先日(03/24)は小学校の同窓生3人と、銀座の某ギャラリーで「京大写真部ОB展」を観てきました。高校時代の友人が出展しています。
  

 小さな画廊に36作品が展示。例によって友人が案内してくれました。
 「これはテーマが決まってるの?」
 「いや別に。それぞれが思い思いで撮ってます」

写真展・会場①   

 彼の作品は「静寂」といって雪の那須高原の樹氷の景色。
 濃紺の空との対比が見事でした。
  

 「おや?」
 「あらッ」
 高校時代の同窓生だった女性と遭遇しました。
 当時は口をきいたこともなかったのに、同窓生の消息からはじまって、故郷(京都)の話に。

写真展・会場②   

 「この年になって、やっと京都のよさがわかってきたわ」
 「そうかな、オレなんか京都を捨ててるから」
 「あかんえ、そんなん。京都は奥が深いえ」
 「そうかなあ」

同窓生と   

 そのあと3人の仲間とも合流して、近くの喫茶店へ。
 話題は互いの近況話から老人論まで。
 「年取ると記憶力、計算力、判断力などほとんどの能力は若いものに負ける」
 「そら、そうや」
 「しかし負けんものがある。それは関連力や」
 「関連力って?」
 「これまで身につけたいろんな知識を結びつける力や。それができない年寄りはただの年寄りや」
 「ワシがそれや」
 (関連力の具体例は省略)

銀座   

 「最近みんなバタバタとあの世へ急ぎよるな」
 「ほんまや。ワシもそろそろや」
 「オレは覚悟はできてるよ。むろん孤独死や」
 「私、孤独死もひとつの死に方やと思うわ」
 「その通りや」
  

 小一時間、こんな会話で盛り上がって散会しました。
  

 絵画展出でて目に入る春の色

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 京都のトリは山科の毘沙門堂。
 私はこの辺りには疎いのですが、山科駅に降り立ったら、線路沿いに「毘沙門堂」という大きな標識があったので、「行ってみよう」という気になりました。

 線路沿いの標識  

 駅から線路際を200mほど東に進み、そこから北に900m。これが上り坂。
 「ふーむ、山にあるのか」
 これぐらいの坂道はなんてことはない。夕暮れが迫るなか、早足で歩きました。

毘沙門堂入口 参道  

 坂道の突き当りが毘沙門堂の入口。
 毘沙門堂は大宝3年(703)に行基により開創された天台宗延暦寺派の寺。
 伝教大師(最澄)の自刻と伝えられている毘沙門天が本尊としてお祀りされているので、毘沙門堂と呼ばれています。

 唐門 

 寛文5年(1665)後陽成天皇の勅により徳川家から安祥寺の寺領の一部を与えられ、天海僧正、公海僧正によって再興されました。

本堂   

 仁王門、唐門、本堂は朱塗りも鮮やかで、日光東照宮と雰囲気がよく似ています。
 もっとも弁天堂も含めて、つい最近修復工事が終わったばかりというから、ラッキーでした。

弁天堂   

 時間的に遅かった(4時半すぎ)だったので、なかには入れなかった。
(襖絵や天井の絵が見事だそうです)

 庭園    

 それでも庭園の一部は見ることができたし、竹林も見られた。

 竹林  

 そのお隣りの護法山双林院にも寄りました。
 ここは寛文5年(1665)、毘沙門堂が再興されたときに建立された寺院ですが、明治元年に「大聖歓喜天(だいしょうかんきてん)」を本尊とする聖天堂が建てられたので、山科聖天(やましなしょうてん)と呼ばれています。
 夫婦和合、財富、智恵授かりなどのご利益があるとか。

歓喜天  

 またここには不動堂があって不動明王が安置されています。
 これは明治16年に比叡山無動寺より勧請されたもの。
 この不動堂は堂内で大護摩が焚ける特殊な構造をしているとのことだけど、このお堂のなかで? よくわからん。

不動明王   

 ここはいろんなものがありすぎて、まさに仏の百貨店。
 紅葉の名所だそうだけど、その季節にはまだ早かった。
 山科の寺院は、当方にとっては不可解です。

 いつも同窓会の翌日は伏見の友に京都(主に南部)を車で案内してもらうことになっているのですが、この日(10/09)は彼の参加する「囲碁大会」と重なりました。
   

 「悪いな、囲碁大会は朝の10時からや」
 「何時ごろ終わるねん」
 「わからんな。負けたらすぐ終わるけど、勝ち続けたら夕方までかかる」
 「負けたらあかんぞ。最後まで残れよ」
 当方としては「お前がきたおかげで負けた」と思われたくない。

 碁会所のある小路  

 会場は大手筋四番街の角を北に入った小路にある碁会所「本因坊」。
 彼はほとんど毎日そこに通っていて、アマチュアながら師範代も務める実力者。
 もっとも彼の実力は父親譲りで、お父さんはいつも全国大会では京都代表になっていた人。
 したがって彼としては、そう簡単に負けるわけにはいかない。
   

 碁会所は狭く、対局者が40人ぐらい集まっていて、とてもここにはいられない。もっとも碁はよくわからないので、いても退屈。
 そこで当方は近くを徘徊することにし、前述のように桃山御陵、伏見桃山城、御香宮神社、大手筋などを歩き回ったというわけです。

対局風景   

 桃山御陵、伏見桃山城、御香宮神社に行ってきて、12時ごろ碁会所を覗いたら、彼は年配者と対局中でした。
 その後、大手筋の居酒屋で食事(海鮮丼、安くて美味かった)して、午後1時ごろ覗いたら、今度は若い男の子と対局していました。

居酒屋で昼食   

 そこで大手筋をぶらぶら歩き、御香宮の神輿を見たり、ドトール、ベローチェに入ったりして、2時半ごろ、彼から電話がかかってきました。
 「もう終わった」
 「えらい早いやないか。負けたんか」
 「いや、決勝で負けたから2位や」
 「2位か、よう頑張ったやないか。そっちへ行くわ」
 碁会所に向かいました。
  

 この大会は「第45回しんぶん赤旗囲碁・将棋大会京都府大会」の伏見区の大会。
 囲碁はA級とB級があり、友人がエントリーしたのはA級(名人戦)
 優勝したのは中学生の男の子。
 すると1時ごろ見た男の子?
 友人も男の子も3連勝同士で、決勝でぶつかったといいます。
 「あの子はこのところめきめきと腕を上げてきよってな。勝ったり負けたりやったけど、今日はポカをやってしもした」とは友人の弁。

準優勝の表彰(赤シャツが友人)    

 表彰式が終わって、我われは大手筋の居酒屋でイッパイ。
 奇しくも昼食を摂ったところ。(いわなかったけど)
 優勝は逃したけど、1、2位は16日(日)の京都府大会(会場・教育文化センター)に出場できるとあって、機嫌はまあまあ。
 こちらも「お前のせいで負けた」といわれなくてホッとしました。
  

 ※その後、彼からの連絡はありませんが、調べてみると、16日(日)の京都府大会では敗退した模様。しかし伏見区で優勝した中学生は京都府大会でも優勝。来月の10~11日、東京で行われる全国大会に駒を進めました。恐るべし、中学生。

 近鉄・桃山御陵駅から東へ200mほどのところに「御香宮神社」があります。
 伝承によると、貞観4年(862)に社殿を修造した際、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、ときの清和天皇から「御香宮」の名を賜ったといいます。

御香宮神社・境内     

 この水は「御香水」として名水百選に選定されています。
 そのためボトルを持参して取水する人があとを絶たない。

 ペットボトルで取水する人  

 なお廃城になった伏見城の大手門は当社の表門に移築されたとか。
 この日は「神幸祭」ということで参道に屋台が出て、賑わっていました。

御香宮神社の表門    

 威勢のいい神輿が出て、男たちの活気づくこと。

神輿を担ぐ人たち    

 御香宮といえば、「鳥羽・伏見の戦い」明治元年(1868年)では、ここが官軍(薩摩藩)の陣地となり、ここから南へ300mの伏見奉行所に立てこもった会津藩・新選組と対峙しました。
 司馬遼太郎「燃えよ剣」にもこの場面が出てきます。
 しかし大砲や鉄砲などの飛び道具では官軍が圧倒的に優位だったため、伏見奉行所は炎上、旧幕派は壊滅状態になりました。
 御香宮神社は無事。当然でしょう。

参道   

 *

 そこから近鉄、京阪の線路を横切ると「大手筋商店街」。

大手筋商店街・入口   

 この商店街は京阪・伏見桃山駅から西に延び、幅8m、長さ400m。
 伏見では一、二を争う活気ある商店街で、日本で初めて太陽光発電パネルが設置され、アーケードの照明に利用されているとか。
   

 この大手筋は秀吉が文禄3年(1594)建築した伏見城の大手門が西に伸びて(実際は少し曲がっている)つくられたもの。そのため当時から大手筋通りと呼ばれていた、歴史のある商店街。

 銀座発祥の碑   

 銀座通りとの交差点の角に「此付近伏見銀座跡」の石碑が建てられています。
 実はここ、家康が関ヶ原の合戦に勝利した翌年の慶長6年(1601)、日本で初めて銀貨鋳造発行所をつくらせたところで、伏見銀座と呼ばれていました。
 銀座はのちに京都→江戸、大阪に移り、伏見銀座は廃止されますが、ここが銀座発祥の地とのことです。
   

 大手筋は東から、1番街~4番街の名前がついています。
 この日は御香宮の神輿が何組も通過しました。

大手筋商店街    

 西端から南に向かう小路は「納屋町五番街」と呼ばれ、大手筋とは異なる雰囲気があります。

納屋町5番街   

 さらに南下すると坂本龍馬が常宿にしていた「寺田屋」があったので、「竜馬通り」と名づけられた商店街もあります。ただし現在の「寺田屋」は明治になって新たに建てられたもの。

竜馬通り  

 その一角に昔ながらの商店があり、往時を偲ばせます。

古い商家 

 桃山御陵をあとにして、近辺の案内地図を見ると「伏見桃山城」とあります。
 「伏見桃山城? こんなところにあるのか」
 早速その方向に向かいました。
  

 それにしても妙だ。駐車場脇の細い道を進むと、左に立派な城門。
 ただし入口にこんな注意書きが。
 「伏見桃山城の内部は公開していません。お城庭園の散策や外観をお楽しみください」

城門   

 なんだ、内部には入れないのか。
 その代わり入場料を取るわけでもなし。入場者もほとんどいない。
 ひょっとして廃城?

 ふたつの天守閣①  

 しかしこの城はなかなか立派だ。
 天守閣は正面から見ると、同じような大きさに見えるけど、左の天守は手前にあるので大きく見えるだけ。
  

 別の角度から見るとこうなります。
 左が小天守(3重4階)。右が大天守(5重6階)。

 別の角度から見ると   

 これが大天守。なかなか立派です。

大天守   

 石垣も立派。しかし石が新しい気もするが……。

城の石垣   

 庭園の太鼓橋。これはあとでつくられたものでしょう。

庭園の太鼓橋 

 城門を出たところにこんな説明書きが。
 「……公園内のお城は、伏見桃山城キャッスルランドの目玉施設として昭和39年に建築されたものです。遊園地の閉園後は伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマの撮影等にも活用されています」
  

 歴史上の伏見城は、秀吉が築いたもので、関ヶ原の戦いの際に落城。その後家康によって再建されたものの、元和5年(1619)廃城になりました。

ふたつの天守閣②   

 目の前にあるお城は、近鉄グループによって52年前につくられたもの。
 鉄筋コンクリート製の「模擬天守」というから、ちょっと白ける。
 昭和39年といえば、まだ京都にいたはずだけど、知らなかったなあ。