それからしばらくして、クヌルプは故郷にもどってきます。
 故郷は変わったところもありましたが、変わらないところもあり、彼は克明に覚えていました。
 そこで彼はフランチスカがすでにこの世にいないことを知らされます。
  
 彼は友人の医者から入院を勧められているにも関わらず、故郷をくまなく歩き回ります。
 そして降りしきる雪のなか、自分の人生とは何だったのか、神に問いかけます。
 「私が14歳でフランチスカに捨てられました。あれから私の人生は大きく狂いました。あのときあなたはなぜ私を死なせてしまわなかったのですか」
  
 それに対して神はこのように答えます。
 「クヌルプよ。お前が若かったころのことを思い出してごらん。お前は小鹿のように踊りはしなかったかい? 美しい命がからだのふしぶしに震えるのを感じはしなかったかい? 娘たちの目に涙があふれるほど、お前は歌をうたい、ハーモニカを吹くことができはしなかったかい? それから最初の恋人のヘンリエッテを。そういうものがみな無に等しかったのかい?」
 そして、
 「私が必要としたのは、あるがままのお前なのだ。お前はいつも私とともに生きていた。お前は旅先で多くの人々を楽しませ、愛された。お前の人生はそれでよかったのではないか」
 「おっしゃる通りです。私の人生はそれでよかったのです」
  
 クヌルプはすべてを受け入れ、自分の人生を肯定し、深い眠りにつきました。

 若いころ読んだ印象とは違って、クヌルプは必ずしも希薄な人間ではない、と思いました。「人と一定以上関わらない」という信念を持っている。
   
 「するとヤツとは違うな」
 私の友人はクヌルプのような「信念」はない。
 鳥は3歩歩いたら直前あったことを忘れるように、友人は単に希薄なだけで、「漂泊の人」ではない。
 (洒脱で人を楽しませるという点では似ているが)
  
 それにしてもこの小説は若いころに読むならともかく、人生の晩年に読むべきものではない。すべて身につまされて、侘しい思いだけが残ります。
 しかもこの侘しさから未だに抜け出せない。嗚呼。

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 京都時代の友人某は、「当時のことはほとんど覚えてない」といいます。
 こちらは克明に覚えていて、ことあるごとに「こんなことがあった」「あんなこともあった」というのですが、彼は「ふーん、そんなことあったか」
   

 そんなことが多いので、いつしか「キミは、希薄なヤッちゃな」というようになり、彼もそれを認めるようになりました。
  

 「キミのような人間はどこかで覚えがあると思ったら、学生時代に読んだヘッセの小説『漂泊の魂』の主人公クヌルプや。あれに似てる」
 「へー、そうか」
   

 というわけで、図書館で借りてきました。
 当時は岩波文庫で「漂泊の魂」というタイトルだったのですが、今は主人公の名前でクヌルプ。(「漂泊の魂」のほうがいいタイトルだと思うのですが)
  

 この小説は「早春」「クヌルプの思い出」「最期」の三部構成になっています。

 病院から退院したクヌルプ(40ぐらい?)は、地方都市の皮なめし匠夫妻のところに逗留します。
 彼は粋でお洒落(ルックスもいい)、歌も上手でユーモアのセンスもあり、周囲の人々から好かれます。
 とくに近所で知り合いになった若い娘と夕方、遊園地でのデートを楽しみ、娘からも好感を持たれます。
 しかしそれもここまで。翌日はこの町をあとにします。

ヘルマン・ヘッセ「クヌルプ」   

 彼は14歳のとき、神学生(当時のエリート校)だったクヌルプは2歳年上のフランチスカを好きになります。しかし彼女は「神学生なんてつまんない。職人のように根を下ろした人でないと」
 彼はそのことばを真に受け、神学校をやめてしまいますが、彼女は彼を袖にし、別の職人と懇ろになります。

 「オレは弄ばれただけか」
 以来クヌルプの漂泊の人生が始まります。
 旅職人となった彼は妻子もなく、まともな親方にはならなかった。
 しかし自然と人生の美しさを見いだす人間となり、行く先々で人々の生活に明るさとくつろぎをもたらします。
  

 「人間はどんなに親しくなっても、魂までともにすることはできない」
 そんな人生観のもとに、彼はひと所に定着しない生き方を選びます。
 

 アメリカ合衆国の第45代大統領にドナルド・トランプ氏が選ばれたことで、日本の政界は上を下への大騒ぎ。
 トランプ氏は、「日本は只同然に在日米軍に守られている。応分の費用を負担しなければ、駐留軍を引き揚げる」といっているので、気が気ではない。
   

 これまで自民党主流派はアメリカの庇護のもとに政策を進め、我が国を支配してきた。
 では、なぜ、どのような経緯で、そのようなことになったのか、その解明にヒントを得られるのが松本清張「日本の黒い霧」です。
    
 これはノン・フィクション小説で、
 1) 下山国鉄総裁謀殺論
 2) 「もく星」号遭難事件
 3) 二大疑獄事件
 4) 白鳥事件
 5) ラストヴォロフ事件
 6) 革命を売る男・伊藤律
 7) 征服者とダイヤモンド
 8) 帝銀事件
 9) 鹿地亘事件
 10) 推理・松川事件
 11) 追放とレッドパージ
 12) 謀略朝鮮戦争
 に分かれている。
     
 いずれも不可解な事件であるが、これにはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がしたたかに関わっていた。これらはアメリカが日本を支配する戦略の一環である、と著者は分析する。

松本清張「日本の黒い霧」   

 例えば、(11)「追放とレッドパージ」
 1950年、旭硝子、川崎製鉄などで労働者が大量に追放解雇・免職にされ。いわゆる「レッドパージ」である。これによって1万を超える人々が失職した。
 職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる。
  

 当時アメリカ本国では苛烈な「赤狩り」旋風が吹き荒れていた。
 日本では日本共産党が台頭していた。マッカーサー(GHQ)はそれを恐れ、本国にならって過酷なレッドパージを敢行した。しかし……。
  

 1945年8月15日、日本は敗戦し、国土はアメリカをはじめとする連合国軍に占領された。
 当初アメリカは日本を理想的な民主主義国家にしようとして、戦前・戦中国家の中枢にいた人たち(日本を戦争に導いた指導者)を追放したが、いつの間にかその旧勢力を国家の中枢に返り咲かせた。
 これは一体どういうことか。
  

 当時GHQの内部では、日本の民主化を徹底させようとするGS(民生局)と、戦後世界の共産化を防ごうとするG2(参謀第二作戦部)がせめぎ合っていたが、次第にG2が勢力を占めていった。
  

 「日本という国は、民主主義を徹底させるのではなく、旧勢力を上手く利用したほうが都合よく支配できる」
 これがアメリカの国家戦略である、という。
  

 ドイツに対しては、ナチスを含む旧勢力を完膚なきまでに根絶させたのに。
 わが国で戦前・戦中の勢力の末裔が延々とはびこり、太平洋戦争を正当化する(?)どころか、権力の中枢を占めている。
    

 学生時代の私は、これが不思議でならなかったけど、同書を読んでその「からくり」がわかりました。
  

 旧勢力の流れを組む現首相と、これまでの関係を見直すことをチラつかせている(脅し?)ドナルド・トランプ氏。
 日本側はどんな手管を使って新大統領にすり寄り、隷属国(ジュニア・パートナー)としての関係を維持していくのか。
 注意深く見守っていきたいと思います。

 ※「自由からの逃走」(E・フロム)とは、ナチス収容所の囚人が、釈放されたにもかかわらず収容所の周囲を一日中歩きまわり、夕方になってもどってきたという実例から、「人間にとって自由とはなにか」を考察する書。(参照
 聖書と侍。キリスト教と武士道。
 一見、相反する思想のように思えますが、明治になってわが国にキリスト教を広めた内村鑑三、新島襄、新渡戸稲造……はいずれも士族出身者。
 なぜ武士がキリスト教信者になったのか、本書がそれを紐解く、とくに今年話題の新島八重も登場するというので、この「聖書を読んだサムライたちを興味を持って読みました。
聖書を読んだサムライたち
 最初に登場するのは宣教師フルベッキ。
 彼は幕末の長崎で英語教師の職につき、キリシタン禁制にも関わらず、佐賀藩主のはからいもあって、学びにきた全国の若い藩士に聖書のことも教えています。この教習所には西郷隆盛や坂本龍馬もきて、その影響を受けたといわれます。

 のちに西郷隆盛が残した「南洲翁遺訓」には次のようなことばがあります。
 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし」
 これはキリスト教の影響を受けたものといわれています。
聖書①
 キリスト教の影響を受けた士族は他にも津田梅子や福沢諭吉も挙げられていますが、特筆すべきは京都「近江屋」で龍馬を暗殺した今井信郎。
 彼は京都見回り組に所属する剣の遣い手で、龍馬を斬ったあとは榎本武揚らと函館五稜郭に篭城して新政府軍に抵抗します。しかし捕まって死刑にされそうなところを西郷隆盛に助けられ、一命を取り留めました。
 その後は静岡で茶の栽培に従事するようになります。

 「宣教師を斬るべし」
 今井信郎がそう思ったのは、当時台頭してきたキリスト教に反感を抱いたからですが、茶の取引のために横浜に出かけたとき、海岸そばのキリスト教会をのぞいてみました。敵の正体を見てやろうという魂胆からです。
 ところが、そこで日本人牧師の語る説教に愕然とします。
 「邪教と思っていたキリスト教にこんな深い真理があったのか」
 静岡にもどった今井信郎はキリスト教会を訪ね、聖書を熱心に読み、クリスチャンに改宗したというのです。
横浜海岸教会
 本書を読んだ私は隔靴掻痒(かっかそうよう)の思いにとらわれました。
 武士たちがなぜキリスト教に惹かれたのか、その「肝となるもの」が全然伝わってこない。
 これは文献資料を基にしたノンフィクションで、各個人の内面まではわからない、といってしまえばそれまでですが、それならせめて武士道とキリスト教の共通点を挙げ、「彼らが惹かれたのはこういうところではないか」と指摘してほしかった。 
聖書②
 例えば……。
 武士道という厳しい教育を受けたものにとっては、仏教のような「放ったらかし」の宗教(といえるかどうか)よりも、神との契約に重きを置く束縛的(?)なキリスト教に惹かれるのではないか。
   
 これは、祖父母がクリスチャン(カトリック)という家庭に育った私の勝手な想像にすぎませんが、キリスト教に素養のある作者なら、もっと本質をうがったことがいえるのではないか、そんな気がしました。