柴又帝釈天の裏に回ると、そこは江戸川。
 矢切の渡しがあって、対岸は千葉県松戸市。
江戸川河川敷
 この渡し、もともとは江戸幕府が地元民のために設けたもので、観光用ではなかったのですが、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」(1906)、細川たかしの「矢切の渡し」(1983)で有名になりました。

 ここも帝釈天のあと、息子ときました。
 そのときは観光客も多く、我われはこの渡し舟に乗って対岸に着きました。
 そこには「矢切の渡し」(細川たかし識、昭和59年)の石碑があるだけで、他にこれといったものはなく、また船賃(当時大人100円、子ども50円)を払ってもどってくるだけでした。
矢切の渡し①
 それは今も変わりはありません。
 船賃が大人200円になっているのは致し方ない。
 しかし10時5分前というのに、まだ開く気配はありません。

 乗船場の入口にはオヤジが土産物の支度に余念がない。
 しかしこのオヤジに聞くしかないので、「あのう、渡し舟は……」と聞いたところ、
 「10時ぐらいから」
 ぶっきらぼうな調子で、取りつく島がない。
 もう10時だぞ。
 このとき、近くに観光客らしき老夫婦がいたのですが、このオヤジの無愛想ないい方に嫌気がさしたのか、行ってしまいました。
矢切の渡し②
 乗船客がくる気配はない。
 ある程度客が集まらないと、舟は出さないだろうな……。
 かといって、くる当てのない人たちを待つわけにも行かないし。
土手の柴桜
 今回はあきらめました。
 とはいえ次回くるかどうか。
 当方、このところ散策していて、「ここへはもうこないかも」と思うことがよくあります。
 だから悔いのないように、寄れるところは寄っておきたい。

 しかし矢切の渡しは、所詮当方には縁がなかったのでしょう。
 そう思うと、とくに悔やむほどのことではありません。
 昔、息子と一度乗ってるし。 それを想い出にすればいいのですから。
柴桜 薄紫も
 というわけで、このときの土産は渡し舟ではなく、土手に咲いてた芝桜。
 花には疎いこの私も目を奪われました。
 これで江戸川にきた甲斐がありました。
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 参道の突き当たりに帝釈天の立派な門が建っています。
 建立は明治29年(1896)。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、唐破風と千鳥破風の屋根。
 門の両側には増長天および広目天の二天が安置されているので二天門といいます。
二天門
 門を入ると、正面に帝釈堂、帝釈天が祀られています。
 正式名称は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)。日蓮宗の寺院です。
帝釈堂
 ここにも洗い観音があり、行列こそありませんが、観音様に水をかけ、タオルでこする人はあとを絶ちません。
洗い観音
 ♪チャーチャラララ……の前奏曲とともに「私 生まれも育ちも葛飾柴又です 帝釈天で産湯をつかい……」のセリフが頻繁に流れてきます。
 なんだろう?
 そう思って音のするほうに行ってみると、これが「寅さんみくじ」
 コイン(200円)を入れると、獅子舞がみくじを持ってくるのですが、このときこの曲が流れるのです。
おみくじ
 「第一大吉が出るまでやるぞ」
 高校生が何度もコインを入れてました。
 そんなみくじ、意味あるのか。
 まあ、それも寅さんらしいといってしまえばそれまでですが。
境内①
 ここも昔、息子(当時小6)ときたことがあります。
 境内の様子そのものは映画「男はつらいよ」とほとんど同じだったのですが……。 
境内②
 「こらッ、そんなとこで寝てはいかんといっただろうッ!」
 衣を着た屈強な僧侶が、境内で寝ていたホームレス(?)のオジサンを大声でどやしつけました。
 これには息子も目を丸くし、「映画とはえらい違いだねえ」
 笠智衆の御前様ならもっとやさしく諭すだろうに、息子はそう思ったようです。
 まったく、この坊主は帝釈天のイメージぶち壊しだ。
 ふたりで笑いました。
名木?瑞龍松
 その帝釈天も、当時よりは客足が寂れ気味です。
 「まあ、それが世の移ろいというものだ」
 御前様の声が聞こえてきたような気がしました。
 GWということもあって、フラリと葛飾柴又にやってきました。
 京成柴又駅前には寅さんの銅像が出迎えてくれます。

 「おう、おめえも柴又にきたのか。ま、ちょっくら帝釈天へお参り行って、帰りにおいちゃんと寄って団子でも食ってやってくれ」
 と話しかけてきそうな雰囲気です。
駅前に立つ寅さんの銅像
 そういう寅さんは鞄持っての旅支度。
 旅から帰ってきたのでしょうか。それともこれから旅に出る……?

 駅から参道に向かうところに「映画の碑」があります。
映画の碑
 私 生まれも育ちも葛飾柴又です
 帝釈天で産湯をつかい
 姓は車 名は寅次郎
 人呼んで フーテンの寅と発します

 と書かれています。山田洋次監督の直筆によるものです。
参道入口
 そこから柴又街道をわたると、帝釈天(題経寺)まで続く200mほどの参道。
 参道の両側には、団子屋、煎餅屋、飴屋、佃煮屋、漬物屋、料理屋などの食べ物屋、また民芸品店や木彫店が軒を並べています。
参道① 
 映画の舞台とされている団子屋の高木屋老舗。
 昔、息子(当時小6)と柴又にきたときはここで草団子を食べましたが、今回は素通り。
 団子を売っているおネエさんが心なしかさくらさん(倍賞千恵子)に見えました。
おなじみの団子屋さん
 当時は今にも横丁からふらりと寅さん(渥美清)が現れ、「いよッ、元気にやってっか」と声をかけてくれそうな気がしてワクワクしたものですが、今はその気配はありません。
 渥美清さんが亡くなり、映画もつくられなくなったからでしょうか。
参道②
 寅さんは往時のものとなりにけり

 もっとも最後のほうは渥美さんの衰えが目立ち、従来のように寅さんを楽しんでいるようには見えず、「もう、終わりだな」と思いました。
 あれは渥美さんが我われに別れを告げていたのでしょうか。

 参道の景観は当時とほとんど変わりませんが、今回目についたのはハイカラ横丁。
 ン? 以前はなかったぞ。
 入ってみると、昔の玩具、駄菓子がびっしり。
 森永ミルクキャラメルや、サクマのドロップなどもありました。
 「うーん、懐かしい」
ハイカラ横丁内部 駄菓子がいっぱい
 懐かしいとはいえ口に合うじゃなし

 なんだか可愛げのないジジイになっていくような気もしますが。
 1ヵ月ほど前にオープンした丸の内のJPタワーKITTE。
 JPとは日本郵便のことで、ここは旧東京中央郵便局をリニューアルした商業施設。
 KITTE――「きって」と読むそうです。「切手」と「来て」をかけているとか。
KITTE外観
 「今日、KITTEに行ってきた」
 「なんじゃ、それは」
 といわれそうな名前ですが。
KITTE内部 上から見る
 内部は三角形の吹き抜け構造。
 地下1階地上6階に飲食店など98店が入っているそうです。施設面積は9400㎡。
 上から見ると目がくらみます。加齢とともに高所恐怖症になってきたかな。
屋上ルーフガーデン
 それよりも6階の屋上庭園「KITTEガーデン」が素晴しい。
 ここからは東京駅丸の内駅舎が見えます。
屋上デッキ① 屋上デッキ②
 「ここから見る新しい駅舎もいいわね」
 「うん、間近に見えて迫力がある」
 と老夫婦。
屋上より東京駅を見る① 屋上より東京駅を見る②
 線路側を見ると、発着する列車が一望できます。
 いちばん向こうは新幹線。新幹線が発着するたび写真を撮ってました。(大半消去しましたが)
新幹線も 東京駅の南端と山手線
 それよりも東京駅の南端(東京ステーションビル)から出入りしてくる山手線がいい。
 山手線なんて見慣れているはずですが、ここで見ると健気です。
夕陽を受ける東京駅
 いつ行ってもいいのですが、お勧めは夕方。
 東京駅のドームに夕陽が当たって、風情があります。
 このときはまだ早い時間帯でしたが、それでもなかなかの味わいです。
2013.04.26 親不孝通り
 横浜にはディープな街が数多くあります。

 有名なところでは永楽町・真金町の旧遊廓街。
 しかし今は住宅街(一部ホテル街)になりました。道の中央に植え込みが残されている程度で、当時の面影はありません。

 黄金町のカード下に小さな飲み屋が櫛比していた初黄飲食街。
 大岡川に面したところではミニスカ姿のフィリピン女性が客を呼び込んでいました。
 あまりの露骨さに警察が強制的にロックアウトし、今は横浜市と中区の肝煎りで、カルチャー街に変貌しました。

 というわけで今残っているディープな場所といえば、福富町のソープ街と親不孝通り。 

 親不孝通りは、昔は曙町が中心で、昨日述べた新宿二丁目と同じく青線地区。
 横浜でいえば永楽・真金はれっきとした(?)遊廓として認められていたので、警察は赤線地区と指定し、これに対して私娼窟的なゾーンを青線と呼んでいたのです。 
親不孝通り①
 ところが昭和33年の「売防法」によって取りつぶされ、ふつうの飲食街になりました。
 当時はギリシャ人船員が集まるようになり、彼ら向けのレストランも現存しています。
 今から30年ほど前、息子(当時小学生)と、昼間ここを通ったことがあります。
 「親不孝通り?」
 息子は通りの名前に興味を持ったようですが、こちらはなんの説明もしてません。
 それでも飲食店の多さを見て、息子なりに理解したと思います。 
親不孝通り②
 それから10年ほどしてこの通りの奥、黄金町寄りにポツポツと風俗店が建つようになりました。
 ここが改正風営法の規制対象外とわかってからは、雨後のタケノコのように増え、今では表の国道16号線(鎌倉通り)も含め、70軒ほどの風俗店が並んでいます。
親不孝通り③
 ここも私の取材テリトリーでした。
 ここは大雑把にいうと、5つの親会社がそれぞれ5~10店ほどの系列店を抱え、あとはバラバラという状態です。
 親会社は弥生町の大きなビルにあり、広い事務所に14~15人の社員がデスクワークしています。なかには女子社員もいます。
 仕事の内容はPCによる各店の管理、広報で、PCの広告画面をつくるオペレーターもいます。
 みんな黙々と仕事をしているので静かなもの。ふつうの会社となんら変わりません。
親不孝通り④
 取材のアポをとるときは広報担当者に連絡します。
 ある会社は撮影用のスタジオがあり、ベッドなども設えられ、そこへ行くと各店の女性が入れ替わり立ち替わりしてインタビューと写真撮影に応じてくれました。ひとり20分見当で10人ほど。終るとグッタリ疲れます。

 しかし別の会社はスタジオがなく、A店を取材したら、次はB点……と移動させられます。その数約6店。しかも彼らの都合で時間を組んでいるので、近くを移動するのではなく、端から端、親不孝通りを行ったりきたり。何往復したことか。
風俗店①
 で、風俗嬢ですが、これがほとんど市内に住む主婦。子どももいます。
 大半が「家計の足しに」
 あっけらかんとしたもので、暗さはみじんもない。
風俗店②
 なかには男のDVに耐えかねて地方から逃げてきたという女性や、夫と別れ、小さな子どもを抱えた女性(託児施設もある)、ハンディを抱えた女性もいて、動機の多様さを痛感しましたが、結論として「これもあり」と思いました。 行政は取り締まるばかりが能ではない。
 これには親会社の徹底した「健全化営業」に負うところが大きく、従来の風俗産業とは違っていました。私の見たところでは「闇の組織」が入り込む余地はなかった。
風俗店③
 おそらくこれは初黄飲食街の取りつぶしとリンクして、その「健全性」ゆえに行政も認めていったものと思われます。

 ということで今回の親不孝通りは、私にとってはそれほどディープな街でもなかった……かな。
2013.04.25 新宿二丁目
 新宿御苑の新宿門を出ると、新宿二丁目(仲通り)に出ます。

 このあたりは江戸時代は内藤新宿といって、甲州街道の宿場町でした。
 宿場町に飯盛り女(遊女)はつきもの。その伝統は明治→大正→昭和になっても受け継がれ、青線と呼ばれる色街になりました。五木寛之の「青春の門」にもよく出てきます。
 当時の早稲田の学生はここで遊んでいたわけです。
仲通り①
 昭和33年(1958)、売春防止法の施行により、遊郭は廃止。それでも怪しげな旅館や飲食店、ヌードスタジオやソープランドなど点在する地域になりました。

 その新宿二丁目、今は世界屈指のゲイタウンです。

 その変遷の過程は省略しますが、私がこの街に関わったのは、今から30年ほど前、編集者をやめて、フリーのライターになったころ、某出版社の依頼で全国各地のゲイバーを取材してからです。
 それまでゲイ(ボーイ)、オカマと呼ばれていた人たちが「ニューハーフ」という名でTVなどにも登場し、脚光を浴びはじめた時期でした。
仲通り②
 取材はいつも深夜~明け方でしたが、この地に通ってみると、ゲイバーのなんと多いことか。
 事情通の話では、仲通りを中心に200軒ぐらいあるとか。
 これは、例えばマスターひとりがうっすら化粧している店、コミックショーの店、男装(男だから当然?)の店なども含めての話ですが、それにしても多い。六本木を引き離して 断トツです。
飲食店
 私にとっては、なにもかも異質の世界でした。
 女装の方はみんな怪しげな色気が漂っていました。なかには本物の女性より色っぽい人も。
 ところが写真を撮って紙焼きに伸ばすと、どんな麗人も紛うことなき男の顔!
 写真は正直です。

 またゲイの方はみんな芸達者・口達者でした。
 早い話がカルーセル麻紀さんや美川憲一さんみたいな人ばっかり。
 取材だけではなく、雑談も早口で話しっぷりが濃いので、終るとグッタリ疲れました。
関連商品の店
 当時は面白がってくる若い女性客も多く、なかには「接客の勉強になる」という風俗の女性もいました。
 こんな濃い接客術など真似しなくてもいいのに。
 私はうんざり。女性のほうが気が休まります。
 そのとき、こう思いました。「世のなかには男と女と、ゲイがいる」
 もっとも取材を離れても飲みに行き、数年前まで年賀状のやりとりをしていたゲイバーの店主もいます。 この人物はゲイにしては物静かな性格でした。

 同性愛者になる要因には、①先天的なものと、②後天的なものがあります。(参照
 私はそうならないように息子を育て、若い母親にはそれを説きました。
露骨な看板も
 先日、久しぶりに二丁目を訪れました。
 当時のような「麗人」のショーを見せる豪華なクラブはなく、「男と男」の店ばかり。
 「女性客のくるような店はなくなった」と関係者はいいます。
 今は昔。もうくることもないだろう。そう思って二丁目をあとにしました。
 ここに一枚の地図があります。明治中頃の本郷界隈が描かれています。
 中央やや右に、少し斜めに下りる道が本郷通り。右は帝大(今の東大)、赤門があります。
本郷界隈の地図
 その赤門の向かい法真寺の入口に「桜木の宿」の表示。
 これは樋口一葉(明治5~29年)(1872~1896)が亡くなる前、幼少期をすごした本郷の家をそう呼んで懐かしがっていたところです。
法真寺 一葉会館入口
 法真寺の奥に「一葉会館」があります。
 ふだんは閉まっていますが、呼び鈴を押すと、別のところから関係者(?)の方が現れて、入口の戸を開けてくれます。(見学無料)
樋口一葉像 
 ここは法真寺の庫裏を転用したもので、一葉に関する資料約1000点が収集・展示されています。
 それによると、本名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれました。
 樋口家は明治9年(1876)この地に移ってきて、明治14年までの5年間(4~9歳)をすごしました。樋口家にとって最も豊かで安定していた時代だったそうです。
昔の道具類 昔の小物類
 しかし父が亡くなり、17歳にして戸主となり、針仕事などで母と妹の三人の生活を支えました。
 小説家を志し処女作を発表するも生活が楽になるわけでもなく、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で雑貨店を開きましたが、上手く行かず半年後に閉店。
 このときの経験が「たけくらべ」の題材となりました。
集合写真
 その後は本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居して執筆活動するも、明治29年11月23日、肺結核のため25歳で死去。

 一葉という筆名は、当時困窮してお足がないと、一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り後に手足を失った達磨の逸話に引っ掛けたものだそうです。

 樋口一葉に関する資料といえば、台東区竜泉にある「一葉記念館」が有名で、私は吉原ソープランド取材のついでに一度訪れたことがあります。
台東区竜泉にある一葉記念館
 こちらは有料(300円)だけに資料はきちんと整理して展示されていました。ただし撮影禁止。
 文京区の「一葉会館」は無料で、撮影は自由。ただし雑然と。一長一短です。
2013.04.23 東大赤門界隈
 なんの脈絡もなく、本郷の東京大学。いわずと知れた日本の最高学府です。

 江戸時代、藩士の子弟が通う藩校のなかでのトップクラスは昌平坂学問所でしたが、明治になって欧米諸国に追いつくため、明治10年(1877)法学などを教育する東京開成学校と東京医学校が合併し、加賀藩屋敷跡に日本最初の大学が創立されました。これが東京大学です。

 東大を象徴する赤門は加賀屋敷の名残りですが、その由来は加賀藩13代藩主前田斉泰が文政10年(1827)11代将軍家斉の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎える際、当時の慣例にしたがって創建されたとのこと。
東大赤門
 実際は15mほど奥にあったのですが、東大設立の際(明治10年)、現在の位置に移され、昭和36年(1961)には解体修理されています。
 昭和6年(1931)には国の重要文化財に登録されました。

 赤門より300mほど北上したところに正門があります。
 ここは赤門とは違って西洋建築。門柱は花崗岩で門扉は青銅。なかなかアカデミックな雰囲気です。
東大正門
 正門を入ると銀杏並木。「秋はいいだろうな」と思いました。
銀杏並木 法文2号館アーチ
 突き当たりは安田講堂。
 これも東大を象徴する建造物ですが、創立者は安田財閥の初代安田善次郎。本当は匿名の条件で建設費を寄付したのですが、右翼に暗殺されたため、それを偲んで安田講堂と呼ばれるようになりました。収容人数は1144席(3階席・728席 / 4階席・416席)。
安田講堂
 この安田講堂、私にとっても他人事ではなく、学園闘争時代はシンボル的な存在でした。
 昭和44年(1969)1月機動隊の攻撃で、ここを占拠していた学生たちが強制排除された光景は未だに脳裏に焼きついています。
 当時地方のS大に在籍していた友人は仲間とともにここに泊り込んでいたのですが、東京に下宿していた弟に会うため外に出たところ、機動隊攻撃の報にもどれなくなったという逸話があります。私はTVで観ていました。ヘタレです。

 さて、腹が空いたのでどこかで食事をと思い、せっかくキャンパスに入ったので、安田講堂脇の建物の地下にある生協の食堂に入りました。ここは学生でなくても可。
 カレー、ラーメン、とんかつ、中華……なんでもありますが、和風の「並木定食」(490円)にしました。
並木定食
 入口で食券を買い、それをカウンターに出すと、トレーにご飯や魚の皿、小鉢などを置いてくれます。すべてセルフサービス。それもまたよし。
 味ですか? そこそこ美味かったので、不満はありません。
 本郷近辺にきたら、またこよっと。
2013.04.22 旧古河庭園
 六義園とは山手線を挟んだ反対側に「旧古河庭園」があります。
 よく写真で見るでしょう。洋風庭園の上に洋館が建っている光景を。あれがそうです。
洋館①
 ここは元々明治の元勲・陸奥宗光の邸宅でしたが、宗光の次男が古河財の養子となったため、古河家の所有になり、大正6年(1917)洋館と庭園が造られ、現在の形になったのです。
 戦後連合軍に接収され、イギリス大使館の宿舎などに利用されましたが、昭和31年(1956)都立公園として開園。平成18年(2006)には国の名勝に指定されました。
洋館②洋館③
 「洋館と洋風庭園は、鹿鳴館やニコライ堂を手掛けたジョサイア・コンドルの設計によるもの。日本庭園は京都の庭師小川治兵衛(植治)によるものです」と解説されています。

 「そうか、日本庭園もあったのか」
 洋館のイメージが強すぎ、てっきり洋風庭園とばかり思っていました。
日本庭園①
 2年前、関東在住の同窓生数人ときたときは、「さっきの六義園が日本庭園なのに対し、ここは洋風庭園」と説明しました。

 折しもバラの季節、洋風庭園では多くのバラが咲き誇っていました。
 「見て見て、これプリンセスマサコよ」
 「ダイアナもあるわ」
 女性陣の関心はもっぱらバラの種類。
洋風庭園
 これに対して男たちは、「なかなかきれいな庭園やないか」
 私を含めてみんなバラの種類には関心が薄かった。 
芝生  
 あとは洋館を背景に記念写真を撮り、喫茶室で雑談。
 初夏の暑い日でしたが、少し開けられた窓から涼しい風が入ってきました。
 「みんな、秋の同窓会行くんでしょう」
 「オレはもういいかな。これも一種の同窓会やし」
 「そんなこといわないで行こうよ。前回行ったけど、楽しかったわよ」
 「そや。それにワシらぐらいになると、同窓会は命の確認や」
 そんな会話が交わされました。
 このときまで私の気持ちは半半でしたが、「命の確認」といわれて行く気になりました。
日本庭園②
 というわけで、日本庭園を散策した記憶がない。
 まあいい、それだけバラがよかったから。
 バラの季節のころ、またこようと思いました。
 先日(といってもかなり前ですが)行ってきた山手のドルフィン。
 ユーミンの「海を見ていた午後」(1974)ですっかり有名になりましたね。
 彼女のファンなら、一回は行くところ。
 実は私も、この歌が好きで、ここへくるのはこれで二回目です。
不動坂から
 最初きたのは、20数年前。
 そのときは混んでいて、窓際の席には座れなかった。
店内
 そして今回。
 客は私ひとり。「えッ、いいの?」って感じでしたが。
 どこに座ってもいいとのことで、窓際の席へ。海が見わたせます。
店内からの景色
 ここにくると誰でもやりたくなるのが、ソーダー水の向こうに貨物船を見ること。
 さすがにソーダー水は頼まなかったけど、コーヒーカップ越しに、あるいはグラス越しに貨物船を見ることができました。
グラス越しに見る貨物船① グラス越しに見る貨物船②
 すると、あの歌が聞こえてきます。

 ♪あなたを思い出す この店に来るたび 
 坂を上って きょうもひとり来てしまった
 山手のドルフィンは 静かなレストラン
 晴れた午後には 遠く三浦岬も見える
 ソーダ水の中を 貨物船がとおる
 小さなアワも恋のように消えていった
テラス
 テラスもあります。 こっちからのほうがよかったかな。
 ちなみにコーヒー代は700円。景観料と思えば安いもの?
2013.04.20 四月の句会②
 今月の句会は「清澄庭園」(東京都江東区)の「涼亭」で開かれました。(参照
 吟行? と思われるかもしれませんが、会場にはボードもなければ、みんなの句を集めて一覧表にして、それを各自に配布する手段もないので、できないのです。
 その代わり来月の句会に一句は清澄庭園のことを詠み込むという弱体な(?)句会です。
清澄庭園
 さて今月の私の出句は、
 ①春雨や濡れて風邪引く老い身かな
 ②花いかだほろ酔ひの杯に浮かべたり
 ③桜散り笑顔残して友逝きぬ

 の三句です。

 ①これは「春雨じゃ濡れて行こう」をもじったもの。粋がって濡れて風邪を引いてしまった。もう若くないなと自戒を込めて。
 ②花いかだとは桜の花びらが川面に流れている状態をいいます。花見で一杯やっていたら、杯に花びらがパラリ。「これも一種の花いかだ」。そう思ったことを詠みました。
 ③今年は東京、横浜、埼玉と、ひっちゃきになって桜を追いかけました。今にして思えば、あれは今年の2月、あの世へ逝った友がそうさせたのではないか。桜も終わり近く、川越の新河岸川に花びらが散るのを見て、友との別れを実感しました。
花筏
 今回も先生お休みのため、K氏が司会となって進められました。
 その得票数とK氏の評価。
 ①春雨や濡れて風邪引く老い身かな……(1)
 ②花いかだほろ酔ひの杯に浮かべたり……(0)
 ③桜散り笑顔残して友逝きぬ……(2)
 (出句13名、選句はひとり5句。カッコ内は得票数)

 ①これは最も取ってはいけない句。「春雨や」→「老い身かな」という、「や」→「かな」の使用。これはいかにも意味ありげに見せようという、物欲しげな表現とされています。
 (注)「や」→「かな」については先生も禁じていたような記憶があるけど、これがなぜ物欲しげなのか、初心者の私にはよくわかりません。
  
 ②花いかだとは川面に浮かんでいる花びらをいうのであって、杯に浮かんだ花びらを「花いかだ」とはいいません。ここは「花いかだ」ではなく、「飛花落花」とすべきでしょう。
 (飛花落花では面白くない。むしろ「ほろ酔ひの杯に浮かべて花いかだ」にしたほうがよかったかな。えッ、よくない?)

 ③いいたいことはわかるけど、ここは「桜散る」といい切ったほうがいい。それに「笑顔残して」という表現が気になる。ここは「笑顔のままに」にしたほうがいい。
 (そんなものかね)
涼亭 涼亭内部
 というわけで、今月は惨敗。先月はヒットを飛ばしたのに、また元の木阿弥。
 いかに俳句に無知であるかを思い知らされました。
句会の準備
 ところで、庭園内をみんなと雑談まじりに散策しているうち、話題が「東上線→東横線」直結のことになり、「横浜遊びに行きたいねえ。俳句抜きにして」
 そこで「京一郎さん、プラン立てて。ただし私たち年寄り向けですよ」
 俳句は冴えないけど、横浜プランならお手のもの。当方、これしか取り得がないからね。
2013.04.19 四月の句会①

 昨日(04/18)は四月の句会でした。(いつもは第3火曜日ですが、今月は日時・場所が変更)
 先生は欠席ですが、先月(三月)と今月(四月)の出句に対する評価と添削が(病床から)文書で届けられました。


 それによると、先月の私の句、「打ち明けて足取り軽し春の宵」は◎。


 「人生の色気を感じさせる一句です。『春宵一刻値千金』などといいますが、『春の宵』という季語の醸し出す雰囲気が官能的な情緒を帯びています。
 手柄は「足取り軽し」とした中七の修辞にあります。『足取り軽き』と形容しがちな所を踏み止まって『軽し』と言い切り、端正な二句一章に仕上げたことです。『足取り軽き』としていたら、句意がべたつき、悔いが残ります」
 との解説がつけられています。

春の宵(大岡川にて) 

 前にもいいましたが、これは好きだった女性に自分の思いを打ち明け(今でいう告り)、OKが出たので、よろこび勇んで帰ったことを詠んだ句です。青春時代のことです。

 ところが選んでくれた女性の大半が「日ごろ溜まっていたモヤモヤを聞いてもらってすっきりした心境」と、私の意図とはまったく違う解釈をされました。

 私としては本意ではありませんが、「解釈は選者の自由、最多得票(7票)なのだから、それ以上の説明は不要」といわれて、黙らざるを得なかった。 (参照

 しかし先生の評はみんなとは違って、「人生の色気を感じさせる一句」と、私の意図を正しく理解してくれました。しかも◎をいただいたのは初めて。


 さらに「紅梅や妻の若き日想ひ出す」が佳作(〇)に入っています。
 これは票も入らなかったし、「季語が動く」とK氏に門前払いされた句です。
 しかし先生の評価では「季語が動く」などという瑣末なことにとらわれなくてもよい、ということでしょうか。
 K氏にいわせると「最近の先生は甘い」とのことですが、私には甘くなかったぞ。

紅梅

 いずれにせよ、私としては◎をもらったことよりも、自分のいい分が「正しく」理解されたことがこの上なくうれしい。
 人間は、ひとりでも理解してくれる人がいると、生きる希望が涌いてくるのです。

 先日、ラジオの番組で、リスナーからの「私のベストスリー」を募ったところ、関西から上京してきた人から、「つい口にする関西弁ベストスリー」というものが寄せられました。
 それによると――。
中央公会堂
 ③なんのこっちゃ
 直訳すれば、「どういうことだ」ですが、「わけがわからん」「呆れた」という意味が込められています。
 あることに期待したけど、それが外された場合、関西人は「なんのこっちゃ」というのです。

 私は上京したてのころ、よく使っていたようです。
 というのも、こちらで友人になった男が「なんのこっちゃ」をよく連発しました。心なしかニヤニヤしてました。
 これが私の口真似だとは、かなりあとになってわかりました。私がよく使うので、面白かったらしい。失礼なヤツ。

 ②あほかいな
 関東では「ばかだなあ」ですが、「ばか」と「あほ」の使い方、ニュアンスは西と東ではまったく逆。
 関西で「あほかいな」は、親しみがこもって聞こえますが、こちらでは完全にばかにされた気分になる人が多い。ムッとされます。

 昔、妻の実家で息子(当時高候生)と話をしていたとき、私のドジ話に息子が「あほかいな」と合いの手を入れたところ、義母が「お父さんに向かって『あほ』なんていうもんじゃありません」と注意しました。
 まったくよけいなことを。 こっちは関西トークをしていただけなのに。

 ①知らんがな

 投書した人が最もよく使うのが、この「知らんがな」だそうです。

 私も結婚したてのころはよくいってたそうです。
 妻になにかを聞かれて、知らないときは「知らんがな」
 これが「感じ悪い」と怒られました。突き放されたような気分になるというのです。
 こっちはただ「知らないよ」と表現しているだけなのに。

 もっとも今の私は「知らねえよ」
 関東ではふつうですが、関西の人が聞いたら、突き放されたようで、感じ悪いでしょうね。
道頓堀夜景
 ことほどさように、ことばのニュアンスは西と東では大違い。

 性善説に立てば、人は滅多に相手をばかにしたり、突き放したりはしないもの。
 「ばかにされている」とか「突き放されている」と思うのは、自分自身に(それをやっている)心当たりがあるから……でしょう。
 そう考えると、そんなに怒ることはないのです。

 毎度おなじみ山下公園。横浜散策の基本です。
 海がすぐ近く。氷川丸が景色を締めています。
 前にも述べましたが、ここは関東大震災の瓦礫を埋め立ててできた公園。

向こうは大桟橋

 それまでは海岸通りの下が海でした。
 それはそれで風情がありますが、多くの人がたむろすることはできないので、公園をつくったのは大正解。変ないい方ですが、よくぞ埋め立ててくれました。
 ここにくるたび、「関東に住んでつくづくよかった」と思います。

芝生から港を臨む

 今は「花壇展」が開催されているので、花越しに海を見るのもなかなか乙なもの。
 今回は奥から海を撮りました。

花壇から港を臨む① 

 「しかし、鳶(とんび)が多いですなあ。山下公園って。ふだんもそうですか」
 ベンチに座って海の景色を撮っていたら、となりのベンチから年配のオッチャンに声をかけられました。
 「カモメに次いで鳶も多いですよ」と答えると、オッチャン、こっちのベンチに座ってきて、いろいろ話しかけてくる。
 「いや、私は横浜の人間ですが、こっちのほうは滅多にこないので、よく知らないのです」
 「地元の人って案外そういうものですよ」
 「そういうオタクは横浜じゃなさそうですな。どこからいらした」
 「埼玉です。東上線と東横線が直結したので、きやすくなりました」
 「なるほど」
 それにしても話好きなオッチャン。

花壇から港を臨む②

 これ、以前にも体験したことがある……と思ったら、2年前の夏、藤棚浦舟通りのバス停で同年輩のおばさんに話しかけられ、バス内でしゃべりっぱなし。それも同居している男(亭主?)の愚痴ばかり。こちらはただ「ふむふむ」と聞くだけ。
 バスが黄金町に着いたら、「じゃあね」と手を振って別れました。これが横浜流のナンパか、と感心したものです。(参照

花壇から氷川丸を見る

 「私は小さいとき、船乗りになりたかったのです。ところが母親に大反対されまして……」
 山下公園のオッチャンは身の上を話しはじめました。
 こっちは「はあはあ」と聞くだけですが、ときどき「ほらまた鳶がきた。撮って撮って」とせわしない。
 オッチャンの話はまだまだ続くのですが、限がない。「先を急ぎますので」と丁重に辞しました。
 とはいえこれが横浜流なのか……。

若いカップル すぐ上を鳶が

 オッチャンにせかされて撮った写真がこれ。カップルの頭上を鳶が飛んでいる、貴重なショットではありますが。

 横浜スタジアムのある横浜公園は、昔は遊郭でした。
 これについては日本庭園内に解説されているし、以前にも述べた(参照)ので省略しますが、いつきても花が美しく、心が安らぐところです……が。
後方は日本庭園
 ここに「横浜スタジアム」があります。それは「横浜DeNAベイスターズ」の本拠地でもあります。
横浜スタジアムを背景に 右後方は横浜スタジアム
 ところがこれがメッチャ弱い。ひそかに応援する当方にとっては腹立たしい限り。
 4年前の5月、ここで横浜vs.阪神戦を観たけど、初回から大量点を取られ、ボロ負け。このときは心やさしい横浜ファンの間からも非難の野次が飛びました。
 選手には気の毒だけど、もう少し強くなってくれ。(日本一になった15年前がなつかしい)
 というわけで、苦々しい思いがあるのです。

 しかしこの時期はそんなことにはおかまいなく、チューリップが咲き誇っています。その数69種16万本。
 今月の20~21日「チューリップまつり」に向けて、花のほうがお先に……というわけです。
 見事というしかありません。
公園内のチューリップ① 公園内のチューリップ② 公園内のチューリップ③
 当然ながら、大勢の「花見客」がくる。
 そしてみんな写真をパチリパチリ。(私もそのひとりですが)
 ほとんどの人が接写で撮っている。
 「それじゃ横浜公園だとわからんだろう。全景を撮れ」(人の勝手です)
花を撮る人①
 むろん私も気に入ったものは接写で撮りました。名前も記憶して。

 見てください、この黒いチューリップ。クイーンオブナイトといいます。
黒いチューリップ クイーンオブナイト
 白いのはホワイトトライアンファーム。オレンジはダベンポートです。
ホワイトトライアンファーム ダベンポート
 「これ、なんという名前かご存じですか?」
 三脚を立てたカメラで白いチューリップを撮っていた写真家(?)に聞いたら、「さあ」
 そこで「ホワイトトライアンファームです」と教えてあげたのですが、「はあ、そうですか」と気のない返事。名前も頓着せずに撮ってるのかッ!
 (芸術にとっては名前など不要ではありますが)
花を撮る人②
 おそらく「面倒くさいオヤジだな」と思われていたでしょうね。

 こちらは委細かまわず、他のおばさまたちにも「これ、ホワイトトライアンファームというのですよ」 
 おばさまたちはさすがに如才なく、「あら、そうなんですか。ありがとうございます」

 以前はむっつりと写真を撮っていた私ですが、このところすっかり人格が変わり、単なる「ひけらかしオヤジ」になっています。ベイスターズはもういいかな。
 みなとみらい地区に行くときは、いつも帆船日本丸のそばを通ります。
 しかしその姿を当ブログで取り上げなかったのは、帆を張ってないから。
 マストばかりでは面白くない。
マストに上る人たち
 実は30年ほど昔、GW前の祝日、息子(当時小4)を初めて横浜に連れて行ったとき、日本丸に帆が張られていました。
 なんと美しい帆船であることか。
 息子はよほど感動したのか、このことを作文に書いてました。
帆を張られた日本丸① 帆を張られた日本丸②
 このとき日本丸が帆を張る(総帆展帆という)のは年に12回ぐらいと知りました。
 いきなりラッキーだったわけです。

 その後も私は単独で何度もこの前を通っていますが、総帆展帆された日本丸を見ることはなかったのです。
 「もう一度、あれを見たい」
 というわけで、総帆展帆された昨日行ってきました。
帆先からあいさつ 手を振る
 帆が張られるのは午前10時30分から1時間かけて(たたまれるのが午後3時から1時間)。
 10時前から大きなカメラを持った人がうろうろ。
 「うーん、位置取りが難しい」
 船が美しく見えるのは、船から見て左前方から。高さは波止場目線より少し上(船の大きさにもよる)。
 しかしその位置からだと、バックに高い建物がかぶる。
 そこで右前方に変えました。しかも波止場目線。
帆先から下りる
 背後は高い壁でその上からも撮れるのですが、「ここだと見上げる角度になるけど、船に近いから、迫力があるだろう」との判断です。
 問題は若干逆光気味なこと。
 これが困る。私のカメラは逆光の補整が利かない。これで何度没にしたことか。

 日本丸の帆は全部で29枚。
 これを広げたり、たたんだりするのはすべて手作業。行うのは全員ボランティアの方(約100人)、なかには女性もいます。
格好の獲物(?)
 ただし、この日は風が強かった。
 そのため帆が少し左に傾けられました。帆が正面に見られないので、ますます面白くない。
 「今日は風が強い。これ、きっと早めにたたみますよ」
 とは横で写真を撮っていたオッチャン。
裏から見る
 オッチャンの説明によると、帆船というのは風を受けて進む。ところがガッチリと固定され進めなくなっているので、帆にかかる圧力は大変なものになり、損傷しかねない、とのこと。
帆を張られた日本丸③
 というわけで、いろんなところから撮ってみました。
 右前方からの写真も、バックに建物がかかっているとはいえ、なかなかのものだと思います。
 今度は風のないときにこようっと。
 「おバアちゃんの原宿」と呼ばれる巣鴨地蔵通り。
 この通りは、巣鴨の駅前を通る白山通り(国道17号)から斜めに入る小道(車輌通行制限)なので脇道のように思われるかもしれませんが、江戸時代は中山道の江戸出入り口でした。
地蔵通り商店街
 当時は旅の安全を見守るお地蔵様(江戸六地蔵尊のひとつ)が真性寺(真言宗)にあり、参詣客で賑わいました。
 ここがさらに活況を呈するようになるのは、明治24年に高岩寺(とげぬき地蔵)が上野から移転してからのこと。
真性寺(左はお地蔵様)
 とげぬき地蔵の由来をざっと説明すると、ある武士が妻の病の回復祈願に地蔵の姿を印じた紙 一万枚を川に流すことによって妻が全快したところから「御影」信仰が広がり、その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだところ針を吐き出したので、そこから「とげぬき地蔵」といわれるようになったとか。
 そこから他の病気の治癒改善にもご利益があるとされ、高齢の参拝者が絶えません。
高岩寺入口
 これとは別に「洗い観音」というのがあります。
 これは自身の治したい箇所に相応する観音像の箇所を洗うとご利益があるというので、これも洗う人があとを断ちません。
洗い観音に並ぶ人々
 以前はタワシでこすっていました。
 巣鴨は駅周辺に風俗店が多かったので、私も取材のついでに何度かここに寄り、それほど行列のないときは、タワシで観音様の頭と尻(当時は痔を患っていた)をこすりました。
 そのときの観音様は花崗岩だったと記憶しています。
洗い観音① 洗い観音②
 ところが磨耗著しく、観音様の顔がのっぺらぼうになったので、平成4年(1992)真っ黒な観音様に代変わりし、タオルでこするようになりました。
 「昔はお顔をこすってたけど、今はお腹と膝だよ」
 「あんた、お顔をこすってもご利益なかったねえ。ほほほほ」
 とバアさんたちが笑っています。
 こっちはそれを聞いているだけで元気が得られそうなご利益があります。

 ご利益といえば、地蔵通り商店街の名物「赤パン」
 こっちのほうがご利益絶大でしょう。
名物・赤パン
 この商店街は門前での出店のほか、食事処、和菓子屋、洋品店、衣料品店など、いずれもお年寄りがよろこびそうなものばかり。
ファッションの店 老人に人気(?)の雑貨店
 ここでは「玉こんにゃく」の立ち食いに人気があります。
 原宿の竹下通りでクレープ立ち食いの若者に顔をしかめるお年寄り、人のことはいえないぞ。
立ち食い
 毎月4日、14日、24日が縁日だから、今日(14日)は賑わうでしょうね。
 以前「梅の名所」で紹介した小石川後楽園(参照)。
 7万㎡以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて楽しめる日本庭園です。
入口 大泉水 蓬莱島
 同園の造成を指示したのは光圀(黄門様)で、朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国の文人たちが歌った西湖や廬山も採り入れています。
 しかし京都出身の私にとっては、別の面が見えてきます。

 まず愛宕坂。
 愛宕山は東京都港区(江戸)にもありますが、これは京都の愛宕山の坂をならってつくられたもので47段あるそうです。
愛宕坂
 清水観音堂跡と通天橋。
 これも京都清水寺の観音堂にならったものですが、関東大震災で崩れ落ち、今は跡地だけ。
 そこから鮮やかな朱塗りの橋、通天橋が見えます。
 これも京都東福寺の「通天橋」をならったものです。
清水観音堂跡 清水観音堂跡から通天橋を見る 通天橋
 渡月橋と大堰川。
 渡月橋という名の橋はあちこちに(六義園にもある)ありますが、このせせらぎを大堰(おおい)川と名づけています。となれば京都の観光名所、嵐山の渡月橋しかない。
 京都嵐山を流れる川は、渡月橋の下流は桂川、上流は大堰川と呼ばれているからです。
 立札にも「京都の渡月橋の名をとった」と書かれています。
渡月橋 大堰川
 どこまで京都コンプレックスやねん。
 もっともこの大堰川の命名については、三代将軍家光の助言によるもではないかと説明書きにあります。
 家光といえば上野寛永寺を造成させた天海僧正との結びつきは強く、上野公園内にも清水観音堂があります。
 ということは家光が京都コンプレックス?

 いずれにせよ、京都出身の私は郷愁に駆られたら、上野公園か小石川後楽園にくれば解消されるということでしょうか。
 みなとみらい地区に行けば、必ず赤レンガパークに寄ります。
 ここはいつ行っても、何かしら趣向の変わったイベントをやっているからです。

 4月は「FLOWER GARDEN 2013」と銘打って、巨大な花壇が設えられていました。
 花の数約47,000 株。

 まず花畑エリア。
 赤や黄色の多種多様なマリーゴールドが中心です。
花畑エリア
 続いて群生エリア。
 ここには、かつて赤レンガ倉庫周辺に咲いていたテッポウユリやタンポポも植えられています。
 赤レンガ倉庫の時代、何度か訪れたことはありますが、そんなの咲いてたっけ。雑草ばかりだったような……。
 群生エリア①群生エリア②
 しかしこの群生エリア、両側に傾斜していて、旧赤レンガ倉庫がバックだと絵になるので、写真を撮る人も多い。
 別の角度から撮ると、この傾斜をまたぐように、橋がかけられているのが見えます。
群生エリア③  群生エリアとフラワーロード
 その橋に上がると、下に通路が見えました。フラワーロードというそうです。
 なぜか。
 そこでみなさん、花の絵を描いています。
 私が行ったのは初日だったので、今はもっと沢山の花が描かれていると思います。
フラワーロード
 夜はフラワーガーデン全体がライトアップされるそうです。
 このイベントは今月21日(日)まで。
 「なに、埼玉県に住んでいてサクラソウを知らない? そんなヤツはモグリだよ」
 先日、近所のオジサンにこんなことをいわれました。
 まあ、ソメイヨシノなどの桜とは違うと思ってましたが……。

 サクラソウは学名「Primula sieboldii」といって、サクラソウ科サクラソウ属の多年草植物。
 今の季節、さいたま市桜区にある「さくら草公園」へ行けば、自生のサクラソウが見られるとのことで、先日行ってきました。

 さくら草公園は荒川の秋ヶ瀬橋のすぐ近くにあります。
 入口に「田島ヶ原サクラソウ自生地」と表示された柱が立っています。
 柵が設けられ自生地内に立ち入ることはできず、見るのは通路からのみ。保護のためにはやむを得ないそうです。

サクラソウ自生園入口

 「えッ、あれがサクラソウ?」
 緑の草むらのなかに、所どころピンクの花が見えます。てっきりピンク一色になるのかと思ってたけど、違うのか。
 「自生ですからね。人工的に栽培しているわけではないんです」
 とは説明員の方。

サクラソウ自生園①

 その方の説明によると――、
 ここは田島ヶ原といって、江戸時代からサクラソウの名勝地として人々に親しまれたところでしたが、明治になって度重なる治水工事や工場の建設などでサクラソウは絶滅の危機に瀕したので、大正9年(1920)に国の天然記念物、さらに昭和25年(1950)に特別天然記念物に指定され、保護されるようになりました。
 「今では埼玉県の県花(他には大阪府)になっています」

サクラソウ①

 「野生のサクラソウって味わいがあるねえ」
 「これを維持するのは容易なこっちゃないよ」
 とは年配のご婦人方。
 みなさん、草花に対する造詣が深い。(知らないのは自分だけ、と最近気づきました)

サクラソウ②

 この人たち、葛飾区からきたそうで、「最寄り駅はどこなの?」と説明員の方に聞いてました。
 (だったら、くるときはどこからきた?)

サクラソウ自生園②  

 このさくら草公園、この時期は約10万人の人々が訪れるそうです。
 また20日(土)、21日(日)には「さくら草まつり」が開催されますが、今年は季節が早いから、散ってしまうのではないかと心配です。


 昨日も述べたように、先月16日(土)東急東横線と東京メトロ副都心線がつながることによって、当方はダイレクトに横浜に行けることになりました。

 3月某日、朝6時30分、最寄り駅(鶴瀬)のホームに「元町中華街行き」が着いたときは内心小躍りしました。「これに乗るだけで横浜に行ける」
鶴瀬駅に着いた元町中華街行き
 しかし乗ってみて唖然。空席がない! 早い時間だから、てっきり座れると思ったのに。
 これは川越市始発(4駅先)のはず。「そんなにみんな横浜に行くのか!」
 これから乗り換えなしで1時間20分、立ちっぱなしかよ。
柳瀬川を渡る東武東上線
 もっともそれは杞憂で、和光市駅で目の前の人が乗り換え(?)で降りたため座れました。
 「だったら、これに乗ることはないじゃないか」(人にはいろんな事情があります)

 和光市からは副都心線(通勤急行)になるので、地下にもぐります。
 車窓の景色が見られないので、本を読むか、眠るか。(最近は後者が多い)

 「鶴瀬駅で用を足しとくべきだったかな。出かける前にコーヒー飲みすぎたから」
 途中からこんなことが気になりはじめました。(加齢現象です)
 これまでなら乗り換えの渋谷駅で用を足していたのに。これは直通になったことの新たな問題?
 まあいい、我慢できなくなれば途中で降りてもいいのだから。
新宿三丁目
 そうこうしているうちに電車は新宿三丁目を過ぎ、渋谷へ。
 従来の副都心線渋谷駅ですが、違うのは降りなくてもいいこと、乗ってくる人が多いこと。
 ドアが閉まると、そのまま進みます。
 一瞬不思議な感じでしたが、ほどなくしてぽっかりと地上に出て、代官山を通過し、中目黒に着きました。紛うことなき東横線! しかも急行です。
自由が丘(ラ・ヴィータ)
 私は学生時代から東横線とはゆかりがあって、沿線には好きな駅も多い。
 中目黒、都立大学、自由が丘、武蔵小杉、日吉、大倉山、白楽……。
 下車することはあまりないのですが、通過するだけでも楽しい。
大倉山
 しかし……。
 電車の進み具合が遅い。しかも日吉あたりから停車時間が長くなっています。
 「ただ今、池袋駅でドア点検を行っております。その関係で、当電車は10分少々遅れております」
 との車内アナウンス。
 それでか。以前は池袋の事情で、東横線が遅れるなんてことはなかったぞ。
 これも複合・長距離化したことによる弊害か。
白楽(六角橋商店街)
 電車は次第にのろのろ運転。しかも菊名駅は6分ぐらい停車していた。
 やっと動いたと思ったら、またのろのろ。次は横浜だというのに。
 東白楽、反町は急行だから停まらないのに、まるで停まっているかのよう。
 「到着が遅れまして申しわけございません……」とのアナウンスにようやく横浜に着きました。8時5分。15分の遅れです。

 遅れるのは、これっきりにしていただきたい。
 ちなみに「小用」のほうは、なんとか持ちこたえました。 次回からは必ず鶴瀬で済ませます。
 先月16日(土)東急東横線と東京メトロ副都心線がつながることによって、みなとみらい線→東横線→副都心線→東武東上線・西武池袋線がつながりました。
 これによって、埼玉に住む当方はダイレクトに横浜に行けることになりました。
東武東上線 東横線
 これまでは最寄り駅鶴瀬(東武東上線)から、①池袋に出てJR湘南新宿ラインに乗るか、②東上線→副都心線で直接渋谷に出て東横線に乗る、の二通りでした。
 しかし①は高いし、定刻通りこない、ということで、もっぱら②を利用しました。

 ②にしても、渋谷乗換えは手間と時間がかかります。
 移動だけで6~7分、待ち合わせなども含めると20分ぐらいロスしているのではないか。
 そんな状況だったので、この直通は大歓迎です。

 先月15日、これまでの東横線渋谷駅が終る日、大勢の人が詰めかけ、写真を撮ったそうですが、私は東横線渋谷駅の写真など一枚も撮ってなかった。
 これは横浜へ向かう始発なので、一刻も早く乗りたくて、写真撮ることなど思いもしなかった。
向かいは旧東横線渋谷駅 渋谷ヒカリエ
 写真は昨年「渋谷ヒカリエ」から撮ったもの。向かいのかまぼこ屋根の建物が東急東横線の駅舎です。今となれば貴重な(?)写真です。

 渋谷といえば「忠犬ハチ公」の銅像が有名で、待ち合わせ場所の人気スポットですが、最近は少なくなったような気がします。その南側に「モアイ像」ができたから?
 それよりも携帯電話の普及がいちばんの原因でしょう。
忠犬ハチ公の銅像 モアイ像
 道玄坂・百軒店も変わりました。
 学生時代はジャズ喫茶が多く、初めてコルトレーンを聴いたがこの奥にあった「Swing」
 今は風俗店に変わっています。その風俗店を取材していた時期もあり、「渋谷も変わったな」と思ったものですが、それも昔の話。行くこともなくなりました。
昔ジャズ喫茶、今は風俗店
 以前、横浜から渋谷へ帰ってきて地下鉄副都心線に乗り換えようとしたとき、途中の空き地で若者がジャズの演奏をしていました。「けっこうレベルが高いのではないか」
 ノリのよさに思わず足を留め、ついでに写真も撮りました。
夜のパフォーマンス
 それも直通によって見ることもなくなりました。
 私のように直通によって渋谷を素通りする人は増えたと思います。

 TVの報道では、(横浜方面から)東横線で都心に向かう人は、渋谷でJRや地下鉄銀座線に乗り換えるのが不便になったといいます。
 そうなると渋谷で乗り換えずに、そのまま副都心線に乗って、表参道か新宿三丁目で乗り換える人が増えるでしょう。渋谷は割を食いました。

 直通によって、私は渋谷に降りることはなくなりました。「遠くなった」とはそういう意味です。
 昨夜は、WBAバンタム級タイトルマッチ、亀田興毅vs.パノムルンレック・カイヤンハーダオジム戦を観ました。

 チャンピオン亀田(26)の今回の相手はタイのパノムルンレック・カイヤンハーダオジム(29)
亀田と同じサウスポーで、しかも唯一負けた相手ポンサクレック(タイ)の愛弟子。亀田の弱点や戦い方の秘策などを授かってきました。
TV中継より①
 これに対して亀田は「KOで勝つ」と宣言したのですが……。

 試合は序盤から接近戦。
 亀田はもともとガードを固め、距離をとって戦うボクサーですが、接近戦になるのは、「サウスポー同士だから」(解説者)だそうです。
 たしかにジャブの出し方を考えると、「相四つ」だとどうしても接近してしまいます。
TV中継より②
 しかしこの接近戦はどうだったか。
 亀田が打てば相手も打つ、という交互に打ち合う形になりましたが、パンチの数、有効打という点では挑戦者のほうが少し上回っていました。
 そのため亀田の顔面は真っ赤に腫れ上がり、鼻から出血するようになりました。
TV中継より③
 なんといっても印象が悪い。
 9回、10回などはロープを背にして連打を浴び、防戦一方。
 12回まで持ちこたえ、なんとか体面を保ちましたが、敗北感が漂いました。
 しかし判定は2―1で亀田の勝ち。
TV中継より④
 意外でした。
 挑戦者側はこの判定に納得できず、「再戦したい」といっていますが、当然です。
 とはいえ挑戦者の完勝ともいい難く、両者引き分けにして、チャンピオン防衛とするのが妥当でしょう。

 判定が亀田の勝ちに流れたのは、ボクシング界の総意と思われます。
 チャンピオンベルトをタイに持っていかれるより、日本にあったほうが経済効果は大きいからです。
TV中継より⑤
 亀田はそれがわかっているので、内心忸怩たるものがありました。
 「アカンもんはアカン。しょうもない試合をして申しわけないです」
 出てくることばは反省の弁ばかり。

 彼は意外に小心で謙虚な性格ではないか。それだけに自分が許せなかった。
 そのため思わず土下座をしましたが、あれはいただけない。
TV中継より⑥
 もう亡くなりましたが、ふだんは傲慢なくせに、選挙のたびに土下座する政治家がいました。
 そのため私には土下座に対する不信感があります。亀田君にはやってほしくなかった。 

 謙虚な性格の亀田君としては「お客さんに申しわけない」という気持ちでいっぱいだったのでしょう。だとしても、それを土下座という行為で「解消」してはいけない。
 「なんだよ亀田、あの勝ち方は」
 と観客から批判されても、いいわけせず、それをバネに努力するしかないのだから。
 ダラダラとアップしてきた桜の名所探訪も今日で終わり。
 そこで最後は、現地へ行ったものの選に漏れたところを取り上げます。

目黒川流域
 池尻大橋から目黒駅付近まで約3.8kmの川沿いに約800本のソメイヨシノが咲き誇ります。
 メインは中目黒近辺。この時期は多くの花見客が訪れます。
 ラジオ(TBS)を聴いていたら、久米宏、鳥越俊太郎氏、女子アナたちが「花見に行ってきたところ」というのがきまってここ。 マスコミ関係者の間では圧倒的人気です。
 そんなにいいのか、目黒川は。
目黒川  
 この川をとくとごらんあれ。垂直近いコンクリートの側面です。これでは川ではなく、単なる水路(ドブ川ともいう)。これのどこに風情がある。
 私はこの近くの出版社に勤めていたことがあるので、よく知っています。この川はふだんはチョロチョロと流れてますが、大雨が降ると増水し、ときとして氾らんする暴れ川です。(参照) 
   橋から見た目黒川
 もちろんみなさんそんなことに関係なく花見を楽しんでいます。
 強いてよさを挙げると、桜が真近に見られること。ブルーシートを敷いての花見ができないので、歩いて見るだけ。花見特有の喧騒は無縁です。 
別所橋 桜橋
 とはいえ近くにシャレた飲食店があるので、花見はそこでするようになっています。人気のチーズケーキの店も健在です。
 この店は昔からあり、私が勤めていた当時の出版社は景気がよかったので、3時のおやつにはここのチーズケーキが出たこともありました。
チーズケーキの店
 この目黒川の桜、夜は雪洞が灯されます。その写真を見ると、川床の汚らしい光景は見えないので、「夜桜のほうがいい」と思いました。

川越女子高前桜並木
 川越女子高校とカトリック川越教会を結ぶ100mほどの道が桜並木です。
 春になるといっせいに桜が咲いてそれは見事なんですが……。
川越女子高
 如何せん人通りがない。
 女子高の前だから本来なら華やかなはずだけど、今年は開花が早くて春休み中に咲いたので、閑散としているらしい。
桜並木① 桜並木②
 もっとも学校がはじまって女子高生が大勢いるところを撮っていれば、たちまち「怪しいオヤジ」と思われかねないので、これでよかったのかも。
 同じ学園前の桜並木も「成城学園」とはえらい違い。やはり知名度の差でしょうか。
 川越女子高校はテレ朝の小宮悦子アナの出身校だから、学力では引けをとらないのに。
カトリック教会のマリア像
 おまけの写真は向かいにあるカトリック川越教会のマリア像。
 こっちのほうがよかったかな?

大宮公園
 大宮公園は埼玉県の桜の名所としては一、二を争うメジャーなところ。
 規模は上野公園並み、舟遊池もあったりして、桜の見せ所としては素晴しい。
大宮公園① 大宮公園②
 ただ惜しむらくは由緒というか、+α(歴史的背景など)が足りない。
 単に桜の花を愛でるなら、その辺の小学校の校庭に咲いている桜(ソメイヨシノはどこでも同じ)でじゅうぶんだから。
 舟遊池① 舟遊池②
 もっとも私が訪れたのはすでに葉桜の時期でちょっと地味だった。
 これで番外編に追いやられたのは、少々気の毒だったかな。
 今回は世にも珍しい桜を紹介しましょう。
 埼玉県志木市の長勝院跡にある「長勝院ハタザクラ」
 推定樹齢400年以上のヤマザクラ(バラ科)の古木で、高さ11.2m、幹周り3m、桜の木としては大きいほうです。
長勝院ハタザクラの古木
 問題は花びら。
 「ソメイヨシノより白っぽいな」ですって?
 それもそうですが、写真左の花びらをとくとごらんあれ。
左の花びらがハタザクラ
 中心部から白くて細長い花びらのようなものがピローンと突き出ているでしょう。
 これは花びらではなく、雄しべが変形したもの。旗に見えるところから「ハタザクラ」と命名されました。
 変わっているでしょう。
 志木市教育委員会によると、この桜は「世界に一本」だそうで、志木市天然記念物にも指定されています。
説明する人 
 私も最初はよくわからなかったのですが、解説の方の説明を受け、花びらのひとつひとつを注意して見ているうちに、中央からピローンとハタが目につくようになり、ようやく見分けがつきました。
 ハタが出ているのはすべての花びらではなく、5輪に1輪の割合。率でいうと、少ないのです。
こちらは二世?
 では次の写真。
 これにもハタの出ている桜があります。どれでしょうか。
このなかでハタザクラはどれ?
 もうおわかりになりましたね。

 この長勝院ハタザクラ、市の広報には出ているので地元の人は知ってるけど、埼玉県でもそれほど知られていません。そのため花見客(?)もごくわずか。見た私は果報者です。

 志木市といえば2年前荒川に出没したアザラシ「あらちゃん」で有名になりましたが、実はこんな珍しいものもあるのです。
 川越の桜といえば、新河岸川に尽きます。
 昔は江戸までの輸送に利用されましたが、今では川越の中心街を囲むように流れ、所どころ木の橋や遊歩道が設えられて、新たな観光地になっています。
新河岸川の桜①
 とくに川越氷川神社の裏手の氷川橋を中心とした川沿い500mにはソメイヨシノがびっしり。
 この景色は最高です。
 これまで私がアップしてきた桜のなかではここが一番。
新河岸川の桜② 新河岸川の桜③
 この桜は昭和32年に川越の和菓子店「亀屋栄泉」当主が、戦没者慰霊のために約300本の桜の苗を寄贈したのがはじまりだそうで、別名「誉桜(ほまれざくら)」とも呼ばれています。
新河岸川の桜④
 水辺の桜といえば一昨日アップした大岡川(横浜)が挙げられますが、川の側面が切り立っているので、川としての風情がない。
 その点新河岸川は側面がなだらかで、川面近くまで下りられる川岸があります。
新河岸川の桜⑤ 新河岸川の桜⑥  
 川幅も適度に狭く、川岸に下りるとまるで桜のトンネルに入ったよう。

 この新河岸川の桜は昨年も取り上げました。(参照
 このときは日曜日だったため、大勢の人で賑わったので、今年はわざと平日を狙いました。
 それでも宮下橋では多くの人がたむろしていました。
宮下橋① 宮下橋②
 その多くは大きなカメラを抱えた年配のオッチャン。
 むろん私もそのひとりなのですが、これがフレーム内に入ってくると、実に目障り。極力排除すると、肝心の景色が撮れないということもしばしば。
 この新河岸川の宮下橋では如実にそれを感じました。
 したがってアップしたのはオッチャン抜きの写真。
 むろんこれは他の人もそうでしょうね。私も絶対に排除されているはず。
花筏① 花筏②
 また私が行った時期は、そろそろ桜が散りはじめていました。
 川面にはらはらと花びらが落ち、そこはかとない風情を感じました。

 行く春を惜しむとはこのことでしょうか。

 このところ関東地方は冷たい雨が降り、気温は冬に逆もどり。
 昨日は激しい風が吹き、都心の桜にとっては「花散らし」の風になったとか。
 しかし、それより北にある埼玉の桜はまだ散りません。

参道

 私が思うに、桜を散らすのは風や雨ではなく、日数と暖かさ。
 寒い日が続けば、桜の「成長」は止まり、花は散りにくいのです。

境内①

 川越・喜多院の桜(ソメイヨシノ)はまだ健在(?)。散りはじめてはいますが。

 ここは庫裏前のしだれ桜が有名ですが、境内全体はソメイヨシノ。(約100本)
 シーズンともなると、花見客で賑わいます。

花見客① 花見客②

 この日も早くからブルーシートが敷かれ、数人が弁当を広げていました。
 夜はライトアップされ、酒宴もあるそうですが、全体的には家族連れが多く、大人しいものです。
 もっとも大師様の境内なので、ドンチャン騒ぎはあまりやらないようです。

 五百羅漢もいるからね。

境内② 境内③

 しだれ桜はもう終っていましたが、その近くにピンクの花が鮮やかです。
 みんな写真を撮っていました。
 私も一応撮りましたが、なんの花かわからない。
 しきりに撮っていたおじさんがいたので聞いてみると、「ヤマツツジです」
 なるほど、そうか。

ヤマツツジ① ヤマツツジ②

 ヤマツツジは2年前、駒込「六義園」で見たことがありますが、このあたりでは大変珍しいそうです。
 「珍しい」といわれ、アップでも撮りました。
 まったく花には無知な当方です。

境内④ 境内⑤

 ここは天台宗のお寺で、慈恵大師(元三大師)が祀られています。
 建物の大半は重要文化財に指定されています。客殿には春日局の化粧の間や、徳川家光誕生の間などがあり、川越では一大観光スポット。
 今の時期はヤマツツジも見られますよ。

 昨日(04/03)の選抜高校野球は決勝戦。浦和学院(埼玉)vs.済美(愛媛)
 予想では「打力で勝る浦和が有利」とのことでしたが、済美のエース安楽君は2年生ながら、球速152kmを越す剛速球投手。「彼本来の投球をされたら、浦和は点が取れないだろう」
選抜高校野球・決勝①
 済美は2回表に1点を先取。これに対して浦和は走者を出すものの、タイムリーヒットが出ず、済美の堅実な守備にも阻まれて点が取れず、ズルズルと無得点。「ありゃ、これはヤバイぞ」
選抜高校野球・決勝②
 しかし5回裏、浦和にタイムリーヒットが出て同点。これに吹っ切れたか、ヒット、ヒットの連続で一挙7点。浦和打線、おそるべし。

 浦和は6、8回にも加点し、終ってみれば17―1の大勝。
 これは安楽投手が降板して、次に出てきた投手が明らかに力不足だったからです。
 安楽投手は連投で疲れが溜まり、球威がなかった。
 甲子園大会では、3回戦を含めて準々決勝→準決勝→決勝と連投になるからです。
選抜高校野球・決勝③ 
 これに関して、昔「高校野球でもプロと同じように複数の投手を立てればいいじゃないか」といったヤツがいました。

 それはその通りですが、そんなことができれば苦労はない。
 高校野球で投手を育てるには、投球練習だけではなく、打者との駆け引き、走者への牽制、バント処理や守備の連繋など、試合に出ないと身につかない。
 ただし対外試合は週末のみ。これを2年かけてやっと一人前の投手が育つというもの。 
 選抜高校野球・決勝④ 選抜高校野球・決勝⑤ 
 したがって3人のエース級の投手を擁するには、3チームつくってそれぞれが個別に対外試合をやり、地区予選に入ると、3チームを解体して優秀な選手を選りすぐり、それぞれの投手を入れる、これしかないそうです。

 PL学園(大阪)が3人のエース級を擁して夏の全国大会を制覇したときがまさにそれでした。
 数多くの優秀な部員が揃ってこそできることです。
 しかしこれもひとりの監督が複数のチームを見ることになるので、別の難しさもあり、現実にはなかなか上手く行かないとのことです。これは高校野球の体験者から聞きました。
選抜高校野球・決勝⑥
 今大会で印象に残ったのは、ラフなスライディングが厳格になったこと。
 大阪桐蔭vs.県岐阜商で、9回大阪桐蔭が本塁突入の体当たりスライディングが危険なプレーと見なされ、アウトになりました。
選抜高校野球・決勝⑦
 これは浦和学院vs.敦賀気比でも見られました。9回敦賀気比一死一塁で打者の打った二塁ゴロで一塁走者が封殺。このとき走者がベースカバーに入った遊撃手と接触したために、遊撃手は一塁に投げられなくなりました。
 このときの審判の判定は、一塁走者は封殺でアウト、さらに守備妨害なので打者走者もアウト。形の上では併殺で、ケームセット。こんな幕切れ、見たのは初めてです。

 高校生のルールとしては、これもやむを得ないのでしょうが、それにしてもメジャーリーグで当時ツインズの西岡選手に体当たりスライディングしたヤツ、今思い出しても腹が立つ。
選抜高校野球・決勝⑧ 選抜高校野球・決勝⑨
 すみません。高校野球に関係のない話です。
 こちとら「にわか埼玉県民」としては浦和学院が優勝してくれて、本当によかった。
 済美の安楽君はまだ2年生。将来が楽しみです。
 横浜の桜の名所といえば、大岡川プロムナード。
 ここは昨年もきたし、まるで金太郎飴のようにダラダラ続くので、「今年はもういいか」と思ったのですが、野毛山から下りてきたところが黄金橋。「仕方がない。また歩くか」
 昨年は弘明寺から歩きました。延々3.5km。うんざりするはずだ。(参照
 それに比べて今回は黄金橋からなので、河口の弁天橋まで歩いてもせいぜい1km。楽なものです。

 両岸の桜はすでに満開。見事です。
 川面を船が上るのが目につきました。宴会船のようです。 
船と桜① 船と桜②
 それを撮っているうちに、去年はただ漫然と桜を撮っていたことに気づきました。
 「今年は桜+αを撮ってやろう」

 そう思うと、大岡川特有の風情が見えてきます。
 例えば都橋商店街(参照)。川から見ると殺風景な建物ですが、桜の花越しに見ると一幅の絵。
都橋商店街
 絵といえば、大岡川の桜を描いている人々と出会いました。
 「撮らせてください」と頼むと、「いいですよ」
 景色と絵の対比が面白いと思いました。
桜を描く人々 力作!大岡川の桜 描いた人
 しかしこれだけではもの足りない。ここまできたからにはライトアップされた桜も見たい。
 夕方になって、再び弁天橋に舞いもどってきました。
 橋のたもとの公衆トイレ近くのベンチで、5~6人のむさ苦しいオッチャンたちが酒盛りをしています。
 「夜桜の見られるところはありますか」と聞いたら、
 ひとりのオッチャンが真上の桜を指差して「これが夜桜じゃよ。わははは」
 別のオッチャンが「都橋から遡ると雪洞(ぼんぼり)が灯っているよ」
雪洞灯る大岡川① 雪洞灯る大岡川②
 雪洞の明りでは心もとないけど、まあいいか。
 時刻は5時半。完全な夜ではなく、薄暮状態なので雪洞の威力は今ひとつですが、これ以上暗くなるとこのカメラで撮りきる保証はない。これでよしとせねば。
 一ヵ所だけ旭橋のたもとで桜がライトアップされてました。
桜のライトアップ 大岡川の夜景
 いつもはむっつりと写真を撮る私ですが、今回は珍しく船上の人に手を振ったり、行き交う人々と会話を交えて撮りました。
 これも大岡川の桜の「魔力」でしょうか。
 山手通りは桜の宝庫です。どこを撮っても絵になる。
 なにしろここは「日本の道100選」に選ばれているのですから。
 もともとここは丘陵で「Bluff」(尾根)と呼ばれ、幕末当時は英仏の軍隊が駐屯していました。明治になって瀟洒な洋館が建てられ、外国人の高級住宅地になりました。

 まず谷戸坂を上ります。
 この坂は急なところもあり、疲れますが、この時期は桜が迎えてくれます。
谷戸坂
 谷戸坂を上りきったところに港の見える丘公園がありますが、この公園の奥、大佛次郎記念館の裏、霧笛橋のたもとには大きな桜の木があり、これが見事。
 ここから新山下のほうに降りられる階段(ムジナ坂)があり、そこからベイブリッジが見えます。桜の花越しに見られるというのがポイントです。
霧笛橋 ムジナ坂よりベイブリッジを見る
 続いて外人墓地。
 幕末にやってきたペリー提督率いるミシシツピー号の船員をここに埋葬したのがはじまりです。
 その後は文明開化に尽力した財界人や文化人、技術者、医師なども埋葬されるようになりました。ここの桜もなかなか見事 です。
 続いてエリスマン邸の前。
 ここにも桜が咲いていますが、山手通りを代表する場所だけに、桜の名所になるのです。
外人墓地 エリスマン邸の前
 山手通りをさらに南下すると、左手にカトリック山手教会があります。ここの桜も見事。
 とくにマリア像の周囲にはソメイヨシノだけではなく、しだれ桜も咲いていて、ここだけで「花見の名所」といってもいいぐらい。
カトリック山手教会① カトリック山手教会② カトリック山手教会③
 さてそこから横手に入ると山手公園。わが国最初の西洋公園です。
 同時にテニス発祥記念館や山手68館があります。ここも桜の名所。酒盛りしているグループもありました。
 ここで写真を撮っていたら、ひとりの老婦人からこんな質問を受けました。
 「他に桜のきれいな場所はどこですか」
 よほどの桜ハンター(?)に見られたようです。
山手公園① 山手公園②
 「近くならカトリック教会、エリスマン邸の前、そして霧笛橋のたもと。ちょっと遠くなるけど、大岡川」
 と答えると、「大岡川はどこで降りればいいの?」
 これに対しては「日の出町」と答えましたが、この老婦人はバス停を知りたかったようです。(こっちは歩くことが多いのでバス停はわからない)

 さて、そこをあとにして再びエリスマン邸にもどりその脇から元町公園に下りました。
 ここも風情ある西洋庭園。さらに桜がいっそう彩りを添えます。
元町公園① 元町公園②
 この時期の山手通りも見逃せない、と思いました。