬ー稀勢の里戦 白鵬○ー●稀勢の里
 それでも他の力士相手では、余裕を見せようというのか、楽に勝とうとするのか、引いて勝とうとする。今は通用しても、これからは若い力士が引かれても残すようになれば墓穴を掘ることになります。

 その稀勢の里、白鵬と最後まで優勝争いして成績はよかったけど、まだまだ。
 9日目の嘉風戦では大相撲の末、勝ったのが印象に残りましたが、14日目の日馬富士戦では勝ったは勝ったけど、日馬富士が髷(まげ)をつかんだということで反則勝ち。
9日目、稀勢の里○ー●嘉風

 今場所は「髷をつかんだ反則負け」というのが目につきました。
 12日目の鶴竜―豪栄道戦では、鶴竜はまったくいいところがなく、はたかれて土俵に転がりました。行司の軍配は豪栄道。
 しかしこのとき残って観ていた白鵬が手を挙げて物言い。「髷をつかんでるんじゃないか」
 ビデオで見ると、これが微妙。たしかに右手が髷をつかんでいるようにも見えます。
12日目、鶴竜ー豪栄道戦 物言いをつける白鵬
 ルールでは「故意に髷をつかむのは反則負け」とあります。
 しかし豪栄道は故意につかんだか、となると故意ではなく、流れで髷を触ってしまったと思えます。とはいえ横綱に物言いをつけられては(珍しい!)却下するわけにもいかず、鶴竜の(反則)勝ちになりました。これでは鶴竜は白鵬に白星をプレゼントされたようなもの。
千秋楽、稀勢の里○ー●鶴竜
 新横綱鶴竜は不甲斐なかった。
 先場所まで見られた「前に出る相撲」が少なくなり、今場所は「サーカス相撲」が復活したようでいただけなかった。明らかに稽古不足。
 横綱になれば、土俵入りもやらなきゃならないし、いろんな催し物に引っ張り出され、稽古が少なくなるそうですが、それを乗り越えて勝ってこそ横綱。来場所は頑張っていただきたい。
 昨日(05/24)行った東京都写真美術館は恵比須ガーデンプレイスのなかにあります。
坂道のプロムナード
 ここはもともと日本麦酒の工場のあったところで、ここで「ヱビスビール」生まれました。
 当初は近辺に駅はなかったのですが、ビール輸送のための駅の必要性から日本鉄道(→国鉄)が「恵比寿駅」をつくり、それがのちに町名になりました。
 恵比寿という地名はヱビスビールからきているのです。
時計広場 ハッピーガーデン
 日本麦酒はその後サッポロビールになり、ここでビールをつくっていましたが、渋谷近辺の都市化や、工場の郊外移転が進み、昭和63年(1988)工場は閉鎖。その跡地が開発され、平成6年(1994)オフィスビル、デパートを含む商業施設、レストラン、美術館などの複合施設「恵比寿ガーデンプレイス」がオープンしました。
センター広場

 私は当時首都圏の社会風俗現象を夕刊紙のコラムに書いていたので、オープン時取材したことがあります。しかし……。
 当時はもっとワイルドな感じだったけど……。
 敷地内に工場の倉庫と、貨車の引込み線が残っていて、列車を利用したビアガーデン「ビアステーション恵比寿」がありました。これが西部開拓時代の雰囲気でなんとも風情があった。
 しかし今は煉瓦づくりの建物が「ビアステーション」になっている。
プロムナード
 うーん、あのときのほうがよかったぞ。
 いろんな事情があったらしいけど、あれは撤去されたらしい。残念。
ビアステーション
 それに……。
 シャトー広場なんてあったっけ。
 まるで西洋のお城みたいな建物、シャトーレストラン「ジョエル・ロブション」っていうんだって。
 パンフレットの説明では「モダンフレンチの集大成、最高峰のブランドとして世界で初めて登場したガストロノミー……」
 ガストロノミーとはフランス語で食通とか食文化のことをいうらしい。
 しかし私にはあまり縁がなさそうなので、これに対する考察はこれで打ち切ります。
シャトー広場

 ということで、20年ぶりの恵比寿ガーデンプレイスも、「昔のほうがよかったなあ」という感想で終らせていただきます。
 昨日(05/23)恵比須ガーデンプレイスにある東京都写真美術館にて「第39回JPS展」(参照)を観てきました。
 JPS(Japan Professional Photographers Society)とは日本写真家協会ことで、プロの写真家の集まり。友人の写真家・永野一晃君が参加しています。
写真美術館
 今回永野君の出展した作品はプロの部門で、取り壊しになった母校の校舎。ピアノと講堂と壇上に上がるための小さな階段の三点でした。
 ピアノは鍵盤の塗料が剥がれ落ち、木がむき出しのボロボロ状態。その都度調整していたのでしょうが、よくぞここまで使い込んだものだ。
 ピアノの全体ではなく、ここを重点的に撮るというところに、作者の想いが感じられます。
 「長い間、ご苦労様でした……」と。
 写真というのは無造作に撮っているようでも、そこに作者の想いが込められています。
JPSのポスター
 また川や噴水など、水の流れにしか見えなくても、一瞬でとらえると水のひと粒ひと粒が見え、また違う水の姿を描き出します。
チケットとガイド
 さらに連続写真によって人や生き物の動きを表すこともできます。

 逆に作者の意図しないものがアピールされていることもあり、これが写真芸術の面白さでもあります。
チケット

 いろんな作品を堪能させていただきました。
 日本相撲協会の前理事長・元放駒(はなれごま)親方が18日、亡くなられました。協会関係者によると、同日午後、都内のゴルフ場で練習中に倒れ、救急搬送される途中に息を引き取られたそうです。享年66。

 この人が脚光を浴びたのは理事長在任中の2011年2月に発覚した八百長問題で春場所の中止、夏場所の無料公開、さらに疑惑力士を大量解雇したこと。
 亡くなった人を非難するのは日本人の美徳に反するそうですが、しかしこの処置は本当に正しかったのか、私は大いに疑問です。
 とくに現役力士の大量解雇はまったくの暴挙であり、トカゲの尻尾切りです。

 大相撲の八百長は昔から続いてきた悪しき慣習、日本人の大半が知っています。
 したがって、この際相撲協会の責任者の取りうる最も誠実な裁定は、
 「これは先人からの負の遺産。これを断ち切れなかったのは我われの無力で、深く恥じ入っております。これを行った現役力士諸君はほめられたことではありませんが、先輩からいわれて逆らえなかったという側面もあり、情状酌量の余地はあります。これを機にこれまでの悪しき因習を打ち破り、全員一致でゼロからスタートしていく所存です」
 と表明すること。
 こうすれば春場所の中止、夏相撲の無料公開、疑惑力士の大量解雇など、大損を被り、犠牲者を出すようなことはせずに済んだのに。

 我われ国民だって、「やっぱりそう(先代からの八百長)だったか」と納得し、理事長は「よくぞそれを認め、思い切ったことをやったものだ」と称賛されるでしょう。

 ところが前理事長のやったことは「現役力士に辛く、先人に甘い」処置。
 まったく愚かな裁定というしかありません。

 これは私だけの意見ではなく、当時の新聞は
 「大相撲の八百長問題は、日本相撲協会が、関与を認定した25人を角界から追放し、幕引きを迎えようとしている。約3カ月にわたる取材を通じて感じるのは、問題の全容解明に程遠いまま、一部の力士らに責任が押しつけられたということだ。今回の問題が発覚する以前から八百長が存在し、それを野放しにしてきたと、協会が組織として認めない限り、根本的な決着に至らないのではないか」
 と指摘しています。(大相撲「八百長問題」幕引きへ/毎日新聞/2011.04.26号)

 そもそも先人は正しいことをしてきたのか。
 大相撲が巡業に出るたびにその土地の非合法組織のお世話になっていたのは周知の事実。当初はやむを得なかったという事情があるにせよ、問題になってからも断ち切れなかったのはやはり先人の責任。
 また立合いだって、現在の力士はちゃんと手をついてるけど、大鵬さんなんかの全盛時代のビデオを見ると、ちゃんと手をつかずにふわっと立っている。大鵬さんが強いのはわかっているけど、なんだ、このザマは。

 相撲に限らず、侵略戦争だって同じ。
 我われは先人の負の遺産など受け継ぐのは真っ平だ。
 そう思わない限り、前へ進めないのです。
 昨年の7月8日(月)夕方、自分の不注意で骨折事故を起こしました。
 その経緯については(参照)ここでは述べませんが、病院で「左足・距骨粉砕骨折。右肩上腕部・4~5ヶ所剥離骨折」との診断を下されました。
 左足はギプス固定、右上腕部は「観血的整復固定術」といって骨の内部に長さ10㎝ほどの金属支柱を入れて数ヵ所ボルトで固定するという手術が施されました。

 術後は右腕を三角巾で吊るされ、バストバンドで固定されました。左足はギプス固定。
 そのため一週間ほどはほとんど寝たきり。排尿は尿瓶を使い、看護婦さんに捨ててもらいました。リハビリとトイレ(大)のときだけ車椅子で移動します。
 その車椅子も左足を伸ばして固定。車輪を動かすのも右手が使えないので、左手で左車輪を回し、右足で地面を蹴って進むという変則使用、これがけっこう上手く使えました。

 とはいえ、どう見ても重傷患者。そのためいろんな人から「どうされました」と聞かれました。
 私自身、この姿を洗面所の鏡で見て、「はははは」
 思わず笑うほどでした。
入院当時の姿

 それでも私は運がよかった。
 まず主治医がよかった。この先生はこの地域では指折りの外科医。全身麻酔による手術でしたが、なんの問題もなく、成功したと思います。

 さらにリハビリ。私の場合は右腕と左足の二ヶ所なので、午前は作業療法士のFさんに腕を、午後は理学療法士のIさんに足を施術してもらいました。
 このふたりは優秀で話も面白く、リハビリが楽しみになり、モチベーションが上がりました。

 看護婦さんたち医療スタッフもやさしくて、処置も的確、好感の持てるひとばかりでした。
 そして食事がよかった。これまで入院した食事のなかでは抜群。他の患者たちも「ここの食事はいいね」というほどでした。

 特筆すべきは、患者仲間に恵まれたこと。
 部屋を替わってからは、向かいのヤクザ男、となりのお調子者、あとで向かいに入ってきたガングロオヤジ……みんな面白い男ばかりで、カーテンを開け、一日中笑って過ごしました。
 私はもともとマイペース人間で、協調性に欠け、気難しいところがあって親しい友と仲違いしたこともあるので、(それを知っている)息子からは「同室の人と仲良くやってね」というメールをもらうほどでしたが、そんな心配もなく和気藹々としたものでした。

 さらにラウンジでは圧迫骨折の女性たち(コルセット三姉妹)から、「お兄さん」「お兄さん」と声をかけられ、親切にしてもらいました。
 彼女たちとは怪我やリハビリ、さらに子育ての悩みなど、いろんな話をするようになり、今でもつき合いが続いています。

 このように環境や人々に恵まれたおかげで、治療に専念できたのだと思います。
 この入院生活で教えられたことがあります。それは、
 ①希望を失わないこと。②励まされるより、励ます側になること。
 これによって自分のなかに活気がみなぎってきます。
 病院はそれが実践できる、修業の場です。

 あれから約10ヵ月。
 息子からは「あれは大怪我だったんだよ」といわれましたが、今ではこの通り、完治まではいかないまでも、日常生活になんの支障もありません。
 改めて病院の人たち、患者仲間に感謝です。
 昨日、久しぶりに診察を受けました。
 前回の診察は1月27日。約4ヵ月ぶりです。
 「次回は5月19日」
 といわれたとき、もうほとんど問題ないのだろうとは思ってました。

 例によってレントゲン撮影。
 以前左足を撮られるとき、技師が内側のくるぶしから照射しようとするので、「痛いのは外側です」と訴えたところ、「外側もちゃんと写ります」といわれました。(失礼しました)

 今回なにもいわなかったのは、それがわかっているからですが、このところ痛みが軽くなっている余裕もあります。

 右肩もシャツを脱いで入念に撮られました。
病院

 さて、主治医による診断。
 「右手挙がります?」
 「はい」と、こともなく真上に挙げました。
 「ほう、リハビリ頑張りましたねえ」
 「先生の手術もよかったからですよ」
 「いやいや」
 といいながら、レントゲン写真を指差し、「ほら、しっかり骨もついてます」
 (それよりも気になるのは、骨のなかに入っている10㎝ほどの支柱、それを止めている5本のボルト)

 「足のほうは?」
 「痛みはありますが、以前よりは軽くなっていて、歩くのに差し支えはありません。1日3万歩歩いたこともあります」
 「ほう、3万歩も……」
 おどろいた顔をして、カルテに書き込んでいました。

 そして……、「よし、もう、これで終わりにしましょう。なにかあればくるということで」
 こちらとしては、「えッ」という気分。
 拍子抜けしました。

 一応は卒業ということか……。
 それを報告しておこうと3階のリハビリ室へ。
 しかし世話になった療法士さん(美人の)は休み。ガックリしました。

 帰宅して骨折仲間であるコルセット姉妹のふたりの「妹」にメールしました。「拍子抜けしたよ」
 これに対して妹からは、
 「よかったですね。おめでとう! 日々努力の成果です。素晴しい。私はこれからリハビリです」
 (リハビリ頑張れよ)

 いつかこういう日がくると思ってたけど、こんなに早いとは。
 私としては「完治した」実感はないのですが、こんなものなのでしょうね。
 これでよしとするしかありません。
2014.05.19 別所沼公園
 天気がよかったので、川向こうのさいたま市まで行ってきました。
 ここにある別所沼公園は100万年もの歴史があるそうです。
 ここはおよそ100万年前、大宮台地から侵食されてできた谷に水が湧き出し、低地に溜まってできたものだそうです。
 なるほど、周囲にはメタセコイアの木が植えられていて、風格があります。
別所沼と弁天島(左)
 もっともメタセコイアは後のことで、大正15年(1926)、深川の小島長次郎が沼の周囲の土地を買い取り、周噴水別所沼公園辺に桜や藤棚などが植えられ、プールや野球場を設置した遊園地「昭和園」がつくられました、
 さらに翌昭和2年には弁天島がつくられ、深川の洲崎神社より弁財天を分祀しました。
弁天島
 昭和園は第二次世界大戦で荒れ、昭和26年(1951)旧浦和市が買い取り、別所沼公園として整備。昭和31年(1956)に埼玉県に移管、平成15年(2003)さいたま市が政令指定都市になったのを記念して、再び市に移管されました。
弁天橋 弁天様

 風景を撮っていると、前に年配の夫婦が釣りをしていました。
 奥さんがじっと釣り糸を垂れ、旦那は指南役?
 「なにが釣れますか?」と聞くと、旦那が「クチボソですよ。たまにヘラブナ」
釣りをする奥さん
 「どのぐらい釣れるのですか」
 「釣では大して釣れませんよ。それよりもこっちのカゴのほうが獲れますよ」
 と縁に沈めてあったカゴ(魚キラーというそうです)を引き上げてくれました。クチボソが5尾ほど入っています。
魚キラー?
 「これ、食べるの?」
 「食べません。キャッチ&リリースです。水質が心配ですから」

 そうこうしているうちに、奥さんが「なんか手応えあった」
 引き上げてみると、糸の先に枯れ枝が……。
 「しょうがないな」
 旦那が苦笑しながら、外してました。
釣り糸に木が…
 聞けばこの夫婦、おとなりの蕨市から自転車できたとのこと。
 「近いですよ。自転車で30分ぐらい」
 ほのぼのとしたいい夫婦でした。
 こちらは川向こうから1時間以上かけてきている、とはとてもいい出せなかった。
 武蔵野市に住んでいる小学校時代の旧友と国分寺で会いました。
 この男と会うのはいつも彼の地元吉祥寺でしたが、ここは関東で住みたい街ランキング1位のところ。面白くないので、中間地点(?)の国分寺にしました。
 「国分寺になにがある?」というので、「殿ヶ谷戸庭園という立派な庭園があるぞ」
殿ヶ谷戸庭園
 ここは元岩崎家(三菱財閥)の別邸でしたが、昭和49年都が買収し、昭和54年「殿ヶ谷戸庭園」として一般公開(有料)されるようになりました。
 私は新婚時代、国分寺に住んでいたのですが、当時は「岩崎家の別邸」として一般人は入れない状態でした。それが国分寺を離れてから、一般公開されるとは。
カルミア①
 もっとも離れたといっても、おとなりの府中市ですから、何度も行ってます。
 それどころか一昨年は俳句会(以前の)の吟行できたこともあります。
カルミア②
 友人には「殿ヶ谷戸庭園~」といった手前、改札口で会って直庭園へ。しかし……。
 これが俳句会の仲間なら、「まあ、きれいなお庭ねえ」「これは〇〇(花の名)かしら」という会話で園内を散策するのですが、友人とは「おう、あれからどうだった」と互いの状況話に終始。
 家族のこと、仕事のこと、趣味のこと、同窓会のことから派生して、「あいつはどうしている」と友人の消息話に。
次郎弁天池
 庭園内を歩きまわって景色も見ず、花も愛でず、次郎弁天池を素通りして、紅葉亭(茶室)の休憩所に。こちらは同窓会の名簿を取り出して、「あいつもきた」「こいつもきた」

 その後我われの周囲に散策のおじさんおばさんが続々詰めかけ、なかにはおにぎりを食べ始める人も。これはかなわんと退散し、庭園を出て喫茶店に行こうとしました。しかし……。
国分寺北口①
 北口は区画整備中とのことで、工事のフェンスが張り巡らされていました。
 「おかしいな、ここにAMI(喫茶店)があったのに」
 どっしりした店構えで珈琲の美味い喫茶店でしたが、もうありません。
国分寺北口②
 そこで東側の角にある喫茶店へ。
 ここで珈琲を頼み、また話の続き。小学校時代の回想になりました。
 「東一条にあった地獄極楽図、怖かったなあ」
 「あんなものが通学路にあるなんて、どこまで小学生をビビらせるねん」
珈琲
 そのあとはこちらの骨折入院話にも及び、「いやあ、けっこう楽しかった。勉強にもなったし」
 「お前は得な性格やな。オレやったら落ち込むで」
 コイツと話し出すと際限がない。珈琲は美味かったし、こんなことなら最初からここにすればよかったか。
 せっかくの庭園も同行する相手によりけり、です。
 多摩湖にやってきました。
 別名村山貯水池。多摩川の水をここで貯水し、東村山浄水場、境浄水場、朝霞浄水場に水を送って、東京都に供給しています。
多摩湖
 貯水池には取水塔があって、その水面下の取水口のゲート(水門)を開け閉めして、浄水場に送り込む水量を調節しています。
 この取水塔は、煉瓦づくりの円筒に丸いドーム屋根(ネオ・ルネッサンス様式)で、「日本一美しい取水塔」といわれています。(説明書)
取水塔
 多摩湖は東西に長く、東側は堤体(防)で堰き止められ、その下は緑地帯(狭山公園)になっています。提体から見ているとよくわからなかったけど、下りて見るとかなり高い。
狭山公園、上は多摩湖 狭山公園

 「おや、これは?」
 上の多摩湖から下りてくる階段状の川(滝?)があります。(浄水場へ送る水とは別)
 勾配が急なのでこのような形にしたのかな、とは素人目にもわかりますが、他にも理由があるのかもしれない、そう思って公園管理所に聞きに行きました。
階段状の川①
 「あの階段状の川はなんというのですか」
 事務所にいた職員の若い青年は「えッ?」
 初めて聞いたという顔をしています。
 「あれは水道局の管轄で公園の施設ではないのですが……」
 といいながらも、水道局の資料を取り出し、調べてくれました。
階段状の川②
 「ありました。これですね」
 それによると、この階段状の川は「余水吐(よすいばき)」といって、ゴミを取るために設けられたものだそうです。ゴミは下に沈殿し、上澄みの水が落ちてくるようになっています。下に溜まったゴミは定期的に取り除くとか。別名「12段の滝」というそうです。

 丁重にお礼をいうと、「いや、こちらこそ。おかげさまで勉強になりました」
 こちらは疑問があったから聞いたのに、この青年の「勉強」をさせていたとは……。
 これが本当の質問力?
 いろいろ散策し、人と話すと、こういうこともあります。
 昨日の続きで、今月は他人の句(票が多かったもの)を観賞します。

 「産院にはためくうぶ着聖五月」(4)
 1ヵ月ほど前、友人の娘の妊娠で富士見市の某産科病院に行きましたが、まるでホテルのよう。
 今どきうぶ着を外で干す病院なんてあるの? ということで私は取らなかった。
 あとで先生の句であることがわかりました。孫が生まれたのかな?

 「まほろばの言霊の国山笑ふ」(3)〇
 まほろばとは「素晴らしいところ」という雅語的表現。言霊(ことだま)はことばの持つ霊的な力。「山笑う(ふ)」は春の季語。スケールの大きい俳句ではありますが……。

 「大浅間踊子草のアン・ドゥ・トロワ」(3)〇
 大浅間とは浅間山の麓のこといったもの。踊子草とはシソ科の花で春に咲きます。花の形はバレエダンサーのように見えなくもない。そこで花の咲いている様を「アン・ドゥ・トロア」とバレエ用語で表現したところに妙味があります。

 「まなかひに翡翠(かわせみ)の飛ぶ故山かな」(3)
 まなかい(ひ)とは目の前のこと。故山とは故郷の山。目の前にカワセミが飛ぶ故郷を思い出している句です。これは「木登りを知らずに育ち柏餅」で最多得票(5)を取ったおじさんの句。俳句の力を感じます。

 「雲海や秩父の沖は小江戸江戸」(2)
 秩父の山にかかる雲の群れ。それを海に見立て、山頂から見るとその沖(先)に見えるのは、川越(小江戸)、東京(江戸)というスケールの大きい句です。
病院から見た秩父連山

 スケールの大きい句といえば、前出の「まほろばの言霊の国山笑ふ」がありますが、私から見ればこの句には作者の視点というものがなく、「頭で書いている」と思いました。

 ブログでもそうですが、「頭で書かれたもの」は評価しません。
 私が評価するのは、身体を使って書かれたもの。(巧拙は問いません)
 ここでいう「身体で書く」とは、見る・聞く・嗅ぐ・触る・読む・歩く……など、実体験から出てくる表現です。
 拙句「藤棚や隙間に宇宙の覗きをり」にも私なりの視点が入っているつもりです。

 むろんこれは私の独自の俳句観で、専門家から見れば違うでしょう。
 頭で書かれ(詠まれ)ても、高評価される句もあると思います。
 しかしそんなことはどうでもいい。所詮は素人、わが道を行くだけです。
2014.05.14 五月の句会
 先日、五月の句会が開かれました。
 私の出句は
 ①大道芸言葉も濡らす春の雨(兼題・言)
 ②往きし人運ぶ疎水の花筏
 ③つつじ苑老女をモデルに化したり
 ④藤棚や隙間に宇宙の覗きをり

藤棚(ふじみ野市にて)

 ①は横浜野毛の大道芸。観衆の前で口上を述べているとき、雨が降ってきた。しかしやめるわけにはいかない。こんななかでしゃべると言葉も濡れるだろう、という意味です。
 ②故郷・京都で同窓会に出席した翌日、疎水に流れる桜の花びらに、逝った友のことを詠んだもの。「友」にしなかったのは句が甘くなるとのことで「人」にしました。
疎水の花筏(京都・哲学の道)
 ③満開のツツジの前では女性たちははしゃぎます。年配の女性も互いに写真を撮ったりして。その様子を詠んだもの。
 ④藤棚を下から見上げると、その隙間から空が見えました。しかし空では芸がないので宇宙にしました。

 結果は、
 ①……(2)〇
 ②……(0)
 ③……(0)
 ④……(1)〇
 (出席10名、出句40句。カッコ内は票数、〇は特選)

 票数は少ないけど、①④には〇をいただきました。
 ①春の雨はしつこい。その雨にやられて「言葉も濡らす」としたところに実感があふれています。(〇を入れた人)
 ③意図はわかりますが、老女ということばはよくない。嫗(おうな)? うーん、これもねえ。(先生)
つつじ苑(根津)
 ④これは「宇宙が見える」というところにスケールの大きさを感じました。(〇を入れた人)

 票はそれほど多く獲れなかったけど、特選ふたつも入ったので、前月よりはいいかな。
 「やはり旅してきた甲斐がありましたね。先月よりひと皮剥けてます」とは①に〇を入れてくれたご仁の個人的見解。本当かなあ。(そんな実感はありません)
大道芸(横浜野毛にて)

 ちなみに今回の最多得票句は、「木登りを知らずに育ち柏餅」(5)〇
 今の子どもたちは木登りせず、柏の木も知らないくせに柏餅は食べる、という意味ですが、甘いものは食べないので、私には無関係。パスしました。

 私が〇を入れたのは「たてがみに立夏の光耀(かがよ)へり」(2)〇
 荒々しい馬のたてがみに強い陽光が当たって輝くという野性味あふれる句です。
 「ひらがなではなく、漢字で鬣(たてがみ)にしていたら取ったのに」と先生。
 私はむしろ逆。そんな難しい字を使われたら取らなかった。
 このあたりが俳句初心者の反発心?
 昨日(05/12)私は、旧村山快哉堂のあるところを市役所の向かいといいましたが、具体的にいうと、新河岸川と柳瀬川の合流する三角州「いろは親水公園」のなかにあります。
左・新河岸川と右・柳瀬川の合流点
 新河岸川は川越と江戸を結ぶ水路、その川にかかる橋がいろは橋。
 ここは昔、「宗岡閘門」があったところです。

 閘門(こうもん)とは、水位の異なる河川や水路の間で門を開閉して閘室内(門と門との空間)の水位を上下させて船を運ぶ装置です。
閘門の仕組み
 この宗岡閘門、もともとは水害対策で大雨になると、新河岸川の水と荒川から逆流してきた水がこの地域でぶつかり氾濫するので、それを防ぐため堰(洗堰)と併用してつくられました。
 そのためここは「埼玉のパナマ運河」と呼ばれていたそうです。

 パナマ運河だと?
 同運河に関しては、スエズ運河の建設者レセップス(フランス人)がパナマ運河の建設に当たり、1914年完成した、と高校の世界史で教わりました。

 しかし大佛次郎「パナマ事件」を読むと、そう簡単なものではなかったようです。
 そもそも太平洋とカリブ海(→大西洋)に挟まれたこの地(パナマ地峡)は高地であるため、スエズ運河のように掘削するわけにはいかず、数多くの閘門によって水位を変え、高地を越えるという方法がとられました。
 そのため莫大な費用(スエズ運河の9倍)と年月がかかり、さらにこの建設の疑獄事件が起こり、当時のフランス政界を揺るがしました。
現在のいろは橋
 その「埼玉のパナマ運河」、ぜひ見たいもの。
 当時(昭和28年ころ)の写真があります。
 平時は水量が少なく、川床も浅いため、水浴びや魚釣りにも親しまれたようです。
昭和28年当時のいろは橋

 しかし昭和初期には輸送の中心は鉄道に移り、閘門はその役割を終え、水流の妨げになることから、昭和55年(1980)に撤去されました。残念。
 昨日は天気もよかったので、志木市まで行ってきました。
 志木といえば3年前、荒川のアザラシ「あらちゃん」で有名になりましたが、その後はさっぱり。
 とくに魅力のあるものはないのですが、以前通りかかったときに、気になる建物がありました。
菖蒲の花
 それは市役所の向かいにある「旧村山快哉堂」
 「なんじゃこれは?」
 元薬店だそうですが、閉まっているのでなにもわからない。「こんなものに勿体つけやがって」
 古い建物をありがたがるのはなんの芸もない地方都市の浅知恵。そんな風に思っていました。
旧村山快哉堂①
 ところが……。
 この日は開いており、ボランティアの年配の女性が解説していました。
 「この建物は明治10年(1877)に本町通りに建てられ、薬店を商ってきたのですが、平成7年(1995)に閉店して解体され、6年後(平成13年)ここに移築復原されました」
 なるほど。
 以前通りかかって説明書きを読んだときは、「なんでこんな殺風景なところ(新河岸川と柳瀬川が合流する中洲)に薬屋があったのだろう」とフシギに思ったものですが、そういうことか。
旧村山快哉堂②
 「当時の建物の常として木材はケヤキですが、天井の梁は松の一本材。曲がっているのをそのまま使っております」
 「なかなかワイルドな造りですね」
 「そう、昔の建物ですからね。この造りは川越の店蔵とはまたひと味違うんですよ」
松の木の梁
 かと思えば、「中風根切薬」「分利膏」「正齋湯」など家傅薬の看板を撮っていると、
 「この毒消し大関、面白いでしょう。梅毒の薬ですが、今の人、わからない人も多いんですよ」
梅毒の特効薬? 女性用の薬も

 志木市のことを聞くと、ここは志木町と宗岡村が合併して志木町になり、さらに足立町に町名変更して、昭和45年(1970)志木市になったとか。
 「その後、志木、朝霞、和光、新座の市で合併話が持ち上がり、朝霞は積極的だったのですが、和光市がいやがって、ダメになりました」
 とその後の経緯もペラペラ。
 さらに富士見市とふじみ野市の合併・もの別れの話などもしてくれ、面白かったのですが、ここでは割愛。
薬研 計量器

 なんの変哲もない、東京のベッドタウンと思っていた志木市ですが、少し興味が涌きました。
 聞いてみないとわからないものです。
 久しぶりに骨折のことを書いてみます。
 右上腕部と左足の外くるぶし。
 両方とも痛みはまだありますが、大分よくなりました。

 3月の半ばごろまでは起床時、
 ①仰向けになって、右腕を背中の下に入れて肘を曲げる。
 ②仰向けになって、肘をわき腹につけ、肘から先をL字状に曲げる。
 ③仰向けになって、腕を横に伸ばし、肘から先をL字状に曲げる。
 というトレーニングをしていましたが、最近は②と③を軽くやるだけ。

 それというのも、曲げ伸ばしがかなり楽になったからです。
 ただしまだ完全ではないので、ぎりぎりまで伸ばします。まだ痛みはあります。
 しかし、こうして少しずつ痛みが軽くなり、伸びてくるのだと思います。

 次に、④壁際に立って右腕を上に伸ばして壁にくっつける。
 これも比較的楽にできるようになりました。
 この場合、壁についた右手で壁を押すように力を入れ、次に力を抜いて約1分壁にくっつけていると、肩から腋の下の筋肉のこわばりが徐々にほぐされていくのがわかります。1分はかなり長いですよ。

 そして、⑤坐って右手で左肩をつかむ。
 これがいちばんキツイ。
 骨折時、肩が開かず、手術後もなかなか開かなかったので、リハビリはなるべく肩を開くような運動を重点的に行いました。

 しかし肩を閉じるような逆方向の運動はもっとキツイ。
 右手で左肩をつかむなんてまったくできなかった。こちらへ腕をまわすだけで痛く、涙が出るほど。この痛さは詰まるような、絶望的な痛みでした。

 しかしこれも少しずつやっているうちに痛みはかなり軽減し、今では左肩をつかむことはできます。ただし、それ以上深く進まないのが実情。

 こちら方向の動きはそれほど必要とされないので、つい手抜きになって他の運動機能より遅れがちになるのですが、それでも右手を頭のうしろに回して左耳を触れるようになりました。

 左足に関しては、まだ外くるぶしに痛みがあるものの、歩くのに差し支えはありません。
 先月11日、彦根市内を歩いたときは1日3万歩を越えていました。
 これも階段を降りるとき、左足のつま先で着くと痛みが走ったのですが、最近はその痛みもかなり軽減してきました。

 一時は「一生治らないのではないか」と思ったこともありましたが、こうして少しずつ改善していくのを実感すると、①希望を失わず、②日々、動かすこと、がいかに大切かを思い知らされました。
 旅客船の沈没事故で多くの若い命を失い、先日はまた地下鉄で衝突事故を起こした韓国。
 なにかと問題の多いお国ですが、我われは本当にこの国のことを知っているのか。
 その意味では「あの丘を越えて」(1994)はこの国の民を理解する手がかりとなる映画です。
DVD表紙
 パンソリ(韓国の浪花節)の名手ユボンは師匠の愛妾と関係ができたために破門され、旅芸人になりますが、途中で知り合った女に出産で死なれ、残された子どもソンファ(姉=養女)、トンホ(弟)を連れて、村から村へわたり歩きます。

 子どもたちに対するユボンの厳しいパンソリ指導が始まりました。
 おかゆをすする窮乏生活、村人の心ない差別、世の移り変わりから疎外されてゆくパンソリ。
 このような状況に耐え切れず、トンホは逃げ出します。
あの丘を越えて①
 そのショックにソンファは歌えなくなり、心身ともに衰弱します。
 その彼女にパンソリを唯一の拠りどころにさせるため、父は「体力をつけるため」と偽ってブシ(附子=薬草)を大量に飲ませ、彼女を失明させてしまいます。
あの丘を越えて②
 数年後、ソウルの会社に勤めるトンホは出張(薬草の買い付け?)で山間の村にきた傍ら、パンソリの歌い手を尋ね回ります。しかしどこでも「その女なら、ここを出て行った」
 しかしある寒村の安宿で「パンソリを歌う女がいる」とのうわさを聞きつけ、トンホはそこを訪ねます。
 「私のために歌っていただければ……」
 トンホの申し出に亭主は快諾し、妻らしき盲目の女性が出てきました。
 「どこのどなたか存じませんが、ご要望とあらば歌いましょう」
 「不つつかながら、私も太鼓で伴奏させていただきます」
 こうしてふたりは歌と太鼓で渾身のパンソリを夜通し演奏し続けました……。
あの丘を越えて③

 この種のストーリーといえば、森鴎外「山椒大夫」や、フェリーニ「道」(1954)のような結末を予想しますが、意外にもふたりは再会します。それも「姉さん!」「トンホ!」と抱き合うのではなく、互いに名乗り合わないまま別れます。
 演奏したとたん、互いのことが分かり合え、それでじゅうぶんだったからです。
あの丘を越えて④
 ソンファはその後、「ここには長く居すぎました。また修業の旅に出ます」と亭主に告げ、幼い娘と放浪の旅に出ます。
 彼女は(一応)理解ある男と暮らし、娘まで生まれ、つましいながらも女としての幸せをつかんだのになぜ?
 ここがこの国の厳しい状況を反映しているところなのでしょうか。



 パンソリという韓国の伝統音楽を知るとともに、政府などの及ばぬところでうごめく民衆の情念というものを教えられた気がしました。
 「おや、これは」
 家の近所の鎌倉街道を歩いていて、赤い花の群れが目につきました。
 「これはなんという花ですか?」
 近くに年配の女性がいたので聞いてみると、「ケシの一種です」
ケシの花①
 なるほど、これがケシ(芥子)か。
 「ケシって麻薬の原料ですよね」と聞くと、「そうですけど、このケシは大丈夫です」
 (あとで調べると、アヘンの原料となるケシは別種。これについては小平市の「薬用植物園」で見たことあり)

 「ヒナゲシとはまた違うんですか」
 「ああ、ポピーのことね。あれは時期がもう少し先、山崎公園(富士見市)なんかで見かけますよね」
 「そういえば、菖蒲を見に行ったとき、反対側に咲いていた。あれですね」
 「そう。ケシって繁殖力が強いから、道端なんかにも勝手に生えるのよ」
 「すると、これも……?」
 「これはここの地主さんが栽培してるの」
白いケシも

 聞けばこの女性、ケシの群れの向こうの畑の一列を借りて菜の花の栽培をしていたとか。
 「去年の秋から種蒔いてね。でも今年はだめ。全然ならなかった。年によって当たり外れがあるのよ」
 「でも1ヵ月ほど前は、あちこちで一面の菜の花を見ましたよ」
 「土地の条件によっても違うからね。でもきちんと栽培しているところは菜種油を採るための栽培だから、あれとはまた違うのよ」
 菜の花にも菜種用と菜花用があることを知りました。
 いかにもこのあたりの人らしい話好きな女性です。
畑の一角
 話を聞きながらケシの写真を撮っていると、
 「でもこの赤は毒々しくてイヤね。私はピンクのほうが好き」
 「そうねえ、この赤は強烈ですねえ」
 相槌を打ちながら、ある歌を思い出しました。
ケシの花②

 ♪赤く咲くのは芥子の花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさこのあたし 
 夢は夜ひらく……
 昨日(05/07)はよく晴れて、気温も上昇しました。まさに五月晴れ。
 GWの5日、6日が雨で寒く、外出する気にもならなかったのに、連休が終るとこの快晴。
 皮肉なものです。
所沢航空公園
 せっかく晴れてくれたので、少し足を伸ばして所沢まで行ってきました。
 所沢といえば航空(記念)公園。(飛行機発祥の地なので)
 このなかに「彩翔亭」なる日本庭園があります。
彩翔亭・入口
 ここは一年を通じて草花が咲きほころぶ庭園ですが、この時期はというと……。
 なかなかきれいですが、あちこちにポツリポツリと咲いているだけ。
 「ツツジ苑とは及びもつかんか……」
ツツジ
 「おや、あれは?」
 滝の周辺に赤い大輪の花がポツリポツリと。
 近くで写真を撮っていた老夫婦に聞いてみると「シャクナゲ(石楠花)です」
 遠くで撮るのももどかしいので、近くへ行ってみたのですが、シャクナゲを撮るのはうしろから。(前は断崖なので立ち入り禁止)
滝と池
 あとで調べたら、シャクナゲはツツジ科ツツジ属に属する草花で、ツツジの仲間らしい。
 (花にはまったく無知な私です)
滝の上
 バラ、アジサイにはまだ早いし……。
 花の少ない時期にきてしまったらしい。道理で人が少ないと思ったよ。
シャクナゲ

 まあGW明けだから、これでよかったのかも。
 妙な納得の仕方をして帰路につきました。
2014.05.07 外国産の花
 桜の花が散ると、ハナミズキ(花水木)のシーズンです。
 私の住んでいるところにも「ハナミズキ通り」という道路があり、毎年この時期になると花が咲き、道行く人の目を楽しませています。
山崎公園①
 ちょうど4年前、当地に引っ越してきたとき、ハナミズキが咲いていて「きれいな街だな」と思ったものです。
 しかし住み慣れるとそんな感激はなくなり、それどころかあちこちの市に「ハナミズキ通り」があるので、うんざりするようになりました。
山崎公園②
 このハナミズキ、北アメリカ原産で、日本にきたのは大正4年(1915)。
 その3年前(大正元年=1912)当時の東京市長であった尾崎行雄がアメリカ合衆国ワシントンD.C.へサクラ(ソメイヨシノ)を贈ったところ、3年後その返礼として贈られたのが始まりとされています。
ハナミズキ
 この花はアメリカヤマボウシともいわれますが、学名は「Cornus florida」といってミズキ科ミズキ属に属する落葉高木です。
 ミズキの仲間で花が目立つことから「ハナミズキ」という名がつけられたようです。(Wikipedia)
川越の街角

 さらに最近生垣などでよく見かける黄色い花。
 小輪ですが、ぼったりした花で、量が多い。生垣には最適の植物です。
 これはなんという花?

 わからないので、俳句の仲間に聞いてみました。
 するとモッコウバラといって、中国原産のバラだそうです。
川越・蔵造り一番街① 

 調べてみるとモッコウバラ(木香薔薇)は学名「Rosa banksiae」。
 「banksiae」という名は植物学者ジョゼフ・バンクスの夫人にちなんでいるとか。
 常緑つる性低木。枝には棘がないため扱いやすいとのこと。
 一重咲と八重咲があり、一般的には黄色の八重咲をモッコウバラというそうです。(Wikipedia)
川越・蔵造り一番街②
 あまりよく見るので、俳句に……と考えたのですが、6文字なので中七にしか使えない、どうしたものかと案じていると、「モッコウバラは季語にならないわよ」といわれました。
 ホッとしたような、残念なような……複雑な気持ちです。
2014.05.06 水子貝塚公園
 一昨日(05/04)は難波田城公園のついでに富士見市の「水子貝塚公園」に行ってきました。
 ここでいう「水子」とは「水多きところ」という意味で、昔はここに貝塚がありました。
 というのも、荒川が流れているところは海だったそうで、人々は台地に多くの貝殻を残しました。
水子貝塚公園
 水子貝塚は昭和12年(1937)に発見され、その後の調査によって縄文時代前期中頃(約5500年前)の貝塚であること、竪穴住居が建てられていたことが明らかになりました。
 この貝塚は当時の集落を推測する上の学術的価値が高く、遺跡の保存状態も良好なので、昭和44年(1969)には国史跡に指定されました。
復原竪穴住居
 そして平成6年(1994)富士見市によって水子貝塚公園(愛称「縄文ふれあい広場」)がオープンしました。
住居の骨組み
 公園内には数軒の竪穴住居が復原されていて、内部には縄文人の生活の様子が再現されています。
 父親は凛々しく、母親は野生的ではあるけどなかなかの美人、子どもたちも逞しそう。
 当時はスマホなんてなかったけど、これで一家の団欒がはかられていた。いい家庭だなあ……。
 こっちのほうが羨ましくなったりして。
住居の内部
 また展示館には貝塚を復原したものや、発掘された人骨(複製?)なども展示されています。
 難波田城公園では歴史、そして水子貝塚公園では古代史が学べる……。
展示館① 展示館②

 GWだからといって遠くに出かけなくても、近くに面白いところはあるものです。
 今日(5月5日)は子どもの日。
 昔は「端午の節句」の日だったので、男の子のいる家では今でも兜を飾ります。

 息子が1歳のとき、「男の子には兜が必要だ」と義父が息子のために高価な鉄製の兜を買ってくれました。
 自分自身の幼少時には兜で祝うという風習はなかったので、そんなことには無頓着だったのですが、「子育てには儀式的なものも必要なのか」と思ったことがあります。
兜
 当時近所に息子より少し年上の女の子がいて、その子に「どうして雛祭りの日は休みじゃないの」と聞かれたことがあります。
 私は答えに窮して、「5月5日は男の子、女の子に関係なく休みだろう。女の子はさらに雛祭りで祝ってもらえる。それまで休みにすることはないじゃないか」と大人気ない答え方をしてしまいました。
 女の子は納得したかどうか。
鎧・兜

 富士見市にある「難波田(なんばた)城公園」
 昨日(05/04)は「子どもの日」ということで、立派な兜や武者人形が飾られていました。
武者人形

 この公園は昔難波田氏の居城があったところから埼玉県旧跡に指定され、平成12年に歴史公園としてオープンしました。
難波田城公園①
 この難波田一族、乱あれば必ず参戦するという、なかなかの猛者ですが、今ひとつ名前が知られないのは、負けた側についたことが多かったからと考えられます。
難波田城公園②
 例えば南北朝時代、足利尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」では直義側につき、難波田九郎三郎は羽祢蔵(今の志木市)で討ち取られました。
 その後は扇谷上杉氏の配下に入りますが、その扇谷上杉氏は小田原の北条氏に滅ぼされ、北条氏の配下についたものの、その北条氏は豊臣氏に滅ぼされたために、難波田城は廃城となりました。
 勇猛果敢ではあるけれど、戦国武将としては世わたり下手。
 私にとっては愛すべき武将です。
難波田城公園③
 この公園の城跡ゾーンは戦国時代の難波田城の曲輪(くるわ)や水堀、土塁が復原されています。水堀には花菖蒲や水蓮などの湿性植物が植栽されています。
 兜とともに戦国武将に想いを馳せるのも一興です。 
 「おや、揺れている」
 カタカタと小刻みな揺れ。地震だな、と思いました。
 ところがすぐグラグラッという大きな揺れ。
 「大変だ!」
 これは大きい、と思いました。震度3以上だろう。時計を見ると5時18分。
 それでも棚の上のものは落ちたりはしてないので、5までは行ってない。

 TVのニュースを見ると、東京都千代田区大手町で震度5弱。埼玉南部は4とのこと。
 都心のほうが大きいことにおどろきました。(震源は伊豆諸島近海、深さ160km、マグニチュード6.2)

 今のところ被害の情報はなく、津波の心配もないとのこと。
 被害のないことを祈ります。
 こんなことを当ブログに掲載するのが適切かどうか、迷いましたが、警鐘の意味を込めて掲載します。

 一昨日(05/01)多聞寺に向かう途中でした。
 「なんか焦げ臭い」
 それも異様な臭い。喉がいがらっぽくなります。
 しかも、前方に黒っぽい煙が上がっています。

 なにかを燃やすような工場はないし、草木や廃棄物(?)を燃やすにしては、いやな臭い。
 こんな燃焼の許可など、とても出ないはず……。
異様な煙
 多聞寺への進行方向です。
 「なんだい、この煙は。尋常じゃないよッ」
 ひとりのおばさんが、そう叫びながら、そちらの方向へ走って行きました。

 やっぱりそうか。私もおばさんについて走りました。

 黒い煙のすぐ近くまで行きました。(住所はふじみ野市大井××)
 熱い。
 何人かが「大変だ、大変だ」といいながら、見ています。民家の向こう側の家が燃えています。
民家から炎
 それを見ようと、民家の裏に入りました。火が見えます。
裏から
 表側に近づきました。家と家の間から赤い炎が見えます。それも「ゴォーッ!」という音。
 火というものの暴力的な恐ろしさを感じました。
消防隊がくる
 ほどなくして消防隊がきました。
 隊長らしき人が何やら電話しながら、一方では隊員に指示。水をかけはじめました。
 しかし火は消えず、ますます激しくなります。
 「この程度の水ではたして消えるのか」
 不安がよぎりました。
水をかける
 それでも隊員は我慢してかけ続けます。
 3分ほど経って、白い煙が立ち込め、炎はようやく下火になりました。
 「やれ、よかった」
水をかけ続けて3分後
 もう一度、裏にまわってみました。
 ここも白い煙が立ち込め、炎は治まっています。ホッとしました。
もう一度裏へ

 これでもう鎮火されるだろう。
 そう思って多聞寺に向かいました。

 多聞寺以外にも寄るところがあり、その帰り再び火事現場を通りかかりました。
 4時間も経っているので、さすがに火は消えていましたが、警察の非常線が張られ、立入り禁止に。
 消防車も4台ほどまだ止まっていました。いかに大きな火事であったかわかります。
4時間後① 4時間後②

 以上の記事と写真から、いかにも興味本位で現場にずかずか入り込んだと思われるかもしれません。
 しかし、そのとき私はなにも考えず、勝手に身体がそちらに動き、写真を数枚撮っただけなのです。
 「それを野次馬根性というんだよ」
 そういわれればそれまでですが、「火は恐ろしい、用心するに越したことはない」という気持ちを表すために取った行動だと今では思っています。
 昨日(05/01)所沢市の多聞院で「寅まつり」が行われました。
 多聞院の毘沙門堂には、武田信玄の守り本尊である毘沙門天がまつられています(参照)が、その毘沙門天の化身が寅。
 毘沙門堂の前には狛犬ならぬ二匹の狛寅が見守っています。
狛寅①
 この寅(虎)は細身でしなやかそう。虎の感じはしませんが、縞模様があることで虎を表現しているとのこと。制作は慶応2年(1866=寅年)
狛寅②
 その虎に因んだまつりが「寅まつり」というわけで、身に降りかかる災いを「身代わり寅」に託して奉納するというもの。

 同時にこの時期、境内には300本ものぼたんの花が咲き誇り、「ぼたんの寺」としても有名です。
 ぼってりと大きな花です。
境内① 境内②
 「ああ、これがぼたんか」
 初めて見たわけではありませんが、これでやっと名前を覚えた次第。

境内③
 そういえば先日、川越の中院でも見た。
 これが草花に弱い当方の感想です。
 月が変わったので、関西レポートは終り、こちら(関東)からの報告に切り替えます。
 ということで、久しぶりに川越を訪れました。4月7日の花見いらいです。
蔵造り一番街①
 しかし……。
 道が狭い、車が多い、せかせかしている。
 彦根の「京橋通り」のゆったりした街並みに比べると、なんだか色褪せた感じ。
 「どうも風情に欠けるなあ」
蔵造り一番街②
 川越市には悪いけど、彦根に行ってきたあとなので……。
 帰ることにしました。
中院①
 「おや?」
 中院を通りかかったとき、チラッと門のなかを見ると、不思議な光景。
 「まさか、紅葉……?」
 入ってみると、赤やオレンジ色の花。
ツツジ
 花の形はツツジですが、それにしては背が高い。
 そこで通りかかった人に聞いてみると、「ツツジだよ」
 なるほど。どうやらヤマツツジというらしい。
ツツジ棚(?)
 それにしても見事です。
 ツツジのトンネルなんて初めて見ました。
中院②

 ツツジといえば、根津神社(東京都文京区)が有名ですが、これはこれで風情があります。
 川越も捨てたものではない、と思いました。