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2018.11.04 未知なる鎌倉

 源頼朝の墓は荏柄天神社の西隣にあります。
 これが墓の入口。頼朝の墓はこの石段を登ったところにあります。

頼朝の墓・入口 

 ちなみに右の歌碑には、
   

 君出でて民もしづまり九重の 塵もおさまる世とはなりけり
   

 との歌が刻まれています。これは国学者・大森金五郎の作。
    

 このあたりは昔「法華堂」という頼朝の墓所があったのですが、明治政府の神仏分離令によって法華堂は取り壊され、今は「白幡神社」になっています。
 これが白幡神社の境内。(上の写真の左側)

白幡神社 

 石段を登ったところに頼朝の墓があります。
 この石塔は安永8年(1779)、薩摩藩主・島津重豪が建てたものだそうです。
 鎌倉幕府を開いた初代将軍の割には意外にひっそりした印象を受けました。

頼朝の墓 

 歴史のことはよくわからないけど、これは頼朝の死(諸説あり)、その後執権となった北条氏との関係性によるものではないか。
    

 歴史には謎が多く、未だに解明されないことが多いけど、今回鎌倉へきて、まだまだわからないことが多いと思いました。
    

 鎌倉といえば「紫陽花の寺」として、有名どころを何度も訪れています。
 鶴岡八幡宮、鎌倉大仏などの歴史遺産、七里が浜、由比ヶ浜、材木座海岸などの海岸線、天園、葛原ヶ丘などのハイキングコースも歩きました。
 ある程度鎌倉のことは知っているつもりでした。
    

 しかし今回、天園から瑞泉寺に下り鎌倉の東地区を歩いてみて、初めて知ったところもありました。永福寺跡や報国寺がそうです。(報国寺は有名なので笑われるかもしれませんが)

金沢街道     

 報国寺に関しては鎌倉宮参道の食堂の女性店主に教えてもらったものであり、またここで雑談に加わってきた常連らしき老人から「源氏山ハイキングコースというのもあるよ。ここの展望台もなかなか眺めがいい」と教わりました。
 地図でいうと金沢街道の南側、鎌倉市の東南部はまだまだ未知なる地域です。
鎌倉はまだまだ奥が深い。

若宮大路・段葛 

 鎌倉といえば若宮大路や小町通り、何度も訪れていますが、ここへは何度訪れても「鎌倉を知ったことにはならない」と改めて感じました。

     

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 荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)にも寄りました。
 ここは学問の神様である菅原道真公が祀られていて、太宰府天満宮、北野天満宮とともにに三天神社とされる神社です。
 荏柄天神社に向かうには、この2本の木の間をくぐっていくのが本道らしい。

先ずは木の間をくぐる 

 一の鳥居。

荏柄天神社・一の鳥居 

 長い石段を登ると、

長い石段 

 荏柄天神の本殿です。
 ここは長治元年(1104)源頼朝が鎌倉幕府を開く際、鬼門の方向の守護社として社殿を造営したのが始まりとか。

荏柄天神社・本殿 

 境内には横山隆一などの漫画家が建立した絵筆塚があります。
 これには清水崑をはじめ154人の漫画家によるカッパのレリーフが付けられています。

絵筆塚 カッパのレリーフ

 この奥に鳥居があるので、石段を登ってみると小さな祠に突き当たりました。熊野権現社です。
 祠は2ヶ所あって内部でつながって通り抜けできたそうですが、今は立ち入り禁止。

熊野権現社 

 この荏柄天神に関しては浅からぬ因縁があって、30年ほど前、瑞泉寺から天園を登って建長寺へ下りようとしたところ、道を間違えて下りたところがこの荏柄天神でした。
 今はハイキングコースの入口はなく、なぜ塞がれたのかは不明です。
   

 このように荏柄天神社は謎の多い神社です。

     

2018.11.02 報国寺の竹林

  杉本寺を出て、その南にある報国寺に向かいました。
 先ほど寄った食堂で、「報国寺の竹林は素晴らしいですよ」と勧められたからです。

報国寺・山門  

 報国寺は臨済宗建長寺派の寺院。山号は功臣山。本尊は釈迦三尊。
 同寺は建武元年(1334)天岸慧広の開山によって創建されたと伝えられ、開基は足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれています。

報国寺・枯山水   

 山門を入ったところに枯山水の庭があり、これがなかなかの風情。
 境内・本堂までは無料ですが、その奥は有料(200円)。

報国寺・本堂    

 この奥こそが鬱蒼たる竹林。その数約2000本とのことで、「竹の寺」といわれるだけのことはあります。

鬱蒼たる竹林   

 この竹林には茶室があり、ここで茶を飲む(有料)のもよし、

竹林の茶室    

 通り抜けるのもよし。(当方は通り抜けました)

竹林の向こうには…   

 通り抜けたところに、横穴墳墓(崖に彫られた墓)が見えます。
 これは永享の乱(永享10年=1438)で敗れた足利氏の墓で、この寺で自刃した義久(10歳)の墓もあるそうです。

横穴墳墓   

 こうしてみると、ここは関東に於ける足利氏終焉の地でもあります。
 単に竹を愛でるだけの寺ではなかった?

   

 食堂をあとにして、杉本寺に向かいました。
 同寺はバス通り(金沢街道)に出て、東の方向(金沢八景)に少し歩いたところにあります。
 石段を上ります。

杉本寺・入口の石段 

 途中、「大蔵辨財天」があります。
 これは社(やしろ)ですが……。

大蔵辨財天・社 

 弁天堂は洞窟のなか。ありがたや、ありがたや。

大蔵辨財天・弁天堂 

 杉本寺はさらに急な石段を登ります。

さらに急な石段を登る 

 ここは8世紀(奈良時代)に、奈良の大仏造営に貢献し、貧民救済にも身を尽くした行基によって建立された、鎌倉最古の寺。(同寺の説明書き)
    

 HPによると、ご本尊は734年・行基作、851年・慈覚大師円仁作、985年・恵心僧都源心作の三体の十一面観音であるとのこと。
 しかも火災が起こったとき、ご本尊三体自ら庭内の大杉の下に火を避けたので、「杉の本の観音」と呼ばれた、と「吾妻鏡」に伝えられているそうです。
    

 杉の本の寺だから杉本寺(すぎもとでら)。そのまんまやないか。
 私の敬愛する滋賀県の郷土史家N氏によると、
 「原則としてお寺は音読み、神社は訓読みや。浅草寺は『せんそうじ』と読み、浅草神社は『あさくさじんじゃ』と読むやろ。ただし物事には例外がある」
 ということで、ここはその例外らしい。(「さんほんじ」とは読まない)

杉本寺・本堂 

 ちなみにこの杉本寺、無礼で、信心なき者がこの前を馬で通ると、必ず落馬するというので、建長寺開山の大覚禅師が祈願し、自らの袈裟で十一面観音覆ったところ、落馬する者がなくなったといいます。ありがたや。
 これより御本尊は秘仏とされたとか。
     

 それかあらぬか、ここのお堂のなかはすべて撮禁。
 仕方なく、ここから見る鎌倉市内の景色を撮りました。

杉本寺境内から見る鎌倉の市街地 

 実はここも6年前にきて、由緒は仰々しいけど景観的にはつまらない寺だ、と思ったのですが、今回は大蔵辨財天を観たことが収穫だったかな。

      

 鎌倉宮(かまくらぐう)にやってきました。
 ここは別名・大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれ、護良親王(もりながしんのう)を祀った神社です。
 護良親王は父後醍醐天皇とともに足利尊氏と対立して捕らえられ、東光寺に幽閉された挙句、建武2年(1335)尊氏の弟・直義の命によって殺害されました。

 鎌倉宮・一の鳥居

 明治2年(1869)明治天皇は建武中興に尽力した親王の功を賛え、東光寺跡に社殿が建設され、鎌倉宮と名づけられました。

鎌倉宮・拝殿 

 拝殿のとなりには、元弘3年(1333)吉野城落城の際、親王の身代わりとなって壮絶な最期を遂げた村上義光を祀った村上社があります。
 その木像「身代りさま」を撫でさすり、絵馬を納めるとご利益があるそうですが、私は撫でるだけにしました。

「身代りさま」村上彦四郎義光の木像 

 この鎌倉宮は、鶴岡八幡宮と瑞泉寺の間にあるのでその途中何度か寄ったはずですが、よく覚えてません。「護良親王の怨念の強い場所」といわれているのに。
         

 いつもはその前を横切るだけですが、今回は参道をそのまま下りました。
 時刻は1時40分を過ぎていたので、目についた食堂に入りました。
 思えば、天園の茶屋が休みで「おでんうどん」を食べ損なったため、何も食べてなかった。

参道の食堂 

 頼んだのはサービスランチ。
 これに珈琲と団子がつくので、いささか炭水化物過剰。本意ではないけど仕方がない。

サービスランチ 

 食べ終わって珈琲を飲んでいると、「今日はどこへ行かれたのですか」と女性店主に聞かれました。
 「鎌倉宮を参ってきたのですが、その前に天園ハイキングコースを歩いて瑞泉寺で下りました」
 「よく歩かれましたね。で、登るのはどこから?」
 「建長寺です」
 「ああ、やっぱりね。拝観料取られたでしょう」
 「500円取られました」
 「まあッ、500円も。あのお寺は本当にアコギなんだから」
      

 彼女にいわせると、鎌倉の人たちは天園をハイキングするとき、大てい明月院の脇道から上るそうです。建長寺は地元では「金取り主義」「鎌倉の恥」と悪評芬々だけど、そんなことは馬耳東風。なにも知らない地方の人が引っかかっている、といいます。
    

 そういえば北鎌倉で会ったバアさんも、天園を一緒に歩いた女性も、建長寺についてはボロクソだった。ふーむ、あのお寺がねえ。