大晦日。泣いても笑っても今年もあと数時間で終り。
 年末のこの時期、都会の人通りは少なく、散策するには最適(?)です。
 ということで、横浜みなとみらい。
 空がきれいです。今日もよく晴れて、暖かい。

 おや、コスモクロック(大観覧車)に……。
 陽光が当たっています。写真道でいえば、これは逆光になるので本来は避けるのですが、ときとして面白い効果が現れます。
コスモクロック 右・ヨコハマグランドインターコンチネンタル
 目を左に移すと、ヨコハマグランドインターコンチネンタル(ホテル)。
 立っているところはさくら道(クイーンズスクウェアの前の通り)

 この道を桜木町方向に進むと左側に帆船日本丸。
 ふだんは帆を外しています。ただし帆を張るときもあって、そのときは大勢の見物客が訪れます。私も今年4月見ることができました。なかなか壮観でした。
 ただし風が強いと、船が不安定になり、帆も損傷しやすくなるので、早めに外します。
 この時期帆を張ることはありません。来年の春から。
左・日本丸 日本丸と少女の像
 桜道からもランドマークタワーは見えますが、汽車道から見るほうが絵になります。
 汽車道はいつきても風情があります。
ランドマークタワー 汽車道 向こうはナビオス横浜
 今年は多くの出会い、別れがありました。
 出会いというのは、ふつう行動を起こしたときに生まれるものですが、今年は怪我→入院によって生まれた出会いもありました。
 別れに関しても、こっちが同窓会に出かけて行ったために、会いたかった友の死を知らされました。とはいえ行かなかったら、それさえもわからなかった。
 人との出会い、別れに原則などないことを思い知らされました。

 来年はどんな出会い、別れがあるのか。
 もう淡々と受け入れるしかありません。
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 お気に入り風景も地元埼玉を入れておかないと。
 ということで、まずは埼玉を代表する荒川。
 水量豊富で、東京都の水がめになっています。
 羽根倉橋とその上流治水橋から撮ってみました。
羽根倉橋から見た荒川 治水橋から見た荒川
 大宮氷川神社。
 ここも埼玉を代表する神社。横浜・山下公園につながれている「氷川丸」は、この火川神社に由来するもの。参道も風情があります。
大宮氷川神社(参道) 大宮氷川神社(境内)
 大宮公園野球場。
 氷川神社の裏手、大宮公園内にあります。
 由緒ある球場で、アメリカのメジャーがきたとき、ルー・ゲーリックがここでプレーしました。
 そして高校生の長嶋茂雄さん(元巨人軍監督)が、ここでバックスクリーンに突き刺さる弾丸ライナーのホームランを撃ち、一躍有名になったところです。
大宮公園野球場(さいたま市)
 難波田城公園。
 荒川をはさんで、さいたま市の対岸富士見市にあります。
 このあたりは難波田氏が支配していたところ。城自体はありませんが、その一部が公園になっており、なかなかの風情があります。
難波田城公園(富士見市)
 所沢航空公園。
 所沢は日本で最初に飛行場ができたところで、航空発祥の地。
 同公園内にはあちこちに飛行機が置かれています。桜の名所で春には大勢の花見客で賑わいます。
航空記念公園
 川越。
 蔵造りの街、時の鐘、川越城、喜多院……見どころ満載の小江戸川越。
 私にとっては地元同然。そのため1ヵ月に2~3回は訪れています。
蔵造りの街並み 時の鐘(川越市) 五百羅漢

 東京駅。
 昨年秋リニューアルされた東京駅の丸の内駅舎は何度見ても美しいと思います。
 これには京都在住の写真家をして「駅舎の改築はかくありたい。京都はつまらない」といわしめたほど。ただしこれには莫大な金額と年月が投じられました。財政の力です。

東京駅① 東京駅②

 皇居・二重橋。
 先日、天皇誕生日の際、天皇は「これまでの人生で最も印象に残っているのは、さきの太平洋戦争」と述べられました。これからも憲法を守っていきたい、とも。
 天皇は靖国参拝はしていません。これを安倍はどう考えるのか。

二重橋① 二重橋②

 御茶ノ水。
 学生のころとはすっかり景観が変わりましたが、この御茶ノ水橋から聖橋を見た光景は変わっていません。私の好きな光景です。

聖橋、右はJR御茶ノ水駅

 赤坂・日枝神社。
 この神社の境内に行くには何ヶ所かありますが、外堀通りの鳥居から上るのが好きです。
 鳥居のトンネルをくぐると境内に出ます。

日枝神社① 日枝神社②

 赤坂・丹後坂。
 ここも私の好きな景色のひとつ。この坂ができたのは元禄元年(1688」。名前の由来は米倉丹後守の邸があったからです。

丹後坂(上り) 丹後坂(下り)

 上野公園・不忍池。
 上野公園はやはり西郷さんの銅像。そして不忍池。当時これをつくらせた江戸幕府(天海僧正?)は琵琶湖を模したといわれています。
 表示板によると、ここが「駅伝発祥の地」だそうです。意外でした。
 年明けの、ニューイヤーズ駅伝、箱根駅伝が楽しみです。

西郷さんの銅像 不忍池① 不忍池②

 東京スカイツリー。
 相変わらず長蛇の列。並ぶ人が少なくなったら行くつもりなので、早く下火になってほしいのですが。

東京スカイツリー

 今年散策したなかで気に入った風景をピックアップ。今日は横須賀編。

 ヴェルニー公園です。
 JR横須賀線・横須賀駅を降りるとすぐ近く、それもすぐ港というのが感動的です。
 しかし二回目からは運賃の事情で京急汐入駅から入っています。公園の逆方向から入るわけですが、これはこれでなかなかの風情です。
ヴェルニー公園① ヴェルニー公園②
 横須賀中央大通り。
 ベンチにはこのようなブロンズ像があちこちに置かれています。
 アメリカ人ミュージシャン? となりに坐る人は皆無です。
横須賀中央大通り
 三笠公園。
 記念艦「三笠」前の広場にすっくと立っておられるのは東郷平八郎元帥。
 銘板には「日本海海戦後言志 日の本乃海にととろく かちときは 御陵威かしこむ 聲とこそしれ」と記されています。
 その奥に噴水があり、これが見事。
東郷平八郎像 噴水
 走水漁港。
 横須賀で最も美しいといわれる走水海岸。そのなかにある漁港の風景も味わいがあります。
走水漁港
 観音崎ボードウォーク。
 歩き疲れていたので、そのときはそんなに思わなかったのですが、あとで写真を見ると、なかなかいい景色だなと思いました。
観音崎ボードウォーク 
 観音崎灯台。
 今から数10年前、大学入試の日の午前中、城ヶ島ユースホステルで仲よくなった男と三浦半島の海岸通を歩きました。観音崎灯台にも行きました。(写真が残っています)
 灯台の光景は当時とそれほど変わっていません。
観音崎灯台
 浦賀湾。
 ペリー艦隊が停泊したという浦賀。ここは細長い入り江になっています。波穏やか。
 ペリーがここに船を留めた理由がわかります。
 対岸へは渡し船で。これがなかなかの風情。
 しかし入り江の喉元にはドックがあって行けません。これが欠点です。
浦賀の渡し船
 昨日(26日)午前、安倍晋三首相が靖国神社(東京都千代田区)を参拝しました。
 「すべての戦争で命を落とされた人々のために手を合わせ、冥福を祈り、二度と再び戦争の惨禍で人々の苦しむことのない時代を作るとの決意を込めて、不戦の誓いをした」
 と参拝後、記者団に話しました。

 中国、韓国の反発は予想通りで、関係はさらに悪くなりますが、安倍にとって予想外だったのはアメリカが「失望した」と懸念を表明したこと。
 私は「やっぱりな」と思いました。
首相参拝①
 今年10月3日、米国のケリー国務長官とヘーゲル国防長官が揃って千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花しました。これは「日本の真の戦没者慰霊墓地はここだよ。断じて靖国神社ではないよ」という無言のアピールです。
 それはオバマ大統領の強いメッセージでもあります。

 アメリカのポチ安倍にしてみれば、特定秘密保護法案も通したし、沖縄の仲井真知事を(金で)屈服させた。すべてご主人様の要請通り。だから、これぐらいは許される、と思ったか。
首相参拝②
 アメリカは靖国神社を容認していません。
 境内には「遊就館」という建物があり、私も何回か訪れていますが、零戦をはじめとする太平洋戦争の資料が展示されています。それも「あの戦争がいかに正しかったか」という主旨で展示されていたため、平成18年(2006)アメリカのシーファー駐日大使が不快感を示したこともありました。
靖国神社
 一歩譲ってこれは思想の自由としても、問題はA級戦犯。
 第二次世界大戦後、連合国は日本への罰則を与えるに際し、本来は天皇を含め日本国民すべてが重い処罰を受けるところ、戦争勃発遂行の責任者を罰する(処刑)ことで許されました。
 なかでも「A級戦犯」を称揚することはまかりならぬ、と。これは国と国との約束ごとです。
 たしかにA級戦犯は犠牲者であるし、この約束ごとの正否の議論はありますが、当時の日本にとっては圧倒的に寛大な処置。だからこそわが国はゼロからスタートできたのです。

 このA級戦犯の「霊」は処刑直後は世に出ることはなかったのですが、昭和53年(1978)靖国神社に「昭和殉難者」として合祀されてから、それまで参拝していた天皇も参拝しなくなり(昭和、今上)、中国や韓国も問題視しはじめました。

 中国、韓国、アメリカをはじめ諸外国は「あの約束ごとはまだ存続している」と思っています。
 いくら我われが「A級戦犯とて同じ日本人。それを参拝してなにが悪い」と思っても、一般庶民ならともかく、一国の首相がそれをやるのは「国と国との約束違反」になるわけです。
記者会見
 私が懸念するのは、これを機に米中が接近し、アメリカが属国日本に冷たくなるのではないかということ。 オバマは安倍をきらっていますが、これでますます強まりました。
 オバマ・安倍会談は当分無理でしょう。

 ポチが後ろ盾を失ってはレイムダック同然。
 今後の外交はこれがボディブローのように効いてきます。
 つくづく愚かなことをしてくれました。
 楽天の田中将大投手(25)がメジャーに挑戦できることになりました。
 これは日米間で締結された新たなポスティングシステム(入札制度)を楽天球団が渋っていたからです。
 以前のシステムだと、譲渡金は無制限。そのため松坂大輔を擁する西武、ダルビッシュを擁する日ハムは50~60億円が入ったといわれています。

 ところが新しいシステムだと上限が20億円と決められてしまった。楽天としてはこれが面白くない。50億はほしい。
 しかし2年後、フリーエージェント制が行使されるとなると、球団には一銭も入ってこない。だとしたら20億でもしょうがないか。
 球団にもそんな思いがあったはず。

 それよりも多くの人が「マー君をメジャーに行かせてやりたい」と思ったからではないか。
 このまま引き止めていたのでは、球団のイメージが悪くなる。
 それを考えて泣きの涙(?)で彼を手放した?
田中将大投手
 しかしこれには裏があって、田中投手が「球団にいろんな面で協力するし、寄付もする」と提案したそうです。
 寄付の金額はどの程度かわかりませんが、田中がメジャーと契約したら、莫大な(数10億?)契約金が入ってくる。またCM収入もドッと入ってくるはず。一時に多額の金が入れば税金も大きい。ということで寄付を持ちかけた。
 この田中投手、自分の頭でそこまで考えているとしたら、すごい男です。
 この年で、このような「戦略的頭脳」の持ち主なら、メジャーでも成功すると思います。

 私は田中投手がメジャーに行くのは大賛成。優秀な選手は海外で活躍すればいい。
 「これでは日本のプロ野球がメジャーの草刈場になる」と野球評論家の野村克也氏は嘆いていましたが、ここ10年ぐらい日本のプロ野球がつまらなくなっているので、この傾向(メジャーのファーム化)はますます強くなると思います。

 それにしても、日ハムの大谷翔平君はどうした。
 高校卒業してすぐメジャーに挑戦したい、といってたのではなかったか。
 その言やよし、と私は彼を応援したけど、栗山監督の「二刀流提案」であっさり翻しました。
 彼の場合は、投・打どちらにも非凡な才能があることが判断を難しくしています。
 しかしここは心を鬼にしてどちらかに決めないと、またしても中途半端になるぞ。

 こうなったら田中投手がメジャーで活躍して、大谷君が「やっぱりオレもメジャーで」と奮起してくれることを願います。
 世はクリスマス一色。
 この時期になると、私もクリスマスにちなんだ記事をUPしていましたが、今年は怪我したこともあって、なにも触れずに過ごすつもりでした。
 ところが昨日(24日)「ゆうゆうワイド」(TBSラジオ)を聴いていたら、「♪ノーエル、ノーエル……」賛美歌(牧人ひつじを/唄アンディ・ウィリアムズ)が流れてきて、思わず聴き入ってしまいました。
横浜山手聖公会
 私の家系は父方の祖父母がカトリック。そのため私は幼少のころ「北白川ヴィアトール教会」の日曜学校に通っていました。この歌はそのころから聴いていたと思います。
 ちなみに母は若いころからメソジスト系のクリスチャンでしたが、わが家の事情もあって、それは出しませんでした。母が御幸町教会に復帰したのは私が上京してからのことです。
指路教会(横浜・尾上町)
 結婚して子どもが生まれてからは、家族でクリスマスを祝いましたが、最も印象に残っているのは、わが子が5歳のとき。
 このときは経済状態が最悪で、吉祥寺のモール街に行ってもなにも買ってやれませんでした。
 それでもわが子はクリスマスの電飾を見てニコニコしていました。親の経済状態を知っていたのか(?)、まったく物欲のない子でした。
 あの笑顔はわが子の私たち夫婦へのプレゼントに違いありません。
末日聖徒イエス・キリスト教会(横浜山手)
 そのクリスマスも、息子と同居していたころはワインやチキンなどが夕食の膳に並びましたが、ここ10数年はワインもチキンもなく、いつもと同じ食事です。
 もうクリスチャンではないので、とくに祝う気持ちはありません。
 ただし教会の前を通るときは(神社仏閣同様)軽くお辞儀するか、手を合わせています。
カトリック山手教会(横浜)
 そんなわけで、次のような句を詠みました。

 ①聖夜曲幼きころの耳で聴く
 ②天国で唄ひし母の聖夜曲
 ③クリスマス吾子の笑顔の贈り物
 ④クリスマス常の夕餉の膳並ぶ
 ⑤礼拝の外で掌合はす聖夜かな

 猪瀬都知事が辞職しました。
 そうなった以上、この人物への言及はしないつもりでしたが、「アマチュアだった」のいい訳に違和感を覚えたので、私の体験談を少し述べさせていただきます。
 私が最初に仕事に就いたのは民間の教育団体で、保育者向けの教材の編集、講習会の企画などが主な仕事でしたが、保育雑誌に執筆の枠も持っており、新人の私の担当でした。

 あるとき「夏休みの遊園地特集」で、房総半島にある「某牧場」に取材に行きました。このときは親しくしていた某新聞社の教育面の記者も一緒でした。
 この「某牧場」の本社は東京都港区にあり、取材のときは本社から重役がきて、我われを案内してくれました。

 重役は(遊園地の)施設内をひと通り案内して、「食事でも」と、施設内の料理店に入り、そこで「しゃぶしゃぶ」をご馳走になりました。
 そして別れるとき、「じゃあ、よろしく」と封筒を渡されました。「?」
 記者氏は「ああ、どうも」と受け取り、私には「受け取っとけ」という合図。
 帰りの電車内で封筒を開けたら3000円入ってました。
 当時の私は薄給の身。ありがたくいただきました。上司には内緒です。
 その後私は娯楽雑誌の出版社に勤め、数年後フリーのライターになりました。
 風俗店の取材もしました。
 ここは取材に協力的な店と非協力的な店と両極端です。
 こちらは社会正義を振りかざす報道でもないので、「取材お断り」の店には行きません。取材協力店のみが相手。「取材させてもらう」ことは当然提灯記事になります。
 協力店のなかには「お車代」をくれるところもありました。
 その金額は1~2万程度ですが、25年ほど前の「ホテ〇〇」(今は非合法)全盛時代は5万円、10万円ということもありました。これで道を踏み外したライターを何人か見ています。
 これらは先方が「親切な人」だったから?
 いえいえ、これは「費用対効果」として支払われたのです。
 人間、金をもらえば悪い気はしない。「なんとかこの店をいいように書いてやろう」という気になります。店にとってはそれが集客につながるのです。
 厳格にいえばこれは「賄賂」です。

 当時20代前半の若造が、某牧場を取材したときにもらった3000円も「賄賂」です。
 私はそのとき、「世のなかにはこういう金の動きがあるのだ」と認識しました。
 そして受け取ったからには、某牧場が子どもにとっていかに楽しい施設であることかを保育雑誌に書きました。(すべての遊園地記事がそうだというわけではありません)
 猪瀬都知事が5000万円受け取ったことを都議に追求されて、「世のなかには親切な人がいるものだと思った」といいました。こんなふざけた答えはありません。
 都知事の立場なら、「これは職務に関連した金だ」とすぐわかります。
 彼は「私は政治家としてアマチュアだったから、それがわからなかった」といいたげですが、物書きの目から見ても完全な賄賂です。(逆の立場だったら、彼はそこを徹底的に追求するはず)
 「アマチュアだった」という弁解は人間として見苦しい。
 彼は政治家をやめて物書きにもどるそうですが、だとしたら私が述べた「視点」から逃げることなく、赤裸々に記述してもらいたいものです。
 昨日は全国高校駅伝を観てました。
 午前中の女子は距離が短くて(5区間21・0975km)、男子(7区間42・195km)の半分。私の実家の近く(百万遍~銀閣寺)を通らないので面白くない。
 客観的に見ても、国際会議場のある宝が池折り返しのコースを取らないと、駅伝自体が盛り上がらない。
 ここは絶対同じにすべき。女子だって同じ距離を走れます。
 もし個人の負担がキツイというなら、区間を増やせばいい。

 それはともかく、男子の優勝候補は世羅(広島)といわれてました。
 3区(8・1075km)にケニアの留学生ポール・カマイシ(1年)が断トツに早いからとのこと。
 したがって他校は3区までにどれだけ世羅を引き離せるかが勝負のあや、とのことでした。 
第1区
 経過をざっくり説明すると、2区までは小林(宮崎)、山梨学院大付、伊賀白鳳(三重)……の順。世羅はトップから24秒差の11位。
 しかしここで(3区)タスキを受けたポール・カマイシは「あれよあれよ」という間に前をどんどん追い抜き、東大路で首位に立ちました。後は広がる一方。 
第3区① 第3区②
 この3区は実家の近く(百万遍~銀閣寺)を通るので、TVに釘付けになります。
 今出川通り、白川通りはよく歩きました。
 実は先月も歩いたのです。これ(↓)がそのときの写真。ふだんは人通りも少なく、静かなところです。
百万遍交差点 今出川通り 銀閣寺交差点 白川通り
 3区から6区までは世羅がトップ。
第4区 第7区
 しかし最後の7区で3校に追いつかれ、4校がダンゴ状になって競技場へ。トラック勝負になりました。
 どこが勝つか、最後までもつれましたが、残り150mで山梨学院大付がスパートし、優勝しました。2時間3分53秒。
トラック勝負 ラストスパート ゴールイン
 2位……大牟田(福岡)2時間3分54秒。
 3位……伊賀白鳳(三重)2時間3分55秒。
 4位……世羅(広島)2時間3分59秒。

 解説者によると、世羅が勝てなかったのは3区のポール・カマイシがそれほど差を広げられなかったのと、他校の後続ランナーが粘ったからだそうです。
 駅伝というのは、個人よりも総合力。今さらいうこともありませんが。
 この夏の大怪我→手術→入院によって私の人生観は大きく変わりました。それは対人観も同じです。

 私はこれでも人見知りする性格で、見知らぬ人に声をかけることはなかったのですが、入院してからはこちらから声をかけるようになりました。
 「みんな同じ骨折仲間じゃないか」という連帯感からです。
 みんな話好きで、けっこう話してくれました。なかには微に入り細にわたって骨折話を語ってくれる人もいました。
 とくに積極的に話しかけたのは同室のOさんとKさん。
 Oさんは炎症による圧迫骨折で寝たきり。ひどい痛みあり。食事は30度。排泄は便器。
 病原菌不明のため、抗生物質を点滴投与→レントゲン撮影と血液検査のくり返し。私が見たなかでは最も重い患者でした。見舞いにくる奥さんの表情も暗い。

 あるとき私は彼らのいるところにいきなり顔を出し、声をかけました。
 「Oさんは今は辛いけど、必ずよくなります……時間がかかるかもしれないけど、気をしっかり持って頑張って」
病院のフロア
 高齢のKさんは腰を打っての圧迫骨折。やはり寝たきりで、食事は30度。排泄はリハビリパンツでした。
 そのKさんがコルセットを着けて、食事のとき50度起こされて「食べ物が見える!」とよろこんだとき、私もうれしくなり、「よかったね」と声をかけました。
 それ以来、朝食後Kさんと話すことが日課になりました。
 そうしたなかでとくに親しくなっていったのがI子(62)、H子(52)、Y子(44)のコルセット三姉妹。I子が私のことを「お兄さん」と呼ぶので、他のふたりもそう呼ぶようになりました。
 他にも親しくなった患者仲間はいますが、この三姉妹とは退院後もメアド交換して交流を続けています。リハビリが終っても誰かが検査などで病院にくると、必ず集まるようにしています。

 Y子の息子は小6、H子の下の男の子が高1ということもあって、子育ての悩みが多く、私は専ら聞き役。一時期私の息子の例を挙げてアドバイス(?)したこともありましたが、自慢話のように受け取られかねないので、今は極力避けています。
病院にて
 実は昨日、I子とY子が検査、H子夫妻がリハビリ(夫も骨肉腫の手術)で病院にきたため、私も加わって近くの和風レストランで食事しました。
 相変わらず子育ての悩みと骨折治療の話。昼間なのでアルコールは口にしなかったけど、一種の忘年会です。「よいお年を」といって別れました。
 この交流は来年も続くと思います。
 入院中、私の携帯に一本の電話が入りました。「怪我したんだって?」
 一年半前、電話でケンカ別れした学生時代の友人でした。
 私のブログの告知(骨折事故で入院中)を見たようです。「絶対見るなよな」といったのに。
 こちらとしては「?」という気分ですが、私の身を案ずる気持ちがあったのでしょう。
 症状など、30分ほど話しました。これで一応和解ということでしょうか。
病院の玄関
 昨年末の当欄で、友に去られた原因は私の「おせっかい」によるものと反省しましたが、この夏入院してからそんなことはどうでもよくなりました。
 私が人を励まし、声をかけたのは単なる衝動で、そうしたいからしたのです。
 相手に迷惑がられようと感謝されようと、どうでもいいこと。
 その衝動(?)で切れた関係もありました。例の俳句会。
 私の入院中に「通うのが面倒だから」と婆さんたちが結託して、会場を公民館から団地の集会場に変えました。婆さんも婆さんなら、それをすんなり受け入れた幹事も幹事。
 「公民館でやる意義もわきまえず、そんな勝手は許されない」と私は抗議し、退会しました。

 私には敬老精神もなければ、「和」を尊ぶ心もありません。
 残り少ない私の時間、迷惑がられようと感謝されようと関係ない。
 これからも衝動的に生きようと思います。
 私にとって今年の重大ニュースといえば、7月8日(月)夕方、ロフトから落ちたことによる骨折事故でしょう。

 落ちたとき、どうなったのかはまったくわからない。
 とにかく右肩が痛くて動かない。それに左足が痛くて歩けない。
 「これは脱臼と捻挫だ。ひと晩様子を見よう」
 それにしてもいやな痛さでした。右肩が開かなくて、自分の腹の上に右腕がどさりと乗ったまま。役にも立たない腕というのはこんなに重いものなのか。

 私は循環器系の病で倒れたとき、悪あがきはせずに従容として死につこうと考えていました。
 漠然とではあるけど、そんな覚悟はしているつもりでした。
 このときはしかし意識はあるけど動けない状態。これでは死ねない。
 そのとき思ったのは、

 こんなことでくたばってたまるか。

 という生に対する執念でした。
 それがあったからこそ、右肩の傷みにひと晩中耐えられたのだと思います。

 翌朝、痛みがなくならないので救急車で病院に運んでもらい、検査してもらったところ、「右上腕部剥離骨折」「左距骨粉砕骨折」と診断されました。そして即入院、右上腕部は翌日手術。
 まったく思ってもみないことでした。

 そして手術。
 私はこれまで何回か外科手術を受けましたが、いずれも局部麻酔。全身麻酔は初めてです。
 麻酔されて意識が朦朧として、気がついたら手術は終り、骨のなかに金属の支柱が入っている。
 その間私は意識がないのでなにもわからない。
 もちろん手術の最中は私の心臓は動いているし、呼吸もしている。しかし自分を認識する意識がない。

 これ、デカルトの「我思う、故に我有り」でいえば、「私」は存在してないことになります。
 たとえ心臓が動き、呼吸していても、意識がなければ死ではないか。
 これによって、私は「脳死は人の死である」と実感しました。

 入院生活は楽しいものでした。
 私はこれまで集団生活の体験はあまりなかったのですが、とくに無理したわけでもなく、すんなり溶け込めました。むしろ積極的に人とコミュニケーションを求めていったように思います。
 これまでの自分には考えられないことでした。

 この夏の骨折事故→手術→入院は、これまでの人生観を大きく変える出来事でした。
 今年の前半はいろんなところへ行きました。
 千葉の浦安や神奈川の子安。昔ながらの漁港の町です。
 漁港というのは妙に郷愁をそそられます。その辺の食堂で煮魚定食を食べる。これが私にとっては最高のご馳走。ふだん飯の量の少ない私ですが、このときばかりはふつうに食べられます。
子安漁港
 柴又にも行きました。
 もう20数年ぶりですが、それほど変わってはおらず、懐かしい光景でした。
 ただし矢切の渡し舟に乗れなかったのは残念。もう行くこともないと思うので。

 梅、桜、バラ、紫陽花、菖蒲の時期は近辺の名所を訪れました。
 東京は都区内よりも多摩地区。そのほうが近いからですが。
 神代植物園のバラ、高幡不動の紫陽花は見事でしたが、ちょっと遠いのでしばらくは行かないでしょう。
神代植物園・ばら園
 都区内では5月の終わり、小学時代の友人と3人で散策したのがよかった。
 コースは東京駅・丸の内→仲通り→有楽町→月島→佃島→月島商店街(通称もんじゃストリート)→海員会館(一泊)→勝どき橋→築地本願寺→築地場外市場→新歌舞伎座→銀座→新橋を散策しました。
 コースそのものは目新しくもありませんが、友人たちと一緒というのが楽しかった。築地本願寺ではパイプオルガンの生演奏が聴けたし。
月島もんじゃストリート
 6月初旬には人生の先輩方を引率して横浜散策をしました。
 山下公園→港の見える丘公園→山手西洋館めぐり→元町→中華街というありきたりのコースでしたが、みんながよろこんでくれたのがよかった。

 そして夏。
 この夏は横須賀→三崎、鎌倉・葉山→城ヶ島と、二方向から三浦半島に足を伸ばそうとしましたが、思わぬ骨折事故のために約2ヵ月間入院。行けなくなりました。
 それでも事故の数日前に馬堀海岸→観音崎(灯台も)→浦賀のコースを歩けたのがせめてもの幸いでした。
浦賀の渡し舟
 そんなわけで9月には無事(?)退院できたものの、大事をとってしばらく遠出は控えました。
 ところが京都の友人から、「同窓会があるからきてくれ」といわれると、矢も盾もたまらなくなり、関西へ。「どうせなら……」と大阪、京都(嵐山、御所)を歩きまわりました。
 3日目は友人の車で長岡京市を案内してもらいました。まだ紅葉には早かったけど、光明寺、長岡天神、勝竜寺など興味深いところを観ることができました。
長岡天神 勝竜寺
 大阪、京都では1日1万7000歩も歩いたことに意を強くして、もどってきてから、「年内には横浜へ行こう」ときめました。行きたいところがあったからです。
 横浜に行ったのは11月下旬。折しも日本大通りや海岸通りの公孫樹の黄葉真っ盛り。
 目的のところは、行ってみると「なんだ、こんなところか」と思わないでもありませんが、それも行ってみてわかったこと。
 これについてはまだUPしてませんが、年明けにでもなにかに関連づけてUPするつもりです。
 国内ではなんといっても「特定秘密保護法」が成立されたこと。世論の反対にも関わらず、強行採決されました。
 私はこの法案には大反対ですが、その一方で「安倍政権はなんとしても通すだろうな」と思っていました。なぜなら、これは(TPPもそうですが)アメリカの強い要請があるからです。

 これまで自民党が野党の反対を押し切って通してきた法案は、すべてアメリカからの要請によるもの。
 これは自民党の政策というより与党の政策です。
 でないと国際政治の枠のなかで、日本は立ち行かないから。

 残念ながら、日本はアメリカの属国です。対等の関係ではありません。
 昔、横浜のジャズバーで友だちになったマイケル(当時43=フロリダ州出身)は日本とアメリカの関係をこう語りました。
 「日本はアメリカのジュニアパートナー(=家来)。アメリカ国民はみんなそう思ってるよ」

 「お前がオレを離れたら、たちまちロシアと中国の餌食にされるだろう。それでもいいのか」
 これがアメリカの本音。日本の外交能力ではアメリカに服従するしかないのです。

 法案が成立してから安倍は「もっと丁寧に議論すべきだった」といってますが、白々しい。
 本当にそう思うなら、振り出しからやり直せ。(しないクセに)
 内心は「成立してしまえばこっちのもの」と舌を出しています。

 これ、単に「ジャーナリストが取材やりにくくなった」ということではありません。
 私のような埼玉から出てきたオッチャンさえも、アメリカ大使館の写真を撮っただけで即逮捕、ということにもなりかねない。
 「なぜ撮ってはいけないんだ」と聞いても、「そんなことには答えられない」で終り。
 (それは国家の秘密だから)

 先日、TBSラジオ「デイキャッチ」で、秘密保護法を取り仕切ってきた礒崎陽輔総理補佐官が、「これはアメリカに要請されたからですか」と聞かれて、「世界の要請で、とくにアメリカからではありません」と答えていたけど、これこそ「特定秘密保護法」の真骨頂。
 政府の側は本当のことを国民に知らせる必要はないのですから。
 もうひとつ、猪瀬都知事と徳洲会との絡み。
 ここへきて徳洲会(検察?)からのリークが気になりはじめました。
 というのも選挙違反で逮捕されたスターン美千代容疑者(徳田毅衆議院議員の姉)が容疑を全面的に認めて、「家族には罪を恐れず真実を語ってほしい」と話したからです。

 このように容疑を認めてしまえば、徳田毅氏は連座制で議員の職を失います。
 選挙の責任者はそうならないように、「運動員が勝手にやったこと」とトカゲの尻尾切りをするのがふつうですが、それでは選挙に協力した病院関係者が逮捕される。
 果たしてそれで病院グループの組織が持つか。そう考えてトップの者が「私が悪うございました」と頭を下げた。

 しかしそれだけか。
 スターン容疑者の心情を察するに、「なんで私たちだけが悪者にならなきゃならないのよッ。こうなったら洗いざらいブチまけてやるッ」という気になっているのではないか。
 あるいは検察側に「捜査に全面的に協力するから……」という司法取引があるのかもしれない。

 聞くところによると、徳洲会から金を受け取った議員は大勢いるとか。
 現に亀井静香衆院議員もパーティー券購入代金2000万円を受け取ったと報道されました。
 一説には多くの都議にもわたっているといいます。
 となると都議と猪瀬の質疑応答は茶番劇? 
 一応百条委員会にかけるようですが、果たして都知事辞任まで追い詰められるか。
 やはり気になります。
 毎年恒例(?)の「今年を振り返って」
 今年は珍しく国際政治にも踏み込みました。といっても私は国際政治に明るいわけでも、特別なニュースソースがあるわけでもありません。
 あくまでも「60数年間生きてきたオッチャンの素朴な感想」ということで。
 年末になって、北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)第一書記の後見人でナンバー2ともいわれる張成沢(チャンソンテク)前国防委員会副委員長が処刑されました。理由は「利敵行為」
 敵とは? この人は経済面で中国の窓口になっていたから、敵とは中国らしい。
 いってることからすると、「利敵」とは中国に有利な取引をした(土地の売却?)ということらしいけど、経済では圧倒的に中国のほうが大国。五分五分でできるわけがない。
 そんなこともわからずに、この人物を処刑したのか。 

 ところが最近の報道では、張成沢氏の妻(正恩氏の叔母)が夫の浮気に耐えかねて、「あの男を撃ち殺して」と訴えたらしい。そんなことで殺すとは。
 国を統率する指導者だったら、「叔母さん、あの男は経済面では必要なんだ。口惜しい気持ちはわかるけど、今は我慢して」と諭すべきではないか。
 公の立場より私事が優先した?
 これでは私が退会した俳句会の幹事と同じじゃないか。
 早晩この国の崩壊は目に見えています。
 次に中国。新たに防空識別圏など持ち出してきて、この国とは冷却状態。
 この国の反日感情→反日運動は国内矛盾をそらすため、政府が誘導していたきらいがあります。
 しかしここにきてそうもいってられなくなりました。環境がひどすぎる。PM2.5問題です。
 工場の排気ガスと産業廃水の垂れ流し。
 これは各工場「儲かればいい」と排ガス対策など公共的なことを考えなかった結果です。
 わが国でも一時期そういうことがあって犠牲者が多数出たけど、その反省から規制が強化され、工場側もモラルを守って廃棄物処理の企業努力をして、環境がよくなりました。

 そんなわが国からすれば、中国の状況は腹立たしくもあり、歯がゆくもあります。
  偏西風によって、PM2.5がこちらにも運ばれてくる可能性があるからです。 空気汚染をなんとかしろ。

 中国はこの問題に本腰を入れて取り組んでもらいたい。
 反日運動で騒いでいる場合ではないぞ。
 最後に韓国。ここも反日感情が激しい。(私は反韓感情は希薄なのに)
 彼らが口をそろえていうのは従軍慰安婦問題。
 これについては日本軍が悪いと思います。
 しかしこれは先人の愚行であって、今の大半の日本人にはなんの責任もない。
 「そうじゃないだろう。当時生まれてなくても、国家を引き継いでいる国民としての責任はあるはずだ」といわれたら、私は「我われは先人の愚行を恥じているし、これをバッサリ切り捨てている。慰霊する気など毛頭ない。靖国神社は論外」と答えるつもりです。

 それにこの問題に関しては、1965年の日韓条約で当時の朴正煕政権に民間分も含めて補償金を支払っています。
 朴政権はその補償金を国内のインフラ整備と産業復興に流用したため、当事者にはわたっていません。今の朴大統領はこのときの朴正煕大統領の娘。それぐらいわかっているだろうに。

 私は(先人の愚行のツケなので)竹島など韓国にやってもいいと思っています。
 しかし、いつまでもこの慰安婦問題をいわんでくれ、といいたいのです。

 NHK大河ドラマ「八重の桜」が終わりました。
 大河ドラマは当たり外れがあって、最初は観ても途中でつまらなくなり、やめてしまうことがよくありますが、「八重の桜」はけっこう面白かった。

  八重の桜①

 物語の舞台が会津→京都ということもあります。
 会津は学生時代の友人の故郷、そして京都は私の故郷。
 戊辰戦争ではどうしても負けた側に味方したくなります。そのため八重の心情に共感できることが多いのです。
 さらに八重は銃で敵と命のやり取りをするガンマン(ウーマン)。
 マカロニ・ウエスタン好きの当方にとっては興味津々の主人公です。

八重の桜② 八重の桜③

 そのガンウーマン八重が戊辰戦争後、京都で暮らしてからはキリスト教に帰依していきます。
 これは兄山本覚馬の影響もありますが、武士道と共通するものを見出したからではないか、そんな風に思いました。
 後に夫になる新島襄をはじめ、内村鑑三、新渡戸稲造……はみんな武家の息子。
 私も子どものころはカトリックの日曜学校に通っていたので、わかるような気がします。

 余談ですが、新島襄はわが家とは因縁浅からぬ関係(?)があります。
 わが家の墓は東山若王山(にゃくおうざん)にあります。父母をはじめ祖父母、父の異母姉たちが眠っています。

八重の桜④

 小さいころ父と墓参りに行ったとき、必ず新島襄のお墓にも参りました。
 父は同志社の出身で、「新島襄はわが恩師」といいました。
 しかし襄の没年と父の生年(明治41年)を照らし合わせてみると、かすってもいない。広い意味では「恩師」かもしれないけど、思わせぶりないい方で、父親としてどうかと思います。

 八重は従軍篤志看護婦として日清戦争の負傷兵(敵・味方の区別なく)を看護します。
 その功績がたたえられ、皇族以外の女性で初となる宝冠章を叙勲します。大変名誉なことですが、本心ではどうでもよかったと思います。

八重の桜⑤ 八重の桜⑥

 最後はガンウーマン八重の姿が出てきて、「これが私の原点」と象徴したかったのでしょうが、牽強付会な気がしないでもない。

八重の桜⑦ 八重の桜⑧

 むろんドラマのラストシーンとしては、なかなか効果的でしたが。

 京都で私が好きな場所は鴨川の三角州。
 鴨川は京都市内を南北に流れる川ですが、上流は二本あって、北西からは加茂川、北東からは高野川が流れてきて、出町柳で合流し、鴨川となります。

加茂大橋

 この三角州とは加茂川と高野川がY字状に合流するところ。デルタ地帯とも呼んでました。
 三角州は加茂大橋からよく見えます。写真(↓)左が加茂川、右が高野川です。
 この二本の川は幅、水量ともにほぼ互角で、左右対称をなしています。

加茂大橋から見た三角州

 私の住んでいる埼玉にも川の合流点がいくつかありますが、これほどきれいな左右対称の合流点は珍しい。
 京都にいたころはなんとも思わなかったのに、この景色の見事さを痛感したのは関東にきてからです。

 「せっかくだから、あのデルタの先端に行ってやろう」
 そう思って、加茂川にかかる出町橋をわたりました。ちなみに高野川にかかる橋を河合橋といいます。

出町橋 河合橋

 芝生の部分からさらに石段を下りると、石堤になっています。なんだか味気ない。
 高校生のころここにはよくきたけど、もっと楽しかったぞ。
 時期が悪かったか(晩秋)、天気が悪かったか(雨)、あるいは単にこちらが年取って元気がなくなったからか。

この先が三角州の先端・向こうは加茂大橋

 先端にきました。川の合流地点なので渦でも見られるのかと思ったら、それはなし。むしろ穏やかなものです。

三角州の先端

 もっとも川同士が激しくぶつからないように石堤が設えられているわけで、水流が穏やかなのも道理。
 今ごろそんなことに気づくとは……。

先端からうしろを見る

 あのころはなにも思わなかったけど、夢だけは大きくて、やたら楽しかった。
 結局、変わったのはオレだけか。
 そんなことを感じさせられる鴨川の三角州でした。

2013.12.14 超肥満は…

 今朝のラジオを聞いていたら、ある医師が「ちょいメタ(小太り)」のほうが長生きする」といってました。
 これは最近よくいわれることで、「あまりダイエットを気にして、それがストレスになるようでは、かえって免疫力が低下して、寿命を縮める」という内容で、とくに目新しい意見ではありません。

 しかしこれは「ダイエットを気にしなくていい」とか「太ってもいい」といってるわけではありません。

 入院中、超肥満の若い女性患者が我われの仲間に加わってきたことがあります。
 交通事故で大腿骨を骨折して手術→リハビリ。私と同様車椅子移動でした。
 年齢は25~26。おしゃべりで愛嬌はあります。しかし……
 「ここのご飯だけじゃとても足りないから、寝る前にケーキ食べるの」
 たしかに身体つきを見ると、胸、腹、腰、太腿……どこもぶくぶく太って醜悪この上ない。
 それでもリハビリの甲斐あって、歩行器使用まで回復したのですが、「歩行器が私に似合わないようだといやだな」
 (お前のような身体に似合う用具なんてねえよ)

 こんなことではとても彼氏なんかできないだろうと思ったら、あにはからんや、できたというのです。
 「以前はダイエットしてたけど、彼氏ができたらもう無理しないの。彼もそのままでいい、といってくれるし」
 女性はふつう恋をしたらヤセるというけど、これでは逆じゃないか。
 いくら彼が「そのままでいい」といっても、「彼のためにヤセよう」と努力しない女の恋が成就するわけがない。こんな恋愛は早晩破綻するに決まってます。

 *

 こういうと「お前は人を外見で判断するのか」といわれそうですが、そうではありません。
 この娘を「ぶくぶく太って醜悪この上ない」といったのは単に外観ではなく、拡大再生産された食欲を抑制できずに無節操に食べていることが外見に表れているからです。


 以前ある美人女優と結婚した宗教団体の教祖が急死したことがあります。
 この教祖は超肥満。腹はドーンと出て、首のうしろにも分厚い脂肪がついて、見るからに醜悪。
 「なんであの美人女優が……」と思ったものです。
 週刊誌の記事によると、この教祖は無類の大食漢で、「焼肉10人前、大トロ50カンをペロリ」とのことでした。死因は肥満からくる循環器系の病であることは明らかです。


 「宗教の多様性は認めるけど、教祖たるものがこんなことでいいのか」
 宗教の指導者というのは、断食などの苦行を積んで悟りを開くもの。その教祖が己の食欲に負け、食べたいものを食べて、ぶくぶく太っていてはなんの説得力もありません。
 それにこの男のムダ食いがなければ、何人かの飢えた子が救われるはず。そんなヤツに人類の救済を説かれたくない。

 私が「外見で判断する」というのはこういうことです。
 したがって宗教者じゃなくても、だらしなく食べて超肥満になるのはきらいなのです。

 毎年この時期になると一年の世相を表した漢字が発表されますが、今年は「輪」が選ばれました。
 東京五輪の「輪」とのことですが、これはお粗末。
 首相は平気でうそをいってるし、推進してきた都知事も今や死に体状態。いかがわしい。
 IOCに「あれはなかったことに」と返上するわけにはいかんのか。
 こうなったら自戒をこめて「嘘」とか「偽」、「虚」にしたら? 思い切って「返」とか。
今年の漢字
 私個人は、この夏骨折事故を起こしたから、「転落」「怪我」「骨折」「手術」「入院」
 えッ、一字でないといけない?
 となると、「落」……これはいやだな。
 他には「傷」、「骨」、「痛」……。うーん、ちょっと違うか。
 「痛」といっても、四六時中痛いわけでもなかったし、入院生活はむしろ楽しかったから「楽」?

 リハビリに努力したから「努」。「力」もいいのか。訓練の「練」とか。
 患者同士と交流できたから「交」。

 柄にもなく人を励ましたから、「励」
 おこがましい……ですか?
 しかしこれはリハビリに励んだ意味も含まれているから、やっぱりこれにするかな。

 ということで、私にとって今年の漢字は(大甘で)「励」。
 自分を励ますという意味もあるし。
 ちょっと気恥ずかしい気持ちもありますが。
 実はこの幹事も団地の住人です。
 そのため「会場を団地の集会場に」という案が回ってきたとき、それに乗ってしまいました。
 「反対すればきらわれる」と思ったか、あるいは「自分も近くなるし、そのほうがいい」と思ったか。

 しかしこれはリーダーとして大失態。
 「私の立場は違います。会員には団地以外の方もいます。一部の人の利害をはかることはできません。こんなことを多数決で決めるなんて論外です」と突っぱねるべきでした。
 たとえきらわれようと、安易な提案には断固拒否して筋を通す。
 これがリーダーの役割であり、これができるのがリーダーの資質なのです。
 今年6月某日、私は句会の人たち数人を引率して横浜に行きました。
 こちらは時間ごとのスケジュールを立てていたにも関わらず、ペースは遅れ、みんなエリスマン邸前のベンチにへたり込んでしまいました。
 私は困って「となりにまた違う西洋館があります。行きますか?」といったところ、仲間のおじさんが「行きましょう。せっかくここまできたのだから」とみんなの尻を叩きました。
エリスマン邸(外観)
 そのおかげで、となりのベーリックホールで女性のピアノ生演奏が聴け、みんな大よろこびしました(参照)が、このおじさんの行為こそリーダーシップです。
 さすが紙工会社の社長さん、安易なことには妥協せず、みんなを引っ張ってくれました。
 このときも幹事の女性はいたのですが、終始なにもいわず。
 おどろいたことに、この女性はやりたくて幹事をやっているとのこと。そんな資質もないのに。
ベーリックホール(外観)
 今回この幹事のリーダーシップのなさで会場が公民館→団地集会場→公民館と迷走しましたが、同様のことは今後も起こるでしょう。そして退会者が続出し、衰退は目に見えています。
 リーダーたるもの、人の顔色をうかがって安易な意見に妥協していては、ものごとは前に進まないし、構成員の質は高まりません。
 逆にみんなにきらわれることを恐れず、筋を通してみんなを引っ張れば、(若干の脱落者は出るとしても)組織はより強固になり、一人ひとりの質は高まっていきます。
 そのため最終的には尊敬され、慕われるようになるのです。

 これは一俳句会のことではなく、会社やスポーツのチームでも同じです。
 野球でも強いチームはリーダーが凛として筋が通っています。それでいて、みんなから慕われているのです。

 私はこれまで組織に属さず、一匹狼でやってきました。
 しかしこれからは組織に属すとなると、リーダーシップも求められます。
 今の自分にその資質はありませんが、これからは少しでもそれを身につけようと思います。
 先日、以前の俳句会の方から電話がありました。
 それによると、会場が団地の集会場から元の公民館にもどったとのこと。しかも私の退会後、ふたりの方が辞められたとか。
 そんなわけで、「よかったら(京一郎さん)もどってきてください」というものでした。

 私は「考えておきます」と答えましたが、まったくもってバカバカしい。
 会場が元の公民館にもどったところで、おいそれともどれるものではないし。
 団地の集会場にしたのは大多数の意志一致によって決めたものではなかったのか。それを私のひとことで簡単にひるがえすとはなんたる信念のなさ。そのことにも愛想が尽きます。
 それに私はとっくに別の俳句会に行ってます。
 この経緯については、
 「公民館まで通うのが面倒だから、会場を我われの住んでいる団地の集会場に変えてほしい」
 という3人のお婆さんの根回しによって団地の人たちの多数派工作がなされ、俳句会当日(私は入院のため欠席)の議題に上ったときには、会では団地住民が過半数を上回るし、団地外からも「それはお困りでしょう」と同情する人も現れたため、「なごやかに」決まったそうです。
使用していた公民館
 これだけ聞くと、元凶は3人のお婆さんにあると思われがちですが、いちばんの元凶はこの会の長である幹事(女性)にあります。
 完全にリーダーとしての資質に欠けています。

 この幹事からは、私の入院中数人の仲間と見舞いにきたとき、「会場が団地の集会場に変わります。つきましては会場費が派生します。1時間200円です」とのメモをわたされました。
 しかしその理由についてはなにも説明されてない。
 私はこれまでの経緯から「てっきり公民館が使えなくなった」と思い込み、承諾しましたが、理由が「通うのが面倒だから……」となると話は違います。
 こんな大事なことをなぜ知らせてくれなかったのか、これがまずおかしい。

 そもそも俳句会で会場変更案が議題に上ったとき、幹事が「なにをふざけたことをいってるの!」と一喝すればそれで済むこと。
 「いいですか、私は会場をとるため毎月公民館と連絡しています。それに年末の大そうじには必ず参加して、そのあとの他のサークルとの親睦会にも出席しています。公民館でやるから他のサークルと交流でき、地域の文化の一翼を担う自負が持てるのです。そんなことも考えずに『通うのが面倒だから……』というだらしのない理由で会場を変更するなんて次元が低すぎます!」
 と正論をぶてばいいのです。
 
 しかしそれができない。
 理由はみんなにきらわれたくないからですが、さらにいうと自分の立場がまるでわかってない。
 ものごとを大所高所から見る能力がないのです。
 前俳句会では投句は一週間前までに清記者に出し、清記者はそれを表に書き入れ、人数分コピーし、句会当日全員に配り、出席者はそのなかから選ぶという工程でした。
 しかし今度の句会では全員の句を書き写す手間がかかります。
 「なんと能率の悪いことをする」
 そう思いましたが、これが本来のやり方だそうです。

 俳句はでき立ての句を評価し合う即興文芸。
 みんなの句を前もって集めていては、「吟行」ができません。こちらのほうが厳しいのです。

 全員の句を書き写すのは、たしかに手間がかかりますが、書き写しているうちに「この句はいい」「この句はダメ」となんとなく選別されていきます。
 したがって全句書き写したころには、おおよそ選別できています。それを五句に絞り込み、特にいいと思った句に〇をつける。
銀杏落葉
 こうして披講者が各自の選句を全部読み上げました。それを聞いて、読み上げられた句に正の字で票数をカウントしていくのは前俳句会と同じです。
 全員の選句披講が終ると、今度は先生の選句。
 おどろいたことに、先生も並選四句、特選一句ということで、我われと同じ条件です。先生の権限で〇をいくつもつけることはできません。また△や、〇△はありません。

 しかも先生の句も入っています。
 これだと場合によっては、先生の句に票が入らない可能性もあります。
 前の句会でも最初はそうだったのですが、余計な神経を遣うので、先生の句だけ別枠に入れ、得票には関係なくしました。

 さて私の句の得票と、先生の評。
 ①夜話や前にも聞いたと子に言はれ(兼題つき)……(0)
 ②ゴミ捨てに出るも覚悟の冬の朝……(0)
 ③掛け声と手締めで大きな熊手買ふ……(1)
 ④大通り銀杏落葉に伸びる影……(1)
 (出句9名、選句はひとり5句。カッコ内は得票数)

 ①年取るとつい同じ話をして子どもに指摘される。しかし季語がありませんね。夜話では×。
 ②これは心情としてはわかります。ただし、ゴミは「ごみ」、覚悟のは「覚悟や」にして区切ったほうが句が締まります。
 ③は酉の市を詠んだものですね。雰囲気が伝わってきます。
 ④は「大通り」がいい。この「伸びる影」は木の影ではなくて、自分の影ですか。なるほど。
 とはいえ〇はくれなかった。いい方はソフトですが、意外に厳しいと思いました。

 今回最高得票(5票)を得て(私も入れました)、先生から特選をもらった句は下記に。

 碁敵の次の手を待つ冬座敷

 「ピンと張り詰めた空気が伝わってきます。これは冬座敷でなければなりません」(先生評)
 てっきり男性の句だと思ったのですが、女性の句(しかも碁の体験のない)でした。
 参加者は少ないけど、前の俳句会よりレベルは高いと思いました。
 以前にも述べましたが、私の入院中に「通うのが面倒だから」とお婆さんたちが結託して、会場を公民館から団地の集会場に変えてしまいました。
 敬老精神希薄な私は「お年寄りといえども、そんな勝手なことは許されない」と抗議しました。
 ところがひとりの口達者なお婆さんに「別に遠くなったわけじゃないでしょう。それにあなた、俳句がやりたいのでしょう。だったら場所なんかどこだって同じではありませんか」と逆襲され、答えに窮しました。

 たしかに、場所はどこだっていい。
 だったら、オレはここに固執せずとも、どこで俳句をやろうといいんだな。
 これが自然に導き出された結論です。もう後戻りはしません。
 というわけで、先日別の俳句会に参加しました。
 いろいろと差し障りがあるので、日時、場所を明らかにするのは当分控えます。

 この俳句会は、参加当日四句投句すること。そのうち一句は兼題つき。今月は「前」という字を使う、とのことです。

 このときの私の投句は、
 ①夜話や前にも聞いたと子に言はれ(兼題つき)
 ②ゴミ捨てに出るも覚悟の冬の朝
 ③掛け声と手締めで大きな熊手買ふ
 ④大通り銀杏落葉に伸びる影
掛け声と手締めで…… 大きな熊手買い
 ①と③に関しては、昨年の句を少し変えました。
 本当はよくないのですが、ここではどんな評価を受けるのか、確かめたい気持ちもありました。
 ②……寒い朝はゴミ捨てに外へ出るのは億劫。しかし溜まるのは不快なので、防寒コートを着込んで「エイ、ヤッ」と気合を入れて出る。その心境を詠んだもの。
 ④……大通りに銀杏が落ち、じゅうたんのようになっている。そこに人の影が写るけど、この時期だから長く伸びている。晩秋の自然描写です

 この句会は投句した句を一句一句短冊に書き、その短冊をバラバラにして、ひとり五~六句ずつ清記表に書き入れ、その表をグルグル回して、各自ノートに書き写します。
 そのなかから選句表に(自分の句以外の)選んだ五句を書き入れ、特にいいと思った句に〇をつけます。(並選四句、特選一句ということです)
 それを披講者に渡し、披講者は順々に読み上げて行きます。

 前俳句会は一人ひとりが選句を読み上げましたが、ここでは披講者に一任。
 また前俳句会では読み上げられた句に該当者が「〇〇です」と名乗りましたが、この句会ではそれはしません。

 私はこれまで一俳句会しか知らなかったのですが、こうしてみるとやり方は句会によってずいぶん違うようです。
2013.12.08 上富いも街道
 私の住んでいる地域の外れに「ケヤキ並木通り」(県道さいたま・ふじみ野・所沢線)が通っています。
 この通りは通称「いも街道」と呼ばれています。
 その理由は、この通りの両側に約30軒ものいも農家があり、収穫したいもを販売しているからです。
上富いも街道
 いも農家が忙しくなるのは、収穫期の10月から3ヵ月ほどとのこと。したがって今どきはさぞかし混雑するのではと思ったのですが、それほどでもありません。なにせ田舎の道ですから。

 食事処はたった一軒、喫茶店らしき看板はあったのですが、生憎この日は休業。
数少ない食事処 喫茶店? この日は休業
 街道を通っているだけではしょうがない、と一軒のいも農家に入りました。

 このあたりの農家は敷地が広く、200mほど入ったところに住居と倉庫が建ち、倉庫の前に箱が並べられ、そこにいもが入っていました。(畑はさらにその奥)
いも農家① 
 「いらっしゃい」
 老夫婦に挨拶されました。
 「なににしますか?」「美味いですよ」などのセールストークは一切なし。
 そこが素朴で好感が持てました。
いも農家②
 いもの種類は「金時」「紅東」、そして「富の川越いも」といわれる「紅赤」(べにあか)。幻のいもだそうです。
 サイズはL、M、Sとあって、Lがいちばん高い。

 「そうだ、あそこに送ってやれ」
 入院したとき、世話になった親戚へ発送を頼みました。
 送ったのは金時と紅赤の二種類。
 10kgと思ったのですが、あまりに多いので5kgにしました。よければまた追加すればいいし。
農家の番犬?
 伝票に相手先とこちらの氏名・住所を書き、支払いをすませて帰ろうとすると、「よかったら、これ、どうぞ」
 袋に入った金時が4本ほど。サービスらしい。
 愛想はないけど、これが田舎のサービス精神。暖かい気持ちになりました。
 先日(12月4日)最後のリハビリが終わりました。
 私の場合は左足距骨粉砕骨折もあるので、足は理学療法士(男性)さん、腕は作業療法士(女性)さんに施術してもらいました。

 どちらもまだ完治というわけではありませんが、保険が適用されるリハビリ期間は、手術から150日と決められています。
 右上腕部剥離骨折の手術をしたのが7月10日。正確にいえば12月6日までなのですが、ふたりの療法士(理学・作業)が揃うのは4日ということで、そうなりました。

 リハビリは入院中(8月末まで)は午前と午後、毎日でした。
 退院してからの通院リハビリは(右腕左足一緒で)9月は週二、10月以降は週一になりました。
ある日のリハビリ室
 足は歩けることは歩けます。
 先日横浜に行ったとき、帰宅して歩数計を見たら2万3000歩を超えてました。
 このときはさすがに翌日も左足の外くるぶしが痛くなりましたが。

 右腕はかなりよくなり、「大怪我の割にはなかなかの回復ぶり」(主治医)とのことです。
 日常生活にはそれほど支障はありません。

 いずれも療法士さんの施術のおかげです。
 「長い間お世話になりました」
 改めてお礼をいいました。

 とはいえ、足も腕も完治したわけではありません。
 階段を下りるときは左足をつま先から着地すると少し痛みが走ります。
 「これはつま先が弱いから。裸足で一本線を綱渡りのような歩き方をして、足の親指と小指でしっかり地面をつかむように歩いてください。これを今後の課題とします」といわれました。

 また右腕を上げるのはひと苦労。しかも痛い。前に回すのは左の肩をつかむのがやっと。もちろん激痛。
 しかしこれは少しずつ動かしていかなければしょうがない。
 あきらめて運動をやめれば、筋肉がさらに硬直して動かすのがもっと大変になるとのこと。
 動かし方は教えてもらいました。

 「わからないことがあれば、いつでもきてください。なんらかのアドバイスはします」
 療法士さんから心強いことばをいただきました。
 いつかは治る。そう信じて運動を続けるしかありません。
 山下公園にきました。
 ここは関東大震災(大正12年=1923)で壊滅した横浜市街地の瓦礫を埋め立てて造成された公園です。開園は昭和5年(1930)。面積は 74,121㎡。
山下公園(向こうはベイブリッジ)
 終戦後はアメリカ軍に接収されましたが、昭和29年(1954)に返還され、昭和36年(1961)には岸壁に氷川丸が係留するようになりました。
向こうはみなとみらい
 その後、臨港鉄道(山下臨港線・高架の貨物線)が公園内に通り、昭和61年(1986)に廃止されました。
 ただしその3年後の「横浜博覧会」では会場を結ぶ旅客輸送の列車として一時復活したこともあり、これに乗った覚えがあります。この鉄道跡が「山下臨港線プロムナード」です。
開港の道① 開港の道②
 山下公園は意外に花が多い。そこで花を入れて港を撮ってみました。
花と港
 いつもは若いカップルで賑わいますが、たまには熟年カップルも。これはこれで絵になります。
熟年カップル
 山下公園といえばカモメ。ここのカモメは人懐っこく、すぐそばまで寄ってきます。
 カメラを近づけても逃げません。
かもめ① かもめ②
 おや、こんなところに女の子の銅像が?
 ガールスカウトの記念像です。この際撮っておきました。
ガールスカウトの像
 海岸通りにやってきました。ここも公孫樹の黄葉が見事です。
 この通りも前出の「日本大通り」ができた明治8年(1875)にほぼできあがりました。
海岸通り① 海岸通り②
 ホテルニューグランド前の公孫樹の黄葉です。
 このホテルは大佛次郎が泊まって執筆していたところです。大佛次郎といえば「鞍馬天狗」が有名ですが、「霧笛」「花火の街」など文明開化ものもなかなか面白い。
ホテルニューグランド① ホテルニューグランド②
 同氏はここを根城に夜な夜な横浜の港町を飲み歩きました。そこで見知った人物から、あのような作品が生まれたといわれています。
 またここは戦後厚木基地を降り立ったマッカーサー司令官が逗留していたところでもあります。

 この海岸通りは関東大震災(大正12年=1923)までは海に面していました。
 また例の地図(明治21年)ですが、下部の海に面した道(BUND KAIGAN DORI)とあるのがそれです。 
横浜地図  
 ちなみにホテルニューグランドの前身グランドホテルは③の中村川沿いにありました。今の「横浜人形の家」のあるところです。下図(↓)参照。
グランドホテル(旧)
 ちなみに④はヘボン邸。②は谷戸橋です。

 「横浜人形の家」といえば、同館と山下公園を結ぶポーリン橋があります。
 そこから見る公孫樹の黄葉もなかなかのもの。
ポーリン橋 ポーリン橋から見る公孫樹
 今年の流行語(年間)大賞は「じぇじぇじぇ」「今でしょ!」「お・も・て・な・し」「倍返し」が選ばれました。
 4語も同時に選ばれたのは初めてだそうですが、安易すぎます。そのなかからひとつだけ選ぶのが本来の年間大賞だと思うのですが。
 「じぇじぇじぇ」「倍返し」は、ドラマを見てないので、私にはこれを評価する資格はありません。
 しかし「お・も・て・な・し」だけは選んでほしくなかった。
 これは五輪招致のスピーチで滝川クリステルさんがいったことばで、日本が世界を「おもてなし」するとのことですが、その後一流ホテルやレストランの食材偽装表示が続出し、消費者をだましていたことが判明しました。これでは「おもてなし」が聞いて呆れる。

 さらに首相が「(福島原発の)状況はコントロールされている」といったのに、その翌日、東電の社員が「コントロールされてない」
 それどころか世論調査では、大半の日本人が「コントロールされているとは思わない」と答えました。誰も首相のいうことなど信じてない。
 これでは日本人がこぞって(私も?)世界をだましていることになります。しかも確信犯です。
 「権力者にだまされた」はもう通用しません。
天王寺公園(慶沢園)にて
 さらにこれを推進してきた東京都の親玉(猪瀬某)は徳洲会絡みで完全にアウト。
 当人は「個人的に借りた」といいわけしてるけど、検察によって外堀は埋められ、政治資金規正法か、悪くすれば収賄罪で引っかかり、早晩都知事をやめざるを得なくなります、
 このように「お・も・て・な・し」にはダーティなことばかり。
 これを選ぶなんて、選考委員の見識を疑います。
 私が大賞を選ぶとしたら、「今でしょ!」でしょう。
 年をとると、「来年」「そのうち」「今度」はない。
 そう思って行きたいところには行き、会いたい人には会いました。
 この夏思わぬ怪我で叶わなかったこともありますが、それでもこの秋大阪・京都に行き、「会いたい」といわれた人間には会ってきました。
 なかには他界していて会えなくなった人物もいましたが、それがわかったのはやはり行ったからです。
 私にとっては来年も「今でしょ!」の気分です。
2013.12.03 中華街の晩秋

 横浜公園の東側、大さん橋通りをわたると中華街です。

中華街大通り 関帝廟

 このところ、わが国と中国との関係は険悪ですが、ここへくるとそんなこととは関係なく大勢の人で賑わっています。それでいいと思います。
 どんなことになっても、ここだけは日中友好でありたい。

香港路 

 久しぶりに香港路(ホンコンロー)の喫茶「ブラジル」に入りました。
 元は中華街大通りと香港路との角にあったのですが、改装されるたびに奥に引っ込み、小さくなりました。

喫茶ブラジル

 「今日は寒くなるっていわれてたけど、暖かくなってよかったわ」
 「ここは東京よりも南に位置していますから、1、2度暖かいのですよ」
 カウンターの近くの席で、東京からきたオバサマたちとマスターの会話です。
 このマスターは80代半ば、しゃんとして、口も達者です。

ブラジル店内

 コーヒーが運ばれてきました。 
 昔からの味で、独特の苦みがあります。ネルドリップで淹れています。(400円)

コーヒー

 「ねえ、このブラジルって、銀座のブラジルとは関係ないの」
 「まったく関係ないのですが、銀座のブラジルご存じですか。あそこも古いねえ」
 聞きながら、私も銀座のブラジルのことを思い出しました。
 いわくありげなオヤジがコーヒーを淹れてました。コーヒーは美味かったけど、えらく高かったぞ。
 
 中華街の「ブラジル」は創業が昭和31年(1956)
 一時は店を閉めようとしましたが、地元の人たちに猛反対され、続けてきました。
 たしかに常連客が多い。

店内のパネル

 この日も、私の横には他の料理店の店主らしき人が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいました。
 次に入ってきた年配の女性。「どうも」とあいさつしただけで、コーヒーが運ばれてくる。
 ふたりとも「ご馳走さま」といって、そのまま出て行きました。

 支払いは月極めなのでしょうが、そのさりげなさが粋でカッコいいと思いました。

 象の鼻から日本大通りを真っ直ぐ進むと、突き当りが横浜公園。
 ここには横浜DeNAベイスターズの本拠地、横浜スタジアムがあります。しかし最近はあまりに弱いので無視して、もっぱらこのなかの日本庭園に。

日本庭園① 遊廓跡の表示

 昨日も述べたように、ここは元々遊廓のあったところ。港崎(みよざき)遊廓といいます。吉原とも呼ばれていたそうです。
 歴史的に見ても、人々が集まり、町が形成されると必ず遊廓ができます。
 とくに港町や巡礼先になるような大きな寺社の近くには必ずあります。港崎遊廓には外国人客も多かったといいます。

PLAN OF YOKOHAMA

 地図(↑)をごらんあれ。これはフランス人クリペットが慶応4年(1865)に描いた横濱絵地図。
 ふだん見る地図とは天地逆になっていますが、上部中央のピンクの部分が港崎遊廓です。

横浜地図(明治21年)

 ただしこの港崎遊廓はその2年前の「豚屋火事」によって焼失し、高島町に移転しました。
 その後はしばらく戊辰戦争→明治維新で手つかず状態でしたが、明治8年(1875)イギリス人リチャード・ブラントン設計のもとに西洋庭園がつくられました。
 明治21年のYOKOHAMA地図(↑)には「クリケット場」…⑱と記載されています。 これが横濱公園です。

日本庭園②

 市内の西洋庭園では山手公園のほうが古いのですが、日本人にも開放されていたものとしては日本最古です。外国人も日本人も、ということで「彼我公園」(ひがこうえん)と呼ばれていました。

写真を撮る人

 それはともかく、この日本庭園はなかなかの風情。
 とくにこの時期は所どころ紅葉して、見ごたえがあります。

噴水① 噴水②

 スタジアムと日本庭園の間に大きな噴水があります。
 これは関東大震災(大正12年=1923)後にその復興を記念してつくられました。
 この噴水の位置は日本大通りの延長線上にあるとのこと。知らなかった。

 久しぶりの横浜です。退院して初めて。
 6月7日、お婆さんたちを引率して山下公園(氷川丸)→港の見える丘公園→山手異人館→元町→中華街を回ったのが直近ですから、ずい分ご無沙汰ということになります。
公孫樹
 季節は盛夏、初秋をすぎて今や晩秋の時期。
 しかしここの公孫樹の黄葉はどうしても見たかった。
 ということで、まずは日本大通りから。
向こうは海岸 
 この通りは象の鼻から横浜公園を結ぶ、約400mの道路。
 大通りというだけあって幅36m。とにかく広い。
 街路樹はすべて公孫樹。この時期はいっせいに黄葉し、人々の目を楽しませてくれます。
 「しかし広すぎるのもなあ」
 全景がフレームに収まらない。
歩道
 キングの塔を持つ神奈川県庁。
神奈川県庁
 横浜公園側から撮ったほうが絵になります。
横浜公園から見た光景
 江戸時代末期このあたりは埋め立てられたばかりの湿地帯でした。
 海岸から400mほど奥地に濠をめぐらされた港崎遊郭がありましたが、慶應2年(1863)の大火事によって焼け落ち、その跡地に「横浜公園」がつくられました。

 それだけではなく、都市計画の意味もあって公園と海岸を結ぶ幅36mの広い道路がつくられました。完成は明治8年(1875)。設計は横浜公園と同じくイギリス人建築家リチャード・ブラントン。
 当時は歩道3m、植樹帯9mを含む36mの幅員を持ち、日本初の西洋式街路として、横浜のメインストリートになりました。
 この道路が「日本大通り」と名づけられたのはその5年後です。
カフェテラス
 この日本大通りでは数年前、港湾労働者のオヤジとガンを飛ばし合ったことがあります。
 それについては以前のブログに述べたので(2009/02/22 ) 省略しますが、今思い出してもゾクゾクする体験でした。
木漏れ日
 そんなことより、今は公孫樹の黄葉を。