新世界の東に隣接する天王寺公園は、明治42年(1909)開設の古い公園です。
 そのなかに「慶沢園」という和風庭園があります。

天王寺公園・新世界ゲート

 もともとこのあたり一帯は住友家の敷地で、この庭園は大正7年(1918)に完成したもの。
 名の由来は、住友家15代吉左衛門(号は春翠)が「照代之恩恵祖先の余沢」の思いで「恵沢園」と名付けられたが、完工時には「慶沢園」に改名されたとのこと。(説明書)

慶沢園① 慶沢園②

 林泉回遊式といって、池を中心に三方に築山があり、周辺には園路や飛石、橋、茶室や四阿が配されています。

慶沢園③

 なかなかの風情です。時間がゆっくり流れている気がします。
 大阪の人は「いらち」てセカセカしているといいますが、新世界、天王寺界隈は違います。
 私はこういう大阪が好きです。

 慶沢園の北に少し大きい池(河底池)があり、白い橋(和気橋)がかかっています。
 この橋は昭和12年に完成したもので、名の由来は和気清麻呂(733~799)にちなんでいるとのこと。

和気橋① 

 それ以外の説明はないので補足すると、高官和気清麻呂は道鏡と称徳天皇の不興を買って追い出さますが、復位してからは淀川の水害を防ごうとして治水工事を行ったとのこと。この河底池はその名残りだそうです。

和気橋②

 この橋を渡ったところが茶臼山。
 ここは大阪夏の陣(慶長20年=1615)で豊臣方の真田雪村隊が徳川方と激突したところです。
 真田隊は3,500、徳川方は15,000。真田隊は数で劣るも戦意は凄まじく、家康の本陣に三度の攻撃をかけ、家康の首に迫ったといわれていますが、やはり多勢に無勢、壮絶な最後を遂げました。(説明書)

茶臼山

 その茶臼山、上ってみると意外にも低い山。山頂は土がむき出しになった、ただの広場です。
 拍子抜けしました。
 犬の散歩にきていたおじさんに「ここが戦場跡ですか?」と聞いてみたところ、
 「そうですよ。なんの変哲もありませんが……」と苦笑まじりに説明してくれました。
 まあ、そんなものだろうなあ、とこちらも苦笑。

 茶臼山・山頂

 この茶臼山と慶沢園は大正10年(1921)に住友家から大阪市に寄贈されました。
 ちなみに通天閣からもよく見えます。一昨日の写真にも和気橋がちゃんと写っていました。

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 通天閣から下りたのがちょうど昼飯どき。
 なにか食わないと……。 
新世界① 
 「串カツどうです」
 新世界といえば串カツが有名で、あちこちの店で店員さんが呼び込み合戦。
 私も何軒となく呼び止められましたが、聞いてみると大てい串カツと生ビールの組み合わせ。「昼間からビールはなあ」
 ご飯もあるとのことですが、「串カツとご飯か……」
 胸がもたれそうで、あまり気が進まない。
すっぽんの実演
 何軒か見ているうちにスッポンの実演をやっている店がありました。
 「スッポンっていったん食いつくと放さないって本当?」と聞くと、
 「うそです。水に入れれば放します。スッポンは臆病な動物で陸上ではパニック起こすんです」
 その爽やかな口上に惹かれて、店に入りました。「焼き魚定食」(500円)というのも魅力でしたが。
焼き魚定食
 店内は常連らしき客が3組ほど。いずれもビール飲んでました。
 なんだか時間がゆったり流れている感じ。
 焼き魚定食は意外に美味かった。鮭は脂が乗っていたし、ご飯もしっかりして量もじゅうぶん。良心的だと思いました。
ソースの容器
 目の前にソースの容器があります。そこで……。
 後学のためだ、串カツ食ってみるか。
 そう思ったとたん、「串カツ、タマネギでお願いします」(100円)と頼んでました。
 「ヘーイ、タマネギ一丁」
 運ばれてきたのは串に刺したタマネギフライ。それほど大きくはない。
タマネギ
 それをソースの容器にジャボッと浸け、小皿に。
 「ソースの二度浸け禁止」としつこく書かれています。
 私も今や東の人間、そんなはしたないこと間違ってもするものか。
 ガブッとかじりました。パン粉が細かく、サクッとしています。
 しかもウスターソースなのでサラッとしてしつこくない。「美味い!」
ソースをつけてひと口かじった
 私、これまで串カツを誤解してました。これなら食べられる。
 とはいえ今回は串カツをいっぱい食べることが本意ではないので、これだけにしました。
新世界②
 これだけで「串カツを食った」とはとてもいえないけど、今度大阪へ行ったら、ぜひ食べたいものです。
 大阪は新世界の通天閣。私はここが大好きで、通天閣は大阪の原風景と勝手に思っています。
 この通天閣は二代目で、完成は昭和31年(1956)。
 初代は明治45年(1912)というから、歴史は古いのです。(棋士坂田三吉を描いた「王将」にも出てきます)
通天閣
 ここには何回か訪れていますが、忘れられないのは息子(当時小4)ときたとき。
 「この通天閣はな……」
 上を見ながら、説明していたら、息子が「あッ、危ない!」
 咄嗟に前を見たら、まさに足を踏み出すその先にひとりのオッチャンが路上に寝てました。
 危うく私はオッチャンを踏むところで、もし踏んでいたらなにをいわれるかわからず、危ないところでした。
通天閣本通り
 「こんなところに寝る人もいるんだねえ」
 息子もおどろいてました。東京では考えられない光景です。(通天閣本通りでした)
 「こんなところに筋肉マンなんかあったっけ?」
 入口は当時とはかなり変わっています。もう30年近く経ってますから。
入口 切符売り場
 展望室の様子は同じでした。高さ(100m)が変わるわけじゃなし。
 変わっていたのは「時計回りにまわってください」と係員に注意されたこと。
展望室
 「この見晴らし具合がちょうどいい」
 東京にはこれの6倍以上の高さの塔ができましたが、あんなものよりこっちのほうがよほど風情があります。
天王寺公園 北方面
 そうそう、通天閣といえばビリケンさん。
 これは一周して下りエレベーターの前に鎮座ましました。
 これに触れるとご利益があるとのことで、みんな触っていました。
ビリケンさん スタッフからの祝福?
 さらにこの像の前で記念写真も撮ってくれます。
 その際スタッフから「めっちゃええやん……」という祝福のことばをかけられます。
 それはそれでよろこぶ人もいるのでしょうが、私は好みではないので、素通りして出ました。
通天閣の模型
 下りてからでも、通天閣の模型の陳列なども見られて、なかなか飽きさせない。
 大阪ならではの味わいがあります。
 私は突撃カメラマンではないので、撮ってはいけないものは原則として撮りません。
 しかしこれはどうなのか……。
 〇月×日。「ほう、これがアメリカ大使館か。一応撮っておこう」
 全景をパチリ。(写真①)
 さらに横の側からもパチリ。(写真②)
アメリカ大使館① アメリカ大使館②
 すると、「もしもし」
 警察官がすっ飛んできました。「撮っちゃダメだよ」
 「なぜですか」
 「ダメなものはダメなの。オタク、どこからきたの」
 「埼玉の田舎から出てきたもので。このあたりの景色は珍しくてね。大使館も撮っておこうと」
 「ダメだよ。今厳戒中だから。テロに備えてね」
 「この私がテロリストに見えると?」
 「そういう可能性もあるということでね。とにかくダメだよ。今度撮ったらカメラ取り上げるから」
 これ以上問答してもしょうがないので引き下がりました。
 △月×日。横須賀の米軍基地。
 基地の光景も撮らないと横須賀をとらえたことにはならない。そう思って歩道橋からゲートをパチリ。
 これは脇からなのでOKでした。(写真=米軍基地①)
米軍基地① 米軍基地② 米軍基地③
 ところが正面から撮ったとたん、「ダメだよ、撮っちゃ!」
 若い警官の大きな怒鳴り声。 (写真=米軍基地②)
 アメ大のときよりもっと高圧的。これはヤバイと思って、「はーい」と返事して撮り逃げしました。
 口惜しいので、歩道に下りて別の方向からパチリ。(写真=米軍基地③)
 これで少し溜飲が下がりました。
イージス艦
 横須賀に関しては、軍港めぐりのイージス艦撮影はOKなのに……。
 今から20数年前、「塀の中の懲りない面々」という小説が話題になり、府中刑務所が脚光を浴びたことがありました。TVのニュースでも刑務所の塀が何度も放映されました。
 近くに住んでいた私は、「ではオレも一丁撮るか」
府中刑務所
 塀には草花の絵が描かれています。それをパチリパチリと撮っていると……、
 「撮影許可は取りました?」
 と門衛のおじさん。
 「取ってないけど」
 「じゃあ、ダメです」
 「許可はどこで取るの?」
 「事務所です。正門にあります」
 「では許可を取りに行きます」
 そういったけど、行くもんか、バカバカしい。5、6カット撮ったから、これでじゅうぶん。
 まったく無許可のまま夕刊紙のコラムに掲載しました。悪いね。(写真は半年前のものです)
自衛隊府中基地
 府中といえば、自衛隊府中基地は金網越しにセスナ機が見え、これを撮るのは一切お咎めなし。
 パチリパチリと撮ったけど、なんの注意も受けないことに拍子抜けしました。
 一昨日(11/24)はわが町恒例の福祉まつり。
 私としてはこれで4回目ですが、これがなかなかの盛り上がりです。 
衣料品① 衣料品②
 会場となった運動場にはバザーの模擬店がズラリ。
 去年もそうでしたが、今年も服のリサイクルショップが大人気。
 去年はヴィトンのバッグ(?)が2000円。アッという間に売れちゃった。
雑貨品 ふわふわぞうさん 
 一昨年は中皿を5枚(100円)、去年はカレー皿2枚(20円)買いました。
 今年はしょうがないから、小鉢2枚(40円)とヨーグルト用のガラスの小鉢2枚(40円)。
 本当は要らないんだけど、只みたいな値段だから、まあいいかと。
食器類も安い
 それよりも野菜が安い。
 柚子100円(15個)、大根100円、キャベツ150円、サツマイモ80円。
 合計430円のところ、400円にオマケ。大根、キャベツが高いなか、これは助かる。
買ってきた野菜
 もっとも私の近所は無人販売所があって、ほとんど100円で売られているから、ふだんでも助かっているのですが。
 大相撲九州場所は、この時間帯家にいるときはほとんど観ていました。
 初日から13日目まで白鵬、日馬富士の両横綱が全勝。
 解説者はこぞって白鵬の磐石ぶりをほめたたえました。

 しかし、私は不満です。
 はたき、引きで勝つことが多い。
 それは白鵬がしっかり攻めていて、相手がこらえるのに必死になっているから、ちょっと引くだけでバタッと前に倒れてしまう。勝ち方としては理に適っています。
 しかも白鵬は相手をよく見て、構えも安定しているから、磐石この上ない。
 これが私には楽な勝ち方のように思えるのです。
 昔の話で恐縮ですが、大鵬なら寄り切りで勝った。強い横綱なら寄り切りで勝つべきでしょう。

 ではなぜ白鵬は寄り切りで勝たないのか。
 私の推測ですが、これはモンゴル相撲のDNA。
 モンゴル相撲は広い草原で取るもので、土俵はありません。したがって決まり手に寄り切りはない。
 形はどうあれ、相手を土の上に転がさないと勝った気がしないのでしょう。

 その欠点は14日目の稀勢の里戦に現れました。
 左四つに組み、白鵬が稀勢の里を土俵際まで追い込みましたが、ここで不用意な左からの下手投げ。
 これが稀勢の里にとっては渡りに船、咄嗟に右から上手投げを打ち返し、きれいに白鵬の身体を裏返しました。
○稀勢の里、●白鵬 
 白鵬にしてみれば、よく左からの上手投げで勝っているので、その癖が出たのかもしれませんが、投げの打ち合いになれば、下手より上手のほうが圧倒的に有利。
 白鵬にしてみれば「しまった」という思いでしょう。 投げなど打たずにそのまま寄ればよかったのです。
千秋楽の結びの一番
 そのショックを引きずったか、千秋楽の日馬富士戦はあまり気合が感じられなかった。
 日馬富士の左からの上手出し投げで、ずるずるッと前に出され、踏ん張ったように見えても右踵が土俵を割ってました。
勝負あり 白鵬の足が出ていた
 これで日馬富士の優勝ですが、この勝ち方はあまりほめられたものではない。
 日馬富士は小兵ながら、真っ向勝負するところが魅力といわれていたのに、今場所は引きや、たぐりが目立ちました。「勝つことに徹した」といわれればそれまでですが。
○稀勢の里、●鶴竜
 大関稀勢の里は日馬富士、白鵬の小横綱を破り、千秋楽も鶴竜に勝って13勝2敗。
 これを北の湖理事長は「優勝に準ずる」と評価しましたが、横綱にしたいという魂胆見え見え。
 横綱にはまだ早いと思います。
2013.11.23 新島旧邸
 母校から南に200mほど下ったところに、「八重の桜」で有名になった新島旧邸があります。
 近くでもあるので寄りました。予約はしてあります。(見学には予約が必要)
新島旧邸・外観
 見学者はまず新島会館から入り、受付をすませてから、中庭に出て、そこから旧邸に入ります。
 係りの人の指図にしたがって、外廊下から上がり、応接間→居間(茶室)→書斎→食堂と進みました。
新島会館① 新島会館②
 明治8年(1875)アメリカから帰国した新島襄はこの地に同志社英学校を開港しますが、翌年校舎を今出川に移し、山本八重と結婚して、ここに新居を建設しました。
 これが現在の新島旧邸です。
外廊下
 外観は洋風ですが、内部は和風寄棟住宅です。
 間取りは日本的な田の字型で、壁は柱を露出させる真壁造りです。
応接間
 襄の死後、八重は茶道をたしなむようになり、洋室だった居間を和風の茶室にし、「寂中庵(じゃくちゅうあん)」と名づけました。
 夫の死を契機に洋風から和風へ。原点回帰とでもいうのでしょうか、わかる気もします。
茶室
 トイレも公開されています。
 板張りの洋式トイレとして日本初といわれています。
洋式トイレ
 「なるほど、『八重の桜』のセットはこの邸を忠実に再現されている」
 私の後ろを歩いていたオッチャンがつぶやきました。たしかにそう思います。
書斎
 昭和7年(1932年)八重はこの邸で永眠しました。
 この建物は昭和60年(1985)に京都市指定有形文化財に指定されました。
 平成2年(1990)全面改修。現在に至っています。
食堂、奥は応接間
 NHK大河ドラマ「八重の桜」もあとわずか。
 一場面、一場面、ゆるがせにせず見ようと思いました。
 私の母校は京都府立鴨沂(おうき)高校。京都御所の東に隣接しています。
 校名の「鴨沂」とは、京都を流れる鴨川のほとりという意味です。

 本校の前身は、(NHK大河ドラマ「八重の桜」にも出てきた)明治5年(1872)に創設された「新英学校及び女紅場」という名の、我が国最初の公立女学校です。
 もとは丸太町橋の近くでしたが(石碑あり)、明治33年(1900)現在地に移転しました。

 明治37年(1904)京都府立京都第一高等女学校と改称。
 私の母はここの卒業生です。教師を志望していたとのことでしたが……。

 昭和12年(1937)ヘレン・ケラー女史が女学生に向けて、女性の自立を説くスピーチをこの講堂でしています。(これは最近知りました)

 昭和23年(1948)学制改革により他の学校を統合し、「京都府立鴨沂高等学校」に改称。新制高校となり、普通科・商業科を置く。

 昭和××年、我われが入学し、3年後卒業しています。
寺町通り・(左)御所、(右)母校
 制服はなく、自由な校風でした。
 門は常時開放され、生徒は自由に外出することができたので、我われはよく御所の芝生で弁当を食べました。授業をサボって映画を観に行ったこともあります。

 当時には珍しく室内プールがありました。夏休みも開放されていて自由に利用できました。それどころか他校の生徒もOKで、プールには知らない顔ばかりということも。 大らかなものでした。
 
母校通用門
 「おやッ、閉まっている」
 ふだんは開いているはずの通用門がピシャリと閉まっています。
 正門側にも回ってみましたが、ここも完全にシャットアウト。「変だな」
 北側の運動場は門が開いており、プールの建物もありました。
 考えてみると、生徒はおろか教職員ひとりもいない。そんなバカな。土曜日の午後なのに。
 ひょっとしたら……。
運動場・右の建物がプール
 ここで私、同校が建て替えられることを思い出しました。
 同窓生の写真家・永野一晃君のブログにそんなことが書かれていた。
 そのあと出席した同窓会でも、思い出の校舎が取り壊されることを惜しむ声が聞かれました。

 校舎については永野君の写真を。(↓) 
https://www.facebook.com/media/set/? set=a.483547088389789.1073741833.100002035059380&type=1&l=7e4c23106a

 
母校の生徒たちは別のところに移転し、3年後新築されたらもどってくるとのことです。

 母校のとなりに護浄院(通称清荒神)というお寺があります。
 山門をくぐると大きな石の鳥居があるので、「神社?」と思いますが、れっきとした天台宗のお寺です。「火災などの災難除け」のご利益があり、地元では「清(きよし)荒神さん」と呼ばれているそうです。
 「だから、ここを荒神口というのか!」(今ごろ気づいても遅いんだよ)
護浄院(清荒神)
 荒神口の交差点に出ました。
 「たしかここにあったはずだが」。東側上ルの「しゃんくれーる」
 倉橋由美子の「暗い旅」にも出てきた有名なジャズ喫茶です。私は関西に引っ越した友人と一度入ったことがあります。1階と2階があり、けっこう盛況してました。(参照
荒神口交差点
 しかし、その場所には……ない。
 別の名前の喫茶店になっています。それでも入りました。
 腹が空いたのでランチ(チキンケバブ?)を頼みました。味はまあまあ。
喫茶店 ランチ
 「この店はいつからオープンしているのですか」と女店員さんに聞くと、「2年前です」
 「その前は『しゃんくれーる』というジャズ喫茶ではなかった?」
 「いえ、お寿司屋さんでしたけど」
 しゃんくれーるのことを聞いても、「さあ……」と首を傾げるばかり。
 とっくの昔になくなっていたことを知り、愕然とした思いでそこをあとにしました。
荒神橋 荒神橋から見る鴨川上流
 「無理もない。あれから40年近く経ってるからなあ」
 その友人とも音信不通。
 行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず……。
 荒神橋から鴨川の流れを見つめました。
 今回の同窓会は、楽しいことばかりではなかったのです。
 高三のとき親しかったTY君が数年前に他界していることを知らされました。

 彼は高二の冬の補習授業で一緒になりました。
 中学時代から親しかった友が化学部だった関係で、化学部の連中と行動をともにするようになり、そのひとりがTY君でした。

 「今度出たレイ・チャールズの曲いいね」
 と彼がいったのは「♪I can't stop loving you I've made up my mind……」ではじまる「愛さずにはいられない」でした。 
 彼のいった通り同曲はヒットチャート1位になりました。
 彼には独特の先見性があったように思います。

 三年で同じクラスになったこともあって、よく行動をともにしました。
 小中学校は違いましたが、彼の自宅は浄土寺。意外に近くでした。そのため彼の家に遊びに行ったこともあります。

 「本当はハリー・ベラフォンテが好きなんや」
 そういって見せられたのがベラフォンテのLP盤。
 「♪Down the way where the nights are gay And the sun shines daily on the mountain top」
 「さらばジャマイカ」は原語で口ずさめるほどでした。
 他にも「マティルダ」「陽の当る島」「帰りませライザ」なども聴かせてもらいました。
大文字山
 彼は当時には珍しい写真オタクで、一眼レフを持ち、自室に暗室をつくって撮った写真を自分でプリントしてました。
 高校の文化祭の模様も彼が何枚か撮り、それを焼いたのをもらったこともあります。

 高校を卒業した直後、彼を含めた4人で大文字山→皇子山→大津(滋賀県)のコースをハイキングしたことがあります。そのときも彼が写真を撮ってくれました。
 セルフタイマーで4人が一緒に写っている写真があります。
 全員大学を落ちた割には笑ってました。

 大津から京都(京阪三条)にもどってきたとき、「ちょっとつきおうてくれ」と彼が寄ったところはスポーツ用品店。ここで5㎏のダンベルを2個買いました。
 「浪人生活に備えて、身体鍛えんと」
 彼は運動部には所属してなかったけど、マッチョ(筋肉)志向でした。
 それに古風なところがあって、神社の前では必ず一礼しました。

 政治の話もしました。
 彼は国家神道を基にした思想で、革命思想の私とは対立しました。しばしば論争もしましたが、ケンカになることはなく、互いを認め合いました。
 私は上京して学生運動に共感しますが、その一方で神道に惹かれたのは彼の影響かもしれません。

 音楽の趣味でいえば、私はオーティス・レディングのようなソウルミュージックに惹かれましたが、これも彼の影響といえなくもない。
下御霊神社
 彼との交流は私が上京することによって途絶えましたが、別の友人の話ではU市(京都南部)の市役所に勤務していたとのことです。
 意外でした。彼は化学部にいたので理科系に進んだと思っていました。その彼がなぜ役所勤めを?
 国家神道的な思想から、地方自治体に意義を見出したのか。
 今となっては知る由もありません。
 大文字山で写真を撮った4人ですが、吉田神社のふもとに住んでいて、節分の日に蕎麦をご馳走になったK君も、もうこの世にはいません。(これは2年前に知りました)(参照
 「4人中ふたりまでも……」
 ことばがありません。
 ふたりのために西に向かって手を合わせました。
 同窓会は河原町三条にあるビアホールの宴会場で行われました。
 私が着いたのは開宴15分前。出席者は34名。中学に比べると人数も出席率も圧倒的に少ない。
 「A君やないか、オレだよ」
 近くにいた小学校の同級生に声をかけところ、「えッ、誰?」
 まったくわからない様子。
 「薄情なヤツだな、辻だよ」
 「あー、辻君か」
 2年前(中学の同窓会)のB君もそうでした。小学校の同窓生はみんな薄情者です。

 口惜しいので、「こっちはSとKの3人で年に一度会ってるよ。今年も東京で会った」
 するとAの目の色が変わって、「えッ、S君、K君とか。ええなあ、東京は。仲がよくて」
 私よりSとKの存在感が大きいのもさることながら、京都の連中はなんの交流もないらしい。
 この分だと小学校の同窓会は永久に行われないと思いました。
三条通
 そうこうしているうちに幹事のT君の挨拶がはじまり、「今年は2月にN君が他界され、すでに43人の同窓生が鬼籍に入られました。そこで……」まずは黙祷からはじまりました。
 となりの席にMO君がいたので、「高校の集まりが悪いのはどういうわけだ」
 MO君は「中学まではクラス一体だけど、高校になると教科によって生徒がバラバラになるから、関係が希薄になるのではないか」
 「うーん、それもあるけど、卒業後の環境の急激な変化もあるのではないか。オレの場合はコンプレックスや。東京行って、京都はもう捨てたつもりやった」
 すると遅れて入ってきたKAが「辻が京都を捨てた本当の理由はこれや」と小指を出しました。
 「こらッ、よけいなことをいうな」
 私は強制的にその話題を打ち切りました。
 出席者名簿にSIとあったので、その人物に声をかけました。
 彼は高一のクラスで最初に仲よくなった人物です。大原から通学してました。
 昼食のとき、彼の弁当を見るとご飯の上に茄子の柴漬けが丸っぽドーンと乗っており、彼はそれをかじっていました。
 「なるほど、これが大原流か」と感心したものです。
 彼にそのことをいうと、「なんや、そんなとこ見とったんか」(笑)

 彼は北陸の放送局に勤め、転勤で東京六本木に17年間住んでいたそうです。
 「六本木は特殊な場所やったな。ひと晩中明りが煌々と点いとる。まるで不夜城や」
 「そうそう。街往く女人は美人ばっかりやし」
 「そやったな。わしは会社の金でよう遊んだ。あんな面白いことなかったな」
 「そんな景気よかったんか、放送局は。オレなんか撮影費の名目で1、2回飲んだだけだよ。あとはゲイバーの取材や」
 「そや、ゲイバーも仰山あった」
 しばし六本木談義で盛り上がりました。
 「なんや、キミとは話が合いそうやな。東京の話はまた今度……」
 「じゃあな」
 軽く会釈してその場を離れました。
河原町通り夜景  
 「骨折にもめげず、ご苦労さまです」
 幹事のT君にも声をかけました。
 彼は昨年右膝のお皿を割り、左肩肩板断裂を起こしました。私と同じ骨折仲間です。
 「肩のほうはほとんど治ったけど、膝はまだ少し痛みがね」

 彼にはぜひ伝えたいことがありました。
 それはアメリカの心理学者の臨床実験です。
 その実験は、年配の男性数名を昔風の家具や装飾の部屋に合宿させ、常に若いころのポップスなどを聴かせたところ、脳の働きや身体能力が上がり、身長や指の長さが伸びたというものです。
 これは昔のことを思い出すことによって脳が活性化され、それが身体の機能にいい結果をもたらすと考えられています。(ディーパック・チョプラ「エイジレス革命」講談社

 同窓会の幹事が若々しいわけは、その功徳を受けているからだ、と。(参照
 「これはええこと聞いた。これからも頑張るわ」とT君。
 それを聞いて安心しました。
 今回の関西旅行の目的は高校の同窓会です。
 中学の同窓会は30年近く前に一度(クラス会)、2年前に一度(学年合同)出席しています。
 関東在住の割にはよく出席しているほうだと思います。(交通費と宿泊費がかかるので)
 なお今年は中学の同窓会はなかったようです。

 ついでにいうと、小学校はまったく出席せず。
 これは、前にも述べたけど、担任が大きらいだったから。
 クラスの連中にはなんの遺恨もありません。
 現にS君(武蔵野市在住)とK君(兵庫県在住)とはいまだに交流があり、半年前も3人で月島の海員会館で一泊し、丸の内→佃島→晴海→築地→銀座→新橋を散策したぐらいです。
 他にも会いたい人間はいるけど、連絡の術がなかったのです。

 高校となると少し複雑です。
 というのも卒業後、複数年浪人したから。
 これでは大学入ってもみんなより遅れをとる。そのコンプレックスと、当時片想いの女性を断ち切るため、上京しました。「オレは京都を捨てた」、しばらくはそんな思いでした。
 その後、郷里の友人とのつき合いが復活し、「捨てた」という思いはなくなりましたが、高校がいちばん荷の重いところでした。
京都御所
 それが変わったのはつい最近のこと。
 4年前、消息不明でもう会えないと思っていた幼なじみのM君と連絡が取れました。
 さらに電話で絶交した友人KAから不意に電話がかかってきたからです。
 幼なじみのM君は近所に住んでいて、いつも日が暮れるまで遊びました。
 しかし私が上京して10年後、転勤で家族ごと九州へ引越し。実家の母親も連絡先は知らず、生涯会えないと思いました。
 ところが中学の同窓会の幹事N君から電話がきて、彼の居所がわかりました。なんと千葉県A市に住んでいました。
 「会おうや」ということで、池袋で会いましたが、なんとそこに中学の同級生(♀)が。「ン?」
 「いい忘れたけど、わしら京都時代つきおうてたんや」
 「えーッ、初耳や」
 つまり元カノ。埼玉県T市在住(隣接市だ!)です。絶句しました。
 翌年は3人で駒込「六義園」→「旧古河庭園」を散策しました。
 いってみれば中学同窓会の関東支部。ときどき会うことにしました。
 KAとは私が上京してからも交流はあったのですが、16年前、京都に行く用事があって、「会おうや」といったところ、「会いたくない」
 「なんや、人がせっかく会おういうてんのに」
 私は怒って受話器をガチャッ。こんなヤツ、もう二度と会うもんか。

 ところが4年前、いきなり電話がかかってきて、「おう、誰かわかるか」
 (失礼なヤツ)
 「わかってるよ。KAやないか」
 当時彼は奥さんが末期の胃癌で余命幾ばくもなく、誰にも会いたくなかったそうです。
 その奥さんは半年後亡くなりました。「そうやったんか」
 しかも私の電話番号は変わっており、新しい連絡先を聞き出すのに手間取ったはず。
 そんなこともあって一気に和解しました。
 ただし、この年の中学の同窓会はこちらの事情で欠席しました。

 2年前、KAから「同窓会、くるやろ」といわれたときは、「出席するけど、ひとつ頼みがある」
 片想いの女性絡みです。彼の尽力(?)で念願は果たせました。
 しかし、そのあと親しかった友人が数人亡くなっていることを知らされ、愕然としました。
 不義理していると、どんどん先立たれる。
 今年2月には、幼なじみのM君を引き合わせてくれたN君が他界しました。

 私もこの夏、思ってもみない骨折事故で入院しました。
 この先、なにが起こるかわからない。会えるときは会っておこう。
 そんな思いから、敷居の高かった高校の同窓会にも出席することにしました。
 今回の嵐山散策は阪急嵐山から入り、嵐山公園→渡月橋を渡って府道29号を北上しました。
阪急嵐山駅 嵐山公園
 左手(西側)は天竜寺の敷地、右手(東側)に土産物屋などが並びます。
 いわばこの道はメインストリートのはずですが、今イチもの足りない。
人力車が活躍 美空ひばり館
 美空ひばり館があるけど、私にとってはそれほど興味ないし、
 料理店はいずれも高級そうな店ばかりで、民芸店などがポツポツ。
 これだったら、鎌倉の小町通りのほうがはるかに内容が濃い。
嵐電嵐山駅① 嵐電嵐山駅②
 もっとも台風18号の被害から完全に立ち直っていないのかもしれないし、紅葉もまだ早かったから、観光的に今イチ盛り上がらなかったのかもしれない。
洪水対策?
 この道は車が通るし、片側はお寺の敷地だから、店などがビッシリ並ぶ条件がととのってないのかもしれない。

 お寺巡りするにも広く点在しすぎて、この足ではとても回れない。
 結局お寺は天竜寺だけにして、嵐電(正しくは京福電鉄)嵐山駅から少し北上したところにある茶店で休んで、にしんそばを頼みました。
茶店で食べたにしんそば
 これが意外に美味かった。
2013.11.17 嵐山・天龍寺
 渡月橋からほど近いところに天竜寺があります。
 山号は霊亀山。寺号は天龍資聖禅寺。臨済宗天龍寺派の大本山です。
天竜寺山門
 本尊は釈迦如来、創立者は足利尊氏、初代住職は夢窓疎石。
 足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山の第一位とされてきました。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
 何から何まで超メジャーなお寺。
大方丈と曹源池 曹源池と庭園
 そんなことより、ここは紅葉の名所。
 このときも大勢の人が訪れたのですが……。
庭園① 庭園②
 うーん、所どころ紅葉しているけど、一面の紅葉というにはまだ少し。
 それでも庭が広く、素晴しい。
竹林 渡り廊下
 ここにはことばは不要。
 庭の景色をじっくりとご覧ください。
一幅の絵
 天竜寺は9月16日の台風18号の影響はなかったのですが、別院の臨川寺には表門を越えて、参道の中門まで水が入ってきたといいます。
 臨川寺は桂川左岸ぺりにあるので、さもありなんと思われますが、そこは行かなかった。
2013.11.16 嵐山・渡月橋
 嵐山・渡月橋にやってきました。
 同橋は桂川左岸(北側)と、中州の間に架かる橋で、長さ155m、幅11m。
 渡月橋の由来は、亀山上皇(1249~1305)が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことからといわれています。
 現在の橋は昭和9年(1934)に完成。橋脚と橋桁は鉄筋コンクリート製ですが、欄干部分は嵐山の風景と調和させるため木製です。
中州側からの光景
 この渡月橋は今年9月16日、台風18号襲来で桂川が氾濫して橋周辺が冠水し、付近の旅館や土産物屋が浸水し、救助隊がゴムボートで被災者を運ぶという大変な被害が出ました。
 ニュースで見て唖然としました。こんなことはかつてなかった。
中州側から
 ただし橋が流失するなどの致命的なダメージはなかったので立ち直りは早く、私が行ったときは何ごともなかったように観光地の姿を取りもどしていました。
 勤勉というか、商魂逞しいというか。
橋中央① 橋中央②
 しかし二度と冠水しないという保証はない。
 専門家の間では以前から危険性が指摘されていて、渡月橋の下流は川幅が狭く、浅くなっており、上流で多量の雨が降れば、急に水位が上がるとのこと。
 川底を掘り下げ、川幅を広げる案もあったのですが、地元の人たちが「景観が変わるから」と反対し、川岸っぺりの土産物屋や屋台が立ち退きに同意しなかったともいわれています。
 こうなると単なる天災では済まされず、地元の利害絡みの人災説といえなくもない。
上流の光景
 景観が多少変わってもいいじゃないか、それよりも水害対策のほうが大事だろう、と部外者は思うのですが……。
北側から
 渡月橋といえば25年以上前、息子(当時小5)ときたことを思い出します。
 「あの川は浅いように見えるけど、深いところもあって藻が生えているんだよ。足をとられそうになってヤバかった」
 ここで泳いだ息子がいってました。
北岸からの光景
 息子は川や海を見ると、どんなところでも泳ぎたがりました。(最悪は浜甲子園)
 このときは地元の少年たちが泳いでいるのを見て、「自分も……」と思ったのか。
 「バカモノ、地元の子は危険なところは熟知してるけど、お前はよそ者だぞ」
 私の注意はいつも結果論でした。
 もっともその報告をもとに何度か記事を書いたこともありますが。
 「おや、これは……」
 スカイビルの北側に田んぼが見えます。
 稲も刈り取られて干してある。
新里山の棚田
 気になったので案内所で聞いてみると、これは棚田(約200㎡=60坪)で、田植えから草取り、稲刈り、脱穀、精米は近所の小学生がやるそうですす。もちろん実際に食べる。わずかな量だろうけど、これは楽しい。
 ここを管理する積水ハウス㈱の従業員の方が指導しているそうです。
里の奥池
 その背後に広い雑木林があります。
 これは「新・里山」といって、米だけではなく、野菜、茶などもつくって日本の原風景「里山」を再現させようというもの。(約8000㎡=2400坪)
 奥池には木道が設えてありました。
森の外れの喫茶店 喫茶店
 この新・里山は「3本は鳥のために、2本は蝶のために、」というコンセプトで、日本の原風景を取りもどそうと、在来樹種が植栽されているそうです。
喫茶店・内部 モーニングセット
 「おやッ、あれは……?」
 雑木林の向こうに見える小じゃれた喫茶店。
 疲れていたので、ひと休みすることにしました。小腹も空いていたのでモーニングセットを。
 うーん、なかなか美味い。値段も安かったし(380円)。
 新梅田シティといえばスカイビル。
 地上40階建て173m、東棟と西棟の二棟が最上階でドーナツ状の廊下(空中庭園展望台=173)でつながっています。(完成は1993年)
下から見たスカイビル
 東京には「スカイツリー」なる634mものバカ高いタワーがあり、いまだに長蛇の列ができるほどだけど、そんなところはこちらからご免蒙るとして(ヤセ我慢?)、大阪は慎ましやかで好感が持てます。
最上階に向かうエスカレーター
 ここへは35階までエレベーターで上り、そこからはエスカレーターで上がり39階へ。
 ここで入場料を支払います。
 「おーッ、淀川や」
 「大坂城も見えるわ」
 と中学生のグループ。
屋上
 この日は中学生が多くて、一般の入場客はまばら。20年も経つと珍しくもないらしい。
 それに173mはそれほど高くもないし。
 これだったら横浜ランドマークタワー(70階、296m)のほうがはるかに高い。
内側を見る
 それかあらぬか中学生のグループ、「なんや、これで300円は高いわ」
 身もふたもないことをいいよる。
 (大人は700円もとられたぞ)
北方面の景色 南方面の景色
 それでもゆっくり回り、大阪市内を上から堪能しました。
 なかなか楽しかったよ。淀川も見られたし。
 梅田はJR大阪駅でもあるので、この界隈をぶらつくことは多いのですが、北西側はまったく不案内。用事もなかったし。
 そもそもこのあたり一帯は数本の貨物線に遮られているため、交通の便が悪かったのですが、近年開発が進み、総合施設「新梅田シティ」ができ、さらに高さ173mのスカイビルができてからは、子ども連れで賑わうようになりました。
希望の壁① 希望の壁②
 そして今月5日完成した「希望の壁」。
 これは高さ9m、全長78mのステンレス製の檻のなかに、びっしりプランターが植えられた緑の壁。所どころ四季の草花も植えられています。(プランターの総数900個、総工費4億円)
 設計者は表参道ヒルズなどを手がけた安藤忠雄氏(72)。
希望の壁③
 披露式典にはその安藤氏も出席してテープカット、さらに大阪桐蔭高等学校吹奏楽部の演奏や、地域の子どもたちによる記念植樹など盛大に行われ、注目を集めました。
所どころに季節の花も…
 しかし……。
 「希望の壁はどこにあるのですか」
 タワーウエストの1階入口付近で、ふたりのサラリーマンに聞いても、
 「さあ……」
 「悪いけど、知りません」
 返事は丁重でしたが、本当に知らない様子。
 ニュースは見てないのか。
 (こっちは施設の人に聞いてやっとわかったけど)
窓から見る空
 そしてその希望の壁。
 みんな知らん顔してスイスイ通って行く。まだ珍しい時期なのに。
 「東京だったら必ず(当方のように)写真撮るヤツがいるはずだけど……」
 これが大阪流なのか、よくわかりません。
2013.11.09 お知らせ
 昨日から関西にいます。
 そのためブログは休止しております。
 帰れば再開し、関西の光景もUPする予定です。

 食材の偽装表示がとまりません。
 先月、阪急阪神ホテルズで偽装表示が発覚して、役員が一斉に頭を下げたと思ったら、その後、各地のホテル、旅館のレストランの役員が頭を下げました。
 そして一昨日は大手百貨店「高島屋」


 私としては信頼していた老舗店だけに「高島屋よ、お前もか」
 そのとき「これはひょっとしたら、高島屋だけではないぞ」と思ったら、案の定その後も三越伊勢丹、小田急、近鉄、そごう、西武などのデパートの食材偽装が続々。
 なかにはミシュランの星を得たレストランもありました。

日本橋高島屋

 これは、しかし、業界では「暗黙の了解事項」だそうです。
 昨日ラジオに登場した料理学校の講師によると、
 「どんな一流ホテルでもレストランでも、新鮮な食材を常に提供するのは至難の業。冷凍食品が使われていたとしてもそれほどおどろかない」といいます。


 だとしたら偉そうに「〇〇産の××エビ」と銘打って宣伝するな、ということになりますが、それをありがたがって食べていた我われにも原因があります。
 ブランドや星の評価などに左右されず、美味い不味いは自分で判断しろよ。


 もうひとつ問題があります。
 偽装したホテルのレストランはたしかに悪い。
 しかし、だれがそれを非難できようか。


 オリンピック招致のプレゼンテーションでは、首相が「(福島原発の)状況はコントロールされている」と大見得を切って、それが決め手で、「TOKYO」招致に成功しました。
 しかしその翌日、東電の社員が「コントロールされてない」といいました。
 それどころか世論調査では、大半の日本人が「コントロールされているとは思わない」と答えています。誰も首相のいうことなど信じてないわけです。


 だとしたら、これ、日本国民全体がオリンピック委員を、さらにいうと全世界の人々をだました確信犯ということになります。
 いくら私が「いや、私はオリンピック東京招致には反対だった」といっても、世界からは通用しない。私も「だました側」に入るのです。


 これがいうところの「お・も・て・な・し」の実態。
 私は、東電社員の努力によって福島原発が本当の意味でコントロールされることを望みますが、もしそれが偽装表示だったとしたら、為政者だけではなく、日本人みんな世界に向かって「ははーッ」と頭を下げねばならない。 しかもそれで許してもらえるかどうか。
 そんなことにならないように願いたいものです。

 左足は少し歩くと外くるぶしが痛くなりますが、「そんなものだ」と思って歩くと1kmぐらいはなんとか歩けます。自宅から駅までがそれぐらい。歩数にすると約1800歩。

 先日東京駅八重洲グランルーフに行ってきたときは、帰宅して歩数計を見ると12015歩。
 7kmほど歩いたことになります。
 むろんくるぶしは痛かったけど、翌朝には治りました。

 それよりも痛感したのは階段の上り下り。
 上りはなんでもないのですが、下りが辛い。
 下りの場合、ふつうはつま先で着地するのですが、左足でそれをやると足首が痛い。
 そこでかかとで着地するのですが、つま先のクッションが効いてないいため、いくらフワッと着いているつもりでも、膝などにかかる衝撃を考えると、あまりよくない気がします。

 ここでまたアメリカ東部の従姉のアドバイス。
 「下りるときは、うしろ向きに下りると楽ですよ」
 彼女は一時期膝を痛めたことがあって、階段を下りるのかいちばん辛かったそうですが、うしろ向きに下りると膝への負担がかからず、楽に下りられることを発見しました。
 ただし駅や市街地などではかなり恥ずかしい。
 とはいえ背に腹は替えられないので、ラッシュアワーに出かけることは避け、やり通したそうです。
 さらに膝痛に悩む友人にこれを教えたところ、よろこばれたとのこと。

 本当かなあ。
 半信半疑で私もやってみました。

 まずはアパートの階段。
 ちょっとこわい気もしましたが、手すりを持てばいい。
 うしろ向きだと、否が応でもつま先から着地しなければならないのですが、そのまま右足を下の段に下ろしても、まったく痛くならない。あれッ?
 しかもなんの痛みもなく、スムーズに階下まで下りることができました。
 不思議だが、本当だ。

 その後、ふつう(前向き)に下りることもやってみましたが、やはり痛い。うしろ向きのほうが痛くない。
 当分はこれで下りることにします。
 今年の日本シリーズは一戦から七戦まで全部観ました。
 プロ野球に関しては年々興味が薄れ、今年はペナントレースはまったく観なかった。
 ただセ・リーグでは今年終盤広島カープの勢い凄まじく、「ひょっとしたらセ・リーグ優勝?」の期待もあって、CSは観ました。しかし、圧倒的な戦力を持つ巨人にはまったく歯が立たなかった。

 さて、日本シリーズ。
 一、二戦を観て「巨人は元気がない」と思いました。主力打者が打てない。
 裏を返せば楽天の投手陣がいいからか。田中将大(マーくん)はむろん、則本も新人ながら切れのある球を投げていました。(セ・リーグにはこんな投手いないのか)

 巨人の阿部の不審は目を覆うばかり。
 ペナントレースではよく打ったらしいけど、大試合に弱いのか。WBCでも全然打てなかった。今後WBCでは阿部は四番ではなく、七、八番を打たせたほうがいいと思います。
観客
 今年の日本シリーズは最終戦までもつれましたが、勝負のあやは第五戦にありました。
 この試合、巨人は9回まで1-2でリードされ、劣勢に立たされていたところを同点に追いつきました。なおも一死一、三塁。サヨナラのチャンスです。
 てっきり巨人の勝ちと思ったところ、後続が断たれ、延長10回表、楽天が点を挙げ勝ちました。
 もちろんこれも楽天の則本が頑張ったからですが、これで星を落としたのが巨人にとっては痛かった。
球場の雰囲気
 六戦の先発は今シーズン無敗の田中。ほとんどの人は「これで決まり」と思ったことでしょう。
 田中投手も「これで決めてやる」という思いがあったでしょう。
 しかしどこかにはやる気持ちあったのではないか。おそらく勝利→優勝→胴上げ……の光景がチラついた?
 人間、余計なことを考えると、落とし穴があります。前半2-0でリードしていたものの、ロペスに同点2ランを打たれ、さらに逆転されて2-4で敗れました。
 その点、巨人は謙虚に野球をやっていた。
 野球というのは謙虚にやっているほうが勝つというのが私の持論です。
星野監督 
 最終戦は美馬、則本の好投に尽きます。
 第三戦でもそうですが、巨人は美馬を全然打ててない。
 さらに則本、これもよかった。おそらく9回も行けたと思います。
 ところが……。
 ピッチャー田中。
 えッ、うそッ、無理だろう、と思いました。
田中登場
 前日160球投げて完投した投手が抑えられるはずがない。なんと無謀なことをする。
 田中にしてみれば、「昨日のリベンジ」、あるいは「有終の美を飾りたい」という美学があったのかもしれませんが、野球は美学で勝てるような甘い世界ではない。(案の定ロペスにはヒットを打たれた)
 私は、また逆転されるのではないか、と気が気ではない。(実際二死一、三塁のピンチ)
 しかし、代打矢野を三振に打ち取り、楽天初優勝。凄い、としかいいようがない。
歓声のなか 最後の瞬間
 それにしても今シリーズは星野監督の笑顔が見られました。
 私がこの監督を好きになれなかったのは、自軍の選手がエラーしたときや、投手が打たれたとき、「なにをやっとるんだ」といわんばかりの不機嫌な顔をするからです。
 監督がこの表情をしている限り、選手は萎縮して力を発揮できない。
歓喜の輪 監督の胴上げ
 これについて以前、徳島池田高校の故・蔦文也監督のことばを思い出します。
 「ワシも昔はよう怒っていた。しかし、『怒ったってしゃーない』と思って怒らなくなってから、チームが勝てるようになった」
 プロ野球の監督でいえば、巨人の監督時代眉間にシワを寄せていた王さんがダイエーに行ってからは笑顔を見せるようになり、それから勝てるようになりました。
 原(巨人)、秋山(ソフトバンク)、落合(元中日)、伊東(ロッテ)など名監督はみんなポーカーフェイスです。
労をねぎらう選手とコーチ 田中投手と監督
 最後に巨人軍もよく戦いました。原監督や巨人の選手に悔いはないと思います。
 久しぶりに見応えのある日本シリーズでした。
 久しぶりの都心です。
 9月20日オープンしたという東京八重洲口の「グランルーフ」
グランルーフ外観
 八重洲口には北に「グラントウキョウノースタワー」、南に「グラントウキョウサウスタワー」の2大高層ビルがあり、そこをつなぐ巨大な歩行者デッキ(長さ約230m、幅最大9m)がグランルーフです。
 ルーフとは屋根のこと。上を見ると白い大屋根が張られています。これは帆をイメージしたものだそうです。
2階デッキ
 ただし吹きさらしのため、横なぐりの雨が降ったら、ずぶ濡れになること必至。
 このときは秋風が心地よかったのですが。
八重洲の街を見る グランルーフから見る八重洲通り
 おや、これは……?
 デッキの一部に絵が描かれています。花と錦絵のじゅうたん?
日本の花
 これは「インフィオラータ」というヨーロッパの花祭りで、イタリアやスペインでは「コルプス・ドミニ(キリストの聖体の祝日)」といって、道路の路面をキャンパスにして花や草木を素材にして巨大な絵を描くアートパフォーマンスだそうです。

 描かれていたのは「日本の花」と「江戸錦絵」
 錦絵に描かれた赤富士は圧巻です。
江戸錦絵 江戸錦絵・赤富士
 なんだ、グランルーフってそれだけか? 
 と思われたかもしれませんが、実は地下に飲食街があります。
 和食をメインにした店が多いそうですが、グルメにあまり関心のない当方はこれを無視。
 スミマセン、愛想がなくて。

 プロ野球巨人軍の元監督・川上哲治さんが亡くなられました。 享年93。
 「とてつもなく大きな存在」(長嶋茂雄さん)、「執念徹底し教えていただいた」(王貞治さん) 
 「私もあこがれ、まさに神様」(野村克也さん)、「さんぜんと輝く大先輩」(原監督) 
 球界からは哀悼と称賛のことばばかりです。


 川上さんは巨人のV9の立役者であり、球界の大御所でもあります。
 そんな方にいうのもなんですが……。


 川上さんが巨人の監督時代、同じセ・リーグの球団からエース級の投手を引き抜いたことがあります。
 当時巨人の投手陣は豊富で、この投手の出番はほとんどなかったのですが、それを記者に指摘されると同監督はこういいました。
 「相手チームで活躍されるよりはいい」


 これって飼い殺しじゃないの?
 この投手の才能はこれによって抹殺されたのだから。
 一球団の監督にこんなことが許されるのか。
 それに、これでは球界全体のレベルダウンではないのか。


 この監督は巨人さえ強けりゃ球界全体のことはどうでもいいのだ。
 若き日の私はこのように思い、長嶋さん、王さんは好きにも関わらず、巨人はきらいという屈折したファン心理を持つようになりました。


 そんな私から見れば、V9なんてバカバカしい。
 7月のオールスター戦ではセ・リーグ監督の立場を利用して他球団の投手を酷使し、自軍の投手を温存することも平気でやりました。
 ルール違反ではないけど、やることがこすっからくて面白くない。


 同監督が辞めてから監督は長嶋→藤田→王→藤田→長嶋→原→堀内→原と代わりましたが、江川の空白の一日や、オーナーの横やりなどはあっても、監督のこすっからい行為はなかったと思います。
 今そんなことをしたら、世間から袋叩きの目に遭うでしょう。


 むろん川上さんは子どもたちへの野球教室にも熱心で、球界に多大な貢献された方であることは重々承知しています。
 しかしそれは巨人の監督を辞められてから。


 私がいうのも口はばったいのですが、当時の川上さんは若く、「巨人さえ強ければいい」との一念で、球界全体のことなど考える余裕はなかったのではないか。
 若いころの私は、川上さんに対してこのような思いでした。


 今は晩年の川上さんを思い、ご冥福を祈るばかりです。