N産業はベトナム戦争が終ると衰退し、ディーゼルエンジンを製作する会社と合併、さらにK機械という大きな会社に吸収合併されて、移転しました。

 その跡地には高層住宅(ビーコンヒルズ)とイトーヨーカドーが建ちました。
 おしゃれなショッピングセンターもあり、当時の面影はまったくありません。

イトーヨーカドー②

 今回そこを歩いてみて、京急のしたたかな宅地政策を垣間見ました。
 駅名を谷津坂から能見台に変えたのは、もう少しディープな事情があったのではないか。
 これから先は、あくまでも私の推測です。
        

 そもそも谷津というのは谷戸、谷の集落のことで(〇〇谷戸とはある種の蔑称)、宅地販売するにはイメージが悪い。
 さらにいうと、谷津坂駅の歴史はD兵器→N産業という軍需産業とともにあった。
 谷津坂といえば、「ああ、兵器工場のあったところね」といわれかねない。
      
 そうしたダーティなイメージを払拭し、魅力ある住宅地として売り出すには、なんとしても駅名を変える必要があった。

ビーコンヒルズ①

 こうして昭和57年(1982)谷津坂駅は、江戸時代の景勝地にちなんだ駅名「能見台駅」に生まれ変わりました。
 駅前にはおしゃれな店が建ち並び、商店街は活気を帯びてきました。
 駅名だけではなく、町名も谷津坂から能見台に変えたことによって、分譲地は売れ、地価も上がりました。
     
 人口は急激に増え、一日平均乗降者数は2013年度で31,758人。30年前より倍増しています。
 駅の周辺はおしゃれな住宅街に変身し、今では「横浜で住みたい町」の上位にランキングされています。
 京急の計画は見事に成功したのです。

 ビーコンヒルズ②

 私はN産業を取材したというのに、それが軍需工場だとは思いもしなかった。
 それを知ったのは、今回、能見台に行ってから。
 ついでに京急の宅地政策も知りました。
 これも今日まで生きたればこそ。やはり長生きはするものだと思いました。
      
 ※このシリーズは旧ブログ2012/10/15~17に投稿した記事をリメークしたものです。 
 

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 N産業の歴史を紐解くと、前身は「D兵器株式会社」(昭和13年設立)という軍事産業でした。
 戦後は「N産業」と改称し、機械の部品をつくる工場になりました。

 しかし一方では銃器、弾薬もつくっていて、自衛隊などにも納めていたようです。
 当然、社の景気は戦争に大きく左右されました。
 朝鮮戦争では潤い、戦争が終結すると赤字(昭和29年、会社更正法申請)。ベトナム戦争が始まると黒字……といった具合です。

 私が取材に行ったのは、まさに好景気のころでした。
 社としては、戦争で儲けているとは人聞きが悪い。
 そこで自社の技能優秀者をスター扱いすることによって、社のイメージアップを計ろうとし、(軍人つながりの)業界誌に多額の広告費を投じたのではないか。

イトーヨーカドー① 

 気になるのは、インタビューし、写真を撮らせてもらった技能優秀者である工員の人たち。
 大半が私と同世代。なかには私より若い人もいました。
 彼らはあの工場の「秘密」を知っていたのか。
 今もし再会できれば、聞いてみたい。

 一方、京急谷津坂駅が開業したのは昭和19年(1944)、ほとんど軍需工場(D兵器株式会社)の関係者のための駅でした。

 戦争が終わり、昭和21年、駅の北側に(私立)横浜高校・中学がきてからは、乗降客の大半はN産業の社員と、横浜高校・中学の生徒、教職員が占めました。

横浜高校 

 駅を同じくするよしみもあって、横浜高校からN産業へ就職する卒業生は多く、N産業には「横浜高校OB会」もあるほどでした。

 私は学生時代ベトナム戦争に反対し、街頭デモに参加したこともあります。
 しかし学生をやめて間もなく、知らなかったとはいえ、ベトナム特需の企業のお先棒を担いでいたとは。
   
 今の私には「軍需産業、怪しからん!」という気はありません。
 アメリカの属国である日本では致し方のないことであり、どうあれ人々はそれでメシを食い、子どもを育ててきた。
 戦争特需で日本は潤い、我われは高度成長を享受した。
 誰にも非難する資格はないのです。

 横浜高校の台頭によって、初めて知った能見台駅。
 京急の路線図から忽然と消えた谷津坂駅。
 この両者が同じだったとは。

 2012年10月12日、私は能見台駅に降りました。
 「おかしいな。N産業がない」
 駅前の周辺地図を見ましたが、N産業はありません。
 たしか駅前の通りを少し下りたところに、線路に沿って大きな工場がありました。地図でいえばイトーヨーカドーのあたり……。

能見台駅 

 そばで地図を見ていたお婆さんに聞きましたが、「ここへは病院に通うのにきているので、知らない」とのこと。聞くのではなかった。

 駅前を横切る能見台通りの急な坂を上ると、小さな郵便局がありました。
 郵便局ならわかるだろう。

能見台通り 

 窓口の女性に尋ねました。
 「40年以上も昔のことですが、近くにN産業という工場があったの、ご存じですか?」
 「ああ、それなら今のイトーヨーカドーのところにありましたよ。もう20年ほども前ですが」
  
 すると奥から年配のオッチャンがこういいました。
 「N産業ね。あそこはテッポウつくってたんですよ」
 「えッ、鉄砲? 武器の?」
 「そうですよ。この辺の者ならみんな知ってます。有名な軍需工場ですよ」

駅南側、下は16号線 

 知らなかった。
 銃器製造は、わが国ではご禁制のはず。(個人でつくれば逮捕されます)
 それが大きな工場で、堂々とつくられていたなんて。
                         *
 しかし、そういわれると思い当たるフシはあります。
 一緒に行った営業のオッチャンは元軍人で、相手先の会社の総務部長とは軍隊仲間でした。
 「オタクは第〇連隊でしたか。私は第△連隊」
 これで話が通じ、広告を取るという、まことに不思議な営業でした。

 これが軍需産業だとしたら、すべて腑に落ちます。みんな軍部つながり。
 今にして思えば、私が取材に行った杉田(横浜市)、田無(東京都)、狭山工業団地(埼玉県)の工場も、みんな軍需(関連)産業でした。

 1990年代、甲子園大会で横浜高校の松坂投手が活躍していたころ、京浜急行「能見台(のうけんだい)」という駅名をよく耳にしました。同校の最寄り駅だというのです。
 「そんな駅、あったっけ?」

 上京して最初に住んだのは品川区東大井の海っぺりで鮫洲(さめず)駅の近く。そのため京浜急行にはひときわ愛着があります。
 横浜より先でよく知っている駅名は日ノ出町、黄金町、弘明寺(ぐみょうじ)、杉田、金沢文庫、金沢八景。しかし能見台は聞いたことなかった。

 「待てよ。谷津坂という駅もあったはず」
 私は20代前半、新宿の出版社に勤める前、ある業界誌の編集を手伝ったことがあります。
 この業界誌は「現代の名工」と銘打って、工場などの技能優秀者を取り上げて称賛し、その企業から広告費を取るというやり方でした。
 私は営業ではなかったけど、営業のオッチャンと一緒にあちこちの工場を取材にまわりました。
京浜急行 
 「これじゃ使えない。撮り直すしかない」
 横浜南部にある京急沿線のふたつの工場を取材し、技能優秀者の青年の写真を撮りましたが、そのうちの一件がまるでピンボケ。もう一度行くしかありません。
 N産業という、機械の部品をつくる工場でした。

 「またですか」
 工場に二度も撮影ということで、受付に怪訝な顔をされました。
 それでもわけを話すと了承してくれ、撮影は無事に終わりました。
 あの工場の最寄り駅が谷津坂駅でした。
 あのときは勘違いして(もうひとつの工場のある)杉田駅で降り、あわてて乗り直したので、谷津坂の駅名はよく覚えています。
 しかし京急の路線図を見ても、ない。谷津坂駅が消えている!

 待てよ、と思い、「谷津坂駅」を検索しました。
 すると、真っ先に出たのは「能見台駅」。昭和57年(1982)駅名変更とあります。

 そうか、そういうことだったのか!
 これで謎は解けました。

 ではなぜ谷津坂から能見台に改名したのか。
 Wikipediaによると、京急がこの地域を開発分譲する際、駅の少し上にあった、江戸時代から有名だった景勝地「能見堂」にちなんで能見台にしたというのです。

 こうなったら、現地に行ってみるしかない。
 能見台駅に対する興味が俄然湧き起りました。

 今回の横浜散策は、ディープな横浜を探訪することにありました。
 そして今日は戦前の横浜の風俗街「チャブ屋」跡の探訪です。

 チャブ屋とは、1860年代から1930年代の日本において、日本在住の外国人や、外国船の船乗りを相手にした娼館のこと。
 洋風の遊廓ともいえるもので、1階はダンスホールとバーカウンターでピアノの生演奏やSPレコードによる伴奏があり、2階に個室がありました。

 チャブ屋の語源は諸説ありますが、英語の軽食屋「CHOP HOUSE(チョップ・ハウス)」が訛ったもの、という説が有力です。

いずみ公園通り① いずみ公園通り②

 横浜のチャブ屋は本牧の小港地区と石川町の大丸谷(現在のイタリア山中腹)に集中していました。
 なかでも小港地区のチャブ屋街は有名で、淡谷のり子の「別れのブルース」(1937)はここの女を歌ったものといわれています。(作詞:藤浦洸 作曲:服部良一)

 ♪窓を開ければ 港が見える
 メリケン波止場の 灯が見える
 夜風 潮風 恋風のせて
 今日の出船は どこへ行く……

いずみ公園 

 小港では「キヨホテル」が有名で、女給「メリケンお浜」は伝説的人物です。

 このチャブ屋は終戦後、若いGI相手の歓楽街として再興したものの、戦前とは違って情緒がなくなったといわれています。昭和33年(1958)売春禁止法の施行で消滅しました。

 ここに重富昭夫「横浜チャブ屋物語」(株式会社センチュリー)という本があります。
 チャブ屋の実態を描いたドキュメンタリーですが、最後に作者が小港の旧チャブ屋街と思しきところを歩くくだりがあります。

通りの東側 

 ……山手警察署の裏を斜めに根岸方向に伸びている道路がある。道幅8mのアスファルトの舗装道路で、前方約500mほど先にマンションがひと塊りになって林立している。先の復原図(昭和15年ころ)を照合すると、どうやらこの道路に沿ってチャブ屋が軒を連ねていたように思われる。道路の右側には、ぽつぽつビルが建ち始めているが、左側(東側)はなぜか未だに空漠とした空き地が続いている……

 この通りは山手警察署のすぐ裏の「いずみ公園通り」です。
 しかし復原図では、山手警察署の裏通りは当時からあり、チャブ屋街はその東側。
 そこはイトーヨーカドーの敷地です。つまりチャブ屋街はすべてサラ地になり、そこを丸ごとこのスーパーの敷地にしたといえます。

イトーヨーカドー 

 うーん、このスーパーは谷津坂の旧兵器工場跡にも建っている。
 よくよくティープなところが好きなのか。なにか理由があるのか。それとも単なる偶然か。

 なんの結論も出ない探訪でした。