昨日は晴れていたので、近くの山崎公園(富士見市)に行ってきました。
 この公園は別名「せせらぎ菖蒲園」といって、6月になると菖蒲の花が咲き誇り、近在から多くの人が訪れ、埼玉県ではちょっとした菖蒲の名所です。
 しかし、今の季節はなにもない。したがって人もあまりいません。
 そのほうが歩行訓練にはいいわけで……。
山崎公園①
 私の左足は、試行錯誤を重ねつつも、なかなかよくならない。
 リハビリで療法士さんにいわれたことは、歩くと外側のくるぶしが痛くなるのは、つま先で地面を蹴るとき足の外側に比重がかかっているのではないか(たしかに靴の外側が減る)、むしろ親指で蹴るように、とのこと。

 理論的にはその通りなのですが、つま先を反らして支える力が右に比べるとかなり弱い。
 ここを強化すれば、地面の衝撃を受け止め、くるぶしまで行かないのではないか。
 そこでできるだけつま先を床につけて反らすようにしました。自転車に乗るときも、つま先を立ててペダルを漕ぐ。
 
山崎公園② 
 これまで私は足首に痛みが走るのを避けるために、つま先で地面を蹴らずに右足を運び、そのため歩幅がせまくなり、跛行になりました。
 跛行しても左くるぶしは痛くなる。
 どうせ痛くなるのなら、正しい歩行で痛くなったほうがいい。
 そう思って、今回はわざとつま先を蹴って歩きました。
 それでも、500歩ぐらいで左くるぶしが痛くなってきます。
 そこで、くるぶしの下の窪みを指で押す。その押し方も強くではなく、軽く抑える程度でよいとのこと。にわかには信じがたいのですが、療法士のいうことは信じるしかありません。

 この公園、一角に彼岸花が咲いていました。
彼岸花①
 今の季節ではみんな約束ごとのように撮りますが、調べてみると、彼岸花はアルカロイド系の有毒植物で、間違って食べると吐き気や下痢を起こし、ひどい場合は中枢神経が麻痺して死ぬこともあるとか。
 彼岸花の名は秋の彼岸ごろに開花することに由来してますが、これを食べたらあの世(彼岸)行きという説もあるようです。こわいよー。
彼岸花②
 アルカロイド系とはケシもそう。きれいな花には毒がある(?)
 私はけっして近づきません
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 私の入院していたI病院は系列病院も多く、地域(埼玉南西部)一の医療を目指しています。
 昨年までは街なかにあったのですが、今年3月よりずっと奥の畑のド真んなかに引っ越しました。
 その代わり9階建ての近代的なビル、病室(ベッド)数も多くなり、医療設備を充実させ、医師をはじめ、看護士、療法士など、医療スタッフを新規に増員しました。

 この病院の前身はK病院といいます。
 3年前、軽度の前立腺肥大で近くのM診療所に通うようになったとき、「胃カメラと大腸内視鏡検査するので、この設備のある病院で診てもらってください」といわれ、紹介状を書いてもらいました。
 封筒の表書きに「K病院御中」とあります。
 K病院? そんな病院、あったっけ……。
 首を傾げていると、看護婦さんが「先生、それ違いますよ、今はI病院」
 「あッ、そうかそうか」と医師。
 それでK病院の名を知りました。

 このK病院、極めて評判が悪い。
 例のヤクザ男は糖尿病でK病院時代に何度か入退院をくり返しており、この病院の事情には精通しています。
 「いやあ、ひどい病院だったよ。狭い部屋に男女6人詰め込まれて。事務員も愛想がなかったし、看護婦なんかコールしたら『今、行きます』といって、くるのは翌朝だものな」とボロクソ。

 もっともこの仁、やることもハチャメチャで、夜9時消灯後、ホットプレートを持ち出して、病室の連中と「焼肉パーティ」を催した。
 「みんなで役割分担して、肉はお前、野菜はオレ……という具合で。楽しかったなあ」
 その音頭をとった駅前の不動産屋のオヤジは退院後他界したとか。ほら見ろ、いわんこっちゃない。
 この焼肉パーティ、看護婦さんは見て見ぬフリだったそうです。
 患者も患者なら、病院も病院、管理がずさんといわざるを得ません。

 しかしこの男のいうことは本当なのか、話を面白くするための誇張ではないのか。

 他にも聞いてみると、手首を骨折した例の「お調子者」は、
 「K病院のとき何度かきたことがあるけど、事務員が突っけんどんで感じ悪かった」

 さらに検査入院してきた地元のおじさん(70)は、
 「救急病院のくせに設備もなければ医師もいない。手術になると自前の救急車で他の病院に運んでた。近所の人はみんな知ってるよ。それにヤブだから、表から入っても出るときは裏口(ホトケ?)から、といってた」

 みんな異口同音にK病院のことはボロクソでした。
 ここまでいわれると、どうやら最悪の病院だったらしい。
I病院
 しかし今のI病院はまったく違います。
 事務員も、看護師も、療法士も、みんな感じのいい人ばかり。医師も優秀。

 例のヤクザ男もおどろいて、「看護婦の交代のときは必ず『今日担当の××です』とあいさつしにくるものな。前は考えられなかったよ」
 看護婦さんは大半が20代前半、新規採用ですが、医療技術や応接態度など、レベルはかなり高いと見ました。

 以上のことから推理すると、新しい施設への移転を機に、優秀な医師を引き抜き、病院運営のシステムからスタッフの応接態度に至るまで、「大改革」が行われたのではないか。

 「たしかに以前とはまるっきり違う。あんたのいう通り大改革が行われたんだねえ」
 これはK病院の時代から入退院をくり返し、今回は腰の骨を打って同じ病室に入ってきた年配の患者のことばです。

 このI病院、改めて外観をよく見ると、屋上なのに少し高い壁があり、小窓がついています。
 屋上は立ち入り禁止なのでよくわからないのですが、こちらの勝手な想像では、将来はドクター・ヘリの基地にする構想ではないか。
 そう思うと、「地域一の医療を目指す」というのも、うそではなさそうです。
 昨日も登場した向かいのヤクザ男。
 本当はヤクザではないのですが、若いころから空手をやっていたこともあってケンカが強く、風俗店の用心棒などをして世間を渡ってきました。病院内では(とりわけ看護婦さんには)愛想のいいオヤジでしたが、電話などで他の人間と話しているときはヤクザそのものでした。

 彼が若いころにいた風俗店は、偶然にも私が取材でよく行った店。私はそこの親玉(風俗界の大物)と親しかったので、それをいうと彼の態度がガラリと変わり、「兄貴分」扱いされるようになりました。
 こんな男に兄貴分扱いされても居心地はよくないのですが、機嫌を損ねられても困るので、適当に合わせました。

 彼は酒は飲まないけど、若いころからチョコレートばかり食べ、そのおかげで血糖値はどんどん上がり、40代後半から200~300、ひどいときは800(初めて聞いた!)もあったとか。そのため病院通いするようになり、7~8年前からは入退院をくり返すようになりました。

 私は糖尿病というものがよくわからず、「甘いものを摂ったために血糖値が上がったのなら、やめればいいじゃないか」と思ったのですが、そう単純な問題ではなく、急に血糖値が下がると危険な状態になるので、血糖値を上げるために甘いものが必要になるといいます。
 なんとも厄介な病気ですが、急に血糖値が下がったときの応急措置として、彼はグラニュー糖を溶かしたものを魔法瓶に入れてました。

 しかし入院するとそれは没収され、病院から処方されたブドウ糖を飲むように、との指示。
 「これじゃ利かないんだよ」とぼやいていました。
 食事は私と違って低カロリー食だったようです。

 しかしそれでも改善せず、「外科はいいよなあ。治るから」とぼやいてました。
 そして途中で退院。

 たしかに糖尿病は治りにくい病気だと思いますが、当人の心構えもあるのではないか。
 というのもこの仁、病院食だけでは足りず、売店で唐揚げや菓子パンなどを買っては寝る前に食べてました。缶コーヒーだって、私は無糖なのに、彼は甘いカフェ・ラテ。これじゃあなあ。
 糖尿病患者といえば、8月半ばごろから親しくなったS君(32)
 パチンコ屋の店員で、120㎏の巨漢。急に倒れ、病院に担ぎ込まれました。
 診断は低血糖による発作で、それまでの最高血糖値は1200! 医師もビックリしたほど。
 この彼も内科病棟が空いてないので、HCUのあと整形外科病棟に入ってきました。

 「今まで血糖値なんか計ったことなかったんすよ。計ってたら完全にアウト。食生活がメチャクチャでしたから」
 巨漢の割には人懐っこい性格で、ラウンジで談笑している我われ(私とコルセット三姉妹)に加わってきました。

 「病院のメシだけじゃ、とても足らないッすよ」
 そんなことをこぼしながらも低カロリー食に耐え、看護婦さんに教わって自分で血糖値を計り、インシュリンも自分で打てるようになって、血糖値も安定してきました。
 それだけではなく、「2週間で17㎏減量できた!」と大変なよろこびよう。

 「これからは病院の食事を参考にして、食生活に気をつけます」
 殊勝なことをいって、私と同じ8月31日に退院しました。

 ヤクザ男とS君、糖尿病患者としては対照的なふたりですが、いろいろ勉強になりました。
 

 最初の入浴は入院した日、つまり手術の前日です。
 このときは腕の自由が利かないため、着ていたシャツは看護婦さんにハサミで切ってもらいました。
 股間は左手を使って自分で洗いましたが、あとは看護婦さんに洗ってもらいました。


 手術後は右腕、左足の自由が利かないので、毎朝看護婦さんに身体を拭いてもらいました。
 ただし股間は専用のタオルで左手で拭きました。
 パジャマも毎日変えるので、患者の清潔さは保たれています。
 私にとってはそれでじゅうぶんでした。「風呂に入らなくても、別に死ぬわけじゃなし」


 入院してから17日目、看護婦さんに「入浴できますよ」といわれました。
 といってもまだ身体の自由が利かないので、看護婦さんに洗ってもらうことになります。
 ギプスで固定された左足には大きなビニール袋がかぶせられ、全裸姿でストレッチャーに横たわりました。
 洗ってくれるのはふだんお世話になっている看護婦さんのMさんとUさん。ともに20代前半のやさしい女性。彼女たちにしてみれば、男の裸など見慣れているので、どおってことはないのですが、こちらとしてはなんだか居心地が悪い。
 もちろん「ありがとう、ありがとう」と感謝しっぱなしでしたが……。


 終って向かいの糖尿病のヤクザ男にそのことをいうと、「勿体ない……」
 「そんな楽しいことないじゃないか。オレならスッポンポンになって、『ここも洗ってくれい』というのになあ」
 この男は風俗慣れしているから図々しく振舞えるのだろうけど、私のような小心者はとてもできない。


 これについて女性の療法士さんに聞いてみると、男性患者はなまじ恥ずかしがるよりも、洗ってもらうことを楽しんだほうが看護婦さんはやりやすいのではないか、とのこと。
 やっぱりなあ。


 ちなみに当病院には湯船の風呂はありません。おそらく危ないから。
 療養病院にいた患者によると、そこではストレッチャーに乗せられて、湯船にザブーンと浸けられる装置があったとのこと。(フライドポテトかッ)
 もっとも当病院には四方八方から霧が吹き出るミストサウナがあり、最高に気持ちがいいとか。ただし圧迫骨折患者のみということで、体験できなかった。残念。


 その後、何度か風呂に入りましたが、三角巾が取れ、ギプスが外されて、動けるようになるに連れて、看護婦さんの手助けはなくなり、終いにはシャワー室に入るとき年配の介護士のおばさんが外から監視するだけになりました。
 恥ずかしさはなくなったけど、なんだか味気ない。(勝手なものです)


 また何かの折、若い看護婦さんに洗ってもらうことになれば、それを楽しめるような図太さを持ちたいと思いますが、今後そんな機会があるかどうか。

 私の右腕には金具が入っています。
 レントゲン写真を見ると、肩口から肘にかけて約12㎝ほどの支柱が入っており、それがズレないように5~6ヶ所ボルトで留めてあります。
 「よくもまあ、こんなことをするものだ」
 現代医療の常識とはいえ、半ば呆れました。

 手術して数日後、右腕を三角巾で吊るし、さらにバストバンドを巻き、左足をギプスで固定した格好で車椅子移動していたとき、ラウンジで車椅子のお婆さんから声をかけられました。
 「この人はこんなひどい怪我をしているのに、にこにこしているよ。あやかりたいものだねえ」
 そういって私の身体をやたら触ってくる。(ジジイが女性にやったらセクハラだ)
 当時の私はにこにこというより、「笑うしかない」というヤケ笑いでした。

 このお婆さんは大腿骨骨折で、腿のところに金具が入っているそうです。
 「私も肩に長い金具が入っています」というと、
 「おやまあ、それはそれは。今の医学は非人間的な手術をやりますねえ」
 こちらは苦笑しながら、「そんなことはありません。これによって、今まで繋がらなかった骨も繋がるようになったのですから」
 いつの間にか現代医療を擁護していました。

 私の右肩に入れられた金属ですが、夜になるとジンジンと冷えてきます。冷房のせいです。
 これは手首を骨折したとなりの「お調子者」も同じ意見で、「冷えるよねえ」

 あるとき主治医が回診にきたとき、となりの仁が「冷えるんですけど」と訴えたところ、
 「気のせいだよ」と一蹴されてしまいました。

 (気のせいだよ、はないだろう)
 私としては憤懣やるかたない。そこで私のところへ主治医がやってきたとき、
 「疼くような痛みを覚えるんですけど」というと、
 「うーん、まあ、金属が入っているからね」
 渋々認めました。

 主治医としては「冷える」というのはわかっていると思います。
 ただし、「金具のおかげで骨が繋がるようになったんだ。贅沢いうな」という気持ちがあるのでは。
 私はむろん感謝しています。しかし冷えるものは冷える。
 それをわかっていただきたいのです。私も現代医療を擁護しているのですから。
 9階外科病棟の廊下では、歩行訓練の患者とよく行き交いました。
 早朝、杖をついて廊下をゆっくり往復していたおじさん。
 この人は都内の運送会社のドライバー。股関節に水が溜まり、それを抜いてもらって、その後はリハビリに励んでいました。
 話しかけると愛想よく、いろんなことを話してくれるのですが、「早く帰りたいよ」

 杖で散歩するご仁は他にもいて、肩にバストバンドを巻いて、跛行する年配のおじさん。
 足の長さが左右違うそうです。腕は車にぶつかり、骨折したとか。このご仁も「退屈だよ。早く帰りたい」
外科病棟の廊下
 腕を骨折して私のとなりに入院していたご仁が退院した後に入ってきた、これまた手首骨折の若者、5日で退院しました。むろん完治ではないので、リハビリ通院してましたが。
 やはり彼も早く退院したかったと見えます。

 一方女性患者。
 早朝になると、廊下をゆっくり往復するI子さん(62)
 ほっそりした人で、コルセットをしています。
 「みんなで太極拳していたら、舞台から落ちて圧迫骨折起こしたの」
 話好きでちょっぴりセクシー。
 何度も立ち話しているうちに仲良くなり、私のことを「お兄さん」と呼ぶようになりました。
 I子さんには妹分がいて、H子(52)、Y子(44)。いずれもコルセットをしているので、「コルセット三姉妹」と名づけました。 彼女たちとは今でも交流が続いています。 
廊下を歩くコルセット女性
 さらに……。 早朝の廊下を車椅子で行き来していたおばさん(50代後半)
 パジャマの上から腹部をコルセットでギュッと締めつけているため、上から大きな乳房が(外側に)ブラ~ンとはみ出して、目のやり場に困るのですが、当人はうれしそうに、「これまで寝てたんですけど、やっと車椅子のお許しが出たんですよ」
 この人は車に追突された圧迫骨折。
 (おばさんの乳房については、コルセット姉妹も「あれ、何とかならないのかしら」とヒソヒソ。同性も気になると見えます)

 ところがこのおばさん、一週間も経たないうちに廊下をスタスタ。
 「えッ、もう歩けるの?」と聞いたら、「そうなんです。先生方もビックリしてます」とにこにこ。
 巨乳のほうはいくらかカバーしてました。
早朝のラウンジ
 このおばさんも含めて、女性陣は社交的で、いつもラウンジに集まって談笑してました。
 男性患者は散発的に顔を見せるのですが、輪のなかに入って談笑するということはありません。
 男性陣は閉鎖的で、退屈をかこち、早く帰りたがっているのに対して、女性陣は入院生活を楽しんでいるように見えました。「帰りたい」なんておくびにも出さない。

 この違いは何だろう?
 その理由を知りたく、女性たちにいろいろ探りを入れてみました。
 そこでわかったのは……。
 「ここにいると、三度三度食事が出てくるからね」
 ある女性が笑いながら告白しました。
 他の人に聞いてみると、「そうそう、それにここの食事、意外に美味しいんだもの」
 どうやらこのあたりが本音のようです。
 女性は家にいれば食事をつくらなければならないけど、ここにいれば上げ膳据え膳。後片づけも不要。しかもラウンジに行けば仲間たちと楽しく談笑できる。まさにこの世の天国。
食事は好評
 もっともひとり暮らしの私にとっては女性と同じ心境。
 だから入院生活を楽しめたの……かな?

 昨日(09/23)は休日でもあり、暑くもなかったので、ちょっと遠出をして、川越まで行ってきました。
 久しぶりの川越です。

 左足がまだ自由にならない今の私にとって、1km歩くよりも8km自転車で走行するほうが容易であるという皮肉な状況。
 川越へ行ったのは、これまでとは違う景色が見えるのではないか、と思ったからです。

蔵造り一番街 行傳寺参道

 自転車を某公共施設の駐輪場に置いて、蔵造り通り一番街に出かけました。
 休日だからか、けっこうな人出。
 なぜか弓道女子の姿が目につきました。武道館で大きな大会が開かれたのでしょうか。
 川越の町並みにはよく合います。

弓道女子

 私の左足ですが、つま先で地面を蹴って右足を出そうとすると、足首にピリッと痛みが生じます。そのためつま先で蹴らずに右足を出すので、右足の歩幅が狭くなり、左足は引きずる格好に。誰が見ても跛行です。
 さらに歩数を重ねる(500歩ぐらい)と、左(外側)くるぶしに重力がかかり、猛烈に痛くなってきます。その痛みは、くるぶしが皮膚を突き破って飛び出すのではないかと思うほど。
 仕方なく床机に腰掛け、くるぶしの下の窪みを指でギューッと押す。こうすると痛みが少し緩和してきます。「しばらくはこの痛みとつき合うしかないのか」

 

 小江戸横丁にも入りました。ここにも弓道女子が。
 川越名物芋ソフトクリームを食べてました。その顔が可愛い。

 小江戸横丁 小江戸横丁にて

 川越名物といえばやっぱり芋ですね。
 しかし写真を撮るだけで、食べずに素通り。

名物・川護芋

 結果的に、「これまでと違う景色が見えるのではないか」という期待は外れ、これまでとはそれほど変わりのない光景。(修行が足りん?)

時の鐘

 帰りは「COOP高階店」でコーヒーを買ったけど、帰宅して歩数計を見たら、5417歩。
 これ、自転車のペダルを漕いでもカウントされるので、実際に歩いた歩数は不明。
 しかし足の痛さからすると、これまでの最高距離。
 本来ならこれぐらいなんてことないのですが、これが私の現状です。

 今日は何の日?
 秋分の日です。
 秋分の日は、昼の長さと夜の長さかほぼ同じになり、この日を境に昼がだんだん短くなっていきます。
 と同時にこの日は「テニスの日」
 これは平成10年(1998) 3月4日に設立された「日本テニス振興協議会」が9月23日の秋分の日をテニスの日と制定したものです。

 そこで今日は趣向を変えて、以前撮った横浜・山手の「テニス発祥記念館」の写真をアップします。

 テニスの原型は明治7年(1874)にイギリスで始まったローンテニスとされていますが、2年後にはそれが横浜に伝わり、山手公園の中にテニスコートが2面つくられました。
 そのためここには「テニス発祥記念碑」があります。
テニス発祥記念碑
 そして「テニス発祥記念館」
 同館は平成10年(1998)5月に建てられました。
 建物はバンガロー風の外観で木造2階建て。1階が展示室。
テニス発祥記念館
 展示室にはラケット以前の皮手袋、バンブーラケット、女子チャンピオンプレート、最も古いテニス道具一式など希少価値の高いものが数多く展示され、パネルによる日本のテニス文化も紹介されています。
最も古いテニス道具 ローンテニス発展期のラケット
 テニスをしている外国人たちをみた当時の人たちは、「毛唐の女が芋ざるで毬(まり)を打っている」といって珍しがったそうです。
初期の女性テニスウェア
 それでも明治末になって軟式テニスとして日本中に広まりました。
 横浜ではフェリス女学院や捜真女学校、横浜商業(Y校)などがテニスを始めました。硬式テニスは大正時代になって全国に広まり始めたとのこと。
ステンドグラス
 同館に行くのは、山手通りから「カトリック山手教会」の脇道を入り、アップダウンの激しい道を進むと山手公園(日本最初の西洋庭園)。同館はそのなかにあります。
山手公園
 この「テニス発祥記念館」も「山手西洋館マップ」に載っています。
 西洋館巡りの一環としてここを訪れるのも一興。他の西洋館同様、入場は無料です。
 入院当日(07/09)医師の診断で「左足のギプスが取れるまで6週間」といわれたとき、退院は8月20日と思い、(参照)思いのほかの長期戦に「ここをこの夏の避暑地と思えばいいのだ」と自分にいい聞かせました。(実際は8月いっぱいでしたが)

 こうなったら入院生活を楽しんでやろう。

 とはいえ、ひとり暮らしの私にとっては慣れない集団生活。上手くやっていけるのだろうか。
 最初に入った部屋(918)は南向きで、遠くに東京スカイツリーが見える絶好の見晴らし。
 景色は気に入ったのですが、斜め向かいのジジイが夜になると大声でわめく。
 これでは眠れないので、部屋を変えてもらいました。
 新しい部屋は北向きの913号室。向こうはふじみ野、その先は川越です。
病室(913)から見た景色
 向かいのオヤジは私より2歳下で、実は糖尿病患者。
 本来ならば内科病棟に入るところ、空きベッドがないため、整形外科病棟に入れられたらしい。
 ヤクザっぽい男でしたが、なぜか気に入られ、しょっちゅうバカ話をするようになりました。

 そのことを息子にメールで伝えると、息子からは、「同室の人と仲よくやってね」

 息子は、私がこれまで数人の友人と仲違いしたことを知っているので、「またトラブルを起こすのではないか」と心配している様子。
 友人との仲違いについては、私は「自分に非はない」と思っていますが、息子は「オヤジが気難しいから」と思い込んでいるようです。(息子からはまったく信用されてない)

 「郷に入りては郷に従え」
 私は向かいのヤクザ男同様カーテンを開けました。
 「患者にプライバシーはない」
 ただし尿瓶を使っての小用、着替え、身体拭き、ハードな自主トレのときは閉めました。

 その後、私のとなりにやってきたご仁はいきなり「ぼくはお調子者です」
 彼は秩父の登山中、足を滑らせたとき手のつきどころが悪く、腕がボキッと外側に折れ、「あッ、いかん」と思って元にもどした。それがよけいに悪く複雑骨折になったといいます。
 こんな悲惨な話を面白可笑しく語るこの男、単なる「お調子者」ではありません。
 彼もカーテンを開けたので、3人で一日中バカ話をして過しました。
 (なんだ、集団生活なんて大して難しくないじゃないか)
病室
 ただし斜め向かいの長身ヤサ男はカーテンを閉めっぱなし。
 外に出るときはコルセットをつけていたので、圧迫骨折だなと推察できましたが、見るからに陰気な表情、険しい目つきは人との交流を拒否していました。
 この人物とすれ違ったとき、こっちがあいさつをしても知らん顔。誰とも口を聞かないので、なにもわからない閉鎖的な人物でした。
 (彼にもいろいろ思うことはあるのだろう。この際そっとしておいてやろう)
 この彼とは結局なにも話さずじまいでした。

 集団生活をしていると、いろんな人物に接触します。
 同室の患者だけでなく、廊下で会う人、ラウンジで会う人……。
 私はいろんな人間と交流しましたが、なかには閉鎖的な人間もいます。
 それらを含めて集団生活が成り立っているのです。 私は断じて気難しい人間ではありません。
 手術して1週間後いきなりレントゲン室に連れて行かれ、手術した右肩の写真を撮られました。
 「うーん、ここだな」
 主治医は私の生身の肩と写真を見比べ、私の右脇の上にマジックインクで×印をつけました。
 「…………」
 いぶかしがる私に主治医は、
 「ここに超音波の機械を当てるんだよ。午後に業者の人がくるから、その説明を聞くように」

 超音波の機械?
 あわてて以前渡された「手術の説明書」を読みました。
 たしかに「手術後創部が落ち着いたら、骨癒合促進のためにセーフスという超音波の装置の使用を予定しています」とあります。
 これのことか。
超音波装置① 超音波装置②
 しかし、業者とは?
 ほどなくしてスーツ姿の方が病床にまできて超音波の装置を持ってきて説明を始めました。
 これを患部に取り付け、スイッチを入れると超音波が20分間作動する。
 やるのは1日1回(統計上、1日数回やっても効果は同じだそうです)。
 そしてこの機械はレンタルとのこと。
 レンタル? すると別料金?
 何か胡散臭い気がしたので、「これは強制ですか?」
 業者の方は苦笑しながら、「強制ではありませんが、やったほうが効果的だから主治医も勧めているわけで……」
 うーん、骨を造成するには、カルシウム、ビタミンC、運動、そして重力が必要であると聞いていました。「運動、重力というのは何らかの刺激。だったら超音波もその一環か」
 そう考えてこれを装着し、やってみました。
 痛くも痒くもない。
 したがって効果のほどはわからないのですが、1日1回早朝に行うことにしました。
 心なしか、肩が軽くなったような気がします。
 そこで足首の骨折部分にも使用しています。
足に超音波装置をつける
 これは骨への超音波ですが、別に筋肉への超音波治療もあり、リハビリのときに療法士さんからやられたことがあります。
 私は痛くなかったのですが、手首骨折の患者は「猛烈に痛かった」
 どうやら骨折箇所や骨折の具合によっても違うようです。

 この装置を当てる箇所に×印をつけるのですが、消えかかると看護婦さんがマジックインクで書き入れます。
 あるとき消えているのを主治医に見咎められ、「これを消さないようにするのが君たちの仕事だろう」と看護婦さんが叱責されていました。
 私は慌てて、「いや私はわかっているので、『書かなくていい』と書かせなかったのです」と釈明。看護婦さんが叱られるとは思わなかった。
足の創部に×印をつける
 この超音波装置、レンタルで期間は3ヵ月。10月半ばには返さねばならないのですが、それまでは目いっぱい使ってやろうと思います。
 前回(09/16)は食事について述べましたが、食べた以上排泄するのは自明の理。
 尾篭な話で恐縮ですが、この問題を避けて通るわけにはいきません。

 朝になると看護婦さんに昨日の排泄を聞かれるのですが、最初のころは「小が10回、大はゼロ」と答えるばかりでした。
 車椅子からトイレの便器への移動は自分でできるのですが、片手片足の自由が利かないため、看護婦さんの監視がつきました。小用のたびに監視では互いに面倒なので、尿瓶にしました。
 入院中はお茶や水、コーヒーをよく飲んでいたため、しょっちゅう尿意を催しました。
 私には軽度の前立腺肥大の傾向があったのですが、出もよく、ほとんど治りました。
尿瓶
 しかし大のほうは、入院して4日経っても出ない。(ふだんは毎日あるのに)
 原因は環境の変化(食事の違い、歩かなくなったこと……など)
 「変ねえ、腸は動いているのに」
 看護婦さんは聴診器を腹に当てて首を傾げました。
 腸は動いていても、出口で滞っているようです。
 5日目の就寝前、下剤を処方してもらいました。それでも出ない。
 そこで座薬を入れました。
 ここで私が恐れたのは、当人の許可なく便が出て、下着やシーツを汚すこと……断じてあってはならないことです。
 しかし実際はそんなことなく、40分ほどしてトイレへ行ったら、小さいのがパラパラと出ただけ。
車椅子用トイレ
 これでは埒が明かないので、次はいよいよ浣腸……ということになったのですが、薬剤師さんがきて、「毎食後、これを1錠飲んでください」
 白い錠剤……軟下剤(?)……でした。

 座薬でも効かなかったのに、こんなもので効くのか。
 半信半疑でしたが、毎食後飲んでみると、次の日から朝食後に(入院前と同じように)出るようになりました。
 排泄の悩みはこれで解決。
 いらい看護婦さんに聞かれると、「大が1回、小が10回」と答えるようになりました。
 (厳密にいえば、回数ではなく、その内容を聞くべきだと思うのですが)
 余談ですが、ギプスが外され、両足で立つ許可が出たとき、トイレでの看護婦さんの監視はなくなり、晴れて立小便ができるようになりました。
 そのことを女性の療法士さんに報告したところ、「それはよかったですね」といいながらも、「立ってすると汚れるから、うちでは夫に座ってさせてます」
 なんだ、女性にとってはあまり歓迎することではないのか。

 私はこのたび入院して、認識を新たにすることが多かったのですが、これもそのひとつ。
 えッ、末梢的? そりゃまあ、そうですが。
 昨日(09/17)は俳句会でした。
 私は会計をしているので、早めに会場に入りましたが、皆さんから「お帰りなさい」「退院おめでとう」と口々に声をかけられました。
 私のようなものをこんなにまで気にかけていただいて、ありがたいことです。
 会が始まる前に先生からもそれをいわれ、改めて症状の経過と感謝の意を皆さんに述べました。
* 
 さて選句ですが、
 ①リハビリの手を止め見入る遠花火……(0)〇
 ②退院し残暑に心身弱りけり……(0)〇
 ③残る日も急に忙しやセプテンバー……(0)
 (出句14名、選句はひとり5句。カッコ内は得票数)

 三句とも一票も入らない。気遣いと得票のあまりの落差。ずいぶんシビアじゃないか。
 (もっとも選句は句本位で選んでいるのですが)
 しかし先生は①②に〇をくれました。

 「①は状況がよくわかります。ただし遠くのものを『見入る』というのはちょっと違う。むしろ『見とれる』ということばにしたほうがよかったのでは」
 「②もよくわかる。病院は涼しいからね。いちばん暑いときを体験してないから、出たときに暑さに参るんでしょうな」
 「③ですが、私のようなものがいうのならともかく、まだ60代の人がいってはいかん」
 と先生がいうので、「これは『セプテンバー・ソング』の歌詞から自分の心情を述べたもので、残された日とは1年の9、10、11、12月のこと。人生の残された日という意味ではありません」と弁明。
 「だったら『忙しや』は違う。『忙しい』は12月になってから使うことばです」
 なるほど、そうなのか。
 ところで、最後になって例のK氏がみんなの前で「今回をもって辞めさせていただきます」
 「どうしてですか?」と聞かれて、K氏は、
 「今になって始まったことではないけど、私と先生は反りが合わない。このところの先生の句はひどすぎる。句になってない……」
 私が「Kさん、それは違う」といっても、「これは私の考えです」と、なおも続けようとしたので、世話役のI氏が「Kさん、そんな話はこの場でするべきではない」と打ち切らせました。

 先生の前でこんなこといわれては、私も慰留のしようがない。
 K氏としては「辞める」といっては慰留されるので、最もラディカルな方法をとった?
 あまりにも大人気ないやり方ですが、慰留し続けて彼を追い詰めた私にも責任があるのかもしれず、胸が痛みました。
 極めてあと味の悪い結末になりましたが、去るものは追わず、次回からはK氏抜きで続けるしかありません。
 入院中は暇だったこともあって、いくつか俳句を詠みました。
 8月になって、病室の窓から盆踊りが見えたので、
 ①太鼓聞く病室からの盆踊り
 ②もどかしや病室で見る盆踊り
 盆踊りの様子は俯瞰でしか見られない。
 音曲は聞こえ、楽しそうで、もっとそばに寄って見たいのに、そこまで行けないもどかしさを詠みました。
 週末になると、あちこちで花火大会が行われました。
 8月3日(土)の夜は南東に朝霞、戸田。北東に上尾の花火を一挙に見ることができました。
 ちょうど私の病室を出たところが東の突き当たりだったので、その窓から右(南)に左(北)に花火が上がり、それは壮観でした。
遠花火①
 この窓には手すりがあって、私はこれをリハビリに利用していましたが、このときばかりはリハビリも忘れて花火に見入りました。そこで、
 ③上がるごと音が後追ふ遠花火
 ④リハビリの手を止め見入る遠花火
 ⑤冥加かな病室で見る遠花火

 私のいる整形外科病棟は最上階の9階。周囲には高い建物がないので、見晴らしはすこぶるいいのです。よくぞここに入院したもの(ラッキー?)
 ⑤番の句にはそんな気持ちが込められています。

 そして退院してから読んだのが、
 ⑥退院し残る暑さに立ち眩む
 「立ち眩む」とは違うと思い、「気力失せ」、それも違うなと思い、
 ⑦退院し残暑に心身弱りけり

 そして⑧残る日も急に忙しやセプテンバー
遠花火②
 ちなみに盆踊り、花火はいずれも秋の季語。もっとも秋とは旧暦の7、8、9月をさします。
 したがって9月の句として外れてはいないのですが、盆踊りの句を外し、次の3句を選びました。

 ①リハビリの手を止め見入る遠花火
 ②退院し残暑に心身弱りけり
 ③残る日も急に忙しやセプテンバー


 これが9月の投句です。

 入院の楽しみはなんといっても食事。
 食事は朝08:00~、昼12:00~、夕18:00~に看護婦さんが病床まで運んできてくれます。

 朝はパン食。
 パンは薄切りが2枚。温めてあります。
 これがことのほか美味い。最初は近くのパン工場「K屋」(銀座本店の老舗)かE堂ではないかと思ったのですが、病院独自の全粒パンで無添加、日持ちしないそうです。

ある日の朝食


 まず牛乳。私はふだん牛乳単独では飲まないのですが、これは飲めました。
 パンにつけるものとして、ジャム、マーマレード、マーガリン、ピーナツクリーム……など、日によって違います。 パン2枚には少ない、と思われるかもしれませんが、 2品あるおかずの1品を1枚のパンにはさみ、もう1枚にはジャムなどをつけるという食べ方を、看護婦さんに教えてもらいました。「なるほど」
 この場合では、ジャガイモなどの野菜のトマト煮のほうをはさむ。
 いらい最後までこうしたやり方で食べるようになりました。

 あとになって気づいたのですが、となりの御仁は減塩パン。高血圧だからです。
 おかずも減塩食とのことでした。
 さらにお年寄りはパンではなく、ご飯でした。これは選択できるようです。


 昼はヤキソバ、うどん(釜揚げ?)もありますが、ほとんどご飯。
 メインのおかずと小鉢が2品。必ずフルーツがついています。

ある日の昼食

 夜も似ていますが、ご飯、みそ汁(澄まし汁のときもあり)
 メインのおかずと小鉢が1品。フルーツ。
 フルーツは、バナナ、マンゴー、パイナップル、オレンジ、プリンスメロン……が順ぐりに出されていました。

 私は毎日美味しくいただきました。これまで何回か入院体験がありますが、いちばん美味しいと思いました。
 ラウンジで親しくなった人たちと、食事について話したことがありますが、概ね好評でした。
 なかには「食事のよさで(当病院を)選んだ」という若い女性患者もいました。
 この女性は友人から「あそこのメシは美味いよ」と聞かされていたそうです。

ある日の夕食

 私は2ヵ月近く入院していたため、「この取り合わせは以前にもあった」と気づきました。1ヵ月ぐらいで同じメニューをくり返しているようです。
 それでもときどき「栄養士による食事に対するアンケート」があって、「味は濃い薄い」「おかずの適温」「ご飯の量」など細かく聞かれました。(私はご飯の量・多い・に〇)
 今後の参考にするそうです。

 これらの食事は一様ではなく、高血圧、高血糖、お年寄り、手術直後の患者、圧迫骨折で寝たきりの患者になどに対応して、きめ細かい配慮がなされていました。
 これで食事代は一食260円。頭が下がります。

 今回の入院で、私は無意識状態を体験しました。それは手術時の全身麻酔です。
 どういうものかというと、鼻と口に大きなマスクをあてがわれ、深く息を吸い込み、ベンゼン系の揮発性のガスを吸い込んでいるうちに意識がなくなりました。
 気がついたら手術は終ったあと。肩の傷口は縫われ、金属の棒が入っている。
 その間私は無意識状態だったわけです。

 これは睡眠とはまったく違うもの。
 睡眠ならどんなに熟睡していても、騒音で目が覚めます。実際私は入院当初同室のジジイのわめき声で目を覚まされました。また地震の揺れで目を覚まされたこともあります。
 睡眠といっても五感は働いており、外からの刺激を感知するのです。

 ところが無意識状態というのは、五感はまったく働いてない。
 肩の皮と肉をざっくり切られ、骨を出されてその内部に金属の支柱を入れられ、数ヵ所ボルトで固定され、それを元にもどされ、傷口を縫い合わされる……想像するだけでも大変な痛みです。
 しかし私はこれをまったく感じてないのです。

 これは端的にいえば、仮死状態。もっといえば脳死ではないのか?
病室からの光景
 泉鏡花の小説に「外科室」という作品があります。
 これはある高貴な夫人が手術の際、麻酔をかけられたら、自分の秘密をうわごとで喋ることを恐れて麻酔を拒否。主治医も(わけありで)麻酔なしで執刀。夫人は痛みのあまり絶命するという内容ですが、こんなことは、あり得ません。
 全身麻酔なら、意識がないので秘密など口走るわけがない。だいいち喉の筋肉が動かないのだから、うわごとなど喋れない。執刀医ならそれぐらいのことはわかっていて、夫人に説得するはす。
 というわけで、この小説はすべてうそっぱちであることがわかりました。

 さらにいうと、無意識状態とは死である。

 よく交通事故などで「意識不明の重体」などと、意識のある、なしを問題にしますが、「意識がない」というのは半分死んだも同然ということなのです。

 無意識状態では何もわからない。つまり思考もないわけです。
 デカルトの「我思う、故に我あり」でいえば、「私」は存在していないことになります。
 つまり「私」は完全に死んでいる。
 
 麻酔が覚めて、私は無事生還しましたが、これがもしもどらなかったら……。
 心臓は動き、呼吸はしていても、意識がなければ死んだも同じ。
 意識がもどる可能性のない「脳死」なら、それは人の死である。
 もし私がそうなったら、徒な延命措置はやめてもらいたい、と思うようになりました。
 それから10日経ち、月が変わって俳句会の人たち4人が私の病床を訪れました。
 男性はK氏、あとは女性(会長も)です。

 「このたびはまあ、大変なことになって……」
 「いやあ、なんの。ここがこの夏の避暑地だと思ってますから」
 「京一郎さんは考えることが前向きね」
 最初はこんな会話からはじまりましたが、そのうちK氏と女性のひとりが先生の批判をはじめました。

 「このところの先生の句はひどすぎる」
 「そう、たしかに落ちているわね……」

 ちょっといい気になってるなと思いましたが、いわせておきました。どうせ陰口しかいえないのだし、いうことで溜飲が下がるのだから。会長は黙っていましたが、多分私と同意見だったと思います。

 ただし彼らのいうことには一理あります。
 このところ主宰の衰えが目につきます。しかし私としては首をすげ替えるのは忍びない。
 K氏は俳句に関しては、我われより断トツのレベルです。
 しかし俳句だけではなく、人間洞察の観点からすれば主宰のほうが懐が深いように思います。

 主宰は私には辛く、「スケートやひそかに願う転ぶギャル」は「悪趣味です」とボロクソ。
 一方「打ち明けて足取り軽し春の宵」は最高得票を得たものの、こちらとは違う解釈されたので釈然としなかったところを、先生は「人生の色気を感じさせる一句」と私の意図を正しく理解してくれ、◎をくれました。(参照
 人間は「自分を正しく理解してくれる人がひとりでもいる」と思うと、それを励みに生きられるのです。
 K氏とは仲良くしたいとは思いますが、私の唯一の理解者である主宰に去られるのも困る、まさに板ばさみ状態です。
 それから10日ほど経って、「Cさんという女性の方が面会にお見えです」といわれ、車椅子でラウンジに向かいました。
 彼女は私より10歳ぐらい年上、ほっそりして昔は美人であったことがうかがえます。
 俳句にワーズワースの詩や聖書のことばも取り入れる元文学少女(?)。私がひそかに憧れていた女性です。もう、天にも昇る気分。

 「もうかなりよくなったのですか」
 「ええ、三角巾も取れ、今日からギプスも取れました」
 「まあ、それはよかったこと」
 話しぶりも上品です。
 「入院してると時間をもて余すでしょうから、これでもお読みになって……」
 洋菓子の紙袋に俳句の雑誌が入ってました。同時にそこのクッキーも。
 「あ、これは……」
 丁重にお礼をいいました。

 話題は俳句のことになり、さらに6月の横浜散策のこと。
 「横浜は楽しかったわね。あんなに西洋館があったなんて。また、楽しいこと企画してくださいね」
 そういえば横浜散策のあと、封書で礼状がきたのはこの人だけ。

 「ご無理なさらず、治療してくださいね」
 「ありがとうございます。9月には必ず出席します」
 エレベーターのところで別れました。
 心のなかに一陣の爽やかな風が吹き抜けた気分でした。
 8月の俳句会はお休みですが、私にとってはこれが俳句会です。
 壮絶な(?)バトルもありましたが、私はつくづく人間関係に恵まれていると思いました。
 句会が終ってから数日後、面会時間でもないのに、ひとりの老人がひょっこり私の病床を訪れました。主宰の先生です。
 あわてて居住まいを正しました。
 「今ね、レントゲン検査してきて、そのついでに寄ったんだよ」
 そして「どうやら肺に転移しているようだ」としんみり。
 癌の転移です。こっちも少しテンションが下がりました。

 「先生は煙草を吸ってたのですか」
 「うん、10年ほど前はね。1日2箱以上スパスパ吸ってたよ。編集者時代はもっとひどかった。煙がもうもうと立ち込めるなかで仕事やってたもんな」
 先生がS社の編集部にいたことは、以前聞いたことがあります。
 私はマイナーな出版社ですが、ともに雑誌の編集に携わった身、すっかり編集者談議に花が咲きました。
 「先生も仕事が終ったら麻雀してた口ですか」
 「そう、よくやったよ。編集者と博打は切っても切れない関係だよ」
 最後は「編集者時代は楽しかったなあ」
 すっかり気分をよくして帰られました。
 それから30分ほどして、看護婦さんから「Kさんという方がお見えです」
 K氏は70代半ば、わが句会のエースです。
 7月の句会で「今度こそ辞める」といっていたと経理の前任者から聞きました。彼は一年前にも同じことをいっており、私に強く慰留されて撤回しました。(参照
 またか、と思い、病院から暑中見舞いを出し、「辞めるのは私が許しません」と書き添えました。

 「京一郎さんはそういうけどね。私はもう先生の老醜ぶりが我慢ならんのだよ」
 先生とは先ほど私を見舞ってくれた御仁です。(よくハチ合わせしなかったもの)
 彼が以前からいっているのは、先生の句力が落ちている、もう見るに忍びない、というもの。
 「前回なんか、自分の病状を縷々説明してたでしょ。主宰たるものがいうことではない」
 「我われの句会はローカルのささやかなもの。先生が病状を説明したっていいじゃない」
 こちらも反論しました。(怪我を忘れて)かなり激しいバトルになりました。
この姿で激しい口論を  
 「いや。俳句会の主宰というのは、そんな弱みを見せてはいけない。それに前回の先生の句はなんです。あまりの体たらくだ」
 そういって、ひとつひとつあげつらい、コキおろしました。
 「それは私にもわかります。しかし先生のことより、我われのほうを向いてください。今Kさんに辞められると、我われは低レベルの烏合の衆だ」
 こういうと彼はことばに窮しました。(ここが彼のウィークポイントです)
 私は(辞めそうになっていた)彼を引き止めるために、6月には横浜散策に誘ったりして、どんなに心を砕いたことか。

 このあと話題が横浜のことになり、「あれは楽しかったな」
 険悪なムードはいく分和らぎました。
 そのうち話題が今月の句会の話になり、
 「京一郎さんの句だけど、今イチ推敲が足りない。①『引っ越して裏庭の百合置き去りに』は意味がよくわからない。玉葱は夏の季語だけど、②「明日カレー炒め玉葱つくりし夜」のような使い方をすると、季語にならない。このなかでは「③蓮開く朝一番の冥加かな」がいちばんいいけど、(朝)一番というのはよけいだな。蓮が開くのは早朝に決まっているから」
 あれほど激しく議論し合ったにもかかわらず、俳句を教えてくれる、なんと奇特な人物か。

 それでも別れ際、「みなさんとはもう会うこともないでしょう」「認めないからね」
 またやり合いました
 病室は終始静まり返っていました。他の患者たちはなんと思ったか、知る由もありません。
 主宰とK氏、私にとってはかけがえのない人物です。
 K氏に対しては、「主宰と仲良くしろ」とはいいませんが、とにかく出席してほしい、そう願わずにはいられませんでした。
 七月の俳句は投句したものの、7月9日から骨折で入院したため、当月の句会には出られなくなりました。
 しかし私には会計の役目があります。
 そこで会計の帳簿など(現金も)を息子に頼んで自宅から病室へ持ってきてもらい、手術の翌日、普段から親しくしているI氏にそれを取りにきてもらって、句会当日、前任者(女性)に渡してくれるように頼みました。同時に前任者と会長(女性)にも連絡しました。

 「このたびは大変だったね」
 I氏は2日後きてくれました。
 彼は面倒見がよく、気をつかう人なので、「見舞いではなく、こちらの用事で頼むのですから、よけいな気遣いは不要です。それでも、というなら水でけっこう」
 そういったのですが、彼が持ってきたのは2ℓのペットボトルを3本。
 こっちは500mℓの水一本でじゅうぶんだったのに。
 「あっても困らないでしょ。そんなに高いものじゃないし」
 それでもやっぱり恐縮します。

 というわけで、七月の俳句会は欠席。I氏には、左足をギプス、右肩バストバンドで巻いた私の惨状をありのままみんなに伝えてもらいました。

 数日後、清記者の方から私に封書が送られてきました。
 今月の投句の一覧表です。票数と先生の評価も記されています。

 それによると、
 ①引っ越して裏庭の百合置き去りに……(1)
 ②明日カレー炒め玉葱つくりし夜……(0)
 ③蓮開く朝一番の冥加かな……(4)〇
 (出句14名、選句はひとり5句。カッコ内は得票数)

 全員の俳句の一覧表と、各句の票数、先生の〇、△の評価だけなので、詳しいことはわかりません。それでも自分の句がどれぐらいのランクにあるのかはわかります。

 このなかで票をとったのは③「蓮開く朝一番の冥加かな」
 ②「明日カレー炒め玉葱つくりし夜」のほうが主婦の共感を得るのではないかと思ったのですが、一票も入らず。意外でした。
2013.09.11 七月の出句
 今となれば2ヵ月前になりますが、この月は思いつくままに多くの俳句をつくりました。

 ①故郷の裏庭の百合置き去りに→引っ越して裏庭の百合置き去りに
 若かりし日、故郷への未練を断ち切って上京してきた心境を詠みましたが、故郷にとらわれず、人との別れを詠んだつもりです。

 ②梅の酒甘さが短所とリカー足し→リカー足し甘さ抑えし梅酒かな
 昔は梅酒をよくつくりました。また人からもよくもらいました。
 ところが人にもらった梅酒は、オン・ザ・ロックにしてもやたら甘い。
 いくら梅酒は身体にいいといっても、こんなに甘くてはいいわけがない。
 そこでもらった梅酒に約4倍の焼酎(乙類)を注ぎ足して、「梅酒」を再生産しました。
 こうすれば甘さはかなり抑えられます。しかも甲類と違って「吉四六」「いいちこ」など天然の焼酎だから、美味いのなんのって。
 「次はなんで割ろう」という楽しみもあります。

 ③明日カレー炒め玉葱つくりし日→明日カレー炒め玉葱つくりし夜
 玉葱を細かく刻み、こげ茶色になるまで炒める。
 これがカレーの基本ですが、いちばん面倒な工程でもあります。夕方からつくり始めてやっと夜でき上がった。「明日はいよいよカレーをつくるぞ」という決意を込めた句です。

 ④茄子炒めテカリ求めて油足す
 ⑤暑苦し傍に寄るなと妻が言ひ→暑苦し寄るなと言はれる年になり
 ⑥紫陽花や色は褪めてもまだ主役
 ⑦庭園のブルーシートも紫陽花に
 ⑧蓮開く朝一番の褒美かな→蓮開く朝一番の冥加かな
 蓮は朝早く咲く花。昨年は伊佐沼(川越市)の蓮を見に、朝早く自転車を飛ばして行ってきました。おかげで一面の蓮を見ることができました。
 「褒美」では自分を甘やかしている感じだったので、「利益」(りやく)も考えましたが、結局「冥加」にしました。
伊佐沼の蓮 
 このなかから太字の五句を選び、さらにふるい落として、次の三句が残りました。

 ①引っ越して裏庭の百合置き去りに
 ②明日カレー炒め玉葱つくりし夜
 ③蓮開く朝一番の冥加かな


 この三句を投句しました。
 観音崎のビジターセンターで浦賀への道を聞くと、バス停を教えてくれました。
 「いえ、バスではなく、歩く道です。馬堀海岸から歩いてきてますから、今さらバスなど……」
 そういうと職員の方は呆れたような顔をし、次に気の毒そうな顔をして、「かなりありますよ」
 それでも親切に教えてくれました。(なんだ、あの気の毒そうな顔は)
 しかし歩いてみると、その意味がわかりました。「これは容易ではない」
横須賀海岸通り
 脇をトラックが通り抜けるなか、観音崎公園から海岸沿いの道を歩きます。蒸し暑い。鴨居漁港を通過し、かもめ団地を通り、ヨットハーバーを通り抜けて、開けた入江に着きました。「浦賀だ!」
 約40分かかりました。
浦賀東岸
 浦賀はペリー来航の港で、細長い入江になっています。
 着いたところは東岸。すぐ向こうに対岸(西岸)が見えます。実は西岸のほうが見どころが多いのですが、そこへ渡るには……。
 渡し舟があるのです。これは江戸時代から住民の生活路として利用されていました。
 当時は船頭さんが漕いでましたが、今はポンポン船と呼ばれる動力船(愛宕丸)。
渡し舟乗り場 舟の内部
 これに乗りたかったので、路地裏で植木に水をやっていたおばあさんにたずねると、
 「ああ、それはこっちだよ」
 わざわざ案内してくれました。
 渡し場には舟が停まっていて、私が乗るとすぐに出航。客は私ひとり。(乗船料150円)
 3分ほどで対岸に着きました。
 対岸には私のような旅行客が待っていて、私と入れ替わりに乗り込むと、すぐに出航。
 これではとても採算が合わないけど、これが浦賀観光の目玉、心配することではないらしい。
舟から見た対岸 客がひとりでも運航する
 西岸には愛宕山公園や陸軍桟橋など、見どころがあります。
 愛宕山公園は浦賀園とも呼ばれ、横須賀でいちばん古い公園。咸臨丸の出航の碑もあるとのことで上りましたが、労多くして益少なし(?)。それほどのところではなかった。
愛宕山から見た海
 むしろ面白かったのは陸軍桟橋。
 これは昭和10年代にできたL字型の桟橋で、「太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が数10万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である」と説明されています。
陸軍桟橋
 ここでドボンドボンと元気よく飛び込んでいる少年たちに会いました。
 「寒くないの」と聞くと、「全然寒くない。おじさんも飛び込む? いい気持ちだよ」
 この私が? まさか……。
 でも人懐っこい少年たちです。仲間扱いされてうれしかった。
 最後はポーズまでとってくれました。
 魚釣りをしている小学生。シーバスが釣れるそうです。
元気な少年たち カメラに向かってポーズ
 このあと入江の喉元まで行こうとしたのですが、ドック(船の修理工場)があるために見えず。
 入江の性格上、ドックに利用されるのは当然ですが、景観的には喉元がいちばんいいのに。(平潟湾の喉元に枇杷島があるのが好例)
魚釣りに興じる少年たち
 仕方がない。浦賀は景観よりも造船業を優先したんだから。
 ちょっぴり残念ですが、少年たちとも仲良くなったし、これはこれで楽しかった。
 これが今年の夏前半の思い出になりました。
 (→07/08の記事から続きます)
 馬堀海岸から約1時間40分かかって観音崎公園へ。「これでやっと半分か」
 観音崎の由来は天平13年(741)、行基がこの地の海食洞に住む大蛇を退治して十一面観音(船守観音)を祀ったとされています。

 この地は東京湾に突き出ていて、対岸の千葉(富津)にも近い(約7km)。東京湾の入口で最も狭隘なところ。しかも急峻な高台になっています。
 そのためここは昔から軍事上の要所になっており、至るところにその痕跡が残っています。

 「ここへきたら、まずは観音埼灯台だろう」(地名は観音崎ですが、灯台のみ「埼」と表記)
 ということで、権現堂を通り過ぎ、灯台の上り口へ。
 しかしこれが意外に難関。灯台というのは高いところに建てられるもので、険しい石段を上ります。これが馬堀海岸から歩いてきた身にとっては過酷なこと。
権現洞 灯台への登り道
 「やっと着いた」
 石段を上りきったとき、目の前にそびえ立った灯台の姿。意外に小さく見えましたが、気品があります。同灯台は明治2年(1869)に建てられた日本最初の洋式灯台ですが、これは三代目。
観音埼灯台
 早速なかに入りました。(参観寄付金200円)
 灯台内の螺旋階段を上ると、ほどなくして屋上に着きました。
 「ヒエーッ、こわいよう」
 外のデッキが滅茶苦茶狭い。そのため写真を撮る余裕もない。
 やっと撮ったのがこの2枚です。
灯台からの眺め① 灯台からの眺め②
 灯台をあとにして、露出した地層や、明治時代の軍事施設「北門第一砲台跡」を通りました。さらに素掘りのトンネルに寄って展望園地まで、見どころ満載。
 本当は横須賀市の海が描かれた「横須賀美術館」にも行きたかったのですが、灯台が第一目標だったため、割愛しました。
地層が見える通路 北門第一砲台跡 素掘りのトンネル
 海の見晴らし台から海をみると、これまた絶景。
 このあたり一帯は幕末いらい軍事上の要塞になっていたので開発が遅れました。そのため東京湾唯一の岩礁海岸と照葉樹の豊かな森がそっくり残されました。軍事施設の皮肉です。
見晴台からの眺め 海岸沿いの道
 この海岸に自然と人との関わりを展示した「観音崎自然博物館」があり、その近くにはゴジラの足跡があるとのこと。これは映画で、ゴジラが日本に上陸したのが観音崎だったとか。
 バカバカしいとは思いつつ、散歩していたおじさんに聞くと、「ここですよ」
 なーるほど、でかい足跡が……。って、本当かよ。
 おじさんはニヤッと笑って立ち去りました。どうやらここも同公園の「名所」になっているらしい。 (これは横須賀流の洒落?)
ゴジラ上陸の足跡
 その観音崎公園をあとにして海岸線を一路浦賀へ。
 旅はまだまだ続きます。
 09/02から09/07まで、骨折事故で入院することになった経緯を述べてきましたが、それについてはひとまず区切り、今日の写真は昨日の花火大会の模様。

 この花火大会は私にとっては4回目。
 会場となる庁舎前の運動公園には屋台が並び、ステージではバンド演奏や太鼓の競演などが繰り広げられ、恒例の盆踊りのあと、2000発の花火が打ち上げられます。
 2年前は会場まで行って見ましたが、立錐の余地もないほどの混み具合。(例年約43,000人の人出だとか)
 ということで、昨年は近所の空き地から見ました。
花火①
 実は入院中、この花火大会のことが話題になっていました。
 私たちの病棟は最上階の9階にあり、見晴らし抜群。南側の病室からだとすぐ近くで見られます。
 しかし私の本心は「それまでには退院したい」

 それかあらぬか、完治とはいえないまま退院したわけですが、まだ残っている仲間(女性)から、「きなさいよ。一緒に見ようよ」と誘われていました。
 患者同士のよしみから一瞬「それもいいかな」と思ったのですが、遠慮しました。
 夜遅くなって暗い夜道を自転車で帰るのは、まだおぼつかないから。
 結局、去年と同じ近所の空き地から花火を見て、彼女にメールを送りました。
 「今、見てるよ。きれいだね」
 彼女も病室から見ていたとのことで、
 「すぐ近くだったので感激した。面会にきた人も時間(夜8時)オーバーしても残っていたし、看護婦さんも見てた」 との返メール。
 この日ばかりは粋な計らいがなされたようです。
花火②
 入院体験に関しては書くことはたくさんありますが、そればかりでは単調になるし、他にも書きたいことがあります。
 例えば2か月前に中断した横須賀ウォーキング。さらに俳句、退院してからのことなど、リアルタイムの事象にも反応したい。

 というわけで、明日からは従来の形にもどし、「入院記」に関しては随時入れていくつもりです。
 今後ともよろしくお願いします。
 手術の翌日、午前中のF療法士のリハビリを受けたあと、ベッドのまま病室にもどされました。
 整形外科病棟は最上階の9階にあり、私の部屋は南側の918号室、4人部屋です。
 私のベッドは窓側にあるため、寝ながらでも外の景色が見えます。
 9階で、周囲は何もないので見晴らしはいい。畑の先に見えるのは埼玉県の志木、朝霞、新座の各市、さらにその先は都心。遠くで、ひときわ高い細い塔は……東京スカイツリーです。
 「病室からスカイツリーが見えるとは思わなかった」
 すっかり気に入ってしまいました。
病室から見た景色(南側)
 景色を眺めることがこんな素晴しいとは……。
 いらい何度となく遠くを見るようになりました。今さら都心に未練はないのに。
 「何見てるの?」
 看護婦さんに聞かれ、これがペペル・モコの心境か、と。
 ペペル・モコとはフランス映画「望郷」(1937)の主人公。ジャン・ギャバンが好演でした。

 病室内の、私のとなり(のベッド)は空いていて、向かいは暴走族らしい青年。オートバイで骨折事故でも起こしたのか。
 上下黒のジャージー姿の太った女の子がしょっちゅうきていました。
 「あれ、彼女?」
 看護婦さんに聞かれて、青年は「うん」
 意外に物静かなカップルでした。
 もっとこの青年は昼間ほとんどベッドにおらず、ラウンジですごしていたようです。
病室のベッド
 斜め向かいは痩せこけて目つきの悪いジイサン。
 膝の骨折とのことでしたが、それだけではなく鼻に管を入れています。聞くところによると、肺の疾患らしい。
 しかしこのジイサン、夜になると大声でわめく。
 この人物については別のところで述べますが、コイツに安眠を妨害されて、のちに北側の913号室に移動することになります。

 私は左足をギプスで固定され、右腕を三角巾で吊るし、さらに動かないようにバストバンドで固定されました。
 そのためほとんど寝たきりで、リハビリとトイレ(大)のときだけ車椅子で移動します。(小は尿瓶ですませ、看護婦さんに捨ててもらいました)
 トイレの便器には自力で移れるのですが、片手片足が不自由なため、看護婦さんの監視つき。
左足のギプスと右肩のバストバンド
 自分のこんな姿を、洗面所の鏡で見たとき、
 「はははは」
 あまりの情けなさに笑うしかありませんでした。
 こうして54日間という長い入院生活がはじまりました。
 朝になって(07/11)「朝食ですよ」と看護婦さんにベッドを起こされました。
 その途端「うッ」
 管が通されている尿道に重力がかかったため、鈍痛が走ったのです。
 食事は牛乳と、おかずが2品、おにぎりが2個。
 これまで牛乳はそのままでは飲まなかったのですが、意外に美味しい。
 考えてみたら、入院した日(07/09)の夕食以来なにも食べてない。そのせいか全部いただきました。けっこう美味しかった。

 それにしても尿道に通された管があまりに不快なので、看護婦さんにいいました。
 「痛いので管を抜いてください。オシッコなら尿瓶でやります」
 痛いといわれては看護婦さんも仕方なく(医師の許可もあった?)抜いてくれました。
 ただしこのとき残っていた尿が看護婦さんの手にかかったのが申しわけなかった。
外科病棟の廊下
 これで「やれやれ」と思ったのもつかの間、「リハビリです」
 見ると若くてきれいなおネエさん。涼やかな目が笑っています。
 今の医療は手術直後からリハビリを行うそうで、右腕への入念なマッサージのあと、いきなり肘の曲げ伸ばし。それも相手の抵抗つきなので、こちらも力を入れる必要があります。
 「辻さんは何か運動されてたんですか」
 「運動というほどではないけど、自己流の筋トレを少々」
 「やっぱりね。反応が違います」
 これはこっちの気分をよくさせるためのお世辞も入っている?
 ともあれ、このひとが私の担当になる作業療法士のFさん(27)。

 私の負傷は左足もあるので、午後は男性のI理学療法士(30代後半)に3階のリハビリ室で施術されました。
 これは左足を動かせないので、衰えがちな下半身の機能を維持していこうというもの。
 左足を伸ばしたまま上げたり、横に広げたり。
 「リハビリは痛くて辛い」と聞かされていましたが、そういうことは一切なかった。
 もっとも最初から痛いことをすると、患者としてはやる気がなくなるので、そういうことはしませんが。

 このI療法士も背が高く、キリッとしたいい男。
 そのため「この病院は患者のモチベーションを上げるため、療法士には美男美女を揃えているのではないか」と思ったほど。

 ともあれ、このリハビリ室、広くて平行棒やルームランナー、エアロバイクなど種々の器具が置かれ、いろんな症状の患者がリハビリに励んでいる。
 その姿を見ていると、「こっちもやらねば」という気になります。
 またこちらも見られているので、いい加減なことはできません。
 この午前と午後のリハビリが、入院生活の楽しみになりました。

 翌日(07/10)午前9時すぎ。
 息子夫婦に見送られ、ベッドのまま運ばれました。9階からエレベーターで2階。こちらからは天井しか見えませんが、廊下を抜け、次々とドアが開かれ、奥へ奥へと進んで行くのがわかります。その突き当りが手術室。
 大勢の看護婦さんの顔が見えます。挨拶されましたが、こちらは頷くのみ。

 「大きく息を吸って」
 看護婦さんにいわれ、深く息を吸い込むと鼻と口に大きなマスクをあてがわれました。
 これはベンゼン系の揮発性のガスだな、ということは「シンナー遊び」をやっているのか……。
 そんなことを考えているうちに、意識が遠のきました。

I病院全景


 どれくらい経ったのか。
 頭上で看護婦さんたちの話し声が聞こえました。ショッピングの話をしているようです。
 関係ない話しやがって……。
 しばらくして「目が覚められましたか」
 執刀医に呼びかけられました。手術は終ったようです。


 その後息子とも話しました。私のいるのは手術室ではなく、HCU(急性期医療室)とのこと。
 肩がズキッと痛む。その痛さは転落した夜のものとは違う。
 しかも、いつの間にか金属の棒が入れられている。
 手術が終った安心感はありますが、鋭い痛みです。(これが麻酔が覚めたときの痛みか)
 我慢できなくもなかったのですが、座薬を入れてもらったら、痛みはかなり軽減しました。


 これでぐっすり眠れるかと思ったのですが、どうも落ち着かない。
 なんだか熱い。これは身体が冷えないように電気毛布を掛けられていたようで、それを訴えるとスイッチを切ってくれました。
 それでも熱い。体温を測ると39℃。そこで看護婦さんに頭を冷やす枕を入れてもらいました。


 さらに……。
 左腕には血圧計のベルトが巻かれ、これが断続的に締めつけてきます。そして右足にはバルーン(風船)がくくりつけられ、断続的に膨らんでくる。これは「エコノミック症候群」の予防だそうです。
 この両者が間断なくこちらを攻めつけてくる。左腕をギューッと締めつけられたと思ったら、今度はバルーンがブィーン。忙しない。
 かてて加えて点滴か入っているものだから、絶えず尿意があります。ただし尿道のなかまで管を通されて、そのまま排尿できるのですが、これがたまらなく不快。我慢するわけにもいかず、チビチビと出ているようですが、一向にスッキリ感がない。


 それらのことが気になって、熟睡できずひと晩中うつらうつら。
 こうして夜が明けました。

 I病院の救急室に入りました。
 救助隊員から報告を受けた初老の医師は、私からも事情を聞いて確認すると、
 「早速レントゲン写真を撮ります」

 右肩と左足首を、角度を変えて何度も写真を撮られました。
 そしして初老の医師との面談。

 医師はレントゲン写真を見せて、「左足首は粉砕骨折。右肩は上腕部が4~5ヶ所剥離骨折。明日手術。即入院だよ」
 エーッ、骨折だったのか。
 これまで私には骨折の体験はなく、人の骨折話にも「自分には無関係」と思っていました。
 これは骨折の痛さだったのか。
I病院の救急室入口
 救急室からそのまま車椅子で運ばれ、着いたところは9階の整形外科病棟の4人部屋の窓側のベッド。右腕は三角巾とバストバンドで固定され、左足は脹脛から踵、足裏を固定する簡易ギプスで固定されてしまいました。
 「明日の手術の説明をしますので、家族の方を呼んでください」
 看護婦さんにそういわれ、やむなく都内に住む息子に連絡。
 息子は少しおどろいた様子でしたが、動じることもなく、夕方にきてくれました。

 息子とふたりで受けた主治医の説明によると、右上腕骨は剥離した部分をつなぐため、骨の内側に金属の支柱を入れ、ズレないように数ヶ所ボルトで固定する。手術は全身麻酔。
 左足首粉砕骨折に関しては骨片が小さいのでギプスで固定し、自然に骨がくっつくのを待つというもの(6週間)。

 6週間というと、退院は8月20日。
 えッ、そんなに長くかかるの? こっちは10日ぐらいで出られるかと思ったのに。
 それに対して息子は、「なにいってんの。これは大変な怪我だよ。肩に関しては20日でも完治しないって」
 うーん。

 そのとき初めてことの重大さに気がつきました。
 そうか梯子段から落ちたとき、とっさに右手で手すりをつかんだため、瞬間的に全体重が右腕にかかり、バキバキッと折れたのだ。
 しかし、もし手すりをつかまなかったら、別の落ち方……もんどり打って真っ逆さまに落ち、後頭部を床に叩きつけていた、かもしれない。 
 そうなれば命はない。たとえ助かったとしても、延髄を折って下半身不随に……。
 そう思うとぞっとします。。

 むしろこの程度の怪我ですんでよかったのだ。
 そう思うことにしました。
 翌朝(07/09)になっても右腕は動かせず、相変わらず痛い。
 これは梯子段から落ちたとき、とっさに右手で手すりをつかんだため、瞬間的に全体重が右腕にかかったと思われます。脱臼とはこんなに痛いものなのか。

 左足首は歩くとズキッと痛む。したがって左手をテーブルについて、左足に体重がかからないようにしましまた。
 このような負傷事故だと接骨医だろうけど、これではタクシーにも乗れない。
 そこで救急車を呼ぶことにしました。
 近所の人に見られたらカッコ悪いけど、この際そんなこといってられない。

 119番に電話をし、「昨夜から脱臼と捻挫で身動きがとれない」とこちらの状況を説明しました。そして住所をいうと、「少しお待ちください。20分以内には着くと思います」
 救急車に関しては、大した症状でもないのにタクシー代わりに利用する人がいるというので、私の症状では却下されるのでは? と思ったのですが、まずはひと安心。
 ほどなくして遠くからピーポピーポというサイレンの音。しかもこちらに近づいています。
 やれ、助かった。

 実は昨夜転落したときから上下とも下着姿。
 救急車がきてもこのまま乗り込むわけには行かない。しかし汗まみれのシャツは腕の自由が利かないのでそのまま。どうせ検査になるとハサミで切られるだろう。
 とはいえ帰りは上半身裸で帰るわけにはいかないので、着替えのシャツをバッグに入れ、必死になってジーンズをはきました。
病院へ向かう道
 救助隊の人は玄関まできてくれました。
 緊急性からすれば当然なのですが、これはありがたかった。
 こちらの状況を説明し、治療費として払える程度の現金と保険証を持って、家を出ました。
 アパートの階下に降りるのも救助隊の人に支えてもらいました。これもありがたかった。

 靴を脱いでストレッチャーに横たわると、そのまま救急車のなかへ。
 体温と血圧を測られ、「どこか病院の診察券はお持ちですか?」
 そこで前立腺肥大で2ヵ月ごとに通院している「I病院」の名を口にしました。
 あそこなら今年3月移転してリニューアルされたばかりだし、救急病院でもあるはず。

 救助隊の人は「少々お待ちください」といって、問い合わせている様子。
 長い。
 ひょっとして「受け入れ拒否」か。すると病院たらい回し?
 よからぬ考えが頭をかすめ、またしても冷や汗がドーッ。

 10分ほど経ったでしょうか、救助隊の人が「OKです。ではI病院に向かいましょう」
 救急車はようやく動き出しました。ピーポピーポのサイレンを鳴らしながら。
 窓のカーテンは閉じられていましたが、どの道を走っているかはわかります。
 ここでもまた「助かった」と思いました。
 7月8日(月)夕方。
 暑い日でした。その日はクーラーを25℃に設定し、同時にロフトの上から下に向かって扇風機を当てていました。
 「扇風機の角度が変だ」
 そう思って梯子段を上がり、扇風機に手を伸ばそうとした瞬間。
 グラリ。
 頭上から扇風機が落ちてきました。
 いかん。そう思って扇風機を押さえようとしたところ、
 フワーッ。
 自分の身体が宙に浮き、ダダーッと床に叩きつけられました。
 「…………」
 どうなった?
 右肩が痛む。しかも動かない。脱臼したな……。
 歩こうとすると、左足が痛む。これは捻挫か……。
 まったく身動きが取れなくなりました。

 やたら脂汗が出る。
 起きると苦しいので寝たままなのですが、右肩が開かない。そのため右腕がドサリと自分の腹の上に乗っかっている。
 重い。なんの役にも立たない自分の腕というのは、こんなに重いものなのか。
ロフトの梯子段
 私はかねてより、循環器系の病で倒れたとき、悪あがきはせずに、薄れ行く意識のなかで従容として死につこうと考えていました。ひとりであっても、孤独死は望むところ。
 漠然とではあるけど、そんな覚悟はしているつもりでした。

 しかし、これはなんだ。はっきりと意識はある。それだけに痛い。
 それでいて、死ねない。そんなバカな。
 そのとき湧き起ったのは、理不尽さに対する怒りのような感情でした。

 こんなことでくたばってたまるか。

 なんとしても生きてやるぞ。
 以前から考えていた私の「覚悟」などつくづくいい加減なものですが、平常時は「従容として死を迎えよう」と思っていても、いざそのときになると人間には「生きよう」とする意欲が湧き起ってくるのではないか。

 とはいえこの意欲があったからこそ、右肩の傷みにひと晩中耐えられたのだと思います。