ローマ郊外に「チネチッタ」と呼ばれる映画村があります。イタリア映画はおろか、「ベン・ハー」などのアメリカ映画もここでつくられました。しかし60年代に入ると、仕事がガタ減り。

 そこで低予算の映画をつくろうと、目をつけたのが西部劇。アメリカからそれほど有名でもない俳優を呼び、ストーリーは黒澤明の「用心棒」をパクり、わずか数日で一丁あがり!
 タイトルは「Per un pugno di dollari」(=わずかなドルのために)

 しかしこれが予想外のヒット。本国のイタリアのみならず、本場アメリカ、日本、ドイツ、スペイン、イギリスでも大ヒットしました。これが日本名「荒野の用心棒」です。
 主演のクリント・イーストウッドはこれで一躍有名になりました。

 この「荒野の用心棒」の大ヒットを皮切りに、数多くのマカロニ・ウエスタンがつくられ、一大ブームとなりました。なかには駄作もあります。まさに粗製乱造。
 そのなかで私が気に入ったものを挙げると――。

 「荒野の用心棒」(1964)監督セルジオ・レオーネ
 「夕陽のガンマン」(1965)監督セルジオ・レオーネ
 「続・荒野の1ドル銀貨」(1965)監督ドゥッチョ・テッサリ
 「続・荒野の用心棒 」(1966)監督セルジオ・コルブッチ
 「ガンマン無頼」(1966)監督フェルナンド・バルディ
 「新 夕陽のガンマン 復讐の旅」(1967)監督ジュリオ・ペトローニ
 「血斗のジャンゴ」(1967)監督セルジオ・ソリーマ
 「殺しが静かにやって来る」(1968)監督セルジオ・コルブッチ
 「ウエスタン」(1969)監督セルジオ・レオーネ
 「西部悪人伝」(1969)監督ジャン・フランコ・パロリーニ
 「夕陽のギャングたち」(1972)監督セルジオ・レオーネ

 私が最もおどろいたのは「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」で敵役になったジャン・マリア・ボロンテというイタリアの俳優。そのアクの強さと、濃い演技に「こんな俳優はアメリカには絶対いない」と思いました。

 ↑「夕陽のガンマン」、ラストの決闘シーン。ボロンテは敵役ですが、演技の濃さではアメリカ人のふたり(クリント・イーストウッドとリー・バン・クリーフ)を完全に食ってます。

 「続・荒野の用心棒 」も強烈な印象を与えました。
 主人公のジャンゴは山賊が盗んだ砂金をひとり占めしようとします。こんなダーティな主人公はアメリカ西部劇には絶対出てきません。
 ラストの対決シーンでは、手の甲を砕かれたジャンゴが墓標(十字架)に銃を固定してのファンニング撃ち。実際はあり得ないのですが、強い意志さえあれば、「成せば成る!」

 あまり大きな声ではいえないけど、現在イジメに遭っている子はこっそりこれを見て、いつの日か起死回生の希望を持ってほしい。そのためには意志を強く持つこと。死んじゃダメだよ。

 このマカロニ・ウエスタンの一大ブームについて、本家のアメリカ映画界では、「史実を捻じ曲げたニセ西部劇」とコキおろしました。
 しかし史実というなら、本家の西部劇こそ原住民に対する歴史観が歪曲され、人種構成が偏っています。
 当時の巨匠ジョン・フォードやハワード・ホークスがつくったような西部劇は、現在ではつくれません。TVでの放映は不可、町のDVD店で買うのも難しい状況です。
 結局アメリカ西部劇というのは、フロンティア・スピリットに名を借りた白人至上主義のプロパガンダで、まるっきりフィクションだったのです。

 その点、マカロニ・ウエスタンは最初から「史実」など問題にしてない。
 これは西部劇というより、西部劇風フィルム・ノワール(暗黒映画=日本では一時期ギャング映画と呼ばれていた)です。そのため勧善懲悪など関係なく、悪人たちが跋扈する世界が描かれているのです。

 このマカロニ・ウエスタンをつくったのは、当時の左翼系の映画人。
 そのため随所に反権力的な思想が込められており、当時の政治的な事件を題材にしています。
 単なる娯楽映画ではなく、イタリアのエッセンスが詰まった映画といっても過言ではないのです。
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 今、イタリアの政治が揺れています。
 その動向次第では全ヨーロッパに影響を及ぼし、敷いてはわが国にもその影響がくるというので、全世界が固唾を呑んで見守っています。
 イタリアといえば、この国の人々は陽気で好色、チャランポランなイメージを思い浮かべますが、実は美術や音楽など芸術分野に優れ、家族思いで情に篤く、政治に対する関心の高い国民なのです。
 これらのことは主に映画で学びました。印象に残った作品をざっと挙げてみると――、

 「自転車泥棒」(1948)監督ヴィットリオ・デ・シーカ
 「越境者」(1950)監督ピエトロ・ジェルミ
 「終着駅」(1953)監督ヴィットリオ・デ・シーカ
 「崖」(1955)監督フェデリコ・フェリーニ
 「鉄道員」(1956)監督ピエトロ・ジェルミ
 「道」(1957)監督フェデリコ・フェリーニ
 「カビリアの夜」(1957)監督フェデリコ・フェリーニ
 「刑事」(1959)監督ピエトロ・ジェルミ
 「甘い生活」(1959)監督フェデリコ・フェリーニ
 「情事」(1960)監督ミケランジェロ・アントニオーニ
 「世界残酷物語」(1962)監督グァルティエロ・ヤコペッティ
 「家族日誌」(1962)監督バレリオ・ズルリーニ
 「太陽はひとりぽっち」(1962)監督ミケランジェロ・アントニオーニ
 「8 1/2」(1963)監督フェデリコ・フェリーニ
 「山猫」(1963)監督ルキノ・ヴィスコンティ

 これは、戦後からマカロニ・ウエスタンまで、と私が勝手に区分けした「イタリアン・リアリズム」の時代。リアルタイムで観たのではなく、大半はリバイバルやTV、ビデオです。
 このころのアメリカ映画では人々は大型車に乗り、広い家には大きな冷蔵庫がありますが、イタリア映画に出てくる人々は貧しく、いじけていて、嫉み、憎しみなど負の感情剥き出しでした。「こちらのほうがよほど人間を深く描いている」と、子ども心に思ったものです。

 なかでも忘れられないのは「鉄道員」(1958)(ぽっぽやではありませんヨ)

 これは幼い末っ子サンドロ少年から見た家族像。
 鉄道機関士の父親は、ある日自分の運転する列車で投身自殺した若者を引いてしまい、それがショックで赤信号を見すごし、左遷されてしまいます。
 同居していた姉夫婦は流産が原因で夫婦仲が悪くなり、不倫。父親は激怒。これには兄も愛想を尽かし、みんな出て行きました。
 父親は運転したさにスト破りをし、仲間から孤立して酒に溺れます。サンドロは酒場を回って父を探し出します。「パパ、もう帰ろうよ」
 父は帰り、以前よりも柔和になり、友人たちや家族との和解の兆しも見えましたが、ある朝、父は眠るように旅立って行きました。音楽(カルロ・ルスティケリ)もよかった。

 他にはやはり「道」(1957)でしょう。
 貧しい農村で育ったジェルソミーナは大道芸人のザンパノに買われ、その助手をさせられます。
 ジェルソミーナは純真無垢な女性でしたが、次第にザンパノに疎まれ、捨てられます。数年後、海辺の町で、ザンパノはジェルソミーナの最期を知り、砂浜に泣き崩れました。  

 これもニーノ・ロータの音楽がよかった。
 昨日(02/25)「荒川強啓デイキャッチ」(TBSラジオ)を聴いていたら、突然警告音とともに「今、関東地方に震度5の揺れを感じました」の報。
 震度5とは尋常ではないぞ……そう思ったら、ガタガタガタッと小さな揺れ。これは震度2かな。時計を見ると午後4時23分。
 震源地は栃木県北部、震源の深さは約10km、マグニチュード6.2。震度5強を観測したそうです。
 地震はその後も数回(夜も)ありました。

 2年前の「東日本大震災」直後、首都圏はたびたび地震に見舞われました。
 おかげで「これは震度2」「これは3」……という具合に、ある程度震度がわかるようになりました。3と4の区別はつきます。
 3ぐらいではおどろきません。(なめてはいけませんが)
 また、しょっちゅう揺れを感じることもありました。これはいく分「錯覚」もあるそうです。

 あれいらい、首都圏に住む知人・友人とは、地震について話すようになりました。
 「用意したのは救急袋ぐらいだなあ」
 「オレはなにも用意してないぞ」
 「ダメだよ。せめて家具の固定ぐらいはしておかないと」
 ある友人の奥さん(看護士)などは地震当時、外に出ていてよほど恐怖を感じたのか、外出時はヘルメットを持っていくほど。

 もう少し突っ込んで「そのときがきたらどうするか」ということも話し合いました。
 「オレはもういいかな。じたばたしないよ」
 「わからんぞ。そういうヤツに限って、いざとなると真っ先に逃げ出すんだから」
 「そうだよ。諦めたようでも、そのときになると『生きよう』という意欲が湧いてくるのではないか」
 ふだんチャラけたヤツ(私も?)でも、マジメに話すのが面白かった。

 私も助かりたいとは思いますが、例えばヘリコプターの救援がきて、「ひとりしか運べない。自分か、若者か、どちらを優先するか」と迫られた場合は、若者に譲ろうと考えています。
 では相手が年寄りだったら……。うーん。

 「ふーん、関東の連中はそんなことを話し合ってるのか。殊勝なことだな」
 京都の友人に感心されました。西と東の温度差でしょうか。

 究極の選択を迫られたら、若者に譲りたい。
 その気持ちは最近になって強くなりました。バタバタとあの世に行った友人の影響もあります。
 それでも、いざとなったら「自分だけは助かりたい」と我欲がもたげてくるのか。
 こればかりはわかりません。
 昨日(02/24)は京都人に対するいわれなき偏見について述べましたが、大阪に対する偏見にも言及してみたい。
戎橋
 「大阪人のあいさつというのは『儲かりまっか』『ぼちぼちでんな』っていうんだってね」
 昔、新宿ゴールデン街の小さなバーで、同業者や編集者と飲んだとき、年配のライター氏がこんなことをいいました。

 「本当に大阪人からそんなあいさつをされたのですか」
 そう聞くと、その人は黙ってしまいました。
 伝聞でものをいうとは、くだらないヤツ。
御堂筋
 私には大阪に親戚があり、知人も多く、友人も数人いますが、「儲かりまっか」「ぼちぼちでんな」なんてあいさつ、したことありません。
 会ったときはみんな「こんにちは」です。親しい友人だと、「やあ」とか、「やあやあ」
 私は何度か大阪を訪れていますが、そこで交されるあいさつは、やはり「こんにちは」です。
道頓堀川
 「儲かりまっか」「ぼちぼちでんな」は大阪が舞台のドラマ(菊田一夫か花登筺)でのセリフです。
 それを真に受けて「大阪人は……」というのは、あまりに軽薄。
法善寺横丁
 話は変わりますが、例の「関西人ぎらい」の親戚。
 この人は「大阪人はがめつい」とよくいってました。
 若いころ、仕事を通じて大阪人の「がめつい面」を散々見てきたから、というのですが、「がめついヤツ」なら関東にだっています。

 それに「大阪人を散々見てきた」というなら、リアルにつき合ったわけで、だったら彼らのいいところも見てほしかった。
 大阪に住んでいる私の知人・友人は、みんな人懐っこくて親切です。彼らからいやな目に遭わされたことは一度もありません。
宗右衛門町
 したがって、この人が「大阪人とリアルにつき合った」とはとても思えない。あくまでも伝聞でものをいっているような気がします。
 年取れば、伝聞よりも実体験から語ってほしいものです。
 昨日(02/23)NHK・BSプレミアム「まるごと知りたいA to Z 素顔に会える冬の京都」で、「京都の茶漬け」のことが取り上げられていました。
 「まだこんなことが一部で信じられているのか」
 私としては苦々しい限り。
NHK・BSプレミアムより①
 京都の人は長居する客に「お腹空きましたやろ。ぶぶ漬けでもどうどす」というけど、これは「早く帰れ」の合図、「いただきます」と応じようものなら、「なんと常識のない人間」とあきれられる。これが俗にいう「京都の茶漬け」です。

 私は20年京都で育ちましたが、そんな体験は一度もありません。
 親戚や友だちの家に遊びに行って、「食べていく?」といわれたときは、ご馳走になりました。先方も「食べてほしい」という思いがあったし、帰ってほしいときは「うちら、もうご飯やし」といわれました。
 わが家に人がきたときも同じ。すべてことば通りのつき合いでした。
 「茶漬けでも……」といわれたことはないし、いったこともありません。
NHK・BSプレミアムより②
 上京したてのころ、ときどき「京都の茶漬け」のことをいわれたことがありますが、「それは京都人に対する、いわれなき偏見」と番たび否定してきました。
 結婚してから、親戚のなかに「関西人ぎらい」の人がいて、これをいわれたときは本気で怒りました。
 東京都多摩地区に住んでいる京都時代の友人も、「関東の人間に京都の茶漬けをいわれるのはいやだね」といいます。
NHK・BSプレミアムより③
 20年ほど前、「ゆうゆうワイド」(TBSラジオ)でパーソナリティの大沢悠里さんが、「京都の茶漬け」をさも京都の風習のようにいったことがあります。
 「大沢さんまでもそんなことをいうか」
 私は腹が立って局に抗議のFAXを送りました。
 「大沢さんが、実際に京都でそんな目に遭って不愉快な思いをされたのなら、いってもいい。しかし伝聞でいっているのなら、やめていただきたい」
 いらい大沢さんは「京都の茶漬け」の話はしなくなりました。
NHK・BSプレミアムより④
 昨日の放送によると、「もし、茶漬けでも……といわれたらどうするか」という京都人へのアンケートで、帰る…36%、食べる…64%でした。
 なかには「本当に食べていってほしいから(お茶漬けでも、と)いう。帰ってほしいときはいわない」という人も。

 私としては意外。
 アンケート結果ではなく、こんな質問自体が成り立たないと思ったからです。
 私なら「そんな質問はナンセンス。京都人に対する偏見だ」と突っぱねるでしょう。
 私の知らない京都人?
 私としては、「本当に食べていってほしい」という人が大多数と思いたい。
2013.02.23 トレッサ横浜
 人のブログを見ていて、「トレッサ(TRESSA)横浜」というところが気になりました。
 「なんとなく、ヨーロッパの雰囲気が感じられる」
南仏の風景画① 南仏の風景画②
 しかし場所は、いつも行く横浜の中心地やみなとみらい地区と違って港北区。
 ここへ行く交通手段は――。
 ①東横線綱島駅よりバス…約10分。
 ②JR横浜線(新幹線)新横浜駅よりバス…約15分。
 ③JR京浜東北線鶴見駅よりバス…約20分。
 歩いて行くとなると、東横線大倉山駅が最も近い。距離は約1.8kmか。うーん、どの手段で行くか。
トレッサ横浜・地図
 というわけで、2月某日、行ってきました。どの交通手段かは……(?)
 広い通り(環状2号)をはさんで南棟と北棟に分かれています。
 まず南棟から。
 真んなかが吹き抜けになっていて、ブティックやアクセサリー店、飲食店、スーパーマーケットもあります。
 「ふつうのショッピングモールだなあ」
 イベント広場が南欧の雰囲気といえなくもない。しかし、これではどうも……。
南仏風の広場 南仏風のガーデン(?)
 次に北棟。
 1階は車の展示場。「ふーん」
 しかし、落ち着いた雰囲気。ヨーロッパの街並といえなくもない。
 そこで案内係の女性に聞いてみました。「そもそもトレッサとはどういう意味ですか」
 すると――。
 「トレッサとは、トレジャー(TREasure)スポット(Spot)スマイル(Smile)エリア(Area)の頭文字をとったことばで、TREにはまたフランス語のトレサージュ(つなぐ、結ぶ、編む)の意味も込められています」
 ふーむ、そんな深い意味があったのか。
 横浜市はフランスのリヨン市と姉妹都市になっていて、ここはリヨンの旧市街地(世界文化遺産)をイメージしてつくられたとか。
リヨンの旧市街風① リヨンの旧市街風② リヨンの旧市街風③
 この「トレッサ横浜」がオープンしたのは平成19年(2007)。前身はトヨタテクノ工場。
 道理で車が展示されていたわけだ。
リヨンから取り寄せた黄金の(?)ライオン
 それよりも、目を引いたのはキッズルームで遊ぶ子どもたち。
 とくに風船部屋。数多くの風船に囲まれると、子どもはかくも興奮するのか。大はしゃぎしています。
 ちなみに私の息子は風船がきらいで、従妹が風船を持って近づくと逃げ回っていました。逃げると従妹は面白がってよけい追いかける。「お前にも弱みがあるのだな」
 あれは面白かった。
風船で遊ぶ子どもたち① 風船で遊ぶ子どもたち②
 遊ぶ子どもの顔見れば、我が身さえも揺るがるれ……。
 日本のTVドラマは観ないのですが、時代劇は別。まして剣豪ものとなると観ないわけにはいきません。
 というわけで「塚原卜伝」(木曜日放映・NHK・20時~)は毎回観ています。 
NHK時代劇「塚原卜伝」より① NHK時代劇「塚原卜伝」より②
 戦国時代に剣の聖地・鹿島に生まれ、幼少より鹿島中古流の太刀を学び、17歳で武者修行の旅に出た塚原新右衛門(堺雅人)は、京の大内家に逗留し、剣術指南を勤めながら、名だたる剣豪相手に果し合いに臨みます。昨日は第五回「最強の敵」

 「京には強い相手はいなくなった。そろそろ潮どきかな」
 新右衛門がそう思ったとき、以前町で挨拶を交わした奥津源三郎(榎木孝明)が果し合いで負けたことのない剣豪だと知りました。
 「なんとかひと勝負、お手合わせ願いたい」と新右衛門は願い出ますが、奥津は「もう剣は捨てた」と取り合いません。 
NHK時代劇「塚原卜伝」より③ NHK時代劇「塚原卜伝」より④
 数日後、役人が斬殺されるという事件が立て続けに起こります。「犯人は奥津」と目撃者の証言。
 逗留先の大内家の家老・平賀丹後守(風間杜夫)から「ヤツを討ってくれ」と頼まれた新右衛門は、囮になって興津を誘い出します。 

 「剣に生きるものが、金で雇われて辻斬りをやるとは」
 「所詮剣なんてそんなものよ。いずれお前もわかる」 
NHK時代劇「塚原卜伝」より⑤ NHK時代劇「塚原卜伝」より⑥
 シャキーン! ふたりの剣が激しくぶつかります。
 二刀を駆使する興津は強い。ここと思えば、またあちら。いろんなところから刀が出てくる。
 さっと横から薙いできた興津の刀が、新右衛門の着物を掠りました。新右衛門苦戦。
 打ち下ろした刀を二刀でガッチリ抑え込まれた新右衛門ですが、離れ際に興津の左腕をひと突き。袖口から血が流れます。
 「おのれ!」
 残る右腕で激しく斬り込んでくる興津の剣を新右衛門はことごとくかわし、剣で受け、踏み込んできたところを、かわして胴にひと突き。興津はどさりと倒れます。
 近寄る新右衛門に、「人の血に染まった身は、無明の闇に沈む。お前も同じ」
 そういって息絶えます。 
NHK時代劇「塚原卜伝」より⑦ NHK時代劇「塚原卜伝」より⑧
 「自分は剣の道を究めようという目標に向かって邁進している。しかし、やっていることは単なる人斬りではないのか。実際、人を斬ったあとの気持ちの高ぶりは否定できない」
 新右衛門は悩みます。
 
 従来の剣豪ものは斬り合いに至るまでの経緯は描かれていますが、剣豪の内面まで描写することはあまりなかった。
 その意味では、このドラマは主人公の心の奥まで迫っています。
 一見やさ男の堺雅人が剣の達人を演じているところに、意外性があり、妙な深みを感じさせて、なかなか見ごたえがあります。
2013.02.21 二月の句会
 一昨日(02/19)は二月の句会でした。
 私の出句は、
 ①ドスの効く声で怒鳴るか鬼は外
 ②スケートやひそかに願う転ぶギャル
 ③雪融けて出てきしキャベツ齧りをり

 の三句です。

 ①節分の夜、あちこちから「鬼は外、福は内」の豆まきの声が聞こえてきました。みんな可愛い声ですが、なかにドスの効いた声で「鬼は外!」
 鬼はお前だろう。
 ②これは以前、横浜赤レンガ倉庫のスケートリンクで見た光景。はなはだ不謹慎ではありますが、私の(ささやかな?)願望を句にしてみました。
 ③先日の雪が融けたあと、畑を見たらキャベツが顔を出していました。雪が降るとキャベツは凍るのを防ぐため、自らを甘くするといいます。「さぞかし甘いだろうな」
 本当は齧りたかったのですが、よそ様の畑のキャベツ。したがって「齧りをり」は想像です。
裏の畑のキャベツ
 その得票数と先生の評価。
 ①ドスの効く声で怒鳴るか鬼は外……(0)〇
 ②スケートやひそかに願う転ぶギャル……(0)
 ③雪融けて出てきしキャベツ齧りをり……(0)
 (出句14名、選句はひとり5句。カッコ内は得票数、〇△は先生の評)

 今回の得票数はゼロ。情けないです。

 次に先生の評。
 「①節分の日はあちこちで豆まきをやってましたが、最近の人は声が小さい。大声で叫ばないと鬼は逃げていかない。そういう意味でドスの効いた声に〇をあげました。ただしドスは外来語ではないので、ひらがなで書くこと。漢字では短刀と書く」
 先生とは解釈が違うけど、〇をもらえたので、まあいいか。
すっ転ぶ女子と天を仰ぐ男子
 「②は人が転ぶのを願ってるの? 悪趣味です。俳句は人の不幸を願うようなことは詠まないもの。これは俳句というより川柳の感覚だな」
 人の不幸を願うなんて、そんな大ゲサなものではなく、悪戯心というか、ささやかな願望だよ……それを悪趣味といわれれば身もフタもない。どうせオレは品性下劣だよ。
 こうなったら、川柳に行こうかなあ。

 「③はなんてことのない句だね。雪をかぶったキャベツは甘い。しかしもうひとひねり。推敲してください」
 というわけで、今回は散々。次回はもっとよくなることを期待して。
 昨日(02/19)神田淡路町にあるそば店「かんだやぶそば」が火災しました。
 ニュースによると、出火したのは19日午後7時20分ごろ。木造2階建て店舗と近隣の建物4棟の計190㎡が焼けたとのことです。

 「かんだやぶそば」といえば、明治13年(1880)創業。東京のそば店のなかでも老舗中の老舗。現在の店舗は大正13年(1923)に建てられた木造2階建ての数寄屋造りで、戦時中の空襲にも耐え、東京都選定歴史的建造物に指定されていました。
TVニュースより①
 首都圏に住む人なら、「かんだやぶそば」を知らない人はいません。
 私は一度だけ入ったことがあります。
 板塀に囲まれた角地にあり、門をくぐって店に入るという昔ながらのつくりで、都心にあっては贅沢な空間です。店内は広く、奥庭もありました。
TVニュースより②
 なによりもよかったのは、「いらっしゃいーーーーー」という女性(女将さん?)のかけ声。(聞きようよってはちょっと色っぽい)
 もっともこの「いらっしゃいーーーーー」は全国的に有名なようで、京都に住む弟も、所用で上京してきたとき、これが聞きたさに「かんだやぶそば」でそばを食べたといってました。
TVニュースより③
 私は無粋にも天ぷらそばを頼みました。
 海老はカリッと揚がり、だしも効いて、そばも歯ごたえがありなかなか美味かったです。
 ただし値段は高かった。「そばといえども、そう頻繁にはこられない」と思いました。
TVニュースより④
 そば通は「もり」か「ざる」だそうです。それもつゆにそばの先をちょっとつけて、噛まないでズルッと飲み込む。喉ごしを味わうといいます。
 「東京人は冷たいそばをよく食べる」
 これが上京したてのころの私の感想です。
 私は「もり」と「ざる」の違いもよくわからず、そばを食べたあと、そば湯を頼んで(自発的に持ってくる店もある)つゆに割って飲むというのも、上京して初めて知った風習でした。
TVニュースより⑤
 私はこの風習が面白くてたまらず、学生時代、帰郷したとき、そば店でざるそばを食べたあと、わざとそば湯を所望したことがあります。
 「はあッ、そば湯、ですか?」
 京都にはそんな風習はないので、若い女店員さんの怪訝な顔。
 するとそれを見ていた女将さんが「東京のお方どすか」といって、奥からそば湯を持ってきてくれました。
 「東京のお方どすか」
 女将さんのことばが妙に心地よく響きました。

 「かんだやぶそば」火事から、そばの思い出になってしまいました。

 今、ロシアのチェリアビンスク州に落下した隕石が話題になっています。
 黒い小さな石の欠片は、3㎝大でも3万円ぐらいするとか。
 あるおじさんなどは「屋根に落っこちてきたよ。売って、酒代にした」
TVニュースより①
 隕石といえば、故郷の知人を思い出します。
 「うちには家宝があるんや。祖父さんが北海道から持ってきた隕石や」
 これが彼の口癖でした。
 なんでも彼の祖父が北海道で警察署長をしていたころ、現地に落ちた隕石を村人からもらったもの、というのです。
 「まあ、それだけ祖父は村人から人望があったちゅうこっちゃ」
TVニュースより②
 その隕石(?)を見せてもらいました。
 床の間に木の台座が設えられ、その上にラグビーボール2個大の黒い石が鎮座ましましていました。
 「持ってみ。重いやろ」
 なるほど、体積の割にはズシッと重い。
 「昔、京大の宇宙物理の助教授に見てもろたけど、鉄分の含有量が多いちゅうこっちゃ。ただ隕石かどうかはわからん、と」
TVニュースより③
 数年後、なんの気なしにTVの「なんでも鑑定団」という番組を見ていたら、司会者が「京都から、代々伝わる家宝の隕石を鑑定してほしい、という依頼人の方が見えてます」
 ほう、世のなかには似たヤツもいるもんだなあ、と思って出てきた人物を見ると、まさにご当人。
 なんやお前、こんなところに……。びっくりしました。

 彼の希望価格は(厚かましくも)1億円。
 しかし、鑑定の結果は……?
 「これは花崗岩で、隕石ではありません」とバッサリ。
 値段をつけるとしたら……5000円。
 買いたい人は? いませーん。(場内失笑)
 落胆するヤツの顔の下に「ガックリする依頼人」と容赦ないテロップが。
 はははは、恥さらしなヤツ。浅ましい真似をするからだ。
 私は思いっきり笑いました。 
TVニュースより④  
 後日会ったときこのことをいうと、彼ははき捨てるようにいいました。
 「大体、うちのジジイというのがしょうもないヤッちゃ。あんなインチキもので家族への威厳を示してたんやから」
 (それを売り飛ばそうと欲をかいたお前にいう資格はないぞ)

 その石は漬物石にされてました。木の台座などあろうはずもない。
 これはこれで由緒ある(?)漬物石。よかったやないか。
 思い出しては笑いがこみ上げます。
 聖書と侍。キリスト教と武士道。
 一見、相反する思想のように思えますが、明治になってわが国にキリスト教を広めた内村鑑三、新島襄、新渡戸稲造……はいずれも士族出身者。
 なぜ武士がキリスト教信者になったのか、本書がそれを紐解く、とくに今年話題の新島八重も登場するというので、この「聖書を読んだサムライたちを興味を持って読みました。
聖書を読んだサムライたち
 最初に登場するのは宣教師フルベッキ。
 彼は幕末の長崎で英語教師の職につき、キリシタン禁制にも関わらず、佐賀藩主のはからいもあって、学びにきた全国の若い藩士に聖書のことも教えています。この教習所には西郷隆盛や坂本龍馬もきて、その影響を受けたといわれます。

 のちに西郷隆盛が残した「南洲翁遺訓」には次のようなことばがあります。
 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし」
 これはキリスト教の影響を受けたものといわれています。
聖書①
 キリスト教の影響を受けた士族は他にも津田梅子や福沢諭吉も挙げられていますが、特筆すべきは京都「近江屋」で龍馬を暗殺した今井信郎。
 彼は京都見回り組に所属する剣の遣い手で、龍馬を斬ったあとは榎本武揚らと函館五稜郭に篭城して新政府軍に抵抗します。しかし捕まって死刑にされそうなところを西郷隆盛に助けられ、一命を取り留めました。
 その後は静岡で茶の栽培に従事するようになります。

 「宣教師を斬るべし」
 今井信郎がそう思ったのは、当時台頭してきたキリスト教に反感を抱いたからですが、茶の取引のために横浜に出かけたとき、海岸そばのキリスト教会をのぞいてみました。敵の正体を見てやろうという魂胆からです。
 ところが、そこで日本人牧師の語る説教に愕然とします。
 「邪教と思っていたキリスト教にこんな深い真理があったのか」
 静岡にもどった今井信郎はキリスト教会を訪ね、聖書を熱心に読み、クリスチャンに改宗したというのです。
横浜海岸教会
 本書を読んだ私は隔靴掻痒(かっかそうよう)の思いにとらわれました。
 武士たちがなぜキリスト教に惹かれたのか、その「肝となるもの」が全然伝わってこない。
 これは文献資料を基にしたノンフィクションで、各個人の内面まではわからない、といってしまえばそれまでですが、それならせめて武士道とキリスト教の共通点を挙げ、「彼らが惹かれたのはこういうところではないか」と指摘してほしかった。 
聖書②
 例えば……。
 武士道という厳しい教育を受けたものにとっては、仏教のような「放ったらかし」の宗教(といえるかどうか)よりも、神との契約に重きを置く束縛的(?)なキリスト教に惹かれるのではないか。
   
 これは、祖父母がクリスチャン(カトリック)という家庭に育った私の勝手な想像にすぎませんが、キリスト教に素養のある作者なら、もっと本質をうがったことがいえるのではないか、そんな気がしました。


 梅のシーズンです。
 そこで行ってきました。横浜は神奈川区子安にある遍照院(へんじょういん)。
 えッ、知らない?
境内の白梅と紅梅① 境内の白梅と紅梅②
 たしかに境内には白梅・紅梅咲いてはいるけど、ごらんのようにかなりしょぼい。
 これで梅の名所とはおこがましいって?
 たしかに。

 それならこれはどうだ。
 境内を京浜急行が走り、ピューッと通りすぎて行くんだぞ。
 それも品川~横浜間を走る本線。各駅停車はもちろん、急行、特急、快特、すべて通ります。
 特急、快特が通るときは、早いのなんの。
山門前を京浜急行が通る
 写真だと、なんか危なっかしい感じですが、実際は山門の前に踏切が設置され、電車が通過する前には必ず警報が鳴り、遮断機が降りるので、事故が起こったことはありません。
山門前の踏切り
 そのため踏切寺とも呼ばれていて、むしろこっちのほうが有名なぐらい。
本堂
 ここは高野山真言宗の仏教寺院で、正式名は密厳山不動寺。
 長禄2年(1458)に建てられたそうで、当時は一之宮神社付近にあったのを、後に東海道沿いの当地に移されたとのこと。 本堂は太平洋戦争時には空襲で何度か消失しましたが、昭和31年(1956)現在の本堂が建立されました。
横浜市の名木イチョウ
 あとは、横浜市指定の名木イチョウの木。(ありがたや)
帰りもまた電車が……
 帰りもまた、京浜急行が……。よく遮断してくれるよ。
 横浜と川崎のほぼ中間あたり、入江川河口に子安漁港があります。
 このあたり一帯は、今では京浜工業地帯ですが、江戸時代は猟師町でした。
 明治になってどんどん埋め立てられ、工場や倉庫が建ち並ぶ一大工業地帯になりましたが、子安漁港はいまだに現存しています。
橋の上からの光景
 神奈川区を縦断する入江川は河口で第二派川(運河)に分かれますが、この運河に小さな漁船が雑然と停泊しています。
 その大半は塗料が剥げ、一部錆ついた年季の入った船。
 先日は昭和の風景見たさに千葉県の浦安を散策したものの、それが叶わなかったのに、ここへくるとどうだ、昭和どころか戦後の風景。
 願望が叶いすぎて心の整理がつかず、ただ写真を撮りました。
船溜まり① 船溜まり② 船溜まり③
 ここは東京湾の埋立に伴い、市の援助もあって昭和40年代に漁業権を放棄し、大半が転業したのですが、それでも漁業従事者は残っています。どういうこと?
 漁業権を持たないというのは、底引き網やまき網等の漁法ができないということで、一本釣りやはえ縄、投網などの漁法はOK。
 東京湾でよく獲れるアナゴやスズキ。とくにアナゴは筒を仕掛けて獲るため、なんの支障もありません。
水鳥① 水鳥②
 横浜市の調査によると、この子安には41軒の漁師がいて、横浜市の総漁獲高の三分の一を占めるそうです。
 最近では釣り船、屋形船、プレジャーボート、さらには飲食船まで出現するようになりました。
 「これはこれで、しぶとく残るのだろうな」
レストラン船も 浜通り
 これから漁に出るのでしょうか、一艘の小さな漁船が岸を離れました。
 「いってらっしゃーい」
 年配の奥さんが手を振っています。
 漁港ならよく見られる光景ですが、「いい景色だ」と思いました。

 横浜市神奈川区の子安界隈は、浦島太郎ゆかりの地であるらしく、浦島町、浦島丘、亀住町、白幡町……などという町名が見られます。
 この浦島太郎伝説については、以前慶運寺(参照)の項で述べましたが、子安近くにある蓮法寺もまた浦島太郎伝説の寺。 

蓮法寺入口 山門

 それによると――、
 昔、相州三浦(神奈川県三浦市あたり?)の住人浦島太夫が丹後(現在の京都府北部)に移住したのち、太郎が生まれた。
 太郎が20歳のころ、澄の江の浦から竜宮にいたり、そこで暮らすこととなった。3年後、澄の江の浦に帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州に下り、父母を訪ねたところ、300余年前に死去しており、武蔵国白幡の峰に葬られていることを知る。
 これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って竜宮にもどり、再びもどることはなかった。
 そこで人々は神体をつくり、浦島大明神として祀った、とのことです。

浦島太郎伝説の碑 浦島太夫・太郎親子の供養等

 なんだ、それは。 慶運寺に書かれていることと違うじゃないか。
 竜宮にもどり、日本へは再び帰らなかったとは。PPMの「PUFF」じゃあるまいし。

 この話は神奈川区(?)の観福寿寺に残っている伝説とのことで、その観福寿寺の跡地に蓮法事寺が移転してきたというのですが……。

本堂 境内

 もう、わけがわからん。
 そもそも、当時は交通機関も発達してなかったのに、三浦→丹後→澄の江(住之江=大阪?)→竜宮(朝鮮ともいわれている)→澄の江→三浦→白幡……と、そんな長距離を移動できるものだろうか。

ありがたいおことばが……

 まあ、伝説といってしまえばそれまでですが、怪しいことばかり。
 私は眉に唾をつけて聞いています。

 今回は趣向を変えて、横浜の今と昔の風景を比べてみます。
 昔の風景というのは、明治後期のころです。

 先ずは赤レンガ倉庫。
 昔は横浜港で荷揚げされた物資を貨物列車で運んで、この倉庫に保管されていました。
 戦後、山下埠頭や本牧埠頭に大きな倉庫ができると、その役目を終えました。
赤レンガ倉庫(昔)
 今から30年ほど前、息子(当時小3)ときたことがあります。
 そのときは「名所旧跡」として入ることができました。入場は無料でしたが、入場許可書に住所・氏名、入る目的、所要時間などを書かされました。
 「そんなもの書かされるなんて、いやだわ」と入るのをやめたオバサマもおられました。
 内部はガランとしていました。所どころ落書きもあり、「なるほど、廃墟だ」と思いました。
赤レンガ倉庫(現在)
 当時撮った写真は残っていません。
 今のような俗っぽいショッピングタウンになるとは夢にも思わなかったから。
 しかし息子と入ったのは、今となってはいい思い出です。

 次は大桟橋。
 ここも、赤レンガ倉庫を見学したあと、息子と入りました。
大桟橋(昔) 大桟橋(現在)
 当時は長さ500mぐらいのふつう(?)の桟橋でした。中央部分にガラス張りの建物があり、食堂や土産物屋が並んでいました。2階はデッキになっていて、出航のときは、みんなテープで別れを惜しみました。
 今のような板張りの「くじらの背中」になる前のことです。

 象の鼻。
 ここが公園として公開されたのは、ここ5~6年のこと。
象の鼻(昔) 象の鼻(現在)
 最初は「なんじゃらほい」と思いましたが、今は気に入っています。板張りの「大桟橋」より風情があります。

 元町。
 ファッションタウンです。
 若いころはここで何着か上着を買ったことがあります。
元町商店街(昔) 元町(現在)
 元町プラザの近くの洋装店の2階に洒落た喫茶店があり、コーヒーを飲みながら元町の景色を楽しむことができたのですが、なくなりました。(Kという頭文字)
 残念です。

 ホテルニューグランド。
 当時はグランドホテルといってました。
ホテルグランド(昔) ホテルニューグランド(現在)
 大佛次郎はここに泊まって、横浜ものや鞍馬天狗などの小説を書きました。
 また戦後になってマッカーサー元帥がここに泊まるようになったのも、有名です。
2013.02.13 体罰は必要か
 今、教育の場でも、スポーツの場でも、体罰が問題になっています。
 先日TVで紹介されましたが、「体罰の会」というものがあるそうです。
 これによると「体罰は子どもの利益になること」といいます。ただし「暴力はいけない」と。
 これを提唱しておられるのはヨットスクールの校長をしていた人。やっぱりなあ。
 この先生にいわせると、子どもというのは「全人」ではなく、厳しく(体罰を加えてでも)指導しなければ善悪はわからない、とのこと。

 しかし私の子どもは、全人とはいわないけれど、小さいときから善悪の判断が備わっていたので、なにひとつ注意する必要はなかったぞ。
 成績に関しては別として、「子育てほど楽なものはない」と思いました。
 もっともこれは妻が要所要所でやさしくいい聞かせていたからで、私はなんの苦労もなく、子どもと楽しく遊んでいたのです。

 昨日の「クローズアップ現代」(NHK)でもこの問題が取り上げられ、甲子園常連校である智弁和歌山の高嶋仁監督の体験が引き合いに出されました。
 それによると、ある選手が個人プレーに走って、チームが負けた。それも一度ならず二度までも。「あれほどいうたのに、お前、まだわからんのかッ」
 監督は怒ってその選手を蹴りました。
 これが世間に知られるところとなり、監督は強い非難を浴びました。

 これは私、監督に同情します。愛のムチといえなくもない。保護者のなかには「悪いのは選手であって、監督は悪くない」という意見が多かったそうです。
 しかし高嶋監督は、「あれは感情にまかせて蹴った。自分の指導力不足」と反省しました。そして「生徒を思っての(愛の)体罰なんて存在しない」と。

 冒頭の「体罰の会」に関していえば、その主宰者に感化された知人は、私たち夫婦の子育てを「あんな甘いことではあかんのや」と批判していたそうです。
 「子どもに人格はない。親は子どもを徹底管理するべき」が持論で、「友だち親子」なんて戦後民主主義の弊害、とまでいい切り、教育評論家よろしく雑誌に寄稿していました。

 彼の家では体罰は日常茶飯事。子ども(娘ふたり)は囚人のような扱いでした。
 「殴る蹴るは当たり前。それも感情的でした。それがいやで私は18で家を出ました」
 これは下の娘のことばです。

 ではそんな厳しい躾けをして、果たしていい「大人」になったのか。
 下の娘は、人前ではもっともらしいことをいって、人格・力量ともに備わった人間に見えますが、実際はウソとハッタリ。親しくなると「釣った魚に餌は要らない」とばかり平気で人を裏切る女です。
 私を含めて周囲の者はみんな煮え湯を飲まされました。

 これは父親の、体罰を含めた厳しい躾けによるもの、と私は見ています。
 厳しく管理されると、人間はその場しのぎで、うそをつき、体裁を取り繕うだけの、裏表のある人間になるのではないか。

 そんな卑近な例を見ているので、私は「体罰主義」には反対です。
 前にもいいましたが、私が横浜好きになったきっかけは、大佛次郎の時代小説です。「開花もの」といわれるもので、明治初期の横浜が舞台。
 ここには、文明開化に燃える町人、まだ残っている侍の精神、人の弱みにつけ込む無頼の徒、開国によって入ってきたアメリカ人や中国人、それによって生まれた洋妾という女の存在、それらが複雑に絡み合い、渾然一体となった独特の世界が描かれています。 
大佛次郎記念館
 昭和9年に書かれた「霧笛」は開花ものの嚆矢とされています。
 イギリス商人クーパーの屋敷で下男として働いている千代吉(21)は腕っ節が強く、日夜ケンカに明け暮れていました。

 居留地で強いといわれていた代官坂の富をやっつけてから、男を上げた千代吉の次の相手は、南京町を牛耳っている豚常。豚常はケンカ上手で、強いパンチを浴びせ、千代吉を倒します。
 しかし千代吉は倒されても倒されても立ち上がり、豚常にかかっていきます。
 これには豚常も気味が悪くなり、「わかったわかった、兄さん、もうやめよう。兄さん、強いなあ」

 そんな千代吉は外国人の賭場でお花という少女(18)と知り合い、たちまち恋仲になり、激しく愛し合います。「このお花って女は何者?」
 実はお花は、自分の主人クーパーの愛妾でした。くそッ。
 千代吉はクーパーには頭が上がらない。以前財布を掏ろうとして捕まえられ、警察に突き出されるところを、下男に雇われた経緯があります。

 千代吉とお花が恋仲になっていることは、クーパーにもわかりました。
 クーパーはふたりの仲を裂こうとして、千代吉を貨物船に乗せます。
 貨物船はひどい状況でした。劣悪な船底で働かされる水夫の不満が爆発して暴動が起こりそうになりますが、クーパーは平然と首謀者の水夫を射殺。自分の力を見せつけます。

 千代吉はクーパーの力に恐れをなしますが、ある日、酒場でお花とクーパーに遭遇したとき、こういいます。「お花はオレの女だ」
 これにはクーパーが怒り、千代吉に拳銃を突きつけます。
 「面白い。撃つなら撃ってみろ」
 さらに「やめて……」と、お花がふたりの間に立ちはだかりました。
 この事態にクーパーは自分の敗北を認め、酒場から去ります。
 「よかった……」
 お花はよろこんで千代吉に近づきますが、千代吉の手に握られたクーパーの拳銃が火を吹き、お花はその場に崩れ落ちました。 
霧笛橋
 この「霧笛」は大佛次郎の開花ものの代表作のようにいわれますが、ストーリー、人物描写ともに荒っぽく、私からすれば単なる無頼派小説です。
 私としては「花火の街」(昭和13年)のほうが好きですが、友人のなかには「霧笛が最高」というヤツもいて、「小説の好みばかりは人それぞれ」と思いました。
 パシフィコ横浜の裏手にあって、みなとみらい地区の北端にあるのが臨港パーク。
 海岸はなだらかな階段状になっているため、海面に手の届くところまで降りられます。
波に洗われる石畳
 「なんと殺風景な公園か」
 20年ほど前、初めてここへきたとき、そう思いました。
釣をする人々
 私の求める「横浜像」は文明開化当時の姿。大佛次郎の「開花もの」に出てくる風景です。
 今でも所どころにその面影を見ることができます。そのためにきているといっても過言ではない。
 しかしこの海岸の景色は文明開化当時とはほど遠く、なにもかも人工的で無機質。風情というものがまるでない。「こんなところへは二度とこないぞ」
インターコンチネンタルホテル 
 そんな意志(?)とは裏腹に、たびたび訪れるようになりました。
 家族や友人に横浜をガイドするのに、「こんなところも一度は見せてやろう」という思いからです。
 彼らには一度でも、オレには番たび。こんなつまらんところを。
遊覧船が発着するぷかり桟橋
 ところが何度かきているうちに、その考えが少し変わりました。
 「これはこれで、味わいのある景色ではないか」
明け方の風景① 明け方の風景②
 海岸線がなだらかに湾曲しているので、波の向こうに海岸の端を見ることができます。
 見ようによってはこれが絶景。
錨のモニュメント
 公園の北端にある「潮入りの池」は、海水を利用した池で、夏になると子どもたちがここで水遊びができたのですが、今は危険とのことで、入るのは禁じられています。
 とはいえ、この池にかかるアーチ型の橋はなかなかのもの。この橋の下から見るベイブリッジも風情があります。
潮入り池にかかるアーチ橋
 最初、「いやだな」と思っても、何度かきているうちに、「いいな」と思うことがあるものです。
 ここはその典型。
 人間も、あるいは……。
 横浜で海を見る場所は数あれど、ここはちょっと穴場。
 横浜コットンハーバーといいます。

 海に面した板張りの遊歩道(ボードウォーク)から海を見ると、コットン大橋の向こうにみなとみらいが見えます。これはこれでなかなかの風情。
 実は瑞穂埠頭のふもとにある外人バーを探そうとしているうちに、迷い込んだのです。
 なんだここは?
 まるで狐につままれたよう。
コットンハーバーよりみなとみらいを臨む コットン大橋
 ここはもともと日本鋼管浅野ドックがあったところで、戦前は多くの軍艦の製造と修理、戦後は(最近まで)多くの船の製造と修理を勤めてきた由緒ある造船所。
 有名なところでは、初代南極観測船「宗谷」が建造されたところでもあります。
船溜まり
 しかし20世紀の終わりとともにその役目を終え、21世紀になって再開発され、高層マンションが建てられ、住宅地となって生まれ変わりました。

 しかし住宅地ともなると、海ベリを殺風景にするわけにはいかない、ということで遊歩道を設え、海を見るのにふさわしい(それなりの)景観をつくり上げました。
 それがボードウォークというわけです。
ボードウォーク① ボードウォーク②
 地図を見ると、瑞穂埠頭と中央卸売市場に挟まれています。
 交通手段は車。バスもありますが、みんなコットン大橋をわたります。
 歩いていくには、瑞穂埠頭のふもとから入る一本の道のみ。これが遠回りで非常に不便。
 「要するに、観光地でもなんでもないってわけか」
 横浜ガイドに乗ってもいないし。
運河
 横浜通でもここを知る人は少ないでしょうね。
 キリスト、ソクラテス、孔子、釈迦、聖徳太子、弘法大師、親鸞、日蓮。
 ズラリと並んだ8人の聖者。「なんだ、これは!」
 これは8人の聖者が一堂に会する八聖殿。
 ここは本牧にある横浜八聖殿郷土資料館です。
  
ズラリ並んだ聖人たち   

 この地は開港当時、鳥取藩が海防の見張番所を置いていたところ。
 そこが明治→大正を経て、昭和8年(1933)、熊本県出身の政治家で逓信・内務大臣を歴任した安達謙蔵が信仰と修業の殿堂として、法隆寺夢殿を模した三層楼八角形の建物を完成させました。そこに冒頭の聖人たちが……。
 したがって、当時から「八聖殿」と呼ばれていました。
左からキリスト、ソクラテス、孔子 左から釈迦、聖徳太子 左から弘法大師、親鸞、日蓮  
 かなり日本人を優先した人選ですが、それはご愛嬌。
 ダンテの「神曲」によると、ソクラテス、孔子、釈迦は「毒にも薬にもならないヤツ」として天国にも地獄にも入れず、城壁の外をうろうろと彷徨っています。
 その理由は、彼らはキリスト以前に生まれているので、本当の救世主を知らない。
 「そんな、バカな」
 これには笑いました。
 それに比べると、ここの人選はフェア(?)ではないかい。

 この八聖殿は昭和12年(1937)に横浜市に寄贈され、周辺一帯は本牧臨海公園となり、市民の憩いの場になりましたが、第二次世界大戦中は国民精神の高揚、東洋思想の普及にひと役買ったようです。

 そんな八聖殿も、昭和48年(1973)には「横浜市八聖殿郷土資料館」と改名され、幕末から明治にかけての本牧・根岸の写真や、市内で使われていた農具、漁具が展示されるようになりました。
大八車 蓑と笠
 と同時に、鶴見「花月園」からやってきたのは……。
 あッとおどろく、聖観世音像!
 ははーッ、ありがたや。
聖観世音像
 そばの解説板には、花月園には動物園、観覧車、ダンスホール、アイススケートなどを設置し、さらに少女歌劇や菊人形展などを開催するなど、いかに娯楽の殿堂として人々を楽しませてきたかが克明に書かれていますが、観世音像がなぜここにきたのかはよくわかりません。

 八聖人は男たちばかりだから、女性もひとり入れたのだろう。
 そう解釈することにしました。
2013.02.08 ある日の昼食
 数日前、朝起きたとき、寒気がしました。
 私の場合、ひと冬に寒気と吐き気に襲われることが4~5回あります。
 「インフルか」と思うのですが、1日で終るので、インフルではなさそう。

 こういう日は食事抜き、ただ寝るだけ。
 水分は摂ったほうがいいのですが、飲むと吐くので、摂りません。
 半分ふて寝。
 吐き気は夕方ごろから収まるのですが、それでも寝ます。すると翌日は平常にもどります。

 しかしこの日は寒気がするだけで、食欲はある。
 「食い意地だけは張りやがって」
 我ながら呆れます。
 朝定食の「ベーコンエッグ」はやめ、フルーツとトースト、コーヒーだけ。
 トーストには例の酸っぱいジャム。(参照)これが「美味い!」
 ペロリと食べてしまいました。 
果物 トースト コーヒー  
 昼は中華か洋食ですが、お粥にしました。
 年末に茹でた枝豆を冷凍保存したものがあったので、それを入れたシンプルなお粥。香のものは柴漬と梅干。これが「美味い」
 日ごろ食ってる炒飯、カレー、パスタは何なんだ。コテコテしつこいだけか。
枝豆 枝豆入りのお粥
 夕食は、普段は和食(大豆食品と魚)ですが、この日は大事をとってお粥とキムチ納豆。
 「毎日こういう食事では、身が持たないだろうな。年取ってもたんぱく質は必要というし」
 101歳の今もステーキを食べる日野原重明先生(聖路加国際病院理事長)を真似る気は毛頭ありませんが……。

 日野原先生は音楽療法を提唱されています。それには従いました。
 この日は寝ながら音楽を聴いていました。聴いていたのは50~60年代アメリカンポップス。



 お陰で翌日、無事回復しました。
 昨日(02/06)早朝、ゴミ捨てに外に出たら、パラパラと湿った雪。
 路上の雪はすぐ融けるので、「これは積もらない」と判断しました。
裏の畑の雪景色
 前の日から、「首都圏は雪。それも先月の成人の日(14日)並み」と聞かされていたので、それなりの覚悟はしていました。
 外出は控えようと食料品の買出し。スーパーは混んでました。「みんな考えることは同じだ」
 雑貨販売店に行ったら、スコップは売り切れ。やっぱりなあ。
給水塔(近景) 給水塔(下から)
 ところが朝のラジオ「スタンバイ」(TBS)で、キャスターの森本毅郎が気象予報士相手に吼えること吼えること。
 「昨日の天気予報はね、大袈裟にいいすぎたんじゃないの。これは先月の反省だろうけど、天気予報が『最悪のことを考えて』とおもんぱかるのはどうかと思うな。もっと客観的に予報してほしいね」

 客観的な予報ってなに?
 先月だって「大雪になる」と予報していた。
 それなのに首都圏の各機関や人々が対応しきれず、交通が麻痺して大混乱した。だから、人々が多寡をくくらないように「大雪になりますよ」と予報した。それのどこが悪い。森本のいうのは明らかに難クセ。
茶畑(午前) 茶畑(午後)
 ちょっと外へ出て、近所の様子を見てきました。
 午前は、朝9時すぎ。
 湿った雪が降っています。道路の雪はすぐ融けるけど、畑の雪は融けない。
 裏の畑から、茶畑、さらに給水塔の真下まで行ってきました。真下に行っても、なにもないのですが。
公園① 公園②
 午後は、3時すぎ。
 相変わらず雪はパラパラ降ってますが、その湿り気のために積もった雪を融かしています。
 朝は茶畑にうっすらと積もっていた雪も、ほとんど融けかかっています。
 公園も、雪は芝生だけ。
 これなら雪かきの必要はない。スコップも使わなくてすんだし。
鎌倉街道
 それでも都区内では一部交通機関が混雑したようです。これは大雪を見越して、運行を間引いていた影響です。
 とはいうものの、大過なくてよかった。
 昨日もいったように、内柴がいくら「合意だった」と主張しても、周囲の状況を考えると、有罪は覆りません。
 さらに内柴は、「合意だ」と主張することによって、相手の女性を二重に傷つけています。
 女性にしてみれば、自分にも「その気があった」と断定されるからです。これは到底我慢できない。ますます身を硬くして「この男は絶対に許せない、厳罰に処して」と思います。
TVニュースより① 
 内柴は事後の判断を誤りました。
 ではどうすればよかったか。
 「私は劣情に駆られ、強姦してしまいました。あなた(相手女性)にはなんの落ち度もありません。ひとえに私が悪いのです。どんな罰でも甘んじて受けます」
 これを相手に伝え、ひたすら謝るのです。

 「強姦しました、なんて。開き直りじゃないの」
 女性からは顰蹙を買うかもしれませんが、これは私が考える、男として最大限の誠意。
 なぜなら、「あなたには落ち度はない」ということで、相手の尊厳を守っているからです。
 むろんこれで許されるとは思いませんが、少なくとも「合意だった」と主張するよりはまし。

 本当は直接伝えるのがいいのですが、大てい拒否されるので、内容証明つきの謝罪文を送ります。それも心を込めて、何通も何通も。
 こうなると女性も「あの忌まわしいことは忘れたい」と思っているので、「もう、わかったわよ。これ以上寄こさないで」という気になり、裁判沙汰にはならないのではないか。

 甘いでしょうか。
 しかし被害女性の立場で考えてみても、ここまで謝っている男をこれ以上憎み続けることが人生の得策かどうか。むしろきれいさっぱり忘れて再スタートしたほうがいいのでは。
 いや、これは男(私)の勝手な考えですが。

 むろん強姦は重罪。許されることではありません。
 それを認めるには勇気が要ります
 しかしキリスト教にせよ、仏教にせよ、宗教では自己の罪に向き合い、悔い改めた者は許されるのです。法律では「情状酌量」がそれに相当します。 (参照
TVニュースより②
 内柴は自分の罪に向き合う勇気がなく、「抵抗されなかった」という小さなことに固執して、自分を正当化しています。これでは救われません。
 今後の裁判にしても、自分と女子学生の置かれた立場を大局観から見ようとしない態度は心象が悪く、「有罪」は覆らないでしょう。

 内柴としては、「今さらあとに退けない」と思っているのでしょうか。
 自ら選んだ道とはいえ、あまりにも哀れです。
 このところ監督の暴力問題で柔道界が大揺れですが、教え子に対する準強姦罪で訴えられた内柴裁判も(別の意味で)大きな問題です。

 これはアテネ、北京五輪の金メダリスト内柴正人(34)が泥酔していた教え子の大学女子柔道部員に乱暴したとして、準強姦(ごうかん)罪に問われたもので、今月1日の裁判では有罪、求刑通り懲役5年の実刑判決をいい渡されました。

 内柴被告は一貫して性行為は「合意の上」と主張していましたが、結果は完全敗訴。
 判決後、内柴被告は弁護団を通して「僕は無実です」とコメントを発表し、即日控訴しました。

 内柴のいい分では、相手(女子学生)は泥酔しておらず、抵抗しようと思えばできたはず。それをしなかったから、合意であると。

 しかしこれは内柴の完全な錯誤。
 仮に内柴のいう通りであったとしても、内柴は指導者で、相手は教え子。対等なわけがない。
 まして(内柴を)尊敬していたといいます。そんな師に迫られて、頑強に抵抗できるでしょうか。

 例えば強盗に入った男が、そこに居合わせた女性に乱暴したとき、「抵抗されなかったから、合意の上だ。強姦ではない」といえるでしょうか。
 この場合は、女性は恐怖のあまり抵抗できなかった、あるいは命だけは助かりたいと(仕方なく)性行為を受け入れたと考えられるので、明らかに強姦です。
TVニュースより
 「女は意に染まぬ男に迫られたとき、(周囲の条件次第で)受け入れてしまうことがあります。しかし心に不快感が残れば、女にとっては強姦されたのと同じです」
 これは昔、女性のセックスセラピストから聞いたことばです。

 典型例が、女子高生への淫行で捕まるワイセツオヤジ。(警察官や教師に多い)
 男の側は「金払っているから不満はないはず」と思っていても、彼女たちは金がほしくて我慢しているだけで、ことが終ると「あんなハゲオヤジに」という不快感が残り、口惜しさのあまり、警察にチクるのです。(女子高生はお咎めなし)
 「そんなの、ずるいじゃないか」と思うかもしれませんが、それが援交女子の正体。オジサンが敵う相手ではありません。最初から相手にしなければいいのです。

 話が逸れましたが、男がいくら「合意」だと思っても、事後、女性の側に不快感が残れば「強姦」になるのです。内柴はそれが読めなかったのでしょうか。

 昨日(02/03)「第62回別府大分毎日マラソン」が行われました。
 これは8月の世界選手権(モスクワ)の代表選考会で、しかも公務員ランナーの川内優輝選手(25)と五輪男子マラソン6位入賞の中本健太郎(安川電機)のライバル対決、とテレビ局は煽り立てます。
 「またテレビ局のドラマ仕立てではないのか」
 先日の女子マラソンの胡散臭さがチラッと頭を掠めました。
最初は20人ぐらいの先頭集団
 別大マラソンとは大分から別府湾岸通りを走り、別府に入って再び大分にもどってくるコースですが、風光明媚な別府湾が望めるので、見る者にとってはいい景色です。

 「この景色は走っている選手にとっても和(なご)みになるのでしょうね」
 実況のアナウンサーがいいましたが、解説者は「…………」
 解説者によると「あまり道が広いと、自分のスピード感がつかみにくい」そうです。
 走者というのは、景色の流れによって自分の進み具合を把握するので、「遠くの景色など関係ない」といいたげでした。

 レースは28kmをすぎたあたりから、川内と中本が一気に飛び出しました。
 川内がスパートをかけ、中本がそれにくらいつくという形でした。
 しかもこれ、中本もスパートをかけることもあり、川内、中本のスパートのかけ合い。互いに引くに引けないガチンコレースになりました。
川内と中本が飛び出した 川内と中本のデッドヒート
 「ほう、こんな早くからスパート合戦ですか」
 解説者は唖然。
 まだ10km以上あります。私は、このままではどちらかが潰れる、あるいは双方潰れるのではないか、そうなると後続の外国人選手の餌食になるのでは……と気が気ではない。
川内の猛スパート
 その主な理由は、川内のあの苦しそうな表情。「これで持つのか……」
 中本は最初こそ冷静に走っていましたが、次第に肩の上下動が激しくなりました。
 「これから先は、気力の勝負ですね」(解説者)
苦しそうな顔
 40kmの給水地点に入って、川内は自らのドリンクを取るや、猛スパート。
 中本も必死につこうとしましたが、5m、10m、20m……とその差は広がる一方。川内はあの苦しそうな顔で競技場に入り、2時間8分15秒(大会新記録)で優勝しました。
優勝した川内 2位の中本
 2位の中本もよくやったと思います。両者一歩も引かないガチンコレースは見応えありました。
 ふたりともこれでモスクワ行きは確実でしょう。
 浦安駅の近くに魚市場があります。
 魚市場といっても仕入れ業者だけではなく、一般客も切り身で買えるそうです。
 「ここは戦後の闇市(青空市)で魚介類が売られていたのが始まりだからね、歴史は古いんだよ」
 とは地元の人。
浦安魚市場
 「対面販売だから、魚のさばき方や料理法も、聞けば教えてくれるよ」
 とのことですが、遠くからきているので買うわけにもいかず、とりあえず見るだけ。
 鮮魚だけではなく、肉、野菜、乾物、惣菜店などの売場もあります。
魚市場内部 切り身でも売っている
 「もっと活気があると思ったが……」
 入ったのは午前11時すぎ。
 営業時間は午前4時~正午だから仕方がないのか。

 「せっかくきたのだから、昼飯食って行くか。魚が美味いに違いない」
 市場内の食堂に入りました。(味●食堂)
味●食堂(左)
 店内はカウンターで10席ほど。寿司がメインらしいので、「海鮮丼」を頼みました。
 「旦那さんは、ここ、初めて?」
 ひとつ置いたとなりの席で一杯飲んでいたおばさんに声をかけられました。
 「まあ、そうです」
 (実は25年ほど前、浦安には一度きてるのですが)
 「どこからいらしたの?」
 「埼玉です」
 「それはまあ、遠路はるばる、ご苦労さまです」
 別にねぎらわれるほどのことでもないのですが。
 「ここはいいところだよ。人情に篤くて」
 「わかります」
* 
 そんな会話をしているうちに、「へい、お待ち」
 海鮮丼ができあがりました。
 味は、魚のボリューム感が今イチだけど、値段(¥850)の割にはまあまあ……かな。
 他には野菜の煮物なんかも食べられるみたい。
海鮮丼 野菜の煮物も
 「マスターところも恵方巻つくるの?」
 「つくるよ。けっこう注文がきてるからね」
 「最近はどこも恵方巻だね。私ら若いときはなかったよ」
 「そりゃそうさ。もともと関西からきたものだから」
 そんな会話がおばさんとマスターとの間で交わされていました。
恵方巻も予約しているとか
 オレは関西出身だけど、恵方巻なんて知らなかったぞ。
 苦笑しながら店をあとにしました。
 浦安の昔を偲ばせるもの。
 それは境川沿いの2軒の古民家に見ることができます。
境川
 まず、旧宇田川家住宅。(浦安市指定有形文化財)
 ここは明治2年(1869)建築の商家で、米、油、雑貨、呉服などを商っていました。
 玄関の人形は、店主(?)が着物の生地をお客に提示しているところです。 
旧宇田川住宅 着物の商談
 「主人は2階にいて、接客は番頭さんがしていたようです。天井の隅に穴があるでしょ、主人と番頭さんとのやり取りは、あの穴を通じてしていたようですよ」
 とガイドの女性が説明してくれました。
古井戸 床下が収納庫に
 台所は女性従業員の仕事。
 昔ながらの井戸、「へっつい」が残され、床下は収納スペースになっています。
 しかし、ガス、水道も通っているぞ。
 「あれは小学生の共同合宿のためのものです。浦安の小学生は高学年になると、ここで寝泊りして過酷な体験をするんですよ」(ガイドの女性)
旧宇田川住宅・居間  戸棚から下の階へ
 過酷な体験、いいじゃないですか。
浦安歴史名所双六
 さて、そこから徒歩2分の旧大塚住宅。(千葉県指定有形文化財)
 ここは江戸時代後期の建物で、漁業と農業に従事していました。
 上がりがまちのところに、おじいさんと女の子の人形がありますが、これはヨシを編んで、海苔を乾かすための簾(す)をつくっているところです。
旧大塚住宅・海苔簾編み風景
 「このおじいさんは実在の人物をモデルにしたそうです」
 とはガイドの女性。
 なるほど、こういうじいさん、いそうだよ。
旧大塚住宅・庭
 この住宅は浦安では比較的大きな家で、部屋も多く、庭も広いように思われました。
 ふだんは1階部分で暮らしていますが、水害も多く、そんなときは2階に非難して、被害を最小限に食い止めようとする工夫がなされています。
旧大塚住宅・神棚と仏壇
 また神棚と仏壇が同じところにあるというのも、この家の特徴で、他にはあまり見られないそうです。
 ここでもガイドの女性がていねいに教えてくれました。
 古き浦安の姿は、今ではこういうところでしか見られないのかもしれません。

 東京都の東端は江戸川区。旧江戸川をはさんだ川向こうは千葉県浦安市です。
 浦安といえば、今では東京ディズニーランドで有名ですが、私のような化石人(天邪鬼?)にとっては山本周五郎「青べか物語」の舞台です。
 同作品に描かれたのは、小さな漁村の情景。
 今どきそんなものを求めても無駄であることは百も承知で、浦安を歩きました。
旧江戸川
 「まあ、青べかの情景は望むべくもないが……」
 川べりに係留しているのは船宿の釣り船。
旧江戸川・渡し場跡① 旧江戸川・渡し場跡②
 ここは「浦安の渡し」があった場所でもあります。
 説明書きによると、江戸時代から明治にかけて、対岸は浦安の飛び地(現東京都江戸川区)であったため、村人たちはしょっちゅう舟で行き来していたとか。
 昭和初期の渡し賃は、大人2銭、子ども1銭。当時アンパンひとつの値段が3~4銭というから、50円ぐらい?
 その渡し舟も昭和15年(1940)浦安橋の開通により、役目を終えました。
旧江戸川・蒸気河岸
 「昔の漁村の光景なんて、もうないよ。残っているのは船圦(ふないり)川緑道の跡ぐらい」
 地元の人にいわれました。

 船圦川とは旧江戸川から入り込んだ水路で、田んぼへ水を運び、小さな漁船の水揚げ場としても利用されました。
 しかしその船圦川も昭和48年(1973)に埋め立てられ、4年後には緑道になりました。
船圦緑道
 「跡形など、どこにもないぞ」
 と思って緑道を歩いていると、中央のグリーンベルトに古い木のベンチ?
 ではなく、船着き場の跡?
 うーん、これがなあ……。
船圦川・船の渡し場跡 船圦川当時の写真
 私は昨年訪れた佃島の渡し場跡を思い出しました。 (参照
 朽ち果てた小舟が乱雑に残っていて、あまりいい気分はしなかったのですが、あれはあれで経費がかかっていたのかもしれません。

 「昔のものを残すのは、大変なのだなあ」
 そんなことを考えさせられた旧江戸川散策でした。