御堂筋はキタとミナミを結ぶ広い道路です。
 大阪の象徴といってもいいところですが、難波や新世界に見られるコテコテ感はまったくありません。

御堂筋(北浜付近)   

 特徴はただっ広いこと。幅43.6m(24間)、全6車線。
 歩道と緑地帯には銀杏が植えられています。その数800本以上。

清水多嘉示「みどりのリズム」   

 所どころ、彫刻が置かれていて目の保養(?)になります。

エミリオ・グレコ「座る婦人像」    

 今から30年以上前、息子(当時小5)と淀屋橋から難波まで歩いたことがあります。
 暑い日でした。
 我われは水上バスで川巡りをしたあとでした。
 「ミナミまでだ。大したことあるまい」
 そう思って歩いたのですが、これが長い。いくら景色がよくても、いい加減飽きるよ。
 戎橋に着くまで、1時間近くかかりました。

御堂筋(周防町交差点)    

 息子は小さいときから不平不満を一切いわない子でしたが、さすがにぐったりしたのか無口になりました。
 あとで地図を見て距離を測ると3km以上ありました。
   
 御堂筋の名は沿道に北御堂(西本願寺津村別院)、南御堂(東本願寺難波別院)とふたつの寺院があることに由来しているそうです。

北御堂(西本願寺津村別院)    

 その後も私は大坂にくるたび、この通りを歩いています。
 「大阪へきた」と実感するのと、不思議に心が落ち着くからです。
 秋は秋で銀杏が色づくのも楽しい。

御堂筋(清水町付近)    

 それでもぶっ続けに歩くことはしません。
 あれで懲りました。この道は変化がないので、所どころ歩くだけでじゅうぶん。
 好きな道なのですが……。
   
  

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 30年ほど前、大阪のビデオ制作会社を取材したことがあります。
 当時この会社は大坂でやり始めたばかりで全国的には知られておらず、社長の人柄にも惹かれたので、何とか全国区にしてやろうと当時の写真週刊誌「フォーカス」編集部に企画を持ち込みました。
  

 編集部のGoサインが出たので、関西在住のカメラマンと結託し、早朝の新戎橋で橋の両端をスタッフが見張り、通行人の爺さん婆さん、ジョギングする若者、赤ん坊を抱いた母親など、みんなスタッフの親戚縁者。そんなところへ数人の裸の女たち〈モデル〉が現れて、「イエーイ!」

新戎橋   

 撮影は首尾よく終わり、社長はよろこんで私とカメラマンを連れて行ってくれたのが鶴橋の「鶴一」なる焼き肉屋。
 仕事が終わった安堵感もあったのか、ビールが美味かった。

 もちろん結果は大成功で、新戎橋で撮った写真は「フォーカス」の見開きにドーンと出て、この会社はたちまち全国区になりました。
  

 それいらい社長とは仲よくなり、大阪へ取材に行くたび「鶴一」で焼き肉の接待を受けました。
  

 そんな経緯があって鶴橋は興味のあるところでした。
 東京の新大久保より古いコリアンタウンです。

鶴橋駅・西口 

 1ヵ月前大阪へ行ったとき、朝早く鶴橋に寄りました。
 商店街が朝早くから開いてました。

ガード下の商店街 

 それもそのはず、ここには魚や野菜の卸売市場があるから。
 こちらはなにも買わなかったけど、そのなかにある小さな喫茶店に入りました。

鶴橋市場 

 「いらっしゃい」
 カウンター席に座り、珈琲を注文したのになかなかこない。
 ひとりで切り盛りするママさんは近所の出前のモーニングセットをつくり、配達するのに忙しく、珈琲がきたのは15分後。「スミマセン。遅くなりまして」

喫茶店にて  

 この店は珈琲カップにこだわっているらしく、しばしカップ談議。
 「紅茶もやってますよね。紅茶のカップはどれですか?」
 「これで出してますねん」
 「でもこれ、深いですよね。紅茶のカップは(きれいな赤みを出すために)浅いのでは」
 「わかってます。でもここの連中は見た目より量でね。量が少ない、いうて不評なんですわ」
 これには笑いました。

市場から続く商店街  

 これが1ヵ月前の鶴橋での思い出です。

   

 なんの脈絡もなく京阪電車・枚方(ひらかた)公園駅。
 ここ枚方は江戸時代、京街道(京都⇔大阪)の宿場町として賑わい、また淀川を利用した舟運の中継港として栄えたところです。
 それを彷彿させるように、駅前には「枚方宿」と記された大きな常夜灯が置かれています。(これは2011年につくられたもの)

枚方公園駅の常夜灯 

 当時の「枚方宿」の様子を再現し、資料が展示されているのが旧街道沿いにある鍵屋資料館。
 鍵屋は江戸時代は船着き場近くの宿屋を営み、近代は料亭・料理旅館として最近(1997年)まで営業していたところです。

枚方鍵屋資料館・入口 

 館内には当時の宿場の様子や、客に出されていた食事、また「くらわんか舟」の様子が展示されています。
 くらわんか舟とは船着き場に停泊していた三十石船に「餅くらわんか、酒くらわんか」と飲食をセールスしていた小舟のこと。

展示室 

 せっかくなので私も大広間で抹茶とくらわんか餅を所望しました。なかなかけっこうなお味でござった。

大広間 抹茶とくらわんか餅   

      
 外に出てみると、通りはけっこうな賑わい。
 この日は6月の11日。毎月第2日曜日は「くらわんか五六市」が開かれ、旧街道沿いに多くの店が出ます。(五六とは枚方が東海道56番目の宿場町だったことに由来)

 くらわんかギャラリーでは、「くらわんか舟」で使用されていた器など、古くから枚方で売られていたものを再現し、販売しています。

くらわんかギャラリー 

 妙見宮常夜灯。
 京街道の往来が増えるとともに社会不安も高まり、折しも幕末の動乱期。治安のために嘉永7年(1854)に設置されました。これは最近(2013年)修復されたものです。

妙見宮常夜燈 

 そうこうしているうちに「宗左の辻」に着きました。
 ここは製油業・角野宗左の屋敷があったところ。
 「♪送りましょうか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも~」という俗謡があるそうな。
 本当かね、♪せめて難波の駅までも~(たそがれの御堂筋)じゃないの?

宗左の辻 

 そういうわけで、ぶらぶらと歩いているうちに、枚方市駅に着いちゃった。
 ひと駅分歩いたことになるけど、こんな徘徊なら楽なもの。

 今日は折しも7月の第2日曜日。枚方では「くらわんか五六市」をやっていると思うよ。

2017.06.29 心斎橋の変遷

 大阪のシンボル戎橋を境にして、南を戎橋筋、北を心斎橋筋といいます。
 では心斎橋という橋はどこにあるかというと、心斎橋筋の北端・長堀通り(昔は長堀川)に架かっていました。

心斎橋筋北端   

 心斎橋筋商店街公式HPによると、
 元和8年(1622)長堀川の開削後、南北を結ぶ木の橋がつくられ、開削者の名をとって心斎橋と呼ばれた。長さ18間(約35m)幅2間半(約4m)。
    

 明治6年(1873)ドイツから輸入された鉄の橋が架け替えられた。

鉄の橋(明治6年完成) 

 当時の大坂では鉄橋は珍しかったので見物客も多く、錦絵も描かれている。

鉄の橋の錦絵 

 明治42年(1909)石橋に架け替わる。
 和製でありながら、西洋の街の橋を意識した趣向を凝らした橋で、渡り初めには多くの人が押し寄せた。

石の橋(明治42年完成) 

  この石橋は昭和39年(1964)長堀川が埋め立てられるまで55年間、橋としての役割を果たしました。

昭和35年の心斎橋(4年後に埋められた)

 不要になった心斎橋は陸橋(歩道橋)に移築されました。
 私が心斎橋を見たのは陸橋になってからのことで、「昔の橋を歩道橋に活かそうとする発想はすごいな」と思い、大阪が好きになりました。
    

 平成9年(1997)、長堀再開発によって地下のショッピングモールが完成。
 歩道橋は不要になり、心斎橋の一部を中央分離帯などに残されるようになった。

旧心斎橋の親柱  

 立派な歩道橋がなくなったのは残念だけど、これも時代の流れ。
 親柱と欄干の一部が見られるだけでもよしとすべきことなのか。

石製の欄干 


 難波にくると必ず寄るのが法善寺横丁。
 道頓堀通りよりひと筋南の通りで、道幅が狭く、長さ80mほどの飲食街で、老舗の割烹やバー、お好み焼き、串カツ店などが並んでいます。

法善寺横丁   

 中央に法善寺の水掛不動があります。
 もともとこの地は浄土宗・天龍山法善寺(開山・寛永14年=1637)の境内で、参拝客相手の露店がいつしか横丁に発展したものだそうです。

不動尊の向拝所 

 ここの参拝は、水を柄杓ですくって不動尊(石像)に掛けるというもの。そのため全身緑の苔がびっしり。

水掛不動尊  

 東京・巣鴨の「とげ抜き地蔵」に比べるといささか拍子抜けですが、これがまた大阪らしいところ。

法善寺・入口    

 不動尊の西は法善寺の入口(出口)
 この場所は御堂筋から入った法善寺水掛不動尊表参道の突き当りになりますが、他に法善寺こいさん通りというのもあります。

法善寺水掛不動尊表参道  

 「法善寺こいさん」といえば、藤島恒夫の「月の法善寺横丁」

法善寺こいさん通り 

 ♪包丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修業 
 待ってて こいさん 哀しいだろが 
 あゝ 若い二人の 想い出にじむ 法善寺 
 月も未練な 十三夜
        
 古い歌だけど、大阪人にとっては今でも愛着あるのかな。
 
 水掛や梅雨は控えむ法善寺
      
 本当かな?