一昨日(12/23)未明、作家の葉室麟さんが亡くなりました。享年66。
 このところ立て続けに読んでいて、注目していた作家だけにショックです。
   

 この秋、川越の友人が「山月庵茶会記が面白いよ」というので読み始めました。
 北九州・黒島藩の藩士が政局に敗れ、高名な茶人となって国へ帰ってきたが、なぜ自分は失脚させられたか、なぜ妻は死ななければならなかったのか、その真相を解くために当時の関係者を茶会に招く、という話です。
 茶の湯の神髄が適格に描かれているのもさることながら、過去の政争の真相が次第に現われてくるという展開が凄い。

「山月庵茶会記」       

 時代小説でいえば、私はこれまで大佛次郎、山本周五郎、長谷川伸、吉川英治、司馬遼太郎、隆慶一郎、藤沢周平……などの作品を片っ端から読んできましたが、「これは藤沢周平いらい、読み応えのある時代小説ではないか」と思いました。
 いらい「陽炎の門」「墨龍賦」「紫匂う」「いのちなりけり」を読み、今は「蜩の記」を読み始めたところです。
  

 これまで読んだなかでは「紫匂う」がよかった。
 これも「山月庵茶会記」と同じく黒島藩シリーズのひとつですが、郡方の役人に嫁いだ妻と、かつての恋人で江戸藩邸の側用人となっていた男との「三角関係」を綾に藩内部の汚職や政争が絡んでくる。

「紫匂う」   

 最初は凡庸な男に見えた夫が実は剣の達人で、妻と元恋人の窮地を救うため、襲ってくる政敵の藩士や雇われ浪人たちと死に物狂いの剣を振るう。そしてかつての剣のライバルとの果し合い。この剣のやり取りの描写は非常に迫力があります。
 久々に質の良い時代小説に出逢いました。
            
 「墨龍賦」「いのちなりけり」は実在の人物が描かれていて、登場してくる人物の背景がこと細かく説明され、「よく調べているな」と思うものの、いささか食傷気味で、それほどの感銘は受けない。
 むしろ黒島藩(黒田藩と鍋島藩の折衷?)シリーズのような全面フィクションのほうが人物の行動や思考が(史実に縛られず)のびのびと描けるので面白いのではないか。
            

 そんなことを思いながら、読み始めたところでした。残念です。
 葉室麟さんのご冥福をお祈りします。

スポンサーサイト

 昨日(08/11)は高校野球を観ていましたが、最も注目したのは第二試合の横浜(神奈川)vs.秀岳館(熊本)。注目というよりはほとんど横浜の応援ですが。
  

 横浜は渡辺元智監督が引退してから甲子園では勝てなくなったけど、今年はドラフト候補とされる強打者・増田珠外野手(3年)を擁し、有力校に挙げられていました。
 

 ところが開始早々、秀岳館は先頭の竹輪涼介外野手(3年)が右翼線への三塁打で出塁すると、続く2番・半情冬馬内野手(3年)が左犠飛。試合開始からわずか3球で先制点を挙げました。さらにクリーンアップが3連打を放ち、この回3点。三回にも敵失で1点を追加。

一回表、秀岳館は犠牲フライで早々と先取点 

 このあたり秀岳館の抜け目なさが目につくけど、以前の横浜なら相手にこんなことはさせなかった。それどころか攻撃においても走塁ミスや併殺でチャンスをつぶし、なかなか点が取れない。
  

 それでも五回裏、増田を三塁において右犠飛で1点を返し、七回表、秀岳館に2死満塁から代打・橋口将崇捕手(2年)の右前適時打で2点を挙げられたものの、その裏、横浜は2死一、三塁から6番・福永奨捕手(3年)が左中間への3ランを放ち、2点差としたときは、「ここから反撃だ!」と思いました。

七回裏、横浜は3ランホームランで2点差に 

 しかし八回は一塁走者が刺されるなどの凡ミスでチャンスをつぶし、九回もいいところなく凡退して試合終了。6-4で秀岳館の勝ち。
         

 秀岳館 3 0 1 0 0 0 2 0 0=6
 横 浜 0 0 0 0 1 0 3 0 0=4

試合終了のあいさつ   

 この試合は鍛治舍巧・監督に率いられた秀岳館の試合運びの「巧み」さが目立ちましたが、そもそもこういう野球はかつての横浜がやっていたこと。そのお株を完全に奪われました。
                   
 今の横浜は打力はいいのかもしれないけど、守備、走塁が雑になっている。投手だって数は多いけど、(かつての松坂のような)絶対的なエースがいない。
 これでは神奈川大会で勝てても、甲子園では勝てないぞ。
        

 なんとも消化不良で、口惜しい思いの試合でした。

   

 8月は終戦特集が組まれる月。
 私は終戦の年の8月(10日)生まれ。それだけにこの時期のことは看過できません。
 その意味で歴史ミステリー研究会編「終戦直後の日本」(彩図社)を興味深く読みました。

終戦直後の日本   

 一昨日(08/06)は広島に、明日(08/09)は長崎に原爆が落とされた日です。
   
 しかし当初、日本政府はこれを徹底的に隠しました。
 新聞は政府の検閲を受け、広島の惨劇を小さな見出しで「若干の被害」と書き、長崎は2日後に「比較的僅少なる見込」と伝えただけ。
 政府としては、悲惨な現実を知った国民が戦意喪失することを何よりも恐れたからです。
  

 新聞紙上に初めて「原爆投下」が発表されたのは8月11日になってから。
 政府は報道規制を解除して、アメリカ軍機が広島と長崎に落としたのが新型爆弾であること、その威力が毒ガス以上であることを発表しました。

 しかし日本が連合国に敗れ、その統治下におかれると、GHQは原爆に関する報道をいち早く封じました。原爆による大量虐殺は、アメリカにとっては世界に隠しておきたい事実だったから。
   

 ところがイギリスのデイリーエキスプレス紙の特派員記者が広島に入り、地獄のような惨状を記事にすると、GHQは直ちに報道管制を敷き、外国人記者の広島と長崎への立ち入りを禁じました。

 実は長崎に原爆が投下された直後の8月10日、日本政府は「これは国際法違反の非人道的行為だ」と、スイス政府を通じてアメリカに強く抗議しました。
 しかしアメリカ政府は、日本軍が連合国捕虜を虐待していることを理由に、原爆投下を正当化しました。
           
 さらに国内では原爆被災記録映画をつくろうとして日本映画社が広島と長崎に入り撮影したところ、そのフィルムはすべてアメリカ軍に没収され、原爆の恐ろしさを世に広めることはなかったのです。

 以上は同書の「第4章・勝者と敗者」のなかの「原爆の報道に目を光らせたアメリカ」の項に書かれていますが、これだけではなく、「その日、人々は玉音放送をどのように聞いたか」「幻に終わった日本分割占領計画」「解体された巨大財閥」「皇室に対する厳しい対応」など、「そういうことだったのか」と頷くことも多い。
          
 むろんすでに承知のことも記載されていますが、それはそれで再確認として、私としては8月に読んでおきたい一冊です。
  
   

 それからしばらくして、クヌルプは故郷にもどってきます。
 故郷は変わったところもありましたが、変わらないところもあり、彼は克明に覚えていました。
 そこで彼はフランチスカがすでにこの世にいないことを知らされます。
  
 彼は友人の医者から入院を勧められているにも関わらず、故郷をくまなく歩き回ります。
 そして降りしきる雪のなか、自分の人生とは何だったのか、神に問いかけます。
 「私が14歳でフランチスカに捨てられました。あれから私の人生は大きく狂いました。あのときあなたはなぜ私を死なせてしまわなかったのですか」
  
 それに対して神はこのように答えます。
 「クヌルプよ。お前が若かったころのことを思い出してごらん。お前は小鹿のように踊りはしなかったかい? 美しい命がからだのふしぶしに震えるのを感じはしなかったかい? 娘たちの目に涙があふれるほど、お前は歌をうたい、ハーモニカを吹くことができはしなかったかい? それから最初の恋人のヘンリエッテを。そういうものがみな無に等しかったのかい?」
 そして、
 「私が必要としたのは、あるがままのお前なのだ。お前はいつも私とともに生きていた。お前は旅先で多くの人々を楽しませ、愛された。お前の人生はそれでよかったのではないか」
 「おっしゃる通りです。私の人生はそれでよかったのです」
  
 クヌルプはすべてを受け入れ、自分の人生を肯定し、深い眠りにつきました。

 若いころ読んだ印象とは違って、クヌルプは必ずしも希薄な人間ではない、と思いました。「人と一定以上関わらない」という信念を持っている。
   
 「するとヤツとは違うな」
 私の友人はクヌルプのような「信念」はない。
 鳥は3歩歩いたら直前あったことを忘れるように、友人は単に希薄なだけで、「漂泊の人」ではない。
 (洒脱で人を楽しませるという点では似ているが)
  
 それにしてもこの小説は若いころに読むならともかく、人生の晩年に読むべきものではない。すべて身につまされて、侘しい思いだけが残ります。
 しかもこの侘しさから未だに抜け出せない。嗚呼。

 京都時代の友人某は、「当時のことはほとんど覚えてない」といいます。
 こちらは克明に覚えていて、ことあるごとに「こんなことがあった」「あんなこともあった」というのですが、彼は「ふーん、そんなことあったか」
   

 そんなことが多いので、いつしか「キミは、希薄なヤッちゃな」というようになり、彼もそれを認めるようになりました。
  

 「キミのような人間はどこかで覚えがあると思ったら、学生時代に読んだヘッセの小説『漂泊の魂』の主人公クヌルプや。あれに似てる」
 「へー、そうか」
   

 というわけで、図書館で借りてきました。
 当時は岩波文庫で「漂泊の魂」というタイトルだったのですが、今は主人公の名前でクヌルプ。(「漂泊の魂」のほうがいいタイトルだと思うのですが)
  

 この小説は「早春」「クヌルプの思い出」「最期」の三部構成になっています。

 病院から退院したクヌルプ(40ぐらい?)は、地方都市の皮なめし匠夫妻のところに逗留します。
 彼は粋でお洒落(ルックスもいい)、歌も上手でユーモアのセンスもあり、周囲の人々から好かれます。
 とくに近所で知り合いになった若い娘と夕方、遊園地でのデートを楽しみ、娘からも好感を持たれます。
 しかしそれもここまで。翌日はこの町をあとにします。

ヘルマン・ヘッセ「クヌルプ」   

 彼は14歳のとき、神学生(当時のエリート校)だったクヌルプは2歳年上のフランチスカを好きになります。しかし彼女は「神学生なんてつまんない。職人のように根を下ろした人でないと」
 彼はそのことばを真に受け、神学校をやめてしまいますが、彼女は彼を袖にし、別の職人と懇ろになります。

 「オレは弄ばれただけか」
 以来クヌルプの漂泊の人生が始まります。
 旅職人となった彼は妻子もなく、まともな親方にはならなかった。
 しかし自然と人生の美しさを見いだす人間となり、行く先々で人々の生活に明るさとくつろぎをもたらします。
  

 「人間はどんなに親しくなっても、魂までともにすることはできない」
 そんな人生観のもとに、彼はひと所に定着しない生き方を選びます。