このところ「子どもの声は騒音か、否か」が大きな社会問題になっているとか。
 神戸で近所の保育園に防音設備の設置や慰謝料100万円の支払いを求めて訴訟を起こしたことや、東京都が子どもの声を規制の対象から外すことも含めて条例を見直す方向で検討しているとの報道が発端になって、賛否両論沸騰しているそうです。

 東京都がこれまで子どもの声を(騒音の)規制の対象としていたことにおどろきますが、「図書館や病院、劇場、式場など、静けさを求められるところではもっての外ですが、学校や保育園、街なかでの子どもの喚声は仕方がない」と私は考えます。

 子どもの喚声について、私には切ない思い出があります。

 今から30年以上前、某アダルト出版社(渋谷近辺)に勤めていたときのことです。
 当時私は岐路に立たされていました。
 某作家センセイ、印刷関係者、営業関係者が集まり、「昔一世風靡した刊行物を出すから、編集の腕を振るってほしい」と頼まれ、二足のわらじを履くことになりました。

 その年の暮れから、昼間は従来通り出版社で仕事をし、終わると新出版社の事務所へ行き、そこで編集作業に取りかかりました。新事務所は池袋サンシャイン近くのマンションの一室。
 刊行物はA5判、250頁ほどの雑誌。特集あり、対談あり、コラムあり、写真、イラストあり……と種々雑多。原稿は400字詰めで、約300枚。
 月刊誌でこれらを割り付けるのは、編集者2~3人がかりの仕事ですが、人件費をかけるわけにはいかず、私ひとり夜通しやり続けました。

 それでも午前4時すぎると、がくんと能率が落ちるので眠ります。
 起きるのは8時すぎ。マンションのとなりが小学校なので、下から子どもたちの騒ぐ声で目が覚めます。
 ここから渋谷方面の会社に出社し、「正規」の仕事をして、夕方退社すると、また池袋の事務所へ。自宅にはもどれません。いわば単身赴任。こんな生活が3ヵ月続きました。
 電話連絡は毎日しましたが、妻はよく耐えたと思います。
写真は本文と関係ありません 
 連日睡眠不足が続き、孤独な作業でした。
 そのときの私は肉体的な辛さや、仕事の過酷さ、孤独感には少しも苦になりませんでした。
 しかしたったひとつ、朝、下のほうからワイワイと子どもたちの遊ぶ声が聞こえたときは、気持ちがグズグズになりました。
 息子は小学2年生。今どうしているだろうか。
 この子たちのように元気に学校に行っているだろうか。父親がいなくて寂しい思いをしてないだろうか……。
 そのころから私の胸の奥には息子が占めるようになり、「この子のために頑張ろう」と思うようになりました。
                        *
 あんなに大変な思いをしたにも関わらず、新出版のほうは作家センセイのデタラメぶりがぼろぼろ露見して、失敗に終わり、多額の借財が残りました。
 作家センセイは逃げ、借財の大半は印刷屋がかぶりました。
 そのころ私は昼間の出版社も辞めていたので、無一文状態で家にもどりました。

 残ったのは私と息子との絆。
 私はフリーのライターになって、夕刊紙のコラムに首都圏の社会風俗レポートをするようになり、日曜日になると原宿や横浜、鎌倉など、息子を連れて取材に出かけました。
 いわば私の「罪ほろぼし」です。

 そんな気持ちになったのは、孤独な作業をしていたとき、下の小学校からワイワイと聞こえてきた子どもの喚声。
 というわけで、子どもの声は私にとって少しも騒音ではないのです。
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 昨日、タレントのみのもんた氏の記者会見を見ました。
 私はこの人物については好きでもきらいでもありませんが、この会見は痛々しく感じました。
 ただ彼のことばで気になったのは、「育て方が厳しすぎたのかな」というくだり。
 「私は殴るタイプ。いやなら出ていけ、そういうタイプの父親です」

みのもんた記者会見①

 私はこの種の男を知っています。
 もう亡くなりましたが、「子どもに人権はない。徹底的に厳しく躾けるべき」といってはばからず、ふたりの娘には体罰を加えて育てました。

 結果下の娘は外面はよくても陰では悪さをする人間になり、今や親戚中のきらわれ者です。
 これは厳しい躾けの「賜物」です。
 このことから私は「厳しく躾けられた子は裏表のある人間になる」と思うようになりました。

みのもんた記者会見②

 みの氏にしろ、知人にしろ、「わが子は絶対に悪いことはしない」と信じられる出会いをしたことがあるのだろうか。


 以前にも述べたことがありますが、30数年前、阪神のふたりのコーチが審判の判定に腹を立てて暴行を働いたことがあります。
 それをラジオで聞いた私は、部屋に入ってきた息子(当時4歳)に「阪神のコーチが審判をポカポカッとどついたんだよ」と面白そうに話しかけたのですが、そのとき息子はキッとした顔をして「いけないんだよ!」といいました。(参照


 「こいつ、この年で善悪の判断ができるんだ」
 びっくりしました。そんなこと、教えたことないのに。
 そのときいらい「この子には善悪を判断できる力が備わっている」と思いました。
 私は休日には息子を連れて出歩いたため、息子と接する時間は多かったのですが、善悪や道徳に関する注意や説教をしたことは一度もありません。


 しかしたった一回、性格的なことで注意したことがあります。
 それは従妹たちとUNO(カードゲーム)をやっていたとき、多くのカードをつかまされて、ふてくされたことがありました。私はあとで「あの態度はよくない」といいました。(参照
 それだけです。
 いらい息子はどんなに多くのカードをつかまされても平気な顔をするようになりました。
 私にいわれて「努力」したのでしょう。


 息子への注意がたった一回とは、およそ父親としては厳しさのない「大甘」オヤジです。
 けれども本当になにもいう必要がなかったのです。(むろん母親も)
 それは幼少期のわが子を見て「この子は絶対に悪いことはしない」と確信できたからです。


 これを子どもの側から考えると、子どもというのは無意識的に「自分は正しい」とアピールしているのではないか。
 それを親にキャッチされ、すべてまかされてしまうと、自分の頭で善悪を判断せざるを得なくなる。

 ところがそれを親にキャッチしてもらえず、厳しいことばかりいわれていると、自分で判断することはやめ、ただ親の前では従順になる。
 その違いではないか。


 問題は子どものアピールをいかにキャッチするか。
 それができた私はつくづくラッキーだとは思いますが、それも子どもと接することが多かったから。
 イクメンの成果はそんなところにも現れているのです。

 いやあ、ザック・ジャパン、やりましたね。1―1の引き分けで、W杯出場がきまりました。

 これまでサッカーのサの字もいわなかったヤツがなにをいうか、って?
 その通り、サッカーに関してはまったく興味なかった。
 むろん昨日(06/04)が大事な試合であることは知ってました。しかし、こちとらサッカーには興味なかったので、どうでもよかった。

 しかし昨日、観る気になったのは、その前日の本田圭佑選手の姿を見てから。
 彼は現在ロシアのCSKAモスクワに所属していますが、この日のために帰国しました。
 「おや?」
 と思ったのは、空港に降り立ったときからずっと長男を抱いていたこと。
 近くに奥さんもいたとは思いますが、報道で見る限りはいなかった。

 この時期(7~8ヶ月?)の赤ちゃんなら、ふつう母親に抱かれているほうが気持ちは安定します。
 このように長時間父親に抱かれ、まして知らない人(マスコミ陣)ばかりの前にさらされると(終始うしろ向きでしたが)赤ちゃんは不安がって泣くのではないか。
 これは元祖イクメンを自認する当方も自信はない。

 ところが本田選手はさらりとそれをやっている。赤ちゃんも泣かない。
 よほどふだんからわが子を愛情深く抱いてないとこうはなりません。
 これをマスコミは「いかにも本田流」と書いてますが、大のイクメンぶりまで洞察していたかどうか。

 むろん当方もこの時期のわが子を抱いたことはあります。
 よくやったのは腰のあたりをしっかり抱いて、上体を海老反りにしてのけぞらす。
 すると赤ん坊は本能的に起き上がろうとする。「うーッ」と顔を真っ赤にして。
 その顔が可愛い。
 「がんばれ、がんばれ」と励ましてやると、うんうんと唸りながら起き上がってくる。
 そしてやっと起き上がったときのうれしそうな顔。「やった!」
 これでかなり腹筋が鍛えられるはず。
 この「腹筋運動」は面白くて、何度もやりました。

 スミマセン、余計なことを。
 しかし本田圭佑クンもこれぐらいのことはやっている……はず?

 そんな思いで昨日の試合を観ていたのですが、終始本田選手の独壇場。
 2本のフリーキックは外しましたが、ペナルティーキックを見事きめて同点。これで日本(ザッケローニ監督も)は救われました。

 今後は本田選手に注目してサッカーを観ることにするかな。
 先日(03/11)「ニュースウォッチ9」(NHK)で、津波で父親を亡くした高校生の男の子と大越健介キャスターがキャッチボールするところを放映してました。
 あの震災がなければ、この子はお父さんとキャッチボールをしていた……そう思うと、胸がふさがりました。

 私は息子が3歳ぐらいから高校生になるまで、キャッチボールの相手をすることができました。
 息子はどう思っているかわかりませんが、父親冥利に尽きます。

 以前にもいいましたが、キャッチボールとは、基本的には身体を鍛える運動です。
 そのため、軸足に溜めをつくって、できるだけ腕を振り、スナップを効かせて、強い球を投げるように心がけます。
 これをくり返していると、最初は弱くても、次第に強い球が投げられるようになります。したがって相手は同じレベルであることが望ましい。

 一方で「キャッチボールとは一種のコミュニケーション」という異見もあります。
 ひとつの球を相手の胸元に(礼儀です)投げ、相手からも受け取るからです。
 しょっちゅうキャッチボールをしている相手なら、これによって、その日の体調がわかります。
キャッチボール
 ただし、わが子とのキャッチボールとなると、これとはまったく別。
 子どもが小学生以下だと強い球は投げられないので、手加減しなければなりません。
 ところがこの「手加減」は、身体を鍛えるのとはまったく逆の行為。やればやるほど肩が鈍(なま)ってきて強い球が投げられなくなります。
 そのため私は、息子とのキャッチボールが終ると、野球場のコンクリートの壁に向かって、全力投球で壁当てをしていました。(参照

 息子が中学生になると、父と子の力の差はかなり接近します。
 これは子どもが成長して、強い球も受けられるようになるからですが、父親の肩も衰えるからです。
 中学も高学年では、ほとんど互角になります。

 息子が高校生になると、父と子の肩は完全に逆転しました。
 しかも息子は最初野球部にいたので、投げ方も本格的になっていました。
 息子が軽く投げてきた第一球が予想以上にグンッと伸びがあるのに内心おどろきました。「こんな強い球を投げるのか」 
 あまりの速い球に恐怖を覚え、早々に切り上げました。(参照

 「ニュースウォッチ9」の大越キャスターは東大の野球部でピッチャーをやっていました。そのため高校生の速い球でも受けられると思います。

 しかし「素人」の私は無理。とても受けられない。
 息子はそれを知ったら、手加減して投げるでしょう。しかしそれは父親としては本意ではないので、「これが潮どきだ」と思ったのです。

 ところがその後TVの番組で、元プロ野球選手の長島一茂さんが多摩川を散策していて、「ここでよくオヤジとキャッチボールしたなあ」といいました。
 オヤジとは長嶋茂雄さん。一茂さんがプロ野球を引退したあとだったそうです。

 元プロ野球選手同士のキャッチボールはさぞかしレベルの高いものと思われますが、それにしても年齢差を考えると、一茂さんは「手加減」した球を投げていたと考えられます。
 だとしたら、息子が手加減したキャッチボールもあり、ではないか。

 あのときの私は40代の半ば。まだ若く、いささか格好をつけていました。
2013.02.13 体罰は必要か
 今、教育の場でも、スポーツの場でも、体罰が問題になっています。
 先日TVで紹介されましたが、「体罰の会」というものがあるそうです。
 これによると「体罰は子どもの利益になること」といいます。ただし「暴力はいけない」と。
 これを提唱しておられるのはヨットスクールの校長をしていた人。やっぱりなあ。
 この先生にいわせると、子どもというのは「全人」ではなく、厳しく(体罰を加えてでも)指導しなければ善悪はわからない、とのこと。

 しかし私の子どもは、全人とはいわないけれど、小さいときから善悪の判断が備わっていたので、なにひとつ注意する必要はなかったぞ。
 成績に関しては別として、「子育てほど楽なものはない」と思いました。
 もっともこれは妻が要所要所でやさしくいい聞かせていたからで、私はなんの苦労もなく、子どもと楽しく遊んでいたのです。

 昨日の「クローズアップ現代」(NHK)でもこの問題が取り上げられ、甲子園常連校である智弁和歌山の高嶋仁監督の体験が引き合いに出されました。
 それによると、ある選手が個人プレーに走って、チームが負けた。それも一度ならず二度までも。「あれほどいうたのに、お前、まだわからんのかッ」
 監督は怒ってその選手を蹴りました。
 これが世間に知られるところとなり、監督は強い非難を浴びました。

 これは私、監督に同情します。愛のムチといえなくもない。保護者のなかには「悪いのは選手であって、監督は悪くない」という意見が多かったそうです。
 しかし高嶋監督は、「あれは感情にまかせて蹴った。自分の指導力不足」と反省しました。そして「生徒を思っての(愛の)体罰なんて存在しない」と。

 冒頭の「体罰の会」に関していえば、その主宰者に感化された知人は、私たち夫婦の子育てを「あんな甘いことではあかんのや」と批判していたそうです。
 「子どもに人格はない。親は子どもを徹底管理するべき」が持論で、「友だち親子」なんて戦後民主主義の弊害、とまでいい切り、教育評論家よろしく雑誌に寄稿していました。

 彼の家では体罰は日常茶飯事。子ども(娘ふたり)は囚人のような扱いでした。
 「殴る蹴るは当たり前。それも感情的でした。それがいやで私は18で家を出ました」
 これは下の娘のことばです。

 ではそんな厳しい躾けをして、果たしていい「大人」になったのか。
 下の娘は、人前ではもっともらしいことをいって、人格・力量ともに備わった人間に見えますが、実際はウソとハッタリ。親しくなると「釣った魚に餌は要らない」とばかり平気で人を裏切る女です。
 私を含めて周囲の者はみんな煮え湯を飲まされました。

 これは父親の、体罰を含めた厳しい躾けによるもの、と私は見ています。
 厳しく管理されると、人間はその場しのぎで、うそをつき、体裁を取り繕うだけの、裏表のある人間になるのではないか。

 そんな卑近な例を見ているので、私は「体罰主義」には反対です。