ここに昭和2年(1927)の彦根町(当時)の地図があります。(「彦根歴史散歩」より)
 このころはまだ江戸・明治時代の町名がまだ残っており、謄本に出ている親戚の住んでいた場所がわかります。

 彦根町の市街図(昭和2年)  

 芹川沿いの芹橋町は一~十五町目まであり、これは祖父が住んでいた足軽屋敷。外濠(そとぼり)の外です。
 親戚の住んでいた北組町、池州町、七十人町もまた外濠の外。
 ただし曾祖父が養子に入ったT家は外濠のなかの一番町。ふーむ、こっちのほうが武家としては格上?
 これらの地名は今はありません。
 現在の彦根市の地図も持っていますが、3年前に訪れるまでは古い地図のほうが想像力をかき立てられました。
  

 中濠の南東にある中学校は「滋賀県立彦根中学校」のこと。
 元は彦根藩の藩校「稽古館」(寛政11年=1799)、明治になって「滋賀県県立第一中学校」
 現在は「彦根東高校」です。偏差値も高く、進学率も高い。
 文武両道で、2013年夏は野球部が甲子園にも出場しました。(校庭に記念碑あり)

彦根東高校   

 親戚に同校で教鞭をとられて(家庭科)いた女性がいますが、かなりのお年のはず。どうしておられるのか。
  

 中濠に架かる京橋から外濠に向かう道は江戸時代から「京橋通り」と呼ばれていたようです。
 何度もいいますが、「夢京橋キャッスルロード」という歯の浮くような名前は今もって好きになれません。昔のように「京橋通り」にすれば好感が持てるのに。
  

 舟橋聖一「花の生涯」や幸田真音「藍色のベンチャー」には幕末の彦根が描かれていますが、そのなかに出てくる「袋町」は遊郭のあったところ。
 今は「花しょうぶ通り」というアートの町(?)になり、遊郭の面影はありません。

花しょうぶ通り   

 もっとも横浜も永楽・真金町(遊郭)はその雰囲気はなくなった(一部ラブホテル街)し、初黄飲食街もやはりアートの町(?)になっちゃった。こんなところは観光行政としては払拭したいのでしょう。
  

 「城下町」の著者・矢守一彦氏も「今の彦根は観光化されて味わいがなくなった」と書かれています。
 私も実際に彦根の市街地を歩いてみて、感動したところもあれば、「ここも他の観光地と同じか」とガックリしたところもありました。
  

 彦根市は一時「ひこにゃん」ブームで湧いたけど、私は好きになれなかった。こういうものは文化として底が浅い。
 こんなことなら彦根は当分(こなくても)いいかな。

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 舟橋聖一「花の生涯」は幕末の彦根を舞台にし、井伊直弼およびその周辺の人々を鮮明に描いた小説です。
 これによると、「横浜は井伊直弼なしには生まれなかった」ことがわかります。
        
 当時、米国総領事ハリスは領事館のある神奈川(今の東神奈川あたり)を開港するよう主張していました。江戸へ行くのも便利なので、ハリスはここに固執したのです。
 そのあまりの強硬ぶりに、幕閣たちもそれに傾きかけましたが、幕閣の井伊直弼だけは猛反対。
 「神奈川は宿場町だけに多くの人々が行き交う。外国人と衝突するのは必至。なんとしてもそれは避けたい」
 そう考えていた直弼は、神奈川からひと山越えた湾の入り口の小さな砂州、人口101人の横浜村に目をつけ、ここに港を開くことを提案しました。
 しかしハリスは問題にせず、他の幕閣たちも「そんな突拍子もない。遠いし、埋め立てに莫大な費用がかかる」と考え、直弼の意見には大反対。
     
 それでも直弼は粘り強く「横浜最善説」を説き、少しずつ幕閣の考えを変えていきました。
 これにはハリスも折れ、とうとう横浜村に港が開かれるようになりました。
        
 結果、横浜はどんどん開拓され、文明開化のシンボルになり、江戸(→東京)よりも賑わいました。
 今日の横浜の繁栄は、井伊直弼の尽力あってこそといっても過言ではありません。その意味で横浜市民は(横浜好きの私も含めて)井伊直弼に足を向けて寝られないのです。
伊井掃部頭の銅像 ←掃部山公園  
 横浜市中区戸部町に「掃部山公園」があります。
 明治42年(1909)、開港50周年を記念して、ここに井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼の銅像が旧彦根藩士によって建てられました。
 ところが旧攘夷派の人たちによって銅像の首が切られました。彦根人としては悲しいことです。
 昨日も述べたように、このころでもまだ彦根藩に対する風当たりは強かったようです。
    
 さらに第二次世界大戦時には銅像そのものが供出され、受難の連続でした。昭和29年(1954)になってようやく再建され、現在に至っています。
       
 余談ですが、井伊直弼と横浜に関して、私はこんなことを夢想します。
 曾祖父が鳥羽伏見の戦いで戦死せず、生きのびていたとしたら、どんな生き方をしていただろうか。
 文明開化の横浜に流れ着き、過去を一切捨て、中国人が経営する賭場の用心棒になっていたのではないか。ちょうど「花火の街」(大佛次郎)の是枝金四郎のように。
 横浜は主君(井伊家)ゆかりの場所、ここなら骨を埋めてもいいと考えた?
        
 だとすると妻子を捨てて無責任? いや、記憶喪失になった? など考えると楽しくなります。

 彦根藩(井伊家)は徳川の筆頭譜代大名でした。そのため「鳥羽伏見の戦い」ではてっきり幕府側とばかり思っていました。
 ところが実際は官軍側についていました。
  

 司馬遼太郎「燃えよ剣」でも、鳥羽伏見の戦いのくだりで、新撰組の隊士が「彦根藩が裏切った!」と叫んでいたような……。
 ガックリしました。
 「なんのために井伊直弼は殺されたんだ。これでは犬死ではないか。筆頭譜代の名が泣くというものだ」
 ひょっとして彦根藩は日和見で、勝ち馬に乗ったのではないか。
  

 しかし藩史を調べてみると、そこに至るまでには様ざまな葛藤があったようです。
 大河ドラマ「篤姫」(2008)でもわかるように、14代将軍をめぐって幕閣内での対立、さらに「安政の大獄」や「桜田門外の変」で老中は彦根藩に冷たくなり、距離を置くようになりました。
 加えて彦根藩の下級武士の間で尊皇攘夷派が台頭し、「朝廷側(反幕府)につくべきだ」という意見が強くなり、藩の体制もそれに傾いていきました。
 そのため「鳥羽伏見の戦い」では最初から自分たちの信念で反幕府側だったのです。
  

 薩長軍は得たりとばかり彦根藩を過酷な最前線につけ、彦根藩もそれに応えました。
 戦が終わった鳥羽街道には、官軍側・幕府側を問わず身元不明の死体が累々と横たわっていたそうです。私の曾祖父もそのひとり(?)。

彦根城   

 戦ではさんざん彦根藩士を利用したにも関わらず、官軍側は「安政の大獄」の恨み骨髄だったのか、明治になっても彦根を逆賊扱いして、徹底的に冷遇しました。
 そのため彦根の経済は困窮を極め、江戸時代に3万5000人あった人口は、明治22年には1万7000人に半減しました。
 祖父の戸籍でも、娘たちの何人かは京都や大阪に養子に出されています。それだけ生活が厳しかったからです。
  

 新政府は財政援助の交換に(憎き彦根藩のシンボルである)彦根城の廃城を提案しました。
 しかし彦根の人々はこれを拒否、経済よりお城の存続を求めました。彼らにとってはお城が心の拠り所だったのでしょう。
  

 彦根は、政府の援助をあてにすることなく、自ら産業(製糸・バルブ工業・流通など)を興して自立の道を歩みました。
  

 彦根市が他の都市と同じ扱いを受けるようになったのは太平洋戦争終結後といいます。(びわこ放送編「近江歴史紀行」秋田書店)

 私は京都で育ちましたが、父方のルーツは滋賀県の彦根市です。
 「曾祖父は彦根藩士で『鳥羽伏見の戦い』で行方不明になった」と母から聞かされておりました。
  

 あるとき家の書類を整理していると、一冊の謄本が出てきました。
 祖父が京都へ移ってきた際の、彦根市からの除籍謄本です。昔の漢字、崩し字なので読むのに骨が折れましたが、なんとか読解することができました。
   

 それによると、曾祖父は弘化2年(1845)彦根北組町の下級武士(H川弥太夫)の三男として生まれ、壱番町十一番屋敷の「T家(私の姓)」(中級武家)の養子に入っています。
 慶應元年(1865)20歳で池洲町の下級武士の娘と結婚し、明治3年(1870)5月7日に失踪、と記されています。
  

 明治3年になってからの失踪とは不可解ですが、「戦で行方不明になった」という母の話から推測すると、戊辰戦争が終わり、明治になっても帰ってこないので、家人が「失踪」扱いにして届け、受理されたと考えられます。

彦根市役所   

 祖父は曾祖父が結婚した翌年慶應2年(1866)に芹橋町の足軽屋敷で生まれましたが、父親(曾祖父)が鳥羽伏見の戦いで行方不明(おそらく戦死)になったため、母親(曾祖母)は再婚、幼少期を(再婚した)母と暮らしました。再婚相手の名は記述されていませんが、明治9年には弟が生まれています。
 これは私の想像ですが、かなり苦労したと思われます。
   
 祖父はよほど自立心が強かったのか、19歳で2歳年上の女性と結婚し、女の子を4人もうけています。
 しかし妻に先立たれ、小さい子どもを抱えて苦労したようです。
 仕事は、後に北海道・社名淵町の警察署長を務めているので、若いころは警察官だったと考えられます。
       

 その後、祖父は四日市の御殿医の娘と再婚し、42歳にして初めて男子を授かります。それが私の父です。その下はやはり女子ふたりだったため、父は女ばかりのなかの「黒一点」でした。
 そのため溺愛されて、意志薄弱な人間になりました。
 

 明治・大正のころの彦根市の住宅事情はかなり悪かったようで、祖父の家族は壱番町の屋敷から池洲町→芹橋町に移り、同じ町内を転々としたあげく、昭和12年京都に移り住みました。
 その間3人の娘に先立たれています。(もっとも孫は何人かいます)
  

 京都に移って、娘たちの墓を若王山(新島襄の墓の近く)につくりました。
 親としては辛かったでしょう。
 こうして苦労多い祖父は昭和23年(1948)82歳の生涯を閉じました。

 再び彦根の市街地にもどってきました。
 まず城の中堀にかかる京橋から続く、京橋大通り。
 実はこの道、「夢京橋キャッスルロード」と呼ぶそうですが、未だになじめないので、私は勝手に「京橋大通り」と呼んでいます。

京橋   

 彦根藩の下級武士を先祖に持つ当方にとって、彦根は聖地のようなところ。
 親戚からは「彦根人の気風は質実剛健」と教わりました。
 ところが、なんだ、この飾り立てた名前は。どこが質実剛健だ。聞くたびに気恥ずかしくなる。

京橋大通り①    

 例えば川越は「蔵造り一番街」で通っている。これでいい。
 中身さえしっかりしていれば、名前なんかゴテゴテ飾り立てる必要はない。

 京橋大通り②  

 とはいえ、通りの景観は実にいい。道幅は広く、並木と植え込みがある。これは川越以上だ。
 残念なのは人が少ないこと。川越は平日でももっと多い。
 やはり首都圏から近いという、地の利があるからか。

夢京橋あかり館①   

 有名な「夢京橋あかり館」に入りました。
 ここは和蝋燭を中心に、明かりとお香、アクセサリーなどを商う店。
 蝋燭は停電用(?)にたくさんあるので買わなかったけど、店内は落ち着いた雰囲気(お香のせい?)で居心地はよかった。奥にも休憩するところもあるし。

夢京橋あかり館②    

 通りの各店を詳らかに調べたわけではありませんが、全体的な感じはいい。
 この通りではないけど、昼は駅前お城通りの定食屋で焼き魚定食を食しました。安くて美味かった。店の人の感じもよかったし。
 前回は年配の女性が切り盛りしている喫茶店にも入ったけど、珈琲も美味かった。

四番町スクエア①    

 それよりも興味を引いたのは通りの外れの「四番町スクエア」
 全体的にベージュ色の建物と柳並木。雰囲気が大正浪漫。
 広場には植え込みやベンチがあって、ゆっくりくつろげる。

四番町ダイニング   

 しかし、如何せん、ここも人が少ない。
 某アンティーク店などは閉店セールをやっていたぞ。

四番町スクエア②   

 当方も買わずに見るだけだったけど。

生地のセール   

 彦根を含めてこのあたりは近江商人を生み出した土地だけど、その商法は意外におっとりしているように思います。(私の印象)
 これなら川越のほうがよほどガツガツしている。(悪いネ、川越の人)

小さな広場 

 彦根は他にも大師寺や宗安寺などにも寄りましたが、UPはまたの機会に。