逗子海水浴場はいわば逗子湾の海岸線(約1km)。
 それを「太●族の記念碑」から北上していくと、その終点が浪子不動(高養寺)。
   

 浪子不動のいわれについては、
 今から600年以上も昔、披露山(ひろやま)から不思議な光が差すようになり、魚が獲れなくなったのを、鎌倉・補陀落寺(ふだらくじ)の頼基法印(らいきほういん)があたりを調べると、岩の洞穴に石の不動尊を発見した。村人が大切に祭ったところ、また魚が獲れるようになったという話があり、当初は「浪切不動」とか、「白滝不動」と呼ばれていました。

 蘆花ゆかりの板碑   

 それが「浪子不動」といわれるようになったのは、徳富蘆花の小説「不如帰(ほととぎす)」がここを舞台にしており、主人公の「浪子」にあやかったとか。
   

 昭和8年(1933)、お堂の前に海中に徳富蘇峯(蘆花の兄)の筆による「不如帰」の碑が建てられました。

海中のの浪子不動   

 この碑に使われた石材は大崎の先にころがっていた鍋島石(なべしまいし)です。江戸城を築くために九州鍋島藩が伊豆から運んできた石垣用の石が、船の難破で大崎の海に落ちたと言い伝えられていたものです。
  

 ふーむ、そんないわれがあったとは。
 当方、恥ずかしながら「不如帰」を読んでないので、浪子なんて知らなかった。

公園   

 この一帯は公園になっていて、ベンチなどが設えてあります。
おや、これは?
 「さくら貝の歌」の歌碑。これなら知ってるぞ、歌っているのは倍賞千恵子さん。

さくら貝の歌碑(対岸は桜山)    

 ♪うるわしきさくら貝ひとつ
 去りゆける君に捧げん
 この貝はこぞの浜辺に
 われひとり拾いし貝よ……
  

 これを作詞した土屋清(花情)は、元逗子役場の職員。成就しなかった初恋の思い出を胸に、砂浜を散歩するなかでこの詩が生まれたそうです。つくられたのは昭和14年(1939)
   

 こうしてみると、ここは文学的には宝庫のようなところ。
   

 ちなみにここを管轄するのは崖の中腹にある高養寺(白滝山)。

高養寺    

 その名の由来は、寺の建物を作るのを援助した政治家、高橋是清の「高」と、犬養毅の名「養」をとってつけられたとか。(ちょっと白ける?)
   

 聞けば、この右手中腹に都知事をされた作家大先生の邸宅があったとか。
 対岸は南の桜山。
 つくづく、いいところに邸宅を構えたものだなあ。

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2016.08.13 逗子海水浴場

 渚橋を渡ると逗子海水浴場です。

渚橋 

 海水浴は身体に悪いのでやらなくなったけど、この海水浴場は胸が騒ぎます。
 海岸線は長く、U字状の湾(逗子湾)になっていて対岸を見ることができ、しかも遠浅。まさに海水浴にうってつけの海岸。若者が多いのもナットクです。

 逗子海水浴場(対岸は披露山)   

 それに、なんといってもここは、太●族発祥の地。
 某作家の記念碑がここにあります。(デザインは岡本太郎氏)
   

 学生時代、この作家の「太●の季節」に衝撃を受けた私は、湘南に憧れ、夏になると鎌倉から逗子一帯を徘徊しました。
 しかし後に葉山の森戸海岸や一色海岸を知ると、「こちらのほうが海の風情がある。逗子は初心者向き」と思うに至りました。
 そしてこのころから「限りなく湘南ボーイに近い男」(?)を自認するようになったのですが……。

記念碑    

 しかし、私にとっては青春のバイブルともいえる「太●の季節」を7年前読み直してみると、ただのチンピラの話にガックリ。
   

 しかも逗子強度資料館の係の人にいわせると、
 「あれは亡くなった弟さん(俳優)の大学のボクシング部にいた伝説的な不良の話を聞いて、ほとんど想像で書かれた話。湘南の若者の実像ではありません」とのこと。
 なーんだ。
 当時の選考委員はそんな与太話を真に受けて賞をやったのかい。

桜山側を見る    

 まあ長年生きていると、こういうこともあるよ。(長生きはするものである?)
   

 「限りなく湘南ボーイに近い男」を自認していた当方にとっては、はなはだ片腹痛いものがあります。

 「24号線の田越橋から富士見橋の間は歴史的モニュメントがありますよ」
 逗子郷土資料館でそういわれて、田越橋にやってきました。

 田越橋交差点  

 ここは逗子銀座通りと24号線が交差するところで、逗子では最も交通量が多いとか。
 この橋は欄干が石造りでどっしりとして、なかなかの風格です。

田越橋    

 逗子銀座の先は葉山に通じる桜山トンネルですが、田越川に沿っているのが県道24号線。
なかなかの風情です。

田越川と24号線    

 少し行ったところに「六代御前の墓」があります。
 六代御前とは、平家物語に出てくる悲劇の女性。
 平維盛の娘で、文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで捕らえられ(当時12歳とか)、文覚上人の頼朝への嘆願によって助けられたものの、頼朝の死後に上人が反逆罪で流刑になると、六代御前も田越川のほとりで首を切られたと伝えられています。(享年26とか)
 平家物語は高校の古典でやったけど、六代御前なんて習った記憶はない(不覚?)
    
 入口に記念碑があって、お墓はその先の山の中腹だそうですが……。

 六代御前の石碑  

 天気は悪く、その前からポツポツと雨粒が降っていたのですが、ここへきてザーッと強い雨。
これはいかん。
     

 山へ行くのはやめて、急いで24号線沿いを河口に向かいました。
   

 「おや?」
 田越川に架かった大きな朱塗りの橋。富士見橋です。
 この橋は京都の五条大橋を模してつくられたとか。 橋長35m。

 富士見橋①   

 最初にかけられたのは明治時代で、当時はこれが「田越橋」と呼ばれていた。
 その後昭和30年(1955)に架け替えられ、橋名も「富士見橋」に変り、今の橋に架け替えられたのは昭和63年(1988)。
 ここから見る富士山の眺めが素晴らしいから、この名がつけられたのでしょう。(かながわの橋100選)
 京都の橋を模したといわれても、何の感慨もありませんが。(いうなって)

富士見橋②    

 そこからほど近く、徳富蘆花と国木田独歩の「ゆかりの地碑」があります。
 資料館の方がいってたのはこれだったのか。

蘆花・独歩ゆかりの地碑     

 雨がザーザー降るなか、写真に収めました。
 地元の人にいわせると、「こんな雨、1時間ほどで止みますよ」
        
 こういう雨は、この海岸地域ではよくあることらしい。
 実際、近くの食堂で昼食をとり、しばらく休んでいると、うそのように晴れました。

 逗子海水浴場の東に「蘆花記念公園」があります。
 徳富蘆花ゆかりの公園?
 私は以前京王線沿線に住んでいた(府中)ことがあるので、どうしても気になります。というのは、この沿線に「芦花公園」があり、何度が行ったことがあるからです。

 蘆花記念公園    

 海水浴場の東は小高い山(桜山)になっていて、その麓一帯が公園になっています。
 この公園は昭和59年(1984)4月、市制施行30周年を記念して、逗子の名を広く知らしめた徳冨蘆花ゆかりの地につくられたそうです。
 今の季節、海水浴場は大混雑するのに、こっちはさっぱり。せいぜい犬を連れた老人が歩く程度。
 「ふーむ、こんな山の麓では気軽にこれないな。まして海水浴客なんぞ」

細い山道    

 公園の奥「郷土資料館」の標識があり、細い山道になっているので、そのまま上りました。
 歩くこと10分。冠木門の向こうに木造の建物。これが「逗子市郷土資料館」

郷土資料館入口    

 この建物は横浜の豪商の別邸として建築されたものを、大正6年(1918)から徳川宗家第16代当主家達の別邸として使われました。

資料館内部    

 なかなか風情のある建物です。円窓もさることながら、庭の眺めもいい。
 
離れも茅葺きの屋根で由緒ある建物だそうです。

離れ     

 館内の展示物は徳富蘆花をはじめ、逗子ゆかりの文学者のものが多い。
 「こうしてみると、逗子というのは多くの文学者とのつながりが強いのですねえ」
 と係の人にいったら、「でも、鎌倉には負けます」
 なるほど。

不如帰の掛け軸

 しかし逗子出身の文学者といえば、都知事をやられたあのお方。
 「あのお方は、さぞかし郷土の誇りなのでしょうねえ」
 といったら、苦笑されておりました。

展示物   

 ここは山の中腹にあるので、海の眺めが素晴らしい。
 「あの向こうが披露山。その右手にあの方の邸宅があったのですよ」
 「えッ、あのお方の」
 「山の中腹にね。当時は開発されてなかったので、自費で道路をつくらせたそうです」
 金のあるヤツはちがうなァ、としかいいようがない。

郷土資料館からの眺め    

 しかし私にとっては、あの方の「太●の季節」は青春のバイブルのような作品。
 あの作品によって湘南に憧れ、かの地を徘徊し、ようやく「限りなく湘南ボーイに近い男」といわれるようになった(笑うな)けど、7年前読み直してみたら、「なんだ、これは」
 ただのチンピラの話じゃないか。
   

 そのことを係の人にいうと、「あの小説は真面目に読んではいけないのです」
 湘南の若者の実像を描いたというより、一種の「おとぎ話」として読むべきである、と。
 おとぎ話、だと?
  

 ふーむ、そんな読み方があったのか。
 目からウロコの思いでした。この資料館は含蓄深いぞ。

 岩屋洞窟や山ふたつなど、名所を徘徊しての帰りのこと。
 右手に「児玉神社」とあります。
 明治の軍人・児玉源太郎(1852~1906)が祀られた神社です。

山県有朋歌碑    

 入口に明治の元勲・山縣有朋の歌碑
   

 越えはまた里やあらむと頼みてし 杖さへ折れぬ老いの坂道
        

 「まだ越えねばならぬ里があって、老いの坂道に頼りにしていた杖が折れた」と児玉の逝去を悼んで詠まれた歌です。
   

 「これは参らねば……」
 そう思って参道を進みました。意外に長い。それに険しい上り坂。
 さすが軍神。参拝者にも過酷な行軍(?)を強いるわい。

参道    

 児玉源太郎といえば、すぐ思い浮かぶのが司馬遼太郎の「坂の上の雲」
 この小説は日露戦争のことを克明に描いていますが、なかでも印象深かったのは、大将・乃木希典(1849~1912)の軍人としての無能ぶり。
    
 司馬はいう。
 「乃木は兵士の身だしなみや規則には厳格だった。しかしこれらは末梢的なことで、無能な軍人のやること。本当に有能な軍人は敵を倒す軍略に長けていることだ。乃木にはそれが欠けていた」

一之鳥居   

 その具体例が旅順のロシアの要塞「203高地」の攻略。
 乃木は自軍の陣地と司令部を前線のはるか後方に置いた。これは乃木の臆病な体質の現れともいえるが、実質的にも兵士の突撃距離が長く、敵陣に迫る前に疲弊してしまう。しかも突撃するのに兵を小出しにした。
 敵にとってみればこれほど楽なことはない。待ち構えていて、ヘトヘトになってやってきた少数の敵に集中砲火を浴びせられるから。
 この愚かな作戦のおかげで何万人という若い命が無駄死にした。
 「これが203高地が難攻不落の要塞といわれた真相である」

境内    

 それを見かねた児玉源太郎が乃木に代わって指揮をとり、陣地と司令部を敵陣の近いところに置き、突撃の際は多量の兵を投入して一気に攻め落とした。
   

 児玉はその手柄をすべて乃木に譲り、自らは旅順をあとにした。(カッコいい!)
   

 ではなぜ児玉はそんなことをしたのか。
 それが児玉の性格ともいえるけど、主な理由は乃木が天皇に愛された軍人だったから。
   
      

 司馬はなおも書いています。
 天皇の軍隊のパレードのとき、ある少年の飼っていた小犬が飼い主から離れ、隊列を横切った。そのとき、小犬の横っ腹を銃剣でグサリと突き刺したのは乃木の指令を受けた兵士だった。

 二之鳥居    

 今から30年ほど前、これらのことを義父母に話すと、途端に不機嫌になりました。
 私は「坂の上の雲」が大好きです。
 それは我われの親の世代が「軍神」と崇め奉っていた乃木大将が完膚なきまでに「無能な軍人であった」と喝破されているから。
 
司馬にいわせると、乃木希典の無能ぶりは当時の陸軍でも「暗黙の了解事項」だったとか。(それでいて国民には一切知らされなかった)
            
 ではなぜ人々は彼を「軍神」として崇め奉り、立派な神社(京都にもあり)まで建てたのか。
 それは明治天皇崩御のとき、あとを追って殉死したからです。(国際的にも有名になった)

拝殿    

 話がすっかり脱線しましたが、そんなわけでどうしても児玉源太郎に肩入れしてしまう。
 この地に児玉神社が建てられたのは、江の島をこよなく愛していたからだそうです。
   

 今回この神社を発見したのは偶然だったけど、私にとっては大きな収穫でした。