はっきりした境界線はないのですが、葵庭苑までくると、東照宮というより喜多院の敷地。
 しかし喜多院がアジサイの名所であるとは聞いたことがない。
  

 とはいえ、ひと通り境内を見回してみると、多宝塔の裏に色とりどりのアジサイが咲いていました。

多宝塔裏   

 アジサイに限らず花の名所とは、花+αの魅力あってこそ。
 その意味では多宝塔が背景だと、シチュエーション的には申し分ない。

多宝塔裏のアジサイ   

 この奥には茶店があって、その奥は五百羅漢。隠れたアジサイの名所?

多宝塔裏(向こうは茶店) 

 喜多院を取り上げたからには中院も。
 というより中院は昔からカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)が有名。

中院・アジサイ   

 カシワバアジサイは球状に咲くふつうのアジサイと違って円錐状(花の構造はアジサイ)。葉っぱが柏の葉に似ているところからこの名がつけられました。
        

 その柏葉紫陽花は境内の一隅「アジサイの小径」(?)にちょろり。
 初めてここを訪れたのは6年前ですが、年々ショボくなっています。

中院のカシワバアジサイ 

 これには中院なりの事情があるのかもしれないけど、部外者にとっては知りようもない。
   

 踏み入れば白きあじさゐ老ゐの庭
   

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 あちこちでアジサイが咲いていますが、川越でアジサイの名所といえば仙波東照宮ぐらいしかない。

仙波東照宮・参道のアジサイ 

 ここは随身門から入った参道沿いにアジサイが咲いており、これがなかなかの圧巻。

仙波東照宮・随身門  

 アジサイの向こうに鳥居が見えるという光景が気に入りました。

鳥居前①  

 場所によってはいろんな色のアジサイが見られます。

鳥居前② 

 しかし観光客は少ない。平日の所為なのかパラパラ。
 茶店も閉まっているし。

鳥居前③   

 茶店の前を通って葵庭苑へ。
 ここも色とりどりのアジサイが見られるのですが、今年は咲きが悪い。
 去年はもっと咲いていたのに。

葵庭苑のアジサイ  

 今年の5月は雨が少なかったから?
 ふーむ。
     

 菓子屋横丁の南に長喜院という寺があります。

長喜院・山門   

 曹洞宗のお寺で天文19年(1550)に創建され、山号は冷月山。

長喜院・本堂   

 地味な寺ですが、本堂の正面左、沙羅の木の下にある像にはちょっと驚かされます。

長喜院・境内   

 これは「苦行の釈迦像」といって、悟りを開くために精進する姿だそうです。
 目は落ち窪み、骨と皮になって、あばら骨が浮き出るほどの凄まじい姿です。
 のちに苦行から離れた釈迦は菩提樹の下で座禅して悟りを開いたとのこと。

苦行の釈迦像   

 「開悟の後、人の幸せの道を説く」(立て札)
 ふーむ、人に幸せを説くにはここまで苦行しなければならんのか。
   
 この像はスリランカの彫刻家ソーマ・パーラーの作で、本物はインドのラホール美術館にあり、ここにあるのはレプリカ。とはいえなかなか迫力があり、見るものを圧倒します。
   
 涅槃の夜静かに開く沙羅の花
   
 
私の句ではありませんよ。
 沙羅樹にかかっていたもので、「ああ、そうですか」という句です。悪いネ。
 
   

 菓子屋横丁の西北、高沢橋のたもとに公衆トイレがありますが、その上にあるのが六塚稲荷神社。

六塚稲荷神社・鳥居と拝殿   

 
 解説によると、ここは室町時代、太田道真(太田道灌の息子)がここにあった6つの塚を壊して稲荷神社を建てたところから六塚稲荷神社と呼ばれるようになったとのこと。
  

 しかし境内には四塚稲荷の祠があり、

こちらは四塚稲荷神社   

 他にも琴平神社、三峰神社、八幡神社の祠もあるのだから、わけがわからん。

左から琴平神社、三峰神社、八幡神社 

 本殿は拝殿の裏側にあります。
 なるほど、両側を狐が守っている。

拝殿の裏にある本殿  

 本殿の建立は文政2年(1819)
 現存する祠としてはかなり古いもので川越市の有形文化財に指定されています。
  

 昔はここが新河岸川(当時は赤間川)からのランドマークだったとか。
 なるほど、境内から新河岸川が見下ろせます。

境内から新河岸川を見る   

 この本堂、野ざらし状態でかなり風蝕が進んでいるとのこと。
 川越市の有形文化財とはいっても、保存に関してはどうでもいい?
  

 阿弥陀堂野ざらしのまま梅雨に入る
  

 川越の菓子屋横丁は誰でも知っている観光地ですが、その周囲にはあまり知られてない寺社がたくさんあります。
  

 菓子屋横丁の西にある見立寺(けんりゅうじ)川越七福神の布袋様の寺院です。
 境内に入ると我われを迎えてくれるのが「旅立ちの法然さま」

見立寺・入口   

 美作国(岡山県)の武家に生まれた勢至丸は9歳のとき、土地争いで夜襲を受け父を失いますが、父の遺言「決して敵を討つなかれ。出家して悟りの道に進め」を守り、4年間岡山で修業し、京の比叡山へ旅立ちました。そのときのお姿だそうです。
 聡明で凛々しいそのお姿は当方の13歳当時にそっくり。(誰だ、遊び呆けてヘラヘラしてた、というヤツは)

法然さま・13歳当時のお姿   

 同寺の由緒はちょっとややこしいのでざっくり説明すると、建立は永禄1年(1558)。当初は建立寺と名づけられたが、のちに見立寺と改めた。
 その後、蓮馨寺が門前に移ってきて、存貞和尚が両寺を兼務した時代もあったが、その後、見立寺がここに移転してきた(年代、経緯は不詳)とのこと。
 何度も火災に遭い、そのたび再建され、現本堂は明治14年(1881)に建立されたもの。

見立寺・本堂 

 ふーむ、昔は蓮馨寺の門前にあったのか。
  

 ここは布袋様のお寺であり、お堂には布袋孫が祀られています。

布袋様 

 またここには赤穂浪士の一員・矢頭右衛門七(やとう・えもしち)の妹の墓があります。
 妹はのちに白川藩(福島県)の多賀谷家に嫁ぎ、藩主の国替えに伴い上州厩橋(群馬県)→川越に移住し、翌年死去。推定70代。

多加谷家の墓 「矢頭右衛門七の妹ここに眠る」の説明碑

 矢頭右衛門七は討ち入り当時17歳、その妹までがのちにこんなに脚光を浴びようとは。
 当人はおそらくひっそりと暮らしていたけど、後世の人が戸籍などから世に出したのではないか。
 忠臣蔵マニアにとっては欠かせないところなのか。