2013.07.26 お知らせ。
不慮の事故による怪我で、先日より入院を余儀なくされました。
そのためブログを中断しております。

退院の目途は未定ですが、退院次第再開するつもりです。
よろしくお願い致します。

京一郎
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 ※「自由からの逃走」(E・フロム)とは、ナチス収容所の囚人が、釈放されたにもかかわらず収容所の周囲を一日中歩きまわり、夕方になってもどってきたという実例から、「人間にとって自由とはなにか」を考察する書。(参照
 ところで走水(はしりみず)という地名の由来はなに?
 その答えは走水漁港の向かいにある「走水神社」にあります。
走水漁港
 ここの手水場にある由来によると、
 「この水は深さ30mより湧き出たミネラルを含んだ真水。昔から宿場町として栄え、船に積む飲料水に利用されていた。富士山より歳月をかけて一帯に湧き出ているといわれている」
手水
 地理的に見て「富士山から~」というのは眉唾ツバものですが、水がほとばしるように出たのは本当で、走水という地名になったらしい。
 今でも1日約2000㎥の地下水が取水できるといいます。
湧き水の由来
 横須賀造船所をつくったフランス人ヴェルニーは、ここの豊富な水に着目し、明治9年(1876)造船所や製鉄所への水をここから引きました。これが横須賀最初の水道です。
 その後(明治35年)、ここに貯水池をはじめとする施設が建設されました(走水水源地)。
境内
 「それにしても、この神社は独特の雰囲気がある」
 そう思って境内の由緒書を読むと、この祭神は日本武尊(やまとたける)とその后弟橘媛(おとたちばなひめ)とのこと。
弟橘媛のレリーフ
 これには伝説があって、かいつまんで説明すると、昔日本武尊が走水の地にきて、ここから海を渡って上総(現千葉)に入ろうとした(当時はそれが関東→東北へ行くコースだった)ところ、海が荒れて船が出せなくなったため、海神の怒りを鎮めるために弟橘媛が海に身を投じ、風波を鎮めさせたとのこと。
  こんな伝説があったとは知らなかった。

 私もこんな悪天候のなか海道を歩く酔狂者。「どうか、この私めをお守りください」
 弟橘媛にお祈りして、そこを辞しました。

 さらに進むと、防衛大学校走水海上訓練場を経て観音崎ボードウォークに差しかかります。
 説明書によると、このボードの材質はブラジル原産の広葉樹イペ。
 繊維の密度が濃いため水に沈み、火に強く、虫食いにも強い材質とのこと。また素足で歩くこともできる人にやさしい道であるとも。
観音崎ボードウォーク 見晴台
 こちらはウォーキングブーツゆえ脱ぐわけにもいかず、その感触はわからなかったのですが、海からの風が心地よい。
 歩くにはいい道です。こんな道ばかりなら楽ですが、それはそれで退屈するだろうし。
 急な坂や階段、狭い道や曲がりくねった道、ときに車に脅かされる道。
 そんな道があってこそ、この道のありがたさがわかる。
船着場の突堤 右手は観音崎灯台
 なんだか人生の道のりに似ておるわい。
 横須賀在住のブロガーさんの記事によると、5月下旬「Yokosuka海道ウォーク」というイベントが開催されたとのこと。
 コースは浦賀から三笠公園までの約16kmと、馬堀海岸から合流する約6kmのふたつで、その人は短いほうのコースを歩きました。
 「意外に軽かった。こんなことなら浦賀から参加すればよかった」との感想。
よこすか海岸通り
 「ということは馬堀海岸から逆コースを歩けば浦賀まで10km。大したことはない」
 実は昨年、馬堀海岸の西端から大津漁港→海辺つり公園→中央市場→うみかぜ公園までは歩いたことがあります。(参照
 しかし別の横須賀在住ブロガーさんの話では、馬堀海岸から東方向、走水→観音崎の海の景色はもっと素晴しい、とのこと。 それを聞いて、ぜひ行ってみたいと思っていました。

 馬堀海岸に着いたときは、小雨。空は曇天。強い風。(この夜、高校生がボートで遭難事故)
 そのため写真がアンダー気味なのはご容赦願います。
馬堀海岸
 馬堀海岸については前回も述べたので省略しますが、道の中央に荒削りの石がごろごろと敷き詰められているのがワイルドな魅力です。
うみかぜの路
 そこを通りすぎると走水(はしりみず)海岸。
 ここは名だたる海水浴場で、潮干狩りでも有名ですが、この日は悪天候のため立入り禁止。
走水海岸・全景
 そのため浜に出たのは私ひとり。「はははは」
 思わず笑いがこみ上げました。
 サクサクと砂を踏みしめて、心地よく歩きました。 
走水海岸・清掃風景
 砂浜には無数の海藻(ヒトデやウニも?)が打ち上げられていました。多量のゴミも。
 海水浴客はいなくても係員の方がゴミを拾い集めておられました。ご苦労様です。
 さっきから気になっていたのですが、前方に見える長い橋はなに?
 近くに行ってみると、これが意外に長い。どこまでも続くフロリダのキーウエスト?
キーウエスト? 
 そんなわけはなく、突き当たりは漁港の突堤で、名を伊勢町橋ということがわかりました。
 とはいえ橋から見る漁港の景色もなかなかのもの。
突き当たり 伊勢町橋からの眺め① 伊勢町橋からの眺め② 
 この浜辺歩きは海道コースから外れていて、「走水水源地」を見ることはできなかったのですが、伊勢町橋を歩けたことが大きな収穫。
上から見た伊勢町橋
 おかげで海の景色を堪能しました。
 久しぶりのヴェルニー公園(横須賀)です。
 この日は生憎の小雨でしたが、それもまた風情があります。

 「あれッ、こんな公園だったっけ?」
 前回はJR横須賀駅から行ったのですが(参照)、今回は反対側の京急汐入駅から。
 横須賀駅のときは駅舎を出たらすぐに公園だったため、興奮してじっくり見る余裕がなかったのですが、反対側から入ると景色がまるで違います。
バラ花壇①
 入園者を迎えるのは一面のバラ。
 とにかくバラ花壇が豊富で、種類もいっぱい。
 バラ園では調布の神代植物園のほうがスケールは大きいけど、ここのバラ越しに見る軍港は独特の風情があります。
バラ花壇② バラ花壇③
 同園は横須賀造船所を建設したフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837~1908)さんの功績を称えて、記念につくられた公園です。
 園内には当時の資料が展示されたヴェルニー記念館もあります。
噴水
 「あれがイージス艦ですか」
 対岸の軍艦を撮っていたら、デイバッグを担いだオッチャンに話しかけられました。
 「いや、あれは自衛隊の船で、アメリカのイージス艦はこっち」
 こちらは去年の「軍港めぐり」で仕入れた知識をひとくさり。
対岸には軍艦
 「しかし中国は尖閣をわが領土と本気で思っているのでしょうか」
 オッチャンが話しかけてくるので、「中国は昔から領土拡大に野心を持った国ですから」
 「怪しからんじゃないですか。尖閣は日本古来の領土ですッ」
 「まあ、大事には至らんでしょう」
うみかぜの路① うみかぜの路②
 こんなオッチャンと論じるのは面倒なのですが、同意しないと宇宙人元首相のように思われるのも業腹。こんな風潮は不愉快です。
 「まあ、自衛隊に頑張ってもらうしかない、ということですかな」
 オッチャンは私の気持ちを察したのか、こんな捨てゼリフを残して行ってしまいました。

 ひょっとして欲求不満オヤジ?
 そんな人物とも遭遇できる、不思議な公園です。
 久しぶりの川越。
 梅雨の蒸し暑い季節でも、この蔵造りの町並みは独特の風情を感じさせます。
蔵造りの街並み① 蔵造りの町並み②
 「おや、あれは?」
 蔵造りの建物が並ぶなかに、ひときわ目立つ青緑色のドームの塔の洋風建造物。
 ちょっと不思議な建物です。
謎の建物
 しかしよく見ると、ルネッサンス風で由緒ありげ。
 しかも銀行(埼玉りそな銀行川越支店)です。

 この場所は川越藩の御用商人・横田五郎兵衛の敷地でした。
 明治になって経済も近代化され、政府の要請と時代の趨勢によって、明治11年(1878)横田を中心とした豪商がここに設立したのが「第八十五国立銀行」

 しかし明治26年(1893)川越大火で焼失。
 明治31年(1898)に(仮店舗のまま?)普通銀行となり「第八十五銀行・本店」と改称。
旧埼玉銀行①
 大正7年(1918)に鉄骨鉄筋コンクリート造り、3階建ての洋風建築の本店が再建されました。高さ25m、面積291㎡。前面に塔のあるサラセン風の建物は「近代金融のシンボル」といわれたそうです。設計は保岡勝也氏。
旧埼玉銀行②
 その後、昭和18年(1943)に武州銀行、忍商業銀行、飯能銀行と合併して「埼玉銀行・川越支店」と改称。
 平成3年(1991)に協和銀行と合併して「協和埼玉銀行」
 平成4年(1992)に「あさひ銀行」
 平成15年(2003)に「埼玉りそな銀行・川越支店」となり、現在に至っています。

 平成8年(1996)に国の登録有形文化財の指定(埼玉県内指定第1号)を受けました。
 今では蔵造りの街、川越のシンボル的な建物になっています。
現在でも使われている
 つまりこの建物は、埼玉県最初の銀行。
 その建物がそっくり現在も使われている(内部の機能は別)ところも立派です。
 府中市のO夫妻とYさんとは、私が引っ越したため、つき合いは途絶えました。
 民芸店のM氏とは仕事でのつき合いがなくなったため、会わなくなりました。

 その後の「山歩き」といえば、鎌倉のハイキングぐらい。
 他には去年の越生(埼玉)の「五大尊つつじ公園」と逗子(神奈川)の「披露山」があります。

 越生ではつつじを見たあと、その奥に「無名戦士の墓」の案内標識があったので、そこへ行こうとしました。しばらく行くと標識は上を示している。
 「変だな」と思ったものの、標識がそうなっているのだから仕方がない。どんどん登りました。
 しかし墓らしきところには出ず、殺風景な山に。
 「道を間違えた」
 仕方なく引き返したものの、 簡単にはもどれず、何度も迷いながら下りました。

 なんだ、あの標識は。おかげで晩年の貴重な(?)時間と体力を消耗したじゃないか。
 先日の「あじさい山」といい、どうなっているんだ、越生は。もう二度と行かないぞ。
披露山
 「披露山」については思い出すのも不愉快なので、ここでは述べません。(参照
 いずれもいやな思い出ばかり。思いつきで山に登るとろくなことはない。

 それに比べると鎌倉のハイキングまだましでした。
 一年前の「葛原が岡コース」(参照)、昨秋の「天園コース」(参照)。
葛原が丘ハイキングコース
 歩いてみて、「これまでとは違う」と感じました。歩くことに追われて、ちっとも楽しんでない。
 しかも足がガクガクする。これは体力の衰え。
 さらに「天園」では下りる所を間違えました。モチベーションが下がります。
 山歩きはもうやめよう……かな。
天園ハイキングコース① 天園ハイキングコース②
 今、私に残された山歩きらしきものは横浜の野毛山と山手ぐらい。
 これはまだ大丈夫。
 これが登れなくなったら、横浜散策はやめるしかない?
 大菩薩峠を登ったときは、大菩薩嶺→丸川峠→柳沢峠に出て、そこからタクシーを呼び、塩山駅の近くで「ほうとう」を食べて帰りました。20年ほど前のことです。

 このときは晩秋でしたが、私が大そうよろこんでいたと知って、O夫妻は翌年春も誘ってくれました。
 こちらは山登りが気に入ったのではなく、大菩薩峠だからよろこんでいたのですが。

 春は生藤山(しょうとうざん)。東京都、神奈川県、山梨県の県境にある山で、標高991m。
 同じメンバーで、中央線上野原からバスで登山口まで行き、そこから登りました。
 「まあ、また桜が見られるなんて」
 4月の終わりでしたが、標高が高いため、ちょうどソメイヨシノが見ごろでした。

 このときは陣馬街道に下り、バス停からボンネットバスに乗って京王八王子に着き、京王線に乗って府中から帰りました。
                               *
 品川区で民芸店を経営しているM氏という人物がいます。
 年は私より10歳上。取材で知り合いました。
 この人が大の山好き。日本の有名な山はほとんど登ったといいます。
 「富士山は一合目から登るからいいんじゃないか」といい、休日、時間があれば高尾山に登るそうです。   「高尾山は山登りの基本。いつ行っても素晴しい」
 私の横浜好きと共通するものがあります。
                              *
 M氏に生藤山のことを話しました。 すると、「生藤山に登ったあとはどうしたの?」
 「そのまま下山して、陣馬街道を歩いて、バスに乗って帰りました」
 M氏は苦笑しながら、
 「それは昼までのコース。私なら和田峠に下りて陣馬山(855m)に登る。そうしないと勿体ない」

 ガーン。
 これを横浜に例えれば、山下公園だけ見て帰るのは勿体ない。ちょっと足を伸ばせば大桟橋もあるし、赤レンガパークもあるのに、ということでしょうか。
 原因は引率のO夫妻が遅いこと。
 私より10歳年上だから無理もないけど、それをいうならM氏だって同じ年。
 しかし彼らは温厚篤実ないい夫婦。「遅いぞ」なんてとてもいえない。
 その後、O夫妻、Yさんに、妻の友人Sさんが加わって、山梨県の三ッ峠山(1785m)に登りました。
 ここへは富士急三つ峠駅から歩くコースがありますが、我われは河口湖駅からバスで登山口まで行き、そこから登りました。

 「遅いわねえ」
 先頭を歩くSさんが不満を洩らしました。
 彼女は我われと同世代ですが、山登りには熟達しています。
 しかし温厚なO夫妻にはなにもいえず、妻は苦笑するばかり。

 それでも山頂からは富士山がよく見えたし、河口湖で一泊して、翌日は河口湖大橋(日本の道百選)や美術館、ハーブ園などを見学したから、じゅうぶん楽しかったのですが。

 その後、長野県の入笠山(にゅうがさやま=1955 m)にも登りました。
 O夫妻のペースは相変わらずでしたが、もうあきらめました。このときは山頂からほぼ360度の大パノラマが見られたことで大満足でした。

 以上が私の数少ない登山体験です。
 O夫妻と一緒のチンタラ登山(失礼)ではなく、M氏のような本格派と登れば、もっと山好きになっていたのでしょうか。これはなんともいえません。
 7月になって富士山が山開きしました。
 折しも世界文化遺産に選ばれたとあって、山頂付近は長蛇の列。
 「こんな登山は絶対にしたくない」と思いました。

 とはいえ私にはそれほど登山経験があるわけではありません。
 妻は多趣味な人間で、体操の仲間と月一ペースで東北や信州の山々を登っていました。
 こちらは毎回妻の「楽しかった」という話を聞くだけ。

 あるとき、大菩薩峠に登るというのを聞いて、「オレも連れて行ってくれ」
 妻はおどろいて「いいけど、大丈夫?」
 「迷惑はかけない。山登りには自信がある」

 それまでの私の山登り体験は高校時代の伊吹山(1337m)、学生時代の高尾山(599m)、御岳山(929m)ぐらいですが、仲間がフウフウいっても疲れもせずスイスイ登れたし、鎌倉の天園なんて楽勝、横浜の急な坂道には慣れています。

 大菩薩峠に行きたくなったのは、中里介山「大菩薩峠」の影響です。(参照
 この小説は、大菩薩峠の小さなお堂で巡礼中の老人が机龍之介に斬られるところから始まります。 その舞台となったところをぜひ見たい。

 もちろん登山用の靴、リュック、ズボン(ジーパンは不可)、ベスト、帽子、携帯用防水着なども買い揃えました。

 登山当日は、O夫妻とYさん(女性)が一緒(いずれも7~10歳年上)で、コースや山小屋の手配などは、山に詳しいOさんにお任せしました。
 中央線の塩山からバスで登山口(裂石)まで行き、そこから登りました。
 登りはスイスイと楽なものでした。むしろO夫妻がいちばん遅かったぐらい。

 夕方に「長兵衛荘」に着きました。
 「ここまでくれば大菩薩峠はすぐ。明日の朝行けるよ」とOさんにいわれましたが、さっさと登れば一日で行けるように思いました。

 翌日は朝から晴れ。長兵衛を出てほどなく峠に着きました。
 「おお、ここが大菩薩峠か!」
 峠の道標がありました。標高1897m。

 「おッ、これか」
 道標の近くに小さなお堂があったので、小説の舞台と勝手に決めつけました。
 ここで机龍之介が老巡礼を斬ったのか。しかし……。
 老巡礼は手甲脚絆の旅装としても、映画で見る限り、龍之介は着流しで草履。腰に大小を帯びています。そんな格好であんな険しくて長い山道を登れるのか。
 そもそも龍之介はなんの目的で、こんなところまできたのか。
 フィクションとはいえ、実際にきてみると、様ざまな疑問にとらわれました。

 「ここより大菩薩嶺のほうが高い(2057m)んだよ」
 そういわれて嶺にも登りましたが、標識以外はなにもなく、大菩薩峠ほどの感激はなかったのです。

 昔、ある人物から「東京にも大仏があるんだよ」と聞かされました。
 一瞬「どうせどこかの金持ちオヤジが財力にあかせてつくったんだろう」と思いましたが、そうではなく、れっきとしたお寺だそうです。
 失礼しました。

山門

 その大仏は板橋区赤塚にあるといいます。「なんだ、わが東武沿線ではないか」
 早速行ってきました。

本堂

 そのお寺は乗蓮寺(じょうれんじ)。
 正式名は赤塚山(せきちょうざん)慶学院乗蓮寺といって、宗派は浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
 創建は応永年間(1394~1427)。
 最初は山中村(現在の板橋区仲町)にあったのを江戸時代初期に板橋区仲宿に移転。家康から十石の朱印地が寄進されたりして、格式ある寺院になりました。

境内

 その後も長く仲宿の地にありましたが首都高速道路の建設と国道17号の拡幅により、昭和48年(1973)に現在地に移転しました。
 大仏が建立されたのはその4年後。
 これは関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起こることのないにようとの願いを込めてつくられたそうです。

大仏①

 「ほう、これが大仏……」
 鎌倉の大仏様に比べると小ぶりですが、つやつやと黒光りしています。
 まだ歴史が浅い(36年)ものね。

大仏②

 表示によると、高さは基壇が地上2m、蓮台2.3m、座高8.2mの計12.5m。
 製造は浅草の仏壇店翠雲堂。
 青銅製の坐像大仏では、奈良・鎌倉に次いで日本で3番目だそうです。

文殊菩薩 がまんの鬼 三途の川の脱衣婆

 しかし訪れる人はまばら。見たところ近隣の人。
 この表通りは「大仏通り」と名づけられ、板橋区では知られている(板橋十景に入っている)のに、東京ではマイナー的な扱い。

七福神

 しかし大仏の他に、文殊菩薩、がまんの鬼、三途の川の脱衣婆の石像などがあって、見どころいっぱい。 (拝観料無料)
 なかなかユニークなお寺だと思いました。