農学部グラウンドから御蔭通を挟んだ向かい側に「北白川ヴィアトール教会」があります。
 「そうか、悪さしたからその懺悔にきたのだな」だって?
 違いますッ!
御蔭通
 いや、それも否定しませんが、ここはなじみのあるところで……。
 それというのも、私の父方の祖父母がカトリックの信者だったもので、私は小学校の低学年まで、ここの日曜学校に通っていたのです。
ヴィアトール教会
 なにを教わったかはまったく覚えていません。
 それどころかご近所のグラウンドに火を点けるなど、神の教えに背くとんだバチ当たり。
 「この愚かな者をお許しください」
 マリア様にお祈りしました。(許しましょう、の声)
 ははーッ、ありがとうございます。
マリア像

 これでなんのやましいこともなく、北方向へ。
 しかし、おかしい。平井町の公園がない。
 そこで近くにいた人に聞いてみると、「公園なんてありませんよ」
 なにをいうのだ、あったんだって。
 この近くにHというヤツが住んでいて、(火を点けた)Mとよく遊んだもの。
 高校時代だけじゃなく、わが子が生まれてからも、里帰りしたときは息子を連れてよくきました。コンクリートのスロープがあって、格好の遊び場だったのに。
疎水沿いの道
 仕方がないので疎水沿いを少し歩きました。
 この疎水は「哲学の道」の延長で高野川をくぐり、松ヶ崎浄水場で浄水され、市民の水を供給しています。
疎水
 この先にやはり同窓生の女がお好み焼き屋をやっているとのことで、千葉県A市の幼友だちからは「食いに行ってやれよ」といわれてたのですが、「この時間(午前10時)からお好み焼きはなあ」という気分だったので、やめて白川通りに出ました。
白川通
 「別当町のジュネスに行こう」
 この喫茶店は私のお気に入りです。
 珈琲の味もさることながら、店内から別当町の交差点が見わたせます。
 里帰りしたときは、必ずこの店から窓の外を眺めたものです。
 ある女性がこの前を通るような気がしたからです。そんなことは一度もなかったのですが。
 (あとで聞くと、ここからはとっくに移っていたようです)
喫茶ジュネス
 しかしジュネスは休み。
 7年前もやはり休みだった。よくよくここには蹴られるようです。
 ジュネスは断念して、近くの小汚い喫茶店に入りました。(店名は秘す)
 「思ったより早かったかな」
 小中高ゆかりの地を足早に歩きました。
 とくに懐かしいと感慨に浸ることもなく、淡々と歩いた気がします。

 最近とみに思うのは「もう二度とこれないかもしれない」
 そう心して歩いたので、思い残すことはありません。
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 私の実家は吉田神社から京大キャンパス沿いに北上したところにあります。
 マリア・テレサM子(参照)の家があった地域を通り過ぎ、斜め右に曲がると今は千葉県A市に住んでいる幼なじみ(男)の家。取り壊されて駐車場になっていました。
友人宅跡
 しかもそのとなりは……上の壁板や壁土がはがれ落ち、なかの格子が丸見え。
 なおも近寄って見ると、家全体が傾いている? こんなことで持つのか。
実家近辺
 私の実家はこの近くですが、素通りして今出川通へ。
 向かいの京大北部(農学部・理学部)キャンパスに入ります。

 今では中央に木が植えられていますが、昔はただの砂利道、
 ここでよく野球をやりました。一応三角ベースですが、レフト側だけ深い変則フェアゾーン。そのため右方向への流し打ちは厳禁でした。
 たまに打ち損なってライト方向に球が飛ぶと、東側の民家のガラス戸をガチャーン!
 打ったヤツが謝りに行き、ガラス代を弁償するのが我われのルールでした。
京大農学部
 その先へ行くと理学部植物園や、湯川秀樹博士がノーベル賞受賞を記念して建てられた(1953)「湯川記念館」があります。
 当時は「立派な建物やなあ」と思ったものですが、最近はそれより大きな建物がキャンパス内に建ち並び、記念館はいく分影が薄くなったような気がします。
湯川記念館

 さらにその先へ行くと農学部のグラウンド。
 ここも我われの遊び場でした。レーンのなかの芝生でよく野球をしました。
 当時は学生たちの練習の妨げにならなければ、誰でも出入りは自由でした。
 トラックレーンも今ではアンツーカーになり、きちんと整備され、「関係者以外立入り禁止」
農学部グラウンド①
 このグラウンドの東側は高くなっていて疎水が流れています。
 ここからグラウンドが見わたせます。
 実はここで大変な事件(?)をやらかしました。
 高3のとき、前述のいたずら好き男(M)と隅の芝生で煙草を吸いながら、学生の練習を見ていました。
農学部グラウンド②
 「おい、それ、危ないぞ」
 彼が手にしていた煙草が(枯れた)芝生に接触し、チリチリと燃えはじめました。
 これはいかんと消しにかかりましたが、消えない。それどころかボォーッと炎がいっそう激しくなりました。
 「これは簡単には消えない」
 そう直感した私は彼の袖を引いて、「逃げよう!」
 前の土手を一気に駆け上がり、疎水の道に出て、バス通り(御蔭通)を東に走りました。
 別当町に着き、うしろを確かめながら、早足で白川通を銀閣寺方面へ。
 「こら、待てえ」と追いかけてくる人間はいません。フーッ、助かった。ところが……。
疎水道路
 自分の身が安全であるとわかると、「あそこはどうなっているのだろう」
 火をつけた現場が気になります。
 そこでふたりで銀閣寺方向から疎水沿いに歩いて、グラウンドに近づきました。
 犯罪心理学いうところの「犯人は必ず犯行現場に舞い戻る」。まさにこの心理です。

 ところがそこへ行ってみると、枯れた芝生が広範囲に黒コゲになり、学生や職員たちが10人ほど並んでバケツリレーで消火に躍起になっています。
 「もっと水!」
 怒鳴られて、水を汲む側は大わらわ。大変な騒ぎになっています。
 土手の上から何人か見物人もいました。
 それを見た我われは「はははは」
 思わず笑い転げました。
犯行現場(?)
 なんとも不謹慎な話ですが、あんなに面白いことはなかったのです。
 だからといってふたりが放火に目覚めた、ということはなく、二度とやってはいません。

 今回、約半世紀ぶりに現場を訪れ、当時のことを思い出すと、「はははは」
 またしても笑いがこみ上げました。
 東一条からさらに東に入ると、吉田神社・一之鳥居、その先は参道です。
吉田神社・一の鳥居
 そこを通ると二之鳥居。
 私の実家はそこをくぐらず、左に折れて京大のキャンパス沿いに北上するのですが、今回は石段を上り、神社の境内に着きました。
吉田神社・二の鳥居
 ここに幼稚園があり、その縁の下の洞穴は私たちの遊び場でした。
 小5のとき母とケンカして家出して、この洞穴で夜明かししょうとしたところ、弟が連れ戻しにきて、やむを得ず帰ったことがあります。(参照
吉田神社・境内
 その弟はもうこの世にいませんが、感傷に浸る間もなく、細い石段を上って山頂へ。
 この石段は昔から「百段」と呼ばれていました。
 今回数えてみるとピッタリ100段。間違ってなかったのです。
百段
 それを上りきって山頂へ。
 ここには「紅もゆる丘の花」の石碑があります。
 これは「旧制三高」(現京大教養部)の学生たちが口にした歌で、正式名は「逍遥之歌」(澤村胡夷・作/明治38年)といって、
 「紅もゆる丘の花 狭緑匂ふ岸の色 都の春に嘯けば 月こそ懸かれ吉田山」という歌詞です。
山頂
 友人のS君の家はこの山頂の向こう側の中腹にあります。
 通学に関しては私よりも少し苛酷ですが、この地域には彼だけではなく、M君という男もいました。コイツは頭はいいのですが、いたずら好きで、よく一緒に悪さをしました。
 この男については別の機会に……。
紅もゆるの碑
 余談ですが、高3のとき、ここである女の子と知り合いました。
 石碑の近くの大きな石をベンチ代わりに坐って本を読んでいたら、その子が周囲をうろうろしているので、ふざけて足元にぽんと投げると、向こうも投げ返してきたところから、どちらからともなく近寄ったのです。
 しかし相手は意外に小柄な女の子。しかも中学3年生。
 弟と同い年です。「これはいかんだろう」
それにこんな子とつき合ってると知れたら、みんなにバカにされる。
住所を聞かれましたが、デタラメな住所を彼女の手帳に書きました。それっきり。
百段・下り
 これがナンパというのなら、生涯にたった一度のナンパ体験です。
 今にして思えば、勿体なかったかなとも思いますが、あのときは他に考える余裕はなかった。
 彼女には悪いことをしたのでしょうか。いや、あれでよかったと思います。
参道の下り石段

 私の家は吉田山の北西部にあるので、山道を北参道(今出川通)に出たほうが近いのですが、境内に荷物を置いたため、元きた道を下山しました。
 同窓会の翌日(04/13)朝早くホテルを出て、蛤御門から御所を横断し、母校の鴨沂高校(今は工事中)の前を通り、荒神橋をわたって川端通に出まし
 ここも桜が満開でしたが、さすがに見飽きているので、さしたる感慨もなく北上しました。
鴨川 川端通
 ここが精華女子高か。
 高校時代、御所でここの女子高生の逆ナンパ攻撃を受け、メロメロになったヤツがいました。
 しかし私にはなんのお誘いもなく、トホホな青春(?)。
精華女子高
 その角を曲がり、東一条通に出ました。
 ここには我が母校があります。京都市立第四錦林小学校。
 6年間、様ざまな想いがあります。担任はきらいだったけど、級友たちとはもう一度顔を合わせたい。
 今回、高校の同窓会に出席し、小学校時代の級友と会ったとき、彼らのあまりの希薄さに、ますますそう思いました。
母校① 母校②

 少し東へ行ったところに同級生の店があります。レストランと雑貨店。
 昔は出前中心の小さな食堂でしたが、7年前ここを通ったときは「花△」なるレストランになってました。
 それが今は見慣れぬイタリアン・レストラン(休み)。
 アイツ(×太郎)が経営しているのだろうか。興味を覚えましたが、休みとあらば仕方がない。
件のレストラン

 角にある雑貨店。
 ここの娘とも同級だったのですが、しっかり者で私たちのお姉さん的な存在でした。
 それが3年前の中学の同窓会で、「辻さんじゃないの」と声をかけてきた人が誰あろうこのお姉さん。
 老いたりとはいえ、いい女になっていました。(若いころはさぞかし男にモテただろうな)
 今は千葉に住んでいるそうです。
同級生の店
 そのとなりのお風呂屋さんの娘も同窓生ですが、すでに他界しています。
 手を合わせて、そこをあとにしました。

 東一条に向かう右側(南側)に経師屋があり、店頭に「地獄極楽図」の掛け軸がありました。
 「怖いなあ」
 「針山地獄、血の池地獄もあるで」
 「死んだら、こんなとこ行くんやろか」
 「そら、悪いことしたら行くんや」
 友人のSといつもそんな話をしながら立ち止まって見ていました。
 Sはあまりの怖さに夢にうなされたそうです。
 それでも見るのをやめなかったのは、「怖いもの見たさ」とでもいうのでしょうか。
東一条交差点より西を見る
 その経師屋はもうありません。
 子どもに恐怖を与えるので(?)廃止されたか、それとも単なる営業不振か。
 真相はわかりませんが、こんなところにも時の移ろいを感じました。
 彦根東高校は彦根城の中濠のなかにあります。
 元は彦根藩の藩校「稽古館」(寛政11年=1799)、明治になって「滋賀県県立第一中学校」
 その流れを組む伝統校です。偏差値も高く、進学率も高い。
 文武両道で、昨年夏は野球部が甲子園に出場しました。(校庭に記念碑あり)
彦根東高校
 父の葬儀のとき、知的でてきぱきとした感じの女性がいました。父方の親戚で彦根東高校で家庭科の先生をされているとのこと。
 当時高校生だった私は怖気づき、終始遠ざけていました。悪いことをしましたが、当時は小心者でした。
登校風景・佐和口門
 護国神社からお濠端のいろは松に出たとき、登校してくる生徒たちに出くわしました。
 「おはようございます」
 「おはようございます」
 佐和口門のところに若い先生が立って挨拶しています。ついでにこちらも……。
登校風景
 ここは男女共学ですが、女子生徒を見ると、スカートを短くしている子はひとりもいません。
 校則が厳しいからか、あるいは彼女たちが自主的にそうしているからか。
 好感が持てました。
                         *
 彦根城の南を流れて琵琶湖に注ぐ芹川。(水源は鈴鹿山脈北端)
 この川沿いに善利組足軽屋敷があり、私の祖父(曾祖父も)が住んでいたところです。
 川の風景、規模からすると、我が近所ならさしずめ新河岸川、あるいは柳瀬川といったところでしょうか。
芹川
 ここも桜が見事でした。地元では桜の名所のようですが、観光客はほとんど見られず。
 町の中心から外れるからでしょうか。あるいは人口が少ない(112,597人=14/04/08現在)から? ちなみに川越は348,723人(14/04/01現在)
後三条橋より
 私の先祖もこの川を毎日見ていたのでしょうか。そう思うとひとしおの感があります。
                         *
 花しょうぶ通り
 このあたりは昔「袋町」といって遊廓のあったところです。
 彦根市の観光案内には出ていませんが、舟橋聖一「花の生涯」にも出てきます。
花しょうぶ通り①
 それだけに当時の建物が残っているのではないかと興味津々で通ったのですが……。
 あるにはありましたが、遊廓らしき面影はほとんどなかった。こちらの探索が甘かったのかもしれません。
花しょうぶ通り②
 彦根の名工、アートの発信地「寺子屋 力石」(街の駅)、寺子屋を改修したものだそうです。
 古い煉瓦づくりの「逓信舍」は元郵便局の建物。ここも街の駅の役割を果たしています。
寺子屋
 ただし遊廓らしき建物ではなかったので、なかには入りませんでした。
 図書館をあとにし、お濠端を歩いて、京橋に着きました。
 京橋の由来は、城を背にしてこの橋が京(南西)に向かっているからとのことです。
 そしてその前の大通りを、「夢京橋キャッスルロード」といいます。(正式名称は夢京橋商店街)
京橋通り①
 城の東側が武家屋敷なのに対して、南西側は桶屋町・職人町・八百屋町などの職人街、商人街さらにその先は芹川沿いの足軽屋敷で、明治以降は開発から取り残されていました。
 しかし平成11年(1999)江戸時代の建物・風情を再現する町並みとして生まれ変わりました。
京橋通り②
 古い町並みといえば、我が近くの川越の町並みと比較してしまいますが、道幅が広く町の雰囲気がゆったりしているところから、彦根のほうがいいと思いました。
 川越は狭くてごちゃごちゃしています。

 私はここで「あゆ料理の店」に入り、鮎の塩焼き定食なるものをいただきました。
 あっさりして、品のある味でした。
鮎の塩焼き定食

 この通りに面した宗安寺にお参り(見学?)しました。
 ここには、大坂夏の陣で豊臣方について武運つたなく討ち死にした木村重成公の首塚があります。
宗安寺
 彦根は他にも石田三成(佐和山)の城址があります。
 彦根藩は戊辰戦争では官軍側につきましたが、明治になってからは「徳川幕府の筆頭普代藩だった」とのことで、冷たい扱いを受けました。
 戦(いくさ)ではいずれも負けた(割を食った)側。これも私が思いを寄せる理由です。
重成公の首塚

 喫茶店にも入りました。
 名前は失念しましたが、3人の(年配?)女性がてきぱきと切り盛りしている店でした。
 スイーツが人気らしく女性客が多かったのですが、珈琲もなかなかの味でした。
喫茶店

 この通りは風情があっていいと思います。
 ただし名前がよくない。「夢京橋キャッスルロード」とは何だ。口にするのも気恥ずかしい。
 「夢」とか「キャッスル」など、変に装飾すると、かえって中身が空疎になります。
京橋通り③
 東京ならシンプルに「京橋通り」です。そのほうがすっきりして、かえって重みがあります。
 (川越だって「蔵造り一番街」です)
 「彦根人の気風は質実剛健」と親戚から教わりました。
 とてもその気風から生じたものとは思えません。

 勝手ながら、今後は「京橋通り」と呼ぶことにします。
 今回の彦根行きの目的は、我が家系の祖先を尋ねるところにありました。
 私の父方の祖先は彦根藩士であり、「曾祖父は彦根藩士で、『鳥羽伏見の戦い』で行方不明になった」と母から聞かされておりました。(参照
 それらしき証拠品として行李から脇差や仕込杖、巻物などが出てきたし、巻物には幕末の京都の目明しの処刑図もあって、鑑定の結果からもたしかなものでした。
彦根駅前
 ただし家系図はありません。
 唯一の拠り所は祖父の戸籍謄本(実際には彦根市から京都市へ移り住んだ際の除籍謄本)。
 これには祖父と曾祖父の記述があったので、彦根藩士の武鑑(名簿)を見ればわかるのではないかと図書館(府中市)で調べたのですが、我が家系は見当たらなかったのです。
 「こうなったら彦根に直接行くしかない」
彦根駅前通り
 私は彦根には彦根藩士会のようなものがあり、そこで調べてもらえるのではないかと安易に考えていましたが、それらしきものはなく、図書館か郷土資料館にある(?)彦根藩士録を調べるしかない、ということになりました。

 そこで彦根図書館に伺いました。
 ここで彦根藩士の名簿を見せてもらおうとしたのですが、「個人情報」を理由に全部は見せてもらえず、こちらが呈示した人物名をもとに検索するとのことで、祖父、曾祖父、曾々祖父の名を呈示して、それについて調べてもらいました。
彦根市立図書館
 結果、曾々祖父は該当名なし。
 曽祖父は巽町、祖父は池州町の住民として、バラバラに掲載されてました。年月日もなし。
 巽町は芹町の足軽長屋の近くだし、池州町は曾祖父の妻の出身なので、当人に間違いないだろうと思います。

 ただし系統立てた記述はなく、系統立てて記述されているのは辻〇佐衛門の家系のみ。
 この家系を見せてもらいましたが、曾祖父、祖父はなかった。
 漏れがあったのか聞いたところ、「辻家は他にもあると思いますが、資料が揃ってないので今の時点では何ともいえない」とのことでした。
彦根市役所
 目下博物館で、「彦根藩士録」を編纂中なのだそうです。
 図書館の人にはいろいろとお手数をかけましたが、あとで考えると、図書館でいきなり「彦根市史稿」(中川泉三・編)を閲覧させてもらったほうがよかったのか、あるいは市役所で「彦根市史」(全3冊)を見せてもらえばよかったのか、ちょっぴり悔いが残りました。

 とはいえ彦根の市街地は気に入ったので、探索はまたの機会にすることにしました。
2014.04.23 四月の句会
 四月某日、俳句会が行われました。(出句については別項)
 私の投句の結果は、
 ①ゴムボール壁にぶつけし我が球春……(0)
 ②磯遊び出汁に取りたや流れ昆布(兼題・磯)……(0)
 ③春風や乙女に返り足さらす……(0)
 ④マリア像微笑む顔に花吹雪……(0)
 (出席10名、出句40句)

 今回は一票も入らないという体たらくです。
 次に先生の評。
 ①…………。
 ②昆布は磯に流れ着くものだから、「流れ」は余計。「磯遊び出汁に取りたき昆布かな」にしたほうがいい。
 ③…………。
 ④悪くはないけど、ちょっと平板で印象が薄かったかな。

 ①、③に関してはさしたる批評はなし。(次回の句会で添削されてもどってきます)
 あまり印象にも残らない句だったのでしょうか。

 仕方がないので、最多得票を取った句を、
 丸ちゃぶ台を囲む磯野家桜餅(4……うち特〇ひとつ)

 兼題が磯なのでサザエさんの「磯野家」を持ち出してきましたが、あまりいい句とは思いません。

 それよりも、
 春日傘女房の嘘をいろどれり(2……うち特〇ひとつ)

 ふつうなら(嘘を)「隠しけり」とするところを、「いろどれり」としたところに春日傘ならではの妙味があります。(特〇を入れたのは私です)

 なかにはこんな句も
 好きな事出来る幸せ白木蓮(3……うち特〇がふたつ)
白木蓮
 人の句を云々したくありませんが、これがどうして特〇ふたつなのか、合点できません。
 今回同窓会に出席して、見覚えのない男から、「辻やないか。同じクラスだったHだよ」と声をかけられました。しかしまったく思い出せない。「Hなんてヤツいたっけ?」

 私はこれまで記憶力はよく、顔を見れば大体わかるので、「誰だっけ?」ということはあり得ない、とぼけて知らん振りしているか、希薄だからだろう、と思っていました。
 ところが今回はまったく思い出せない。
 あとでアルバムを見たのですが、それでも覚えがない。もっとも彼は「HRにはあまり出てなかった」といってましたが。
 自分にもこんなことがあっては「人のことはいえない」と思いました。
母校通用門
 さて、あとで出席者リストを見ると、A君、B君の他に小学校の同級生が5人も出席していることがわかりました。
 しかしそのときは他の人間との話に没頭するあまり、考えも及ばず、あとで集合写真を見ても、誰が誰やらさっぱりわからないという有様でした。ちょっぴり後悔はあります。
 さらに欠席者から7人もの同級生のメッセージが寄せられていました。ということは消息がつかめるということ。
 ただし物故者リストを見たら、小学校のわがクラスではMの他にもIさんが亡くなっていました。
 やはり同窓会をやらなきゃならんなあ。
                         *
 欠席者のメッセージを見ると、同窓生の夫婦が三組いることがわかりました。
 一学年約580名、そのなかでの三組というのは多いのか少ないのかはわかりませんが、恋愛はともかく、結婚というのは私には考えられない。

 文化人類学的に見ると、人間は異種のグループから配偶者を選ぶ傾向にあります。
 これは「種の保存」の法則で、雑多な血を配合するためだそうです。

 私だって、どんなに仲がよくても、近所の女の子とか机を並べた女の子と一緒になる気はしません。
 今回、再会した女性たちと話してみても、「この人とは恋愛にもならないだろうな」と思いました。年も年ということもありますが、「同窓会不倫の火ダネ説」というのはどうかな。
 (モテなかった人間の負け惜しみ?)
寺町通り・(左)御所、(右)母校
 こられなかった人の理由として、「仕事で忙しい」「趣味の行事とぶつかる」「孫の面倒をみているので」「体調不良」というのが多かった。
 なかには「同窓会に意味を見出せない。今後は案内を送らなくてもけっこう」というのもありました。
 思考・価値観は人それぞれですが、自然の摂理から考えると勿体ない。
 
 「同窓会に意味はない。単なる懐古趣味で退行現象だ」
 そういっていた人物がいましたが、世間から弧絶し、早死にしました。
 未だに「この男の生とは何だったのか」と思うことがあります。
 「同窓会は若返りに効果あり」とはアメリカの心理学者の、実験済みの定説です。
                         *
 体調不良では、実のお兄さんから、「……本人入院中、退院の見通しは暗く、今後の行事にも参加することは不可能な状態です……」とのメッセージを寄せてきた人がいました。
 卒業写真を見ると、目もと涼やかな可愛い女性。「こんな人がなあ」
 しかも代筆が夫や子どもではなく、お兄さんというところに、なんとなく不憫さを感じました。(考えすぎでしょうか)
 この人とは縁もゆかりもありませんが、回復されることを祈るばかりです。
                         *
 同窓会に出席できるのは元気だからこそ。
 この元気をみんなで共有したい。そしてそれを明日のエネルギーにつなげたい。
 これが同窓会の意義なのだろうと思います。
 二次会は木屋町三条のとある飲食店。
 いったん部屋に帰り、出席者リストや式次第の印刷物を置いて受付にもどると、大半は二次会のほうに向かっていました。
 「店名は聞いてないぞ」というと、写真家の永野一晃君が「オレ知ってるから一緒に行こ」

 というわけで、彼と同道して会場に向かいました。「歩いても知れてる」
 御所を突き抜け、途中彼は桜の写真を撮りながら、裁判所前へ。「桜はもう終りかけやな」
 仕事の話をしながら、寺町通り→市役所前→三条通り→木屋町へ。
御所のぼたん桜

 会場に入ってみると、すでに満員。定員50名のところ、我われで65番目。
 「今ごろきても、席はあらへんぞ」
 といわれても意に介さず、強引に割り込みました。「東京のヤツは強引やな」との声も。
                         *
 「あれから俳句続けてるよ。しかし一向に腕は上がらず、これまで最多得票はたった2回」
 京都の俳句の宗匠に報告しました。3年前私の句をボロクソにけなした女性です。
 「結社に入ってんの?」
 「いや、地域の公民館でやってるんや」
 「そらよかった。続けよし」
 こちらとしては「ははーッ」という気持ちです。
                         *
 「Iさんだよなあ、1年のとき同じクラスやった。バレーボールではお世話になりました」
 クラス対抗の球技大会でバレボールに出場した私たちは、当時バレーボール部にいたIさんの指導を受けました。そのお礼がいいたかった。
 Iさんの指導は厳しかったけど、女性特有のやさしさもあり、我われ素人集団はメキメキと上達(?)していきました。
 「試合ではF君のブロックも飛び出し、負けたけど悔いはなかった。むしろ爽やかな感じやった」
 「せやったかなあ。もう忘れてしもた」
母校の運動場
 Iさんは勤めてからも、結婚して子どもが生まれてからもバレーボールを続け、子どもにもやらせました。娘はバレーボールで大学へ行き、海外遠征もしたのですが、今は家庭に入り、「バレーなんて、本当は大きらいやった」といってるそうです。
 「バチ当たりな娘やな。でもそのうち、お母さんに感謝すると思うよ」
 「そやったらええにゃけど」

 Iさんとふたりでアッちゃんという女性のことを話していたとき、そばにいた友人が気を利かせて彼女を連れてきました。
 クラスの仲間7~8人で大文字山に上ったことがありました。しかし途中で雨に降られ、やむなく下山しました。そしてみんなで近くのアッちゃん宅へ。そこでミニクラス会(?)
 「みんなズブ濡れやったもんな。あれは助かった。しかも紅茶までご馳走になって」
 「そやったかなあ」
 「あの紅茶は美味かった」
大文字山
 このときはIさんも参加していて、後日彼女からていねいな礼状がきたそうです。
 しまった、こっちはそんなことまるで無頓着だった。
 「でもいいよなあ。今、こうしてお礼がいえるわけだし……」

 永年いえなかったお礼がいえるのも同窓会の功徳。
 「また会おう。それまではなんとか生きていよう」
 再会を期して別れました。
 約一週間前の4月12日午後13:00~御所蛤御門前の「ガーデンパレス」にて高校の同窓会が開かれました。
 受付に着くと、まだ開始前なのにいっぱいの人。出席者135名とのことです。

 「なんやこれ、去年(11月)とえらい違いや」
 「今年は50周年記念同窓会ということで、力が入ってんのや。東京からもかなり動員しよった」
 と幹事たちが話してくれました。

 とはいえ物故者も多く、46名とか。(昨年は43名)
 そのため1分間の黙祷を捧げてから始まりました。

 近くに小学校の同級生A君がいたので、「同窓会やろうよ。SとKを連れてくるからさあ」
 ところがA君は困惑した顔で、「それはB君に聞いてくれ」
 (学級委員だった)B君は浮かぬ顔で、「それがなあ、3年ほど前まではやる気あったんだよ。ところがMが亡くなって、やる気なくしてしもたんや」
 理由にならん。むしろ逆やないか。
 仲間が死んだら、危機感が募って、いっそう「やらなきゃ」という気に駆られるもの。
 A君もB君も成績はよく、人柄もいいけどリーダーシップがまるでない。
 こうなったら今年の11月、中学の同窓会があるから、そのとき強引に召集するしかない、そう思いました。
ガーデンパレス

 近くにN君(××部所属)が通りかかったので、他界した親友TY君のことを聞きました。
 「あいつは変わったヤツやった。内装関係の仕事で、父親の店の内装もやっとった」
 「ふーん、神社の前では必ずお辞儀しとったで」
 「あいつは右翼や。自分でそういうとった」
 「たしかに。よく論争した。それでも仲違いすることはなかった」
 「あいつはそういうヤッちゃ。好ききらいが激しいけど、好きなヤツには徹底的にやさしいねん」
 「するとオレは気に入られてたんか」
 「そういうこっちゃ」
 返す返すも彼に再会できなかったのは残念です。

 ついでに同じ××部にいた某女性のことも聞きました。
 「ああ、あの子か。一緒に御所を歩いたことがあるけど、なんかつかみどころのない女やった。あれが〇〇(当人の名)流なんやろな」
 「なるほど」
 「ところで……、なんでそんなこと聞くねん。さてはお前」
 「なんでもない」
 強引に打ち切りました。

 会は高校時代のクラス、行事、部活などのスライドショー、さらに今年から取り壊される思い出の校舎が映し出されました。
 「うーん、これらがなくなるとは寂しいなあ」
 「まあ、実物はなくなっても心のなかにイメージが残っていればええのや」
 「そういうことかなあ」

 このあと幹事交代の人選になり、代表はT君から私のよく知ってるY君へ。(悪友のKも幹事のひとりに連ねています)
 これまで代表幹事を務めてくれたT君はよくやってくれたと思います。
 その彼の最後の勤めがこんなに大盛況でよかった。

 その後アトラクションで、軽音の連中によるギターの弾き語り。我らの世代の馴染み曲ビートルズやPPMが演奏されましたが、今ひとつ盛り上がらなかった。
 うーん、私の感想では練習不足?

 その後、新校舎「ウィーンの森」の植樹に際して命名権を争う500円玉ジャンケン(あっさり負けました)、さらに硬貨斉唱して閉会になりました。
 3時間、盛りだくさんの同窓会でした。とはいえ、まだ二次会があります。
2014.04.19 哲学の道
 翌日(04/13)は「哲学の道」にやってきました。
 銀閣寺から疎水を遡って若王子神社までの約1.5kmの小道。

 その昔哲学者の西田幾多郎がここを歩いて思索に耽ったことから、この名がつけられました。
 「日本の道百選」にも選ばれています。
哲学の道・入口
 ここは私の実家からは近かったので、高校時代はよく散策しました。
 友人と、近くでたむろしていたこともあります。
 ふざけて疎水に落ちたこともあります。そんなに深くないので、溺れることはなかったのですが……。
哲学の道①
 子どもが生まれてからは、帰省したときわが子とよく歩きました。
 「ふざけてここに落ちたヤツがいるんだよ」
 「それってお父さんのことじゃないの」
 「違うよ、オレはそんな間抜けなことはしない」
 ムキになって否定しましたが、バレていたかも(汗)。
哲学の道②
 ここも桜の名所です。
 これは近くに住んでいた日本画家・橋本関雪と妻よねが大正11年(1922)、京都市に苗木を寄贈したことがきっかけで、その後は京都の造園家(桜守)佐野藤右衛門らの手により植え替えられました。
関雪桜(?)
 そんな経緯もあってここの桜は「関雪桜(かんせつざくら)」と呼ばれていますが、これは正式な桜の木の名称ではありません。

 しかし残念ながら、もう葉桜。
大半は葉桜
 往く春や惜しむ疎水の花筏
 (↑季重ねです)
 それも風情(?)があります。
2014.04.18 平野神社の桜
 二条城で手渡された「二条城桜品種一覧」によると、「衣笠」という種類があり、「原木は平野神社にある」と記述されていました。
 こうなったら平野神社に行くしかない。
鳥居

 平野神社は二条城より北北西に約2.5kmの位置にあります。
 同神社は延暦13年(794)、桓武天皇による平安京遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まるというから、京都の歴史とともに存続してきたことになります。
境内
 特筆すべきは桜の木。
 円山公園のしだれ桜の祖の桜も含め、原木の桜などもあって、その種類は約50種、約400本。
 それらが3月初旬から次々と咲いて、5月の連休ころまで満開の桜を楽しめるそうです。
本殿

 この日(04/12)は紅しだれが満開でした。
紅しだれ
 探していた「衣笠」は本殿の近くに咲いてました。
衣笠

 それより私の目を引いたのは、塀の向こうから花をのぞかせている「白雲(しらくも)櫻」
 八重ですが、花びらが真っ白で品があります。
白雲櫻
 立札にはこう書いてありました。
 「現在の木は百年余の古木であり、美麗で優雅、蒼庭には相応しい花である」

 さすが都の桜、奥が深い、と思いました。
2014.04.17 二条城の桜
 彦根の市街地を歩き回って、夜京都の宿に着いて桜の名所を訊ねたところ
 「今からでも二条城の桜のライトアップが見られますよ」とホテルの人にいわれました。
 「うーん、今からではなあ」
 その日は疲れたので断念しました。
東南隅櫓
 「二条城が桜の名所とは知らなかった。京都出身者としては恥ずかしい」
 翌日(04/12)の午前中に行くことにしました。
 同ホテルは御所の西側なので歩いても行けます。
 午後からは宴会場で高校の同窓会があるけど、それまでじゅうぶん間に合う。
多種類の桜

 二条城に着くと大勢の人。土曜日だからでしょう。

 「うーん、ヤマザクラ、サトザクラ、シダレザクラ……。いろんな種類があるのだなあ」
 入口で渡されたパンフレットに「二条城桜品種一覧」と「桜マップ」がありました。
 それによると約50品種、400本。
かんざん やえべにしだれ
 桜の見どころとして、入口(東大手門)の左手(南門近く)の庭園と、右手(北大手門近く)が種類も多く、華やかです。夜ライトアップされるところ。
やまざくら
 本丸西側には桜の並木があって、ヤマザクラなどが見られます。
 こちらは東側に比べると人が少なかったけど、なかなか見応えがあります。
しだれザクラ
 こうして見ていると、先月近所の「せせらぎ公園」で見た数種類の桜はなんだったのか。
 やはり「都の桜は違う」と思いました。
 関東はもう終ったと思っていた桜が、関西にきてみるとまだ満開でした。
 当ブログとしては川越街道の桜でトドメを刺したつもりでしたが、そんなものはコロリと捨てて、桜の記事を掲載します。

 京都御所の早朝。
 「御所はつとめて(朝がいい)」と清少納言がいったかどうか定かではありませんが、ひんやりとした空気が肌に心地いい。
御所の夜明け

 ここでぜひ見たかったのが「近衛邸跡」のしだれ桜。
 近衛家とは摂政・関白を多く出した五摂家のひとつで、幕末まではこの御所の北西部に屋敷があったのですが、明治天皇が東京に移ると近衛家も東京に移りました。
近衛池
 それどころか建物も解体され、愛知県に移されました。
 残されたのは30本ほどの桜の木だけですが、これが「しだれ桜」で素晴しい。
 まさに残り物に福あり。(←意味が違うんだよ)
近衛邸跡①
 しだれ桜というのは咲くのが早く、散るのも早いのですが、私が行ったとき(04/12現在)では満開でした。

 「おはようございます」
 早朝ウォーカーだけではなく、写真を撮っている人とも挨拶を交わしました。
近衛邸跡②
 なかに望遠で上のほうの花びらを撮っているオジサンがいたので、(花びらなんてどこでも同じじゃないか)と思いながらも、「なにを撮っておられるのですか?」

 すると、「ほら、あそこに鳥が見えるでしょ。シジュウカラですよ」
 ははーッ、お見それしました。当方もあわててコンデジで上方をパチリ。
左隅に鳥が…
 この写真(↑)辛うじて左下の隅、花と花の間に(小さく)鳥が見えるでしょう。これがシジュウカラ。

 われ以外は皆師。
 つくづく人をバカにしてはいけないと思いました。
2014.04.15 彦根城の桜
 突然、彦根城にやってきました。
 お濠端の桜が満開!(4月11日現在)
 なんといい時期にきたものだろうと思いました。(これも日ごろの心がけがよかったから?)

 私としては二度目の彦根来訪です。
 といっても一度目は小学生のとき、父親に連れられて当地に住む親戚の家を訪ねて、というものなので、ほとんど記憶になく、お城や市街地を歩くのは初めての体験。それだけに精神の高揚を覚えました。
お濠の桜 濠端の桜 屋形船での花見

 彦根城は徳川幕府筆頭普代伊井家の居城です。
 私の祖先が伊井家の下級藩士だったので、彦根城には並々ならぬ憧憬があります。
 今回その念願が叶ったというわけ。
表門橋① 表門橋② 表門橋から見たお濠の桜

 お濠端をうろうろ歩いて表門から入りました。
 入ると石段を上る形になります。
 これは城というものが防衛上の砦という役目がある以上当然ですが、昨年左足を骨折した古傷が痛みます。
 しかし、まあ、なんとかなるだろう、これで命取られるわけでもなし。
鐘の丸の石垣
 天秤櫓の前の橋をくぐると鐘の丸。
 そこを回るとさっきくぐった橋。その前の桜も見事です。
天秤櫓

 天秤櫓を潜り抜け、また石段を上ると太鼓門櫓を抜けて、ようやく本丸へ。
 「やっぱり城と桜はよく合うなあ」
 とは桜をバックに天守を撮っていたオジサン。
天守と桜
 このオジサンにいわせると、ここの桜では天守より南の石垣沿いのエドヒガンが名木とのことですが、どうかねえ、これ。ヒガンザクラだけあってピンクが見事ですが、城を背景にできないのがなんとも野暮。
エドヒガン

 それよりも西の丸三重櫓の桜のほうが見事でした。
 これはソメイヨシノだろうけど、桜というのは背景が大事なので。
 (桜の花を撮るだけなら、植物図鑑にまかせましょう)
西の丸三重櫓① 西の丸三重櫓②

 西の丸からは山崎参道を下り、黒門橋から城を出ました。
2014.04.12
昨日(04/11)より関西にいます。
そのためブログは休止しております。
ブログは帰ってから再開します。
 STAP(スタップ)細胞の論文をめぐり、理研(理化学研究所)の小保方晴子ユニットリーダー(30)による記者会見が9日午後大阪市内のホテル行われました。
 「私の不注意、不勉強、未熟さ故に多くの疑念が生じてしまい、多くの皆様にご迷惑をおかけしました。心よりおわび申し上げます」
 小保方さんは冒頭で謝罪し、深く頭を下げました。
4月9日の会見①

 私の感想では、論文が捏造、改ざんされたのではないか、との質問にはまともに答えてなかったように思います。
 質問する側が甘かったか、司会の弁護士が突っ込ませないように仕切ったか、なんとも消化不良でした。
1月30日の会見①
 今さらいっても詮ないことですが、理研は小保方さんが「Nature」誌に論文を投稿する前にどうして入念に検証しなかったのか。
 掲載後、次々と不備が出てきてから「あれは未熟な研究者がやったこと」と切り捨てる。
 トカゲの尻尾切りじゃないのか。
 理研と小保方さんとの間にはなんの意思疎通もなかったの?
1月30日の会見②

 問題はSTAP細胞の有無。
 「STAP細胞はあります。もう200回以上作成に成功しています」と小保方さんはいい切りました。
STAP細胞
 200回というのは大変な数字です。
 1回の実験でも最初からやるとなると、相当な期間がかかるはず。それがこの3~4年で200回もできるとは……。
 それにたとえできたとして、誰がそれを証明するのか。
 証人も公開性もなくして、個人が「200回以上作成した」といっても、科学の世界では問題になりません。
 もし「200回以上作成に成功した」というなら、その回数の「実験ノート」をつけていなければならず。提出分の2冊以外に「他の研究室をも含めて5刷ほどある」ではまだまだ少ないと思います。
実験風景
 さらにおどろくべきは、「(理研の)別の研究者によってSTAP細胞の存在は立証されている」とのこと。
 ではそれは誰なのか、という質問に対しては「個人名は答えられない」
実験方法?
 おかしいではないか。
 その人が「STAP細胞はあります。私もこの目で確かめました」といえば、こんな問題にはならなかった。
 むしろ理研としては大威張りで「我われはSTAP細胞作成に成功した。小保方君たち、よくやってくれた」となるのではないか。

 これができないのはなぜ?
 その研究者自体も「あれは本当だったのだろうか」と疑ってるってこと?
 だとすると小保方さんは孤立無援。
 今のところ、小保方さんの味方が弁護士だけで、研究者にはいないというのはあまりに厳しい。

 小保方さんは「STAP細胞作成にはコツがあります」といいます。
 今のところ「明かせない」とのことですが、それを明かすのが科学ではないのか。
4月9日の会見②
 百歩譲って、小保方さんが本当にそのコツを会得しているのなら、大組織「理研」など恐るるに足らず。
 再審査を却下されたら、理研を飛び出して別の研究機関で「STAP細胞」をつくればいい。
 もし国内の研究機関で受け入れてくれないのなら、外国の研究機関でもいい。
 その場合「STAP細胞」をつくったとしたら、そのノウハウはその国のものになり、頭脳の国外流出になるけど、それは仕方がない。
 信じなかった理研および日本の研究機関が魯鈍なのだから。

 小保方さんの科学者としての将来は「明るい」と思います。
 今年の桜は一応川越で見納め、ではありますが、撮ったものの蔵入りするのも心残りの写真もあるので、今日はそれをUPします。

 まず黒目川の桜。(目黒川ではありませんよ)
 これは小平霊園(小平市・東京都)→東久留米市(東京都)→新座市(埼玉県)→朝霞市(埼玉県)を流れ、新河岸川に合流し、荒川に合流する河川です。
黒目川の桜① 黒目川の桜②
 黒目川の名の由来は諸説ありますが、久留米(くるめ)→黒目(くろめ)が有力です。
散歩する人
 これはその東久留米市内(上落馬橋近辺)の黒目川の桜です。
公園
 桜の木も大きく、見事です。
 ただし桜の名所でもないので、花見客というのはなく、散歩のひとが「きれいだね」と目にとめる程度。それがこの黒目川の持ち味です。
                         *
 川越街道の桜。
 池袋から川越までを結ぶ幹道で、昔は「川越往還」と呼ばれていました。
川越街道の桜
 川越街道は他の街道同様、自動車優先の二車線ですが二箇所だけ緑の中央分離帯のあるところがあります。それが三芳町(埼玉県入間郡)とふじみ野市(埼玉県)。
 とくに三芳町は歩道も広く、中央分離帯は四季折々の草花が植えられ、「これが幹道?」と思うほど。
中央分離帯の緋桜
 ここも所どころ桜が植えられています。
 名前はわからないけど、緋桜が多い。
ソメイヨシノ
 川越に向かって左側(西側)にある広源寺。
 ここは入院していたとき、病棟の廊下の東端窓から見えたお寺。
 墓石が並んでいるのを「自転車置き場かと思った」といって患者仲間のI子に笑われたところです。
広源寺のしだれ桜 広源寺のソメイヨシノ
 そこも桜が咲いていました。緋桜とソメイヨシノ。
 地元の桜を忘れてはいけません。
2014.04.08 川越桜三昧
 昨日(04/07)は川越の友人と、その友人(女性)と3人で花見をしました。
 先ずは駅からバスで川越氷川神社まで。その裏手が新河岸川です。
 「まあ、きれいだこと」
 「うーん、見事だなあ。川にかかる桜というのがなんともいえないね」
 ここは関東でも指折りの桜の名所だと思います。
新河岸川の桜①
 東京で(桜の名所と)よくいわれる目黒川はドブ川だし、横浜の大岡川は川幅が広く、木々の間隔も空いているので情緒的には今イチ。
 その点ここは川幅が適度に狭く、木々の間隔も狭いので、まさに桜のトンネル。また江戸時代の船着場の雰囲気が残されていて、情趣深いものがあります。
新河岸川の桜②
 「土日、冷え込んだのがよかった。あれで桜が散らずにすんだ」
 「そうね。一端咲いた桜の大敵は雨風じゃなくて、気温上昇だものね」
 それでもハラハラと花びらが舞い落ちる、まさに花筏(はないかだ)です。
新河岸川遊歩道
 新河岸川流域をそぞろ歩きして、高沢橋から菓子屋横丁へ。
 「ここも以前に比べると寂れたわねえ」
 「我われが菓子類を食べなくなったからじゃないの」
 なにも買わずに、蔵造り一番街に出て、とある喫茶店に入りました。
菓子屋横丁にて
 「喫茶店といえば例の常盤(新平)さんがね――」と友人。
 「馴染みの喫茶店で店員さんに『これを焼いてくれ』とくさやの干物を取り出したんだ。店員さんは困って丁重に拒否したら、常盤さん怒って『もうこんな店、くるのやめよう』」
入った喫茶店
 「そりゃあ常盤さんが悪い。それに意外に短気なんだなあ」
 「そうなんだよ」
 そんな話をしながら珈琲を飲み、そこから蓮馨寺へ。
 ここも桜が見事でした。
蓮馨寺の桜① 蓮馨寺の桜②
 「足と肩がよくなりますように」
 おびんずる様にお祈りして蓮馨寺をあとにしました。

 「ここも桜並木があるのね」
 川越女子高前です。
 女子高の対面にはカトリック教会があります。
 かつて私が神父さんに無理難題な質問をした教会です。
川越女子高前の桜並木 カトリック教会

 「いやあ、目の見えるうちに(桜を)見られてよかった」
 と友人。(角膜移植したら、もっときれいに見えるじゃないか)

 川越女子高前はつけ足りの感がありますが、新河岸川、蓮馨寺と川越の桜を堪能した一日でした。
 1966年の「袴田事件」で死刑判決が確定した後、再審が認められて釈放された(03/27)元ボクサーの袴田巌さん(78)に昨日(04/06)世界ボクシング評議会(WBC)から名誉チャンピオンベルトが贈られました。

 ベルトにはモハメド・アリら歴代世界王者の顔写真と並び、現在と現役時代の袴田さんの写真があしらわれていました。
 東京都内で行われたWBC世界戦で、マウリシオ・スライマン会長が入院中の袴田さんの代理の姉ひで子さん(81)にベルトを渡して「袴田さんに自由を」と繰り返すと、場内から拍手が起こりました。

 袴田さんは認知症や糖尿病の治療のため入院中ですが、「良くなったらぜひ後楽園ホールに行きたい」とのことです。

 ところがそんな袴田さんに対して、先月31日、静岡地検は袴田さんの再審開始決定に即時抗告しました。 裁判をやり直させないようにするためです。

 これはどう考えてもおかしい。
 再審の理由は「重要な証拠は捏造された疑いがある」というものです。
 しかも「捏造したのは捜査機関(警察)のほかにない」とまでいってます。
 だとしたら、その証拠品の出元を調べるのが筋ではないのか。
 それなのに、検察は「結審はもう済んだ」と強引に終らせようとする。

 先日(04/03)の「クローズアップ現代」によると、元捜査官がこう証言しています。
 「事件直後、味噌蔵をいくらかき回して調べてもなにも出てこなかった。当時から袴田さんが怪しいと思ってマークしていたため、袴田さんに証拠品を味噌蔵に隠す余裕はなかった。ところが1年後に証拠品が出てきた」
 その証拠品(下着)は1年間味噌のなかに隠されていたとしたら、浸かり方が浅い。

 さらに証拠品のズボン(ジーパン)のタグ「B」が袴田さんの体型であると決め付けた。
 ところがズボンのメーカーに聞いてみると、「B」とは色(Blue?)を表す文字だとか。
 なにがなんでも袴田さんを犯人に仕立て上げたい警察と検察の意志が見え見えです。
 こんな「証拠品」によって袴田さんは死刑を言い渡され、48年間死刑の恐怖に脅かされて生きてきたのです。

 裁判というのは、捜査関係者から上がってきた証拠品をもとに進められます。
 しかしその証拠品が捏造だとしたら、どの機関が調べればよいのか。
 これは恐ろしいことです。

 これをクリアにしてくれない限り、この国の司法というものが信じられなくなりそうです。
 昨日(04/05)カナダ・トロントで行われた米大リーグ、ヤンキースvs.ブルージェイズ戦に田中将大投手(25)が先発しました。

 しかし1回裏、先頭打者にホームランを打たれました。
 落ち損ない(?)の変化球(フォークかスプリットフィンガー)。甘いといえば甘い球でしたが、それを見逃さない、さすがメジャーのバッターだと思いました。
1回裏、先頭打者にホームランを浴びる ホームランの行方を見る
 さらに田中は2回にも2点を取られ、「これは持たないのではないか」と思いました。
 しかし3回に味方が2点を取ってくれて逆転。
 これで人が変わったようにグイグイと内角をついて、7回までゼロに抑えました。
7回まで力投
 1、2回はどこか表情が硬く、投球に集中力を欠いていましたが、3回からは気合と集中力が感じられました。
 試合後、ジラルディ監督が「彼は修正能力のある投手だ」と褒め称えました。
8回表、追加点 8回表、ホーム寸前タッチアウト
 前にも述べましたが、田中は単なる剛速球投手ではありません。
 相手が打ち気でいるときは、ワンバウンドになるような球を投げて空振りさせる頭脳の持ち主です。
 監督は田中をよく見ています。
試合後のインタビュー
 それに……、持って生まれた「運」もあります。
 3点取られても、味方が点を取ってくれれば勝てる。
 ここが野球という競技の面白いところ。
 同じヤンキースの黒田博樹投手は2失点でも、味方が点を取ってくれなかったばかりに負け投手になりました。
 田中の場合、3点取られても勝てた、というところに、単なる運ではなく、味方の逆転を呼ぶような力があるといえるのです。

 この日はイチローも7番ライトで先発出場。
 ヤンキースでは微妙な立場にいるだけに、「まだまだヒットを打てるぞ」とアピールして、結果的にはマー君を強力に援護しました。イチローはまだまだ健在だと思います。
イチローも3安打の活躍
 それでも野球は総合力。これでヤンキースは地区優勝できるのか、まだわかりません。
2014.04.05 多磨霊園の桜
 小金井公園より約3km南方にある多磨霊園。
 開設されたのは大正12年(1923)。128万㎡(東京ドームの約27倍)という広大な敷地で、わが国最初の公園的な大規模墓地です。
霊園の桜並木①
 ここには多くの文豪が眠っています。中島敦、有島武郎、横光利一、大岡昇平……など。
 府中市に住んでいたころは、同じ市内(一部小金井市)ということもあって、度々訪れました。
 管理事務所で著名人の記された「霊園地図」をもらい、それをもとに墓巡りをするのも楽しみでした。
 「おッ、この青銅のレリーフ像は有島武郎の墓。『生まれいづる悩み』、高校の国語で習ったなあ」
 ひときわ感慨深いものがありました。
霊園の桜並木②
 子どもが生まれてからは、子どもとの散歩コースになりました。
 途中に「斉藤病院」があり、ひょっとしたら斎藤茂太先生がおられるのではないかと門のなかを覗き込みましたが、顔を見たことは一度もありません。
霊園の桜並木③
 桜のシーズンも行きました。
 ここにはソメイヨシノはじめとする1600本の桜の木が植えられていて、都内では桜の名所です。
 息子は私と出かけるのが好きで、いつもにこにこするのですが、このときは人々が桜の下で楽しそうにしているのを見て、ことのほか機嫌がよく、「おもちろいねえ」
 こんなことで楽しんでくれるとは、なんと親孝行な子だろう。
 息子は当時の親の懐具合をわかっていたのでしょうか。
多種類の桜 絵を描く人

 今回、久しぶりに多磨霊園を訪れました。
 ここは桜の名所ではありますが、その割に花見客が少ないのが特徴。
 車がゆっくり走ります。
 これ、すべて花見客の車。
 入るのは無料だから、ゆっくり車を走らせれば居ながらにして花見が楽しめるというわけ。
小金井桜①
 「おや、これは?」
 いつもの桜(ソメイヨシノ)よりもボッタリして大きな花びら、紛うかたなき「小金井桜」。
 小金井公園で見てきただけによくわかります。
小金井桜②
 なんてこと。
 昔、花見にきていたころはソメイヨシノや小金井桜の区別もできずに、ただぼんやり眺めていただけなのか。
 まあいい、当時は桜よりもわが子の笑顔のほうが大事だったのですから。
2014.04.04 四月の出句
 四月ともなれば春らしい句を詠まねばなりません。
 そこで出てきたのが、
 ①球春や壁にぶつけるゴムのまり
 ②流れ昆布夕餉に食べたや磯遊び
 ③春一番乙女の気分で足を出す
 ④教会のマリア像にも桜散る
マリア像と桜

 ①若いころは息子と(軟球で)キャッチボールしたものですが、今はその相手もおらず、また昨年骨折で肩を痛めたため、往年のようなキャッチボールはできません。
 そこでビニールのボールを壁に当ててリハビリ運動している様を詠みました。

 ②今月の兼題は「磯」です。
 Webの「季語別俳句」を見ると、磯遊びは三月(3月9日)の季語になっています。
 そこに流れ昆布の句があったので、一昨年鎌倉の由比ヶ浜で見た流れ昆布の情景から詠みました。

 ③磯遊びで、「磯遊び乙女の気分で足濡らす」という句もつくったのですが、同じ季語で二句つくるのも芸がない。そこで春一番に変え、年配の女性の気持ちで詠みました。

 ④桜の例句に「教会の屋根に……」とあったので、そこから横浜山手のカトリック教会を連想して、この句ができました。

 <推敲>
 ①はゴムのまり→ゴムボール。球春だけだとおこがましいので「我が球春」にしました。

 ②昆布は食べるよりも出汁にとるもの。そして上五と下五を入れ替えました。このほうがわかりやすいからです。
由比ヶ浜海岸
 ③「乙女の気分」→「乙女に返りて」に、色っぽさを出すために「足を出す」→「脚さらす」に変えました。

 ④ふつうマリア像は(カトリック)教会の庭にあるので、「教会の」は不要。それよりもどんなマリア像かを表現するほうがいいと思い「慈悲深き」、しかしこれでは私情が強すぎるので保留にしていたところ、散歩中に「微笑み」が浮かびました。
 そして「桜散る」では寂しいので「花吹雪」に変えました。

 ということで今月の出句は次のようになりました。
 ①ゴムボール壁にぶつけし我が球春
 ②磯遊び出汁に取りたや流れ昆布
 ③春風や乙女に返り脚さらす
 ④マリア像微笑む顔に花吹雪

 埼玉、東京、横浜各地の桜を観ていると、ときとして「桜なんてどこでも同じじゃないか」という思いにとらわれなくもない。ところがここの桜はひと味違います。
 それが小金井公園(東京都小金井市)の小金井桜。
花見の光景① 花見の光景②
 この花見の様子をとくとごらんあれ。
花びらにご注目あれ
 気がつきませんか。花びらがボッタリして大きいでしょう。
 少しアップします。
近づくと…
 さらにクローズアップ。
 お分かりになりましたか。
花びらのクローズアップ

 これはソメイヨシノとは違い、「小金井桜」といって、ヤマザクラの一種、昔からこのご当地に咲いていたものです。
 同園の説明書きによると、ソメイヨシノは江戸末期から明治にかけて江戸・染井村の植木職人たちが育成したもので、以前はヤマザクラが桜の主流だったそうです。
 ソメイヨシノは花が咲き終わるまで葉が開かないのに対し、ヤマザクラは開花と同時に葉の若芽が開くのが特徴です。
ソメイヨシノもあります

 実は私、4年ほど前まではこの近くの府中市に住んでいたのですが、小金井桜のことは話では聞きつつも、実際目にすることはなかったのです。
 そのため、「あの世に行くまでにはぜひ一度見たいものだ」と思っておりました。
 それがこの地を離れてから見ることになろうとは。
花見の光景③

 なんたる幸せ。
 長年の念願が叶って、いつあの世へ行ってもいい?

2014.04.02 柳瀬川の桜
 昨日(04/01)は骨折仲間との会食の日で、待ち合わせは富士見市の某病院。
 ここを待ち合わせ場所にしたのは、仲間のひとりの「おめでた事情」によるものですが、詳しいことは省略します。
病院の中庭
 「すごいなこの病院は。まるでホテルのロビーみたいだ」
 「中庭もステキ」
 「やっぱり産婦人科があるからかしら」
 「食事もいいってよ」
 「入院したいな」
 「もう、あんたじゃ無理よ」
 てな会話が交わされたかどうかは(?)。
対岸から見た桜 上流の桜
 さてこの病院の裏手が柳瀬川です。
 柳瀬川といえば、昨日も述べたように、当地では一番の桜の名所。
 「桜はもう満開ね」
 「屋台も出てるし」
 とはいえこっちは柳瀬川の富士見市側。桜のメインは対岸の志木市で、約170本のソメイヨシノが植えられており、シーズンになると花見客で賑わいます。
柳瀬川①
 「夫ったら、午前3時に自転車でびん沼川(富士見市とさいたま市の間の川)まで行ってきたのよ」
 「えーッ、どうして」
 「花見だって」
 「3時といったら、まだ暗いのに」
 「そうなのよ。だから『怪しいヤツ』ってお巡りさんの不審尋問受けたんだって。バカみたい」
 「笑っちゃうね」
 花見しながらの四方山話です。
屋台も出る イカ焼きの鉄板
 このあと車で分散して近くのレストランへ。
 前回、前々回は私の主張で和風レストランでしたが、今度は洋風。
柳瀬川②
 「もう私、コルセット取っちゃったわよ」
 「私はまだ。取るのはまだ不安」
 「でも取るとスースーして変な感じ」
 とはコルセット姉妹の会話。
柳瀬川③
 彼女たちの情報によると、私が世話になったI療法士は4月から他病院に移られたとか。
 なんてこと。
 次回の5月の検査後、3階のリハビリ室に「おかげさまで、ここまで回復しました」と見せに行こうと思っていたのに。
 またしても不義理しました。楽しいなかにもちょっぴり苦い花見でした。
 4年前、この地に引っ越してきた当初、地元の人に近くの「桜の名所」を聞いてみると、①柳瀬川、②大井弁天の森、③所沢航空公園、④亀久保(ふじみ野市)の旧大井役場前通り……とのこと。
 いずれもとなりの市じゃないか。
桜の花と青空
 「ご当地にはないのですか」
 と聞いてみると、申しわけなさそうに、⑤三芳町役場前の運動公園、⑥豊島区のグラウンド、と答えてくれました。
 「なんと控えめで、謙虚な人たちなのだろう」
 胸が熱くなりました。
役場前の桜
 ところが実際に「桜の名所」①~⑥をまわってみると、彼らは謙虚でも控えめでもなく、事実をありのままにいっているにすぎない、ということがわかりました。(熱くなってソンしたぞ)
桜と庁舎① 桜と庁舎②
 というわけで⑤役場前の運動公園の桜です。
 といってもズラリと20本ほど。
 ただの桜の花ではつまらないので、庁舎も。
運動公園の桜
 公園の反対側にも桜の木。
                          *
 そして⑥豊島区のグラウンド。
 といっても「飛び地」ではありません。れっきとした当地の住所。
 当地は企業のグラウンドが多く、これもその一環です。
豊島区グラウンド① 豊島区グラウンド②
 こちらの桜は力強く感じました。